マタイによる福音書25章:14-30節 「神様の関心と利息」“Gods’ Interest”

私たちの父なる神、および主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方にあるように。アーメン。

皆さんの中で、1999年の終わりに世界中の人々が、心配していたことがありましたが、それが何だったか覚えていますか? 世紀の変わり目にはいつもノーストロ・ダムというような人が、世界の終わりを予告していた。それはY2Kと呼ばれていた問題で、Year 2000、省略して Y2k、つまり、1999年の終わりと2000年の境に、コンピユーターの機能が、おかしくなり、世界中でいろいろな問題が出てくるとの予告です。思い出しましたか? 核弾頭を積んだロケットが発射される。電気も止まる。電話も通じなくなるかもしれないと世界中がパニック状態になると大騒ぎしたのです。

しかし新年2000年を迎えて、コンピユーターは今まで通りに働いていた。恐れていた問題は何も起こらなかったのです。どうも私たち人間は不安を感じると、心が動揺して今までやってきたこともできなくなるのです。それと同時に不安になると人間はどうもお金にしがみつくようになるのです。3年前、オバマ大統領が就任されたとき、アメリカの経済は、それは世界の経済も含めて、メルトダウンの状態でした。1929年に起こった大不況と同じものが、私たちの経済を襲った、そこで多くの人達は自分のためていた貯金をすべておろし、また株に投資していた人たちもそれを現金に戻し、それをベットのマットレスの下に隠したのです。

さて11月に入り、毎年この時に来年の企業の予算が発表されます.教会でも同じで来年の予算をこの時に組むのです。

ところで、今日の福音書の譬話はイエス様のお金についての話です。神学校で福音書の授業を受けていた時, 先生からイエス様が話された福音書の言葉の中で、お金については3番目に多く出るトピックスですと聞いたことがあります。イエス様はお金の話の中で、私たちの神様への忠実さを話しているのです。お金というものそれ自体は悪いものではありませんが、私たちはお金が人の心を奪うことを知っています。それはお金、財産、というものが私たちの心の中で一番大切なものとなるとき、神様を私たちの心のはしっこに追い払うような思いになるからです。

イエス様のタラントという言葉で話された今日の話し、それでイエス様は何を言うとされているのか考えて見ましょう。この譬話は主人が長い旅に出る前に,3人の召使いにそれぞれの能力に応じて、自分のお金を預けてそれを管理しなさいと命じたのです。はじめに呼び出された召使は5タラントのお金を預かされました。ところでタラントというお金の価値はいくらぐらいのものであったか、見当がつきますか?この一タラントという金額は、働き手の1年間に与えられる金額です。一時間に受け取る金額が10ドルとし、一週間40時間働くとしたら、一週間で400ドル、そして400ドル掛ける52週間では$20,800ドル。そんな大金を預かされたのです。後の二人はその3倍、5倍のお金を預かされてそれを有効に使って増やしなさいというのが主人の希望したことです。

さて主人が出かけた後、5タラントを預かった召使はそれを上手くインベスト(投資)してそれを2倍に増やしたのです。同じように、2タラントを預かった召使はそれを2倍に増やしました。主人が帰ってきてこの二人を褒めたのは当然です。しかし1タラントを預かった召使は、帰ってきた主人にこう言ったのです。「ご主人様、私はあなたが、蒔かないところから刈り、散らさないところから集める、厳しい人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って,あなたにタラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください。ここにあなたのお金があります。」この主人ががっかりしたというより、怒った気持ちはわかります。どのような仕事をするに当て、私たちは一生懸命努力をすることによって報酬を受けるのです。そのために犠牲を払うこともあります。英語ではこれを “No pain, No gain”と言います。三番目の召使の間違いというより、失敗ごとは、心の中の不安にまどわされて、自分は預かったお金をもっと大きくすることを考えれば考えるほど自分にはそんなことができないと思うようになってしまったことです。ですから彼がしたことは英語で言う “Play it safe” です。土を掘って、そこにお金を隠しておこう。そうすることによって、私はお金を増やすことはないが、お金が減ることもない。これは熱い水でもない、冷たい水でもない、生ぬるいお風呂に入ってこれが一番な幸せと言っているようなものです。

この譬話は恵みあふれる,慈悲深い神様のことを語っているのです。しかしまた、召使、または僕としての私たちの神様に対しての感謝を私たちの言葉と行動によってあらわすことを求められているのです。先に使われたお金、それはタレントンと言いますが、その言葉を聴いてタレントンとはもしかして英語で言うタレントと関係があるのではないかと思った方もいらっしゃるでしょう。全くその通りで,タレントンは重さを測る秤に使われた金属の重みです。それがお金の価値の言葉として使われるようになったのです。私たちが良く耳にするタレントとかタレントさんは何か才能を持った、価値のある者、才能のある人と使われるようになったのです。私たちに何かの才能があったとしたら、それは神様が私たちに下さったギフトです。そのギフトを一生懸命使う、それを神様は私たちに望んでいるのです。

皆さんは神様からいただいたタレントが自分にとって何であるか知っていますか? 私たちは、自分のタレントをみいだし、それが神様からのギフトであることを知るところに喜びを感じることができます。私には何のタレントもないという人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。神様は私たち一人ひとりに特別なギフトをくださっているのです。それを知り、それを使うことは大切です。自分でそのギフトとは何であるか分からないという人は自分に親しい人に直接私のギフトとは何でしょうと聞いてみるのはいいことです。誰でも神様からいただいた素晴らしいギフトをいただいているのです。その素晴らしいギフトを人と人の生き方の中で実行するよう私たちはイエス様から命じられているのです。

インドのカルカッタで、人から見放されたような人に施し、人間の屑とも言われていた人たちに神様の哀れみと心の憂いを捧げてきたマザー・テレサが毎晩、床に入る前に唱えた祈りを紹介しましょう。

それは、「今日わたしはイエス様に何をしたでしょうか?」
“What did I do to Jesus today?”「今日私はイエス様のために何をしたでしょうか?」

“What did I do for Jesus today?”

そして、「今日私はイエス様と共に何をしたでしょうか?」
“What did I do with Jesus today?” マザー・テレサは続けてこう言いました。「両手を広げてこの私の手は今日、どのようにイエス様を賛美することができたでしょうか?」と。

イエス様に従う私たちは神様からいただいたギフトを持って、神様を賛美するのです。 もう15年前ですが、映画で大ヒットした  “Sister Act” というComedy の主人公であるWhoopi Goldberg という黒人の女優さんがカトリック教会のシスターとして登場しました。教会のミサはいつも、グレゴリア・チャントという厳かな音楽で行われていましたが、それを歌うSisterたちも何か礼拝が、形だけで、活気がないと感じるようになり、Rock’n Roll のような形で歌い、踊りだしたのです。何か活気のない、萎びた礼拝が、神様の聖霊によって踊り出るような形になったのです。

別に私たちの礼拝が、踊りだすような形にならなければならないというのではありませんが、礼拝の中で私たちは、神様の聖霊と触れ合うことができるようになりたいのです。また、聖霊のギフトによって私たちの生活と心が清くなり、また、私たちの一人ひとりの生活の中で神様の愛がにじみ出るような者となれるように祈るのです。

またマザー・テレサに戻りますが、誰かがマザー・テレサにこう質問しました。「あなたのなさった仕事の成功の秘密は何でしょうか?」しばらく首を傾げて考えていたマザー・テレサはこう答えました。「私は、イエス様が私たちのすることを成功したとか、しなかったと言ったことはありません。イエス様は、愛による他人に対しての約束、誓い、真実さを私たちの人と人の付き合いの中で実行しなさいと言われているのです」と。

神様が私たちに「お互いを愛し合いなさい」と言われた時、私たちは思いも、言葉も、行いも、すべての誠実さをもって、自分のありがままの姿で、隣人に関係を持つことができますか?  それができるような人間になりなさいとイエス様は言われているのですが、自分だけの力ではそれができないのです。神様の愛が私たち一人ひとりの心に入ってくることによって、私たちはこの自分を超えた力によりお互いを愛することができるのです。

今日の説教の話はイエス様に忠実でありなさいと言われてもっともですが、私が思うに今日の福音書の話は実はイエス様自身が旅に出た話として受け取ることは出来ないでしょか?その旅とはイエス様の復活の後、天に上げら、そこから私たちのことを見守っているのです。イエス様はいつかまた、私たちのもとに来てくださる。その時私たちはイエス様に忠実な生活をしているでしょうか?そのように考えると、私たちは神様からいただいたギフトを使って多くの人に神様の福音を分ち合うことを命じられているのです。

神様は、私たち一人ひとりに何かのタレントを与えてくださっているのです。そのみなさんのタレントは何でしょうか? 人の接待の上手な人、料理、お花、歌の先生、人の悩み事、相談事に乗ってくれる人、いつも電話で、「あなたどうしてますか?お手伝いでもしてあげられることありますか」と人の面倒を見ることをいつも気にすることができる人、お金の管理、年金、貯蓄などの問題を一緒に考えてくれる人、コンピュターに強い人,いつも笑顔で私たちを迎えてくれる人、私たちの体、病気についてアドバイスできる人、実際に私はその人たちを思い出しながら皆さんが持っている美徳、Spiritual gifts、それは神様からいただいたあなた方の素晴らしさを考えるのです。

私たちの人生は神様からいただいた聖霊によって、お互いが、お互いを大切にして生きることるにより神様の国をこの地上で実行することができるのです。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

BISHOP FINCK TO LEAD CONVERSATION

All are welcome to participate in our conversation related to our Japanese MinistryandLCR’s commitment to a multicultural ministry. Bishop Finck will facilitate the discussion on Saturday, November 19 between 9 a.m. and noon.

 

                                            JAPANESE MINISTRY CELEBRATES 23RD ANNIVERSARY

Congratulations are extended to our Japanese Ministry as they celebrate 23 years of faithful ministry   at LCR. We have been honored by their support and inspired by their commitment to share the values and culture of their tradition. As members of LCR, we are grateful for the way Japanese Ministry has integrated itself into the whole life of thecongregation. Our ministry has been enriched by their faithfulness and enerosity of spirit.

                                            Friendship Task Force

FLOWER ARRANGING

The Friendship Task Force (FTF)
Committee is sponsoring a Thanksgiving flower arranging class on Saturday, November
19, from 1:00 to 3:00 (please note the new time for this class only).
Mrs. Lin will assist us in creating beautiful fall centerpieces. Sign-ups for
this class begin on Sunday, October 30. The cost is $20 and, as always, you are
asked to bring a pie tin or other container for your arrangement, and a pair of
scissors.

                                          JAPANESE MINISTRY ANNIVERSARY

On Sunday, November 20, LCR’s Japanese Ministry is celebrating their
23rd anniversary with a special service. Both Pastor Tateno and Pastor Itoh
will be visiting LCR for the event. At that time, FTF will present to them a
$2000 check for the Japanese Disaster Relief. This is the money which was
raised by the generosity of those attending the Japan Festival last July.
Pastor Tateno will be the guest speaker on that day. After the service, there
will be a potluck meal. Everyone is welcome to attend this celebration,
especially those congregants who went to Hiroshima last year, and those who are
traveling to Nagasaki next year. FTF Japanese Ministry for their 23 years of
faithful service to LCR.

One spot for a female participant of the Nagasaki Mission Tour has
opened. The trip will take place October 11-22, 2012. If you are interested in
this opportunity, please contact Fumi Liang.

 

                                     CHERRY BLOSSOM TIME

Though it seems a long way off, we are asking you to mark your calendars now for the Sunday, April 29 Cherry Blossom Luncheon. At that time, FTF will be hosting a luncheon authentic Japanese food, and beautiful music presented by the choral group”Grace Notes”. The luncheon will be held after the one service at 10:00. Tickets will be on sale in early April.

11月20日はLCR日本語部の宣教開始第23周年記念特別礼拝を

日本福音ルーテル教会事務局長の立野泰博牧師を迎えて

行います。ここにFlyerを掲載いたしますので、是非ご覧の上

先生よりこの度の東日本大震災のボランティアの目で見た実情を

聞こうではありませんか。

特伝チラシ2011

 

週報通算#1189W (日本語)

2011 11 6W

 

週報通算#1189WE (英語)

2011 11 6WE

 201111月の予定

   

11/317     事務打ち合わせ           100 PM 日本語部オフィス

11/31017  聖書を読む会               10:30 AM Joyce’ Library 

11/627     キリスト教101           10:00 AM  B-Hall

11/721     英会話教室            12:30  PM Joyce’s Library

11/822    アーバイン家庭集会             1030  AM 愛子G.

11/11      コロナ家庭集会         1030  AM 今井宅

11/13      合同礼拝・LCR信徒総会     1000    AM  LCR

11/18      立野、伊藤、両牧師来米

11/19      教区長を迎えての会合      900 AM1200 PM LCR

11/19      FTF主催の生け花教室      100 PM T-Hall

11/20      23周年宣教記念礼拝・昼食会        1115 AM~230PM

11/20      長崎ミッションツアー説明会     230 PM

11/23      感謝祭礼拝           700  PM King of Glory, F.V.


  

 

 

 

週報通算#1188 (日本語)

2011 10 30W

 

週報通算#1188 (英語)

 

 「福音の復興」  “Restoration of the Gospel

ローマの信徒への手紙 3章1928

私たちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。

一昔、それも20年ぐらい前のこと、何か知りたいものがあったとたら、それを皆さんはどこで見つけましたか? それはたぶん百科辞典だったと思います。ブルタニカという百科辞典は宿題の手助けに欠かせないものでした。それが今ではComputerで何でもすぐ見つかります。

そこで、「世界の歴史の中で、誰が一番貢献した人」とcomputer で捜索してみると、マルチン・ルターの名前が出てきます。皆さんの中にはマルチン・ルターと聞いて、あの黒人の人民の平等を唱え、ノーベル平和賞を受けた人と思いがちですが、このルターさんは15世紀にドイツで宗教改革を起こしたカトリックの司祭であり、聖書学の教授でした。ルターはカトリック教会のなかで、堕落していた教会の姿を悲しみ、また神学的にも、良いおこないをすることにより神様から愛されるというより、神様から愛されるべきでない罪人の私たちが、私たちの罪をイエス様自身が十字架にかかり、そこで私たちに永遠の命を与えるために自分が、人類に代わって罪を贖ったという信仰です。一般に世界の宗教は、一人ひとりがよき行いをすることで神様から愛される、救われると言いますが、キリスト教でいう救いは私たち一人ひとりが自分の努力で出来るものではありません。キリスト教の教えの中に、善行による救いという考え方はありません。神様、それはイエス様が、私たちに代わって私たちの罪を背負い、私たちの代わりに十字架に架かって死んでくださったのです。そのイエス様を信じることのみにより私たちは神様からの救いをギフトとして受け取ることができるのです。

今日私たちが聞いたローマ人への手紙3章1928節は、ルターがカトリックの司祭のとき何回も何回も読んで疑問に思っていた聖書の箇所です。私たちが義とされるのは律法の行いによるのではなく、神様を信じる信仰によってのみです。実は、神様自身が、私たちの心の中に信仰を植えつけてくださったのです。神様に忠実に従う信仰も神様からいただいたギフト、賜物なのです。

 さて、岸野先生は何か難しいことを言っていると思われている方がここにいると思います。そこでもう一度神様の愛を母親の赤ちゃんに対する愛と比較して考えて見ましょう。赤ちゃんは生まれてきた時、お母さんなしでは生きていけません。おなかがすいた赤ちゃんは、ギャーギャー泣き出してママ、おなかすいた、おっぱいのましてと泣くんです。お母さん、私今疲れているから、泣かしっぱなしで赤ちゃんをほ放打って置きおきたいと思うかもしれない。でも私なしに赤ちゃんは育てられない。私なしに赤ちゃんは泣き止まない。私なしに赤ちゃんは何の心配事なく、ぐっすり眠ることもできない。まったく、赤ちゃんという子供を良く考えてみると、その自分の子に与える母親の愛情は天の父なる神様がわたしたち一人ひとりに示してくださった愛情と同じではないでしょうか。ここでお母さんはイエス様であり、赤ん坊は私たち一人ひとりです。お母さんの腕中にしっかり抱きしめられて、私たちは不安もなく、幸福な時を過ごせるのです。そこで愛が感じられるからです。

聖書の中にいろいろな人たちが登場します。イエス様の12弟子、名前が出てこない、病気の者たち、歩くことができない、目の見えない、しゃべることができない,これらの人達はほかの誰かから親の罪の祟りで、こんな惨めな生活をしているものと言われていたかもしれない。我儘な赤ちゃんも、体の不自由な者も、律法学者といわれていたお偉方も、あなたも、私も、神様から見れば、同じ罪人です。駄々をこねる、言い訳の多い人間です。すべての人類はそれ故に、神様の救いが必要なのです。神様がその一人子であるイエス・キリストを私たちの中に送り込み、罪人である私たちを十字架にかかって死んでくださった、その愛により私たちのすべては贖われたのです。救われたのです。

皆さんがお馴染みの放蕩息子を思い出してください。お父さんの半分の財産を抱えて、遠くの地に行き、そこですべての財産を無駄使いしてしまったこの息子、どうしたことか、急にお父さんの元に帰りたくなった。お父さんのところへ帰ろう。しかしこの息子、お父さんがどのように彼を受け取ってくれるかわからなかった。ドアをたたいて、「私です。あなたに背いた私です、あなたから愛される資格もない私です。私がお父さんの家に入ることは赦されないと言われてもわかります。ただ私は、お父さんに自分の罪を告白したいのです。しかし彼がお父さんの家からまだ遠くに歩いてきたとき、お父さんはそこで彼を待っていたのです。毎日待っていたのでしょう。いつか息子が帰ってきてくれこことを信じて、その日を待ちどうしく首を長くして待っていたのです。毎日毎日彼の息子が帰って来るではないかと首を長くして待ち続けたのです。そしてある日、お父さん、まだ遠くの方にいた息子を見出した時、「ああ、私の息子だ、私の息子だ、帰ってきてくれたんだ。こんなに嬉しいことはないと泣きながら息子のの息子だ、私の息子だ、帰ってきてくれたんだ。こんなに嬉しいことはないと泣きながら息子のところまで走っていって、彼を抱きしめて言葉に出ない喜びを感じたはずです。もし皆さんが、このお父さんの立場にあったならきっと同じことをしたに違いありません。

旧約聖書の時代、ある人が神様と悪い関係を持ったとき、彼は生贄のささげ物を持って神様の元に来ることを命じられていました。その生贄により人は神様との元の関係に戻れたのですが、イエス様は、生贄とか、ささげ物を受け取りません。私たちの努力、力、行いによって神様から愛され、愛する関係に戻ることはできません。しかし唯一つの方法、それはイエス様が私たちの罪をしょって十字架にかかり死んで下さったことにより私たちの罪を取り除けて下さったことによるのみです。何か同じことを何回も何回もいっているような感じがしますが、はっきり言って十字架のイエス様以外に私たちを救ってくださった唯一の救い主はいません。それを信じる信仰も神様から私たちはギフトとして受け取っているのです。マルチン・ルターの伝統を持つ私たちの教会は、15171031日にルター自身がイエス様の私たちを救う正しい信仰をすべたの人に宣べ伝えたことを覚える日です。しかし、ここでも主人公はマルチン・ルターでありません。私たちの信仰の主人公は、父と子と聖霊の3つの姿で現れる神様です。

今日の説教は難しいと思われた方もいるでしょう。牧師としての私の役目は第一にイエス様の愛を皆さんにわかっていただくよう勤めることです。どうか質問でも、お祈りでも、悩み事があるときには私に電話をください。誰かがイエス様のことを知りたい、そういう人がいますなら、私にその人を紹介してください。私の役目は皆さんが少しでも神様の愛を感じることができるようになる、その為に神様は私を牧師という働きに導いてくださったのです。一人でも多くの方が、神様の福音を聞き、心を開いて、イエス様を受け入れることができますよう私たちは共に祈るのです。アーメン。

October 29th, 2011

2011年11月Calendar

No Comments, 教会Calendar, by admin1.

マタイによる福音書22章34節―40節

「人生で一番大切な戒律」“The Most Important Law in Our Life”

 或るまだ神学校を出て間もない牧師は教会の皆さんたちから何時も「あの先生の説教は長すぎて眠くなってしまう」と言われていました。そこで教会の役員会で、「先生の説教はとてもいいのですが、少し長すぎるのでは」という発言が出たのです。それに対して新米の牧師さん、「いや、私は皆さんに神様の言葉、聖書で言う神様の言葉のミルクを沢山差し上げたいのです。」と答えました。一人の役員さんは牧師さんの言葉尻を取り、「それでは神様の言葉もコンデンス・ミルク」でお願いしますと。コンデンスとは短縮したという意味です。

これは牧師さんに限らず、私の大学で専攻した、キリスト教と哲学のクラスも、その先生の講義が長々と単調な声で、子守唄を歌われているような感じの時もありました。立教大学の中沢先生は旧約聖書のヨブ記の研究で有名な方ですが、先生は聖書をへブル語で読むのです。いくらへブル語の授業を受けたといっても、先生がどこで何を読んでいるのかもわからない、よくそんな経験をしたのです。言葉というものは面白いことに、長いセンテンスで話されるとはじめに何を言われていたか忘れてしまうのです。言葉も文章も短い方が頭、また,心の中に受け入れ易いのです。

カール・バルトという有名なドイツ人の神学者がアメリカを訪れていた時、ある神学生はバルト先生に、「先生、あなたが40年にわたって教壇から教えた神様の教えを一言で言うならばどうお答えしますか?」バルト先生は英語でこう答えたのです。 “Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so, little one to him belong, we are weak but He is strong.”日本語では、「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」です。これはイエス様に従う私たちの素晴らしい信仰告白です。

今日の福音書は、パリサイ派の人々、ユダヤ教の宗教団体のリーダーが、イエス様に、「一番大切な神様の戒めとはなんでしょうか?」という質問した話です。イエス様はそれに対してこのように答えました。 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように、重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」英語では、“Love the Lord God all your passion and prayer and intelligence.” This is the most important;the first on any list, The second most important commandment is like it: Love
your neighbor as you love yourself.”これは、神様、イエス様に対しての私たちの愛、そしてまた、隣人に対しての私たちの愛です。それがイエス様が私たちに命じられた掟なのです。

ところで ユダヤ人はモーセがシナイ山で十戎を神様からいただいたのを皆さんご存知と思います。。それは神様が私たちに下さった掟です。それは10の律法とも言われています。この律法はそれを守ることで、神様の祝福を受ける。しかし、破ることによって裁かれるというのです。ユダヤ人たちは、長い歴史の中で、神様からいただいた十戒の他に613の細かい掟を作りそれを人々に守るように強制したのです。それは248条の「あなたはこれをしなければならない」という律法、例えばそれらの律法のうちには、作物を集めるとき、全部ではなく少しは落穂ひろいのできるように貧しい者にそれを残しなさい。

そして365条に亘る「あなたはこれをしてはいけない」という律法とです。たとえば、鱗のない魚を食べてはいけない、安息日には医者は病気の者を癒してはならないなどの私たちから見れば、これが戒めなんですかと言うものが沢山あります。しかし戒めを完全に守ることによってユダヤ人は神様の救いを頂けると信じていたのです。そこで律法学者はイエス様に、613の律法のうち一番大切なものは何でしょうかと質問したのです。イエス様はそれに対して二つの律法、この二つの律法がすべての律法を要約した律法であると答えたのです。その一つは、申命記という旧約聖書の中にあるシェマー(Shema)という祈りの言葉です。それを読んで見ましょう。きっと皆さんもこれを何回も聴いたことがあると思います。「聞け、イスラエルよ.我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)イエス様はこれが一番大切な戒めだと教えたのです。

そして2番目に大切な戒めは「前の一番の戒めと同じように、あなたは自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という戒めです。この二つの戒め以上に大切な戒めはないというのです。英語では心を尽くしては、with all your heart, 魂を尽くしては、with all your soul, 力を尽くしては、with all your mind です。私たちのすべてを用いて神様と、隣人を愛することが、私たちに義務であり、喜びに繋がれるのです。

つい最近ここの教会員の方と恵比寿マーケットの近くにあるエルビスというカラオケ店で、何人かの方々とカラオケの楽しい時を持ちました。誰かがそれをカラオケ伝道だなんて言いましたが、自分の好きな懐メロ、思い出の曲、それが讃美歌ではなくても心の中で感じられる思いをこめて歌うのは楽しいものです。わたしのすきな日本人の歌手は広田三枝子とクールファイブですが、英語で最高なのはフランク・シナトラです。彼の歌う“All the Way”という歌は私の大好きな歌です。家内ナンシーに聞いてください。私が幸福と感じるときは、自然とその時の心を表現する歌が、口から出るようになるのです。
“When somebody loves you, it’s no good unless he loves you, all the way.Through the good and lean years and through all the in between years—come what may.”

ここで言いたいのは、 “All the way”100% の私たちが、神様を慕う、愛する思いです。神様より100%愛され、神様を100%愛することができるなら、それ以上に人生で幸福のことはありません。それは、親が自分の子供を100%愛し、子供が親を100%愛することと同じです。もちろん、何か悪いことをして両親から怒られた。そんな時愛されていると感じないかもしれません。同じように、神様に逆らって何か悪いことをした時、神様から愛されていないと思うかもしれません。しかし私たち人間は神様のイメージを持って生まれてきたと聖書は教えています。私たちはお互いに神様からいただいた美徳があるのです。その美しい徳が自分の中で感じられる時があるのです。この神様よりいただいた自分、自分のギフトを人と人との付き合いの中でいかに使っていくか、そして、それを認識することができる時も一人ひとりに与えられるのです。

話はすこし変わりますが、何ヶ月も前に、自分で自分の牧師としての仕事に今まであった活気が体から抜けていくような気持ちになったのです。何か気持ちがすっきりしない。体力もない。やる気がない。普段は陽気な性格の私が、心の中に何かもやもやとしたものを持っている自分に気がつきました。これが鬱病ではと自分で感じていたので、お医者さんにかかり、それが本当に鬱病の初期だとわかりました。家内もうすうすそのことに気ずいていましたから、お医者さんの診断を聞いて、びっくりというより、ああそうだったのか、でもそれがわかってよかったとい良い意味で受け取ってくれたのです。なぜならこれは治療の方法があるからです。しかし一般には鬱病、それは大変だ、と言われるようですが、次第にもとの自分に戻りつつあります。ここで皆さんに知って欲しいことは私の為に心配していた人たちが祈っていてくださっていたということです。神様はその方々の祈りも聞いてくださっていたのです。

聖書の中に「一人のものが苦しむ時、みんなが共にに苦しむ。一人の人が喜ぶ時、みんながともに喜ぶ」という言葉があります。本当にその通りです。それができるところ、それが教会です。お互いを助け合う、お互いのために祈る、そしてお互いを支えてゆくところに神様はいらっしゃるのです。ですから教会は私たちの家族です。そこにイエス様が何時もいらっしゃる所、愛と、癒しと、励ましと、祈りがある処です。

同じように、先週、松井誠史さんと昭子さんの金婚式を教会で祝うことができた私たちの群れは神様に恵まれた教会です。私たち一人ひとりの名前を口に出して、祈ってくださっている会員もこの教会にいるのです。

神様は私たちの心が神様の福音を心に留め、実際にそれを私たちの間で分ち合うところに恵みと平安を与えて下さいます。

アーメン。 

 

 

 

 

 

週報通算#1186(日本語)

2011 10 23W

週報通算#1186WE (英語)

Sunday English Bulletin 1186E