「アメリカの独立祭に思う事」”Pondering on America on The Independence Day”

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。        

 

説教の初めに言って置きますが、今日与えられた福音書と私の説教の内容とは関係がありません。アメリカ独立祭はアメリカの歴史の中で大きな意義のある歴史的なお祭りの日です。どこの町に住んでいても独立際を祝うパレードがあり、その夜に花火が空をきれいに飾った事と思います。私の家でも毎年BBQを食べながら、RiversideMt. Rubidoux のふもとから打ち上げられる20分にわたるきれいな花火を見ることができます。

日本では花火は何かのお祭りの時、それも夏のお盆の時に駄菓子屋で買った線香花火、ねずみ花火をしながら杏(あんず)を水飴でくるんだお菓子を食べた懐かしい時を思い出します。また祖母を手伝ってキュウリやナスに割り箸を使って動物を作り、その動物に乗ってご先祖様がお彼岸の日に帰ってこられると聞きました。

アメリカ人はこの国の建国以前、何千年も前からこの土地に住んでいたNative Americanの歴史と比べたらこの国も歴史は本当に短いものです。177674日にアメリカはイギリスから独立したのですが、それは日本の徳川幕府の中間の時だったはず、しかし日本とアメリカの関係はまだまだ明治維新を待たなければならなかったのです。アメリカ人は一般に自分の国について大きな誇りを持っています。それはそれまで世界を制していたと言われるイギリスと独立戦争に打ち勝ち、恵まれた資源と、世界中から来た移民によって建国の精神に燃えていたからです。

私の父方の祖父はまだ二十歳そこそこで、明治40年、西暦1907年にアメリカに移民を希望して、日本郵船の「加賀丸」というシアトル行きの船でこの国に来たのです。この国でいろいろな仕事をして8年たった時日本から20歳でアメリカに渡ったものは徴兵拒否者と判定されたのです。岸野家の名誉のために帰ってこいとの命令でしぶしぶアメリカを出、日本に帰ってきたのです。私の育った家は私の両親、私の祖父、祖母と一緒でしたから、そこでオールドブラック・ジョウやオースザンナなどの歌を祖父が歌っていたのをよく思い出します。私が大学3年の時、アメリカの神学校に行くことが決まりましたと祖父に知らした時、「それは良い、ぜひ行きなさい、それがお前の希望なら」と最初に言ってくれたのも祖父でした。

今ここにいらっしゃる皆さんは、アメリカに来て50年以上経っている方もいま すが、私が察するに、人生の半分はこの国で過ごしている人たちがほとんどでしょう。アメリカに来た理由は、一人ひとり違うと思いますが、今この国にいるということは、アメリカが私たちの定住場所だからです。

何年か前、日本に両親を尋ねていた時、母の姉、私の叔母が病気で寝たきりになっているのを知って、独りでお見舞いに行きました。その時、昔のことを良く話したのですが、さておいとましますと言う時に、「豊さん、あなたと大切なことを話したい」と叔母のベットの横で、「さて大切なこととは何ですか?」と聞いたところ、こう言われたのです。「豊さん、あなたは両親を捨てたのね。もう日本に帰ることあるの」と。それを聞いて、私の胸の中で、ムカッとする思いになりましたけれど、それをじっと抑えて言いました。「私は両親を捨てたなんていわれると悲しくなります。毎年一度、あるには2度も日本に帰ってくる理由も、両親への親孝行と思い、少ない時間ですが、有効に過ごしてきたのです。ナンシーだって、日本に行って親孝行して来てねと言っているんです。二年ごとに日本に行った理由も子供たちに、おじいちゃん、お婆ちゃんのことをもっとよく知ってもらいたいからです。大学生一年生の時、私は牧師になりたいと思うようになり、またそのための勉強もアメリカの神学校でする決意をしました。両親にそのことを話した時、母は寂しそうな顔を見せましたが、父は、「それが豊のしたいことであるなら、中途半端な思いでなく、一生懸命やりなさい」と言ってくれたことに今でも感謝しています。教会のインターン・シップの時知り合ったナンシーと出会い、神学校の卒業式、フィラデルフィアの教会に副牧師として呼ばれたこと、按手礼、そして結婚式と忙しい時を1979年の6月に持ちました。

さて皆さんの内に、岸野先生、今日の説教は、「アメリカの独立記念日を覚えて」と言う題なのに、何かアメリカの独立記念日についてお話しするんですか?」と思っているかたがいるでしょう。今から本題に入ります。わたしがGettysburg, Pennsylvania の神学校に入学したのは1975年の9月でした。前にも何回も話したと思いますが、Gettysburgはアメリカの南北戦争の激戦地です。神学校はその戦場のど真ん中にあります。そしてGettysburgの町は政府から国立公園として認められています。また神学校は1826年に設立されたアメリカでは一番最初のルーテル神学校で、私が神学校に入学した翌年の1976年は150周年のお祝いの年としてその準備に忙しい時でもありました。当時、外国人の神学生は私と他にフィリピンとナミビアと言う国から来た人たちだけでした。

南北戦争はアメリカの東部の州のいろいろな所で戦われましたが、1876年の7月にGettysburg で戦われた戦争の結果、南軍は後退したのです。この南北戦争を背景にして書かれた小説が皆さんの知っている、「風と共に去りぬ」と言うマーガレット・ミッチェルさんのものです。後に映画化されアメリカの中で今まで一番親しまれた、クラーク・ゲーブルとビビアン・リーの共演した映画です。Gettysburg3日にわたっての戦争で5万人近くの人が命を失ったのです。この南北戦争について少し語りますと、アメリカの東の州は北が、機械を使っての工場が中心の経済体系を作くりあげていたのに比べ、南の州は農業中心の経済体系、またそこでの労働は機械でなく、人の手で行われていたのです。そこでの労働者は、アフリカから連れてこられた奴隷、アメリカの市民権も持たない、選挙権もないしたげられていた黒人だったのです。

さて年を100年さかのぼって1776年の74日にイギリスより独立戦争に勝ったアメリカは、独立宣言をし、その後、憲法草案の仕事に入ったのです。北の州は奴隷解放を訴えましたが、南は農業中心、そこでの働き手の奴隷解放には大反対をしたのです。人間は聖書、それもイエス様の精神で読むとすべての人が平等であるはず。これは多くの北部の人たちに受け入れられたのですが、南部の政治家に反対され、 憲法草案にすべての人の平等さが認められなかったのです。しかし南北戦争で北軍が勝ったことにより、リンカーン大統領の政治政策上の大きな貢献は奴隷制度の廃止でした。今日アメリカの国のおいて、宗教の自由が認められています。キリスト教だけではなく、ユダヤ教も、回教も、仏教も、ヒンズー教も、モルモン教も、その他いろいろな宗教がありますが、アメリカの国が誇ること、それはこの国において、すべての人に、信仰の自由があるということです。

岸野先生、時々皆さんから、「先生、あなたはとても信仰についてリベラルですね」と言われます。リベラルと言われても、私はイエス・キリストを主と信じ、イエス様の精神に従って生きて行きたいのです。イエス様の愛を多くの人と分かち合いたいのです。聖書を読むことにより、私たちはイエス様の愛の御心がわかるようになり、イエス様の愛が、私たちの言葉だけでなく、私たちの行動の中で神の国が実現されるように努めて生きてゆきたいのです。

今年の74日のIndependent day 4日前にすでに終わっていますが、私たちアメリカに住むものにとって、また、キリスト者として私たち一人ひとりが、主なる神様を信じること、またこの神様であるイエス様の愛の精神が私たちの人生の中で毎日実行されることを祈ります。

アーメン。

週報通算#1219号       (日本語)

 

2012 7 15W

今週は誕生会があります。

林愛子さんがSan Diegoに引越しされますので送別会。

2012年7月8日週報通算#1218W号    (日本語)

2012 7 8W

 

2012年7月8日週報通算#1218E号    (英語)

Sunday English Bulletin 1218E

 

 

マルコによる福音書5章21-43節  「この女の苦しみ」 “The Suffering  of This  Woman”

 

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。

今日の福音書の話はヤイロと言う名の会堂司が、イエス様の足元にきて、ひれ伏し、病気の娘を治してくださいと頼んだことから始まります。二人が、ヤイロの家に行く途中、12年の間出血の止まらない病気の女が、イエス様に自分の病気を治してもらいたい思いで、イエス様についてきて、イエス様の服に触ったのです。するとたちまち女の出血が止まったのです。しかしこの女にイエス様がまだ話している途中、ヤイロの家から使いのものがやってきて、ヤイロの娘が死んでしまったことを告げたのです。

皆さんの中にこの話を何回も何回も聞いたことがあると憶えている方もいらっしゃるでしょう。マタイ、マルコ、そして、ルカによる福音書にこの記事は共通に書かれているのです。それほど福音書の著者にとってこの記事は大切な意味があるのです。

皆さんがまだ、小さな子供を抱えて生活していた時、子供が病気になると心配でたまらないとそのような経験をした事のある方, 沢山いるはずです。子供が発熱して40度Cの熱が出てきた。それが2日続いている。何かうなされている。咳も出てきて、体がだるそう。大人の私たちだってそういう時にはうろたえてしまうことがあるのです。

私は過去に何回もヤイロと彼の娘について説教をしたことがありますが、この出血の止まらない、みんなから嫌われていたと思われるこの女について今日まで説教の中で話したことはありません。何か云いづらい、聖書の中で言われているこの女の病名が、長血といっても男である私はそれがはっきり分からなかったからです。しかし出血が止まらないとはただの病気ではないはずです。私たちの血は空気に触れると固まるそれによって出血が止まるはずですが、これはそれ以上の婦人病で12年にわたって血の止まらないとはなんと悲しいことではなかったでしょうか。ところで聖書にはこの女の名前が出てきません。名前の出てない人とはどういうことかと言うと、或いはこの女は、みんなから嫌われていた、仲間はずれのされていた、みんなから避けられていた人ではなかったでしょうか。

ユダヤ教の律法によると、長血の人はUntouchable, ほかの人は触ってはいけない者といわれていたのです。日本人はアメリカ人に比べ人と人の skin touch を控えます。アメリカ人はその点、 “give me a hug, a big hug”と言う方で、よくhug された時に、お相撲さんの上手を取るか、下手を取るかの格好で写真に写されたの見て、独り笑いしたことがあります。長血の女は一般社会から嫌われていた。ハンセン氏病にかかった人のようにその人が近くに来ると人は遠回りしてまでその人に近づくくことを敬遠したのです。誰からも声をかけられない、声をかけられたとするなら、「お前、わたしたちに近づくな」だったでしょう。

旧約聖書のレビ記と言う本は、ユダヤ人の守らなければならない戒律の本ですが、この女は12年も、毎日、毎日、みんなから、「穢れた者、神から見放されたもの」と世件から呼ばれていたのです。英語でいうなら、この女はuntouchable, 誰から触られることもない、近くに行ってもいけない存在の人とユダヤ人の律法によると人々から見放された女だったのです。皆さんがこの女の苦しみがどういうものであったか、察してください。この女は解決のできない毎日、毎日血の止まらない病気で心も体も疲れきっていたはすです。しかし私たちの中には、病気とは言わないまでも、誰でも何か自分の心を痛めているものがあるはずです。

ある人にとってはそれが経済の問題であるかもしてません。2008年までアメリカの金融業は景気の良い道、甘い蜜を吸っていた。それが1930年の大不況のようにがたっと変わり、多くの人の貯蓄、株券、そして自分の持っていた家の支払いができなくなった。倒産した。職を失い、家も取られ、投資していたお金の価値もなくなり, たちまちのうちに、Homeless  になってしまった人たちがたくさん出てきました。またある人にとって、家族との問題が原因で身内の人とcommunication もとざされてしまった。そしてまたある人は、話し合う家族も、友達も、昔なじみの友達からも音沙汰が無くなり孤独でたまらない、こんな惨めな思いでどうやって生きていけるだろうと毎日が苦しみの連続の人もいるのです。人間として一番悲しいことは、共に心を打ち明けられる友達がいないことではないでしょうか。

長血の女が、「そうだ、もしイエス様に触れたら、わたしの病気もどうにかなるのではないか」と思うその心をイエス様はもうご存知だったと思います」。もう一度言います。イエス様はもう私たちの心の中を良くご存知です。私たちの悲しみ、悩み、心の憂いも知っているのですが、私たちはそのことをイエス様に祈りの中で話さなければなりません。

この女は12年間も続いている治らない病気は、神様からの罰として考えざるをえなかったのです。26節には、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たずますます悪くなるだけであった」。

しかしこの女はイエス様の噂を聞きました。イエス様は奇跡を起こすことのできる方, この人なら何とかしてくれるかもしれないと、藁にもすがる気持ちでイエス様の跡を追ったのです。群衆の中に入り、後ろからイエス様の服に触れたのです。イエス様の後ろについてきた人はこの女だけではなかったでしょう。しかしその混み合っている中で、この女に触れたものは皆汚れた者になるのです。「お前のような者がこんな所に来てるとは、もしわたしたちにぶっかっただけで、私たちも穢れた者になってしまう。ここから出て行け」と非難の声が聞こえるような感じがします。それ以上にもしイエス様に触れると言うことはイエス様をも穢れたものとしてしまうのではないでしょうか。

ですから、恐怖と希望と羞恥心が絡まったような思いでイエス様のすぐ跡を追い、震える指でイエス様の服に触ったのです。

福音書の29から30節にかけてこう書かれています。「すると、すぐ出血がまったく止まって病気が癒されたことを体に感じた。イエス様は、自分の中から力が出て行ったことに気がついて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われたのです。

井上洋治さんと言うカトリックの司祭である方が、この長血の女について「ゆるしによる回心の物語」と言う解説の中でこう書いているのを紹介しましょう。

この女性は、12年間も苦しんでいた出血を止めていただいた。しかし自分としては、はっきりと病状を訴え、お願いしたわけでもなく、ある意味ではずるいような形でイエス様の服にちょっと触れたわけです。普通ならば、「なんということをするか。もし本当に直していただきたいのなら、恥ずかしいとか、みんなから非難されるのが怖いとか、そんな気持ちは全部捨てて、謙虚に自分の苦しみを話すべきだ」と言われるかもしれないと思って、彼女は恐ろしくなったのだと思います。

しかしイエス様は、そういうようなことは一言もおっしゃらず、ただ彼女の長い間の寂しさと涙とを受け入れられたのです。そしてイエス様は、この女性にこう言いました。「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。もうその病気を悩んだりせず、元気に暮らしなさい」。この27から28節にかけての福音書の言葉はとても大切な言葉です。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れれば癒していただける」と思ったからである。同じように新約聖書のロ-マ人への手紙1017節にこう書いてあります。それを読んでみます。「じつに、信仰は、聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞く事により始まるのです。

私たちの信じる、復活されたイエス様は今ここに、私たちの間にいるのです。あなたの喜び、悲しみ、孤独な思いをすべてご存知です。

私たちの周りには年取った親の面倒を見ながら生活している人たち、年に2度も3度も日本に帰って本当に短い時間ですが、親孝行してあげる人たちが沢山います。愛する人たちと共にいられないのは寂しいことですが、イエス様は私たちの愛する人たちをも見守ってくれていると信じます。

最後にこの長血の女の話の前に出てきたヤロイとその娘について一言。ヤロイは長血の女がイエス様によって癒されるまで、辛抱強くイエス様を娘の所に連れて行こうと待っていたのです。さてこれからヤロイの家に行きましょうと言っているその時、ヤロイの家から使いの者が来て娘さんが死んでしまったことを知ったのです。

この娘さんが、あなたの娘でしたら、あなたはそのニュースを聞いてどう思ったでしょう。「イエス様、この女を病気から救ってあげたのは良かったことですが、もしわたしの娘の元に早く行けていたなら、娘は、助かったでしょうに」と言ったはずです。

イエス様はそれに対して「恐れることはない。ただ信じなさい」とヤロイに言われたのです。イエス様はヤロイの家に着くなり両親と3人の弟子だけをつれて子供の手をとり、「タリサ、クム」、それは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言う意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだしたのです。

聖書の奇跡の話はある人にとってつまずくものなのですが、イエス様を神様と信じる者にとってこれは嬉しいニュースです。これは神様にとって、不可能なことはないという記しです。しかし奇蹟を経験したことで信仰が生まれるのではなく、わたしたちは、信仰生活の中で神様の恵み、恩恵、英語で言うGraceによってのみ生かされていることを知る、そのところに私たちの信仰があるのです。アーメン。

マルコによる福音書43541

「イエス様からいただく平安」“Peace from Jesus”

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安があなた方にあるように。アーメン。

ある名前の知られた画家、画家がお金持ちの銀行の頭取から何か平安を象徴するような絵を描いてくれと頼まれました。画家はさんざん考えたあげく、時間をかけて、空の真っ青な, のどかな麦畑の光景をバック・グラウンドに、牛と馬が草を食べている、そして、鳥たちが飛んでいる、いかにも平和らしい絵を描いたのです。画家は、自分で納得し、胸がわくわくしてこれを銀行の頭取の所にもって行ったのですが、彼は「ううん、ううん」とため息、がっかりしたような感じで、こう言いました。「君の絵はいい絵ではあるのは確かだが、どうも私の思っている平安さと違う、もう一つ描いてくれ。画家は少しがっかりしましたけれど、「平安」とはと頭の中で何日も考えた後、今度は、前の平和的な景色から人間関係の中で見られる「平安」な姿の絵を描いたのです。それは、お母さんが赤ちゃんを抱いているシーンです。赤ちゃんは抱かれているお母さんを信頼してとても穏やか、また、赤ちゃんを抱いているお母さんもとても幸福そうに心の温まるこの絵を今度は自信をもって描き上げました。完成した絵を持ってこれこそはいい平安のシーンと喜んでもらえるだろうと期待して銀行の頭取を尋ね、差し出した絵をじっと見つめている彼からどんな答えが来るかどきどきしながら待ったのです。彼は言いました。これは素晴らしい母親と赤ちゃんとの絵ですね。そこに平安があるのは見てすぐ分かります。でもお願い、もう一度これこそ平安のシーンだというものを描いてくれ。画家、いやこのアーチストは心が落ち込んでしまったのです。何故私の感じた平安の姿が頭取は感じてもらえなかったのだろうと。しかし、私にとって平安とは何であろうと心の底を見つめるように、彼は聖書のページを読み始めたのです。「私がいただく平安とは何であろう」と今回は、長い時間をかけて彼が心の底からの平安を求めたのです。さてここで皆さんにも自分で感じる平安とはどういうものであろうかと考えてみていただきたいのです。もちろん、一人ひとりの平安のイメージは違うでしょう。それを今、発表してくださいと言うのではありませんが、自分が納得する平安、それはほかの人のイメージと違っていても当たり前です。30秒あげますので考えてみてください。その結果、アーチストはインスピレーションを受け、これまでになかったように、そのイメージををキャンバスに描き始めたのですその平安をテーマに描かれた絵とはどんなものだったのでしょう? 海の荒れ狂う嵐が岸壁をすさまじい勢いでアタックしている、空は黒い雨雲で覆われ雷は思うままにあちらこちらに落ちてくる。もしそこに私が独りでいたならば、大波呑み込まれてしまったでしょう。そのような嵐の中で、そのような人生の嵐の中で、私たちは、神様、助けてください、私はもはや死にそうですと叫ぶのではないでしょうか。しかし、大波のかなたに光が見える。黒い雲の後に真っ青な空が見える。今大きな試練の中にいた私たちが、どうやら嵐を乗り越えられるのではとの希望が与えられる。、画家、アーチストはこのような人生の過渡期に起こる難しいチャレンジの中に、神様の約束した希望を岸壁の中の一番高いところにある鳥の巣、その中で、親鳥が雛を翼で囲い、あたかも親鳥が、「心配しないでいいよ、私がみんなを抱いてこの嵐を通りぬけてあげるから」と、まるでこれは、神様が私たち震え、おののいている者に「私を信じなさい。恐れることはない」と言っているかのように恵みの平安を描いたのです。

突然私の頭に出てきたのは、葛飾北斎という有名な、浮世絵の版画家が作った神奈川県横浜の沖合いで、荒波に呑み込まれそうな漁師たちが真剣に船にしがみついていると言う絵です。しかしこの版画の中心に富士山という日本一の山がある。富士山は、日本人にとって希望の山であり、わたしたちの心のよりどころです。アーチストは平安という主題で描き上げたこの絵を銀行の頭取に手すと、「まさにこの絵は私が心の中に描いていたものと同じだ」と言って受け取ってくれたのです。

さて私たちが聞く言葉、平安Peace, 静穏、tranquility, 冷静という心の持ち方を、人生の荒波の中で感じられるようになることは大切なことです。今この教会に来るようになり、あと2ヶ月で赤ちゃんが生まれるという Flacks さん夫妻も新しい命をまち望むうちに平安な心が必要と感じているでしょう。

イエス様の弟子たちは、いつも神様からの平安の恵みをもとめていたのです。私たちにとても同じです。私たちが人間として神様に答えてほしい質問は、「神様、あなたは今どこにいらっしゃるのですか?」、「神様、あなたが私に答えてくれないのはあなたはねむっているかですか?」「神様、あなたは私の祈りを聞くことができるのでしょうか? 神様、私の祈りを聞いてください、答えてください」と。

今日の福音書はイエス様の弟子たちがイエス様と船の中にいた時、激しい嵐に会われて、転覆するかもしれないと言う怖い経験をしていた事件です。船と言ってもそれはせいぜい5メートルぐらいのもので、少しの風が吹いても随分揺れたでしょう。それが突風によって沈没するかもしれないように揺れたのです。弟子たちの多くは漁師でしたが、この嵐の沈没するかもしれない船の中で一人ねむっているイエス様に、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないんですか」と叫んだその心境はわかります。私たち一人ひとりが、悲しみに、悩みにくれていた時、また、病気で心も体も疲れきっていた時、「イエス様、私を哀れんでください。私を助けてください。あなたのほかに誰が私を救うことができましょうか」と祈ったことがあったはずです。

もう10年ほど前のことですが、ある日、日本から電話がかかってきました。母からの電話です。「お父さんが事故にあいました。順天堂病院に運ばれました。お父さん死んじゃうかもしれない。今日手術を受けます。頭の中で血管が破裂したらしい。ゆうちゃん、日本に帰ってきてくれる。お母さん独りでどうしていいのか分からない」と。それから24時間後、東京の家に飛んで行き、母は私の顔をみて「ゆうちゃん、本当に帰ってきてくれたのね」とワーッと泣き始めたのです。私の存在が母に何か心の支えを与えたのでしょう。父が事故にあったのは日曜日の朝。一晩冷やしてあった大きなスイカを自転車のハンドルの前にある篭の中に入れて教会まで行く途中、交差点でトラックにぶつかりそうになり倒れたのです。なんとスイカをかばうように倒れ、スイカは大丈夫でしたが、父は道路で頭を打ち、救急車で順天堂病院まで運ばれました。CTスキャンでくも膜下出血とわかりその日に手術をしたのですが、それ以来、頭の切れた父が悲しくなるほど変わってしまったという悲しい事件がありました。

しかしこれは私だけでなく、ここにいる皆さんも人生の悲しみ、苦しみを感じたはずですわらをも掴む思いとは良く私たちのどん底の苦しみ、悲しさの中で、「神様、お願いです。助けてください」と叫んだ私たちではなかったでしょうか?

「神様、あなたはどこにおられるのですかあなたは私の悲しみ、苦しみをご存知ですか? 私の祈りが聞こえますか。そうならお答えください」。と私たちは、イエス様が共にいてくださることを願うのです。私たちの神様は必ず、必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。神様は、「私は十字架に付けられたイエスとして、今ここにいます。私はあなたの悲しい、苦しい、重い思いを知っています。私の許に来なさい。あなたの重荷を軽くしてあげよう」と。

イエス様はまたこう言ってます。「何故あなた方は怖がっているのか。あなたは私を信じる信仰を持っていないのか」と。これはイエス様が船の中で脅えている弟子たちに言った言葉ですが、同じように私たちにも語りかけているのです。

私たちが、使徒信条の中で、「私たちは天の造り主、父なる全能の神を信ず」と信仰告白する時、神様はこの広い宇宙の作り主と信じますか? つい最近まで、私たちは宇宙の一番遠い所は私たちの太陽を中心とする惑星の集まり、しかしそれが今度はさらに広がり、銀河星、そしてまたいまや銀河星を一粒の砂のように見ると銀河星と同じようなものが何億、何兆もあるといわれています。

私たち一人ひとりも何億、何兆の細胞によって作られているのです。まさに私たちは宇宙の中で砂の一粒ですが、その一粒の私たちを神様はすべてご存知です。しかし宇宙の中で砂の一粒のような砂のような存在の私たちに神様の愛を知らせるために、神様はイエス様の形、また聖霊と言う姿で私たちの所に来てくださったのです。

その宇宙をつかさどる神様が私たち一人ひとりを名ざして知っているのです。この世を創造された神様である父なる神、この世を救うために人の子としてきてくださったイエス様、そしてすべての源である神様の霊が英語で言うHoly Spiritです。私たちはこの3つの神様の顕れかたに導かれて、人生を神様の望まれる生き方で過ごすことができるのです。それが80年、90年、長くて100年でしょう。神様に導かれるこの命はまさに神様の平安を味わうことのできる人生であります。どうか毎日毎日をイエス様に感謝して生きる私たちになれるよう祈るのです。アーメン。

週報通算#1217  (日本語)

2012 7 1W

週報通算#1217E   (英語)

Sunday English Bulletin 1217E

マルコによる福音書42634節 「私たちの信仰とは?」“What Is Our Faith?”

私たちの父なる神と主イエス・キリストから平安と祝福があなた方の上にありますよう。アーメン。3ヶ月それはテキサスの暑い夏でした。しかし暑いというのも日本の湿気のある暑さと違い、湿度5%のからからの暑さ。その時毎日新しくできつつあるGrand Prairie Arlington と言うダラスの郊外の新興住宅を一件、一件、これから始まる新しい教会の案内状を持ってドア・ノックをしました。私の仕事はその新しいCommunityで新しい教会を建てることで、その為には人を集めることでした。毎日100件ほどの新しい家を訪れ、「どこかの教会に行ってますか?もしここで新しい教会を探しているなら、私はこの秋を目指してここにルーテル教会を開きますのでおいでください」と招待をしたのです。

しかしこの夏は30年ぶりの華氏でいう100度以上の日、摂氏はで40度を超えた日が40日続いた夏で、北テキサスでの農業は痛手を蒙ったのです。雨がないので草が育たない、とうもろこしも、ほかの穀物もみんな枯れ、倒産した農家、牧場主が続出したのです。私も生まれて始めて日射病にかかり、不思議なことに目で見えるものが皆白黒でしか見えなくなり、病院に担ぎ込まれました。

 

真剣にどこの教会も毎週神様に雨を降らせてくださいとのお祈りの時を持ったのです。ある教会で牧師さんが信徒の人たちにこうお願いしました。「今は祈ることしかない。みんなが一緒に祈れば、神様は必ず私たちの祈りを聞いてくださる。さあ家に帰って一生懸命祈りなさい。そして来週の日曜日は神様が雨を降らせてくださったことで感謝の祈りを捧げましょう」と。さて次の日曜日が来て皆が礼拝に集まった時、牧師さんはこう言いました。「ああ、信仰の薄い者よ。何故あなたたちは雨が降ると信じなかったのか」と。信徒の人たちは声をそろえて言いました。「私たちは祈りました。今でも雨が降ると信じています」。「本当ですか?」と牧師さん。「もし雨が降ると信じているなら今ここに誰も傘を持ってきていないのは何故でしょう」。

さて、今日の福音書の言葉は私たちの神様への信仰と信頼とはどのようなものであるか、またイエス様は神様の国とそれを見ることも、完全に理解することも今まだできない私たちの信仰が どのように成長するかを語っているのです。イエス様はお百姓さんがなすべきことのお話をしているのです。お百姓さんは種をもう耕してある土の中に埋めるのです。これらの種がどのように成長するかは考えるかもしれませんが、それについては神様にお任せし、自然現象として種から芽が出、茎が伸びるようになります。そして葉っぱが出てきて、最後には花が咲き、そこに実を結ぶことを信じるのです。刈り取りの日が来るのです。福音書に出てくる、「寝起きしているうちに」と言う意味はお百姓さんが蒔いた種に何一つしなくても神様によって時間が立てば収穫の時が来ることを信じているのです。

お百姓さんが、どんなに心配しても種が育ち、収穫の時が来る時まで辛抱強く待つ事しかできないのです。自然に任せると言うことは私たちにとって難しいのですが、同じように、いつも神様を信じなさいと言うことも、クリスチャンになったからと言ってなかなか難しいのです。神様、こうしてください、ああしてくださいと言ってしまうのが私たちではないでしょうか?

神の国は神様に依って来ます。わたしたちは神の国を自分たちで作ることはできません。しかし、私たちは神様が私たちの心の中に、神様の国、神様の平安、神様の愛の社会の種をまいてくださっているのです。私たちがなすべきことは言葉と行いによって神様に忠実に生きてゆくことです。宇宙を司どる方、またその神様が私たちの目では見えなくても、私たちが神様って本当にいるんでしょうかと疑問を持つ時にも、神様は私たちから離れ去ることはないと信じてください。神様は私たちを見放すことはなさいません。私たちの信仰は、神様からの一方的な私たちへの愛に基づいているのです。神様は私たちから、離れることがない、見放すことはないと言うことです。

では東日本で昨年起こった地震、津波、原子力発電所の事故で家族、家、財産を一瞬にして奪われた人たちは、何か悪い事をしたからですか? いやそうではありません。では何故ですか?以前この復活ルーテル教会で、日本福音ルーテル教会から宣教師として働いていた伊藤先生が、仙台で日本福音ルーテル教会を代表してこの災難を経験された人たちを定期的に訪れ、被害者に同じ人間としての悲しみと苦しみを分かち合っていた時、同じく日本に帰られていたJune吉成さんと共に伊藤先生を仙台訪ね、先生の運転する車で被害地を回りました。これは後で吉成さんが語ってくれたことですが、一番感動したのはある中年の女性の心の持ち方です。その方は大川小学校という半数以上の生徒の命が失われた小学校の近くに住んでいる方で、彼女の家も流されました。家族の人も津波に飲み込まれました。すべてのものが瞬間的に彼女から取り去られたのです。彼女はしかし助かったのです。どうして私だけが、このように命を奪われなかったのかと何回も何回も思ったでしょう。

この人がすごいなあと思ったのは、彼女は同じ災害にあった人の世話をする仕事を始めたのです。毎日、毎日、同じようにすべてを奪われたおじいちゃん、おばあちゃんの面倒、書類の作成、仮設に入っていた人たちの世話をしていたのです。今でもしているでしょう。私たちとの会話の中で、この女性は一言も愚痴をこぼさなかった。自分がこの災害にあってどんな苦しい時を持ったのは確かです。しかしそれを乗り越えて、それ以上に悲しみに中でひとりで立ち上がることのできないお年よりたちの世話をしているのです。災害地を回って4階建てのコンクリートのビルが倒れていた、ずいぶん内陸の所にあった3階立てのビルの上に観光バスがぽつんと乗っかっていた。すごい数のトンビが川の乾いたところでで何かを口ばしでつついて探している、そのような場面も忘れられませんが、すべてを失った、独りぼっちになったこの女性がほかの被害者の面倒を見ている、その生き様を見て感動しました。彼女が、仏教の信者か、それともほかの宗教の信者かその所は聞きませんでしたが、もしこの人が、クルスチャンでなくても、この人は神様の御心に近い人と心の中で思いました。

今日はこの教会に来られてからもう一年ほどたつJune吉成さんの洗礼式を行います。二人の友達が教保となってイエス様を神様と信じますと言う信仰告白をされた後に洗礼を受けます。イエス様と言う神様に従い、信じる者になると言う儀式です。この式の中で、信仰告白をすることは、神様に従う弟子となることです。

クリスチャンになることは洗礼を受けることによって始まります。しかしこれは特に日本人にとって勇気のいることです。その多くの人の家族、親、友達も先祖代々仏教、神道の人がイエス・キリストを神様として、愛の精神を持って生きてゆくことを宣言するからです。私は小児洗礼を受けましたので、自分の洗礼式を覚えていませんが、父も母も青年時代に洗礼を受け、クリスチャンとしての恵みはそれに変えられる物がないとの発言をよく聞いたことがあります。神様への信頼、信仰は私たち一人ひとりの中でいろいろな形で現れ、皆さんも信仰生活の中でイエス様と対話を心の中でなさった方がいるはずです。神様は皆さんの心の中の隅々まで、すべてをご存知です。しかしイエス様との祈りの時は大切です。心の嘆き、悲しみ、苦しみ、喜びをすべて神様、イエス様の名によって語ってください。

最後に毎月贈られて来る日本福音ルーテル教会の機関誌である「ルーテル」の中に今日の福音書のからし種に書かれていることをその記事の著者の松田繁雄先生の書いた「雑草のしぶとさ」の一部を少し紹介して今日の説教を終わります。

「クロガラシと呼ばれる辛し種は砂の一粒ほどのせいぜい育っても2メートルぐらいの雑草ですが、種はとても辛い一年草です。しかし、生命力は強く水や肥やしをやらなくても勝手に種を撒き散らしてゆくのです。聖書にはレバノンの杉と言うような素晴らしい大きな木が書かれていますが、毎年枯れてしまうクロガラシでも鳥が媒介になって翌年も、また次の年もそこいら中に, 新しい芽をふき、根を張り、実を結びつけるのです。それは。実にしぶとく、世の移り変わりにも耐えて、広がっていく、息の長い神の支配、そのようには喩えは語っているのではないでしょうか」。

私たちは雑草のように見られてもいいのです。一生懸命になって生きる人間になること、それは私たちのすべてを尽くして神様の愛と慈しみを私たちに関係する人たちに伝えてゆくということではないでしょうか。私たちの神様への信仰はどのように育つのか、はっきり言ってよく説明することはできませんが、神様が私たちの心の中に信じることのできる心と、お互いを助け合って生きてゆく、その様な人間になれるよう私たちを導いてくださるのです。アーメン。

2012年6月9日 Pacifica Synod Office にて、復活ルーテル教会日本語部の修養会が行われました。特別講師の松下先生を始め、安達先生、中村先生、岸野先生、お手伝いをして下さった皆様、出席して下さった皆様、ありがとう御座いました。恵みに溢れた修養会でした。Photos taken by Fumi Liang