Tweet アメリカ福音ルーテル教会のパシフィカ教区内では10以上の原語で伝道が行なわれている。アメリカ合衆国には、いわゆる出稼ぎに来た、そしてそのままいることになった方々、普段の経済的生活は苦しいという方々にとって、英語ではない自国の原語で伝道が行なわれていることは、ニーズも高く人々が集まる。しかし、何世代か前からアメリカ合衆国に移民してきた家系あるいは移民一世でも、経済的には困ることはないと思われている方々には、はっきりいってキリスト教は必要ではないと思う方々が多くなってくる。そんなことを思いつつ、今日読む詩編は115編。詩編を読もうでは初めてとりあげる。気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの復活節にあって現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編115編 1:わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。 2:なぜ国々は言うのか/「彼らの神はどこにいる」と。 3:わたしたちの神は天にいまし/御旨のままにすべてを行われる。 4:国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。 5:口があっても話せず/目があっても見えない。 6:耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。 7:手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。 8:偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。 9:イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。 10:アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。 11:主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。 12:主よ、わたしたちを御心に留め/祝福してください。イスラエルの家を祝福し/アロンの家を祝福してください。 13:主を畏れる人を祝福し/大きな人も小さな人も祝福してください。 14:主があなたたちの数を増してくださるように/あなたたちの数を、そして子らの数を。 15:天地の造り主、主が/あなたたちを祝福してくださるように。 16:天は主のもの、地は人への賜物。 17:主を賛美するのは死者ではない/沈黙の国へ去った人々ではない。 18:わたしたちこそ、主をたたえよう/今も、そしてとこしえに。ハレルヤ。 気になる言葉、2節にある「彼らの神はどこにいる。」という人々の言葉。 詩編作者の立場を想像しながら、115編を振り返りたい。全部で18節と長いので、4つの部分に分けてまとめてみる。1-2節は、わたしたちの栄光ではなく天にいる主の栄えが輝くようにという祈りではじまり、諸国の民はわたしたちの主の存在が見えないから「彼らの神はどこにいるのか」と非難する。3—8節では、わたしたちの神は天におられ、主の思いのまま、すべてが行なわれている。諸国の民が崇拝している偶像は、なにもすることができない。 9-16節では、ユダヤの民の中でも、偶像に頼ってしまったもの、主に頼ることができない者もいたが、助け、岩となってくださる主を皆が頼るように。頼れずにいるユダヤの民を祝福してください。天地の創り主で、天におられる主によって、地上にいるすべての民を増やし、祝福してください。天は主の領域で地は民に与えられた賜物。17-18節で、主を賛美することは決して虚しいものではない。わたしたちこそ主を永遠に賛美しよう。18節の「わたしたちこそ」と書いた「わたしたち」には、ユダヤの中で主を崇拝してきた者だけではなく、ユダヤの中で偶像礼拝をしてしまっている者、あるいは諸国の民で偶像礼拝している者にも、主の御心により、皆が心をあわせて主を賛美するようにという思いがあるようだ。 主なる神が、詩編115編を通して21世紀に生きるわたしたちに語りかけてくることは何なのか、思いを巡らせたい。 現代、発展途上国においてキリスト教もたいへんな勢いで伸びているし、また、イスラム教はもっとその勢いは強いのかもしれない。経済的な困窮におかれている者の方が絶対なる神、宗教へのニーズが高まってしまうという現象はおこるのだろう。しかし、その逆は、経済的に豊かな状態になると、概ね、宗教へのニーズは下がってくるというのが社会現象なのかと思う。 この詩編115編の、偶像に頼る諸国の民、あるいはユダヤの民の中でも主に頼れなかった者も含め、彼等は、現代でいう裕福な人々でその中でも「わたしには宗教はいりません。」あるいは「これまでとくに困ったことはないので、救い主は必要としていません。」といっておられる方々に思えてくる。 実は、主なる神は、そのような方々に語りかけているような気がしてならない。偶像というのは、現代でいえば、お金やその数字が示している大きさに頼ってしまっていることではないだろうか。いくら順調な生活を送っていても、実は主なるお方がいなければ、その主なるお方が私たちの自分勝手な思いを赦してくださっていなければ、私たち(信仰者もそうでない方々も)の命はありえない。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ 15:9-17 主の恵みと平安が豊かに注がれますように! 2011年に日本で大人気番組となった「まるものおきて」というドラマがある。アメリカでもここ数ヶ月にわたって放送されていた。 若い夫婦に、男女の双子が生まれるが、あまりの育児のたいへんさに、母親は精神が病み、育児ができなくなってしまう。父親はシングルファーザーとして、双子を育て始めるが、がんになり、急逝してしまう。 父親の学生野球部時代の親友、護がシングルファーザーとなることを決意し、双子を引き取る。もちろん、たいへんなことだった。護は、血のつながっていない子供たちに、俺たちは家族だと説き、子供たちは、なぜか護を「まるも」と呼ぶようになる。 毎回のドラマでは、護が二人の子供との間で「まるもの掟ノート」を作り、多難な中にも、喜びあふれる家族生活が描かれる。毎週のドラマの中で、掟が一つづつ、綴られる。ある回では護と娘の関係が悪くなり、話もしなくなってしまうようなことが起こる。しかし、護は、「好きでも嫌いでも家族」という掟を作る。 さて、まるもの掟の話は、今日の説教の最後にまた話すとして、与えられた福音書、イエスの掟の話に入る。イエスは、「互いに愛し合いなさい。これは私の掟」と今日の福音書箇所の中盤で述べ、最後は「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」と言う。 命令とまで言われてしまうと、「愛する」ということは、命令されて、「愛する」ことなのだろうか? と疑問を持つこともいるかもしれない。あるいは、「互いに愛するように」ということは、相手も自分を愛するし、自分も相手を愛すること。となると、相手が愛してくれているかどうかわからない、いやむしろ私のことを嫌っているのに、「互いに」と言われても、困りますという方もいるのではないだろうか? このように考えると、イエスの言われた掟や命令は、すんなり受け取ることができずに、むしろ質問をしたくなるという方が居ると思う。これらの質問を考えるにあたって、与えられた福音書箇所の中では、イエスが「わたしがあなたがたを愛してきたように」という言葉を繰り返し述べた上で、この「互いに愛し合いなさい」という掟を述べられていることに注目したい。 イエスが弟子たちを愛する愛し方はすごいのだ。今日の福音書箇所は、明日十字架にかかるという前の晩、つまり聖木曜日に語った言葉。そして、その後には、一人の弟子たちからは裏切られ、ほかの弟子たちからも見放されて十字架にて死に葬られる。 しかし、父なる神は、徹底的に愛する子イエスを墓からよみがえらせ、子イエスは、そんなにひどいことがあったのに、友なる弟子たちの前に現われ、いっさい咎めることなく、「あなたがたに平和があるように」といって、弟子たちを赦される。 この十字架の死と復活を通して示されたイエスの弟子たちへの愛は、たとえ弟子たちが、人間としては欠けることの多い者たちであろうが、無条件に愛してくださる本当に慈しみ深い愛だ。その愛が示されたことは、互いに愛し合いなさいとは、命令というより、キリスト者同志がおのずと互いに愛さざるを得なくなるような、不思議な働きかけに思えてくる。 また、キリスト者同志が互いに愛し合うように導かれているのはもちろんだが、キリスト者を嫌う方、避ける方、無関心な方、あるいは極端な話、非難し攻撃する方もいるのが現実だ。イエスはヨハネ福音書の13章の中でも、「互いに愛し合いなさい。」ということを述べているが、その35節では、「互いに愛し合うならば、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」という言葉があった。 そこには、互いに愛しあうキリスト者の存在が、最初は12人しかいなかった弟子たちが、全人類に対して、「互いに愛し合う」存在になっていく働きかけがあるように思う。 それは、わたしたちの力ではない、わたしたちの想像もつかないような、聖霊の働きかけが、ただよっているように思う。 今日のポイントは、まず、神が、そして子なるイエスが、弟子失格とも思われてもしかたがないような弟子たちをも、愛してくださっていることをわかること。 そして、その愛が、現代のキリスト者にも、脈々とつながっていることを感じることが大切なのだと思う。 そして、互いに愛し合うという行為は、キリスト者同志という枠を超えて、互いに欠けの多い家族の間でも、また、いがみ合ってしまうことの多い国々や人種や文化を超えて、互いに愛し合うということに導いているのではないだろうか。 「まもるの掟」に出てきた、護が書いた「好きでも嫌いでも家族」という掟、たしかにそうなのだと思う。 それは、まもると双子の子供たちの家族という単位で、その掟はかかれたが、実はもっともっと大きな、神が創造された地球という単位で、そこに存在する自然、資源、食料を共有する地球単位の家族の意味にもとらえることができる。 今日は母の日で、最初スーッと通りすぎてしまったが、まるもの掟のドラマでは、双子を生んだが子育てができなくなってしまった母親がドラマには登場していた。 私は、母の日を迎えるたびに、どうしても、このドラマにちょっとだけ登場するような子どもを生んだが、子育てができない。 あるいは、子供が欲しくても、さまざまな事情で生むことができていない女性のことも覚える。 どんな境遇にあろうが、そのまっただなかに、イエスがおられ、よりそってくださっている、そして、イエスが愛してくださっている。今日の母の日は、決して子供のいる母ばかりではなく、全女性に対する神からの愛・赦しがあり、また互いに愛するようにという励ましがある。 ちなみに教会で花を用意させていただいた。赤いチューリップの花言葉は、愛の告白であり真理の愛、またトルコキキョウは、優美、希望、感謝などがあるという。赤いチューリップと紫トルコキキョウを受け取っていただき、赤は、主イエスから私たち人間への熱烈な無条件の愛を覚え、紫のトルコキキョウからは、人々からの感謝・愛が注がれていることをしっかり覚えていただければ思う。 アーメン 安達均 “We Are Family Together Whether You Like It or Not” John 15:9-17 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into your hearts! There is a Japanese TV drama called “Marumo No Okite” meaning “Marumo’s Law” which became very popular in 2011. Since this was broadcast in the US recently, you might have seen it. Twin babies were born to a young couple. However, the mother became emotionally unstable and could not continue raising the babies and left the family. Her spouse became a single father and tried very hard to raise the children, but, he was diagnosed with terminal cancer and suddenly passed away. Then his best friend and teammate from their college baseball team, “Mamoru” decided to be their adoptive father and gained custody of the twins. Of course this was not an easy thing to do. Mamoru taught them that they are family even though he was not their biological father. The children, Kaoru and Yuki, called Mamoru “Marumo” because they couldn’t pronounce his name. They started their sometimes rocky but ultimately loving, unique family life together. The program was a weekly drama and every week, Mamoru wrote one law in his notebook named “Marumo No Okite.” One of the laws in an episode was “We Are Family Together Whether You Like It or Not.” I will get back to Marumo’s Law at the end of this…
Tweet 礼拝後は安達牧師と男性軍が女性に感謝し、焼きそばの食事会がありました。 2015年5月10日(母の日)LCR日本語部週報通算第1351号 2015年5月10日(復活後第6)の週報 May 10, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1352E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 南カリフォルニアは、先週は暑いと思っていたが、今週は肌寒い日が続いている。青空となる時間も少ない。いろいろ地球の温暖化とか原子力の問題も考え、また電力会社や工事会社の勧めもあった。州や国からの資金援助もあった。創造主から与えられた恵みをいかに大切にする執事として生きるかということに関係してくるのだが、私の家は去年、いろいろな工事をした。贅沢なことはいっさいしておらず、外観はほとんど変わらないが、明らかに変わったのは屋根には小さいがソーラーパネルがついている。そして、毎日、何キロワットの電力が作られたかパソコンでわかるようになっている。 先週は毎日6キロワット台だったが今週は一日も6キロワットには到達せず、おとといは2キロワット台、昨日は3キロワット台となった。 4月5月の南カリフォルニアにしてはめずらしく曇り空が続くなかで今日与えられている詩編は98編。以前にも「詩編を読もう」でとりあげているが、今日また読み、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの復活節にあってひとりひとりに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編98編 1:【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。 2:主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し 3:イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。 4:全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 5:琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。 6:ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 7:とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。 8:潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え 9:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。 98編を読み返して、気になる言葉やインパクトのあった節はどこだろう? 私の場合は、一節の言葉。 紀元前数百年前のユダヤ教の詩編作者の気持ちになって、この詩編を読み返し、どういうことを歌っているのか、考えてみたい。 新しい歌を主に向かって歌おう、主は驚くべきことをなされた、聖なる御腕によって救いの業を果たされた(1節)。 主は救い・恵みをユダヤの民ばかりではなく諸国の民に示した(2節)。 イスラエルへの慈しみとまことを御心にとめ、地の果てまで、すべての民が主の救いの業を見た(3節)。だから全地よ、喜びの声を上げて、ほめ歌え(4節)。弦楽器に合わせて(5節)。管楽器も響かせて、主の前で喜びの叫びをあげよ(6節)。鳴り響かせよ、海にいるもの、世界に居るものよ(7節)。海の満ち干も、手をうちならせ、山々も共に歌え(8節)。世界を裁くために、民を公平に裁くために、主は来られる(9節)。 紀元前に生きた詩編作者にとって、エジプトに居たイスラエルの民が、エジプトを出国し、イスラエルの地に戻ってこれた話がユダヤ教の中ではとても大切で、それを救いの御業としているのかと私は考えて、この詩編を読み始めた。 しかし、もっともっと、大きなできごとを、詩編作者は神から預かり、この詩編を著したように感じる。 それは、イエスの死と復活を預言していたような詩編にも思われる。 そして、さらに、イエスの再臨をも預言しているような。 さて、この詩編98編は、21世紀にあって、私たちに何を語っているのだろうか? 98編は、「あたらしい歌を歌い主を賛美するように。」ということが結論なのだろうが、なぜ、主を賛美するかということがとても大きなスケールで描かれ、それを現代の私たちに伝えているように感じる。 驚くべき御業というのは、イエスが降誕したこと、そして再臨することも含めて、すべて、創造主なる御方が、してくださってきた恵みをすべて包括して、私たちに気がつくように、そして人類ではなにもコントロールできないような、さまざまな自然現象について、創造主なる御方を覚えて、賛美するようにと導かれているように感じる。 冒頭に、ソーラーパネルのことを書いたが、化石燃料にしても、なんのエネルギーにしろ、すべては神からいただいたもの。 ただ、ソーラーパネルからくる毎日の電力量を知らされることで、そのありがたみが増すような面もある。 今は、旱魃で水不足が深刻化しているが、やはり創造主からの雨の恵みの大切さに気づかされる。 日本では、今は火山の噴火も各地で心配されているが、創造主からの恩恵を受けてきているかを覚える。 だから、主に向かって喜びの声を上げ、賛美礼拝しよう。日曜日には、多くの民が、礼拝の場に集うように祈りつつ。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ15:1-8 主イエスの恵みと平安が人々の心の中に浸みわたりますように! アーメン 先週は「私は良い羊飼いである。」と言われ、わたしたちは羊という、ちょっと羊にされてしまうのはなんだかぴんと来ないというか、羊の習性を考えると、履歴書には「私は羊のような人間です」などとはなかなか書けないような話だ。しかしイエスの言われる通りなのかと思う。 さて今日は、イエスが「わたしはまことのぶどうの木」であると話され、わたしたちイエスの弟子たちを、民をぶどうの枝にたとえられた。いったいこれはどういう意味なのだろうか? このぶどうの枝にたとえられる比喩は、とにかくぶどうの枝を通して栄養が与えられて果実が育つということが鍵だと思う。 イエスはぶどうの木とぶどうの枝のつながっていることの重要性、つまり、イエスとわたしたちの信仰により、つねにつながっている大切さを述べておられることはまちがいないと思う。 この1週間の間、今日の福音書箇所を読み返し、また、牧師仲間とも話し合いの機会を持つなかで、このぶどうにたとえた、イエスからの思いを模索するなかで、「あっ」と気付かされる事がでてきた。 それは、イエスが、自分は羊飼い、門、真理、命のパン、生きた水などと云われた中ではなかなか気がつきにくいことだと思う。 それは、ぶどうの木がぶどうの果実を生むには、ぶどうの枝が必ず必要だということ。 もしぶどうの枝がなかったなら、ぶどうの実はならない。 かといって、ぶどうの枝はぶどうの木につながっており、ぶどうの木の一部であるため、どうしてぶどうの実がなるのだろうかという詳しい仕組みを知る必要はない。 実際は、ぶどうの枝が伸びで花の芽が出て、小さな花のかたまりの房ができて、小さな花びらは落ち、その小さな花の根元だったところがぶどうの実になっていく。 しかし、そのような細かい機序は知らなくたって、ぶどうの木であるイエスからいただく恵みをひたすらぶどうの実に注ぎ続けるのが、ぶどうの枝の役割だ。 そして、ぶどうの木としてはぶどうの枝は絶対に必要なものだ。 このたとえを通して、イエスはいったい私たちに何を語ろうとしているのだろうか? ぶどう畑の農夫である父、ぶどうの木であるイエスにとって、木につながってぶどうの実がやどるところとなるぶどうの枝、つまり私たち、イエスの弟子は、とてつもなく大切なのだ。 もしイエスの弟子たちが存在していなければ、どうやって果実なるこどもたち、また新しい弟子たちは生まれてこない。 そして、弟子たちの成すことは、まことのぶどうの木なるイエスからいただく愛をぶどうの実となる新たな主イエスの子供たちに、ひたすら受け渡すこと。 このように考えると、イエスの愛をこどもたちに示すことはシンプルなことだ。 イエスから受けた恵みと愛をひたすら子供たちに継承すればよい。 イエスの弟子は、所詮、ぶどうの枝であり、あれやこれやとイエスの愛についてこねくりまわすことはない。ひたすら、イエスの愛を受け渡すのだ。 わたしたちは、今週もまだ復活節の中にある。 イエスキリストの復活から受けた、主からの赦しとあわれみを覚え、わたしたちの信仰を新たに生まれかわらせ、私たちの子供の世代へ、また来るべき孫、ひ孫の世代にも、イエスからの恵みを継承しよう。 そのようなイエスの弟子である私たちを、神は必要としておられる。 アーメン 安達均 Why Does It Grow? John 15:1-8 May the Grace and Peace be with you in the name of Jesus Christ! Last week, we heard Jesus say, “I am the Good Shepherd.” In the Gospel of John, there are many other metaphors where Jesus refers to himself as “I am something.” What else you remember besides the Good Shepherd? According to Jesus, he is the Good Shepherd, but we are just sheep. Considering sheep’s characteristics, we would not like to be compared to sheep. In today’s lesson, Jesus described himself, “I am the true vine. And he said [as his followers], “We are branches.” What does this mean? In this metaphor, the branches are the ones that bear fruit, the grapes. The reason why the grapevine may bear grapes is because branches carry nutritious ingredients to the vine flowers that become grapes. In this metaphor there is no doubt that Jesus wanted to teach us the importance of connectedness between the grapevine and its branches. Said another way, faith nourishes each branch. Without God’s miraculous nutrients to each branch, there wouldn’t be grapes on each branch. During this past week, I read the text again and again. I found that there is a very important aspect in the grapevine metaphor that is a bit different from other metaphors, such as the good shepherd, the bread of life, the gate, the resurrection, the way, the truth, and the life. In…
Tweet 2015年5月3日LCR日本語部週報通算第1350号 2015年5月3日(復活後第5主日子供祝福式)の週報-2 May 3, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1350E-2 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace