1月29日の主日説教はBrad Stienstra  牧師でした。日本語訳をお読みください。

1-29-2017 顕現節第五主日説教

January 25th, 2017

2017年1月25日 聖書観想

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あっという間に一月も終盤に入ってきている。 先週は新大統領も就任し、いろいろな心中おだやかではなく、不安を覚える人々も多いのかと思う。 御言葉を読み、思いを巡らすなかで、心に平安を覚えることができますように!

1月22日(日)マタイ4:12-23
アンデレ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネがいとも簡単にイエスに従っている様子。まだまだキリスト教がマイノリティである現代の日本人社会では、キリスト教の信者になるかどうかは、最初の4人の弟子のように簡単に決断できるものではないと思う。 しかし、当時のユダヤの社会状況は、あまりにも外国勢力、ローマ帝国からの圧迫がひどく、だれもがその日暮らしのような社会にあって、彼等が漁師という職業をやめてイエスに従う決心がついたのもわかる気がする。 さて、エネルギーにしてもさまざまな生活必需品にしても日本社会は世界貿易の故に成り立っているということは小学校時代から学んだ。しかし、その自由貿易主義の潮流が変わりつつありそうな状況で、一人一人の日本人、またどこの国・文化に生きる人であっても、何をよりどころに生きるかが一大事になってきているように感じる。

1月24日(火)フィリピ2:12-18
パウロの獄中書簡と言われるものの一つがフィリピの信徒への手紙。 この短い聖書箇所を読んでどんな気持ちになるだろうか? キリスト教への迫害はますます強まり、「よこしまな曲がった時代の中で」と表現されるような時代で、パウロ自身はたとえ獄中にいても、「わたしといっしょに喜びなさい」と結んでいるこの段落の言葉は、読んだ者に平安・希望、そしてまさに喜びをもたらしたように想像する。その同じ言葉が、現代の世界情勢を考えても、またさまざまな個人的な家族事情の変化や混乱の中でも、それぞれの場で、恵み深き主の愛が注がれる実感を覚えることができるのではないだろうか。

1月29日(日)マタイ5:1-12
イエスの「山上の垂訓」と呼ばれる箇所。 英語では、Beatitude とも言われ、「幸い」とは何かということについて考えさせる。 当時、旧約聖書の詩編などの教えが浸透していたユダヤ人社会にあって、詩編一編などからも想像できる「律法を守るものが幸い」ととらえられていた。 イエスの「霊的に貧しいものが幸い」という言葉は、一見、正反対のようで、あまりにも予想を反する言葉で、大笑いして噴き出しそうな言葉ではなかったかと思う。 さまざまな困難に直面している者も幸いなのだと説く、教えを通して、現代の私たちにも、神の御心が迫ってくる。

1月28日(土)ミカ3:1-4
週後半の旧約聖書は申命記から二箇所とミカから一箇所。 申命記というとやはり律法の大切さが述べられていることが多い。 そしてミカでは善悪という表現が出てくる。 社会の指導者たちが、善を憎み、悪を愛するものになってくることを預言している。 数百年後にイスラエルを統治する指導者たちを語っていたかのように思える。 4節はそれに主は答えず、指導者たちの悪ゆえに、御顔を隠すという。 悪、よこしまな世界の中で、主イエスが無抵抗のまま、十字架に架かられることとも関係しているのか? 

January 19th, 2017

2017年1月18日 聖書観想

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ここのところ、南カリフォルニアは恵みの雨ではありますが、どうぞ運転にはくれぐれもお気をつけて。 

以下、聖書観想、配布している聖書日課に沿って御言葉を聞き、また礼拝をふり返り、次週の礼拝に備えるためにもお役立てください。 

1月15日(日)ヨハネ1:29-42
ヨヘネの弟子だったアンデレはすぐにイエスについて行った。さらに初対面のイエスの滞在先に、いっしょに泊まる。 そして、翌日には、ペトロに「メシアに会った」とまで言うことができてしまう。 ヨハネから「世の罪をとりのぞく神の小羊」と聞いて起こした行動とはいえ、アンデレ(ともう一人の弟子)の反応には少々極端(決して過激という意味ではなく)な面があるように思うがどうだろうか。人の行動を極端にまで変えてしまうイエスの力が見える。その力が、現代に生きる人々にも働いていることを覚える。

1月16日(月)使徒言行録8:26-40
旧約聖書イザヤ書を読んでいた、異邦の国、エジプトの女王に仕える宦官。イエスの弟子フィリポの手引きを受け、イザヤが何の抵抗もなく屠られていく羊は、イエスのことだったことがわかる。その途端に、宦官は洗礼を受ける(これも極端といえるかも)ことになる。 この話しは、ヨハネがなぜイエスを神の子羊と呼んだかということと結びついている。さらにいうならば、新約聖書に書かれていることは、旧約にことごとく関係している。

1月22日(日)マタイ4:12-23
15日のヨハネが伝えた最初の弟子たちの話しを、マタイはやや異なった話として伝えている。ヨハネ福音書ではアンデレともう一人の名前があきらかにされていない弟子が二人でイエスに従ったが、マタイでは、名前のあきらかにされていない弟子は登場していない。 アンデレとペトロが同時に、しかも、すぐにイエスに従っている。 また同じように、ヤコブとヨハネ兄弟もすぐにイエスに従っている。 ここでも極端な行動に出てしまう弟子たちの姿があり、イエスの神の力が大きく関与しているのだろう。

1月21日(土)サムエル上15:34-16:13
週の後半の旧約聖書は、サムエル記の上から。 士師がリーダとなってイスラエルに仕えた時代から、王が指揮をとる時代に移行して行く。最後の士師はサムエル、最初の王はサウルが任命されるが、好ましくなく、神の霊は激しくダビデに注がれることになる(16章13節)。 その様子は、イエスが洗礼を受けたときの状況にも重なってくる面がある。 またイエスの12弟子たちにも、聖霊が激しく働き、さらに、同じ聖霊の力は、現代のキリストに仕えるものにも、激しく働いていることは、事実なのだと思う。

聖霊の働きが、復活ルーテルの上にも、また、復活ルーテルに集う一人一人の家族、親戚の上に豊かに注がれますように!

恵みと平安
安達均

January 12th, 2017

2017年1月11日聖書観想

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日曜日からはじまった週の前半をふり返り、来週の日曜日の礼拝に向けて、身も心も整えられますように!

1月8日(日) マタイ3:13-17
マタイ福音書に描写されたイエスの洗礼の様子を今一度、読んでいかがだろうか? 引き続き、神の御心により、洗礼を受けられる方々の準備が整うように祈る。 マタイが伝えているイエスの洗礼では、天が開けて、神の霊がはとのように自分に降ってくるのを見たのは、イエスご自身である。 霊の降臨を洗礼のときに、イエスはご覧になれる。 洗礼の秘儀を感じる。 洗礼の場に立ち会うものは、それを信仰をもって見守る。 

1月9日(月)使徒10:44-48
イエスの復活、昇天、そして聖霊降臨後、弟子たちの伝道活動がはじまった。その活動の多くが、使徒原稿禄に記されている。 まだまだ、ユダヤ人の異邦人に対する差別意識が強かったことが想像できる。 しかし、主は分け隔てをされず、聖霊がユダヤ人異邦人に関係なく、注がれることがわかっていくようになる。 神が分け隔てをされない、そしてそれに従うように導いておられることは、現代においても進行中のことなのだと思う。 

1月15日(日)ヨハネ1:29-42
12弟子の中で、ペトロの兄弟であるアンデレと名前が明らかにされていないもう一人の弟子の二人が最初にイエスに従った。アンデレは翌日兄弟であるペトロをイエスに紹介し、イエスの弟子になっている。 アンデレとペトロが兄弟であることは明確だが、いったいどちらが兄でどちらが弟であるかは、明確ではない。 あと、名前が明らかにされていない弟子が、アンデレとともに、最初にイエスに従っていることも興味深い。

1月13日(金)創世記27:30-38
兄弟といえば、ユダヤ人先祖のイサクの息子たち、双子のエサウとヤコブだったが、旧約聖書ではエサウが兄でヤコブが弟であることは明確。またさらに、弟のヤコブが嘘をついてまで、年老いて目のよく見えない父をだましてエサウになりかわり、長子の権利をうばう。歴史上最初のオレオレ詐欺とも言われる。。。与えられた聖書箇所は、だまされたことに気づき体を震わせる父イサクと悲痛な叫びあげて泣く長子エサウの様子。

恵みと平安
安達均

謹賀新年 

今年からは、聖書日課が皆様に少しでも意味深いものになりますよう、聖書観想と題して、週半ばに以下のような、聖書を読んで思い巡らしたことを載せます。 週のはじめに与えられた福音書をふりかえり、また翌週の聖日の福音書に、そしてさらに礼拝へと思いを寄せる機会になりますように。

安達均

1月1日(日) マタイ2:13-23
降誕節(12月25日から1月6日の顕現日まで)に、今一度、イエスがイスラエルとエジプトを往復したときのイエスの様子を読んでいかがだろうか。 紀元前17世紀ごろにイスラエルの民がエジプトに行き、13世紀ごろにエジプトから戻ってきたことを思い浮かべる。 また現代は国を特定しにくいが、主に中東の難民がヨーロッパに、また世界中で人類の大移動がコンスタントに起こっているといえる。 その困難な移動のまっただなかに、愛と慈しみを持って、「創造主を愛し、そして互いに愛し合いなさい」と大合唱している天使たちの存在が見えるような気がする。 

1月3日(火)ヘブライ11:13-22
聖書日課ではヘブライ人への手紙11章を月曜から木曜にかけて読むことになっているが、「信仰によって」という言葉が繰り返され、旧約聖書に登場した主要人物をふり返っている。 13-14節あたりは、信仰ということと、自分の本当の故郷ということを考えさせる。私は12月中に3回のお葬式があり、二人は66歳と56歳というまだ現役牧師だった。もう一人は、とくに洗礼をうけられなかった方だったが、奥様は熱心な信仰者だった。私は、その方が61歳で亡くなる約12時間前にお会いして、お祈りするなかで、言葉にはならなかったが彼の様子に信仰を見たように感じている。そして、慈しみ深い愛なる神に招かれ、みな同じ真の故郷に3人とも召されたと信じている。

1月8日(日) マタイ3:13-17
6日の顕現日をもって降誕節は終わり、レントがはじまるまで(今年は2月の終わりまで)は顕現後の時節となる。 その顕現後の第一の主日は、主の洗礼日と言われ、イエスの洗礼の様子。 今年はマタイ福音書から拝読。 今年はじめて気がついたが、日本語で15節の「止めないで欲しい」と言われるイエスの言葉、NRSVという英語訳を見ると”Let it be so now”となっていた。 ギリシャ語を読んでも、”Let it be”がピンとくる。「そのままにしてください。」に近い言葉だ。 いま3人の方々が洗礼を受けられそうな状況が生まれつつある。 聖霊の吹くままに、洗礼が実現しますように!

1月6 日(金)イザヤ60:1-6
顕現日に与えられる旧約聖書箇所を読み、思いを巡らせたい。 6節に出てくるシェバとは、シェバの女王を思い出すかもしてないが、イスラエルからしてみれば、異邦の国。そこからイエスにきらびやかなギフトを持ってくる博士たちを思い出させる。 1節の「起きよ。光を放て。」には元気づけられる。イエス様自身が光であり、また私たちに対しても、「あなたがたは世の光」とおっしゃってくださったことと重なってくる。 イエスの信仰ゆえに、わたしたちの間に宿られるイエスから照らされる光を、ただそのまま反射するだけで良い。いや、自分で反射しようとしなくても、わたしたちの中に宿ってくださるイエスが輝いてくださる。 

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