Tweet 2017年11月5日(日) マタイ 23:1-12 「先生と呼ばれてはならない、なぜならキリストのみが先生だから。」という話、私の学んだ大学では教授も「---君」という呼び方で公的な文書が発行されていたことを思い出す。別にキリスト教の大学ではないのだが、隠れたところでキリストの愛にあふれており、世間体は派手で学費が高いとか言われるが、実は地味で学費も候補だったほかの私立大学より安かった。謙虚さが重んじられた大学だったことを思い出す。キリスト教とはぜんぜんうたっていない教育機関でありながら、そこに主の存在が見え隠れしていたように思う。実は、すべての社会で、また自分ではキリスト教信者だとはいわない方に主の存在がはいりこみ、隠れた伝道者になっているようなことが多々あるように思っている。 2017年11月13日(月) 第一テサロニケ2:13-20 マタイ23章で、「あなたがたはみな兄弟なのだから」という話を読んだあと、この第一テサロニケを読んでいて、パウロがテサロニケの信者たちに「兄弟たち」(14節、17節)と呼びかけていることに、意味を感じる。 むかし笹川良一氏が日本船舶振興会の会長職の立場でコマーシャルに出ており「人類皆兄弟」という言葉を多くの子供たちとともに声を合わせて話していたように思う。その日本船舶振興会は、なんとローマカトリック教会の曽野綾子氏が笹川会長職を引き継いだことを思い出し、主の愛が船舶振興会にも入り込んでいることを覚える。 2017年11月10日(金) アモス書 3:1-12 10節には「彼らは正しくふるまうことを知らないと主は言われる。彼らは不法と乱暴を城郭に積み重ねている。」 とある。 後半部分、口語訳では「しえたげ取った物と奪い取った物とを、そのもろもろの宮殿にたくわえている。」と訳してあった。 私はアモス書というと、社会正義、特に世のリーダーの職にあるもののあり方を指摘しているように読めてくる。 日本のニュースでは企業の内部留保がとりあげられているが、神はアモス書を通して現代のリーダにも同じ指摘をしているように聞こえてくる。 2017年11月12日(日) マタイ福音書25:1-13 不幸な5人のおとめと、油をわけないけちな5人のおとめという話にとられてしまうかもしれないが、イエスのおっしゃりたいことはもちろんそういうことではないのだと思う。 油をわけらないことはなにを意味しているのだろう。 イエスの再臨に対する心構えつまり心構えそのものは、互いに心構えをしようと声をかけあうことができても、真剣に心構えをするかどうかは、ひとりひとりが決断して心構えをしなければならない。 心構えは分かち合えないのだ。 ひとりひとりがイエスの再臨を待つ心構えが、油を準備することにたとえられていると私は思う。 わたしたちをこの上なく愛してくださる神、イエスの再臨、イエスとの祝宴に備え、日々イエスとの交わりを大切に生きたい。日々御言葉と交わる、それが油をきらさずに準備することではないだろうか。 日曜、教会総会のため10時の礼拝のみで、第一礼拝も日本語礼拝もありませんが、良き主日礼拝になります。 そして意味のある教会総会が開かれますように! 主の恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ここをクリックーー>2017 10 15 Jpn Parable of Wedding Banquest and Robe Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 先週はラスベガスでアメリカ史上最悪の乱射事件が起こったかと思ったら、今週はカリフォルニアで史上最悪の山火事が発生した。 人災と天災の違いはあるものの、史上最悪が多すぎるような気もしている。 主を愛し隣人を愛するというイエスの御旨にできる限り近づけますように! 10月8日(日) マタイ21:33-46 とくに後半では、イエスがユダヤ教のリーダーたちが酷い目に会うことを暗示していたようにマタイは記述している。ちなみにマタイ福音書は紀元後70年以降、つまりエルサレム陥落以後に記述されたと思われる。 10月12日(火)第2コリント5:17-21 自分を含めて恥ずかしくなってしまうような過去の過ちとか自分勝手な行動を抱えて生きている方がほとんどなんだと思う。その恥ずかしさに気づかないままあるいは間違いかどうかわからないままの方々、政治家、政府の存在もあると思う。私はICANがノーベル平和賞を受賞したことを喜びつつも、それが政府への当てつけだとかではなく、これまでの核兵器を作る方向に社会のリーダーが行動したことはその時点では正しいと思って動いたのだから、その責任を求めたり恥を指摘するのではなく、ひたすら和解の言葉をもたらす存在でありたい。 10月14日(土) イザヤ24:17-24 17節―18節には、恐れないものは、落とし穴に陥り、たとえ落とし穴から出ても、わなに捕らわれるという。「恐れない」ものという言葉にちょっとぴんときてしまった。 そもそも聖書のメッセージは「恐れるな」という言葉が繰り返されており、「恐れない」ことは良いことではないかと思うから。しかし、「恐れるな」という前提には、神以外のものには「恐れるな」ということがあったのだと思う。 ところが、神に対して、あるいは神の遣わした預言者やその言葉に対して「恐れない」ことに大きな問題があったのかと思う。 日本語では同じ「おそれない」でも「畏れない」という漢字があるが、17節は「畏れない」が適切なように感じている。 10月15日(日) マタイ22:1-14 このたとえ話は王は神であり婚宴は御国を示しているのかと思う。似たような話がルカにも書かれているが、7節の「王が立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった」という箇所はルカにはなかった。 上記にも書いたように、マタイはエルサレム陥落後に福音書を書いたと思われる。つまり7節もエルサレム陥落をマタイなりに意味したのかと思う。もっと大切なところとして10節にある悪人も善人も王が招く、つまりすべての者が愛なる神によって御国に招かれていることをしっかり覚えたい。ただ、礼服を着ていなかった者がつまみ出されてしまう話はどういうことかわかりにくい。祈りをもって日曜日の説教で話せればと願っている。 ラスベガスの銃撃事件と山火事で亡くなった方、怪我をされた方、その家族、家を失った方、そのほかいろいろな影響を受けた方(実はこの聖書観想は、サンフランシスコ近くの神学校で水曜の昼から木曜の昼過ぎまで打ち合わせがあって、その帰りの飛行場で書いていた。近くの山火事の煙の影響もあって私が乗る飛行機が遅れ私も影響を受けたが少し痛みを共有した気がする)を覚えて、主の慈しみ、憐れみを覚えて祈る。また日曜日の礼拝も覚えつつ。 恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ここをクリックーー>2017 10 08 JPN A Tail of Mayhem and Murder Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 9月10日(日) マタイ18:15-20 短い箇所だが、実にいろいろ書いてある。一箇所に焦点をしぼるなら、「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる。」とはいったい何のことを言っているのだろうか? 私には、地上で関係づけたことは天国でもそうなるし、地上で解釈したことが天国でもそうなる。 つまり地上と天国が直結しているような気がしてくる。 このようなことを主なるイエスから言われることは、地上での行動や言動が、天国からも丸見えなんですよ、と言われているような気がしてくる。「行動言動が天国の主に喜ばれるものであるように、また主に喜ばれないことはしないように!」そんなことをいわれても、何が主に喜ばれて喜ばれないのか、この世の行動は実に多岐にわたっていて判断に難しいことがたくさんある。 そこで、19節の後半、20節にあるように、ひとりで行動を決めずに、二人で祈る、あるいは三人で祈って、そこにいっしょにいるイエスとともに行動することが大切なのではないだろうか。 9月12日(火)ローマ14:13-15:2 ローマの信徒への手紙というと、5章から8章にすばらしい福音が書かれている。また9-11章にユダヤ人と異邦人のこと。12章から15章前半は、イエスを信じるようになった者が、いかに変えられ、どのような行動指針に沿って行動するかが書かれているように思う。与えられた14章13節から15章2節をじっくり読むとき、私たちは神をどこかに置き去りにして、あたかも自分たちに神の権限があるような行動をしてはならないし、また弱い立場におかれている隣人が喜ぶ行動、それが神を喜ばせる行動であると思えてくる。 マタイ25章で、イエスが「このもっとも小さき者のためにあなたがしてくれたことは私にしてくれた事なのだ。」という話をされた箇所とも強く関係がある箇所のように思う。 9月16日(土) 創世記45:1-20 今週の木曜からの旧約聖書は、聖日の第一日課も含めて、来週の水曜日まで、創世記37章以降のヨセフ物語のハイライト箇所を読むといっても良いかと思う。 ヨセフの中にイエスが暗示されているような面を私は感じている。 兄弟たちにエジプトに売られてしまったヨセフではあったが、決して兄弟たちを責めるのではなく、「わたしをここへ(エジプトへ)遣わしたのは神です。」といって、兄弟たちを赦している。弟子たちにイエスは見放され、さらにユダヤ人も異邦人もいっしょになって、イエスを十字架に架けて殺してしまったが、神によって復活したイエスは、弟子たちも人類も決して責めることなく、「あなたがたに平和があるように」と言われる、そのようなイエスにヨセフが重なってくるような面がある。 9月17日(日)マタイ18:21-35 主君には膨大な借金を帳消しにされた家来なのに、仲間の家来には小額の借金をも厳しくとりたてようとした家来の話。これはあくまでたとえ話である。借金とは私たちが背負う人生の困難とか重荷といったらよいだろうか。家来たちは私たち人間で、主君は神様。 神は私たちの重荷を本当によくご存知で、その重荷をいっしょに背負ってくださり、さらにすっかりとりさることすらされる。わたしたちの罪、恥、友人を許せない怒り等の重荷ゆえに、イエスも十字架を担ぎ、辱められ、そして、罪を帰せられた。 そして殺され、地獄まですら行かれる。そして復活された。それは、私たちへの愛ゆえに、われわれの重荷をとりのぞいてくださる。 そこまでしていただいているのだから、私たちは、重荷を負っている隣人に対して、このたとえ話にあるような家来のような付き合い方は禁じ手ともいうべきか。 日本ではミサイルが上空を通過したかと思えば、今度は台風が通過しようとしている。まったく関係がなさそうで、なにか関係があるような気もしてくる。北朝鮮の隣人、また同じ国内の隣人とどうつきあうか。 復活ルーテル教会において、日曜日の召天者記念礼拝に向けて、さまざまな準備が整い、主の憐れみが豊かに注がれますように! 恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 9月3日(日) マタイ 16:21-28 この箇所を読むと、いつも「あなたの十字架を担ぐ」の意味について、毎回せまられる。とくに今回は、同じ日に与えられていたエレミア15:15の「わたしがあなたのゆえに辱めに耐えているのを知ってください。」との言葉にピンときて、イエスの言われていることも、そういうことなのかという気がしていた。キリスト教の神学は、この世の考え方とは異なり、徹底的に相手を愛し赦し続ける。この世的には、馬鹿正直で世間から恥さらしにされるような面があることはいなめない。イエスが十字架で担いでエルサレムを歩かされたのも、恥さらしにされたのだった。恥さらしにされようが、イエスの信仰を恥としない生き方が十字架を担いで歩むことではないだろうか。 9月4日(月) 黙示録3:1-6 黙示録の2章3章は、7つの教会に宛てた手紙。いにしえの教会宛ての手紙でも、現代の教会にもあてはまってくる面がある。与えられている箇所は、サルディスにある教会に宛てた手紙だが、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」とあるのは、十字架を担いで歩くなどということは何も考えずに、ソーシャルクラブ的に、自分たちだけで楽しむ、一見活発なような教会になっているような教会が問題にされているようである。司祭は白い衣を着て礼拝を司り、集う者が告解し、イエスの教えを思い出し、愛を実践する教会となれますように。 9月9日(土) エゼキエル 33:1-6 与えられている言葉を聴き、現代を鑑みる時、6節にあるような、「剣が望む」傾向を見ていないだろうか。日々のニュースで絶えない、北朝鮮のミサイルや核兵器問題も然り、また対応の仕方は異なるアメリカ、ロシア、中国、韓国の指導者たち。それをただ茶の間で見て、第三者的になって何も行動を起こさないのでは、エゼキエル書に書かれた「角笛を吹かない見張り」であり、また角笛を聴いてもそれを無視する民になってしまうのではないだろうか。 9月10日(日) マタイ18:15-20 この箇所だけを読んで解釈して、小さな集団である一教会においても、だれかに罪を犯した者とか、何かルールに従わない者がいた場合、まず一対一で話す。それでも悔い改めなければ、さらに数人で話す。それでもらちがあかなければ、教会全体で話す。それでも従わなければ、教会から追放するというルールが教会にできてしまったような面がある。しかし、そのようなプロセスは本当に神の御心なのだろうか。私の友人が牧師をしている教会の近くのいわゆる単一教会(Non Denominational Church)では、性的少数者が教会から追放されたあげく、自殺してしまったケースがある。その追放した教会はもちろんお葬式もしてあげない。友人牧師は、自殺した女性とその家族のために葬儀をとりおこなった。ある一教会に集まっている人々だけでは罪を犯しているのが、正反対だってありうるのだと思う。「自分たちが正しい」と思っていたことが全く逆の場合があることを、この聖書箇所が教えているようにも思えてくる。15節より前にどんなことが書いてあったか、また20節以降にどんなことが書いてあるのか、その脈略の中で読むと意味がわかってくるように思う。 10日のビーチサービスとビーチクリーニング、17日のメモリアルサービス、またさらなるハリケーンが近づいており、各方面で天災にあわれているかたがた、覚えて祈りつつ。 主の恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ここをクリックーー>2017 08 27 Living God in Jpn Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 日本語説教ここをクリック-> 2017 08 20 Even the Dog Eat Jpn In English –> 2017 08 20 Even the Dog Eat Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2017年7月30日(日) マタイ13:31-33, 44-52 イエスがこれでもかこれでもかといわんばかりに、「天の国はーーーに似ている」と言って説明してくださった。当時の弟子たちも、また2000年経って、その話を何度も聞いてきた代々のキリスト教徒すら、いまだに、天の国をよくわかっていないのだ。 しかし、地球50億年くらいの歴史から見ると、あるいは数百万年とも言われる霊長類の誕生から見ても、この2000年間という短い期間に、とんでもない変化が起こっているのではないかと思えてくる。人間と神とのかかわり方、また人間同士の関わり方も。(ブラッド牧師の30日の説教を読まれていない方は、ぜひウェブにアップしているので、読んでいただけたらと思う。) 2017年8月1日エフェソ6:10-18 イエスが教えてくださった天の国のたとえを思い出し、またこのエフェソ箇所を読む中で、なぜか、ある牧師が「キリストの愛の実践とは、もっとも自分が愛せない人を愛すること。」と言っていたことを思い出す。そんなことはできないと思う人間の思いを超越して、聖霊の働きにより、それは可能なることを、パウロ(エフェソ信徒への手紙の著者)は説いているように思えてくる。 2017年8月3日(木) 箴言10:1-5 ダビデを継いだソロモンが著したとされる箴言の言葉をじっくりあじわいたい。とくに3節にある「主は従う人を飢えさせられることはない。」はどういうことを語っているのだろう。 飢えの意味は、かならずしも、食べ物に対する飢えということだけでなく、いろいろなことに対する飢えのことであるように思えてくる。 2017年8月6日(日) マタイ14:13-21 有名な5,000人の給食の話である。じっくり読んでいただければと思う。聖霊の導きの中で、また新しい発見や気づきが生まれてこないだろうか。 この箇所で語っているイエスの言葉は、最後の晩餐のときの言葉、そして、聖餐式のときの言葉でもあるのだ。聖餐式を受けるなかで私たちはどうなるのかを思う。。。 5,000人の給食で飢えをしのいだ人々は、決して食べ物だけによって満腹になったということだけではないのだと思う。 おなかがいっぱいになること以上の、満たされた感覚があったのだろう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 日本語訳ここをクリックーー>2017 07 23 Patience by Brad Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace