Archive for the ‘行事案内及び報告’ Category

Tweet 2014年LCR日本語部修養会を終えて 今年は6月27日と28日の二日にわたって修養会が行われた。会場は去年に引き続き、Pacifica 教区の礼拝堂を使わせていただいた。 修養会一日目、6月27日金曜日 午前10時から受付が始まり、10時15分に、開会礼拝が始まった。讃美歌「主我を愛す」を全員で歌った後、均牧師がヨハネによる福音書21章の15節から19節までを読み、この箇所から短くメッセージを語った: この箇所は、イエスが復活後3度目に現れた時の話が書かれている。イエスを亡くした弟子達が、再び漁師に戻ろうかと思っていた所にイエスが現れるが、彼らは気が付かなかった。「イエス様だ」、と気が付いたペテロに、イエスは三回も「あなたは私を愛しているか?」と聞かれる。日本人には「愛」という言葉は一つだが、ギリシャ語には3種類あり、「神の愛」はアガペである。 そして神の愛はアガペであるという事がなかなか理解できない。この聖書の箇所でイエス様が使われた「愛」は、「アガペ」の愛である。二回イエス様が「アガペ」を使って「愛しているか?」とペテロに聞いた時、ペテロは「アガペ」ではなく「フィロス」(兄弟愛)の愛を使って「愛しています。」と答えている。三回目にイエスが「愛しているか?」と聞いた時には、アガペではなくフィロスを使っている。三度も同じ事を聞かれたペテロは悲しくなって「私があなたを愛している事を、あなたはよく知っておられます。」と答える。ペテロはイエスが彼に語りかけている言葉が、何を意味していたのか解らなかった。私たちもイエス様が今私たちに何を語りかけているのか、語られている神のみ言葉、そして神の愛をしっかりとと聴く訓練を、この二日間の修養会を通して学びたいと思う。 短いメッセージの後、信仰告白、そして新聖歌172番の「望みが消え行くまでに」を歌い、祈りと祝祷を持って閉会となった。 主題講演(一) 安達均牧師 11時から一時間に渡り、「み言葉に浸る」(Dwelling in The Word)、というテーマでメッセージを聴いた。ヨハネの1章1節から4節、そして14節からの聖書の箇所から「み言葉」によって私たちが動かされ、生きていることを学ぶ。私たちは「言葉」によって動かされる。言葉は霊であり、イエス・キリストである。 安達牧師のパワーポイントとその資料に沿って、私たちはみ言葉に浸る手法について考え学んだ。 安達牧師はみ言葉に浸る為の手法を3種類述べた。第一の手法は、レクティオ・ディヴィナ:この手法は3−4世紀にさかのぼり、4つのステップから成り立つ。①Lectio(読む)、②Meditatio(黙想する)、③Oratio(祈る)、④Contemplatio(観想するー思いめぐらす) である。第二は、Book of Faith で、ELCAが最近推奨しているが、やはり聖書の4つの読み方である。①全身全霊を込めて読む、②誰が何時どのような目的で誰に宛てたか?等の質問に答えながら読む.③文字通りに書かれている文章を読む.④ルター派の観点から読む。そして第三は、アシュラムであり、これは明日土曜日にキム牧師のご指導によって行われる。 安達牧師は次のように講演を続けた:洗礼は水に浸る事であり、父と子と、聖霊の名によって私たちは洗礼を受ける。それは神の命に私たちが浸る事である。同様に、14節に書いてある「言葉が肉となる。」とあるように、神の存在がそこにあり、私たちはそれに浸る事によって、身になり活かされる。聖書の言葉の中にイエスの愛を感じ、イエスの中に入って行く、またはイエスが私たちの中に入って来る、それはどういうことかを、この修養会で探究して行きたい。               (全体の内容はパワーポイント資料参照) 主題講演の後、私たちは昼食と交わりの時を一時間楽しんだ後、午後のグループ別話し合いへと進んで行った。 午後のグループ別話し合いは、3つに別れたグループが、マルコ、マタイ、ルカの平行記事を読んで話し合うのだが、普段とは違う試行で進められた。 共感福音書と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカには、同じ記事が書かれているのだが、微妙に違っている。 マルコは一番最初に福音書を書いたと言われていて、マタイとルカはマルコを土台にして書いたのだろうと言われている。 マルコはペテロの弟子で、ペテロがアラム語で話したのをマルコがギリシャ語に訳していたのだろう、とも言われている。マタイは12人の弟子の一人で、徴税人だったマタイではないかとも言われている。ルカは、医者だったと言われ、使徒言行録を書いたのもルカである。ということは、ルカは多分パウロと伝道旅行を共にしたのだろう、と言われている。 今回の平行記事の箇所は、マタイ22章35節から40節、マルコ12章の28節から31節、そしてルカ10章25節から28節を、それぞれの福音書の箇所を読んだ後、40分かけて自分が一番気になった箇所や、感じた箇所を分かち合い、このみ言葉を通して、2000年前にイエスが誰に何を語りかけたのか、そして21世紀の今、神が何を私たちに語りかけているのか、を話し合った。 マルコ、マタイ、ルカの三人が同様に書いている事は、律法の専門家、又は律法学者が、イエスを試そうと思い、律法の中でどれが一番大切な掟かと聞く所である。マタイとマルコでは、イエス自身がこうお答えになっている、「心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 (マルコでは、“力を尽くして”ともある。)、そして第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」と。 ルカでは、イエスが律法の専門家に「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と聞かれて、彼に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われている。そして、彼がマルコに書かれている事と同じ律法を言うと、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われている。それぞれに少しずつ言い回しは違っているが、同じなのは、ユダヤ人の律法学者、専門家がイエスを試みようとして聞いている事。同じ律法の掟をユダヤ人達は子供の頃から暗記しているから、勿論すぐに答えられている、という事。そして特にルカの福音書で書かれているように、「それを実行しなさい」という事は、イエスがユダヤ人達に、「あなた達は律法に書いてある神の言葉を全て暗記していて素晴らしいが、それらのみ言葉を実行していますか?そのみ言葉に生きていますか?自分を愛すように隣人を愛していますか?」、と問われているのではないかと思われる。私たちも、ユダヤ人の律法学者のように、聖書のみ言葉を読み、暗記をする事はできるが、それ以上にみ言葉に浸っているだろうか?み言葉が肉になっているだろうか?そして心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神のみ言葉を受け入れているだろうか?このようにマタイ、マルコ、ルカの平行記事を、それぞれ40分かけてじっくり読んで行くと、普段素通りしてしまい、深く掘り下げて理解していなかった細かい神の思いに気づかされる。グループに別れてそれぞれに話しあう事によって、それぞれに違った観点から異なった思いや疑問を分かち合い、「ああいう感じ方もあるのか、」とお互いが感心しあい、学びあう事ができた。  (各ブループの纏めを読まれると面白い。) 修養会二日目、6月28日土曜日 讃美歌172番を歌い、二日目の修養会が9時に開会された。 安達牧師からキム牧師の紹介があり、キム牧師がアシュラムについて説明された。 アシュラムとは、インドのヒンズー教の静かな隠棲の場所のことで、1800年代後半に、アメリカのスタンレー・ジョーンズ宣教師がインドでの体験を基に、クリスチャンの為に始めた運動である。クリスチャン同士が、教派を越えて集り、静かに祈り、み言葉に聴き入る、そして聖書の一章をゆっくりと時間をかけて通読し、神の語りかけを直接聖書から聴く。それを体験した参加者達は、じっくりとみ言葉に浸って充電されたように、アシュラムが終わってそれぞれの場所に帰って行く時が、新たな信仰生活の始まりとなるのである。 アシュラムとは、私たちが、忙しい場から離れて、もう一度個人の霊的生活の歩みを始める時なのである。ある人にとっては再出発の時となることもある。私たちの信仰生活を振り返って見ると、教会に来ても「燃えない」と思う事はないだろうか?その共通点は、教会以外に学びの時を持っていないからではないだろうか?私たちが祈る時は、願い事ばかりを並べていないだろうか?昔、「心のチキンスープ」という本が流行った事がある。それは心温まる話、勇気が出る話など、自分の都合に合わせて読めるから便利だった。正に自分が「主語」だから自分が中心であり、心地良いのだろう。しかし聖書を読む事とそれとは違う。聖書のみ言葉に「聴く」というのは、み言葉を通して、神様は何を私に語っているのだろう、と神様の御心を聴くことなのである。祈りというのは、年寄りのエリがサムエルに祈る事を教える時に、「僕は聴きます。主よ語って下さい」と言っているように、静かな所で、神様が自分に語っている神の思いを聴く事である。私たちが呼吸するのと同じように、み言葉がなければ私たちは生活の中で神の中に生きる事はできない。信じるとは「一点」の事だが、信仰生活というのは、「継続しなければならないもの」。点には面積がないけれど、無数の点が連続されると「線」になり、持続して行く。しかし、忙しい生活を送る私たちにとってそれが実際に実行できない。(自分が育児をしていると、本当に大変で忙しい中時間を取って聖書を読み、祈りを捧げるには、犠牲が必要となる事が解る。)どこかを削って努力する必要がある。そのようにして神との交わりを持たない限り、子供が親との愛情、交わりがないと人間として育って行かないのと同じだと思う。キム先生のオリエンテーションを聞きながら、このように時間を取って一日でもアシュラムを体験する事は貴重なことであり、自分の信仰の再確認だけでなく、しっかりと神様の語る言葉を聴き、み言葉を身につける機会に恵まれた事に、わくわくするような感動を覚えた。 三浦綾子さんが書かれた本に「ちいろば先生物語」という本がある。その本の主人公の「ちいろば先生」とは、榎本保郎先生である。この先生が日本でアシュラム運動を広められた。「ちいろば」とは榎本先生が作られた言葉である。聖書の箇所で、イエスキリストがエルサレムに入城される時に、皆歓迎してイエスを受け入れる。その時イエスは小ロバに乗って、エルサレムに入城した、という話がある。この世的には、英雄が入場する場面を想像すると、もっと違うイメージなのに、イエスは平和の君として、謙虚に小ロバに乗って入城した。この事が榎本先生に大きな衝撃を与えた。自分も、小ロバのように小さな存在かもしれない、でもイエス様に用いられる事が出来る。死ぬまで自分は“ちいろば”でいよう、と思ったのだ。そして榎本先生は“ちいろば牧師”と呼ばれるようになったのである。榎本先生は肝炎に冒されながらも、1977年にロサンゼルス・アシュラムの為に、無理をして飛行機に乗ったが、機内で倒れ、サンタモニカのERに運ばれ、残念ながらそこでお亡くなりになった。現在彼の息子の榎本恵が受け継いでアシュラムリトリートをアメリカに広めようとしている。 キム先生は、中学生の時に親に連れられて日本に移住したそうだ。その時、日本語ができなかったので、何処の学校も彼を受け入れてくれなかった。やっと受け入れてくれる学校が滋賀県に見つかり、キム先生はその学校に入学し、そこの寮に入った。たまたま榎本先生が近くに住んでいて、大変にお世話になったそうである。 オリエンテーションの最後にキム先生は、プログラムにある10時からの「静聴」とはどういう事をするのか、また、恵みの分かち合い、充満の時とはどのような事なのかを次のように説明された。 このプログラムの特徴は: 語る事ではなく、聞く事が中心。だから講師はいない。講師はあくまでもイエス・キリストご自身。自分も講師ではなく、ただの進行係をしている。また、それぞれのグループに分かれるが、グループをファミリーと呼び、ファミリーのまとめ役が進行係。 アシュラムに参加する時の3つの質問:①ここに来た理由は何か?②何を願っているのか?③何を必要としているのか? ただし、アシュラムの主語は自分ではなくて神なので、神が私をここに来させたのは何か?神が私に願っているのは何か?神が私に必要とされている事は何か? と聴く(静聴の時が必要)。今回は、マタイの福音書6章を聖霊の交わりを求めつつ、読む。同じみ言葉から、新たな何かが感じられる事があるので、先入観にこだわらずに、新しい気持ちで読む。み言葉を素直に読むのは難しいが、 (特に良く知られている聖書の箇所は難しい)、先ず自分のコップを空にして、新しく注いでいく気持ちで読む事が大切。 一時間自分の場所を探し、マタイの6章を全身全霊を注いで読む。その後恵みの分かち合いをファミリーと行う。恵みの分かち合いの時は、先ず話し手の話す事をそのまま聞く、決して反対意見を述べたりしない。相手を尊重し、お互いに心を開いて語り合うことが必要。私たちは皆罪人であり、その罪が赦され私たちが兜を脱ぎ捨て、平等の交わりとして自分を介抱するのだ。それぞれの個人的な問題をオープンに話し合う場でもある。そしてファミリーで話し合ったプライベートな事は決して他言しない。 纏めると、ファミリーで分かち合う時は: ①聖書のみ言葉を語る。 ②問題をシェアする。 ③今後生活の中で実践する事が示されたならばそれをシェアする。 ④その場で話合った事を他では話さない。 ⑤始めに説明された3つの質問を話し合う。 ⑥一人一人祈る。 進行係は司会なので、自己紹介からそれぞれ示されたみ言葉をシェアできるように進めて行く。要点を全体の前でシェアする。一人一人お祈りを回して、最後に進行係が祈る。 アシュラムは、プログラムが終わる時が始まる時、それが「充満の時」。これからの生活に力強く活かされてこそ、参加した意義がある。聖霊の助けを求めるときが「充満の時」でもある。 キム牧師の説明が終わり、私たちは15分の休息を取った。その後それぞれが静かな場所を見つけ、1時間かけてゆっくりマタイの6章を読んだ。そして11時15分からそれぞれのファミリーが別々な場所に集合し、恵みの分かち合いを行った。 私はCファミリーの進行係を務めた。それぞれがマタイの6章を一時間全身全霊を注いで読んだ後に、一番気になった事、感じた事を語りあった。ある人は、22節の「ともしび」という言葉から、エリがサムエルに言った「神のともしびは消えておらず」というみ言葉を思い、ちいさなともしびでも決して消さないで行きたいと思った、と語った。ある人は「見てもらおうとして人前で善行をしないように」という言葉から、どれ程自分が周りの人に左右されているか、自分が善行をするのは自分を良く見せようと思っているからで、本当に自分が小さいと痛感した思いをシェアしてくれた。ある人は、自分が人の為によかれと思ってやったことの見返しがないとがっかりする、報酬を求めている自分に気が付いた、と語ってくれた。ある人は、 25節を読んでいて、自分が小さい時に感動した聖句だった事を思い出した。そして今やっと自分が全てを神様に委ねて行ける幸いを感じる、と語ってくれた。その他にも、この紙面には書ききれない程の多くの事を分かち合う事ができた。私自身、まだまだ時間が足りない程にしっかりこの箇所を読めてはいないと思う程に、この箇所は掘り下げれば掘り下げる程深くなっていくような気がした。私は、「彼らは既に報いを受けている」という言葉が理解できなかった。誰が誰の報いをすでに受けているのか?何度も読むうちに、そうか、人前で善行を働いたり、施しをしたり、断食をするのは、ユダヤ人達が律法を教えられるままに守ってやっている事を見せることで、それは周りの人を喜ばたせりするだけ、自己満足だけで終わってしまうから、決して神様に報われているのではなく、周りの人の目に報われ、自分が満足して自分を報いてるだけに過ぎない。相手に喜んでもらおうと奉仕をすれば、それだけに神経を使っているから、内面が渇いてくる。そうすれその渇きを癒したいが為に、相手からの報酬を求めたりするのだろう。そうではなく「心の動機」が大切であり、心は神に向いていなければならない。そうすれば、善行をする事が自分の為でも他人の為でもない。神の報いがある。だから喜びが溢れて来る。 昼食の後、充満の時を迎えた。他のファミリー達もそれぞれに素晴らしい恵みの時を持てた事が、それぞれの進行係の報告から感じられた。面白い事に、同じマタイの6章を読んだにもかかわらず、各ファミリーからは、同じような話ばかりではなく、全く違う思いや感想がシェアされた事だった。新鮮だった。 私が一番新鮮に感じられたのは、キム牧師が、それぞれのファミリーの報告を聞くたびに、心からその分かち合いに感動し、初めて聞いた事のように頷き、それらを全て自分の中に受け入れている様子だった。イエスの言葉に聴き入る謙虚な牧師の姿を見た思いだった。 「充満の時」の後は、閉会礼拝となった。 安達牧師がマタイ28章の16節から20節を読み、キム牧師がメッセージを語られた。 キム先生の説教:今日の箇所は復活されたイエスが、弟子達の所に現れて、再び一つにされて、いよいよ世界宣教の為に使わされる箇所です。 三つの点: 1.使命を与えられる神とはどのような神か? イエスはまことの神であり、三位一体の神である。信じる対象にキャラクターがある。神であり、キリストであり、霊である神がそれである。たとえば、太陽そのものが父なる神だとして、太陽が発する光、(太陽は神と同じように眩しくて見る事ができないが、光は実際にこの世に訪れたイエス・キリスト)、そして光が私たちに届く時に感じる熱、これは聖霊である、私たちはその熱によって動く。しかしながら、実際にはどのように説明しようとしても、神様の事を説明する事はできない。私たちが理解しようとしまいと、私たちはすでに三位一体の恵みの中に置かれている。 祈る事を考えてみよう。 私たちは創造主なる神に向って祈っている。それはミディエーター(中間者)となっているイエス様が、「私の名よって祈りなさい」と言われる言葉により、私たちは キリストの名によって祈っている。聖霊の導きによって、私たちは信じる事、そして祈る事ができる。父なる神に向い、子なるイエスの名により、聖霊の導きによって祈る事ができる。 2.使命を受けられる弟子達はどのような弟子達? イエスは彼らに生きる理由と目的を与えられた。マタイ28:18、19        ここに書いてある弟子とは、私たち一人一人のことでもある。私たちも神によって生きる理由と目的を与えられている。私たちも彼らとあまり変わりがないのである。 3.神はどのような使命を与えられたのか? イエスは、疑う弟子達に、ご自分から近づいて来て、弟子達を信頼し、彼らに使命を与えられたのだ。何故ガリラヤへ「行け」と言ったのか?何故彼らの故郷であるガリラヤへ「帰れ」とは言わなかったのか?それはイエスに使命を与えられた彼らが、 目的を持ってそこ「行く」からである。信仰を持って生きるという事は、主の指し示す所に「行く」ということでないだろうか? 私たちはみ言葉によって養われて、 主の信頼と愛を確信し、自分の弱さをも再確認できるのである。そして、弱い私たちでも希望を持ってイエスの使命を全うできる。この修養会を通してその力を得たい。 私たちは最後に今回の修養会テーマ讃美歌となった172番を歌い、安達牧師の祝祷を 受け、心も新たにそれぞれの場所へと派遣されて行った。 正に私たちの新たな信仰生活の始まりとなる修養会となった。              芙美Liang 記録   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 5月11日は母の日です。この日に子供祝福式を行います。参加する子供達と一緒に、多くの方が「幼子のごとく」神の祝福に与りますように。 子供祝福式のフライヤー2014 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2014年4月20日、LCR日本語部受難節・復活祭ご案内 2014 Holy Week Easter Invitation 聖木曜日のスープランチョン、聖木曜日礼拝、イースターエッグの色染め等、是非ご参加ください。復活祭には3名の方が洗礼を受けられます。是非教会にお出で下さい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet Christmas Party Invitation 2013 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ハンティントンビーチ復活ルーテル教会日本語部は、毎年9月最後の日曜日に召天者記念礼拝を行う。この特別な礼拝を始めてから何年になるだろうか。復活教会で日本語部を始められた高塚牧師は、きっと神様の御心に従うべく、決心して始められたのだろうこの世で時を共に過した愛する人達が天に召された後を偲ぶ思いは変わらない。それぞれに偲ぶ人達は異なっていても、共に礼拝の中で、先に天に召された方々達を思い、心を合わせて祈る事は大いなる平安だと思う。また、日本の地で亡くなった親類知人に限らず、この土地で共に礼拝を守った教友達が天に召された後、こうして毎年皆さんの遺影を聖壇に並べて共に忍べる事は、大きな幸である。  ここ何年かの間に、英語部からこの特別な礼拝に参加する皆さんが増えた。日本語部と英語部が共に活動する事が多くなり、共に歌い、共に交わる中、に天に召された私達日本語部に貢献された英語部のメンバーの方々を、英語部の皆さんと共に思い出せる事は嬉しいことである。今年は60名以上の参加者に恵まれた。 岸野牧師は詩編の133章の一節から、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」のみ言葉をメッセージの始めに語られた。そして、私達の背景、宗教に拘らず、このように共に思いを一つにし、先に召された愛する人々を偲ぶ時を持つ事の大切さを切に語られた。この日、週報の「今日の福音」にはこう書かれている: (写真は後日掲載致します) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2012年5月12日母の日ランチョンでお母さんに感謝  Senoras & Senoritas, come join us for an afternoon of south-of-the-border fun. A fiesta of big hats, piñatas, Mexican music, games and, of course, a delightful south-of-the-border meal in LCR’s Cantina. 母の日に因んで日頃のお母さんの労を感謝するLCRでの恒例の母の日のランチョンが催されました。当日はお母さん達はメキシカン風に装ったり、思い切りカラフルなドレスを着たり日頃地味に装うのに慣れている人達も今日ばかりはド派手。テーブルは見事にメキシカン風にセットされ日頃真面目な顔をして礼拝に出ている男性達も赤いCinto(Belt)をして甲斐甲斐しくレストランのウエイター顔負けのサービス振りに私達も大満足。御料理も前菜のチミチャンガやコーンチップ、メーイン・ディツシュはトスターダ、デザートに至るまで皆係りの方々の手作りとか。日頃の煩わしさを忘れ楽しいランチョオンのひと時を過ごす事が出来ました。記: 愛子G.                                                                                 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2年に一度行われるアジア伝道集会が、今年は4月11日より3泊4日に亘りモントレーパークの信儀教会(Christ Lutheran Church)で開催された。 私達LCR日本語部からは、岸野豊牧師を始め、愛子Gordillo、大橋静江、民Day, そして芙美Liangが参加した。安達均牧師も、私達の教区より、教区長補佐として出席された。  私は水曜日の開会礼拝で、何らかの奉仕を担当する依頼を受け、開会礼拝の一時間前には教会に来るようにと指示を受けていた。思ったより交通事情が良く、12時前にはモントレーパークに到着した私達は、早速ホテルのチェックインを終え、昼食を終えた後教会へ向かった。既に岸野先生は教会に到着していて、AAPI集会の総責任者を勤めるポンサック牧師、そして開会礼拝担当のダニエル牧師と共に参加者に渡すパッケージ作りをされていた。私もお手伝いをしながら、ダニエル牧師からどのような奉仕を礼拝で担当するのかと尋ねた所、司式者の一人として、礼拝をリードするようにと言われた。その時始めてプログラムを手にした私は、これは重大な事になってしまったと思った。聖書の朗読から献金の奉仕等、英語の聖書も持参していないので、どこからか探して来なくてはならない。そうこうしているうちにレジスターが始まり、続々と各地からの参加者が集まって来た。二年前にシカゴで共に集会をした懐かしいアジア伝道の仲間の顔があちらこちらに見える。挨拶したい気持ちと、礼拝の準備をしなくてはと焦る気持ちで落ち着かない私の前に、トーレンスから到着された中村先生が立たれた。「お久しぶりです。AAPIの集会は皆さんに久しぶりに会って、共に伝道の熱を再び燃やし合うのが目的ですよね、なのに、今回は礼拝奉仕のお役目を仰せつかって緊張してます。」と言うと、中村先生が、「それも“燃えさせる”一つの要だと思って担当すれば、きっとこの集会があなたにとってもっと恵まれた時になりますよ。」と言われた。私は、「神様のご計画は凄い」と思った。2年前はただの参加者だった信者の私が、今回は神様がこのような奉仕の役を用意してくださっていたのだ。途端に私は「しゃん」となった。神様の御用の為に用いられる者として相応しい心構えができた。礼拝堂の一番後ろに座り、礼拝の始まるのを暫し待っていた時も、中村先生はそっと後ろから私の肩に手を置いて、「心の中に常に共にいらっしゃる神様をあなたは知っているでしょ?心の真ん中にある存在をあなたは感じているでしょ?簡単なお祈りをして、後は全てを神様に委ねたらいいよ。」と声を掛けてくださった。何故か涙が出そうになった。礼拝は始めから終わりまで満たされて終わった。中村先生の言われた通り、私にとってはこのAAPIの集会で心が“燃える”きっかけとなった礼拝となった。  二日目、いよいよ今回のテーマに基づいて、聖書の学び、特別講座、グループの話し合い等のスケジュールが展開される。今年のテーマは「We and The Bible」である。日本語で訳せば簡単に「私達と聖書」となる。先ずAAPIの会長であるDr.Yeeが挨拶をされた。その時、中国人である彼は、「アジア人の私達にはこの”We and The Bible”と言う英語はすぐに理解できるけれど、文法的にはちょっとおかしい英語かも知れない。でも敢えて直さなかったのは、私達アジア人にとって、聖書がどのように生活に生かされているかを考えたいからであり、何故 “I”ではなくて “We” かと言うと、アジアの諸国を代表する私達が、全部まとめて一体となってこの集会に集うからであり、それぞれに異なった背景を持つ私たちだけれども、それを越えて一つの “We” として聖書の読み方を考えて行きたいからであると力説された。  9時からの聖書の学びは、ヨハネによる福音書1章1節から18節までの箇所から、インドのDr. Surekha Nelavela 女史がリードされた。彼女はホテルのカウンターで、私がお昼に食べきれなかった肉まんをあげた女性で、美味しかったありがとう、と昨晩お礼を言いに来てくれた人だ。これがAAPI独特の良い所で、牧師であろうが、教授であろうが、信徒であろうが、ここに参加した人達は「肩書き無し」で知り合う事ができる。余談になるが、シカゴから来たPastor Jade は可愛い中国人女性だ。昨日の開会礼拝前に教会まで車に乗せて行って欲しいと彼女から頼まれ、車中では同行の愛子さんや静江さんと楽しくお話をしていた。そして彼女が開会礼拝での説教をした。そこで始めて愛子さんと静江さんは彼女も牧師だったと知ったというわけである。 さて、話を元に戻して、“Dr.肉まん”の話は本当に興味深かった。タイトルは、“Grace instead of Grace”だった。始めに彼女は、“Well done is better than well said”、と語った。私達が頭でイエス様を考えている、知識はあるかもしれないが、その知識が行動に繋がっているだろうか。 ヨハネの1:17に:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと心理はイエス・キリストを通して現れたからである。と書かれているが、この律法とは 「Empire-King」であり、恵み(Grace)は「Jesus- household」ではないだろうか、と彼女は語った。確かに律法も大切だが、恵みも大切、要は私達が私達の生活の中でどのように受け止めて行くか、どのように行動に示せるか、なのだ。  聖書の学びの後は、Keynote Speaker の講演だった。Rev. Dr. Moses Penumaka による講義は、かなり内容が難しく、始めはいったい何を言いたいのかよく理解できなかった。新しい目で聖書を読み、新たな心を持ってみ言葉を愛す、いったいどう言う事だろう? 伝統的な聖書の読み方がただ忠実に聖書を読み、祈るという形であれば、新しい読み方とはどのような読み方か?しかも彼はPost-Colonial Approachという言葉を使ったので、私はますます解らなくなった。Postcolonial Approach という言葉は「植民地」後、という事だから、植民地だった一つの国が支配国から独立して新たな自分たちの国を築いて行くという事なのだろう。(私なりの理解なので定かではないが。)とすると、Dr. Moses が言おうとしているのは、自分たちが今まで教えられたように読んで来た聖書を、本当の自分の物とするには、どう読んで行ったらいいのか、という事なのだろうか? それと同時に、私が感じた事は、植民地になった経験のない日本で生まれ育った私には、どうもこのPostcolonial という言葉がしっくり来なかった。この集会に出席している多くの民族が日本の植民地だった。ふと思い出したのは伊藤文雄牧師が私達の教会で牧会をされていた時に言われた言葉だ。伊藤先生も4年前にモントレーパークで開催されたAAPIの集会に出席されたが、その時に、プログラムの中に組み込まれていたアジア多民族伝道の各諸国の中に「日本」が入っていなかった。伊藤先生はその事をポンサック牧師に指摘されたが、その時「日本は軍事国家でアジア諸国を植民地として押さえ付けて来たから、私たちは殊更気をつけなくてはならない。日本伝道はアメリカでは他のアジア諸国の伝道と同じ立場にあるという事をAAPIで示す事が必要だ。」と私に話された事を思い出しながら、確かに私達の日本語部はLCRのミニストリーとしてありがたい程に諸条件が揃っている。日本語部の年度予算もきちんとあり、他の小さなアジア諸国のアメリカでの伝道とは比べ物にならない程恵まれている。だからAAPIでは「日本語伝道」は特にサポートする必要もない、自分たちでやっているから、と思われたのではないだろうか。伊藤先生は日本に帰国される前、私に他のアジア伝道の人達と共に、このアメリカでの多民族伝道を考える事を、しっかり教えて行って下さった。それが、今Dr. Moses の講義を聴きながらやっと理解できるような気がした。私には「植民地」体験がない、しかしアメリカに住む多民族は、背景が違っても、この土地で生活するからには、「新しい土地で生きて行く」体験をしているはずである。その過程で、同じような悩みや困難を乗り越えて行く、その時私たちの心の糧となるのがみ言葉である。新しい土地で生きて行く私たちが、私たちの背景にある伝統的文化習慣にだけ固守して新しい土地で生きて行くのか、それとも伝統は大切にしながら、新しい土地の文化習慣も身につけて生きて行くのか。伝統的に、聖書のみ言葉をただ「読む」のか、それとも「身につけるのか」、もしかしたらそこに「New eyes of reading the Bible, new hearts to understand God’s love」の真意があるのかも知れない。正に、目から鱗の講義を聞いた思いだった。そして自分の勉強不足も痛感した。  この日は午後からもアジア伝道の為の資料の紹介や、アジア各国の讃美歌を集めた本の紹介、またシカゴのルーテル教会本部ELCAからの世界飢餓援助運動の説明や、プロジェクトの案内など、盛りだくさんだった。6時からの夕食は、2年前にシカゴでもお世話になったグラディスが今年も台所に立ち、采配を振るっていた。この教会は彼女の母教会なので、彼女に取っては自分の家と同じなのだろう。2年前もシカゴで彼女の素晴らしい奉仕の精神に感激したが、今回も朝早くから夜遅くまで彼女は台所で参加者全員の朝昼晩の食事を笑顔で担当してくれた。 夕食の後は、また賛美の時が始まった。この晩の賛美礼拝で、岸野先生を始め、何人かの牧師が、それぞれの働きを認められて表彰されたのだが、思ってもみない事に牧師でない私も表彰された一人だった。民さんが私の紹介をしてくれた。私の事をこれほど彼女はよく見てくれていたのだ、びっくりする程民さんは私の教会での奉仕を皆さんに語ってくれた。心から感謝である。 思えば8年前にミネソタのAAPI集会に始めて出席したとき、まさか自分が神様に用いられるとは思っても見なかったことだ。あの時は日本に帰国される高塚牧師夫妻もミネソタの集会に参加され、そこから日本に帰国された事を覚えている。そしてその当時Mission Director をされていた現在この日本語部の牧師である岸野先生から、是非英語部と日本語部の架け橋になり、これからの日本語部を支えてほしい、と頼まれた。自分には何ができるかわからないが、新しく日本から来られる田中牧師夫妻のお手伝いをする決心をしたのはその時だった。それから田中牧師夫妻が帰国され、伊藤牧師が復活ルーテル教会日本語部と、トーランスにあるファーストルーテル教会日本語部を兼牧され、伊藤牧師夫妻が日本に帰られた後、岸野先生が牧会を引き継がれた。私達の日本語部は今年で24周年を迎える。神様に守られて24年、日本語伝道を南カリフォルニアのハンティントンビーチで続けて来られたのである。聖霊の導き無しでは考えられない。それを思うと、今回表彰された事は大変光栄であり、まさにこの光栄を感謝と共に神様にお返ししよう。神様は、今きっと私に「まだまだあなたの奉仕は終わってません、これからですよ」と言われるに違いない。   翌日も朝早くからグラディスが台所でお粥を準備して待っていた。賛美の音楽が礼拝堂から聞こえる。毎回長髪の若いタイから来た牧師が、若い音楽家達を引き連れて賛美の担当をしてくれている。私達は彼を「ゴルフ」と呼ぶ、彼の名前があまりに長過ぎて誰も覚えられないし発音できないからだ。彼からは常に溢れ出るパッションを感じる。韓国の牧師は、2年前シカゴの集会の前に交通事故で片目を無くした人だが、彼もパッションの固まりのようだ。フィリピンの牧師で、コラ牧師は70代の女性だが、彼女も歌い踊り、元気一杯である。インドネシアも凄い。今回の参加者の3分の1がインドネシアの皆さんだ。誰が牧師で誰が信徒かはまったく解らないが、皆さん一体になって賛美する姿は素晴らしい。 この日は、10時からKeynote Panelがあり、私もパネルスピーカーの一人であった。前に備えられた椅子に座ると、隣にグラディスが座った。台所から駆けつけたパネルスピーカーである。まさに彼女は何でも御座れの人材だ、凄い!私達が話す事は、昨日のDr. Moses の話をもとに、自分なりの意見や思いを発表するという事だった。実は昨日のDr. Moses の話を聞きながら、私は夜ホテルに戻ってから読み返そうと、ラップトップに必死でメモったのだが、なんとその日になってラップトップが動かなくなってしまったのだ。仕方が無い、自分の思いを正直に話すまでだ、と却って開き直れたような気がする。 私の話した内容は: *私の背景は、日本で生まれた中国人であり、母はクリスチャンだが父は馬祖教という台湾の土教で、毎年祖先を祭る儀式がある。今でもその為に台湾に父と一緒に帰るが、その度にお線香を持つ。この行為に対して「クリスチャンとしてそれは偶像崇拝だから律法に反する」と言う人もいるが、私はそう思わない。要は、自分の中に神様との平安を見つけて自分の生き方の中に神様のみ言葉をどう築いて行くかだと思う。 *ナイーブだと言われるかもしれないが、Postcolonial と昨日聞いたときピンと来なかったのは、自分にその経験がなく、「人間は皆平等」という思いが私の根底にあるからだと思う。アメリカに移民した私達が、自分達の文化背景はこうだからそれを崩しては行けないと、回りはどうでも我が路を行く、という姿勢が正しいのか、それとも回りに同化して行く事が正しいのか?どうだろう? *例えば、私の知っている「伝統的鮨」を誇りに思っている鮨シェフは、客が「カリフォルニアロール」を注文しようものなら、とんでもない、それは日本の鮨にはないと怒って客を追い出すような人だ。スパイシーツナや、レインボーロール、クランチロールなんて彼に取っては邪道であり、とんでもない事なのだ。でも私はカリフォルニアロールや、スパイシーツナが決して悪いとは思わない。それどころか美味しいと思う。日本人が外地で生み出した味だからだ。伝統に雁字搦めにされた鮨シェフは、彼なり伝道文化を大切にする思いが強いのだろう、それは理解できる。しかし彼のアメリカでの人生は楽しくないかもしれない神様はそれを臨んでいるだろうか?  *中村先生が2年前の集会で、「肩を張ってクリスチャンですと宣伝する事よりも、福音を常に顔に着ている事です。」とおっしゃったが、私はその通りだと思う。聖書の読み方が伝統的な読み方にしろ、新しい読み方にしろ、聖書は永遠に変わらない伝道の道具なのである。それをいつも新鮮な気持ちで身に付けていることが大切なのではないか。古い洋服でも大切に扱っていれば、いつまでも新しく着られるように。聖書は、誰でも、どんな時でも、直ぐに身につけられるように、One Size fits allなのだ。それは永遠に変わらないと思う。  パネル発表の後、グループで話し合う場が設けられた。私のグループに大橋さん、愛子さん、民さんが参加された。時間が限られていたので、皆さんの話をゆっくり聞く事ができなかったのが残念である。話し合いの終わった後、シカゴから参加しているJoeが、大橋さんの話に感動し、「第二次世界大戦後に日本人があんな体験をした(大橋さんのご家族は佛教だが、その当時教会に行けば美味しいお菓子が貰えると、親御さんが泣く泣く教会へ行ってお菓子を貰って来いと言われたのだそうだ。)話を始めて聞いた。是非記録に取っておくように。絶対にそれは貴重な記録だ。」と私に力説した。確かに私たち日本語部には多くの歴史を生き抜いた人達が集まっている。証集を出してはどうだろうか?と考える。日本は植民地になった事は無いが、もしかしたら戦後の体験は別の意味でのPostcolonial 体験と言えるかも知れないと思った。  さてその夜はタレントショーである。日本語部は一度もAAPIのタレントショーに参加した事がない。今年こそ参加したいと思っていた。ありがたい事に、安達さと子さんも金曜日の午後から安達牧師と共に駆けつけてくれた。さくら、さくらを英語と日本語で歌い、大橋さんが着物を着て日本舞踊を踊ってくれることになっている。今回の集会で知り合った、熊本から来て、シカゴの神学校で勉強中の安川美歩さんも一緒に歌ってくれる事になった。先ずは全員で「慈しみ深き」を歌い、その後さくら、さくらで、最後は民さんと私の、習いたてほやほやのシニア和太鼓で閉めるプログラムを用意した。民さんは毎日和太鼓を練習している模範生で、私は練習をしない劣等生だ。どうなることか、とにかくやるしかない。一応皆で練習し、大橋さんも夕食前にホテルに戻って着物に着替えて来た。いよいよタレントショーが始まった。皆さんそれぞれに自分たち独特のお国柄を披露してくれる。インドネシアは大勢で楽しく歌い、手拍子と踊りとで、会場に笑い声が響く。フィリピンは、コラ牧師と家族、そしてSan Diego からのジョギー牧師が身も悶えんばかりの(その動作が恋の歌を語っているかのように)フィリピンの有名なラブソングを歌った。大喝采である。やっと私達の番になり、歌も踊りも順調に、拍手喝采のうちに終わった。次が和太鼓なのだが、ビデオを撮っている牧師のバッテリーが無くなり、交換するのを待っていたいり、ちょっと間が空いてしまったが、結構間違いも少なく、「ドンツク」と無事に終わった。ほっとした途端に、会場からアンコールの声がかかる。冗談でしょう、一曲しか知らないのに、アンコールなんてとんでもない、と私が思っている矢先に、民さんが「ドンツク」と始めてしまった。「民さん、何やってんの?」と私は顔が真っ青である。民さんは平気な顔で「ドンドンやればいいのよ、適当にやってよ」とか良いながら「ドンツク」を続ける。仕方なしに、私も「ドンドン」と叩き、適当な所で辞めた。私達の先生が見たら「よくぞそこまでめちゃくちゃにできるもんだ」と呆れ返るだろう。でもこれで良かった。今まではきっと日本人は真面目でコチコチだと思われていたのに、今回で「できなくても、皆と楽しむ」私達を見てもらえたと思う。 最後の中国人の合唱団の合唱は素晴らしかった。その教会の牧師、Pastor Maoは台湾の彰化出身の方で、私の父も彰化出身なのでそれだけで話に花が咲き、いろいろなお話を聞かせていただいた。現在、この教会は中国大陸からアメリカに来ている中国人が多く、台湾人は少なくなってしまった。台湾人と中国大陸の中国人は、同じ中国人でも考え方や習慣が違う。増して大陸は共産党であり、台湾の中国人は日本植民地時代の台湾人、戦後大陸から台湾に来た「外省人(台湾省以外の省から来た人達)人達だ。私が台湾の大学で学んでいた時は、まだ「大陸に撃って帰ろう」という声があった時で、現在のように、多くの台湾人が大陸に工場を築いたり、大陸と台湾が行ったり来たりするなどは、夢物語だった。だからこそ、台湾人が始めたこの教会で、台湾から迎えられたPastor Maoが誰でもこの教会に来る人たちを心から温かく迎え入れている事は素晴らしいと思う。青年合唱団のほとんどが大陸から来ている若者だそうだ。分け隔てなく彼らを受け入れるのは、決して容易ではなかっただろう。祈ってここまで達成されたに違いない。私は歌声も素晴らしいが、一人一人の若者の顔を見ながら、これからこのアメリカで生きて行く皆さんの上に、神様の祝福と守りがありますように、と祈らずにはいられなかった。  最終日の閉会礼拝には、私と岸野牧師が出席した。この礼拝の説教はコラ牧師で、力強い説教をされた。メッセージの中で印象に残っているのは、コラ牧師が、「皆さん、随分昔にあった車のスティッカーで、“I found Jesus”というスティッカーがあったのを覚えている方、いますか?」と尋ねられた。何人かが手を挙げた。「それはどういう意味でしょうねえ、イエス様は一度も迷子になったことはない。一度両親が一緒に居ない彼に気がついて探しに行った時がありましたが、その時イエス様は”父の家に居るのに何故心配されたのか“と両親に聞かれたわけですから、迷子になられたわけではない。この “I found Jesus” と言う言い方は自己中心的な言い方だと思いませんか? 私たちが都合のいい時、自分の欲している時だけ、イエス様を探すのでしょうか?自分たちの時に合わせて信仰を持つのでしょうか?都合が悪くなれば必要ないと、どこかにほっておくのでしょうか? そうではないと思います。イエス様はとっくに私達を見つけて、いつも私達と共にいて下さいます。私達は、失敗しても、決してイエス様から離れられないのです。だからこそ、自分の都合のいい時だけでなく、何時でも、常に、イエス様に答えられる私達でありたいのです。」 コラ牧師のメッセージを私は忘れないだろう。私達は自己中心に物事を考え、行動をする。しかし、聖書を道具とし、み言葉を常に身につける事ができたなら、私達は常にイエス様中心の生活ができるのではないだろうか。私はみ言葉を身につけていたい。全能の神様、どうか聖霊の力によって、私を導き、守り、常にみ言葉を顔に着ている人間に成らせて下さい!  今回のAAPIも、燃えたぎる信仰を体中で表現している人達に囲まれた4日間を過ごす事ができた。この力を絶やす事無く、毎日の生活に活かせて行きたい。また、今年の6月に日本語部主催する修養会のテーマも「聖書と私たち」にする事が決まったので、私のAAPIでの体験を、修養会参加者の皆さんと分かち合う事ができたら幸である。  Fumi Liang LCR Cultural Ministry Coordinator                                           Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2012過ぎ越しの礼拝 LCR日本語部主催の「過越しの礼拝」を伊藤先生がなされてから今年で4年目。伊藤先生が去られても続けてくださいと言うことで英語部も招待してCarl Zimmermann牧師と共同で式を持つこと3年目。昨年Carl牧師が式文を作られてLCR特有の登録済みの式文では2年目。今年は日本部の大黒柱の芙美Liangさんが日本、台湾と旅行されて、アメリカ帰国は過越しの3日前の4月2日でしたが昨年と同じにしましょうと言うことで『ぶっつけ本番』に近いような私たち準備者でしたが、FTFの方二人は必ず補助しますと約束してくださって、それに日本部からも三人助けの手をくださる人が決まっていて、お願いした時間以前に来られて12時に始まる式ですが11時半にはすでに準備は出来ました。 12時にCarl牧師の言葉で始まり、岸野牧師、芙美さん、私とで式を終わり、聖餐式に移り、その後食事になりました。 昨年とほとんど同じ食事 Matzo Ball Soup 肉 チキン 添え物 野菜(チキンと一緒にBakeしたApple, Apricot, Parsnip) Salad パセリサラダ、ロメインレタス Dessert Hungarian Walnut Chocolate Torte(小麦粉ソーダなしのケーキ) 昨年Horse Radishを作るのに加えるParsnipの余分をチキンとBakeしたのがよろこばれたのでParsnipをチキンのBakeに加えました。又お米はよく使われるとのことなのでライスピラフを加えました。Dillの香りを一種、カレーの香りと2種類のピラフでした。 参加者の中には始めて「過越しの礼拝 食事」の方がおられて「とても感激した」といっておられた。又中には「50ドルも払ってユダヤ人の過越礼拝食事に出たけれど、食事は少しもおいしくなかったが、この食事はおいしい」と驚いて1回だけではなく数回私の座席に来られて感激に堪えられないような人も居ました。大きい過越しの礼拝はユダヤ人でもケータリングを使ったりするそうです。簡単で美味しいはずですがおいしくないというのは理解しかねますが、3年目、3回の食事を作らせて頂いて「マッツァボールスープを食べたことがあるがおいしいと思ったのはここが始めて」と多くの人が言いに来られました。日本の味噌汁でも旨いのとうまくないのとあるようにマッツァボールスープも人によっておいしく作れない人もいるのでしょうね。 パセリサラダを作るのも3年目ですがその売れ行きが良いことも面白いことです。皆様喜んで食べておられました。Japan Festivalのカレーもそうでしたが,私の料理の腕ではなくイエス様が来られて手でかき回されて味を良くして下さるような気がするのです。  来年はCarl牧師はKing of Glory(隣の市Fountain Valley にあるルーテル教会)を招待してMaunday Thursdayの夕礼拝を過越しの式にしましょうと云われました。それが過去3年と同じにFull Course MealとなるのかSeder Plate を使っての式だけなのか現在はまだ決定してはいません。でも私たちクリスチャンが受ける聖餐式がここから始まった、歴史をさかのぼり多くの人がイエスの最後の食事を体験することが出来るのはすばらしいことではないでしょうか。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 日本語部聖歌隊は、総勢14名で、「かいばおけにすやすやと」(讃美歌(21−269) マニフィカート讃美歌(21-177)の2曲を声高らかに賛美しました。4部輪唱は、初トライ。大成功でした。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet BISHOP FINCK TO LEAD CONVERSATION All are welcome to participate in our conversation related to our Japanese MinistryandLCR’s commitment to a multicultural ministry. Bishop Finck will facilitate the discussion on Saturday, November 19 between 9 a.m. and noon.                                               JAPANESE MINISTRY CELEBRATES 23RD ANNIVERSARY Congratulations are extended to our Japanese Ministry as they celebrate 23 years of faithful ministry   at LCR. We have been honored by their support and inspired by their commitment to share the values and culture of their tradition. As members of LCR, we are grateful for the way Japanese Ministry has integrated itself into the whole life of thecongregation. Our ministry has been enriched by their faithfulness and enerosity of spirit.                                             Friendship Task Force FLOWER ARRANGING The Friendship Task Force (FTF) Committee is sponsoring a Thanksgiving flower arranging class on Saturday, November 19, from 1:00 to 3:00 (please note the new time for this class only). Mrs. Lin will assist us in creating beautiful fall centerpieces. Sign-ups for this class begin on Sunday, October 30. The cost is $20 and, as always, you are asked to bring a pie tin or other container for your arrangement, and a pair of scissors.                                           JAPANESE MINISTRY ANNIVERSARY On Sunday, November 20, LCR’s Japanese Ministry is celebrating their 23rd anniversary with a special service. Both Pastor Tateno and Pastor Itoh will be visiting LCR for the event. At that time, FTF will present to them a $2000 check for the Japanese Disaster Relief. This is the money which was raised by the generosity of those…