週報通算#1215号  [日本語)

2012 6 17W

週報通算#1215E  (英語)

Sunday English Bulletin 1215E

創世記3815「隠れる事、探し出される事」  “First Story of Hid and Seek”

私たちの父なる神と,主イエス・キリストから恵みと平安がありますように。アーメン。

先月テレビでChinagrowing pain と言うリポートを見ました。たった23年前にはまだアメリカ人は中国に行くことができてもよく警察官が旅行中同行すると言う時代でしたが、今中国人たちはwestern cultureを受け入れています。若い人たちのFavorite foodKentucky Fried Chicken MacDonald Hamburger だそうです。

また、アメリカではタバコを吸う人が減ってきているのに中国では70% もの男の成人は毎日一箱のタバコを吸うと聞きました。しかし、健康を害すると、それをマクドナルドやマーボロのたばこのせいにするのです。しかしこの問題は誰のせいでもありません。自分が自分で正しい行動をしたいと言う思いがない限りできないのです。そのことを覚えて今日のアダムとイブの話を考えて見ましょう。

私はfast food と言われるものを余り食べません。まったく食べない訳ではないのですが、それよりはどちらかというと日本のスーパー・マーケットで、蕎麦かうどんを食べるのが好きです。もっとも一人で食べるより誰かと一緒に食べるときが大好きです。

しかし聞くところによると、毎日、朝、昼、晩とマクドナルドでハンバーガーを食べる人もいるらしい。この頃はどのハンバーガーに何カロリーと書くfast foodのお店が増えてきたと聞きますが、毎日ハンバーガー食べていたら健康の障害が出てきて当たり前でしょう。

同じように私の日本での友達の中には毎日タバコを吸わないと落ち着かないと言う人たちが何人もいます。タバコは健康を損なうものと知りながら、やめることができないとはかわいそうに思うのですが、彼らの中にはこれはタバコを作る会社がいけないんだとか、もっと昔からタバコの害を公に話していてくれたらニコチン中毒まで行かなかっただろうという友達もいます。私がそれを聞くと自分のやっていることを人のせいにしているように感じるのですが。

さて今日の旧約聖書の話はまさに、自分の問題を他の者、他の人のせいにする、つまり自分の欠点 を神様のせいにしているアダムとイブの有名な話です。

エデンの園という所でアダムとイブは働きもしないで毎日神様が造られたおいしい果樹をおいっぱい食べていたはずです。このエデンの園にりんごの木があったとは書いてありませんが、聖書の中にはイチジク、葡萄、オリーブ、マスタード、メロン、デイツ、ぺスタシオ、アーモンド、ガーリック、ざくろ、そして、りんごも出てきます。これは聖書辞典で調べるまで知らなかったのですが、旧約聖書の雅歌23節に乙女の歌と言うものがあります。そこには「若者たちの中にいる私の恋しい人は森の中に立つりんごの木。私はその木陰に座り、甘い実を口に含みました。」と書いてあることから、エデンの園にあった、食べてはいけないと言われていたこの果実がりんごであってもおかしくないのです。

私たちは自分でしたことに責任を持つべきですが、自分を正当化することが多いのではないでしょうか。私は間違い事を犯しましたと言う前に、何かによって、または、誰かによって間違ったことをしてしまいましたと言ったことが過去に沢山あったはずです。神様の前で、嘘をつくことはできませんが、いろいろな理屈を付けて自分を正当化するのが私たちではないでしょうか?そんな私たちを神様はすべてご存知です。ですから神様から隠れたくなるのです。裸でいたことが神様の前で急に恥ずかしくなり、イチジクの葉っぱで身を隠したのです。自分の罪を隠したかったのです。

ここで悪いことをした理由のこじ付けをしたのはアダムだけではなく、イブも禁断の果実を食べた理由は蛇にそそのかされたからですと言ったのです。神様はエデンの園という、素晴らしい所で幸福に生きてゆくことのできたはずの人間は罪、それも生まれながらすべての人間は原罪、は を持つことによって、自分で自分を救うことはできないのです。では、私たちはどのように神様との関係を正しく持つようになれるのでしょうか? どのような行いによって私たちは神様の前に神様の者であるとの信頼を築くことができるのでしょうか?

私たちは自分の行い、努力によって神様に愛される者となることができません。自分で、自分の力で、自分の行いによって神様の前で正しい者となることはできません。神様から愛される私たちになれることは、神様の言葉、それは「私はあなたを条件なしに愛します」と言う言葉を自分の心、胸のうちに刻み込むことです。神様の前で私たちは謙虚に自分の犯した間違い、高慢さ、罪の意識をすべて告白しなければなりません。神様は私たちが謙虚になり、子供が親を慕うように私たちに神様の元に素直な心で来てほしいのです。神様から隠れることは私たちにできません。

子供の時、誰でもかくれんぼと言う遊びをしたことがあるでしょう。最初に見つかった人が今度は目を瞑って1分ほど数えた後に隠れた人を探しに行きます。私たちの神様であるイエス様は、私たちが、どんなにうまく隠れてもかならず探しだしてくださいます。しかし、遊びのかくれんぼと違い、私たちは神様から見つけられたいのです。神様から遠く離れていては私たちは孤独で、寂しい、怖い、恐怖の中で震える生活の連続です。しかし、神様は私たちが、どこに隠れていても探し出してくださり、私たちを神様の愛の下に返えらせてくださいます。もう一度聞いてください。神様は私たちがどんな状況にいる時もわたしたちを捜し求め、神様のみが胸の中に抱いてくださるのです。

今日のこのメッセージの中で知って頂きたいことは神様は何時も私たちが神様の身下に戻ってくるように待っていてくださっていることです。私たちが神様の前に罪の意識を持っていて出て行けないときはイエス様、神様自身が私たちの所にやって来てくださいます。

私の牧師としての役目は、病気、または自分の家から出ることの出来ない人たちを尋ねることです。そして一緒に聖餐式を行います。その前にヨハネの第一の手紙18節を読みます。そこにこう書いてあります。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちのうちにありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。」これは神様、イエス様からの約束です。

神様から隠れることなく、すべての思いをを神様に祈りの中で語ってください。私たちの人生のあらゆる所でイエス様と出会う機会が信仰を持つ者に与えられているのです。アーメン。

週報通算番号#1214W (日本語)

2012 6 10W

週報通算番号#1214E  (英語)

Sunday English Bulletin 1214E

 

キリスト教の暦の中で、お祭りの日が幾つかあります。それはクリスマス・イエス様の誕生日、イースター・復活祭、その次に、ペンテコステ・聖霊降臨日を思い出すでしょう。しかしペンテコステという名前は聞いていますが、それはいったいどういう日なのでしょうとクリスチャンの中でも、なかなか答えが出ないことがあります。

しかしペンテコステのペンテはラテン語で5の意味がアメリカの国防庁の建物が5角形(ペンタゴン)、また旧約聖書の最初の5書はペンタチュウクと呼ばれています。ペンテコステは、クリスチャンにとって、復活されたイエス様が50日たった時、イエス様にしたがって来た人たちに聖霊を注いでくれた日です。また、目では見えないイエス様が、聖霊と言う形で、私たちのところに来られ、私たちといつも共にいてくださる約束を確認することができた時です。

復活されたイエス様が、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と言う約束は多くのクリスチャンにとってとても心強いことです。ペンテコステはまた教会の誕生日とも言われています。エルサレムに世界のいたるところから帰ってきていたユダヤ人のひとりひとりの上に、聖霊が降ったのです。するとそこにいた人たちは自分の母国語でイエス様に賛美の言葉を語り始めたと聖書は書いてあります。私は6年間テキサスのダラスの教会で牧師として働きましたが、テキサスには異言を語るクリスチャンの教会が沢山ありました。しかし異言を語るだけではなく、多くの人が手を高く上げて踊りだすのです。その中で恍惚状態になり、失神する人も出てきたのです。

一般の説教の代りに、沢山の人が、何か訳も分からないことを口にしているその姿を見て、これも一つのキリスト教の礼拝なのだというのに私は否定しませんが、今日の聖書に書かれている異言とは、いろいろな国から来てエルサレムに集まった人々が聖霊を受けて自分たちの言葉で神様の偉大な業を語り始めたということで、これはイエス様とイエス様の教えが、世界中に広まって行くことを前兆としての姿です。

ペンテコステはキリスト教会の誕生日であるといいましたが、使徒言行録の2章の中に、教会の初め、それは建物としての教会と言うより、イエス様を主と認める、またイエス様にしたがって生きていこうとの決意をした人たちにとってイエス様が聖霊として私たちと共にいてくださると言うことはなんと力強いことだったでしょう。

この日、3千人もの人がイエス・キリストを世の救い主と認め、洗礼を受けたのです。彼らの顔はまさに輝いていたと思います。この3千人の人たちはどんな心境になったでしょうかと考えていた時、私は頭の中に小さい時日曜学校でよく歌った子供讃美歌を思い出しました。それを歌ってみましょう。

 

「主に従い行けば、いかに喜ばしき、心の空晴れて光は照るよ。みあとを踏みつつ、共に進まん、みあとを踏みつつ、いさみて進まん。

主に従い行くは、いかに幸いなる、悪しき思い消えて心は澄むよ。みあとを踏みつつ共に進まん、見あとを踏みつつ、いさみてすまん。

主に従い行くは、いかに心強き、恐れの陰うせて、力は増すよ。みあとを踏みつつ共に進まん、見あとを踏みつつ、いさみて進まん。」

 

聖書は、ペテロの言葉で、私たちにはっきり語っています。それは、「悔改めなさい、めいめいキリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。

聖霊も賜物の一つですが、ほかにもたくさんの賜物が私たちに与えられるのです。ギリシャ語で、「恵み」と「賜物」は同じ語源から出た言葉です。それは「愛」、「喜び」、「平安」、「寛容」、「親切さ」、「善意」、「誠実」、「柔和」、「自制」と言う、私たちの生活の中で、いつもなすべき心の持ち方と私は思います。私たちがお互いを支えながら生活する中で、今述べた、一つ一つの言葉をこれはイエス様が、私たちに毎日の生活の中で実行されるように求めているのです。もう一度その言葉と私たちの心の持ち方を聞いてください。「愛、喜び、平安、寛容、親切さ、善意、誠実さ、柔和、自制」と言う言葉です。

聖霊の賜物を受け取った人たちは顔が輝いていると言われています。それは顔に隠せない喜びとして顔に出てしまうからです。このことに関して、ある人から聞いた話を聞いてください。

今から10年ほど前のカリホルニアのgold rush の時、金を探して歩き回っていた3人の男たちが、あるところに金の塊をいくつか見つけたのです。そこで、この秘密を誰にも言わないようお互いに誓ったのです。町に行き、彼らが金を掘る許可証をもらい、金を発掘するための道具を買い入れ、秘密の場所に戻ったのですが、彼らを追って沢山の人たちがついてきたのです。なぜかというと、彼らの顔の表現が、喜びに満ちていて、ほかの人が一見して、ああ、あいつらは、金のでた所を発見したに違いないと感じたからです。

もう一つ、教会の礼拝の中で起こったことをお話しましょう。お母さんがまだ3歳になったばかりの男の子を連れて教会に来るようになりました。この男の子、礼拝中泣きもしない、駄々もこねないいい子でしたが、時々後ろを振り向いて、みんなの顔を見て大きなスマイルとウインクをしていたのです。この子のスマイルとウインクは大人の人の心を穏やかにして、大人の人もこの子にスマイルとウインクを返したのです。しかし、この子のやっていることを見つけたお母さん、男の子の耳を引っ張り、「だめですよ、ここは教会なんですよ」と叱ったのです。男の子は叱られて泣き出しましたが、お母さんは、「しずかにしなさい。泣くなら小さな声で泣きなさい」と、またこの子を叱ったのです。私も母によく教会では静かにしなさいといわれてもそれを守ることをしなかった。でもイエス様には愛されていると感じていました。

私が礼拝堂の前で皆さんを見る時、そこで顔が輝いている人もいれば、何か心に悲しみ、心配事があり、悲しそうな顔をしている方を見出します。ティシュウで涙を拭いている人もいます。ペンテコステ、聖霊降臨日はこれから先、イエス様が私たちの生活の中で、私たちが悲しいときも、苦しいときも、喜びのときも必ず私たちと共にいてくださることを約束してくださったのです。それは甦えられたイエス様は、聖霊として私たちと何時も共にいてくださることを知ることです。

教会はこの聖霊降臨日に始まり、イエス様が、私は世の終わりまで私達と共にいると約束された集まるところです。私たち、一人ひとりが何故イエス様を救い主と受け止めたのかとの質問に私はこう答えます。イエス様が救い主の神様と私が呼べるのは、実は神様の聖霊が私に働きかけ、イエス様を神様を呼ぶことができ私にしにしてくださったからです。皆さんもイエス様を信じたい、信じられるようになるには何をしたら良いのかと考えた時期があったはずです。

しかしイエス様を救い主と認められるようになったのは自分で納得ができるように祈ったその結果ですか?  私が口癖のように言うことは、それは、神様である父と子であるイエス様、そして聖霊の働きで、私、私たちの心の中にイエス・キリストが救い主であるという信仰を私たちの心の中に育ててくださったと言うことです。

このペンテコステと呼ばれる教会の誕生日は神様からいただいた聖霊によって始まり、これからも主イエス・キリストこそわが救い主と告白する私たちの信仰により続いて行くのです。この聖霊は目では見ることができませんが、私たちを支えてくださる神様の力です。イエス様が私と共に何時もいらっしゃると信じられる人は本当に幸福です。主によって私たちは生かされ、愛の精神を持って人生の毎日を送くれることができるからです。

祈りましょう。

イエス様、あなたは、私たちに素晴らしい賜物を幾つもくださいました。その一つが、あなたが私たちの心の中で育ててくれた信仰です。このペンテコステ、神様の聖霊が人々の心に働いた日を感謝します。あなたの聖霊が私たちを導き、私たちのイエス様に従う思いと行動にて、まだあなたを知らない人たちに、主に従い行くとはいかに喜ばしきことであるかを知ることができるようにしてください。この祈りを主、イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

May 27th, 2012

2012年6月Calendar

No Comments, 教会Calendar, by admin1.

June 2012 Calendar

 

6月3日 CCNの発足日

6月9日はPacifica Synodの事務所で日本語部の修養会

講師: Paul 中村牧師、 Oriental Lutheran Church , Torrance,CA

松下滉 牧師

週報通算#1213(日本語)

2012 5 27W

週報通算#1213E(英語)

 

「イスカリオテのユダ」 “Judas Iscariot” 使徒言行録1151721-26

 

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

「裏切り」と言う言葉を聞いた時、聖書の中ではとっさにイスカリオテのユダを思い浮かべるのではないでしょうか?それはユダが彼の主であるイエス様をユダヤ教をつかさどる祭司、律法学者に30の銀のコインで売ったという事件があったからです。それは恐ろしい事件であり、イエス様がこの先、ユダヤ教のお偉方、また、ユダヤの国を統治していたローマ帝国のGovernor により十字架にかかる死刑の宣告を受けたのです。

しかしその前にイエス様が死んだはずの友達のラザロを甦がえらせると言う奇跡を起こしたことを皆さんは聖書で読んで知っているはずです。過ぎ越しの祭りのある6日前にイエス様は友達のラザロの妹たちのマルタとマリヤを尋ねたのです。食事が用意され、ラザロはイエス様と共に食事の席に着きました。その時ラザロの妹のマリアが非常に高価なナルドの香油を持ってきて、それをイエス様の足に注ぎ、自分の髪でその足をぬぐったのです。このように足を洗う、体に香油を注がれると言うことはお客さんを大切にもてなす、それ以上にイエス様と言う神様から私たち人間を救うために送られた神の子に私たちの最高のおもてなしをすることでした。

そこに同席していたイエス様の弟子であるユダはそれを批判してそんな高価な香油はお金に取り替えて貧しい人たちに分け与えるべきだとイエス様に抗議したのです。ユダがこう言ったのは、貧しい人たちのことを心にかけていたからではなく、彼は弟子たちの中で財布の管理をしていたのですが、その中身をごまかして使っていたからですと聖書は書いてあります。

ユダへの弁解ではありませんが、私は彼がイエス様がユダヤ人のための神様と信じていたと思います。しかしまた、その神様であるイエス様の力でユダヤ人とユダヤの国をローマ帝国のすべてのコントロールからfreeになりたいと思うようになったのです。しかしそれはユダだけてなく、ほかの12弟子の中にも何人か、そのようにイエス様を革命のリーダーとして受りたかった弟子たちがいたのです。

イエス様の教えは時には弟子たちに把握できなかったのです。イエス様がお互いを愛し合いなさいと言うとき、私たちは何時も避けている人たちをも愛すと言うことです。左のほほを打たれたら、右のほほをも差し出しなさいというイエス様の教えは、今までの常識を超えた教えです。何だ、イエス様は本当に私たちユダヤ人に救いを与えるために来たのでなかったかと、そのようにユダは次第に、イエス様から心が離れてゆくようになってしまい、イエス様は、本当の救い主なのかと疑問を持つようになったのです。

イエス様が最後に過ぎ越しの祭りを12弟子と共に守り、その後過ぎ越しの祭りの食事を弟子たちと食べていた時、イエス様は言いました。「はっきり言っておくが、あなたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて「主よ、まさか私のことでは」と代わるがわり言い始めた。イエスはお答えになった。「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに去っていく。だが、人の子を裏切るものは不幸だ。生まれなかったほうが、そのものの為に良かった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口を挟んで、『先生、まさか私のことでは』と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

それを聞いてユダは血の気がなくなったような気分になったでしょう。本当だ、まさに私はイエス様を裏切ろうとしているのだ。私が思うに、これは悪魔の仕業であったでしょう。悪魔は疑いの中で葛藤している人の中にはいってきて、あなたの思いを変えてしまうのです。私はユダが地獄に落ちた、世界で一番悪いやつと言いたくないのです。ユダも自分が悪いことをしたことを後悔したのです。しかしまたその時、イエス様に戻らなければならないのです。イエス様に赦してくださいとお願いすることが大切です。イエス様は本当に私たちが心から赦してくださいと言う時、私たちを赦してくださいます、それが私たちの愛するイエス様の私たちすべての罪人に下さるギフトです。イエス様は必ず赦してくださる方なのです。

しかしそれは私たちイエス様に従って生きてゆこうと決心した者の中にも、私を含めて、人に喜び、感謝、奉仕、祈り、励まし合い、優しい心遣いで人と接したいとを思いながらも、それと反対に、一人ぼっちになって、暗い部屋の片隅でなんて惨めな私、私たちだろと考えてしまう時があるのと同じではないでしょうか。

今日の説教は他人のことを言うのではなく、わたしの自分の心をさらけだして語っているのです。私はイエス様を世の救い主と信じます。イエス様にしたがって生きていくという宣言もしました。牧師として皆さんにイエス様への信仰の導きを語る者、しかし自分の中に、いつも神様に愛され、喜びの心に満ちていると言う人間でない自分の姿があることも知っています。私は自分の思い、感情がいつも顔に出てしまいます。喜びの時はSMILE と涙がいっしょに出てしまうのです。

疑いの時、心落ちしている時は、自分一人でいる時間が欲しいのです。そこで、イエス様に、こんな私ですが、あなたは私を愛してくださいますかと心の中で会話の時を持つのです。しかし、今ここで語っていることは、私だけではなく、皆さんの中にも疑問の時があるでしょうし、本当にイエス様、あなたは本当に、私を愛してくださっているのですかと質問をした人たちが沢山いらっしゃると思います。イエス様は私たちの心の中をすべてご存知です。ではイエス様との祈りの会話なんていらないんじゃないかと言われるかも知れませが、いやそうであるからこそ祈りの時をもって欲しいのです。一人でくよくよ悩むことを私はよく経験しますが、イエス様はその悩みも一つ一つもご存知で、ある時に私に語りかけてくださるのです。イエス様の他に、人生の色々な問題に、頼れる人、あるいは頼れるものはあるでしょうか?

ある人にとってお金がすべて、幸福がすべて、有名になることがすべて、あるいは健康でいられることが一番大切と信じる人は多いと思います。私、私たちにとって一番大切なのはイエス様です。イエス様は、私たちのすべてを知っている救い主、慰めぬし、許しの主、励ましの神様です。そのような神様であるイエス様に私たちは生かされているのです。生かされているのはただ私のためでなく、私の受けた神様の愛をほかの人にも受け取ってほしいと祈ることです。

最後にもう一度イスカリオテのユダについて一つだけ語ることがあります。イエス様を裏切ったユダは地獄に落ちた。神様との関係を絶つてしまったと云われていますが、覚えていてほしいことは、今私たちが神様にそむくことがあっても、イエス様は私たちを見捨てることはしないと言うことです。イエス様は辛抱強いお方です。何回も、何回も、何回も、私たちが心から罪の告白をするたびに私たちを赦してくださるのです。私たちはイエス様にとってかけがえのない神様の子供なのです。そのことを信じて、神様、イエス様に感謝をしながら生きることができる私たちになれるように祈ることを主は私たち一人ひとりに求めていらっしゃるのです。アーメン。

2012年5月12日母の日ランチョンでお母さんに感謝

 Senoras & Senoritas, come join us for an afternoon of south-of-the-border fun. A fiesta of big hats, piñatas, Mexican music, games and, of course, a delightful south-of-the-border meal in LCR’s Cantina.

母の日に因んで日頃のお母さんの労を感謝するLCRでの恒例の母の日のランチョンが催されました。当日はお母さん達はメキシカン風に装ったり、思い切りカラフルなドレスを着たり日頃地味に装うのに慣れている人達も今日ばかりはド派手。テーブルは見事にメキシカン風にセットされ日頃真面目な顔をして礼拝に出ている男性達も赤いCinto(Belt)をして甲斐甲斐しくレストランのウエイター顔負けのサービス振りに私達も大満足。御料理も前菜のチミチャンガやコーンチップ、メーイン・ディツシュはトスターダ、デザートに至るまで皆係りの方々の手作りとか。日頃の煩わしさを忘れ楽しいランチョオンのひと時を過ごす事が出来ました。記: 愛子G.