Archive for December, 2013

Tweet マタイ 11:2-11 主イエス・キリストの恵みと平安が豊かに注がれますように! お母さんが洗礼を受けるのを見ていた男の子が、なぜ洗礼の時、お水をかけたの?という質問をした。それはとても良い質問で小学校1年生の彼に、「ごはん食べるまえに手を洗うでしょう。それと似ていて、神さま、イエスさまを信じて生きていこうとする時に、その前に、水できれいにしてもらうみたいなもんだよ。」と答えた。すると、「神さまを信じて生きていくというのは、見えないものを信じることでしょ。できるのかな?」 と彼の質問は続いた。そこで、「すばらしい質問だね! そうなんだよ、信仰とは見えないけど神様を信じて生きることなんだよ。」と答えると、それ以上は質問は続かなかった。  今日のメッセージでは、あえて、ひとつ付け加えたい。信仰とは、まさに見えないものを信じて生きていくことだが、単に見えない神様だけを信じて生きて行くことと、主なる救い主イエス様も信じて生きて行くということは、決定的な違いがある。 この違いは、キリスト信仰の根本にかかわる問題で、主なるイエスを信じることに、キリスト教のすばらしさ、主の神秘性、秘密の業があるからだ。秘密の業については、さらに説教の後半で述べたい。  与えられた福音書、本日アドベント第三週は、第二週に続き、洗礼者ヨハネに関係している。先週の福音書箇所では、ヨハネはイエスの宣教開始前に、洗礼者ヨハネの元に集まってくる人々に、頼りにならないものとか、真の神ではない人に向かうのではなく、私の後につづいてこられる方、イエス様に向かって歩むようにと人々を導いた。 ヨハネの元に集まった多くの人々は、イエスに追従しはじめた。 しかし、イエスの宣教がはじまっても、ヨハネの弟子のままでいる人々もいた。 ヨハネはそのような人々に対し、イエスのところに行って、「あなたは救い主としてこの世に来られた張本人なのでしょうか?あるいは、本当の救い主が来るまで、もっと待たなければならないのでしょうか?」という質問をさせた。 ヨハネは、イエスは救い主であるということはわかっていたものの、イエスは神として怒りと裁きを顕されるような方だと思っていた節があった。 ところが実際はヨハネが想像していたイエスとは違い、あまりにも恵みに満ちた方であった。 それで、いまだにヨハネに追従してくる弟子たちに、このような質問をさせたように思う。  その質問に対してイエスはまず、「ヨハネの所に戻って見聞きしていることを話すように」と話した後で、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と話した。 マタイの11章より前あるいは後の章も読めばわかるが、それらは、実際にイエスが行なっていた業であり、しかもイザヤがすでにイエスの降誕前の紀元前600年ごろに、神の言葉として語っていたことだった。 そこには、イエスが神として、また救い主として顕われたことの証拠があったといっても良い。 すなわち、ヨハネの弟子たちが質問したことに対して、「私は救い主です。」という答えを返したともいえる。 つまり、2000年前、救い主イエスはすでに顕われたということ。  このヨハネの弟子たちの質問とイエスの回答は、いったい現代を生きる私たちにどういう意味を持っているのか。さらに、待降節と称して主の降誕を思い、また再臨を待つ時期にあるなかで、われわれに、神は何を語りかけているのだろうか?  現代の私たち、イエス様の存在を2000年前のように、見ることはできない。しかし、聖霊として、わたしたちの周りに、いまだに存在してくださっている。 そればかりではなく、イエスはもっとも小さいものにしてくれたことはわたしにしてくれたことなのだという言葉も残している。 もっとも顕著なことは、イエス自身が、「このパンはわたしの体である。」といわれたこと、「この杯は、罪の赦しのために私が流す血による新しい契約だ。」とも言われた。 だから、聖餐式でいただくパンとぶどう酒に、イエスの存在を信じて、わたしたちは、聖餐式に預かっている。  このアドベントの時期にあって、いろいろな困難に出会うわたしたちの人生にあって、その真っ只中にいてくださる主イエスの存在を確認しよう。 それはとても神秘的なことで、よくは見えない存在。 しかし、パンとぶどう酒のなかに、あるいは、世の中のもっとも小さい兄弟姉妹のなかに、存在してくださって、私たちを強め、そして永遠の命に導く存在だ。 そのイエスの存在により、自分の置かれている状況がよく見えなかったのに見えるようになったり、人生の歩みに挫折していたのがまた歩めるようになったり、体調が悪く心も死んでいたようになっていたのに身も心も健やかになったり、本を読んでもよくわからなかったのが聖書の御言葉がどんどん読めるようになる等ということが、現在もたくさん起こっている。 皆さんの中にそのような体験をした方々がたくさんいるはず。  このアドベントの季節、今一度、人類が神から頂いた最高のプレゼントである神の子、イエス様の存在に気づき、その大きな恵みに与り、将来に向けて、新たに夢と希望を持って歩み出せますように。アーメン。 “Jesus’ Presence”  Matthew 11:2-11 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace upon us in the name of our Savior and Lord, Jesus Christ! A six year old child asked me a question, “When my mother was baptized, why you put water on her head?” Actually, this was a very good question, and I answered to him, “Before you eat dinner, do you wash your hand to clean? Correct? The Holy Baptism is something similar, before you start the faithful life, which is to follow Jesus Christ believing in God, you had better be washed spiritually by the water.” Then he asked the next question. “Believing in God is to believe something that cannot be seen. Can I do? I wonder…” Then I said to him, “What a wonderful question you asked! Yes, the faith is to believe in God that is not seen.” Then he did not ask any further question. Here in this message, I would like to add that, there is a substantial difference between to believe in only God and to believe in Christ as our Lord and Savior. The latter belief has a fundamental mysterious aspect which cannot be seen as well as cannot comprehend. I will talk more about this aspect toward the end of the message. The Gospel text on this third advent, we continue reading the text that is related to John the Baptist. Last week, we learned…

Tweet 今週与えられている詩編は42編。最初にできる限りこの詩編作者を想像しながら詩を味わってみよう。次に、待降節にあって、主の降誕と再臨を覚えながら、神はこの詩編を通して現代を生きる私たちに何を語っているか黙想してみたい。      詩編 / 42編 1:【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】 2:涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。 3:神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。 4:昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。 5:わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。 6:なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。 7:わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から 8:あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。 9:昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。 10:わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」 11:わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/「お前の神はどこにいる」と。 12:なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。 この詩編もだれが作者であるか断言はできないし、時代も明確ではない。しかし、5節の言葉から想像して、かつては喜び賛美しつつ、祭りの中をユダヤ教のエルサレムにある神殿に入り、神聖なる神の御顔(契約の箱を意味しているかもしれない)に会っている経験をした。しかし、神殿に定期的に入って礼拝するような生活はできなくなり、神殿からは遠く離れた地で、ほとんど絶望とも思えるような状況に置かれていることを詠っている。ダビデがサウルから追われほとんど絶対絶命とも思えるような状況になってしまった時のことを詠っているようにも思える。エルサレムから離れ、ヨルダンの地、さらに現在のシリアとレバノンの国境にあるヘルモン山の方まで、逃げていって、その地で、あたかも殺されるか自決せざるを得なくなる状況を待っているようでもある。詩編作者を追いつめている者は、「お前の神はどこにいるか」(4節、11節)としつこく迫っている。しかし、完全に希望を失っているわけではない、6節とまったく同じ言葉が、12節の中で繰り返されている。自ら「神を待ち望め」と詠い、さらに「御顔こそ私の救い」と告白しようと詠うなかで、神なる方、救い主、を待ち望む中に、希望を詠っているように思える。 待降節にあって詩編42編をしっかり読むことはとても意味が深いと感じる。21世紀に生きる私たちにとって、2000年前に主イエス・キリストは来られたが、わたしたちは、その当時生きていた人々のようにイエス・キリストという生身の体を持った主なる神を見ることはできない。それはある意味、この詩編作者が神の御顔を見れずにいることと共通している。現代、キリスト教を信仰していない方々から「あなたの神はどこにいるのか。」と言われてしまう面はある。それでも、この詩編作者が詠っているように、「神を待ち望め。」と私たちも自分たちに詠うことの意味がある。主なる救い主イエスが2000年前に顕われてくださったときに、再臨してくださるということが新約聖書(マタイ16:27-28、ルカ21:27、使徒1:11他)には書かれている。また、父なる神、子なるキリスト、そして、聖霊を信じるキリスト教徒にとって、復活したイエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と語ってくださっていたことは、たとえ目に見えなくても、私たちの間に聖霊が、つまり、イエスの存在があることを確信できる。そして、私たちがこの世で生きている時か、天国でかはわからないが、私たちは主の御顔を見る時が訪れることを、主なる神がこの詩編を通して教えてくださっているように思える。     詩編42編の「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」という言葉が詠われている。それは鹿にとって水が不可欠のように、どのような時代であろうが、私たち人間にとって神は不可欠の存在であり、私たちから見えるか見えないかに関わらず、神はしっかり存在してくださっている。私たちがどのような状況にあろうが、たとえ絶望と思えてしまうような状況にあっても、実は主にある希望を抱いて間違いはない。 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet LCR日本語部週報通算#1285号(日本語) 2013年12月15日の週報 LCR日本語部週報通算#1285E号(英語) Sunday English Bulletin 1285E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マタイ3:1-12 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれるように! 12月1日をもって、日本では道路交通法が改正されて、自転車通行の人々も必ず車と同じ左側通行をしなければならなくなった。そのニュースを見ていたら、多くの警察官やボランティアの方々が、あちこちに立ち、右側通行をしていた自転車がいたら、「そっちではないですよ、こっちですよ。」と誘導していた光景が放映されていた。  私はその光景を見たあと、今週の聖書箇所を新たに読んだ。そして、誘導していた方々のイメージが洗礼者ヨハネのイメージへと変わっていった。何を言いたいかというと、 洗礼者ヨハネも信仰という道において間違った側を歩いている人を、そっち側ではないですよ、こっちですよ。と言って導いたような所がある。 アドベントに入って、第二週目と第三週目は、毎年洗礼者ヨハネについて書いてある福音書を読むが、今年はマタイ3章が与えられていて、当時のヨハネの様子を思い浮かべて、主なる神、聖霊は、この礼拝堂に集まった私たちに、何を語ろうとしているのか考えてみたい?  与えられた福音書を見ると、洗礼者ヨハネは荒れ野に住み、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたとある。 その服装からして、800年前の預言者、エリヤを再現しているようでもある。 神の言葉を聴き、預かり、その時代の人々に神の言葉を伝える預言者の存在が何人もいた。神の言葉を預かるという点では、アブラハムから始まって、モーセもそうであろうし、エリヤ、エレミア、イザヤ、エゼキエル、等々さらに、旧約聖書の終わりの方には、十二人の預言書がある。マラキが旧約聖書の最後で、紀元前5世紀の預言者。そして、紀元前4世紀ごろには、ユダヤ教の世界では、聖書がほぼ完成して、生身の預言者が現れる時代ではなく、紙(巻物)に残された聖書を読むことで神の言葉を聴く時代になっていったと思われる。  そのような時代に、洗礼者ヨハネが現れた。しかも、荒れ野に現れた。イザヤ書で預言されていたような形で、800年前のエリヤのような格好で。それは、ひょっとして救い主かと思ってイスラエル、ユダ、ヨルダン川一帯から多くの人々が洗礼に訪れた。  ヨハネの言葉のメッセージは、「悔い改めよ、神の国は近づいた」という言葉で始まっている。 ちなみに、イエスの宣教もまったく同じ言葉ではじまっている。 悔い改めという言葉が今日の聖書の箇所で三度も使われているが、悔い改めのギリシャ語はメタノイヤという言葉。それは心を変えること。 日本語で回心という言葉があるが、心がどこか違う方向に向いてしまっているところを、回転させてしっかり神に向けるということかと思う。そして、ヨハネ自身が、決して自分の方向ではなく、後に来られるイエス・キリストの方にしっかり向きなさいということを示した。  生きた預言者不在の時代が500年近く続いている中で、突然生ける神の言葉を語り、洗礼を授けるヨハネが現れたかと思うと、続けざまに、もっとすごい方が現れて、聖霊と火で洗礼を授けられるようになる。そしてそのお方の方向を向くようにとヨハネは指示したと言える。 この話、わたしたちの人生とどう関係しているのだろうか? 冒頭に自転車を例に出したが、自転車で道路を走るとき、歩行者と同じように右側を走ったらよいのか、あるいは車と同じで左側が良いのか、迷う人はたくさんいる。  この世に生まれたすべての人間の人生の途上においても、迷うことが多く、どっち側を歩いてよいのかわからない。あるいはどっちの方向に向かえばよいか迷う。何万もの宗教はあるし、この世には、お金や地位、いろいろ惑わされてしまうものが存在する。 しかし、この礼拝堂にいる皆さんのほとんどは既に、父と子と聖霊の御名による洗礼を受けている。洗礼は、回心の印。心をイエスに向けたというか、聖霊が働いて、おひとりおひとりの心が、イエスに向くように変えられたといっても良い。それは本当にすばらしい神から賜物だ。ぜひ、そのことを今一度、思い出して欲しい。  私たちの周囲には洗礼を受けておられない方々もたくさんいるが、回心して心をイエスに向けて信仰の道を歩む、洗礼へとすべての人は招かれている。それは、主イエスが、教会とそこに集うクリスチャンを通して導いている。 今日のヨハネの言葉だけを読むと、イエスというお方は、神の怒りと裁きをもたらす方というイメージは否めない。私はヨハネ自身も、その時点では、本当にイエスがどのような方であるかはよくわかっていなかったと思う。ものすごい方ということだけを神の言葉から察知して、悔い改めにふさわしい実を結べ、とか、殻を消えることのない火で焼き払われるなどという言葉をそのまま語っていたのだろう。  実際の神なるイエスは、どういう方か、イエスの洗礼は、死ぬべき罪人が復活するような徹底的な赦しであり、神からの豊かな恵みである。なので、私たちは洗礼を通して、神の赦しと恵みに浸る経験をした。今年の待降節、過去に洗礼を受けたことに感謝し、また新たに主イエスの方向に向かって歩みだそう。そして、周囲の洗礼を受けていない方々をも、世の中の様々なアイドルに惑わされることなく、聖なる主イエス・キリストの方へと導こう。 アーメン “Sign of Conversion” 2013 12 08 LCR Matthew 3:1-12 Pr. Hitoshi Adachi May Grace and Peace be upon you in the name of our savior, Jesus Christ! Amen. In Japan a revised traffic law went into effect as of December 1st, from now on all bicycles need to run on the left side of the street (same as cars). While I was watching the news, there were many police officers and volunteers standing on the street, guiding many bikes towards the left side of the street. After I saw that news, I read the Gospel text again. Then the images of police officers and volunteers were changed to John the Baptist in my mind’s eye. What I want to say here is that John the Baptist, was guiding people who were walking on the wrong side of the road of faith to come towards the correct side by repenting and listening to Jesus. Entering the season of Advent, the second and the third Sundays, we read the Gospel text relating to John the Baptist. Let’s reflect upon what he did 2000 years ago, and think about what the Lord, our God, the Holy Spirit is trying to say to us in this sanctuary now. According to the Gospel text given, John wore clothing of camel’s hair with a leather belt around his waist, and his food was locusts and wild honey. This image was like Elijah, one of God’s…

Tweet 週報通算#1284号(日本語) 2013年12月8日の週報 週報通算#1284E号(英語) Sunday English Bulletin 1284E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週与えられている詩編は72編。最初に「ソロモンの詩」と書かれてるので、ダビデとベトシェバの子で、ダビデ王の後継者となったソロモンを思い浮かべながら読むことをお勧めしたい。二回目は、イエス・キリストの降誕節にあって、この詩編72編は、現代の私たちに何を語りかけているかを考えながら読んでみよう。      詩編 / 72編 1:【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。 2:王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。 3:山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。 4:王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。 5:王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。 6:王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。 7:生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。 18:主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。 19:栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。 ソロモンのことを思いながら、以下、書き綴りたい。冒頭に書いたように、ソロモンはダビデ王を引き継いだ南北統一国家の王。上記の箇所ではないが、この詩編の最後20節には、「ダビデの祈りの終わり」という言葉が書かれている。ということは、ダビデが後継者ソロモンに向けて祈った詩ということになる。 この詩編を読む限り、たしかに、祈りであり、ソロモンの就任にあたり、またソロモンに限らず、後世の王たちの就任式などの礼拝でも用いられていたのではないかと想像する。 言ってみれば理想的な王をイメージして祈られているように思う。 ソロモンという名前は、「シャローム」が語源で、ヘブル語の平和の意味。ダビデの波乱万丈の人生のなかで、その子には「平和」な時代を期待し祈りつつ、名づけられたように思う。 その期待と祈りの通り、ソロモン就任当初は、確かに平和の到来といって良いのかと思う。そして、ダビデ時代には完成しなかった、神殿の建設が行なわれた。その神殿にありとあらゆる金銀財宝を集め、主へ奉献したようだ。さらに、豪華な王宮をつくり、その栄華を極めた。 そして、そのような栄華を極める時代は長続きはしない。諸外国との貿易を盛んに行い、豪華な品々を集めたり、外貨導入もしようとしたのだろうが、結局は貿易赤字だったのだろう。税収を増やす政策をとらざるを得なくなり、統一国家のはずが、逆に分裂する要素が生まれていった。  さて、以下は、アドベントの時期にあって、イエス・キリストのことを思いながら、書き綴りたい。 この詩編の18節、19節の言葉には、全知全能の神の存在を讃えて、さらに救い主の到来をも祈っているように思える。  そして、イエス・キリストは、この世に来られたとき、ソロモンについて何と言われたか? マタイ6章29節には、イエスの言葉として、「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」そのイエスの言葉は、人間的な栄華の虚しさを語られ、真の栄華とは何かを問われているように思える。 21世紀を迎えている現代、尖閣諸島や竹島問題から中国や韓国の防衛識別圏がメディアを賑わしている。 微妙な識別圏の問題も、エネルギーなどの関係で、それぞれの国の栄華に関係してくるのかもしれない。 しかし、3000年前のソロモンの栄華や、その栄華に対して、イエスがどう話されていたか、よく考えたい。 国を超えて、主なる神が驚くべき御業をなしとげらる主イエスの平和、主イエスにある希望を抱く。アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet Christmas Services Invitation 2013 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「もうすでに、だけどまだ」 マタイ24:33-44 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれるように! 若いころ、本当にテニスを真剣にやった。社会人になってからも会社の中のテニス部員として活動した。ある大会では会社のテニス部が準優勝したりもした。 そのような上位の成績を残したときは、自分はとてもこの相手には勝てそうもない実力でも、どういう風の吹き回しか、自分がまったく異なる別人のようなプレーができてしまうことがあったと思う。とくにだれかが見ていると。。。  まるで二重人格者ともいうべきか、同じ自分の中が、まるで、二人の自分がいる。 一人はテニスのうまい人間と、もう一人は凡人が存在しているような。 似たような経験をお持ちの方はいるのではないかと思う。かたや自信に満ち溢れているかと思うと、また自分には自信が持てないというか自分を否定する時もある。 ローマ13:14には、キリストを身にまとうようにとパウロは薦めているが、なにか関係があるような気がする。 さて、本日からはアドベント。2000年前にイエスがこの世に来られたということを思うだけでなく、主イエス・キリストが、世の終わりに栄光のうちに再臨されることを備え待つ季節でもある。イエス・キリストはもうすでに来られたけど、まだ再臨されていない時代、「もうすでに、だけどまだ」と短く表現することもあるが、私たちはそのような時代に生きていることを思う季節。このアドベントとは、いったい私たちの実生活にどのように関係しているのだろうか?  本日の福音書の箇所では、イエスの再臨の日時はだれも知らないと、イエス自身が語っている。その時は、ノアの時代にノアとその家族以外の人々がなにも備えのないうちに、突然大洪水に襲われてしまったようなものだ。あるいは、二人の男が畑仕事をしていれば、一人が突然連れ去られ、一人は残るだとか、二人の女が臼をひいていれば、一人が突然連れ去られ、もう一人は残ると。そして目をさましているようにとイエスは忠告している。いったい、イエスは何をおっしゃりたいのだろう? 私の家の裏庭を畑にたとえるわけでもないが、私の家では、もう子供たち育ってしまい、私自身が外に出て一人で畑仕事というか、裏庭に植わっているレモン、アボガド、グアバなどの世話をしていることがある。 二人の男のイメージが沸いてこない。  そこで、はっと気づいたのだが、イエスの言う二人の男というのは、一人の人間なのに、テニスをするとき、ほとんど完璧にテニスをできる自分があると同時に、また凡人の自分があるように、一人の人間でも、キリストの愛の心を持つ部分と、キリストの愛に反する部分があって、愛に反する部分は消えて行くという事をおっしゃりたいのではないかと思う。  つまり、キリストの愛を着ていない人が消えるとかそういうことではなく、わたしたちの中の愛を着ていない部分、つまりキリストの愛を否定してしまうような罪が消え、私たちをキリストの愛を完全に着るような人間になるということをおっしゃりたいのではないかと思う。ヨハネの手紙一の三章二節には、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」 私たち、一人一人は、洗礼を受けて、すでにイエス・キリストを身に着けているが、かといって、イエスの再臨の時に起こるという完全にキリストを身に着けるということは起こっていない、ある意味中途半端な時代にいる。  そのような時代にあって、イエスは、目を覚ましていなさい。備えていなさいと言われる。それにしても、目を覚まし、備えているということはどういう意味か、今日の聖書の箇所、マタイ24:33-44からはよくわからない。 マタイ福音書には、24章45節から25章の終わりまでに、4つのたとえ話が加えられている。一つ目は、「主人が帰ってきたときに忠実にしている僕の話。」二つ目は、「ともし火と一緒に、つぼに油を入れて待っている乙女たちの話。」そして、三つ目は「預かったタラントを用いて、ほかのタラントをもうける話。」 そして、四つ目のたとえ話をもって、目を覚ましていることの明快な答えが語られているように思う。 マタイ25章31節から46節のたとえ話で、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と最後の審判の時、王なるイエスが語っている。  目を覚まして備えるとは、「助けを必要としている人に手をさしのべること、キリストの愛を持って生きること。」それは、「出会う一人一人の中に、キリストを見出すこと、苦しみや困難の中にある人との出会いの中に、キリストに出会うこと。」ともいえる。  クリスマス待降節、アドベントの時期、イエス・キリストが思いもしなかったような姿で、私たちに接してくださる。そのキリストに私たちが気づくことができるように、そして私たちが完全にイエス・キリストを身につけることができるように。 アーメン。 “Already, But Not Yet” 2013 12 01 Matthew 24:33-44 Pr. Hitoshi Adachi May Grace and Peace be upon you in the name of our savior, Jesus Christ! Amen. When I was younger, I played tennis very seriously and often worked out. I belonged to a team and attended regional competitions. One year our team was among the finalists. While I was on this championship team, I played as a singles player and sometimes, I felt very strange because I won against opponents whom I thought that I could not defeat. I was especially anxious when a certain someone was watching me (even though I wasn’t engaged to her at the time). I do not know how I can explain it, but it’s something like dual personality. Within me, there were two different persons. Have you had a similar experience? Sometimes you’re very confident but at other times you’re filled with self-doubt. In Romans 13:14, St. Paul suggests to us that we put on Christ. I believe the experience I shared with you is related to putting on Christ. When you act according to God’s wishes, you’re living positively and with confidence. Today is the beginning of the Advent. It is the season during which we reflect upon the fact that Jesus Christ came on earth 2000 years ago and he was God incarnate. Not only that though, it is also the season to remember that Jesus Christ will gloriously…

Tweet Calendar 12,2013&聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace