Archive for the ‘Uncategorized’ Category

Tweet 主の昇天祝日 ここをクリックー> 2016 05 05 詩編を読もう Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2016年5月1日LCR日本語部週報通算第1397 号 2016年5月1日の週報 Sunday English Bulletin 1397E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet あなたがすべての民を導く平和 (詩編67) 右をクリック-> 2016_04_28_詩編を読もう Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 互いに愛し合えますか?  右をクリック -> 2016 04 24 LCR Jpn Can We Love One Another? Please click here -> 2016 04 24 LCR Eng Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

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Tweet 今週は9月24 日から27 日の聖書日課に与えられている詩編19編を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編19編 8:主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 9:主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。 10:主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。 11:金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。 12:あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。 13:知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。 14:あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。 15:どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。 私の場合は、とても気になる節として、13節の「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」さらに後述したい。 詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 19編の8節以降だけを読んでいるが、簡単に1-7節にどんなことが書いてあったかを記しておきたい。1節には、指揮者によって、賛歌、ダビデの詩となっており、ダビデの状況を推察しながら、詩編作者が礼拝の賛歌として詠ったものだろう。2から7節で、天も地も太陽も、そして昼、夜という時までも、すべて神の創造のなかでおこっていて、なんら隠れうるものはない。 いわば、神の創造の壮大さ、完璧さが賛美されていたようだ。 そして8節から11節には、律法のすばらしさ、完璧さが賛美されている。 主の律法が完全で魂を生き返らせるようで、主の定めは真実で、無知なものは知恵を得る(8節)。主の命令は、ストレートに喜びすら与え、主の戒めは清らかで目を輝かせる(9節)。主を畏れることは清いことで、永遠に続き、主のなさる裁きは正しい(10節)。律法は、金や純金にも優って、価値があり、蜂蜜よりも甘い(11節)。12節以降は、神への語りかけ、祈りになってくる。あなたの僕である私は、あなたの律法を熟慮し、守ることで大きな報いを受けるが(12節)、律法を知らずに犯した過ち、そして、自分に潜んでいる罪から、どうか私を清めてください(13節)。この私を驕りから引き離して、それに支配されないようにしてくだされば、重き罪から清められ、私も完全になるでしょう(14節)。 どうか、私の話す言葉が、主の御旨にかなうものとなり、自分の思いが御前に置かれるようなものとなりますように(15節)。以上だが、13節あたりからは、ダビデがついつい自分勝手な思いからおかした罪の告白、反省が込められているようだ。 今日読んでいる詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。 上述した、13節を読んで、私は昔の記憶が蘇ってきている。 私にとっては、大きな二つの出来事だった。 最初は30年以上前だったが、ある友人が私にしたことが、とんでもなく私を傷つけ、私はこらえきれずに、友人を責めてしまった。しかし、その友人は、なんら私を傷つけたなどとは思っておらず、謝る気もなかった。 二つ目の出来事は、10年くらい前だったが、逆のことが起こった。私にとっては寝耳に水というか、その友人の考え方がとても信じられないという思いになってしまったが、ある友人が、一切悪気のない私のしたある行為が、彼を傷つけ、私に不満をあらわにした。 30年前の例は、私はある方の罪の被害者であるかのごとく、そして10年前の例は、加害者でもないのに、加害者ごときに扱われてしまったように上記には書いてしまった。 しかし、よーく考えると、どちらも、私に問題があったように思う。 そもそも考え方の違う人間同志、自分のものさしで、相手がこうするのは当然だろうという考え方自体には、問題がある。 詩編19編13節で、「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」と祈る詩編には、私たちの普段の祈りでもあるべきだし、この祈りにより、自分自身のものさしから、解放されるような要素があると思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコ 9:30-37 主イエスの恵みと平安が、会衆の上に、また今日この場に集えない人々の上にも、豊かにあるように! 「やれ打つな」と来たら、それに続く言葉は何だろうか? 「蝿が手をする足をする」という小林一茶の俳句を覚えている方は多いと思う。みなさんハエは好きだろうか? この俳句の意味することは? 私はだいたいの意味はわかっているつもりでいたが、最近、ある英語の訳を読んで、なるほどと思った。  Look, don’t kill that fly! It is making a prayer to you by rubbing its hands and feel. となっていた。科学的にあるいは、神学的に、ハエが祈るかどうかについて、神学者によっては、動物には宗教心は無いと断定的なことを言う方はおられる。 私の立場は、科学的な面でも神学的にみても、なんらそんな断定はできないと思っている。  そのようなハエが祈るか祈らないかという議論より、私は、「ハエが祈っている」と見るところに、小林一茶の、また、それを「Pray」という言葉を使って訳した英訳者のハエに対する思いやりがあると思う。 本当に小さな、世の中で、のけものにされてしまいそうなものへの思いやりがそこには、あるのだと思う。 さて、今日与えられた福音書の内容に入っていきたい。先週読まれた福音書と同様、イエスが、それは重要な自分の死と復活を話をしているのに、弟子たちは、イエスの話しをよく理解できなかった。理解しようとするどころか、だれが一番偉いかという議論をしていた。  情けない、弟子たちの姿がある。しかし、当時の弟子たちだけではなく、現代の私たちにも同じことが言えるのではないだろうか。人より、先でありたい、上でありたい、偉くなりたいという欲望に満ちているのが、人間の現実なのだと思う。  私たちは、ついつい自分が一番になってしまう。 たとえば、5人10人と同時に写っている写真をみるとき、まず一番先に、自分がどこに写っているかを捜すのが人間の常だと思う。そのような、自分が先、上、偉いという欲から解放されることはとても難しいことだと思う。  そのような私たちに、イエスは、とても大切な行動を、今日の福音書の後半部分で示されていると思う。 イエスは、小さな子供の手をとって、弟子たちの真ん中に立たせた。そして抱き上げた。  ここで、子供が意味することは、当時のユダヤ社会でもっとも重要とされていた律法について、知識もなければそれを守ることもできない子供、いわば無能力者を意味していたように思う。イエスはそのような子供たちを愛された。  また、マタイ25章では、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)という話をされた。ここで、「最も小さい者」とは、「飢えている人、のどが渇いている人、自分たちの社会には関係ない旅人、裸の人、病気の人、牢にいる人」等々だ。 当時のユダヤ社会では、いわば、無能力者の存在とされた人々、もっとも弱い立場にいる人々をイエスは、本当に愛された。 このような、子供を抱き上げる行動や、最も小さい者の一人にしてくれたことが、私にしてくれたことだと言われた言葉に、私たち自身が、「すぐに自分を、上、先、最高」と思ってしまう思いから解放されるヒントがあると思う。 いまいちど、「やれ打つな、ハエが手をする足をする。」 という小林一茶の俳句を思い出したい。 ハエというイメージの中にある私の思いをシェアしたい。 旅客機に乗っていて、他の旅客機を目撃することがある。 何マイルも離れた距離に飛んでいる旅客機は、近くで見れば、大きな豪華な飛行機だが、遠く離れてしまうと、まるでハエが飛んでいくようにみえる。 とくに、自分が進む方向と、反対方向に進んでいく旅客機は、まるで、ハエがあっと言う間にどこかに行ってしまうかのごとくである。。。 何をいいたいかというと、私たち一人一人は、実は、宇宙から見れば、それこそ、ハエのような存在なのだと思う。 ここで、宇宙を神におきかえても良い。旅客機でさえ、ハエに見えるのだから、ハエよりさらに小さな小さな存在なのだと思う。しかし、その小さな一人一人を、主なる神、主なるイエスは、とてつもなく愛してくださっている。小さな、一人一人のためなら、自分が十字架上で殺されても良いと思われるほどに、愛しておられる。  さあ、今日から、この世のはえと、いやこの世のもっとも小さい者とどうつきあうだろうか? これまでどおり、特に変わらないだろうか、あるいは、一人一人、イエスの示された行動や語った言葉から、何か学ばれただろうか? 聖霊の働きにより、一人一人が、益々祝福され、神から喜ばれる存在になりますように。 アーメン。   牧師  安達均  “Look, Don’t Kill That Fly!” Mark 9:30-37 May grace and peace come to you in the name of Jesus Christ! Amen! How many of you know the meaning of the word “Haiku”? Haiku is a type of Japanese poem that is composed of 17 sounds (either vowels or consonants). But those 17 sounds are themselves composed of three short verses (five, seven, and five). I am told that this poetic form is the shortest one in the world. Let me give you a famous Haiku as an example, “Ya-re u-tsu-na, Ha-e ga te wo su-ru, A-shi wo su-ru.” Of course you do not know what I am talking about, but I believe, you hear the rhythm. 5-7-5. “Yare Utsuna, Hae ga te wo suru, Ashi wo suru.” The meaning of this poem cannot be translated into only 17 vowels and consonants, but it goes something like this. “Look, don’t kill that small fly! It is making a prayer to you by rubbing its hands and feet.” Do you normally like flies? Although I do not know for certain whether or not flies pray, I think the poet is showing his compassion to the least or one of the smallest creatures in the world; that most people consider a nuisance. I would like to talk about today’s Gospel text….

Tweet 今週は詩編15編と読もう。 短い詩編なので、じっくり読める。 いつものように、気になる言葉をあげる。 詩編作者がいわんとしていることについて考える。 そして、主なる神は、21世紀を生きる者に、なにをいわんとしているか、思いをめぐらせよう。  詩編15編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。 2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。 4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。 5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。 土曜まで牧師休暇中のため、今週は牧師のコメントをお休みします。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 詩編 34: 9-14, フィリピ 4:4-9, ヨハネ 14:27 主の平安が豊かに注がれますように! 今日どのような気持ちでこの日を迎えているだろうか?日本では8月15日土曜の正午、それは西海岸時で8月14日の午後7時に、太平洋戦争の終戦後、ちょうど70年となった。なにをもって終戦と呼ぶかは、昭和天皇が、無条件降伏を認め、天皇自ら肉声で、玉音放送として、日本国民に向けて放送された。 さらに、後に多くの言語に翻訳されて、世界にも紹介された。 昭和天皇の言葉の一部を口語訳にしたものを紹介したい。「今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。(中略)しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。」また最後の段落では「責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟せよ。」 との言葉があった。 戦後70年たって、経済的な復興は見事に達成されたのかもしれない。また戦後70年の間に、日本だけを見れば、たしかに戦争は起きず、平和だったといえるかもしれない。 しかし、未来永劫のために平和な世界を切り開くという点においては、現在世界各地で、戦争は10箇所で起こっているともいわれる。 世界平和への道はまだまだ遠い。 そのような中で、キリスト教徒として、この世界をいかに生きていくように、今日、主なる神は私たちに話されているのだろうか? どのように平和を実現していけるのだろうか? 第一日課として、読まれた詩編の言葉には、「平和を捜し、追い求めよ。」という言葉が語られていた。 そして、その言葉の前には、「主を畏れて、また舌を悪から、唇を偽りから遠ざけて、平和を求めるように。」とあった。 そこには、平和を求めるということは、必ずしも暴力とか、武器をもって戦わないことが、平和をということではないのだと思う。 私たちの交わす言葉において、口から出る言葉も、どんなにか暴力的なことになってしまうか、相手を傷つけてしまうかを、よくわきまえるように言われていると思う。 平和を探し、求めるということは、行動が平和的な行動をするだけではなく、心の上でも平安が求められるということになってくる。 そのように考えると、私たちの身も心も平和な状態に達するということ、しかも世界中の民が、その状態に達するということは、はてしなく道のりの遠いことのように思えるし、とても達成できそうもないことのようにさえ思える。  いったい、神様、私たちは、平和に向けて、どうしたらよいのでしょう? 今日与えられていた福音書、ヨハネ14章27節は、十字架に架かる前に、イエスが弟子たちに、さらに人類に残されている最高の言葉であるようにも感じる。  「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 」 と弟子たちに話された。そしてその翌日の金曜日には、十字架に架かり、日没前に、イエスは墓に葬られる。  しかし、三日後、日曜日には復活して、なにも暴力を防ぐことができなかった弟子たちをいっさいとがめることなく、赦し、「あなたがたに平和があるように」と言われ、主の真理の霊を注いでくださった。  今日、日曜日、世界中のキリスト教会で、なぜ礼拝の時があるのだろうか? 今日、新たに、日曜日に礼拝の時が与えられているのは、主イエスが復活し、全人類を赦し、そして「あなたがたに平和があるように。」と言われたのが日曜日だったから、毎週日曜日、キリスト教会では、礼拝の時がある。  毎週、日曜日は、復活の日であり、神の憐れみの深さ、その寛大さに、私たちは、驚かされ、ひたすら主を畏れ、崇める。主イエスが与えてくださる平和について、その意味を深く考えよう。 人間的な思いからすれば、説教の最初で述べたように、世界平和はとてつもない遠くのゴールのように感じる。 しかし、キリスト教徒として、たとえ、イエスが十字架に架かられた週末があろうが、世界のいろいろなところで戦争が起こった過去があろうが、先週、金曜あるいは土曜かもしれないが、どんな悲惨なできごとがおきようが、もちろん私たち過去を認め、罪を告白する。そして主が復活した日曜日には、神の憐れみが与えられることを実感する。 私たちは、それらの過去のことは、反省はするが、もう心配はせず、こわがらなくてよい。  今日という日曜に、イエスが与えてくださる平和、それが私たちが想像できる平和とは大きく異なる、主イエスの平和を覚えて、喜びあふれる思いで、イエスの体と血をいただこう。 人類は2000年間、とても不思議な聖餐式、主の体であるパンを裂き、それを分ち合い、また主の血であるぶどう酒を、わたちあってきている。  人間の頭では世界平和が依然、遠くはるか先のことのように思える、しかし、われわれは主イエスから赦し、主の愛、主イエスにおける平安をいただこう。 そのパンとぶどうジュースに、イエスが存在している。 そのパンとぶどう酒に、主の赦し、主の愛、イエスにある平安、が存在している。 神の平和は、実はもうここにある。 マルチンルターキング博士が示唆していたように、神が与える平和とは、最終目的ではないのだ、しかし、平和はそのものは、手段であり、われわれが歩む道である。 わたしたちは、その神の平和、主の体とパンを、さらに多くの人々と分ち合い人生を歩もう。そして、主の体である教会が、ますます、主の御心に満ちたものになっていきますように!  アーメン 安達均 “A Long Way to Go?” Psalm 34: 9-14, Philippians 4:4-9, John 14:27 May Grace and Peace to you in the name of our Lord, Jesus Christ! What do you feel today? In Japan time, at noon, Saturday August 15, which was in Pacific Daylight Saving Time, 8 p.m., on Friday, August 14, it was exactly 70 years after the end of WWII. 70 years ago, at that time, the Japanese Emperor declared unconditional surrender and his speech was broadcast all over Japan and later it was translated into different languages and rebroadcast all over the world. In his speech, he mentioned, “The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great…it is according to the dictates of time and fate that We have resolved to pave the way for a grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.” Although it is not very clear in this English translation, the Emperor was envisioning “Peace for all over the world.” And, he also mentioned in his last paragraph, “mindful of its heavy burden of responsibility, and of the long road before it.” After 70 years, Japan geographically has not been an aggressor and there has been no war (involving them) during the post-war period, but if you looked back including other regions, the Korean and Vietnam…

Tweet ヨハネ 6:30-35 主イエスキリストの恵みと平安が、ここに集まった会衆の上に、豊かに注がれますように! アーメン。 今年のヴァケーション・バイブル・スクール(VBS)のテーマは、”GO FISH”、「魚とりに行こう」だ。 その初日、明日の月曜日はマタイ4章から、次のようなことを学ぶ。 イエスの弟子たちは、ガリラヤ湖で魚をとる漁師たちだった。 その漁師たちに向かって、イエスは、イエスの弟子になるにあたり、「あなたたちを人をとる漁師にしよう」と話されたことを学ぶ。 なぜそんなことを言われたのだろうか? そもそもとられた魚は、食べられてしまうわけだ。 だから、じゃ、人をとるとは、とった人を食べるということなのだろうか? おもしろいことに、VBSの三日目は旧約聖書のヨナの物語で、ヨナが魚に食べられてしまう話を学ぶ。  しかし、もちろん、イエスが人間をとる漁師にしようといわれたのは、とらわれた人間が魚や弟子に、ましてやイエスに食べられてしまうわけでもない。  教会の言葉で言うならば、洗礼を受け、信仰を告白し、キリスト教の信者になること。簡単に言えば、キリストを信じること。 それにしても、キリストを信じるとはいったいどういうことなのだろうか。 今日の聖書の箇所は、私たちに、キリスト信者の根本にせまっているところともいえる。  イエスは5000人の人々を、5個のパンと2匹の魚だけで、満腹にした。この奇跡やイエスが行なった他の奇跡によって、人々には、いろいろな思惑が生じた。 このような奇跡を行えるイエスに、病気を癒す専門家になってもらいたいと思った人もいただろうし、イスラエルという国家がローマに支配されることがないように、イスラエルの自治を確立してもらいたいと思う人もいただろう。 いっさい食べ物に困ることがないように、永遠に食物を提供してくれる人になってもらいたいという人もいた。   しかし、なぜ、神の子イエスは、人の子として人々の間に現われたのだろうか? イエスは確かに、病を癒したり、食べ物を与えたり、人々に奇跡的な業を見せられた。 しかし、その奇跡を人々が見て、人々の思惑通りにイエスを利用してしまうわけにはいかなかった。 もっともっと大きな目的が神にはあったからだ。  イエスの御業を人々が見ることで、イエスを知り、そして神を知るようになるということが、とても大切な目的だった。 神を知るというのは、知識として、神はこういう方であると理解する事とは大きく異なる事などだと思う。 私たちの思いでは理解しようがないような、神の力に頼る、イエスキリストを信じるということなのだろう。 イエスはもちろん、肉体的にも5000人の集まった民を満腹にしてあげたいと思った。 しかし、神の究極的な目的は、民が霊的に満たされることだった。 イエス自身が「わたしが天から降ってきた、命のパンである。」と言われたのは、イエス自身がすべての源ということ。また「そのパンをいただくものは、もう飢えも渇きもなくなる。」ともいわれた。霊的に満たされることは、イエスキリストだけによって可能なこと。  イエスはたとえ十字架刑にかかって、肉体的には心臓がとまることがあったとしても、神はイエスを復活させ、死をほろぼした。 そして聖霊として、ずっとこの世に生きるものとしてくださった。イエスを信じるものにとって、つまりイエスの体、命のパンをいただく者にとって、イエスの死と復活は、ただの奇跡だったとか、他人後事ではない。その命のパンといただく者は、イエスが復活し永遠の命に生きているように、私たちも、復活の命、永遠の命に生きている。  このメッセージのはじめに、漁師たちにとらわれた人々が、いったいどうなってしまうか。魚と同じように食べられてしまうのか? という話をした。その答えは、とらえられた人々は、食べられるのではなく、逆にイエスを食べる人になる。パウロは第一コリントの中で、「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」と書いている。 そして、それから2000年経って、洗礼を受け、かつ信仰を告白する者となった私たちも、毎週イエスを食べる人々の仲間入りをしている。 そして、イエスの体、教会の一部をなし、永遠の命に生きている。  今日、新たに、キリスト者であることの深い意味を考えながら、感謝をもってイエスを皆でいただこう。これまでの自分自身の勝手な考えや、後悔、すべての罪から解放されて、永遠に生きるイエスの体の一部となって、神の思いを実現しよう。イエスにとらえられたことを喜び、そして、新たに、人々をとる漁師となろう。 アーメン 安達均 What Will Happen to Those Fished By the Disciples? John 6:30-35 May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! Amen As you know by now, the theme of this year’s Vacation Bible School is “Go Fish.” The first day, Monday tomorrow, kids will learn from Matthew Chapter 4: The first disciples were fishermen, but Jesus called them, saying “I will make you fish for people.” Why did Jesus say such a thing? Fish caught by fishermen are usually eaten by people. So what is going to happen to people caught by the disciples? Are they also going to be eaten? Interestingly, the third day of VBS, on Wednesday, children will learn the story of Jonah, in which Jonah was eaten by a big fish. Of course, the purpose of the disciples fishing for people is not for the people to be eaten by actual fish, disciples, or Jesus. So what will happen to those caught by the disciples? Ecclesiastically, the correct answer is to be baptized and to confess their faith in Christ. Or more simply stated, to believe in Christ…however, what does it really mean to believe in Christ? I think that the Gospel text today is fundamental when thinking about this question: What does becoming a Christian truly mean? Several paragraphs before today’s text, 5000 people were well fed by Jesus with…