2015年4月12日LCR日本語部週報痛祭第1348号

2015年4月12日(復活後第二主日)週報

April 12, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1348E-2

今週は聖書日課では4月9-12日に与えられている詩編133編を読む。新しいイースターの季節に入った。厳密には、我等の兄弟姉妹である東方正教会では使っている暦が異なるため、イースターは4月12日となるが、そのようなことも覚えて、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編 133編
1:【都に上る歌。ダビデの詩。】
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

気になる言葉というと、「兄弟が共に座っている」そういう状態をなんという恵みであるか、そして喜びであるかと表現していること。

さて、詩編作者の思いを想定しながら、一節づつ見てゆきたい。「都に上る歌」とあるので、神殿のあるエルサレムに向かって上るときに歌うものと想像できる。 そして、ダビデの詩となっているが、かならずしもダビデが詠ったというわけではなく、後世の詩編作者がダビデのことを想像しながら歌ったようにも思える。詩の内容に入っていくが、兄弟が共に座っている状態を、すばらしい恵みであり喜びである、と詠っている。そこには、旧約聖書に描かれてきた兄弟関係は必ずしも良いものばかりではない。いやむしろ悲惨な関係ともいえるものが多い。アダムとイブの息子たちで、人類最初の殺人と言われる兄カインが弟アベルを殺してしまう関係にしても、人類最初のオレオレ詐欺(笑)とも言えるかもしれないが弟ヤコブが父イサクを騙して結果的に兄エサウの継ぐべき資産を横取りしてしまったことにしても、またヤコブの息子たち12人のなかで、下から二番目のヨセフは兄弟のなかでは仲間はずれになりエジプトに売られてしまうようなことさえ起こる。そのような難しい兄弟関係が多いなか、ともに兄弟が座っているというなにげない光景が、なんという恵みであり喜びなのかが詠われている(1節)。つづいて2節と3節の前半で、二つのすばらしい光景を付け加えている。すばらしい香りの油がアロンの頭に注がれて、頬のひげに降りてきて、さらに着ている服の襟に垂れている長いひげの先のほうまで滴ってくる香油の様子の美しさを詠っている。そこにはアロンは神の任命を受けたモーセから油注がれて大祭司に就任する様子を想像すればよいのかと思う(2節)。次の節の前半で、光景はがらりと変わり大自然の光景を詠う。都エルサレムの北方約250Kmにあるヘルモン山。標高は1200メートル位らしいが、冬はいただきに雪をかぶるような山で、エルサレムとヘルモン山の中間にあるガリラヤ湖や、さらに都であるエルサレム(別名シオン)に向かう途中にある丘陵地帯に対しても、大切な水源になっているのだと思う。そのヘルモン山にある露とエルサレムに流れてくる滴のなんと美しいことかと詠う(3節前半)。 そして最後に、シオンにて主なる神が、永遠の命を布告されると詠う(3節後半)。 

この詩編133編を通して、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。兄弟が共に座っている光景は、ある同じ親から生まれた兄弟というより、あるいはユダヤ教を信仰するユダヤ人たちというより、創造主に創られたすべての人類が、この地球に共に居住している様子に思えてくる。そのように考えると全人類の親はだれなのか、全人類の親、創造主の思いを考える時、その子供たちも、この地球上で、共になかよく居住することが可能になるように思う。 また二節から、神がモーセを通してアロンに油を注ぎ、大祭司に任命する様子を想像するより、娼婦だったと思われるマグダラのマリアを通して、神のひとり子イエスに高級な油が注がれた光景を思い浮かべたくなる。マグダラのマリアさえ用いられ、油注がれた救い主イエスが、そして大祭司イエスが存在することを覚えたい。詩編133編3節前半に詠われた大自然の光景を覚えるとき、とくに今カリフォルニアに住む中で、たいへんな旱魃に見舞われている現実がある。もちろん、水を大切にし、できるかぎり節約する生活をしようとすることは当然しなければならない。ただもっと大切なことがあるように思う。それはその水を創造して供給してくださる創造主を愛し敬うことではないだろうか。そして詩編の133編の結論は、その創造主と人類の愛し合う関係のなかで、主なるイエスが全人類への永遠の命を宣言してくださることをうたっているのかと思う。しかし、この四旬節から復活節に移行する季節にあって(プロテスタント、カトリック教会では5日からもう復活節だが、私たちの兄弟姉妹である東方正教会では12日がイースター)人類が罪の世界に生きてきていることを実感するとともに、主イエスの復活によって、創造主からの一方的な赦しにより、人類が新しく永遠の命を与えられていることを覚える。 安達均

マルコ 16:1-8

主イエスの、恵みと赦しが集まった人々の心にしみわたり、復活の主イエスに全人類が気付く、イースターの季節となりますように!

みなさん、「私は復活の主、イエスキリストに出会った」という方はおられるだろうか? どのようにイエスに会われたのだろうか? 私が小学校低学年、洗礼を受けてまだ一年ほどしか経っていない時、長野の叔母の家に夏休み中、遊びに行った。
その叔母は父より15歳以上年上で、6人の子供がおり、当時、長女と次女は、すでに家庭を持っていた。長女には3人の子供、次女にも一人の4歳の子がいた。次女は、今思うと、なにか問題を抱えていたらしいのだが、叔母の家にしょっちゅう来ており、本当に次女のいとこがよく私の相手をしてくれた。
彼女は7歳の私に向かって「均ちゃんは救い主イエスに会ったことはあるの?」という質問をしてきた。 叔母は本当に熱心なカトリック教徒で、イエス様の働きをいろいろなところで見て、それを話すのが大好きな叔母だった。 そのような叔母を母にもつ彼女自身は、自分はまだイエス様にあえていない、だから会いたいという話をしていた。主イエスを求めていたのだと思う。  

さて今日は待ちに待ったイースター。主の復活のお祝いだ。 しかし、与えられた福音書、マルコ16章1-8節では、だれも復活の主イエスに会うところまではいっていない。いったいどういうことと思われている方もいるかもしれない。
ちなみに、マルコ福音書の原本はさきほど拝読した8節で終わっている。その後に書いてある9節以降の結び一と結び二があるが、それらはあくまで後の時代の人々が付け加えたようだ。
じゃあ、マルコは何で8節の言葉で福音書を終わらせてしまったのだろうか? 金曜日の夕方、イエスが十字架上で亡くなり、墓に葬られた。 遺体には油が塗られるはずが、その時間も無く、安息日と言われる金曜の日没になってしまった。 
金曜日没から日曜の明け方まではなにもすることができず、日曜朝に、勇気ある女性たちはイエスに香油を塗りにでかけた。 その結末8節は、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
これじゃ、蒸し暑い夜に、あつくてしょうがないから、からだを冷やしてくれる怪談のような話に思われても仕方がないのではないか。 だれも復活の主イエスに会うことを書かないで、いったいマルコは何を考えていたのだろうか。

ブービー賞という言葉があるが、ブービーとはもともとまぬけとかいう意味で最後のこと。 しかし、ゴルフなどではブービー賞というと最後の人や最後から二番目に冗談で商品を上げたりするが、実は、競技というのは、最後の人がいるからその前の人がおり、ずっと遡ってきて、優勝する人も出るわけで、最後の方はとても大切。
なにをいいたいかと言うと、マルコ福音書の最後には大きな意味があると思う。なぜか墓の中に若い男性がいて、その彼も怪談的なものにしてしまっているが、彼のしゃべった言葉で、最後から二番目の7節に、イエスがガリラヤに先に行って、弟子たちはそこでイエスに会える、と語っていた。
ガリラヤとは、イエスの弟子たちの生活の場である。 その生活の場にイエスが現れる。 それは、弟子たちばかりでなく、すべての人々の生活の場にイエスが現れることを示唆しており、この福音書の読者たちにも、イエス自ら、現れてくださることを示唆していたのでないだろうか?
マルコはイエスと人類が出会うことを書くのは、もう自分の仕事ではない。 福音書には書かなくても、聖霊として顕われる神なるイエス自らが、わたしたち人間の生活の場に現れてくださることを、いいたかったのではないだろうか? 

さあ、みなさんどうだろう? みなさんの生活の場に復活の主イエスは顕われてくださっているだろうか? 私は、みなさんが気付くかきずかないかにかかわらず、主イエスが私たちの生活の場に、大きな力を持って働いていてくださることを確信している。
数年前、まだ洗礼を受ける前の千鶴子ミラーさんが話してくださったことを、ご本人の許可をいただいた上で、みなさんとシェアしたい。 ミラーさんは、夜中に真っ暗な洗面所に立たれたとき、なにか光るものに気付いた。 そして、その時のことを、私は神様に会いましたと報告された。
それは、実は、金色のドアのノブが光っていたのだった。 しかし、なんだそれはただドアのノブが光っていただけだ、という話にはされなかった。 ノブが光るように見えるが、ノブだけに光を発行するメカニズムはない。 何かの光があって、それが反射して、ノブが光っていた。 つまり、光をこの世に送られた神の存在、光として顕われてくださったイエスの存在を見出された。
今日はまだイースターの初日。 イースターの季節は今日から7週間続く。この季節、人類が光なるイエスを殺してまでも、復活して人類を赦しつづけ、人類に命を与えてくださっている神なるイエスに、一人でも多くのみなさん気づかされるように祈る。イエスの遺体がお墓の中になかったということは、決して怪談の結末ではない。イエスがみなさんの元に顕われる復活と昇天への約束である。 アーメン。 
安達均

“The End of A Ghost Story?”
Mark 16:1-8

May the Grace and Forgiveness of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in the sanctuary and May the Holy Spirit let people realize that the risen Lord is among us!

Have you ever seen the risen Jesus Christ? If so, how has Jesus appeared in your lives? When I was in second grade, for the whole summer, I went to Nagano prefecture (north of Tokyo). It’s about 4 hours by train and, at that time, it’s where my aunt lived with her family. During this time, in my life, it was 10 months after I was baptized.
This aunt was about 15 years older than my father. She had 6 grown children and her two older daughters were already married and had their own families. During my visit, her second daughter had some issues with her husband and she was almost always at my aunt’s house.
I remember she asked me a serious question even though I was only 7 years old, “Hitoshi-chan, have you ever seen Jesus in your life?” My aunt was a very faithful Catholic Christian, and she shared her story that she saw the work of Jesus in her life. The daughter, my cousin, often heard her mother’s story, but she said to me, “I wish I could see Jesus but, unlike my mother, I have never seen him in my life. I hope to see Him someday though.”

Today is Easter, the celebration of Jesus Christ, our risen Lord. He is risen indeed! However, in the Gospel text today, Mark 16:1-8, nothing is written about someone meeting the risen Lord, Jesus Christ. Some of you might think that is strange.
By the way, I recently read Mark 16 verse 8, which is at the end of original text of Mark. There are several paragraphs after that, but they were added at a later date by someone else.
Why did Mark end the Gospel that way? Friday afternoon, Jesus died on the cross and was buried. According to Jewish custom, they should have anointed him. However, the hour of sunset arrived, signaling the beginning of the Sabbath, so people could not do anything more until the Sabbath ended.
After the Sabbath was over, on Sunday morning, three brave women and a man came to the tomb to anoint Jesus. However, his body was not there. The end of the original Gospel of Mark is “So they went out and fled from the tomb, for terror and amazement had seized them; and they said nothing to anyone, for they were afraid.”
Well, this story seems like the end of a ghost story. Why did Mark end his Gospel without writing that someone met the risen Lord?

There is an older phrase: a Booby Prize. A booby prize is a joke prize usually given in recognition of a terrible performance or last-place finish. Contrary to popular belief, acknowledging the last place finisher is important. Without the last person in a competition, no one would be second to last place. Without the second to last, no one would be the third to last place finisher. As such, the winner could not be the winner without the last place finisher.
I believe Mark’s end verses are very important and meaningful. According to what I read a short time ago, there was a young man in the tomb. Although the young man’s presence also makes the Gospel like a ghost story, I believe the second verse from the end has special meaning. He said, Jesus would go to Galilee ahead of the disciples and people will see him there.
Why Galilee? Jesus’ disciples were living in Galilee. The young man indicated that In the midst of their lives, Jesus would appear. I believe Mark was highlighting that seeing Jesus is not only applicable to his disciples but it also applies to readers of the Gospel today.
For Mark, it was not his job to describe that Jesus would meet with his disciples and other people in the world. Even without writing about such things, Mark was quite certain that the Holy Spirit, God and Jesus Christ himself, would appear in our lives.

What do you think? Is Jesus appearing in your life? My conviction is: regardless of whether or not you realize our Lord is in your life, the risen Lord is among you and within you. Jesus Christ is working very hard in the midst of our lives.
Several years ago, before Chizuko Millar was baptized, she shared her story with me. Since Chizuko has given her permission to share her story, I’d like to end today’s message recounting her story. Chizuko was living alone in her house. At midnight, in darkness, she stood in front of a mirror in her bathroom. Despite being in darkness, she realized that there was something shining in the mirror. A few days later, she realized that she met God, Jesus Christ.
Her bathroom doorknob was the source of the shining. However, she didn’t end her story by saying her bathroom doorknob glowed. Why did her doorknob glow? Chizuko realized the doorknob symbolized that Jesus, the true light, came into the world.
Today is the first day of Easter season. We have 7 weeks of Easter season. During this Easter season, I hope and pray that more people realize that in spite of the fact that people killed Jesus, the Risen Lord, Jesus Christ did not abandon us and has not abandoned us. He continues giving us new life and works among us with His Grace and Forgiveness. Jesus’ absence in the tomb is not the end of a ghost story. It is God’s promise of Jesus’ resurrection and ascension. May you have a peaceful Easter season this year! Amen.
Pr. H. Adachi

今週は聖書日課では受苦日に与えられている詩編22編、(2節はイエスの十字架上の言葉)を読もう。主なる神に心を集中させて読んでいこう。気になる言葉や節は何かを挙げ、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているかよく考え、そして、神は現代の私たちに何を語っているのか思いを巡らせよう。

詩編 22編
1:【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2:わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 3:わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。 4:だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。5:わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。 6:助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。7:わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。 8:わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。 9:「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」10:わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。11:母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。 12:わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。13:雄牛が群がってわたしを囲み/場シャンの猛牛がわたしに迫る。 14:餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。 15:わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。 16:口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。 17:犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。 18:骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め 19:わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。 20:主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。21:わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。 22:獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。 23:わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 24:主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。 25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。 29:王権は主にあり、主は国々を治められます。 30:命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得 31:子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

気になる言葉:私の場合は20節にある「あなただけは私を遠く離れないで」

詩編作者の気持ちになって振り返りたいが、詩編は「賛歌」と1節には書いてあるが、特に前半は「嘆き」の詩編ともいえる。節によって、1) 嘆きと訴え、2) 信頼、3) 助けを求める、4) 賛美の誓い にグループ分けできそうなので、詩編全体を振り返り、分類をしてみたい。2-3節は「嘆きと訴え。」4-6節になると「信頼」の言葉に変化。7-9節はまた「嘆きと訴え」になってくる。10-11節は再び「信頼」の言葉に。そして12節になってはじめて「助けを求める」言葉になる。13-19節はまた「嘆きと訴え」にもどってくるが、状況をより明確に述べている。20-22節は再び「助けを求める」言葉になる。23節以降になると、暗い短調だった曲ががらりと明るい長調の曲になるように変化している。21節から最後の31節まで「賛美の誓い」を詠い続けている。 

主なる神が、受難週にあってこの詩編を読んでいる私たちに、何を語られているのだろうか? 冒頭にも書いたように、2節にある言葉はイエスが十字架上で金曜午後三時に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15:34)と叫ばれた言葉。神の子でありながら人の子としても私たちの住む世の中に生を受けたイエスも神への不平とも言える訴え、質問、を投げかけたことに、大きな慰めが与えられると思う。私たちも神への大胆な質問が赦されているように思う。そして、20節にある「あなただけは私を離れないでください。」という助けを求める言葉は、信仰の本質に関わる言葉だと思う。たとえどんな状況にあろうが、主なる神は決して私たちを離れてしまうことはない。イエスの十字架の死と復活がそれを教えてくださっている。すべてを失ったと思っても、主なる神だけは見捨てることなく、そこに寄り添ってくださっている。 安達均

March 31st, 2015

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4月5日に復活祭を迎えます。主の復活をご一緒に教会で祝いましょう。

2015年4月のカレンダー&聖書日課

マルコ 15:1-39

十字架に架かられた主イエスの恵みと平安が、集まったた一人一人の心の中に、豊かに注がれますように!

喜びや希望にあふれていた状態から、深い悲しみあるいは苦しみに暗転した経験をお持ちだろうか?過去の心の傷がいまだに癒えていない方、あるいは、本当に今、悲しみのどん底にあるという方もおられると思う。 
先週半ばには、フランスでジャーマンウィングスというドイツの航空会社の飛行機が墜落した。 ご遺族にはまさにそういう気持ちの方々がおられると思う。高校の旅行でスペインを何日か訪れた高校生16人が乗っていたという。 かわいい子には旅をさせろともいうが、その将来に希望あふれる高校生たちの喜びの旅が悲劇となってしまった。 もし自分がその親だったらと思うと、いたたまれない。心の傷が癒えるまでにいったいどれだけの日数を要することなのだろう?

イエスが十字架に架かる聖金曜日の週の始り。 今週は日本語では受難週と呼ばれる。 この受難週のはじまり日曜日から受苦日と言われる金曜日まで、いったいどういうことが起こったのか、振り返ってみたい。
まず日曜日は、枝の主日とかPalm Sundayと呼ばれるが、 人々がホサナホサナと熱狂的とも言える歓喜の声の中で、人々の服や、その辺の枝だか葉を敷かれたところを、イエスがろばにのって通られる。 人々は賛美しますとさけびつつ、イエスをエルサレムへと迎え入れる。(マルコ福音書では11:1-11) しかし、ろばに乗って登場するイエスに違和感を感じ始めていたことだろう。
翌日の月曜は、イエスの気持ちは荒れているように見受けられる。 イチジクの木を呪うということをされ、さらに、神殿から商人を追い出すということをされる。 神殿を清められたということもできるのかと思う。(マルコ11:12-19) 火曜になると、呪われたイチジクが枯れているがそこには教訓がある。そして、ユダヤ教の指導者たちとイエスの間で、権威についての問答がある。さらに火曜の残された時間に、イエスがさまざまなことを教えられる。(マルコ11:12-13:36)
水曜になって、ユダヤの指導者たちは、イエスを殺す計画を立てる。かたやイエスはベタニヤの町で香油を注がれるということがおこっている。 十二弟子の一人イスカリオスのユダはイエスを裏切ることを決める。(マルコ14:1-11) 木曜は、過越しの食事、主の晩餐となり、イエスは弟子たちに聖餐式の設定の言葉を教えられる。 そして、イエスはペドロの離反の予告する。さらにゲッセマネへ行き祈られる。(マルコ14:12-42)

そして夜中が過ぎ、受苦日である金曜明け方になってくるのだと思うが、イエスがユダに裏切られ逮捕され、弟子は逃げていってしまう。 イエスはユダヤの最高法院で死刑判決を受ける。 一番弟子のペトロは三回、イエスを知らないと言ってしまう。(マルコ14:43-72)
その後イエスの死に至るまでの様子は、マルコ15章1-39節で、さきほど拝読の通りだが、ユダヤの指導者たちは、イエスをピラトに、つまりローマの指導者側に引き渡す。 その後、イエスが十字架に架けられ、苦難のどん底につきおとされ、十字架上で亡くなる。 マルコ15:1-39。
日曜日には、最高の歓迎を受けて、エルサレムに迎えられたイエスが、どんどん立場が悪くなり、弟子の一人には裏切られ、ほかの弟子たちにも見放され、しかも十字架刑に会うことになる話をざっと見てきた。 そして、福音書の拝読の中では、詳細にイエスが十字架に架けられる様子が読まれた。

イエスの精神的また肉体的な苦しまれた様子の中で、どういう箇所を聞いたとき、どういうことに一番イエスの痛みや苦しみを感じただろうか。 
そして説教のはじめでは、ひとりひとりが、大きな喜びが暗転して、深い苦しみ、悲しみへと転換したみんさんの経験をふりかえっていただいた。あるいは、これから経験するかもしれない、苦しみや悲しみ、いたたまれない傷を想像した方もいるかもしれない。
そのお一人お一人が、体験したことに、あるいはこれから体験するかもしれない痛み、苦しみ、悲しみに対して、イエスの痛み、苦しみ、悲しみは、いったいどういう影響があるかぜひ、考えていただきたい。 
受難週の日々を送る中で、主イエスによって、わたしたちの傷が、苦しみ、悲しみのどん底から、一人一人が癒され、励まされ、そして、次のステップに向かう力が与えられるように祈る。
父なる神は死にまで到ったイエスのどん底の状況、地獄とも言える中におられた中でも、イエスをあきらめてしまうことはなかった。 そして、私たちも、主なるイエスが、聖霊として存在されている主なる神が、私たちの痛み、苦しみの中に、共にいてくださって、励まし癒してくださっていることに気がつくことができますように。 アーメン
安達均  

In the Depths of Suffering
Mark 15:1-39

May the Grace and Peace from our crucified Jesus be poured into the hearts of the people in the sanctuary!

Have you ever experienced unexpected sadness or suffering from what was initially a joyful situation? You still might not be fully healed from past trauma or you may be in the depths of suffering now.
Last week, we heard the news about the German Wings that suddenly crashed into the Alps in France. There were high school students onboard and I believe their families are in the depths of sadness and suffering now. Their happiness about a study-abroad opportunity for their children has turned to horror. I do not know how long it will take until their wounded hearts are healed.

Today is the beginning of Holy Week. This coming Friday is the day we remember our Lord who suffered and was crucified. Now, I would like to reflect on what happened between Sunday and Friday based on Scripture, especially focusing on the Gospel of Mark.
This Sunday is called Palm Sunday, Jesus’ Triumphant Entry into Jerusalem. Many in the crowd spread their garments and leafy branches on the road ahead of Jesus. He was at the center of the procession and were people shouting, “Hosana in the Highest.” (Mark 11:1-11)
Monday, it seems Jesus was very agitated. He curses the fig tree and then in the temple, he overturned the tables of the money changers, basically he cleansed the temple. (Mark 11:12-19) Tuesday, he taught the lesson from the withered fig tree he cursed. Then there is the argument about Jesus’ authority between Jewish leaders and Jesus. The remainder of the day, he taught many lessons (the rest of Chapter 11 and Chapter 12 and 13).
Wednesday, the Jewish leaders plotted to kill Jesus. On the other hand Jesus was anointed at Bethany. Judas Iscariot, one of the twelve disciples, went to the chief priests in order to betray Jesus to them. (Mark 14:1-11) Thursday, he ate the Passover meal with his disciples and shared the Lord’s Supper. He taught disciples the words of the Institution. Jesus foretold Peter’s thrice denials. Then, they went to Gethsemane to pray. (Mark 14:12-42)

After midnight, early Friday morning, Jesus was betrayed by Judas and arrested by Jewish leaders. The other disciples ran away from him. He was sentenced to death by the highest council and in the courtyard, Peter denied Jesus three times. (Mark 14:43-72)
What occurred during the remainder of Friday until Jesus’ death is described in Mark Chapter 15. Jesus was handed to Pilate, the Roman authority figure. He was crucified, put into the depths of suffering, and died on the cross. (Mark 15:1-39)
Even though, on Sunday, as he processed into Jerusalem with people shouting “Hosana” which means praise Him, the most high, his experience turned into the depth of suffering by Friday. We reviewed what happened from Sunday through Friday. When you reviewed those events, in your mind, and listened to Scripture, during which portion did you feel his pain, suffering, or grief the most?

At the beginning of this message, I asked each one of you: Have you ever experienced unexpected sadness or suffering from what was initially a joyful situation? Or you might have thought about something that would cause you pain in the future (i.e. death of a loved one).
What is the relationship between our suffering, grief, or pain, and the suffering Jesus endured during Holy Week?
As we go day by day into this Holy Week, I pray that our wounds or scars are healed and we’re comforted by God’s gift that He gave humanity through the depths of Jesus’ suffering.
The Lord didn’t abandon Jesus in the depths of Jesus’ suffering and we should find solace in the fact that God won’t abandon us during our pain as well. Blessed Jesus always abides with us. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

2015年3月29日LCR 日本語部週報通算第1349号

2015年3月29日(枝の主日)週報

March 29, 2015 LCR Japanese Ministry  English Bulletin

Sunday English Bulletin 1346E(Passion Sunday)

今週は聖書日課通り、3月26-28日に与えられている詩編118編1-2節および19-29節を読む。いつものように、主なる神に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編 118編
1: 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
2:イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。

19:正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
20:これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
21:わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。
22:家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
23:これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
24:今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
25:どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
26:祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
27:主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。
28:あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。
29:恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

気になった言葉は何だろうか。 私の場合は、22節の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」

詩編作者の時代にさかのぼってみて、作者がこの詩編の言葉にこめた意味を想像していきたい。詩編はユダヤ教の礼拝において詠われていた詩が編集されたもの。 118編は、とくに礼拝が始るときに、司祭や会衆が神殿に入る時に詠われていたのではないかと考えられる。礼拝の始めに、神殿の外で司祭が「恵み深い主に感謝しよう。」と大きな声でよびかけると会衆が「慈しみはとこしえに。」と応える(1節)。次に司祭が「イスラエルの民は言う。」と呼びかけるとまた、「慈しみはとこしえに。」と会衆は応える(2節)。 今日の箇所には入っていないが、似たような応答が3-4節にあって、続いて、なぜ主に感謝するのかの理由が5-18節まで詠われる。そして19節ではいよいよ神殿の門があけられて、19-29節は神殿に入ってゆく時に神殿の中で行なわれることが詠われていたのだろう。19-21節は神殿の城門を開けて、入ったところで、主に感謝しよう、これこそ主の門であり、主に従う人はこの門を入る、私たちにあなたが答え、救ってくださったので、主に感謝する、と詠いながら進む。22-24節は喜び踊りながら神殿中央部に入ってくる様子が思い浮かぶ。ただ22節の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」は、新訳聖書のなかで何度か引用されており、新訳の世界ではイエスのことを述べていると考えるが、旧約時代に、詩編作者はいったい何のことを語っていたのか特定しがたい。しかし、兄弟に裏切られてエジプトに連れてこられたヨセフが後には、旱魃にあってあえいでいたイスラエルの民を救うことになるヨセフのことを意味していたのかもしれない。26-28節は、司祭たちと会衆は捧げものをたずさえて進み、祭壇で捧げ、主に感謝しながら詠い続ける様子が目に浮かぶ。 そして29節では1節と同じように、「恵み深い主に感謝せよ」という司祭の呼びかけと、「慈しみはとこしえに」という会衆の応答で118編は終わる。 

この詩編箇所を通じて、主なる神は現代のわたしたちに何を語りかけてくださっているか考えたい。3月29日からはいよいよ受難週となり、イエスの御苦しみを覚え、そしてこれまで以上に私たちの罪をに覚える時だといえる。それはキリスト教信者自身が、イエスを十字架刑に追い込んでしまった一人であることに気付く時だともいえる。それは2000年前に起こった過去の出来事というより、現代も続いている。イエスキリストの体である教会に集まる者自身が、自ら教会を 傷つけていることを認識する時とも言える。その受難週を迎える前に、この詩編が訴えてくるものは何なのだろう? この詩編は、数日後にはイエスが十字架刑になるのに、民の歓喜の声の中で、イエスがエルサレムに入城してくる様子にも重なってくるものがある。また現代の「主を賛美します、主を賛美します。」と歌い、賛美することが一番大切という牧師たちや教会の指導者たちが、大きな声でプレイズソングを歌っている様子にも重なってくる。賛美することが一番大切ということはどういうことなのか? 家を建てる者の退けた石が隅の親石であることの意味をじっくり観想したい。2000年続いているキリスト教会の礼拝では、最初に開会讃美歌を詠うが、その後すぐに、罪の告白となることに、大きな意味がある。
安達均

ヨハネ12:20-33

主の恵みと平安がこのメッセージを聞く一人一人の心に豊かに与えられますように!

えいこさんが天に召されてから明日で2週間を迎える。どうして、えいこという名前にされたのかを考えたが、ひょっとしてご両親は、キリストの栄光のえいこうから名前をとったのではないだろうか。えいこさんが九州出身者で比較的キリスト教徒の家庭は多い地域であり、そのような可能性もあるのではないだろうか? えいこさんのことを考えつつ、栄光の話を今日はするように、聖書の御言葉は導いているように思う。

先週の月曜から水曜は、200人くらいのアメリカ福音ルーテル教会のスタッフが集まって会議があった。 アメリカ福音ルーテル教会はいまだに白人主体の教会であり、95パーセントは白人といわれている。
しかし、シカゴ本部は、白人の比率は少なくなる。おそらく、4割は、白人以外で占める。会議は、そのような本部スタッフの約半分と、全米にちらばっている教区事務所に勤めるもの一人ないし二人が集まった。
そして、話した時間の中で、実は、人種差別や性差による差別の問題がかなりしめていた。なぜ人種差別の問題をいまだにしなければならないのかと思われるかもしれない。 もちろん、教会として人種差別などはしていないのだが、表には現われにくい人種者別意識が、心の奥底にあることを、抉り出されるような話がいっぱいあった。あるいは黒人の女性は大学出だが、知らない人と話していると、「えっ、あなたは大学に行ったのですか?」という質問をよくされると語っていた。  

今日の聖書箇所、ヨハネ福音書ではキリストがいよいよ十字架に架けられる日が近づいているなかで、起こったできごとを書いている。それが出来事といえるほどのことなのか、ひょっとするとサーと見逃してしまうことに注意したい。何人かのギリシャ人がなんとかイエスに会いたいという人々が現われたようだ。二つの疑問点がうかぶ。 
一つ目の疑問は、そもそもなぜ彼等はイエスに会いたくなったのだろうか? 二つ目の質問は、そのギリシャ人に対する対応は、弟子たちははっきりしない。まず、フィリポに申し込みがある。それをすぐに人を相容れるということはしない。フィリポは、アンデレに相談に行く。そして、二人の結論は二人でイエスに相談する。このまどろっこしい対応は何なのか?  
最初の疑問については、イエスの救いの御業はイスラエルだけではなく、周辺地域にも広がっていたのだろう。そのようななかで、ギリシャ人は、イエスはユダヤ教の人間で、救い主とは、イスラエル人だけを救うのか、あるいは、ギリシャ人も対象になるのか、そういう質問を持っていたのではないだろうか?そしてそのことをイエスに聞きたかったような面があると思う。 
ユダヤ人である、 フィリポもアンデレも、ギリシャ人がやってきて、どう話をしてよいのか、とまどっている。 そこには、フィリポにもアンデレにも、わたしたち、イエスの弟子たちは、まず、ユダヤ人であることが前提で、とてもとてもマルチカルチュラルという現代とは程遠い現実があったのだろう。こころの中で、あきらかに、人種差別をしてしまっているような面がある。さらに、フィリポもアンデレも、心の中では、ギリシャ人が聞きたかったことに対して、まだNOという意識を持っていたのではないかと思う。そして、正しい答えとして、イエスにNOといってもらおうとしているような背景があったのかと思う。

それに対して、イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と語りだす。 そこには、イエスが十字架にかかって死ぬ時が栄光の時だということを語られていたのだと思う。
しかし、なぜ、死が栄光なのだろうか? そこには、イエスの十字架の死が、多くの実を結ぶことになるから。 それにしても、多くの実とははんなのか。本日の福音書の最後の言葉に注目したい。 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
このすべての人を引き寄せようという言葉によって、ギリシャ人の抱いた質問に対する答と、またフィリポやアンデレがどう対応したらよかったかの指針が含まれているように思う。 
イエスは、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、肌の色が黄色だろうが、茶色だろうが、黒かろうが、白色であろうが、あるいは男性であろうが女性であろうが、国籍、人種、性別にこだわらず、すべての人々を主のもとに引き寄せてくださっている、そういう主なる神。死は死ではおわらず、死を滅ぼして復活し、その際に、すべての人々を引き上げることを言っておられ、それが栄光の時とされている。 

先週、月曜から水曜日まで出席した会議のメインの司会者は、肌の色は黒いアフリカ系アメリカ人女性だった。腕には黒い十字架の刺青がされていたが、本当に見事な準備と司会をしてくれた。そして、人種や性別差別の問題で話し合いをリードしてくれたのは、やはりアフリカ系アメリカ人の差別問題を専門に学んだ女性が、講演をして、さらに、グループ別のディスカッションへの質問をしてくれた。
今日のメッセージを終わるにあたり、開会のDevotionをしてくれた、やはりアフリカ系アメリカンの若い牧師が、ズールー語の挨拶を教えてくれた。 ズールー語とは主に南アフリカ共和国の中でも東部で話されている言語。「今日は」に相当する言葉は「ザボナ、Sawubona」という。 
このザボナには、もっと深い意味がある。それは「私の中にいる神があなたの中にいる神を見ます。」という意味。 それは、私の中にいるイエス様が、あなたの中にいるイエス様を見ます、と言い換えることもできるし、私の中にいる聖霊が、あなたの中にある聖霊を見ます、と言い換えても良いのだと思う。
そんなばかな話あるかと思われるかもしれない。そういう人間の気持ちがイエスを十字架の死に追いやってしまったともいえる。 しかし、その十字架の死から復活し、イエスはその罪深い全人類を赦される。 その十字架は、アダムとイブにはじまった罪深い人類、肌の色や国籍や性別に関係なく、すべての人類を救うという、輝ける栄光の十字架である。 いっさい人々を除外しないというイエスの信仰を思う時、わたしたちも人種差別のようなことがおこらないように働くことの重要性がある。
安達均

The Hour of Glory
John 12:20-33

May God’s Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary!

It has been two weeks since Eiko almost passed away. I was just wondering about her name. She might be named from “Eikou 栄光” meaning “Glory” of Jesus Christ since she was born in Kyushu where Christianity is more popular than in other parts of Japan. I think our Lord is guiding me to talk about the Glory of Jesus.

This past week I was attending a meeting near the churchwide office in Chicago. Almost 200 church staff got together. ELCA is a predominately white organization. Statistically, 95% of the church members are European American.
However, if we look at ELCA staff, the percentage of European Americans is much lower. In the churchwide meeting, there were many African American, Latino, Asian, Native American, and Middle Eastern attendees.
During the three day meeting, we spent a great deal of time talking about Racism and Sexism. You might wonder why we still need to talk about these issues. Even though structurally the ELCA does not discriminate people by gender or race, racism/sexism still exists interpersonally and societally. One African American woman shared that she is frequently asked “Did you go to college?” Most likely, if she were a white woman; she probably wouldn’t be asked that same question as often.

The Gospel today, describes an incident a few weeks before Christ was crucified. We need to be careful that we don’t neglect this incident. Several Greeks wanted to be closer to Jesus and told one of his disciples, Philip, that they would like to see Jesus. I have two questions, in mind, when I read this story.
The first question: Why did those Greeks want to see Jesus? The second question: Why did Philp respond the way he did? Philip did not reply directly to the Greeks and, instead, talked to Andrew. Philip and Andrew, together, told Jesus that the Greeks wanted to see him. Why didn’t Philip introduce the Greeks, to Jesus, right away?
The stories of Jesus miracles were famous not only in Israel and but other parts of the world, as well. As such, I believe the Greeks wondered if Jesus only performed miracles for and saved only Jews. Would they be refused because they were Gentiles?
Both Philip and Andrew were Jews; therefore, I believe they were conflicted if they should include gentiles in Jesus’ inner circle. Most probably, Philip and Andrew were comfortable with exclude Gentiles. Jesus and his disciples shared a common culture and language (i.e. Hebrew or Aramaic) that the Greeks were unfamiliar with.

Jesus replied, “The hour has come for the Son of Man to be glorified. Very truly, I tell you, unless a grain of wheat falls into the earth and dies, it remains just a single grain; but if it dies, it bears much fruit.” I believe Jesus meant that the hour he would be crucified and died would be the time of Glory.
However, why will the time he dies be the hour of “Glory?” Jesus’ death will bear much fruit – but what type of fruit will it be? I would like to focus on what Jesus said at the end of today’s Gospel. “And I, when I am lifted up from the earth, will draw all people to myself.”
I believe the phrase “will draw all people to myself” contains an answer to the first question the Greek wondered about – if they would be saved or not. Also, there is an instruction about what Philip and Andrew should do.
Regardless of whether disciples are Greek, Jewish, Asian, Latino, African American, or Caucasian, and regardless of the disciples’ gender, nationality, or race, Jesus would draw all people to himself. Jesus saves all people. We, as Christians, believe in Jesus, the Lord and Savior, our God.

The meeting lasted from Monday through Wednesday and the MC for the entire event was an African American woman. Her preparation for the meeting and her process were wonderful. The discussions about the racism and sexism were also led by another African American woman who specialized in those two topics. She gave a short lecture and then asked wonderful questions that allowed the whole group to discuss these issues, in depth, in small groups.
To close today’s message, I‘d like to share a greeting word that was taught by an African American male pastor during morning devotion on Monday. In the Zulu language, there is a dialect in the eastern part of South Africa. People speaking that dialect say, “Sawubona.” This is “Hello” in English.
However, there’s a deeper meaning to this word. The more profound meaning is, “God in me sees God in you.” In other words, “Jesus in me sees Jesus in you,” or “the Holy Spirit in me sees the Holy Spirit in you.” Jesus welcomes everyone.
Doubters might say, “no God in me, no Jesus in me, or no Holy Spirit in me.” However, I would say that is not true. A doubtful attitude turns you away from God and led to Jesus’ crucifixion. Despite people’s doubtful views, Jesus was raised from the dead, and forgave and is still forgiving all people’s sin. The cross forgives all people’s sin that originated from Adam and Eve. The death on the cross is truly the glory of God. It is proof that Jesus conquered earthly death and was resurrected. When we realize Jesus didn’t exclude anyone from his ministry, it gives us a reason to work hard towards ending all forms of discrimination.
Amen.
Pr. H. Adachi