Tweet あの人は誰だ? ルカ 10: 25-37 主イエスキリストの恵みと平安が、あなたによって集められた会衆の上に豊かに注がれますように! この礼拝堂で福音書を拝読し聞くとき、ひりひりと心が痛むほどに、主に感謝する必要を感じている。 といっても、今という時代を振り返ると不安な事ばかり。政府の一部運営停止、天文学的な数字で増え続けている米国債務、17兆ドル。医療保険制度改革。これら三つだけでも、心配事はもうたくさんと言いたい。まだ私たちのコミュニティに特有の問題や、LCRの中で命に関わる病にかかっている方々の話をするには、いたっていない。 また、教会に勤めるものとして、世の中はますます非宗教的な場となっていて、神もイエス・キリストも、無視しているような社会になってきている。 それにしても、私はなぜひりひりと心が痛むほどに主に感謝する必要を感じているのか? それは、イエス・キリストが語った有名なたとえ話を今一度この礼拝堂で聞くことができるから。 たとえどのような困難で悩める時代にあろうが、神は私たちによく知られたたとえ話を話してくださり、神の愛と慈しみによって、私たちは奇跡的に癒され、困難の中にあっても信仰深い生活を送ることができる。 7月のメッセージで、聖書は二つのものに例えられるという話をした。 一つは窓、もう一つは鏡。その時この礼拝堂にはおられなかった方々もいるので、今一度簡単に説明したい。 聖書を窓として読む時は、数千年前に起こったことを、窓を通して見るようなもの。 しかし、その窓が鏡のようになってくる。 それは、私たち自身が、聖書の中で描かれている様子の中に見えてくる。言い換えると、聖書の中のことが、まるで鏡のように、現実の中に起こっていることを反映しているように見えること。 本日与えられた福音書の中で、イエスは、良きサマリア人のたとえ話を、ある律法の専門家に話している。そのたとえ話には、半殺しになった人、司祭、レビ人、サマリア人、宿屋、そしてロバがでてきている。この話が鏡のように現代を反映してきているように思えないだろうか? その鏡の中で皆さんはどこに映っているだろうか? ルカによれば、イエスは、「隣人を愛さねばならない。」ということはしっかりわきまえていたものの、隣人とはだれかということがあまりよくわかっていない法律の専門家に、このたとえ話をする中で、司祭やレビ人のようにではなく、サマリア人のように行動するように教えているようだ。 しかし、今一度質問したいが、現在この世の中で起っていることを鑑みる中で、皆さんはこのたとえ話という鏡の中で、どこに映ってるだろうか? 私は、みなさんが、法律家や司祭やレビ人のようには思えない。イエス・キリストがあたかも皆さんがサマリア人のように振舞っていないとして非難しているようには全然思えない。むしろ、イエスは皆さんにたいへんな憐れみをいだき、皆さんの心に触れ癒してくださっているように見えてくる。 過去、一、二世紀位を振り返るとき、地球環境にしても世界経済にしても、劇的な変化が起こっていると思う。そのような時代に生まれた私たちは、次々に時代が変わる世の中に生きるしかなく、本当に多くの人々が次は何か次は何かと疲れきっているようにもみえる。 ある意味、聖書の鏡の中で、私たちが強盗に会い、滅多打ちにされて、あたかも半殺しにあってしまった人のように思える。そのような状況の中で、サマリア人のような人が顕われあなたに寄り添ってくれる。 サマリア人はユダヤ人から嫌われて排除される境遇にあったが、このたとえ話に出ているサマリア人は、半殺しにあってしまった人を憐れみ、心配し、そして宿屋に運ぶ。 同じように、現代のそのサマリア人は、非宗教的な世の中にあって社会からは無視されてしまっているようだが、そのお方は私たち一人一人を憐れみ、愛してくださり、そして一人一人をこの礼拝堂へと運んでくださってきている。 いったいそのお方はだれだろう? この聖書の鏡に映っているそのお方は誰だろう? そのお方は猛烈にこの世を愛し、そして一人一人を聖なる場、聖霊の満つる宿に連れて来てくださる。 お一人お一人、自分で車を運転してあるいは自転車に乗って、あるいは歩いてこの礼拝堂に来られたと思う。 しかし、いったい誰が、その車や自転車を提供してくださったのだろうか。 あるいは、車のガソリンは誰が提供してくれているのか。あるいは自転車や歩いて来た方でも、いったい誰がそのエネルギーを下さったのだろうか?私たちは、いったいどなたに感謝を捧げるべきだろうか? すべてを創り、提供してくださっている方がいる。 物理的なことばかりでなく、もっとも重要なこととして、霊的で聖なるお方が、私たちをたとえ半殺しにあっているような日々の生活の中でも、前へ進むことを可能にしてくださっている。 神の子、イエス・キリストは、2000年前にこの世に来られ、ユダヤ教の指導者、ローマの政治家、さらにユダヤ人も異邦人も、皆いっしょになって、イエスを十字架に架けて殺してしまった。 イエスに従っていた弟子たちはなんら反対できず、その場から逃げ出してしまっていた。 にもかかわらず、神はイエスを三日後には復活させ、なんら人々を非難することなく赦し、そして、キリストにある平和をくださっている。今の世の中においても、我慢強く、神なるイエスが、実は私たちに神の平和をくださり、神の言葉を下さり、そして、イエスの体と血によって永遠の命を与えてくださっている。 地球環境も世界経済も急激に変化していて、近代世界はあたかも袋小路のようにも見える。 そのような困難に直面している世の中にあっても、イエス・キリストが、その子供である私たちをお世話くださり、奇跡のストリーやたとえ話、生きた御言葉を語ってくださり、 私たちに復活かつ永遠の命を与えてくださっている。 私たちの主イエス・キリストを賛美し、そのイエスに永遠の感謝を捧げよう。 アーメン Who is That Guy? Luke 10: 25-37 May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! Listening to the Gospel in this sanctuary, I feel that we are in sore need of thanksgiving. However, when we look around the world, there are plenty of things that are worrisome. The government shutdown, the astronomical sum of US debt, upwards of 17 trillion dollars, and steadily growing, which may lead the world into financial crisis, as well as the continued debate over the Affordable Healthcare Act are just three (of many) things that cause Americans concern. And we haven’t even talked about the challenges in your particular community or the many families of our congregation. As staff working for the Christian church, the world is becoming more and more secular, putting God, and Jesus Christ, aside. Why do I say that we are in sore need of thanksgiving? That is because this month we are listening to famous stories of miracles and parables that Jesus shared with people. Even in the midst of a challenging and worrisome world, God gives us these familiar instructive stories, and through God’s love and grace, we are miraculously healed and we’re able to continue living faithful lives despite challenges in this world. When I preached in July, some of you might remember, I talked about two metaphors regarding the Bible. One was “Bible as a…
Tweet LCR日本語部週報通算#1277号(日本語) 2013年10月13日の週報 LCR日本語部週報通算#277E号 (英語) Sunday English Bulletin 1277E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週読む詩編は111編。 いつものように、3回読んで、気になった言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? そのような質問に思いを巡らせてみてはどうだろうか。 詩編 / 111編 1:ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。 2:主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。 3:主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。 4:主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み 5:主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め 6:御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。 7:御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実 8:世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。 9:主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。 10:主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。 皆さんは、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことをシェアしたい。 気になる言葉は何だったか? 詩編111編と112編の構成 特定の言葉ではないが、私は構成が気になっている。111編の次の詩編112編を8月29日に読んだが、その詩編との構成が実に似ている。 112編を読んだ時にも気になったが、その時はあえて書かなかったので、今回書いておきたい。 111編と112編の二編で一組を成すような詩編だと思う。どちらも最初の「ハレルヤ」という「主を賛美せよ」という意味の言葉で始まっている。 112編では、1節で「いかに幸いなことか」という言葉で始まって、112編全体は人が幸せな理由は何かが書かれ、全体的には「人間」が動詞の主語になる詩になっている。 111編では、1節で詩編作者が「主に感謝」をささげると同時に、人々の群れのなかで、会衆とともに感謝をするという言葉が述べられたあと、主に感謝をささげる理由は何か、つまり主なる神が何をしてくださっているかという内容になって来て、全体的には、「主」が動詞の主語になる詩になっている。詩編には、このように、構成面でよく考慮されたものがあり、ヘブル語の言葉の遊びのような詩では日本語では楽しめないが、111編と112編のような構成を楽しむことは、日本語に訳されたものでも可能である。 自分に何を語りかけられたか? 「主を畏れるしかない」 112編を読んだときに、「主を畏れる人が幸せ」という事を書いたが、「主を畏れる」というテーマは、111編から続いており、また、聖書全体のなかでも、とても大切なテーマ。 箴言1章7節に「主を畏れることが知恵の初め」という言葉があったが、今日の詩編111編の10節にも同じことが詠われていて、人間の教育の点でも実は基本中の基本なのだと思う。 そして、「主を畏れる」と言う時の「畏れる」という動詞の主語は、人間だが、よくよく考えると、主なる神が人間を「主を畏れる」しかないように導いてくださっている。 つまり、いくら人間が畏れるという動詞の主語であっても、もともとは、神が働いて、そのようにしてくださっている面がある。 コミュニティに何を語りかけているか? 神の恵み 「主を畏れるしかない」ように神が導いていると書いたが、そのようになる具体例として、神がいかに驚くべき恵みの御業をわたしたち人間に成し遂げてくださっているかが、今日の詩編の2節から9節に詠われているように思う。よく歌われる讃美歌に「数えてみよう主の恵み」があるが、 つまり、コミュニティ全体で、神の恵みがいかに驚くべきもので豊かに与えられているかに気がつくとき、その神を畏れずにはいられなくなり、そして、一節にあったように、人間全体で感謝を捧げるということが、自然発生的に起こってくるように思う。 東日本大震災で多くの漁村が犠牲になったが、2ヶ月前に日本に行った時にその地域に住んでいる方々の話を聞き、また婦人の友に連載されていた漁村での助け合いの記事を読んだ。魚を獲るにしろ、わかめなど海藻類を育て収穫し販売するにしろ、海にある神の創造の恵みは測り知れない。その海が急変することもある。それは潮の具合により、収穫量が大きく変わったり、今回の津波のような大打撃を被ることもある。漁村の方々の中に、いかに自然を畏れ敬うかが大切といわれる方々が多いということがわかった。 また、それに気がついているからこそ、いろいろなお祭りがあり、それらのお祭りを通して、神に感謝することが多いのかと思う。キリスト教会の礼拝においても、神を賛美し神に感謝するという大きなポイントがある。だから、お祭り的な要素も自然に発生してくる。 安達 均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ルカ 17:5-10 主イエス・キリストの恵みと平安が会衆の上に豊かに注がれますように! 特に私はクリスチャンではありませんとおっしゃる方、たくさんおられる。クリスチャンになるということはどういうことなのか? 私は科学を信じているので、聖書に書いてあることは信じられず、キリスト教も信じられませんと言われる方がいる。そのように考える方は、クリスチャンになるという事は、すべては神が創られたものと片付けてしまい、宇宙学、量子力学、細胞学などの世界も、探求が止まってしまうのではないかと勘違いされている面がある。 宇宙の研究でも、量子力学の研究でも、クリスチャンが多くの研究を行っており、とてつもない大発見をして、理論や定理に気がついている。神を信じて、すべて神にゆだねているのだから、聖書の内容を信じよく読んでいる以外には、何もしていないように思われかねない信仰者が、なぜ、そんなに科学界で大きな貢献をしているのだろうか? ある意味、今日の聖書の箇所を読んでいくと、そのような疑問に答えられる面が出てくるのだと思う。 本日の箇所、使徒たちとイエスキリストとの会話だ。 使徒たちが、イエスに、「私たちの信仰を増してください。」というお願いをしているところから始まっている。その箇所の少し前を読むと、イエスが使徒たちに、なんども赦すように教えている。 使徒たちは、ほとんど永遠に赦すなどということはとてもできない状況にも遭遇したのではないかと思う。それでもイエスが赦しなさいと言うので、使徒たちは、信仰を増すことによって、徹底的に赦せるようになるのではないかと思い、イエスに「私達の信仰を増してください。」とお願いしたように思われる。 「信仰を増してください。」というお願いについて、イエスは信仰の大きさや量を測る話をするのではなく、からし種というもっとも小さい物の一つを引き合いに出す。さらに、もっとも大きいものの一つとして桑の木も用いて話す。 地上に根をはっている大きな桑の木が小さなからしダネのようなものによって海に動かされ根をはるという話をする。 からし種は小さいものの象徴で、それが信仰で、桑の木が地上から海の中に動いていってしまうことは大きなものの象徴であり、それは人間が考えられる事や行いをはるかに超えている話。 それにしてもイエスはどうしてこんな話をしているのだろうか? キリスト教の信仰者になる、あるいは洗礼を受けるということは、ルーテル教会では、牧師が十戒、信仰告白、主の祈り、罪の告白、洗礼と聖餐について学び、洗礼を受けるように進めている。 しかし、だからといって試験をするわけでもなく、また作文を書いて、神について、このように知的に考えているから、あなたはクリスチャンです、と牧師が洗礼をほどこすわけではない。 信仰者になるという事は、自然とか宇宙の存在と、聖書に書かれた神の存在を、きっぱりと分けて考えるような考え方の問題ではなく、むしろ、どのようなことに出くわそうが神なるイエス・キリストを信じ、完全に主にゆだねて生きるという、生き方の問題。 神なるイエス・キリスト、聖霊でもあるキリストを信頼して生きるということは、実体のないものが最初に天と地を創造され、植物や動物もすべてを創造したということ信じることであり、21世紀に信仰者になるということはいってみれば、実体のないものに賭けて生きていくギャンブルのようなものかもしれない。 信仰に生きるということは、主がすべて司ってくださるという点において、私は理知的に考えられるような存在ではないし、いつも正しく考えて正しい行動をす人間でもなく、よく過ちをおかしてしまう人間であることを認めて生きること。 そのような欠点や過ちにも関わらず、イエスキリストの御心により、私たちの人生は大きく改善していく面がある。 それゆえ、キリスト信仰者は、神に仕え、あくまで謙虚に神からいただいた才能や恵みを、神の栄光を顕すために用いる。 そして、それはまた、私達が生きる世界についての理解をも深めることになっていく。 クリスチャンの謙虚な生き様のなかに、父なる神が働いてくださり、主イエスが入ってこられ、主は洗礼と聖餐、さらに、神の御言葉も伴って、クリスチャンを義なるもの、聖なるものとさえしてくださる。 その結果、神は信仰者たちに偉大な行動をとるように、偉大なことに気がつくようにと導かれる。 それは、神が赦してくださるということと人々を赦すということも偉大なことだが、多くの困難の中、不幸の中におられる方々に奉仕するように導かれるし、とてつもない複雑な現象に気がつくようにも導かれることもある。 たとえば、コペルニクスは15世紀まで信じられていた天動説ではなく地動説を説いたことで有名だが、彼はローマカトリック教会での重職を担っていた信仰者だった。私は、信仰に生きるなかで、神がコペルニクスにとても重要な概念である地動説を導いたと思う。 イエスの信仰のゆえに、つまり神にゆだねる生き方をする中で、主なる神がクリスチャンの中に働いてくださり、たいへんな事に気がついたり、あるいは、世の偉業を成し遂げるということが起こる、それはあたかもほんの小さなからしダネが、大きな桑の木を動かしてしまうイメージだ。 しかし、どのような偉業を成し遂げても、「主なる神が働いてくださって、私はしなければならないことをしただけです。」というイエスの言葉にあったへりくだった言葉を述べるようになるのではないだろうか。 キリスト教の信仰は、科学的な探求とか発見と排他的な関係にあるものではない。私は、神が私たちに科学的な解明する力をも与えてくださっていることに感謝すべきだと思う。 神が私達に与えてくださっている信仰にも科学にも感謝し、主なるイエスキリストを賛美したい。アーメン。 Not “Why?” but “How?” Luke 17:5-10 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the people gathered here! There are many Japanese people who say “I am not a Christian.” However, what do you mean “Christian”? Sometimes, we hear, “Since I believe in science, that is why I do not believe the Bible and I’m not a Christian.” People who think that way might have a perception that if you become Christian, you’re supposed to believe that “everything is created by God and you automatically ignore or disbelieve scientific discoveries like quantum theory, astrophysics, and cellular research. However, in the world there are many scientists who are Christians and they have made important discoveries and proven many scientific principles. Christians have entrusted everything to God…and for non-believers, it seems like Christians do nothing other than just believe in the Bible and disbelieve modern science. If this were the case, why have Christians made significant contributions to science? In a sense, I believe that the Gospel scripture today answers that question, although it may be difficult for many of us to reconcile. The scripture today is the conversation between Jesus and his apostles. The apostles asked Jesus to, “Increase our faith.” A paragraph before today’s text, Jesus guided them to forgive and forgive and forgive…that is a difficult thing to do in most cases. “Therefore, the apostles recognized that following Jesus was difficult…
Tweet LCR日本語部週報:通算#1276号(日本語)2013年10月6日の週報 LCR日本語部週報:通算#1276E号(英語)Sunday English Bulletin 1276E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
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