Archive for April, 2011

Tweet 四旬節第1主日聖餐礼拝     2011年3月13日 創世紀2:15-17,3:1-7 「蛇からりんご買っちゃだめだよ」 “Never buy an apple from the snake” 岸野豊牧師 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。 皆さんの人生の中で、この歌、この歌手こそ私にとても影響を与えたというものがあるはずです。それが美空ひばり、フランク永井, 島倉千代子、石原祐二郎、吉永小百合、坂本九かもしれない。私の大好きな歌手は皆さんもご存知の広田美恵子、そしてBeatles です。1960年代から70年代にかけてよくBeatlesの歌を友達と歌いました。お風呂の中でも歌っていました。 特に私の好きなのは  “Yesterday” という歌。歌詞を英語と日本語で入れましたので読んでみてください。英語の歌詞を読んでみます。”Yesterday, all my troubles seems so far away, now it look as though they’re here to stay, oh I believe in yesterday.  Yesterday, love was such an easy game to play, now I need a place to hide away, oh I believe in yesterday.”私はこの歌を歌っている時、何故かエデンの庭から追い出されて一日過ぎた、そんな時のアダムの心境を感じるのです。昨日までは遥か彼方にあった苦悩が、今は僕の元に座わろうとしている。不意に僕は今までの僕ではなくなった。暗い影が僕に重くのしかかる。ああ悲しみは突然やってきた。昨日までは素晴らしい日と信じていたのに。 岸野先生は説教も歌謡曲から発想するんですね、と言われて全くその通りです。 さてアダム、昨日まで何も心配事なくエデンの園と言われるまさに天国のような所で奥さんのイブと二人幸福に暮らしていたんです。畑仕事をしなくでもOK,昼も夜も気候がよく, 裸のままで生活していた。 おいしい果物はいくらだって食べられた。ただ禁じされていたのは、エデンの庭の中にある、木の実、それだけは食べてはいけない、触ってもいけないと神様から言われたのです。 そこにいた蛇がイブに言いました。「エデンの園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのですか?」蛇は誘惑を施すもの、つまりここでは悪魔です。人間は誰でも人生の中で何回も誘惑され、悪魔に打ち負かされた経験があります。これは誰でも経験したことですが触っちゃだめだよと言われると触りたくなる、食べちゃだめだよと言われて、ますます食べたくなる。 ところで、イブが蛇に唆されて、叉、アダムもイブにそそのかされて食べた果物はりんごだと皆から言われますが、聖書にそれがりんごとはどこにも書いてありません。でもどうしてりんごと言う風になったかと言うと、それは二つのラテン語の言葉からの言葉の遊びです。ラテン語でEvil, つまり悪魔はmalus そして、りんごはmalum だからです。同じようにりんごに毒をいれたのは白雪姫と小人たちの話の中に出てくる嫉妬に駆られたおばあさんに変装してで出てきたwitch queenです。 テレビで昔、Animal Kindgom というテレビのショーで蛇について語っていたことを思い出します。と言うのは、蛇は自分の餌になる動物に出会うとその動物を催眠術にかける力をもつていると言うのです。 鼠が蛇に出会い、どの様に退却しようかと考えているうちに、目と目を合わしているうちに催眠術にかかり動けなくなくてしまうと言うのです。悪魔とはそんな存在ではないでしょうか。 悪魔は私たちに催眠術をかけ、私たちの心の中まで忍び込んで、気がつかないうちに私たちの頭の中に麻薬を入れてしまうのです。 叉私たち人間は、好奇心の強い生き物です。いろいろなことが知りたい、明日何が起こるのか知りたい、私は果たして幾つまで生きられるか知りたい。然しそれは知ってはいけない事というよりも知ってしまったら逆に人生を空しく生きてゆくことになるのではないでしょうか? 日本では誰でも知っている浦島太郎の話しをしましょう。「昔昔浦島は、助けた亀に連れられて、竜宮城へ来て見れば、絵にもかけない美しさ」。浦島太郎は毎日、毎日の宴会を乙姫さんと過ごしてきたわけですが、地上の生活が懐かしくなり、乙姫様に別れを告げて叉、亀に乗って自分の故郷に帰っていった。しかし、地上の様子がすっかり変わっている、何かおかしい、海辺は知ってる海辺だけれども、そこにある家も、人も、知らないものばかり。その時、乙姫様からいただいた玉手箱に、いったい何がはいっているのかと気になってきたのです。 然し、乙姫様からその玉手箱をお土産でもらった。その箱を開けてはいけませんと乙姫様は言ったではないか。さてどうしよう。まさに蛇にそそのかされたイブ、叉イブにそそのかされたアダムの葛藤と同じです。ここで誘惑に負けた浦島太郎は紐を解いて玉手箱を開けたのです。突如、浦島太郎は若い青年から真っ白な髪のおじいさんの姿に変わったのです。たったひと時すごした海での楽しかった時も、地上の世界では何十年も過ぎた時間に等しかったのです。 はっきり言って、浦島太郎の話と蛇にそそのかされたイブとアダムの話しはまったく関係の無い話かもしれません。然しこの好奇心の追求と言う思いは、良い答えを与えてくれることもありますが、そうでないこともあります。 2週間前、日本に一週間帰国した時、「あんたもうそろそろアラ還ね」と言われました。」あらかんとはなんだか知らなかったのですが、それは60歳になる祝い事ですね。高校時代の何人かの同級生から招待を受けて居酒屋でお互いの生活の問題、特に退職の年代に近ずいている、また、健康の問題など話しました。。停滞気味の日本の経済の中で退職して、昔のように気兼ねの無い生活ができるかなとの声も聞きました。 人間は誰でも幸福に暮らして行けたらならと思う、そしてそれがどんなものか、少しでも神様、その私の将来の一ページでも見せてもらえたら嬉しいのですがと私たちは願うかもしれない。でも、その将来の一ページを見た所で、なんと怖い思いをする、悲しくなることになるかもしれない。人生知らぬが仏であってもいいのです。神様から与えられた人生を一歩、一歩神様のみ心にかなうように生きてゆくことの人生、それは神様が私たちを守り、導いてくださる人生、それを私たちは望むのです。 昔のことは昔のことで、それはどうにもならない。だからこそ今の時を大切に生きてゆく人生、を私たちは神様、イエス様に祈り求めるのです。イエス様は私たちが心の中で思っていることを全てご存知です。それを祈りの中でイエス様にもう一度話してみてください。イエス様は私たちの人生の中で必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。 アーメン。                                                                                           Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「サマリヤの女」“The Woman of Samaria”岸野豊牧師 私達の父なる神、主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。 アーメン。 福音書の中にはイエス様によって心を動かされた沢山sの女性についての話があります。その中で皆さんのよく知っている三つの話があります。一つは、長血を患っていた女。この女は自分の持っていた全てのお金をこの病気の治療の為に色々とつぎ込んだのに12年もの間この病気で身体的にも、精神的にも苦しんでいた女です。イエス様という方はどうも色々な人の病気を治すことが出来るという噂を聞いてこの女はイエス様の後に歩いて行きイエス様の衣の裾を触った所、病気から一気に開放されたのです。 叉1人の女はイエス様がお客として来ていた家に来て、高価な香油をイエス様の足に注ぎ泣きながら、自分の髪の毛でそれを塗りつくした女。この女はファリサイ人に軽蔑されていたのですが、イエス様はこの女の行為を素晴らしいものと認めたのです。 もう一つの話は娘が悪霊によって苦しめられていたそのお母さんのイエス様への必死の癒しの願いです。「主よどうかお助けください」とこのお母さんがひれ伏して頼んだ時、イエス様は言いました。「子どものパンを取って子犬にやってはいけない」と。それに対してお母さんは、「ごもっともです。然し、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。イエス様はこのお母さんの信仰を賛美し、その時娘は病気から癒されたのです。 さてこれらの奇跡、そしてイエス様の女性に対しての思いやりは他に例がないほど当時の人たちの心を動かしたものではないでしょうか? 今日の福音書に出てくるサマリヤの女の話も世間の中で、人々に見くびられている、肩身の狭い、自尊心に欠けた女の話です。それもユダヤ人から嫌われていたサマリヤ人の女性です。 ところでサマリヤ人の話というと皆さんはGood Samaritan、善きサマリヤ人の話を何度か聞いたことがあると思います。これはルカの福音書だけに出てくる、ある1人のユダヤ人が旅路で強盗に会い、半殺しにされ道端に投げ込まれた話です。最初にこの死にかかっているユダヤ人に気がついたのは、ユダヤ人の祭司です。見て見ぬふりをしてそこを通り過ぎた。そして次に来たのがリーバイと呼ばれるくらいの高い人。でもこの人も変なことに拘りたくないとそこを素通りしたのです そして、次に来たサマリヤ人は、この半殺しになっていたユダヤ人の男を自分のロバに乗せて次の町の旅館まで連れて行き、この知らない男を医者に見てほしいとお金まで出して、この男の快復を祈ったのです。この話がよく知られている裏には、ユダヤ人とサマリヤ人の仲が悪いと言う事実もあった訳ですが、人間としての他者に対しての思いやりは人種、民族を超えてあるべきものではないでしょうか。 今日の福音書はイエス様がイスラエルの南、ユダヤの土地から北のガラリヤへ弟子たちとサマリヤを通って行く途中に起こった話しです。 イエス様の生まれる7世紀以上の昔、ユダヤ人はアッシリヤと呼ばれる国との戦争に負けた結果イスラエルの一部であったサマリヤに住んでいた多くの人たちは捕虜、あるいは奴隷としてアッシリヤに連れて行かれたのです。然しそこに残ったユダヤ人はユダヤ以外の人たちとの結婚により100%ユダヤ人としての純潔な血筋を失ったのです。その混血のユダヤ人がサマリヤ人と呼ばれるようになったのです。 同じようにユダというイスラエルに住んでいたユダヤ人もバビロニアと言う国との戦争に敗れサマリヤの人たちと同じように長い間バビロニアに捕虜として連れて行かれました。この人たちが後にイスラエルのユダの土地にもどってきた時、サマリヤ人はユダのイスラエル人に手を差し伸べたのですが、ユダのイスラエル人は、 “No thank you, we don’t need your help. We are pure Jews, not like you people.  We have nothing to do with you.” と言ってそれ以来、サマリヤ人は汚れた民族として他のユダヤ人から軽蔑されるようになったのです。それ以来ユダヤ人はサマリやの土地に入ることさえ控えていたのです。 イエス様はそのことを知っていながら自分の育った故郷であるガラリヤをサマリヤの土地を通って行かれたのです。イエスの弟子たちは、恐らく殆どのユダヤ人は遠回りでもサマリヤの地を避けて旅をしたのです。然し、サマリヤ人の土地を通ってゆくこと、叉そこで出会った女との会話はイエス様の民族を超えての人類に対しての愛を物語っているのです。 イエス様は昼の12時ごろにヤコブの井戸があるサマリヤのシカルというところにこられたのです。弟子たちは町まで食べ物を買いに行っていたらしい。イエスさまが井戸の所に座っていると、サマリヤの女が水を汲みに来たのです。 皆さんのうちに昔、水道が無かった時代に井戸まで水を汲みに行ったという経験のある人いますか? 私は物心が付いた頃から水道の水しか覚えていませんが、宣教師でアフリカに行っていた人の話を思い出します。1970年代にアメリカのルーテル教会はタンザニアと言うアフリカの国で、 Communityで一番必要な物は何かというと新しい井戸を村のまんなかに掘ることでした。アメリカの教会は援助金を出し、村の真ん中にその井戸を作ったのです。それまでは村の女たちは朝まだ夜が明けないころに水がめを頭の上に乗せて2マイルも遠くに在る古い井戸の所に行かなければならなかったのです。水瓶をいっぱいにして戻ってくるのは大変な重労働ですが、それは村の女性たちにとってCommunication の場であった大切な時だったと聞いたことがあります。 水を井戸まで行って瓶に入れて持ってくる、それはこのサマリヤ人の村でも同じことだったと思います。然し、ここに出てくるサマリヤの女は朝早くではなく、昼の正午に井戸に水を汲みに来たのです。そこに私は思うんですが、この女は他の女たちから嫌われていたのではなかったでしょうか? だからこの女は昼に誰も井戸に行かない時に水を汲みに来たのだと思います。それだけ自分が皆から仲間はずれにされていたのでしょう。 イエス様はこの女に水を飲ませてくれと頼んだのです。イエス様は長い旅に疲れきっていたはずです。喉が渇いていただけでなく、体も痛かったに違いありません。水を飲ませてくれと頼んだイエス様は人間の疲れ、弱さ、渇きを私達と同じように知っている神様です。この女の答えは、「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女の私に、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか?」 イエス様はユダヤ人からラビ、日本語で「先生」と呼ばれていた人。ラビは公の所で一人で婦人と話すことは禁じられていたのです。 当時ファリサイ人を呼ばれていたユダヤ教の聖職についている者のニック・ネームは「あざとかさぶたの男」と呼ばれていました。なぜかと言うと、通りで人の目を引くような女性に出会ったとき、彼らは目を瞑って歩き、そのために塀とか家にぶっかって怪我をする人たちだったからです。 イエス様が一人でいる女に話しかけていたこの話しは他のラビから見れば、とんでもないことだったのです。特に世間から白目で見られている女には話しかけることは神様に対しての罪だと言われていたのです。 然しイエス様はこの嫌われていたサマリヤ人、それも女のサマリヤ人と話しをしていたのです。それもただの女ではない、世間から評判のよくない女です。然し思い出してください。イエス様は世間の評判など気にしませんでした。神様は特定の人にだけ来るのではなく、全ての人にです。神様は強い人にだけ来るのではなく、弱い人、身分の低い者、学歴が無いもの、貧乏人、self-esteem の低い人、目の見えない者、耳の不自由な者、全て、神様、イエス様を必要としている人たちに来るのです。 イエス様にとって全ての人は平等に愛されます。それは全ての私たちが罪人であるが、その罪の大きさは神様に取って同じです。イエス様はそれ以上に大きな罪を許されたものは小さい罪を許されたものより神様の愛を知っているとも言われているのです。 私はイエス様による信仰、イエス様からいただいた信仰を持っていることが私の人生の最高のギフトであると認識しています。私が弱い時、悲しい時、疲れた時、心が痛む時、人を傷つけた時私がイエス様を求める時に、イエス様はすでに彼の方から私の心の扉をたたいて、「心配しなくてもいいよ。あなたの心の中は全てもう知っているのだから。あなたに私の聖霊をあげるから、元気を出しなさい、I am with you all the time 」と言ってくださっているのです。信仰を持つ、いや、信仰を与えられたと言うことは、神様が人生のどんなときにも私達と共にいると言うことです。そのことを確認しながら人生を送ること、それこそ神様から頂いているギフトです。 祈りましょう。 イエス様、あなたは私たちがあなたに祈る前から私達の心にあるすべてのことをご存知ですね。わたしたちの心の秘密も知っていますね。私たちはあなたの前で、私達の罪を告白して、ただただあなたの哀れみと許しを求めます。どうか私たちにあなたの愛と聖霊を注いでください。私達の心と行いがあなたの御心にかなうものとなるよう私達を導いてください。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 四旬節第2主日聖餐礼拝「ヨハネ3:16」“John 3:16””岸野豊牧師  私たちの父なる神と主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 今日の福音書はイエス様に好感を持っていたファリサイ派の1人であるニコデモと言う人のイエス様との会話です。」イエス様は言いました。「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」。ニコデモは答えました。「人は年を取ってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母親の胎内に生まれることが、どうしてできましょうか?」 会話の内容は、神の国に入るためには、人はどのように再び生まれることができるか」との問答です。洗礼とは私たち一人ひとりが自分の罪を悔い改め、信仰によってイエス様を救い主と告白する儀式です。私は教会の礼拝によく出てこられるようになった方に、「あなたはもう洗礼を受けませんか」と声をかけています。そこでよく聞くのは、「私はまだ聖書のことも神様の教えについてもう少し勉強して分かるようになったら」と言う言葉を聞きます。 私たちの教会では赤ちゃんにも、まだ幼い子どもにも、これらの子どもたちが自分で神様を主と認めることができない前に、洗礼を授けることができるのです。人が洗礼を受けるとは神様からの聖霊の賜物を受けることです。神様の子どもとなることです。 これはこの教会で何人かの人から聞いたことですが、藤田エスターさんのご主人, メソジスト教会の牧師であったJonathan藤田先生は教会に来られるようになった方々に、早いうちに洗礼を受けるように進めたと聞いています。私も藤田先生と同じように考えます。神様への信仰を持つと言うことは神様の全てがわかるようになったからではなく、まだ色々なことが分からなくても神様が、神様に従ってくる人々に時が経つにつれて信じる心ををくださるのです。 同じように私は教会で行なう聖餐式でもまだ洗礼を受けていない人も、イエス様の体と血である聖餐はそこにイエス様、神様がいるということを心の中で受け入れることができる人には、是非受け取っていただきたい神様の賜物です。信仰生活のはじめからキリスト教とはなにか、全てがわかる人はいません。信仰は自分の努力だけでは大きくなりません。信仰、信じる心は、まず神様に自分の心を開き「神様、私の心の中にあなたが入って来てください」と祈ることによって始まるのです。 さて今日のメッセージはヨハネの福音書3章14から15節に書いてある「モーセが荒れ野で蛇を上げたように人の子も上げられねばならない。それは、信じる者がみな、人の子によって永遠の命を得るためである」という文章について考えてみたいと思います。 モーセは神様に従って、エジプトで奴隷として暮らしてきたユダヤ人を解放してイスラエルの地につれもどした旧約聖書の英雄でしたがユダヤの民がエジプトを出てイスラエルに戻るまで40年間砂漠の中を彷徨ったのです。大勢のユダヤ人はモーセに言いました。「何故、私たちをエジプトからこの荒野に導いたのは私たちをここで死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」。そこで主は、火の蛇を民のうちに送られた。蛇は民を噛んだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。 皆さんから、何故神様はそんな無残なことをするのでしょうと質問が出て当然と思います。然し神様はユダヤ人たちに辛い時にも、悲しい時にも、どんな時も、神様を信じなさいと教えているのです。  さてここで今日の福音書の箇所は、旧約聖書の民数紀21章の蛇の話し、それは、蛇に噛まれた、死にかかっている人に対しての言葉です。 それを読んでみましょう。そこで主はモーセに言われた、「火の蛇を造って、それをさおの先上に掛けなさい。全ての噛まれた者が仰いで、それを見るならば、生きるであろう」。モーセは青銅で一つの蛇を造り、それをさおの上に掛けて置いた。蛇が人を間でも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。 この聖書の箇所を今こういう物を持って紹介しましょう。(竹竿と蛇の絵を見せる)火の蛇をさおの先に掛けましょう。さおに二匹の蛇が上りました。それを絵で書くとこういったものになります。さて皆さんの中に、何かこの蛇が竿に絡まっている、そんな絵をどこかで見たことがあると言われる方いると思います。 これはお医者さん、叉医学のシンボルです。まさに「火の蛇を造って、それをさおの先上に掛けなさい、全ての蛇に噛まれたものが仰いで、それを見るならば、生きるであろう」の聖書の言葉が今日の医学のシンボルになっているのです。 ちょうどモーセ荒野で蛇を掲げたように、人の子も、(それはイエス様のこと) 叉上げられなければならない。上げられなければならないとは、イエス様が十字架に架かると言うことです。イエス様が十字架に架かり、私たちの罪のために死んでくださった。 しかし、イエス様は十字架の上で、息を引き取ったその三日後に甦ったのです。そして、イエス様は、その甦りの命を、永遠の命を私たちに約束してくださったいるのです。 もう一度言います。私達の救いは、私達の罪を背負って十字架と言う木にかかって私達を贖う為に死んでくださったイエス様によって達成されたのです。 キリスト教の信仰を一番簡潔に力強く語っているのは今日読んだヨハネによる福音書3章16節です。これをも一度皆さんと一緒に大きな声で、ゆっくりと読んで見ましょう。新約聖書の167ページ下の段の16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである 私達の多くはこの聖句を口語訳で暗唱できる方も多いと思いますのでもう一度口語訳の言葉で呼んでみましょう。「神は、その独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉はクリスチャンの中では一番知られている、一番唱えられている聖句です。 話は変わりますが、私たちはこの九日間東北地方を襲った災害のすさまじい姿を見て悲しい思いでいっぱいです。震度9.0、考えられない地震です。それでも日本人の心の中には誰でも、何時か大きな地震がどこかで叉来るに違いないという思いはあったはずです。 あのすごい津波の威力、家も車もおもちゃのように破壊されてしまった。津波警報が出て、30分のうちに非難できなかった方々、その人たちの地獄のような経験を思うと涙が出て止まりません。そんなところにいなくて良かったと思う裏には、私達のこれからの日本の同胞に対しての思いやりと援助をこれからもしてゆかなければなりません。 アメリカの二ユースを見ていると今回起こった災害の中で、日本人の気質のことが色々な面で再認識されています。例として長い列の中で食べ物や水をもらうのに長い間待っている間、自分の番が来るまでじっと我慢して待っている、ただそれだけのものでも日本人は秩序を守る人たち、辛抱深い人たち、お互いをRespect する精神の持ち主と、再確認されているようです。それを聞いて、私たちは嬉しい。この頃日本人は少し堕落したなんて聞いていましたが、本当は今でも日本人の心の深いところに人生とは自分だけのことではなく、皆と一緒に支えあって生きて行くことが大事であるとの心構えがあるのではないでしょうか。それが苦しい時、悲しい時にお互いを助ける精神として出てくるのではないでしょうか? もう一つの日本人の精神が原子力発電所の事故現場で感じられます。私はアメリカで、3 mile island と言うペンシルベニアに在る原子発電所の1979年におこった今回の福島第一原子発電所とよく似た事故の時,25マイルはなれたGetysburgと言う町にあるルーテル神学校の4年生でした。まだその頃はアメリカ人も放射能の危険さをよく認識していなかったので、10マイル以内に住んでいる人はそこを出なさいと言う命令が出されました。 然し風の具合では放射能もGettysburg の方に来るかもしれないと言われて神学校の多くの人たちはキャンパスから何週間にわたって出たのです。日本の広島と長崎の原爆の影響を知っていた私は先頭に立って放射能の怖さを皆に語ったのですが、目に見えない怖いことはその時多くのアメリカ人は気ずくいていなかったのです。 3 mile islandの事故では、放射能はそんなに外に出なかったと言っていましたが、実際には原爆病がでてきて何百人の人たちがその後亡くなってきたのです。それを知って私は、叉私たちは、今も福島第一原子発電所で一生懸命これが原子発電所の致命傷にならないように日夜24時間働いている人たちに感謝をすると共に、この命を掛けての仕事をしている発電所の人たち、消防署の方がた、自衛隊のヘリコプターのパイロット、叉そこで働いている方々の家族に神様からのお守りを祈るばかりです。 世界の90カ国から援助部隊を送りたいとの申し入れが日本の政府に入ったと聞いています。人間は困っている人を助けたい、泣いている人を慰めたいと言う思いがどこの国から、どこの文明の人たちも持っているはずです。 この東北大震災は日本の歴史に大きな影響を与えるでしょう。然しこれが私達の祖国の精神を強め、日本という国はよくやった、よく立ち上ったと世界にpositive な影響を与えられる国にいなってくれるよう祈ります。 英語に、  “God helps those who help themselves”と言う言葉があります。その意味は「私たちが物事に一生懸命真心を持って取り組む時、神様は私達の助けとしてそこにいるのだ」ということです。祈りましょう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイによる福音書17章1-9節 「山上での経験」  “Mountain Top Experience”  私たちの父なる神と主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。  今日は来週で終る顕現節から、来週から始まる受難節の間に来る変容主日です。イエス様が弟子のぺテロ、ヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登り、そこでイエス様の顔が太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。叉、イエス様は旧約聖書の時代のユダヤ人のリーダーのモーセ、偉大な預言者エリアとともに語り合ったという記事です。 ところで変容という言葉、私たちは日常の生活の中であまり聞かない言葉ですが、それは何を意味しているのでしょうか?この言葉を聞いて私の思うのは昆虫の幼虫が在る時さなぎになり、それがしばらくすると蝶と変身していくことです。蛙の卵がおたまじゃくしになり、おたまじゃくしの尻尾がなくなって今度は蛙になるのです。 息子のAndrewが小学校のころ彼の一番好きなおもちゃはTransformer というもので、それは外見トラックなのですが、それをいじくっているうちにロボットに変わってしまうのです。そう言えば、昔白黒のテレビで見たDaily Planet という新聞記者のクラーク・ケントも事件のあるたびに、正義の味方のスーパー・マンに変身した男でした。 マタイの福音書の中で言われているイエス様の変容、Transfiguration とは、いったい何を示すのでしょうか? 旧約聖書の中で、今日のイエス様の変容とよく似た話があります。それはモーセがシナイ山に登った話。その山頂で神様はモーセに10の戒め、つまり10戒を与えた話しを皆さん覚えているでしょう。 このモーセの話によると、モーセがシナイ山に登る前の6日間雲によって囲まれたとあります。イエス様の変容の記事も6日の後というこの6日と言う言葉に第一の共通点があります。モーセもイエス様も山に登ったのです。聖書には山に登るということが神秘的な意味を持っていて山頂で神様の声を聞いた、神様の聖霊を受けたと言うことが沢山書かれています。 私の知っている一人の韓国人の牧師さんはアメリカの教会で按手礼をうけた後、韓国に10日戻り、その内の殆どを山にこもって祈り続けて彼は神様との会話の時を持ったのです。ただし、そこは同じように山にこもって祈りをしていた牧師さん達でいっぱいだったとも聞きました。これは韓国人の牧師さんには人生の中で一回はしなければならない修行だそうです。 私は富士山に高校生の時一回、そして叉10年ほど前、息子のアンドリュウを連れて登りました。山の8合目で一泊して朝の3時、まだ暗いうちにおきて、フラッシュ・ライトを照らして山頂まで日の出になる前に寒さに震えながら登ったのです。山頂の鳥居の所で、雲の下から出てきたまぶしいほどのご来光を息子と一緒に経験しました。そこで神様の作られた自然の神秘さを心を中に感じました。 アポロ宇宙船に乗って地球を遠く月から見ることのできた宇宙飛行士の多くも、山上とは言わないまでも、神様の作られた素晴らしい地球を見て神様の霊に触れたとも聞いています。人間はこのように神様、あるいは神様の創造された偉大な何かを見ることで心を動かされるのではないでしょうか? さて、元に戻ってイエス様が3人の弟子を連れて山に登った記事とモーセがシナイ山に登った話に戻ります。確かにイエス様は弟子の、ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登りました。モーセもアロン、ナダブ、アビフをつれてシナイ山に登りました。モーセはこの山で神様と出会った時から顔が光り輝き、山を降りた時、恐れうろたえた人々のためにベールを顔にかぶったと聖書に書いてあります。 同じように今日のマタイによる福音書の記事にペトロ、ヤコブ、ヨハネは山上でイエス様と一緒にいた時、イエス様の顔が太陽の光りのようになり、着ていたものが真っ白に輝いたと書いています。 ユダヤ人は子どもの時からこのモーセのシナイ山の経験を会堂でのラビの説教の中で何回も、何回も聞いていたはずです。イエスに従ってきた人たちの多くも始めはユダヤ人でしたから、山上でイエス様の顔が太陽のように光り輝いたと聞いたときイエス様の経験をとモーセの経験がなんとなく同じようなものと思ったに違いありません。然しこの二人の顔が輝いた、そこに少し違う輝きさがあるのです。 モーセは神様と共にいることで神様の光りを吸収して光ったのに比べ、イエス様が光り輝いたのはイエス様が神様の栄光を自分のうちにすでに持っていたからです。つまりイエス様は父である神様と一体なのです。イエス様は神様からおくられた者、いやそれ以上にイエス様こそ私たちの救い主であることをこの出来事をこの光り輝くイエス様の姿、叉そこに、旧約聖書のヒーローとも呼ばれるモーセと偉大なるエリヤと呼ばれた預言者と共に現れたことで、イエス様こそ本当の救い主ですとこの福音書を書いたマタイは宣言しているのです。 このように神様自身が私たちの日常の生活の中に現れる、そこに神様の霊を感じるということは多くの人が経験しています。神様の霊を心の中に感じたそのとき神様はここで私達と共に生きている、それ以上に私たち一人ひとりに神様のみ心にかなうことができるよう力と精神を与えてくれるのです。 私たち、日本語の教会は礼拝出席は25人ほど、数からしたら小さい群れです。然し、私たちは、ここに集う一人ひとりを主にあっての兄弟、姉妹として大切に接していく仲間です。そこに今日の変容とは言わないまでも、英語で言うTransfigulation と言う心の動きを私たちは人生の中で感じているのです。 その一つの例は3月2日に神様の元に帰られた静子Genewichさん、 私がここに来るようになって一年半がたちますが、小栗さん、Susie Bacon さん、淀川さん、中内さん, Mark Porterさんと先に此の世から神様の元に戻った信仰の先輩を覚える時、悲しくなるのは人間として当たり前のことですが、それ以上に私たちも心の中で何時かは、私たち一人ひとりも神様の所に帰っていくのだと言う希望を育てているのです。 人生のうち起こる疑問、悲しみからイエス・キリストを信じる信仰によって、いや、イエス様自身が私たちに下さった信仰によって私たちはTransform, Transfigure されつつあるのです。 ですから、信仰を持っている人は幸福です。神様が人生のどんな時でも一緒にいてくださるこことを知っているからです。祈りましょう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace