2月1日は、日本語部のメンバーはそれぞれ英語の礼拝に出られ豊かな礼拝の時が与えられたことを祈ります。 以下、先週の日曜、1月25日に姉妹教会である大江教会でのメッセージの内容です。 主の平安を祈りつつ。 安達 均

マルコ1:14-20

主イエスの恵みと平安が、主の呼びかけに応じて集まった一人一人の心の中に豊かに注がれますように!

現在はアメリカ福音ルーテル教会パシフィカ教区にある復活ルーテル教会から招聘を受けている僕(しもべ)が、本日、熊本県にある日本福音ルーテル教会九州教区の大江教会の礼拝に招かれ、主の御言葉を取り次ぐ奉仕の任に預かり、感謝するとともに、パシフィカ教区のビショップ フィンクおよび、サウスカロライナ教区のビショップ ヨースも、今回の訪問を覚え祈っていることを報告したい。
私は、熊本に来るのは今回で二回目のこと。一回目は1991年夏、普賢岳の噴火の被害がまだ生々しい頃、当時勤めていた、日本光電という会社のエンジニアとして、開発し発売したばかりの心臓カテーテル検査装置の納品説明。ちなみに天草半島の先端近くだったと思う。さらに熊本市内にある二つの病院への販売促進応援だったと思う。
「思う」というのは、仕事でどこの病院に行ったかという記憶はあいまいで、実はもっと忘れられない事件が起こった。羽田空港発、朝一番の熊本行きのANAに乗って来たが、私は窓際から二番目の席に座っていて、窓側には、32才だった私と同世代かやや年上と思われる女性が座っていた。月並みの挨拶をした後、世間話がはじまったが、私の悪い癖というか、ついついキリスト教会の話をしていた。彼女は熊本の方だったが、東京までわざわざいったのは、幸福の科学を信じており、大川隆法さんの講演を聴きに言ったという話をしてくださった。
熊本空港着陸間際に、突然彼女が、私の左手をぎゅっと握ってこられた。当時二人の子供がいて、私の妻は三人目を妊娠中だった私にとって、ちょっとまずい。しかし、もちろん彼女が突然、私の手を握ったのには理由があって、近づきつつあった台風のため、飛行機が大揺れに揺れ、飛行機が何十メーターか突然落とされるように揺れて、怖くなったから手を掴んだということだとわかった。彼女は、すぐに「あっ、ごめんなさい、」と言い、私の手をぱっと放した。その後、飛行機はすぐに着陸し、もちろんそれっきりであるが、彼女にキリストの愛が働いていることを祈っている。  

さて、福音書はマルコ1章14節から20節。たった7節だけの箇所だが、大切なことが凝縮している。イエスの宣教の前触れとして、「悔い改めよ」といって登場した、ヨハネは、イエスの宣教がはじまるときには、逮捕されてしまい牢獄にいれられた。しかし、今度はイエスが、ヨハネと同じように、「悔い改めよ」といって宣教をはじめており、あらためて、「悔い改め」の大切さを覚える。 
そして、宣教には、弟子造りが、とても大切で、宣教開始と同時に、イエスは今日の場面でいっきに四人の漁師を弟子にしている。なぜ、漁師なのか。当時、ガリラヤ湖の漁の技術がどんどんあがって、一人の漁師あたり捕獲できる魚の漁が増えすぎて、漁師の数が減ったほうがよかったのか、ということもあったのかもしれない。
ちなみに、私はそもそも大学は電気工学科だったが、電子回路のことを学んで、ハードウェアのエンジニアの卵となった。日本光電という会社に就職して、電子医療機器設計のハードウェアエンジニアとして就職した。
しかし、ハードウェアエンジニアは、最初てがけた製品は5人に対して1人がソフトウェアのエンジニアだった。しかし、私が二機種目を担当したときは、ハードとソフト一対一、そして三機種目を担当したときは、一人のハードウェアの設計者に対して、ソフトは5-6人ものマンパワーが必要になっていった。
そんな経験もしているもので、2000年前、ガリラヤ湖に漁師がたくさんあまるようになったということを想像してしまう。しかし、もっと大切な背景があったのではないかと思う。主なる神が、弟子を必要としていた。悔い改めて福音を述べ伝える人々が、もっともっと必要になっていく時代になって行くのが神の計画だったということではないだろうか。
現代においても、どんな職業をしていたとしても、あるいは大学でどんな専門教育を学んだとしても、宣教の業につくということは、大切に握っていたものを、思いっきりぱっと手放す必要も出てくるという現実があるのではないか。アンデレにしてもシモンにしても、漁師をしていて、魚を取る網がとても大切だった。 
しかし弟子たちは、一生懸命、大切にして、メインテナンスしていた、握りしめていた網を、ぱっと放して、イエスに従った。  
魚をとる網は、たしかにもういらない、しかし、イエスは弟子たちに「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。 

本日与えられている福音書箇所から、私たちは何を学んでいるのだろうか? いったい神は私たちにどうしろと語っておられるのだろうか? 今一度、イエスの話された「人間をとる漁師にしよう。」と言われたことをしっかり、耳を澄まして聞き取りたい。
弟子たちは、たしかに、網を捨てて、イエスに従ったことが聖書に書かれているが、イエスのほうからもう網はいらないということは一言もいっていない。魚を取るためのハードウェアの網はもう、手放して間違いはなかったのだと思う。
しかし、人間をとる漁師としては、やはり漁師時代に知り得た網のコンセプトはとても大切なのではないだろうか。いわゆるネットワーク構築。魚が網の中に入りやすくするような工夫があったはずだが、似たように、人々がネットワークに入りやすくなるような工夫があってしかるべき。 
もともとは聖霊降臨、ペンテコステをもってはじまったひとつの教会が、多くの教会になって、ネットワークを構築しており、またそのネットワークをメインテナンスするということがとても大切であることを学んでいるのではないだろうか?
復活ルーテルは、26年の歴史の中で、主の慈しみとああわれみ、赦しの中で数々の復活ルーテル教会で受洗者を生んだ。近年では2013年から2014年で8人の受洗者が出た。しかし、それだけではない。神の不思議な導きの中で、日本福音ルーテル教会においても、日本とアメリカのルーテル教会のネットワークにひっかかり、復活ルーテルの伝道がなければこの方たちの受洗はなかったという洗礼者が、私の知るだけで、2014年は3人いた。イエスの弟子たちが一時はじっと握りしめいっしょうけんめい手入をしていたが、手放した魚を取る網。ハードウェアとしては異なるが、ソフトウェアとしては同じコンセプトのネット構築が、イエスの御心の中で、いまも起こっている。 

本日のメッセージをしめくくるにあたり、ひとつの質問を持って終わりたい。おひとりおひとりにとって、「網」はなんでしょうか? つまり、握ったもの、掴んだもの、大切にしている形あるものが、それぞれあるのだと思う。 しかし、それは宣教、伝道する上で必要なのだろうか? 実は必要ではなくなったものものも多いのではないだろうか? ただし、その大切にしたものから、必ず学んだことがあるのではないだろうか? あるいは、みなさんのなかには、これから洗礼を受ける方々がいることも覚える。 いままでの人生で握り締めたもの大切だと思ったものが、これから洗礼を受けて、信仰生活を送るようになるとしたら、必要なくなるものがあるのではないだろうか? しかし、その大切だと思っていたものから、学んだことはなんなのか? 学んだことが信仰生活を歩む上で、決して無駄ではなかったことがあるのではないか?これらの質問に思い巡らしてもらいたい。 

日本のメディアでは連日、イスラム国と日本人の人質、日本政府とヨルダン政府の対応の様子が報道されている。そのような中で、聖書日課では2月2日から4日に与えられている詩編35編1-10節を読みたい。ひとりひとり、詩編を読み、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの時期に、わたしたちに何を語ろうとしてくださっているのか思いを巡らせよう。決して、それには正解があるわけではなく、一人一人千差万別な思いが湧いてきて当然なのだと思う。思いを巡らせること自体が、神との対話にもなってきて、大切なことだと思う。 
 
詩編35編
1:【ダビデの詩。】主よ、わたしと争う者と争い/わたしと戦う者と戦ってください。
2:大盾と盾を取り/立ち上がってわたしを助けてください。
3:わたしに追い迫る者の前に/槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください/「お前を救おう」と。
4:わたしの命を奪おうとする者は/恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は/辱めを受けて退きますように。
5:風に飛ぶもみ殻となった彼らが/主の使いに追い払われますように。
6:道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに/主の使いが追い迫りますように。
7:彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り/わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。
8:どうか、思わぬ時に破滅が臨み/彼らが自ら張った網に掛かり/破滅に落ちますように。
9:わたしの魂は主によって喜び躍り/御救いを喜び楽しみます。
10:わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から/貧しく乏しい人を搾取する者から/助け出してくださいます。」

気になる言葉や、インパクトのあった言葉や節はどこだろうか? 私の場合は、単純明快に「助けてください。」という2節にある言葉。

詩編作者の気持ちになって、一節一節読んでいきたい。 最初に【ダビデの詩。】となっているので、ダビデがピンチに追い込まれたときに、詠った歌なのか、あるいは、後世の詩編作者がダビデのことを想像しながら、作詩したのかと思う。1-3節は、主に向かって「助けてください。」と懇願しているが、私を防御して欲しいという観点から作詩されている。私(ダビデ)に、争い戦うものに、主が争って戦ってください。大きな盾も普通の盾も持って、主なる神が、私を助けてくださるように。私に負い迫る者の前に、槍をもって立ちはだかってください。そして、私の魂に、「お前を救おう」と言ってください。 4-8節に入ってくると、「私を助けてください。」という懇願には終わらず、より具体的に、自分に敵対する者が破滅に陥るように懇願しているように思える。私の命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲られてしまうように。私に災いを謀る者が辱められ、退くように(4節)。もみ殻同然ともなった彼等に、主の使いが現われて、追い払われるように(5節)。真っ暗となった中で、足を滑らせ、追い込まれるように(6節)。無実な私を滅ぼすため、彼等は網を張ったり、落とし穴を作ったりした(7節)が、どうか彼等が網にかかり落とし穴に落ち、破滅がおとずれるように(8節)。私の魂は、主に在って喜び踊っている(9節)。主なる神に向かって、私は叫ぶ、「あなたにならぶ人はいない。貧しい者は、強き者より助け出され、乏しいものも搾取する者から助けてくださる」(10節)。

この詩編35編を通して、主なる神が、現代の私たちに呼びかけていることはどのようなことか、思いをめぐらせたい。 イスラム国が日本人二人を人質とし、法外な要求がはじまった1月20日から、今日29日早朝まで日本に滞在していた。横浜、東京、熊本、長崎を転々と移動していたが、どこにいっても、毎日ニュースを見る度に、イスラム国と人質の状況が気になった。そして今は成田空港からマレーシアのクアラルンプールに向かう飛行機の中で、この「詩編を読もう」をタイプしている。ひどいことに、一人はもう殺害されてしまったと受け取るしかないような状況だ。湯川遥菜さんの家族のことを思うといたたまれない。残された後藤健二さんを人質として、日本政府、ヨルダン政府との交渉が続いているようだ。後藤さんのことを思い、この詩編35編にあるような祈りをとなえたくなっている自分に気がつく。後藤健二さんは、日本キリスト教団田園調布教会の会員であるとの情報は、知人のフェースブックを介して知っていたが、今日はじめて、朝のNHKのニュースで、後藤さんの属している教会が紹介され、昨晩、教会員の方々が教会に来て祈っていたとのこと。純粋に救い主がおられることを確信している。そして祈りが聞かれますように。この「詩編を読もう」がウェブに掲載されるころには、後藤さんの解放が決まりますように。
アーメン 安達均

2015年1月25日LCR日本語部週報通算第1339号

2015年1月25日の週報#2

January 25, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1339E

今日の説教は、第一日課のヨナ書からメッセージをいただきました。カール先生の説教日本語訳をお読みください。

2015年1月25日説教日本語訳「気乗りしない預言者」

今週は聖書日課で22日から25日まで与えられている詩編62編6-13節を読む。一度、ゆっくり読んでみて、一番気になった言葉やインパクトのある箇所を挙げよう。 その後、詩編作者のことを想像しながら、どういうことを詠っているのかじっくり読み返す。そして、現代の私たちに何を語りかけているのか考えたい。
 
詩編62編
6:わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
7:神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
8:わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
9:民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ
10:人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
11:暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
12:ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり
13:慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。

どの言葉がもっとも印象に残るだろうか? 私の場合は8節にある、「神はわたしの岩」という、神の絶対性を詠う言葉。  

詩編作者の気持ちになって読んでみたい。 6節から読み始めて、すぐに気がつくことは、詩編作者はピンチに陥っている状況を詠っているようだ。(あるいはダビデのおかれた状況を想像しながら詩編作者は詠っているのかもしれないが。) そのようなピンチ、自分の命が脅かされるような状況にあっても、6-8節において、「自分の魂よ」と自分自身に、落ち着いて、沈黙して、神にのみ希望をおく。神こそ私の岩、救い、とりでとなる塔である。詩編作者自身の救い、栄えは、神次第であり、絶対的に頼ることができる救いの岩は、神である。以上8節まで自分自身に向けて言い聞かせるように詠っている。9節にはいると、その最後に「セラ」という休止符を表す記号が入っているが、12節までは「民」に対して呼びかけ、説教のような言葉にも聞こえてくる。どんな時にも神を信頼し、神の御前に心を集中させて、神こそ私たちをかくまってくださる方。それに比べて人間はむなしく裏切るもの。まるで重みのない存在。人間同士で暴力をふるまったり、搾取しあうことが、力であるようには考えるな。そして、最後の節13節で、はじめて、詩編作者は「わたしの主よ」と、主なる神ご自身に語りかける。慈しみは、あなたのものであり、あなたは、人間の業に応じて報いてくださる。

さて、この詩編62編の上記の箇所が、現代の私たちに何を語っているのだろうか? 1月20日以降、イスラム国が二人の日本人を人質として、日本政府に何百億円もの身代金を要求する事態になっている。放映されているイスラム国の兵士と二人の日本人の映像や、報道事態にも、どこまで真理があるのか、よくわからないが、二人の日本人が拘束されているのが事実として、二人の気持ちを思うと、またその家族のことを思うと心が痛み、そして祈らずにはいられない。特に二人のうちの一人は、日本キリスト教団田園調布教会会員の一人という情報も伝わっており、私の実家からも近いところに家族も住んでいるようだ。そしてついついテレビ報道やインタネットを介して得られる情報が気になる。このような状勢にあって、意味があって、私たちは、この詩編62編を与えられているように思う。いうなれば傍観者にすぎない私たちも、本当にたいへんな思いをされているお二人、またその家族や友人にも、安部総理大臣はじめ政府高官等も、イスラム国の人々も、また舞台裏で交渉にあたる人々、すべての民に、この詩編に詠われている内容が伝わってほしいと願う。 
安達均

ヨハネ 1:43-51

主の恵みと平安が豊かに、あつまった会衆の上に、また今日の御言葉をウェブサイトを介して読まれる世界中の兄弟姉妹にも、また事情があって今日の礼拝に来られない方々の上にも、同じ主の恵みが、また、憐れみが豊かに注がれますように。

それぞれ、教会に来られるようになったきっかけはなんだろうか?だれかが話しかけた言葉が大きなきっかけになっているということがあると思う。もちろん、その言葉をかけてくれた人は重要だと思う。 しかし、その語った言葉はなんだっただろうか? 
私たちが、普段からだれか教会に来て欲しいと誘うにしても、どういう風に話したら良いかよくわからないのが現実ではないかと思う。今日の御言葉をじっくり聞く中で、そして、とくに日本人社会では、キリスト教もひとつの宗教にしかすぎなくて、信じられないと心の奥底では思っている方々に、どうやってキリスト教を紹介したらよいかという参考になるのだと思う。
さらに、教会に来て、一番最初に気づかなければならないことは、なんなのか? その気づきによって、なにが起こるのか? キリスト教を信仰するようになる最初の一歩は何なのか? そのようなことについて考える良い機会になるのだと思う。  

与えられた福音書は、ヨハネ一章43節から。ヨハネ福音書ではイエスの最初の弟子は、アンデレとその兄弟ペトロだったことが、少し前の35-42節に書いてあった。そして、今日の聖書箇所では、その次に弟子になったのが、フィリポとその友人と思われるがナタナエルである。
フィリポはイエスに会って、「私に従いなさい」と言われると、あっと言う間にその方こそ、聖書の中でモーセもまた預言者たちも、記述していた方だとわかる。 つまり救い主だといえる人は、ナザレ出身のヨセフの子でイエスだということがわかった。
そして、すぐに、そのことを、友人ナタナエルに話す。しかし、ナタナエルは疑う。ナザレからそんな人が出るわけない。それはやや問題発言だと思う。 ナザレとかガリラヤ湖畔の町々、どういう町だったかわかりにくかもしれないが、ナザレは貧困都市、ガリラヤ湖畔は、それに比べ、中級とでもいえるイメージがあったのかもしれない。 だからナタナエルは、「へっ、ナザレなんかから救い主なんか出るもんか」という偏見があったのだと思う。
しかし、フィリポは、そのナタナエルの偏見をとがめるでもなく、また議論をするでもなく、自分ではイエスがどういう人だと思っているかのみ話しただけで、単純明快に、「来て、見なさい。」という言葉でナタナエルにイエスに会うことを薦める。
そして、ナタナエルは、イエスの方に向かっていく。 すると、イエスは偏見のあったナタナエルなのに、「これこそまことのイスラエル人だ。正直な人だ。」という言葉を語る。

ナタナエルはびっくりする。そして、イエスは、ナタナエルのしていた事、いちじくの木の下で考え事をしていた事を知っていたし、また、その考え事が、おそらく旧約聖書の創世記でヤコブが夢で見ていた光景だったのではないかと思われるが、見事に知っていた。 
今週の聖書日課では詩編139編が与えられているが、新約聖書から時代を遡って1000年近く前のダビデも、またその後の詩編作者たちも、いかに神がすべてをご存知あるかを詠っている。何をしていようが、何を考えていようが、それをずばりわかっておられるお方、主なる神がおられることを詩編で詠っていた。
そして、ナタナエルも、まさにそれを実感したのだろう。 友人のフィリポはなんら議論することはなく、ただ「来て、見なさい。」という言葉を述べただけで、ナタナエルはイエスと出会い、偏見の持ち主だった彼が、すべてをご存知である主によって、ひっくりかえされ、悔い改めて、イエスに従うものに変えられた。

今日の福音書箇所から、私たちは何を学んでいるのだろうか? 同胞の日本人に伝道するとき、やはりイエスのことを信じてもらえないという大きな壁があるのだと思う。そのような壁に対して、熱心に議論するより、はるかに、単純に、イエスのところに「来て、見て」ということがとても大切なように思う。
それはイエスの聖霊によって成り立っている教会に来ることの大切さがあるのではないだろうか? 漂う聖霊と遭遇する中で、いかに自分が、かたよった考えや、偏見をいただいていたか、あるいは自分勝手な考え方をしていたかに気がつかされる必要があるのだと思う。
それは未信者の人ばかりではなく、先週は礼拝に出て清くされて礼拝堂から送りだされたが、世の荒波にもまれて、1週間後に礼拝に戻ってきたキリスト信者とて、同じことなのだと思う。 そこには、私たちの中に、間違いや罪、神への疑いや背信をおかしてしまっていたというのが正直なところなのだと思う。 いや、私はそんなことはない、という人がいたら、それがまさに過ちの証拠なのだと思う。
礼拝で最初の讃美歌を歌った後は、まず罪の告白、悔い改めである。 現在用いられている式文のなかでは、私たちの心がどういう状況にあるのか、また、どういうことをしたいと思っているかもすべてご存知の神の御前で告白しましょう。と司式者が述べている。すべての世界中のキリスト教会のリーダである聖霊なるキリストが、心の奥底までご存知であることに気づくことがいかに大切か、そして、悔い改める、神に向き直ることこそ、クリスチャンとしての第一歩である。 そしてその一歩は礼拝に来る度に、同じように悔い改めるのが信仰生活の持続なのだろう。 しかし、この悔い改めは私たちが友人同志で強制できるものではない。 だから、フィリポの言った「来て、見て。」と単純に誘うことの大切さがあるのだと思う。  
アーメン 
安達均


“Come and See”
John 1:43-51

May your Grace and Mercy be poured into the hearts of the people gathered in the sanctuary, the people who are not able to come to worship today, and the people who read this message through the website! Amen.

What triggered you to come to church? I believe that someone, whether it be a friend, relative, or spouse, invited you originally. Of course that invitation is important, but do you remember how they invited you?
In our mourn of faith, we often desire to invite others to church. In practice, many of us struggle with how we invite them. In listening to the word of God, we are given a great hint on how we may invite people — Especially those who believe that Christianity is like any other religion and along with it comes the untrustworthiness associated with cult followings.

Today’s gospel provides an opportunity to reflect on the first thing that we should realize as followers of Jesus, and consequently teaches us what we should do. In other words, it lays out the first step to take in following Jesus after his invitation.
The Gospel text is John 1:43-51. The first two disciples out of twelve were Andrew and his brother, Peter, that was written in verses 35-42. In today’s text, the third and fourth disciples appeared, Philip and Nathanael.
When Philip met Jesus, he immediately could see that it was Jesus from Nazareth, the very person the messiah, Moses, and the prophets wrote about! When Nathanael heard the news, he was suspicious saying that the messiah won’t be from Nazareth. The context at play makes this a prejudice assertion. Although we do not have a full understanding of the cultures of these villages, it seems that Nazareth was known as a poor city. The villages along Lake Garalee were more affluent, perhaps comparable to the modern example of cities like Newport Beach, Laguna Beach, or Dana Point. Nathanael looked down on Nazareth because of his prejudice, and saw there was no conceivable way that the messiah would be from Nazareth.

However, Philip graciously handled the evident prejudice by saying these simple and clear words: “Come and see for yourself.” So Nathanael began his journey to find Jesus.
Even though Jesus was aware of Nathanael’s skepticism, he endorsed Nathanael when they first met. “You are a genuine son of Israel—a man of complete integrity.”
Nathanael asked how he knew. The conversation continued and Nathanael came to the realization that Jesus knew everything from where he was (under the fig tree) to what Nathanael was thinking (he was pondering the scene of what Jacob saw as written in Genesis.)
This past week, from Thursday according to the lectionary, Psalm 130 was given to us. In that Psalm, the king David, B.C. 1000, and people after sang that God knew everything, where they were, what they did, what they thought, and what they would do.
I believe Nathanael thought the same way as soon as Jesus said a few words to him. This was triggered from Philip’s testimony and a simple invitation. “Come and see [for yourself].” As soon as Nathanael met Jesus, the skepticism was gone, he repented, and became a follower of Jesus Christ.

Today’s Gospel story shows us how to tackle the wall of skepticism that religions are assumed to have. It is far more important to give a simple invitation, “Come and See for yourself,” rather than arguing or trying to convince someone to become a believer.
Being exposed to the Holy Spirit within the walls of the church is a vital part of embracing the Christian spirituality. I have witnessed the shift in people’s beliefs at the very moment they enter the sanctuary and the sound of the organ. Through immersion in the Holy Spirit, one realizes their sins and is able to repent.
However, this also applies to all believers of the faith, not just those new to this religion. We come back to the sanctuary on a weekly basis and are given insight intohow we may have done the wrong thing, thought sinful things, or said hurtful things to someone. If there is someone who claims to be perfect and right, it is simply not true.
In our recent liturgy, the presider of the service states, “In the presence of God, who sees our hearts and our minds, let us confess our sin.” We confess our sins and repent at the beginning of the communion service. God, the ultimate presider of the church in the world, Jesus Christ, and the Holy Spirit know everything about what we do, think, and intend to do. If we truly internalize that God knows everything, it stands to reason that we admit and seek forgiveness regarding our sins because we are imperfect.
However, it can be very difficult to communicate the importance. Sometimes, the easiest thing to remember is the simple statement Philip made to Nathanael: “Come and See for yourself.”
Amen.
Pr. H. Adachi

2015年1月18日LCR日本語部週報通算第1338号

2015年1月18日の週報

January 18, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1338E

今週は聖書日課で15日から18日まで与えられている詩編139編1-6節および13-18節を読む。一度、ゆっくり読んでみて、一番気になった言葉やインパクトのある箇所を挙げよう。 その後、詩編作者のことを想像しながら、どういうことを詠っているのかじっくり読み返す。そして、現代の私たちに何を語りかけているのか考えたい。時間に余裕のある方は、1月18日に与えられている福音書、ヨハネ1:43-51も読まれることを薦めたい。 
 
詩編 139編
1: 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
2:座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
3:歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
4:わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
5:前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
6:その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。

13:あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
14:わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。
15:秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
16:胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。
17:あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
18:数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。

どの言葉がもっとも印象に残るだろうか? 私の場合は4節後半の、「あなたはすべてを知っておられる。」 

できる限り詩編作者の気持ちになって読んでみたい。 主よ、あなたは私のことを知り尽くしておられる(1節)。座っていても立っていても知っているし、頭で何を計画しているかもお見通し(2節)。歩こうが伏せていようが見分け、どんな道を歩もうか、知っておられる(3節)。私が何もしゃべらないうちに、私が何を話しだすかもわかっている(4節)。私を囲っていて、あなたの御手を私の上に置く(5節)。その知識は私の限界を超え、私はとてもおよばない(6節)。
あなたは私の内臓をつくり、母の胎内に私を組み立てた(13節)。私はあなたに感謝する。私はあなたのおそろしい力によって、驚くべきものに創られ、そのあなたの御業がどんなにか驚くべきものかを私はよく知っている(14節)。人類には知りえないようなところで、私は造られた、その場所は地下のごく深いところのようだったが、そこで、私の創造が展開した。私は一本の骨も隠すことができない(15節)。胎児だった私をあなたが見ており、私の一日一日はすべてあなたの書につづられている。私が造られる前からさえも書かれている(16節)。あなたの計らいはどうなにか貴く、神よ、いかにその数の多いことか(17節)。その数は砂粒よりも多く、果てまで、切り刻んでいたとしても、その私をあなたが包んでいる(18節)。

さて、この詩編139編の上記の箇所が、現代の私たちに何を語っているのだろうか? 来る日曜には、ヨハネ1章43節以降で、ナタナエルがイエスの弟子になる場面。 彼はそもそもイエスのことを疑ったような存在。それにもかかわらず、イエスの方に向かうと、イエスがすべてナタナエルが行動したり、あたまの中で考えたことをすべてご存知であるがゆえ、ナタナエルはびっくりして、イエスこそ神の子であると告白する。 実は、このナタナエルがイエスを疑ってしまったことは、わたしたちの人生の信仰生活の歩みの中で、日々体験していることと共通なのだと思う。人間は主なる神が、自分をいかに創造してくださったかが、わかるとき、はっと目を覚ますようなことが起こる。 自分自身の創造のすべてを自分がわかるような気分になっても、神が自分の創造をすべてご存知である、つまり「知ることは知られていることがわかること」とでも表現したらよいのかと思う。 
アーメン
安達均

マルコ1:4-11

主イエスの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように!

キリスト教信者ではない方から、「聖霊ってなんですか?」と質問されることがある。 キリスト教では、三位一体という言葉、「父と子と聖霊」という言葉は繰り返し語られ、キリスト教信者でない方でも、よく耳にする言葉なのだろう。
しかし父が神のことで、子がイエスだとわかっても、じゃあ聖霊は何なんだろうという話になってしまう。新約聖書はもともとギリシャ語で書かれたが、霊のことは、ギリシャ語ではプネウマと言い、その意味は「風」とか「息」だが、言語学的な意味がわかったところで、とらえ難い。
そもそも、三位一体がわかりにくい話だが、ある牧師や日曜学校の先生などでは、水が氷になったり、水蒸気になったりするように、神という存在も、人となったり、聖霊のような目には見えないものになりうるという話。
この話は、三位一体をなんとなく理解しやすくしてくれる。 それにしても、聖霊ってなんなんでしょうか? いったいどういう役に立つのでしょうか? という質問は続いてしまう。 

本日は、主の洗礼主日と呼ばれる聖日。二週間と少し前イエスの赤ちゃんとして誕生したことを祝ったばかりだが、イエスは成長して成人となり、約30歳になったころは父の仕事を継いで大工仕事をしていたのだろうと思われる。10年以上の仕事の経験をした上、イエスは次のステップを考えていたのかもしれない。そのころヨハネから多くの人々が洗礼を受ける中で、イエスも洗礼を受けることになる。 
イエスの洗礼にまつわるストーリを語る上で、聖霊が大きなキーワードなのだと思う。イエスの洗礼において、聖霊の働きが、とても大きな役割を演じていることは間違いない。 そして、この説教の中で、一人一人が聖霊について、さらに掘り下げて考える時が与えられるように祈る。
イエスより6ヶ月ほど早く生まれていたヨハネは、イエスより早く宣教活動に導かれた。しかし、それは、あくまでヨハネの後に登場するイエスがいかにすごい方であるかを広く伝えるためだけに、ヨハネは登場したような面がある。
ヨハネは、自分は水で洗礼をさずけているが、私の後に来られる方は、聖霊で洗礼を授け、それはたいそうな方で洗礼の意味も大きく異なるものであることを、大勢の人々に述べていたといえる。

そして実際に、後に来られるすごい方と言われていたイエスがナザレからヨルダン川にやって来てヨハネから洗礼を受ける。そしてイエスが水から上がった途端、とんでもない変革がおこる。 マルコは本日の福音書の10節と11節だけで実に簡単に述べているが、マルコの視点から、起こったできごとを考察してみる。
まず、「天が裂けた」と書かれている。 「天が裂ける」とはどういう意味か? その質問の前に、天の向こう側にはなにがあるかという質問をするのが良いと思う。 この地上の上に天があって、あるいは地球は宇宙に囲まれている、しかし、その天を越えたっところ、宇宙を越えたところに在る、神の存在があるのではないだろうか。 
だから、天が裂けるというのは、天が裂けて、神が人間の世界に介入してきていることを表現しているのだと思う。 そして、三位一体の神の一つの位である聖霊が、強風の中で、はとがイエスに舞い降りてくるような様子をイエス自身が目撃される。 それは、人の子イエスに、神が介入して、イエス自身が神の子であることを自覚されたともいえる。 
そして、そこにいた人々は、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である。」という言葉を聞き、大勢の人々が、イエスが神の子である証人になった。 そして、その後、イエスに何が起こったかというと、悔い改めよ、神の国が近づいたという言って、最高の知らせ、福音を世の人々に伝え始める伝道・宣教活動がはじまった。 

以上、イエスが洗礼を受けた時の様子を振り返り、その後、イエスが宣教をはじめていったときの話をした。いったいその話を聞くことが、私たちにどういう意味があるのだろうか? 地上とか宇宙とか、私たちがイメージできることをはるかに超えた、すべてを司っておられる神の存在は、聖霊を通して、私たち人間の間に介入して来られるということではないだろうか。
この聖霊は、とてつもない力を有しており、人の存在と、目に見えない神の存在を結びつける力を持っている。 目に見えないけど、力があるなんて、そんなものあるわけないじゃないですか? と言われるかもしれない。 でも、そういうものはこの自然界に確実にある。 重力というものは目に見えないけれど、ニュートンの発見以来、目には見えなかったが、もともと物がひっぱりあっている力が存在している。 
そして、イエスが洗礼を受けた時に、聖霊が働いたように、父と子と聖霊の御名において受けた私たちの洗礼においても、目には見えない、聖霊に浸って、聖霊の力が大きく働くようになり、わたちたちも、神と結び付けられるということが起こっている。
それは決して、私たちも、一人一人が別々のイエスになるということではなく、キリスト教会全体で、イエスの体をなしており、私たちは、キリスト教会の一部を成すようになる。 キリスト教会全体で推進している、宣教の業の一部を成す身になっている。 おひとりおひとり、聖霊の働きの中で、現代もイエスの宣教を行なっているイエスの体、教会の一部であることを認識して、新しい1週間歩もう! 
アーメン
牧師:安達均

“What is the Holy Spirit?” 
Mark 1: 4-11   

May Grace and Peace of Jesus Christ be showered upon the people gathered in this sanctuary!

Sometimes, I am asked by a non-believer, “What is the Holy Spirit?” In Christianity, the words, “Father and Son and the Holy Spirit” is repeatedly spoken; So much so that people, regardless of his or her faith, have heard of it.
In Greek, the word “pneuma” is used to mean spirit in a religious context, and its common meaning is “breath” or “wind.” However, even with an etymological definition, the concept of the Holy Spirit is difficult to grasp.
Some pastors and Sunday school teachers tell a story concerning the metaphorical connection between how water is capable of solidifying into ice or vaporizing into gas, which cannot be seen, and how the existence of God may become the man, Jesus, and the Holy Spirit, which is unseen like gas.
Christian teachers often talk about this metaphor to help others understand the Trinity. However, people are still left wondering what the Holy Spirit actually is, or what the Holy Spirit is useful for.

Today is the Sunday known as the “Baptism of our Lord.” only two weeks ago, we celebrated the birth of Jesus. Immediately following that, we read a story that took place about 30 years later, where he most likely became a carpenter, succeeding his father’s job as his first career. He spent over a decade in that career looking for something different. At that time, the Baptism John appeared in the wilderness along Jordan River, and many people were receiving the Baptism by John. Jesus came to Jordan to also receive the Baptism.
When we speak about Jesus’ Baptism, one of the key words is “the Holy Spirit.” The term undoubtedly has a tremendous impact within the celebration. Therefore, during this message, I hope and pray that God works on each one of us to think deeper about the Holy Spirit.
The Baptist John was six months older than Jesus and he also became a proclaimer earlier than Jesus did. However, we can say the only reason John became the proclaimer was to point out that Jesus would follow.
When Jesus came from Nazareth to Jordan to be baptized by John, John felt it was a bit awkward that he was baptizing the new proclaimer.

John was baptizing people by water, but the story foretold that the following proclaimer would baptize people by the Holy Spirit, which implied a significant change in the meaning of the Baptism.
When Jesus was coming out of water, there was a tremendously powerful thing happen. Even though Mark wrote this happening very simply and quick only in two verses, why do not we examine the incident a little bit.
Although the following passage is only two verses within the writing of Mark, it describes a tremendously powerful shift during the incident of Jesus emerging from the water during his baptism.
At first, it is written: “Jesus saw the heaven torn apart.”
What does this mean? Better yet, what is above heaven? God is above heaven and earth, so if the heaven were to be torn apart, God may come to the human world or intervene the world. The Spirit, a form of the Holy Trinity, was descending like a dove on him. This was witnessed by Jesus, since the subject of the statement was “Jesus saw.” This sentence is expressing that Jesus, a son of human being, realized himself that he was also the son of God. The connection between man and God happened and it was realized by Jesus.
Then, the people heard the words from heaven, “You are my son.” Not only did Jesus experience this, the people there also witnessed the incident that man and God connected by listening to heaven’s word, “Jesus is God’s Son.” Then, after 40 days of temptation that Jesus received in the wilderness, he started the ministry, the good news to the world starting from Galilee.
How does this story apply to our lives? How does it affect each and every single one of us now? Imagine a place beyond the universe, a place too difficult to grasp beyond space itself. Our god, who created everything, is watching over the world by the power of the Holy Spirit.
This Holy Spirit has the tremendous power and ability to connect God and Man. Like gravity, its strength cannot be seen with the human eye. The forces of nature has power over the human condition, yet we cannot witness it.
Much like how the Holy Spirit worked on Jesus right after his baptism, the same invisible Spirit started working on us when we were baptized in the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit. Each one of us was connected to God.
No, this does not mean that each of us have become Jesus, but as the whole church is the body of Jesus Christ, each of us became a part of that body. The whole church, the Body of Christ, is proclaiming the good news and serving the world. In this new week, think about how you are a part of the Body of Christ that is powered by the Holy Spirit.
Amen.
Pr. H. Adachi