20116月の予定  

 

6/22330           聖書を読む会         10:30AM     Joyce’Library 

6/223                   事務打ち合わせ                    1:00PM         JM Office 

6/5121926   キリスト教入門講座       10:00AM            Bercaw Hall

6/5         日本語部信徒会      軽食後           T. Hall 

6/9                                      Getty Center 見学       9:00AM3:00PM           

6/1320                ラインダンス            1:00PM          Bercaw  Hall

6/1428                   アーバイン家庭集会     10:30AM           愛子G.宅 

6/19                  父の日、6月お誕生会     礼拝後        T.  Hall

 

Scheduleに変更があった場合は事前にお知らせいたします。

        

ヨハネによる福音書141-14節 「家」  ” Home “ 

イエス様はユダによって裏切られた後、他の弟子たちにこれから起こる出来事、それは十字架にかかる道の経過を話されました。それを聞いて弟子たちの心が騒いだのは当然です。ですから今日の福音書はイエス様の「心を騒がせるな」という言葉で始まります。そして続けて言いました。「私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方をわたしのもとに迎える。こうして、あなた方をわたしのもとに迎える。 

この聖書の言葉は皆さんの多くの方は、お葬式の聖書の朗読の中で何回か聴いたことが在ると思います。私もこの聖書のテキストを使って過去多くの故人を偲び、その人たちを神様の所に送り返したのです。天国でわたし達は神様と顔と顔を合わして見ることができるのです。しかし天国が一体どこにあるのかという疑問より、神様の御許に私たちがいつか送られると考えられる時、知る時、私たちの心も落ち着くのではないでしょうか? 

 イエス様が「私の父の家には住む所がたくさんある」と言われた時、それはただ単にたくさんの家があるというよりも、そこにイエス・キリストを主と信じた信仰者がキリストの家族として住むことのできる所があるということです。家もHouse も建物です。しかし私たちの行く先の天国は召された人々が神様と顔を合わせて暮らしていける神様から約束されている次の世界です。天の国、神様がいつか私たちを呼んでくださる神様のHome です。でも本当にそうなんですか?岸野先生とか他の牧師さんたちはどうしてそういうことがはっきり言えるのですか?とある人たちから言われるかもしれない。しかし私がよく口に出す言葉、それは「信仰とは理屈ではないんです、信仰とは神様の言葉をそのまま素直に受け取ることです。」 

少し脱線しますが、人間には、考えることのできる理性があります。それは神様からいただいたギフトです。デカルトという哲学者はこう言いました。“I think, therefore, I am” 「我 考える、そこに私の存在がある。」私は人間の心の奥底からの疑問に対しての追求を否定するわけではありません。どうして神様はこの地球に生き物、特に人間を作られたのか考える時がありますが、その一方私は神様は私たち一人ひとりを愛されている、全ての世界中の人間も神様の愛の対象であると確認しています。其れがクリスチャンであっても、イエス様を知らない人であっても同じです。クリスチャンは「イエス様に私たちの全ての存在をあなたに任せます。私を何時もあなたの愛と慈しみによって導いてください」と宣言する信仰の群れなのです。 

 私がまだテキサスにいた時、私の教会はHabitat for Humanity という奉仕の団体に入って家を持っていない家族にシンプルな家を無償で建ててあげました。この運動で知られているのは元のカーター大統領ですが、国境を越えてこの素晴らしい博愛の運動は世界中で広まっています。この建てられた家の持ち主となる家族の大人は家が彼らに与えられる前、しばらくの間自分たちの労働を提供しなければならないという決まりもあります。これは英語でSweat Equity といいます。ただ単に家をもらうのではなく、家を造っている人と共に働くのです。汗を流していっしょに労働するのです。Volunteer で働く人の中には学校の先生、会社の社長さん、学生、主婦のおばさんもいました。食事も作ってくれる人もいます。そんな仲間として二週間一緒に働く中で、お互いがお互いを知り合う、お互いがお互いを助け合う、お互いがお互いを尊重しあう心が生まれます。そこに生活の共同体が生まれるのです。Habitat for Humanityの一番の目的は他人を知ることにより自分を知ることです。わたし達は仕えられる人になるのでなく、仕える人になるのです。それが共同体の社会です。私たちの教会もそう言うものにならなければなりません。教会は家という建物ではなく、一人ひとりが神様から赦された、愛された、助け合いのできるHomeです。 映画、またMusical で有名なWizard of Oz をご存知の方ここにいると思います。この主人公はDorothy という女の子です。彼女は 映画の中で言っています。 “When I think of home, I think of a place where there’s love overflowing.” 「私が家を思う時、そこは愛があふれ出てくる所を思うの」と。  

  先週祈りの中で、病院に入って12日目になる家内ナンシーのお父さんを覚えました。始めは脳卒中と言われていましたが、精密検査の結果今肺と肝臓にステージ4の癌があることがわかりました。2週間前まで教会でパイプオルガンを弾いていたのですが、急に立つ事もできない状態になったのです。キモ・セラピーをはじめましたが、其れが効くかどうか分かりません。しかしそれをしなければあと2ヶ月しか生きられない、キモ・セラピーをやれば4ヶ月から一年間まだ生きられるかもしれないとお医者さんに言われたのです。ナンシーは上から2番目の7人兄弟・姉妹です。この7人が一人一人お父さんと病院での付き添いに交代で来ています。気落ちしているお母さんも同じ心の安らぎを家族で共にいることの中に求めているのです。お父さん元気になってね。お父さんと一緒に好きな讃美歌歌おうね。早く家に帰れるようにご飯もちゃんと食べてね。今年のクリスマスには家族26人みんな集まりましょうねと言っているのですが。同じように私の母は3年ほど前からルーテル教会の老人ホームに住んでいます。母はホームの皆さんから面倒を見ていただいて、叉教会の牧師さん、婦人会の友達、叉ここの教会員だった小山めぐみさんも時々奉仕で、この老人ホームに来てくださっているのです。復活 ルーテル教会でこれから「何でもお世話ネット」 の事をもっと聞くことになるでしょう。自分の住みなれたところで老後をどうしても暮らして生きたいと願っている人たちが沢山います。しかし私たちが願うことは、家族、友達と人生の最後まで付き合いたい。付き合いたいとは、お互いを大切にしながら生きて行きたいと言うことです。 私たちの多くは長く両親から離れてこの国で暮らしてきた人が沢山います。日本の親、兄弟、姉妹ともっと会う機会があったらなと思うことは当然です。しかし90%の今ここにいる私達はアメリカが私たちの国です。私たちのHomeです。趣味のサークル、学校の仲間の付き合い、そしてここ教会の中で、嬉しい時も、悲しい時も、お互いが、お互いに、愛し、愛し合う教会として、神様の愛が私たちの心を満たしてくださる教会、Home として、イエス様がわたしたちの人生の道を整えてくださると信じ生きて行ける私たちでありたいのです。アーメン。  

 

 
 
 
 

 

 
 
 

 

ヨハネによる福音書10章1-10節

「羊飼いと羊」 “The Shepherd and The Sheep”

今日の福音書の中で「羊は羊飼いの声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書いてあります。羊が羊使いの声が分かるとは了解できますが、羊飼いは本当に、何十、何百と言う羊の声を聞き分けることができるのでしょうか? 私は都会生まれ、都会育ちですから、羊の声は皆同じに聞こえるのですが。ところで、日本の羊はメーメーですが、アメリカの羊はバーバーです。

ある小学校1年生の男の子を対象にしたアンケートで、自分がもし動物だとしたら、どんな動物になりたいかとの質問の答えは、ライオンが一番、熊が2番、象が3番、イルカが4番でした。羊は答えの中に出てきませんでした。しかしそれは男の大人にも言えることで、一番なじみのあるサービス・クラブはLion’s Club です。ついでに言いますが、アメリカの建国の時Benjamin Franklin は七面鳥をアメリカのシンボルにしたかったのですが、それにはかなりの反対が在り、決まったのは頭の白いBold Eagle です。

オーストラリア、二ユージーランドでは羊の数は人口の数より多いと聞きます。羊はアメリカの牧場では見ないわけではありませんが、アメリカと羊はあまりイメージが会わないようです。私たちの頭の中にも、羊のイメージとはか弱い、誰かに世話をしてもらわなくてはならない、あまり利巧でない動物と考えられているのです。

イエス様は私たちを愚かな、弱い、誰かから面倒を見てもらわなくては生きてゆけない羊だと言うのです。しかし私たちは私たちのシェパードである神様の声を聞き、イエス様に従って生きたい人間です。羊たちは自分の羊飼いの声を知っていて、それには従いますが、他の羊飼いの声を聞いてもそれには応答しないのです。羊が皆同じような顔をしているのは確かで、他の群れの羊と区別するには特別なしるしを羊の体に刻むのです。アメリカの牧場で育つ牛は持ち主の牧場の名前の焼印を押されます。火で焼かれた熱い焼印は牛だからこそできるのですが、羊には其れができません。その代わり、ある羊飼いに従う羊たちの耳にナイフで切り傷をつける習慣があります。特別の切り傷のしるしです。それにより羊が迷子になった時、その羊を見つけた羊飼いは、どの羊飼いの羊かすぐわかるのです。耳の一部をナイフで切られた羊も、それを行なった羊飼いも痛い思いを経験するのですが、それはどこの羊飼いに属するのかを知るための必要な印です。しかし自分の羊を本当に大切に世話をしている羊飼いたちは、同じような顔をしている全ての羊に何か特別な特徴があるのを知っています。叉、24時間羊と共に生活してきた羊飼いは一匹、一匹の羊を見るだけでその羊の性質も分かっているのです。その一匹、一匹に羊飼いは名前を与えているはずです。たとえば、それは、あだ名で、食いしん坊さん、泣き虫さん、のんびりさん、おこりぼさん、、そうです、顔だけでなく一匹、一匹の羊の性質も知っているのです。同じようにイエス様、神様は、私たち一人ひとりの名前も、性質も、全て知っているのです。覚えていますか、イエス様の話された迷子になった羊の話を?それは、ルカによる福音書15章にあります。「あなた方のうちに、百匹の羊を持っているものがいたとする。そのうちの一匹がいなくなったら、99匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは、捜し歩かないであろうか」。

ここでの答えは、「勿論です。そのたった一匹のために山を越え、川を渡って探し回るのです」。迷子になった一匹の羊はかけがえのない羊です。愛されている羊です。そのたった一匹のために、羊飼いは全力を尽くして探しまわるのです。私たちが道に迷った時、一人で帰り道も分からず途方に暮れている時、神様は必ず私たちを探しに来てくださると信じます。わたしとあなたという世界の中で本当に小さい存在の私たちを神様は何時も見守ってくださっているのです。

世界の、いや、宇宙の全てを司る神様はあなた方全ての人の名前を知ってます。そして、あなたの名前は神様の手のひらに刻み込まれているのです。私たち時々自分がなんて取るに足りない、意味のない人間だと思うことがあるかもしれない。しかしイエス様は私たち一人ひとりの名前を知っています。そして私たちを大切な人と見守ってくれているのです。同じように私たちの羊飼いであるイエス様に従っていく中で、洗礼を受ける儀式は神様の子どもとなることです。水で父と子と聖霊のみ名によって清められ、額に十字架をマークされたわたしたちは、羊飼いであるイエス様の信仰の群れに入るのです。羊飼いであるイエス様は誘惑に打ち勝つ力、お互いを大切にして生きる人生でなくてはならない愛の精神を私たちの中に育ててくださるのです。

最後に、Alfred Soord という人の画いた絵を見てください。Google でThe lost sheep と捜索すると色々な羊飼いと羊いの絵が出てきますが、この羊飼いの絵ほど必死に迷った羊を助け出したいとの思いが私たちの心に迫ってくるものはありません。            

                       The Lost Sheep                             何かGrand Canyon のような所で足を踏み外してどん底ではないが、かろうじて飛び出た岩にしがみついている羊です。一足でも間違った動きをすれば、それこそどん底に落ちてしまう。恐くて恐くて動くことさえできない。羊は自分だけでこの危機から逃れることができない。誰かに助けもらえなければ・・・泣きながら助けを待っていた羊が上のほうを見たとき、そこに自分の羊飼いを見出したのです。同じくそこには大きな鷲が飛んでいる。私を餌食とでも思っているのだ。ああ恐い、羊飼いさん、助けてください。あなたによるしか私は助けられません。救ってください。羊飼いは探していた羊が見つかって嬉しかった。しかし今や羊を崖の上まで導かなければ。そのために自分の命をも懸けて羊の所に降りてゆこう。そんなドラマをこの絵の中に見るのです。私が来たのは、羊が命を受けるためしかも豊かに受けるためである」。命を受けるとはどういうことでしょうか? 私たちは今ここで息をしています。心臓も働いていて、体の中に血をめぐらし自分しかも豊かに受けるためである」。命を受けるとはどういうことでしょうか? 私たちは今ここで息をしています。心臓も働いていて、体の中に血をめぐらし自分がしたいこともやっています。しかし生きていながら、生き甲斐を感じていない人、つまり、私の人生とは何だろうと感じることもあるのです。しかしイエス様を救い主を信じるわたし達はわたし達がどんな人生を送ってきた、送っているものであっても主を信じることで救われるのです。救われるということは助け出されるということです。

世界の宗教の中で自分の修行、行いによって救いを達成する事ができるという教えはあります。しかしキリスト教、イエス様を信じるわたし達は、人生の嬉しい時、悲しい時、全ての時に神様であるイエス様を信じ、神様から一方通行で与えられる神様の赦し、慰め、励ましを両手で受け取ることです。強いて言うなら、今ここでイエス様、私たちの神様は今ここで私たちを愛してくださっているのです。救われるということは愛されていることを確認することです。イエス様から愛されている羊である私たちを何時も守り、緑の牧場に導いてくださる方、イエス・キリストこそ私たちのかけがえのない羊飼い、わたし達はイエス様に従う羊です。アーメン。

この度LCRではCare Connections Net Workを立ち上げました。

詳細は本文をご覧下さい。

LCR CARE CONNECTIONS NET WORK

ルカによる福音書24章13-35節

「地震、竜巻、火事、親父(おやじ)」 “Earthquake, Tornado, Fire and Father”

私たちの父なる神、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。

アーメン。

先週の初め、娘は大学時代の友だち、今アラバマに住むJessica から電話で今までになかった、カテゴリー5の竜巻がバーミンガムを襲い、200人近い死傷者と千軒以上の家を崩壊したことを知らされました。Jessica の家はたいした被害はなかったのですが、彼女のおじさん、おばあさんの家は土台を残しただけで、家も、車も、大木もすっかり飛び去られてしまったのです。Jessicaのおじいさん、おばあさんは警報が鳴ったとき、家の中に在る物を、一つも持ち出す時間もなかった、ただ急いで車で逃げ出したのです。命は時の思い出の記録が一瞬のうちに消え去ってしまったのです。

叉テキサス州の北で何週間も前えより火事が始まり、その大きさはアメリカのNew Jersey州以上の大きさに拡大しました。これはLos Angeles, Orange County, Inland County を合わせた以上の大きさで、Dallas, Fort Worth に住む人たちも非常に心配でたまらなかったのです。

災害と言えば、繰り返し、繰り返し見てきた、東日本を襲った地震の恐ろしさ、また津波の驚くほどの破壊力を見て、千年に一度の大きさの地震には言葉もで出ません。放射能の問題もまだ長く続くでしょう。私たちは日本がこの経験から学んだことにより何よりも精神的に立ち上がってくれることを望みます。精神的に立ち直ることは全て他のことも正しく改善されてゆくことだと信じます。

このような災害を考えているうちに、ふと頭に浮かんだ言葉が「地震、雷、火事、親父(おやじ)」です。私たちの恐れているもの、それは世界の色々な処に住んでいる人達にとっても同じだと思います。どの宗教も私たちの人生の中で恐れと救いについて教えています。私はクリスチャンですが、他の人が持っている信仰を云々言うのは好みません。と言うのは、信仰を生み出す世界の宗教の中に、私たちにまだ分からない力、それは、哀れみと言うか、癒しと言うか、許しというか、慰めと言うか、救いと言うか、人間だけにしか分からない霊的な力がそこに見出されるからです。私の両親は父の両親と共に住んだ一軒2世帯の中で育ちましたから仏壇も毎日見ていました。そこにお線香を炊いて両手を合わせて南無妙法連華経と祈る祖父と祖母を見ていましたし、お盆の時には胡瓜や茄子で馬を作り仏様が帰ってきましたと言っていたのをよく覚えています。同じ家に住んでいながら、私の祖父と祖母がキリスト教の信仰を受けとった両親と一度も衝突したことはありませんでした。お互いが、お互いの宗教を認め合っていたからです。

私の思い出の中で両親の夫婦喧嘩はありましたが、それは母がぶつぶつ言っているだけで父は返答したり、手を出すことはしなかった。ただ口を結んでしばらく母のところから離れていた。しかし時間が経つとお母さんも何で喧嘩腰になっていたのか、もうケロットして「ごはんですよ。カレーライスよ。暖かいうちに食べましょう」で万事OK。子供心に、夫婦喧嘩は大変になると思ったことはありません。ですから私も父譲りの穏健型、立野先生から言われた、「ほんわか」さんです。

でも一度だけ父にひっぱたかれたことがあります。それは高校のとき、自分の二階の部屋で隠れてタバコをすってた時、「豊、電話」との父の声、急いで下に降りていって友達と長話し。「なんか煙臭い」と父に言われて二階に飛んでいった。吸っていたタバコが灰皿から机の上に落ち、そこにあった紙切れの中で燃え出していたのです。こいつはやばいと思ったときには父は座布団で机の上の火事をたたいて日を消していました。その時父から出た言葉、それは「馬鹿野郎」です。そしてその後、平手で顔をピンタされました。その時の親父の怖かった顔は忘れません。まさに恐い者は、地震、雷、火事、おやじです。

何か前置きが長くなりましたが今日の福音書に戻りましょう。

今日の福音書は、エルサレムの町からエマオという町にある自分たちの家に帰る途中に出会った、二人の旅人とイエス様との会話です。この二人は過去一週間に渡って起ったイエス様のことを語っていたのです。そこにイエス様が入られて「だれのことを話しているのか」と聞かれたのです。エルサレムはイエス様の十字架による処刑、復活の話しで皆興奮していたはずです。そのことを知らないとはあなただけですよと二人の旅人は言ったのですが、福音書には彼らの目はさえぎられていて、其れがイエスだと分からなかったと書いてあります。

二人の旅人のうち一人はクレオパと言う名の人ですがもう一人の人の名前は出てきません。皆さんのうちこの福音書を何回も読んだ人がいると思いますが、この二人の旅人は二人の男と思っている人たちが多いようです。二人の兄弟、あるいは父親と成人の息子、しかしもう一人の人がクレオパの奥さんであってもいいのではないでしょうか?その夜行き着いたところは彼らの家でした。

旅の中で話されたことを知らないとイエス様は言ってません。イエス様はこの一般の庶民であっただろうクレオパのイエス様に対しての思いに心が弾んだはずです。イエス様自身が旅の中で自分のことを証し始めたのです。勿論その時クレオパも、もう一人の旅人も其れがイエス様だとわかっていなかった。それにしてもこの人は只者ではないと思ったはずです。旧約聖書の預言、叉救い主として来られた、そして復活したイエス様はこれから彼に従う人たちとどのように拘わりがあるのか、二人の胸の中は希望と喜びが強く生まれてきたはずです。さて彼らの家について、イエス様に一泊するようにすすめたのです。イエス様はそれを承知しました。すぐに食事の支度ができ、と言ってもそのころの食事は私たちの一食3千カロリーのものではなく、パンと水、干魚そしてワイン、そんな物だったと思います。3人がテーブルに着くと、イエス様はパンを取り、祝福し賛美の祈りを唱え、それを裂いて二人に渡したのです。イエス様はこの二人と聖餐式をおこなったのです。すると、二人の目が開け、イエス様だとは分かったのですが、その姿は見えなくなったと福音書に書いてあります。私はこの時からこの二人は人生が変わったと信じます。イエス様に出会い、イエス様の聖霊に触れた方の人生は変わるのです。聖餐式で皆さんに言う言葉、それは、「あなたの心の中でイエス様を主と認める者はどうぞ、主の聖餐をお受けください,そこにイエス様がいらっしゃるのです」。「でも先生、私はほかの人から聖餐は洗礼を受けたものだけが受けられる特権と聞いていますが」、と言われるかもしれない。それがその人の想いであるなら洗礼を受けるまでお待ちくださいでいいのです。しかし主の聖餐の主人公はイエス様です。イエス様の恩恵を心の中から求めている人にイエス様がそこにいられることを経験していただきたいのです。これはマジックではありません。神様のギフトです。神様が私達と何時も共にいるよとの約束です。勿論洗礼は大切な儀式です。神様の子どもとして神様の愛を人生の中で実行して生きたい、神様の恵みをほかの人にも分かち合うことのできる私になりたいと言う宣言の儀式です。

私は自分が牧師として神様に仕える者として頂いたことに何時も感謝しています。また、聖餐式の中で私たちの罪の為に死んでくださった神様を覚えます。どんな罪でも神様は許してくださるのです。そこで、重い心から開放されます。感謝の心が育ちます。同時に、全ての人のすばらしい所が見えてきます。お互いに許しあう思いが必ず生まれます。其れがキリスト教の精神です。一言で言うならば神様を愛し愛される精神です。今私がここに立って皆さんの顔を見ている時、あなた一人ひとりの中に甦りのイエス様を見出すことができます。「でも先生、人間は所詮、罪人でしょ。何故私たちの中に神様を見るなんて言えるのですか?」と言われるかもしれない。理屈ではないんです。私は神様から愛されていると信じられる人は幸福なんです。神様の顔の中にあなたの顔があるのですから。

最後に一言。地震、竜巻、火事、親父の親父とはどういうことですか?親父は怖い存在のようですが、私にとって私の親父の存在は私の心のよりどころでした。母がそうではなかったと言う訳ではありまん。しかし父は私が何も言わなくても私の思いが何時も分かっていた人、私に失敗することを心配しないでいいよ。それ以上に可愛い子には旅をさせろ、自分で自分の道を開きなさいと励ましてくれたのです。そして私も二人の子どもの親父です。親父でもお袋でもいい。私たちがイエス様に従って生きる生き様を自分の子どもだけでなく全ての人に見てほしい、そんな自分を神様に支えられて生きて行く私たちになろうではありませんか?アーメン

 

「疑いから信仰に、不安から平安に」私たちの主であるイエス・キリストより祝福と平安があなた方の上にあるように。アーメン。今、私が聖書の中の人物の名前を言います、そうしたら皆さんにその人達をよく表している最初の言葉を出してみてください。たとえば、ノアの箱舟、ユダの裏切り、パウロの回心、モーセの十戒、そして今日の主人公、それはトマスの疑いです。あるいは疑いのトマスです。英語で彼のニックネームはDoubting Thomas です。このトマスはマタイ、マルコ、ルカによる福音書ではただイエス様の弟子として名前が書かれているだけです。ヨハネの福音書はトマスについて書いてありますが、それも彼について3回だけです。一回目はイエス様が友達のラザロが死んだことを弟子たちに伝え、死んだラザロの所に行こうと言ったその時に、イエス様に返した「私たち行って、先生と一緒に死のうではないか」と言ったのはトマスです。イエス様はユダヤ教の祭司、叉律法学者に嫌われていました。イエス様は人への偏見を許さなかったからです。そして、世間で見放されている人たちをこよなく愛した人です。ですからイエス様のイスラエルの宗教を司る人たちと何時も衝突していました。2回目にトマスがヨハネの福音書に登場するのは今日の福音書の箇所で、他の弟子たちは前日甦られたイエス様に出会っていましたが、そこにいなかったトマスはその翌日、「私は、その手に釘のあとを見、私の指をその釘の跡に差し入れ、叉、私の手をその脇に差し入れてみなければ、決して信じない」と言ったのです。3回目、これが最後ですが、トマスが福音書出てくるのはイエスさまが復活後に、ガリラヤ湖で漁師の仕事に帰っていた7人の弟子たちに神の国の到来を全ての人々に宣べ告げなさいと宣教師としてのは働きを生涯の仕事として祝福された時です。イエス様の選ばれた12人の弟子は皆それぞれに個性があり性格も一人ひとり違います。しかしイエス様に従って生きようとする私たちにも共通して言えることは私たちは神様が本当に何時も私と共にいてくださり、私を愛してくださっていると強く確信する時もあれば、私は神様の愛をいただく価値のない者、惨めな人間ですと感じる時も沢山あるのです。私は、時には、自分が愛されるべきでない人間であると知っているからこそ、神様の赦しと哀れみを求めるのです。イエス様がトマスに言いました。「私の釘による傷跡を見なさい。それによってあなたは私を信じることができる」と。イエス様は私たちの受けるべき罪の重荷を背負って私たちの代わりに死んでくださったのです。しかしイエス様を信じる私たちの手と心にも目には見えない傷跡があるのです。それは傷跡と言うより、他人を助けたしるしです。他人を許した証拠です。他人を愛した、大切にした神様から戴いた思いやりのサインです。ある人がイエス様に従って生きている証拠はイエス様が私たちの求めた隣人との関係、それは困っている人を助けること、過去の罪を許してあげること、それ以上に、自分の罪をも告白することです。心から自分の行いを反省して、へりくだって神様に許しを求める時、神様の愛を求める時、神様は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。トマスの言葉をパラフレイズして言うならば、「わたしはイエス様の手と脇の傷跡を見なくては、そこに私が指で触らなければ私はそこにいる方が本当に生き返ったイエス様とは信じない。」イエス様のほかの弟子たちはイエス様の復活した日曜日の夕方、イエス様が復活されたということはマグダラのマリアから聞いていたのです。しかし、其れが本当ならば、イエス様が十字架に架かった時、ヨハネを除いては、自分たちもイエスの弟子であったということで、捕まえられ、鞭打たれ、最後には投獄され、処刑されてしまうに違いないとの恐怖に駆られていたのです。でもそれは私たちの姿ではないでしょうか。もし私たち一人ひとりがトマスであったら、他の弟子の言った言葉、「私たちは復活のイエス様に出会った」と聞いてそれが本当かとすぐ信じられたでしょうか?日曜日の礼拝の中で、毎週わたし達は使徒信条という言葉を一緒に告白します。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず・・・・我は聖霊を信ず、聖なるキリスト教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだの甦り、永遠の命を信ず」。この使徒信条はイエス様こそ私たちの神様であると言うステートメントです。私はイエス様と顔と顔を合わせて出会ったことはありません。イエス様の声も聞いたことがありません。しかしイエス様は私の心に存在しているのです。イエス様は聖書の言葉を読む時、あるいは皆さんと信仰の喜びを分ち合う所で、私に、叉私たちに話しかけてくださっているのです。もしあなたが自分の健康について質問がある時、どこに行きますか?それは、お医者さんです。若しあなたが、水道、またはガスの修繕をしなければならない時、だれを呼びますか?それはプラマーです。若しあなたが、あなたの信仰について質問があるとしたら何処に行きますか? それは教会の牧師、教会学校の先生、あるいはBible Classではないでしょうか。コンピューターの前に座って、あなたの信仰の問題を或るいはYahooに質問することも出来るかもしれない。それに対してコンピューターは答えを与えてくれるかもしれない。しかしコンピューターは心と心の対話の中での答えは与えてくれません。信仰の問題について答えを聞きたいならば、私の答えは、神様に直接祈りの中で質問するのが一番です。答えがすぐに出てこないかもしれない。神様は瞬間的な答えをくれないかもしれない。しかし神様は信頼するものに必ず答えを与えてくださいます。説教の中で信仰について聴くことができるかもしれない。あるいはイエス様の下さった聖餐の儀式の中でイエス様の聖霊にふれ、聖霊によってあなたの信仰の中での質問の答えが与えられることもあるのです。今日のトマスの話の中で知って欲しいのは私たちの疑問、疑いを私たちの知識、経験によって解決することは出来ないと言うことです。人と人の交わりの中で、特にイエス様を主と認め、イエス様に従う信仰を持つ仲間の中で、祈りの中で、叉一緒に神様の言葉、聖書を読んでゆく所で、聖霊によって答えが与えられるのです。一人で聖書を読んでゆく事は大切です。しかし、仲間の人たちと一緒に聖書を読むのも大切です。お互いの経験、お互いの信仰を心から分かち合うことにより私たちは主の愛と平安を経験するのです。祈りましょう。