LCR日本語部週報通算#1280号(日本語)
2013年11月3日の週報

LCR日本語部週報#1280E号(英語)
Sunday English Bulletin 1280E

10月24日 詩編を読もう:復活ルーテルへの道 (詩編84) 牧師:安達均

今週読む詩編は84編1-8節。とても短い。2回でも3回でも読んでみよう。ただ、今週は少々思い巡らす質問を変えてみたい。 説教では時々話しているが、聖書は「窓」にもたとえられるし、「鏡」にもたとえられる。というのは、聖書に書かれている内容は、まるで「窓」を通して外を見るように、歴史的に数千年前に起こった事を「聖書という窓」を通して数千年前の様子を伺うように読むことができる。しかし、その「窓」が「鏡」のように変わることもある。つまりその聖書に書かれている内容が「鏡」のように、私たちが現在体験していることを、「聖書という鏡」が映し出しているようにも読める。 そこで、今週の詩編を「窓」として読むとき、どのような光景が浮かんでくるか? さらに「鏡」として読むとき、現代の私たちをどのように映し出しているように読めるか? そのような二つの質問に思いを巡らせてみよう。 

詩編 / 84編
1:【指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。】
2:万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。
3:主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
4:あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
5:いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら/まして、あなたを賛美することができるなら。〔セラ
6:いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。
7:嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
8:彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

皆さんは、この詩編を「窓」として読むとき、どんな光景を思い浮かべられているだろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 私が思いを巡らせたことは以下のような事。

「窓」として読んだ時の光景? 「エルサレムを離れて」
1節に「ギディト」とあるがこれはおそらく琴のような楽器の名称と思われる。「コラ」というのは、合唱隊を務めた人々。 この詩編の作者は、かつて、エルサレムに生活していたが、今はどこか遠く離れた場所に生活しているのだと思う。しかし、エルサレムに住み、神殿の中に入った時のことが忘れられず恋しくて、このような詩を主に向かって詠っている。 神殿では、聖壇の上の方に当たる部分ではすずめやつばめが巣をつくって雛がかえるような光景も見受けられたのだろう。そして、またいつか神殿に入り、神に向かって賛美することができるなら、どれほど幸いなことかと詩編作者は詠う。(以上2-5節)  さらに詩編作者が生活している土地から、エルサレムに旅をする人々のことを詠っている。この詩編作者が居る場所を特定することはできないが、その場所からエルサレムに向かうことは、かなりの危険を伴う旅だったのかと思われる。 しかし、勇気を出して、心を開いて神を信頼して、エルサレムに向かうならば、たとえ険しい谷があろうが、また雨に打たれようが、谷間は美しい泉と変わり、また雨も励ましの祝福と思えるようになり、エルサレムに到着することができる。そして、また神殿に入って、主に会うことができる人々はどんなにか幸せだろうかと詠っている。(以上6-8節)  

「鏡」として読む時の光景? 「復活ルーテル教会を離れた方々の思い」
復活ルーテル教会で毎週礼拝に参加しておられたが、引越しやあるいは病等のなんらかの理由で、毎週の礼拝に来られなくなった方々のことを覚えている。 復活ルーテル教会のどこかですずめや鳥が巣を作っている光景を見た覚えは無いが、中庭はきれいで、あちこちに鳥がとまれるような木はある。また礼拝堂は美しく、入った時に豊かな霊に満たされた経験をお持ちの方々は多いと思う。そして、また毎週の礼拝に出ることができたらどんなに良いかと思われている方々がおられる。そのような方々の中で、病が治癒するなり、あるいは礼拝出席を妨げていた何らかの理由から解放され、勇気を出し、心を新たにされて、再び、復活ルーテル教会の礼拝に参加できるようになる方々もおられる。 そのような方々に、豊かな神の祝福がある。 

亡くなった方々も引っ越された方々も、あるいは、なんらかの事情から復活ルーテルに来られない方々も含めて、どこに居るにしても、主の祝福があることを祈る。 また、復活ルーテル教会の礼拝に戻って来られることが可能な方々には、物理的にも心理的にも、ぜひ復活ルーテルへの復活の道が与えられるように祈る。 アーメン。

気を落とさずに祈り続ける ルカ 18: 1-8 主イエスキリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように。!

牧師になるための教育の一環で、チャプレンとして病院勤務をしていた。 癌病棟に配属され、病室を回っていた。ある病室に入ろうとしたとき、患者の家族に入って行くのを阻止された。
患者の娘さんだとわかったが、彼女いわく、縁起が悪いので入ってこないで欲しいとのこと。 つまり、私の存在は、亡くなってから葬儀をしたりするための人間であり、まだ来て欲しくないとのことだった。
キリスト教では、この世の命が肉体的には終わろうが、永遠の命が与えられており、希望がある。永遠に神とともに生きることができる。 だから、私のチャプレンとしての存在は、臨終後のためだけにあるのではなく、永遠の命への希望を持っていただくためにあることを語りたかった。
しかし、病院は公共の場であり、さまざまな宗教の方がおられ、宗教者の役割や、死後のことについて様々な考え方があり、それぞれ尊重する必要があった。 そして、私は彼女の考え方を聞き、がっかりしたものの、「わかりました。もしお母さんが私に入って来て欲しくないということなら、私は病室には入りません。ただあなたのお母様のことを祈りに覚えます。」と言い、その場は引き下がり、次の病室へと向かった。

今日の聖書の話、かなりユニークな譬え話だと思う。イエスは弟子たちに、気を落とさずに祈ることの大切さを教えるために、本当に突拍子もない譬え話をしている。夫を亡くした女性と不当な裁判官が出てくる。裁判官は人を人ともおもわず、また神をも畏れない人間だった。 そのような人が担当の裁判官になってしまった未亡人。しかし、彼女はしつこく、裁判官を訪問し、裁いてもらうようにお願いする。結果、裁判官は彼女の言うなりになってしまう。 ここで、不当な裁判官とやもめの関係が、主なる神と弟子たちの関係にあたる。 イエスは本当に大切さを教えるために、それは突拍子もない譬え話をすることがある。今日の譬え話は一つの例にすぎない。 不正をするマネージャーが神からほめられるという譬え話もあったりする。

そのような譬え話に、しばしば、私たちは混乱してしまうもとである。しかし、そのような話は記憶に残る。弟子たちに本当に祈りの大切さを覚えてもらうために、イエスは主なる神の考えとしては、ちょっと常識で考えにくい話をしたように思う。 譬えに出てきている不当な裁判官に出会ったら、普通だったらあきらめてしまいそうないやな裁判官だ。にもかかわらず、つまり裁判官にとりあってもらえそうにんないのに、未亡人はあきらめずに、裁判官に裁いてもらうように何度もしつこく迫る。この譬え話では、いってみれば、やもめが弟子たちであり、不当な裁判官が、私たちの主、神、を顕しており、何度も言うようだが、ほんとうに突拍子もない話。ここでイエスが教えたいことのポイントは、祈りが聞いてもらえそうにないように感じてしまう、どうしようもないと思えるような場合でも、あきらめずに祈ること。 

9.11の当日、がれきの山の下敷きになってしまった二人の警察官がいた。 みなさんの中にWorld Trade Centerという映画を見た方もいるかもしれないが、それは実話に基づいている話。 瓦礫の下敷きになっている中で、身動きはとれず、真っ暗で、どうにもならない状況に置かれる。 しかし、二人は会話することができた。そして、主の祈りを唱える。結果、二人は見つけ出され助け出される。どうにもならない状況は、身動きがとれなくなった時だけではなく、人生のいろいろな場面で訪れることがある。
しかし、希望を持って祈る、どんな状況にあろうが、失望せずに祈り、神との関係を継続することが大切。
冒頭に話した、病院での出来事、私はその患者さんの部屋から引き下がった。 しかし、その患者の娘さんには、「お母さんのことを祈る。」ということを告げた。
実は、その翌日、その病室の前を通りかかったとき、ドアが開いていて、娘さんが出てきて話しかけてきた。「母があなたに会いたがっているので、入っていっしょに祈ってください。」 その前日、彼女たちのことを祈ることによって、聖霊が働き、母と娘に心境の変化を及ぼしてくださったと思い感謝した。
がっかりしたようなことがあっても、本日のたとえ話のしつこい未亡人ように、気を落とさずに、祈ろう。 祈りは、どこにいても、なにかをやりながらも、逆に何もできない身動きがとれないときも祈ることはでき、神と対話する最高の手段。祈りによる神との関係を保つ生活をしよう。アーメン

Don’t Be Discouraged; Continue Praying Luke 18: 1-8
May the Grace and Peace of Jesus Christ be richly poured into this sanctuary!
While I was in training for clinical pastoral care at a hospital, I was visiting patient’s rooms one by one where most of them were cancer patients. As I was entering a patient’s room, saying I am a chaplain, that patient’s daughter stopped me and brought me outside of the room.
According to her, my presence was ill-omened for her mother. In other words, her family thought that religious people’s primary function is to prepare for funerals and officiate burial services after patients died. Therefore, she did not want me to come into the room.
My belief in Jesus Christ is that no matter how patients died physically, God gives people eternal life with Christ in heaven and because of this there is hope. Therefore, I wanted to explain that my presence is for the hope of one’s eternal life, living with God, and is not only for dealing with issues after physical death.
However, the hospital is a public place and chaplains serve not only Christians but people of other faiths as well. People have different perspectives on religion and chaplains must be mindful of that fact. Therefore, I did not defend myself to her and I just said, “I understand, if she does not want me to come in, that is fine. She is in my prayers.” And I excused myself to the next room.

I think, today’s parable is unique. Jesus is telling his disciples a very strange story in order to teach them the need to pray always and not to be discouraged.
In the parable, there is a widow and a judge. The judge neither feared God nor cared about people, but the widow kept coming to him and asked “Grant me justice in this dispute with my opponent.”
As a result of the widow’s relentlessness, the judge changed his mind, favored her, and granted her petition. When I think about the relationship between the unjust judge and the widow, that is the relationship between the Lord and his disciples.
Jesus shared astounding parables which allowed him to highlight and teach important concepts. Today’s parable is one of those examples. Another famous one is about the dishonest manager that God praises. Sometimes these parables are confusing but they’re always memorable. In today’s story, I think that, because Jesus wanted to teach about the importance of regular prayer, Jesus used a strange parable to make his point and make the lesson unforgettable.
If people met an unjust judge, a petitioner might be discouraged and give up. However, in this story, even though the judge was uncaring and would not grant the widow’s petition, the widow was persistent and kept asking the judge for justice.
In this parable, the widow represents the disciples and the unjust judge represents our Lord, God, again this is an astounding representation. The point Jesus wanted to teach disciples is that even though you might feel that the Lord does not listen to you, you should not be discouraged and continue praying. Like the widow you should be relentless in your faith.
On 9/11, there were two policemen under a tremendous heap of rubble. Some of you might have seen the movie, World Trade Center…they could not move their bodies and were in a seemingly hopeless situation.
However, they could talk to each other and they prayed the Lord’s Prayer. As a result, on the next day, September 12th, a rescue team found them and they survived their ordeal. In our lives, we may also experience a seemingly hopeless situation, not necessarily physically taxing but perhaps it’s mentally, emotionally, or spiritually taxing, but it is so important to have hope in Christ and to have relationship with God through prayers even in the midst of difficult situations.
Following the conversation I had with that patient’s daughter that I mentioned in the beginning of this message, this is what happened on the next day. I was going to pass by that room, however, the daughter found me and spoke to me.
She said, “Please come in and meet with my mother. For some reason she wanted to meet with you.” On the previous day, I left her mother’s room saying, “She is in my prayers.” And I prayed for her to myself. To be honest, I did not expect that I would be asked to come back into her room.
However, God, Jesus Christ, and the Holy Spirit worked on the patient’s and her daughter’s hearts and their mind’s were changed. The patient was very glad to see me and together with her daughter, I prayed for hope in His Holy Name even in the midst of a particularly difficult chemo treatment. I am sure that no matter what happened in her physical life, she would live with the Holy One.
Each one of us through continuous prayer can keep a strong the relationship with our Lord, Jesus Christ, our Savior. Even when all seems hopeless, be like the persistent widow…God hears you. Thanks be to God! Amen.

今週読む詩編は121編。 とても短い詩編なので、3回読んで、気になった言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? そのような質問に思いを巡らせてみよう。 

詩編 / 121編
1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
2:わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
3:どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。
4:見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。
5:主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
6:昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。
7:主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。
8:あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

皆さんは、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことをシェアしたい。

気になる言葉は何だったか? 「目をあげて」
「目をあげて」というこの言葉、ピンと来たことは、10月10日に礼拝で二曲目に歌った讃美歌21の156番。 普通の讃美歌だと301番で「やまべに向かいてわれ目をあぐ」という歌詞ではじまる讃美歌。 いずれの歌詞もほとんど詩編121編の内容がずばり歌われている。 この詩編、一番最初に「都に上る歌」と書かれていて、それは、旅に出かける時の詩なのかと思う。 そして、旅に出かける前に、これから歩いていく方向には山があり、その山々を見上げて、少々不安を感じながらも旅の安全を確信するような詩だと感じる。ところが、10月10日の福音書は、復活ルーテル教会ではルカ10章にある、「良きサマリア人」のたとえ話で、旅人が山賊に襲われてしまい、持ち物を盗まれ、半殺しになってしまう話。この詩編を歌っておきながら、旅人が襲われてしまう話が取り上げられていたのは、滑稽に思える。イエス様がなんとなく微笑んでおられるようだ。  
自分に何を語りかけられたか? 「人生の旅路に」121編を繰り返し読むとき、何日もかかって旅をする様子が浮かんでくる。詩編が書かれたのは紀元前であり、車も電車も飛行機も、もちろんなかった時代。 現代であれば車で朝に出発すれば夕方には到着できるような距離でも、当時は何日もかかって旅をするという、人生の一大事だったのかと思う。 しかし、この詩編に詠われているのは、本当に物理的な、どこかからどこかへ旅をするという具体的な旅を詩にしているのだろうか? 詩編作者と話をできるわけではないので、なにも確実なことはいえないが、どうも詩編作者は、物理的な旅を詠っているのではなく、人生の旅路を詠っているように思える。少なくとも、私には、旅は比喩であり、人生の旅路を詠っている詩に思えてくる。 

コミュニティに何を語りかけているか?  「神との関係」
米国経済は、ここ数週間、米国債務問題で揺れていた。米国の債務は17兆ドルになっているが、法律があり米国の債務には上限が決められている。議会がなかなかその上限を引き上げる法案作成、可決をできなかったために、一部政府機関が閉ざされてしまう事態に陥っていた。日々の経済活動のなかで短期的には債務上限の引き上げをしない限り、米国債務不履行に陥ってしまうため、世界経済にも不安を与えていた。しかし、幸い議会では期限だった本日の早朝に法案を可決し、最悪の事態は回避され感謝したい。しかし、今回の回避はあくまで一時的なもので、1月には、また似たような事態に陥る可能性があるとされる。そして1月に議会がなんらかの法案を通したとしても、またすぐに問題が浮上してくるのではないだろうか。ある意味、アメリカ国民も、また米国経済が世界経済に大きな影響を及ぼしている現状からして、全世界の市民も、世界中で袋小路というか、行き止まりの旅路を歩んでいるような気もしている。しかし、この詩編121編に詠われていたことを、今一度、よくかみしめたい。 すべてを造られた主のもとから助けが来る。 全世界の市民が、すべてを造られた主、唯一の神、との関係をしっかり保つこと、主が与えてくださっている信仰に生きることで、袋小路が袋小路ではなくなる、行き止まりの旅路が、解放への旅路に転換する。
 
「神との関係をしっかり保つこと、主が与えてくださっている信仰に生きること。」と書いたが、これらがどういうことなのか、さらに聖書日課にある聖書箇所を読みつつ、10月20日の日曜の礼拝で与えられる御言葉を待ちたい。 
  

あの人は誰だ?       ルカ 10: 25-37

主イエスキリストの恵みと平安が、あなたによって集められた会衆の上に豊かに注がれますように!

この礼拝堂で福音書を拝読し聞くとき、ひりひりと心が痛むほどに、主に感謝する必要を感じている。
といっても、今という時代を振り返ると不安な事ばかり。政府の一部運営停止、天文学的な数字で増え続けている米国債務、17兆ドル。医療保険制度改革。これら三つだけでも、心配事はもうたくさんと言いたい。まだ私たちのコミュニティに特有の問題や、LCRの中で命に関わる病にかかっている方々の話をするには、いたっていない。 また、教会に勤めるものとして、世の中はますます非宗教的な場となっていて、神もイエス・キリストも、無視しているような社会になってきている。 それにしても、私はなぜひりひりと心が痛むほどに主に感謝する必要を感じているのか? 
それは、イエス・キリストが語った有名なたとえ話を今一度この礼拝堂で聞くことができるから。 たとえどのような困難で悩める時代にあろうが、神は私たちによく知られたたとえ話を話してくださり、神の愛と慈しみによって、私たちは奇跡的に癒され、困難の中にあっても信仰深い生活を送ることができる。
7月のメッセージで、聖書は二つのものに例えられるという話をした。 一つは窓、もう一つは鏡。その時この礼拝堂にはおられなかった方々もいるので、今一度簡単に説明したい。
聖書を窓として読む時は、数千年前に起こったことを、窓を通して見るようなもの。 しかし、その窓が鏡のようになってくる。 それは、私たち自身が、聖書の中で描かれている様子の中に見えてくる。言い換えると、聖書の中のことが、まるで鏡のように、現実の中に起こっていることを反映しているように見えること。 
本日与えられた福音書の中で、イエスは、良きサマリア人のたとえ話を、ある律法の専門家に話している。そのたとえ話には、半殺しになった人、司祭、レビ人、サマリア人、宿屋、そしてロバがでてきている。この話が鏡のように現代を反映してきているように思えないだろうか? その鏡の中で皆さんはどこに映っているだろうか? 
ルカによれば、イエスは、「隣人を愛さねばならない。」ということはしっかりわきまえていたものの、隣人とはだれかということがあまりよくわかっていない法律の専門家に、このたとえ話をする中で、司祭やレビ人のようにではなく、サマリア人のように行動するように教えているようだ。 
しかし、今一度質問したいが、現在この世の中で起っていることを鑑みる中で、皆さんはこのたとえ話という鏡の中で、どこに映ってるだろうか? 私は、みなさんが、法律家や司祭やレビ人のようには思えない。イエス・キリストがあたかも皆さんがサマリア人のように振舞っていないとして非難しているようには全然思えない。むしろ、イエスは皆さんにたいへんな憐れみをいだき、皆さんの心に触れ癒してくださっているように見えてくる。   
過去、一、二世紀位を振り返るとき、地球環境にしても世界経済にしても、劇的な変化が起こっていると思う。そのような時代に生まれた私たちは、次々に時代が変わる世の中に生きるしかなく、本当に多くの人々が次は何か次は何かと疲れきっているようにもみえる。 ある意味、聖書の鏡の中で、私たちが強盗に会い、滅多打ちにされて、あたかも半殺しにあってしまった人のように思える。そのような状況の中で、サマリア人のような人が顕われあなたに寄り添ってくれる。
サマリア人はユダヤ人から嫌われて排除される境遇にあったが、このたとえ話に出ているサマリア人は、半殺しにあってしまった人を憐れみ、心配し、そして宿屋に運ぶ。 同じように、現代のそのサマリア人は、非宗教的な世の中にあって社会からは無視されてしまっているようだが、そのお方は私たち一人一人を憐れみ、愛してくださり、そして一人一人をこの礼拝堂へと運んでくださってきている。 
いったいそのお方はだれだろう? この聖書の鏡に映っているそのお方は誰だろう? そのお方は猛烈にこの世を愛し、そして一人一人を聖なる場、聖霊の満つる宿に連れて来てくださる。
お一人お一人、自分で車を運転してあるいは自転車に乗って、あるいは歩いてこの礼拝堂に来られたと思う。 
しかし、いったい誰が、その車や自転車を提供してくださったのだろうか。 あるいは、車のガソリンは誰が提供してくれているのか。あるいは自転車や歩いて来た方でも、いったい誰がそのエネルギーを下さったのだろうか?私たちは、いったいどなたに感謝を捧げるべきだろうか? 
すべてを創り、提供してくださっている方がいる。 物理的なことばかりでなく、もっとも重要なこととして、霊的で聖なるお方が、私たちをたとえ半殺しにあっているような日々の生活の中でも、前へ進むことを可能にしてくださっている。 
神の子、イエス・キリストは、2000年前にこの世に来られ、ユダヤ教の指導者、ローマの政治家、さらにユダヤ人も異邦人も、皆いっしょになって、イエスを十字架に架けて殺してしまった。 イエスに従っていた弟子たちはなんら反対できず、その場から逃げ出してしまっていた。 にもかかわらず、神はイエスを三日後には復活させ、なんら人々を非難することなく赦し、そして、キリストにある平和をくださっている。今の世の中においても、我慢強く、神なるイエスが、実は私たちに神の平和をくださり、神の言葉を下さり、そして、イエスの体と血によって永遠の命を与えてくださっている。 
地球環境も世界経済も急激に変化していて、近代世界はあたかも袋小路のようにも見える。 そのような困難に直面している世の中にあっても、イエス・キリストが、その子供である私たちをお世話くださり、奇跡のストリーやたとえ話、生きた御言葉を語ってくださり、 私たちに復活かつ永遠の命を与えてくださっている。 私たちの主イエス・キリストを賛美し、そのイエスに永遠の感謝を捧げよう。 アーメン 

Who is That Guy? Luke 10: 25-37
May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all!
Listening to the Gospel in this sanctuary, I feel that we are in sore need of thanksgiving.
However, when we look around the world, there are plenty of things that are worrisome. The government shutdown, the astronomical sum of US debt, upwards of 17 trillion dollars, and steadily growing, which may lead the world into financial crisis, as well as the continued debate over the Affordable Healthcare Act are just three (of many) things that cause Americans concern.
And we haven’t even talked about the challenges in your particular community or the many families of our congregation. As staff working for the Christian church, the world is becoming more and more secular, putting God, and Jesus Christ, aside. Why do I say that we are in sore need of thanksgiving?
That is because this month we are listening to famous stories of miracles and parables that Jesus shared with people. Even in the midst of a challenging and worrisome world, God gives us these familiar instructive stories, and through God’s love and grace, we are miraculously healed and we’re able to continue living faithful lives despite challenges in this world.
When I preached in July, some of you might remember, I talked about two metaphors regarding the Bible. One was “Bible as a window” and the other one was “Bible as a mirror”, let me refresh your memory.
You may look at what happened thousands of years ago when you read the Bible as window. However, the Bible is also a mirror…which means, you see yourself in a situation that is described in the Bible. In other words, what happened two or three thousand years ago may become a reality in your own life.
In today’s Gospel, Jesus was talking about the famous parable to the lawyer. In that parable, there are the rubbers, the half dead traveler, the priest, the Levite, the Samaritan, the innkeeper, and a donkey, too. In this story, which figure do you think you represent?
According to Luke, Jesus is talking to a lawyer, and the lawyer knew you should love your neighbor as yourself but was having trouble truly recognizing who his neighbors were. Therefore, Jesus was teaching him to act like the Samaritan and not like the priest or Levite.
However, how do you see yourself? Look in the mirror… I do not see each one of you as the lawyer, the priest, or the Levite. I do not see Jesus accusing you for being unlike the Samaritan, rather Jesus is compassionate with you, touching your heart and healing you.
In the last couple of centuries, I truly believe that there have been drastic environmental and financial changes. Since we were born into this modern era, we are forced to live in a rapidly changing world and I see many tired people in the world. In a sense, through the mirror of the Bible, I see each one of you are like the man who was robbed, beaten, and left half dead. In that situation, the person like the Samaritan comes to you.
Even though the Samaritans were pushed aside by Jews, that Samaritan man was compassionate with the half dead traveler, cared for him, and carried him to the inn. Likewise, even though, this person is pushed aside in the secular community, this person is compassionate with each one of us, loves us, and carries us to this sanctuary.
Who is this person? Who is this person in your mirror in today’s world? He is tremendously compassionate to the people in this world, and is guiding each of us to a holy place, a spiritual inn.
You might say you drove yourself, rode a bike, or you walked to the sanctuary.
However, who provided your car, bike, or who provided gas for your car and gave you energy to start your day? Who should you be thankful to?
There is someone who provides everything. Not only in physical matters but also, most importantly, in spiritual and holy matters that enables us to move forward even though we are “half dead” in our daily lives.
Son of God, Jesus Christ came to this world 2000 years ago, but religious leaders in Jerusalem, Roman political leaders, Jews and gentiles, together put him on the cross and killed him…in spite of the brutality that Jesus suffered by humanity’s hands, God raised Jesus on the third day, without accusing anyone, and Jesus forgives everyone and gives His peace to the world. God’s peace is still continuing in this world, and Jesus still gives his word, his body and his blood that leads us to eternal life.
Environmentally and financially, the world is changing tremendously and sometimes modern life can seem like a dead end. In spite of all the difficulties and worries of this world, our God, Jesus Christ, cares for us, gives us his living word, stories of miracles and parables, and gives us resurrected and eternal life. Let us praise our Lord, Jesus Christ, our Savior, and be ever thankful to Him. Amen.
 
 

LCR日本語部週報通算#1277号(日本語)
2013年10月13日の週報

LCR日本語部週報通算#277E号 (英語)
Sunday English Bulletin 1277E