マタイ16:21-28

主イエスにある希望と喜びが、礼拝堂に集まった会衆の心の中に豊かに注がれますように アーメン

Prosperity Gospelという言葉がある。訳すなら、「 繁栄の福音」といえば良いだろうか?いわば金持ち、裕福になりたいという自分なりの目的があってキリスト教を信じるようになる方々がいるのは現実だと思う。
しかし、イエスキリストは、十字架を背負って私に従うように言われた。十字架の大きさにもよるが、十字架を背負って生活していたら、それが金持ちになれるというわけでもなさそうだ。十字架を担ぐということはどういうことなのだろうか? 
ペトロが先週の聖書箇所の中で告白していたように、主イエスが救い主、生ける神と信じて生活する事が大きな鍵だと思うが、しかし、それはどういうこのか?

本日与えられている聖書の中で、弟子たちに、十字架を背負って私に従うように話す前に、イエスは、弟子たちに「自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。と弟子たちに打ち明け始められた。」とある。
イエスの予知能力があるんだ、と読まれる方もいるかもしれない。しかし、よく考えると、イエスが病人を癒し、貧困の中に食事を与え、希望、励ましを与えた。 また異邦人、カナン人の女性の子供ですら、イエスに癒された。 すべての人を神が創造されたものとして、主の憐れみ、愛を施された。 
ユダヤの指導者たちは、貧困や病は律法を守らないことや異邦人のように律法を知らない結果であると見ていたような面がある。なので、律法を守ることを最優先にしている宗教的エリートたちにとって、イエスの行為は目の上のたんこぶだった。したがって、ユダヤのエリートたちには、だんだんイエスを殺す動機が強まっていくことは理解できたのだと思う。 

しかし、苦しみを受け、死するということだけでなく、イエスは復活を視野に入れておられた。 「復活することになっている。」と話されたことは、これこそすごいと思うかもしれない。 しかし、復活ということも、旧約聖書の中には、たとえば、エゼキエルには枯れた骨の復活の話はあるし、ダニエル書12章などにも、苦しみを受け、葬られ、しかし、立ち上がるというイメージは預言されていたことで、必ずしも驚くべき話でもないように思う。

私は、そのような予知能力に感動するより、もっとほかに感動すべきことがあるのだと思う。それはイエスの生き様がであり、そこに、神の意志だと感じることがある。通常の考えなら、苦しみ、死が控えているとわかったなら、苦しまないように、あるいは十字架に架かかろうとしている原因をよく考え、その原因をとりのぞくように行動する。しかしイエスは徹底的に神と全人類への愛を示す宣教、奇跡を遂行しつづける。それが、人の子イエスの深い父への信仰であり、生ける神で救い主であるイエスの計画実行なのだと思う。 
弟子たちには、そのような考えは理解されず、「あなたは救い主、生ける神」と信仰告白した一番弟子のペトロでも、その中には神の目的とは異なる自分なり目的があった。だから「そんなことがあってはなりません。」とイエスを叱責する。しかし、イエスからは、「さがれ、サタンよ。」と、逆に叱責されてしまう。サタンとは、悪魔、人を神から遠ざけるものの象徴。 

そして、「私についてきたいものは、自分の十字架を担いで私に従いなさい。」という言葉を弟子たちに与えている。 これは、その当時の弟子たちに話しているだけではなく、今、ここに集まっている兄弟姉妹ひとりひとりにも、「十字架を担いでイエスに従うように。」と言われていることなのだと思う。
どうか皆さん、一人一人、イエスが十字架を担いで歩かれたときのことを想像して欲しい。イエスはエルサレムの街中を、十字架を担いで歩かされた。ユダヤのリーダや市民から馬鹿にされ、辱めを受けながら。
21世紀は、イエスが本当に十字架を担がされた時とは、時代背景が異なる。私たちが、文字通り十字架を担ぐということはないだろう。しかしながら、拷問を受けるとは言わないまでも、イエスの信仰は、物質的な裕福さや、楽な生活を保障するようなものでは決してない。十字架を担いてイエスに従うということ、たとえ困難の中にあろうが、あるいは、どんな困難が訪れようが、イエスが救い主であり生ける神であるという信仰を持ち続けるということではないだろうか。 

スライド紹介 ここでフランスの画家、ジャンフランソワミレーの「馬鈴薯植え」という一枚の絵を分ち合いたい。この絵にはいっさい十字架は描かれていないが、私は「十字架を担いでイエスに従う。」ということと関係があるように見える。この絵は実は約30年に渡って、私たちの家の居間にいつも掲げられてきた。私たちの結婚式の司式をしてくれた牧師夫妻が私たちに贈ってくださった。絵に描かれた雲は、今にも雨が降ってきて、嵐がおき、洪水すらおきかねないような天候であるかのように感じる。にもかかわらず、この絵に描かれた若夫婦は畑を耕し、ジャガイモを植え続けている。この絵の裏に、牧師が次のような言葉を書き残してくださった。「明日が世の終わりでも、今日、二人で地を耕してください。主の栄光のために。」

私はこの礼拝堂に集められた兄弟姉妹が、今、真のキリストの弟子となられていることを覚える。私たちは、なんらかの形で、苦しみを体験してきたか、これからも体験することがあるのだろう。 しかし、神の恵みと愛は、私たちの信仰をますます強くしてくれる。 今日、イエスは、私たちに、神の最終的な判断を信じつつ、目先の利害に振り回されないように教えてくださっている。
キリストの弟子とし、私たちは父・子・聖霊なる生ける神、救い主イエス、をひたすら信じ、神の意志に従って、イエスの愛を周りの人々と分かち会って生きてゆく。 神の恵みにより、私たちには復活の命、永遠の命の中におり、天の御国(約束の地)にて、真の朽ちることのない富が与えられる。 アーメン 
安達均

Potato Planters

What Does “Take Up Your Cross” Mean?
Matthew 16:21-28

May the hope and joy of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! Amen.

Have you heard the phrase, “Prosperity Gospel?” There are actually people who become Christians or attend certain churches focusing on becoming wealthy. These people are following their own agenda and not living in a way that glorifies God.
Jesus said, “Take up your cross and follow me.” Well, if you live your life literally carrying a cross, I do not think you will earn lots of money. What does it mean to take up your cross and follow Jesus?
I think the key is believing, as Peter confessed in the Scripture we read last week, that Jesus is the Messiah and the living God. How should we live, in this world, when we take up our cross and follow Jesus?

Today’s Gospel text details Jesus’ foresight of his suffering, death, and resurrection. Before Jesus taught his disciples to take up the cross, he mentioned that he would undergo great suffering at the hands of Jewish leaders, be killed, and be raised on the third day.
For us, readers of the Bible, 2000 years after Jesus foresaw his own death and resurrection; we might be impressed by Jesus’ predictive ability. But let’s think about the context when he predicted this. Jesus was miraculously healing sick people and giving food to the poor. He even saved a Canaanite woman, a Gentile. He showed his love to the people who were living on society’s fringes. No matter your earthly situation all people are God’s children, created and loved by Him.
Jewish leaders thought that poverty and sickness were consequences of not following God’s law. If you disobeyed God, you deserved negative outcomes. Therefore, for them, the fact that Jesus was saving marginalized people was a pain in the butt. Under those circumstances, one can see how the Jewish leaders wanted and needed Jesus to die.

God foresaw Jesus’ suffering, death, and resurrection allowing these events to happen, so that humanity would be saved. However, the prophet Ezekiel wrote that even dry bones may live again and in Daniel 12, there was also a resurrection story. Therefore, the concept of resurrection was not a very unusual discussion topic.

Rather than being impressed by Jesus’ predictive ability, I think we should be more impressed by the fact that Jesus consistently loves people and gives hope and joy, even though he suffered and was killed. Most people (if not all), if they knew that they’d undergo suffering, would identify the cause and try to eliminate it, so they wouldn’t have to suffer. I believe that Jesus’ persistent love for the Father and humanity showed the depth of his faith and it was the execution of God’s plan.   
At that time, this plan, that Jesus would suffer and be killed, was not understood at all by the disciples. Even Peter followed Jesus with his own agenda that was, of course, different from what Jesus predicted. So Peter rebuked him saying, “God forbid Lord. Such a thing should never happen to you.” In response, Jesus harshly rebuked Peter saying “You are Satan, get behind me.” Satan is a symbol for thoughts or actions that separate someone from God.

Then, Jesus taught the disciples “Take up your cross and follow me.” Not only did he say this to the disciples 2000 years ago, but Jesus is saying this to us, brothers and sisters, gathered here in this sanctuary. Let’s open our hearts and minds to Jesus’ profound words.
Please think about the image of Jesus carrying the cross. He was forced to walk carrying the cross in downtown Jerusalem. He was ridiculed and shamed by the Jewish leaders and people in the city. In Jesus’ time it was a symbol of a slow, painful death.
In the 21st century, the context is different from Jesus’ time, we will most likely never literally carry a cross. However, even without such a tortuous burden, faith in Jesus Christ does not guarantee material wealth or an easy life. Rather, in today’s context, taking up your cross means to have faith even if you see difficulties in your future.

Here, I would like to share a picture painted by Jean-François Millet. It is called “Potato Planters.” Although the painting contains no cross, for me it relates to “taking up your cross.” This painting is hanging on our living room wall; we’d had it for almost 30 years. The pastor that married us gave us this painting. The clouds, in the painting, suggest rainy weather that might bring flooding. Despite this fact, the couple is still plowing the field and planting the potatoes. On the back of the painting, the pastor wrote a meaningful inscription. “Even if it is the end of the world tomorrow, please plow the field today for the glory of the Lord.”

I believe the people in this sanctuary are true disciples of Christ. We have all endured hardship in one form or another but because of God’s enduring grace and love our faith remains strong. Today, Jesus teaches us that our faith shouldn’t be measured by short term gains or losses.
As Christians, we are guided to trust the Father and to show Christ’s love to others. In doing so, we live according to God’s will. Thanks to God, we have resurrected life, eternal life, which brings us true, lasting wealth in heaven. Amen.
Pr Hitoshi Adachi

アーバイン学校区の多くの小学校は、9月2日から学校がはじまる。 そこで、最後の連休前の金曜日、この夏を振り返り、また新たな元気が湧いてくるようにと願い祈り、子供たちといっしょにPollyannnaの映画を鑑賞した。 両親を亡くしたPollyannaだが、おばにひきとられる。 何事にも前向き、明るい彼女は、お年寄りや牧師の考え方をも、明るい生き方に変えてゆく。 今年の夏は復活ルーテルでも大変だったという家族もいれば、また、北アメリカ大陸、中西部から東方では大洪水にあったり、日本でも大雨により何人もの方がなくなった。 家も無くした方々は、いったい何家族いるのだろうか。 しかし、映画を見ているなかで、いろいろな困難の中にも、楽しみ、喜びが与えられることを学ぶ良い機会だった。 新しい学年に向けて、ぜひ、子供たちも、また親たちにも大きな希望が与えられているように。 また家を無くして、夏前にはとても想像しえなかった困難な境遇におられる方々もいることを覚える。 そこに神の癒し、慰め、励ましが注がれますように。 また本企画をしてくださった信徒に感謝。 

220px-PollyannaDVD

9月はジャパンフェスティバル、召天者記念礼拝と大きな行事が続きます。是非予定にお入れ下さい。

2014年9月カレンダー聖書日課

2014年8月14日LCR日本語部週報通算第1321号

2014年8月31日の週報

August 31, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin

Sunday English Bulletin 1321E

 

“Crisis at the Vineyard” 「ぶどう園と農夫のたとえ」

Mark 12: 1-12 マルコによる福音書12章1節から12節

Bible Study by Pastor Carl カール先生による聖書の学び会

August 26, 2014 2014年8月26日

 

今回でカール先生の「聖書の奇跡と譬え話シリーズ」は最終回となる。様々な主イエス・キリストが行われた奇跡の話や、語られた譬え話から、私達は自分では考えても見なかったような教えを学び、有意義なシリーズであった。

今日の話は、読み過ごしてしまうと、何がなんだか良く解らない譬え話である。先ず忘れてはならない事は、聖書の中の譬え話しは、神様が私達に語りかけている教えであり、神様と私達の関係が書かれているということである。

この譬え話しを簡単に纏めると:ぶどう園の持ち主は、ぶどう園の周りに柵を巡らし、見はりの櫓まで立て、このぶどう園を最高の状態に整えた。持ち主は自分でそのぶどう園を管理するのではなく、他の農夫に貸した。当時の風習では、ぶどう園のぶどうは、最初の3年は収穫してはならず、4年目の収穫は全てを神に捧げ、5年目からやっと収穫した物が自分たちの物となる。そのような契約が持ち主と農夫の間にあったに違いない。 他の土地に移り住んだ持ち主は、収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取る為に僕を農夫達の所へ送った。しかし、農夫達はこの僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。持ち主はまた他の僕を送ったが、今度も頭を殴り侮辱して送り帰した。さらにもう一人を送ったが、今度は農夫達に殺された。このように多くの僕を送ったにも拘らず、農夫達はこれらの僕を殴ったり、殺したりした。そこで持ち主は自分のただ一人の息子を農夫達の所に送る。自分の息子を送れば、農夫達はきっと自分の息子を敬ってくれるだろう、と持ち主は思ったのだ。ところが、農夫達はこの息子を殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった。この譬えをイエスはユダヤ人のリーダー達に話したのである。

この譬え話しをただ読むと、何故このぶどう園の持ち主は、何度も僕を送ったのだろうか、とか、自分が行かないで息子を送ったのはどうしてか、とか、何故  ぶどう園を借りている農夫達は僕に暴力を振るったり殺したりしたのか、そして最後には息子まで殺し、葬りもしないでぶどう園の外に放り出したのか? 質問が次から次に起こる。農夫達は多分自分たちが5年もかけて育てたぶどうだから、収穫を全部自分たちの物にしようと思ったのかも知れない。また、息子を送って来たという事は、もう持ち主は亡くなったのかも知れないから、この息子を殺してしまえば、このぶどう園は自分たちの物になる、と思ったのだろう。この話の最後を、9節でイエスはこのように終えている:「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫達を殺し、ぶどう園を他の人達に与えるに違いない。」と。続けて10節と11節には、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私達の目には不思議に見える。」と言われている。

この2節を理解するには、はやり譬え話しの内容を理解しなければ理解できないのではないか、という事が、私自身カール先生の解説を聞きながら解ってきた。

先ず、ここに書かれているぶどう園の持ち主とは誰の事を象徴しているかと言うと、神様である。ぶどう園は神の民を象徴し、ぶどう園を借りた農夫達は、神に逆らっている人々(ユダヤのリーダー達)を象徴している。僕は預言者達を象徴していて、持ち主の息子は主イエス・キリストを象徴している。このぶどう園で収穫されるぶどうは、人々の信仰を象徴している。

誰が誰を象徴している、何が何を象徴しているか、を理解してからこの譬えを読み返して、私はやっと最後の10節11節が理解することができたような気がする。

ぶどう園の持ち主である神はぶどう園である神の民を創造された。そして神の民が長い年月をかけて、良い実を結ぶようにと柵を巡らし、見張りの櫓を建てた。全地を創造された後、それを人類に託したように、このぶどう園の持ち主もこの土地を農夫に貸してその場から居なくなる。ところがこの神を信じない農夫達(ユダヤのリーダー達)は自分たちのやりたい放題に行動し、神が何度もこの世に送られた預言者達を殺してしまう。それでも神は何度も預言者を送られた程に、忍耐を持って人類を守り愛されている事が、 ぶどう園の持ち主が僕を何度も送った事から理解できる。そして最後に神は独り子の主イエス・キリストをこの世に送るが、持ち主が送ったひとり息子が殺されてぶどう園の外に捨てられたように、キリストも城外で十字架に架けられ殺されてしまう。イエスは、この譬え話しをユダヤ人のリーダー達に話している時、ご自分が十字架に架けられて死ぬ事をすでにご存知なのである。だから、10節と11節に、「捨てられた石(ぶどう園の外に捨てられた息子、城外で十字架に架けられたイエス)、これが隅の親石(基盤となる最も大切な石。これが無ければ全てが崩れてしまう)となった。」と言われているのだ。

9節で「持ち主が戻って来て農夫達を殺し、ぶどう園を他の人に与えるにちがいない。」とイエスが言っているのは、決して私達の神が「復讐の神」であると言っているのではないと思う。これは、イエスが大袈裟に、ユダヤ人のリーダー達に解らせようと言っている事だと思う。もちろん、12節にあるように、ユダヤ人のリーダー達は、イエスが自分たちに当てつけてこの譬えを話されたと気がついて、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れてその場を立ち去っている。しかも、これ程イエスが大袈裟に、「神の怒り」を教えているにも拘らず、ユダヤ人達は、最終的にイエスを十字架に架けてしまうのである。

私達は、「神は愛」と聞く事に平安を覚え安心する。しかしカール先生は、今回のこの箇所は、神がいかに真剣に人々に神の掟を解いているかを語っていると言われた。放蕩息子の父親のように、全てを赦し受け入れてくれる神の一面と、今日の譬え話しのように、契約を守らずに僕や息子を殺してしまった農夫達を殺すぶどう園の持ち主のように厳しい神の一面がある事を忘れてはならないという事なのである。ルーテルの神学校では、常にLaw(掟、法則)とGospel(福音)がバランスを取って教えられるそうだ。Law は神様が私達に神の掟に従うようにと期待していることであり、Gospelは、掟に従う事ができない不完全な私達であるにも拘らず、神様は赦してくださり、愛して下さるということなのだ。

では、この譬え話の教えを私達はどのように学ぶべきなのだろうか、と私は考えてしまった。神様を畏れよ、と言っているのか、それとも神様の送られた独り子を信じて大切にせよと言っているのか。それ以上に、私はこう思ったのだ。私達神の民は、神の創造したぶどう園であるこの世を任されているのだ。私達は、神様に託されたこの土地を大切にし、良い実を結ぶことに全力を尽くす事が大切なことなのではないだろうか。神様が創造されたぶどう園を、まるで自分の所有地のように自分勝手にする事無く、先ずはこの託された土地を大切にしよう、そして沢山の良い実を収穫できるようにしよう。時間もかかるだろうし、手入れも大変かもしれないが、神様は、ぶどう園の持ち主が柵を巡らし、見張りの櫓を作ってぶどう園を守ったように、私達を常に守っていて下さる。誰がこの土地を借りようと、持ち主は神様なのである。しっかりと収穫する事が私達の務めでもあり、喜びなのではないだろうか。                           芙美Liang   記録

今週は詩編26編を読む。12 節という比較的短い詩編だが、聖書日課にあるように、最初の8節だけに集中する。いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編26編 
1:【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。
2:主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試してください。
3:あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けています。
4:偽る者と共に座らず/欺く者の仲間に入らず
5:悪事を謀る者の集いを憎み/主に逆らう者と共に座ることをしません。
6:主よ、わたしは手を洗って潔白を示し/あなたの祭壇を廻り
7:感謝の歌声を響かせ/驚くべき御業をことごとく語り伝えます。
8:主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。

気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、8節、「主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。」を挙げる。 

詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。先週与えられていた詩編18編の状況と共通しているのかと思う。 ダビデがサウルの手によって、絶対絶命のピンチに立たされている時に、ダビデが(あるいはその時のダビデの状況を察して後世の詩編作者が)詠った詩だと思う。 ただし、18編では、ダビデの安全が保障された時、既にピンチの状況から救い出された後に詠っている賛美だったが、それとは対象的に、26編ではまだ救い出されるかどうかわからない時に詠っているのだと思う。 さて最初から詳しく読んでいきたい。 1節:絶対絶命、生きるか死ぬかという状況の中でダビデはまず、主なる神の審判を望んでいると詠うが、それだけではなく、自分の主張も入ってくる。 自分は完全な道を歩んで来たし、主を信頼して横道にそれたこともありません、と詠う。2節:どうか主よ私が潔癖なことを、調べ、試してみてください。私の五臓六腑や心臓(感情や心情?)が正しいということを、火を用いてでも、試してみてください。3節:あなたのゆるぎない愛が私の目の前にあって、このような絶対絶命の中にあろうが、あなたの真理に従って、主の道を歩んでいます。4節:私は偽る者とはいっしょに食事の席についたりすることはなく、あなたに背を向けて行動するような人々の仲間には入ってません。5節:悪事を企てようとする者たちを憎んでいるし、主に逆らう者とは座ったりもしない。6節:(救い出された時には)私は手を洗って自分が潔白であったことを示し、あなたの祭壇を回るようにします。7節:会衆とともに讃美歌を歌い、主から賜った驚くべき御業を次世代に語り伝えます。8節:主よ、あなたの宿る場所、サイナゴーグを慕っております。(礼拝堂にまた戻ることができるようひたすら望んでいます。)

この詩編を通して、主は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか?紀元前1000年ごろのダビデの置かれた様子が、なんとなくわかる気がしてくる。そしてその時の様子が、イエスキリストが十字架を担いでエルサレムを歩む様子にも重なってくる。ただし、イエスの場合は、死に至ることなく救い出されるダビデとは大きな違いがある。イエスは、徹底的な侮辱や辱めを受けたあげく死にて葬られ、しかし、死からよみがえり、復活される方。 そこには、違いがあるものの、ダビデが絶対絶命のピンチでも主を信頼していたように、人の子でありかつ神の子であるイエスも主なる父を信頼しつづけているという点で共通点があるのだと思う。そして、現代を生きるわたしたちにも、世の中がどうなってしまうかわからない状況、明日には世の終わりが来るかもしれないと思われる状況が来ようが、確固たる信仰、主イエスの信仰、を土台として、歩み続ける者になるように導かれていると思う。そして主イエスの信仰が土台となるということの表れとして、詩編作者が8節で詠っているように、礼拝に集いたくてしょうがなくなるような気持ちになってくるのだと思う。

8節の言葉は4月末から5月初めにパシフィカ教区の総会に行った時のことを思い出させる。アメリカ福音ルーテル教会(ELCA: Evangelical Lutheran Church in America)は全米に65の教区があるため、ELCAの総主教(Presiding Bishop)は65すべての教区総会に毎年出席することはできない。しかし、昨年総主教に就任したばかりのElizabeth Eaton総主教はパシフィカ教区総会に出向いてくださり、教区の牧師と信徒リーダーたちはユーモアあふれるしかし力強いメッセージを聞くことができた。その中の一つの大きなポイントは、神の使命を受けて礼拝を司ること、メッセージを取り次ぐこと、洗礼・聖餐式を執行することの大切さを改めて学ばされた。 そんなこともあり、先週の信徒会でも話したように9月からは少しだが、礼拝の形式が変わる。聖霊の働きにより、毎週の礼拝に導かれる方々の信仰生活の土台がさらに強まりますよう祈る。アーメン 安達均 

Ogino_Ginko

コロナ地区では夏休みは二週間前に終わっていて、今日の家庭集会は大人だけ4人があつまり、こじんまりとした会であった。 それでも荻野吟子さんの生涯を知るなかで、主イエスが豊かに荻野吟子さんに働かれ、彼女がいかにめげてしまうことなく、信仰心を第一に、患者さんのために駆け巡り、社会に奉仕されていたことを学んだ。 

伝道する聖書研究シリーズIV 荻野吟子

マタイ 16:13-20   

主イエスキリストの恵みと平安がここに集まった会衆の心の中に、豊かに注がれますように!

私たちはよくイエスキリスト、英語ならJesus Christという呼び方をする。 あるいは日本語ではキリストイエスということもある。そうすると、外国人の名前だからキリスト、Christは苗字/Last Nameで、イエスが名前/First Nameだと思っている方もいると思う。
しかし、実際はそうではない。Jesusは名前であっているが、キリスト、Christ、あるいは、新約聖書の原語、ギリシャ語ではXristosあるいは、イエスと弟子たちが使っていたヘブル語では、Messiahで、旧約聖書の中で使われたこの言葉は「油注がれた者」という意味。神が世に送り平和をもたらす救い主という意味だ。
だから、イエスキリスト、Jesus Christと言ったときは、「救い主イエス」という意味のことを言っている。そして、キリスト教という宗教の名前になっているが、その意味は「救いの教え」とか、「世を救う宗教」という意味が、私たちの信仰にはあるのだと思う。
しかし「世を救う宗教」と言ってしまうと、どう感じられるだろうか。日本の新興宗教に世界救世教というものがあるが、なにか信仰宗教と勘違いされてしまうような面もあるように思う。そこで、救い主であるイエスという方について、もっと掘り下げて思いを巡らす必要がある。今日の聖書箇所は、イエス自身が私たちにせまってきているようなとても大切な箇所。

イエスと弟子たちは、先週はティルスとシドン地方という異邦人地域を旅していた。今週も異邦人地区といってよい、フィリポ・カイサリアという地域を旅している時の話。これはガリラヤ湖の北方40キロ近辺の都市。ユダヤ教の影響はうすく、ローマの宗教や土着の宗教が混在しているような場所であったと思われる。そのような環境で、イエスが弟子たちに質問する。
まずイエスは弟子たちに「世の人々は、人の子(イエス自身の意味)を何者だといっているのか?」という質問をした。それに対して、弟子たちが、洗礼者ヨハネとか、預言者の一人だとか返答をした。
その後、ずばり、イエスは「じゃ、あなた方は、私のことを何者だというのか?」という質問を弟子たちにしている。 これは、第三者的の話をすればよかった第一の質問とは全く異なり、これまで直接話して、また行動を共にしてきた弟子たちから見て、イエスは何者なのか、弟子たち自身の応答を求めた質問だ。
それに対してペテロが、100点満点の返答をしたといってよい。「あなたはメシア(世の救い主)、いける神の子です。」と返答する。その回答を聞いたとたん、イエスは、「あなたは幸いだ」と言われ、直後にイエスの言葉で、大きく分け三つの事を話している。

最初に「あなたにこの事を顕したのは、人間ではなく、天の父だ。」イエスがメシアだという正解を言えたからといって、思い上がることないようにという意味がこめられていたように思う。また、後のペトロの勘違い(来週述べる)や裏切りのこともイエスはわかっていて、まだぺトロがイエスを救い主だとは信じきれていないこともお見通しなのではなかったのだろうか? 
二つめのコメントが続く。「ペトロはヘブル語でケファで、岩とか石の意味。私はそのペトロの上に教会を立てる。」 教会が建物であれば、岩や石が土台というのはよくわかる。しかし、それは比喩であり、キリスト教会の土台は、イエスが救い主という信仰が土台になるんだよ、ということをイエスはおっしゃりたかったように感じる。
最後のイエスの言葉は、「あなたに天の国の鍵を授ける。地上でつなぐことは天でもつなぐし、地上で解くことは天でも解かれる。」 ここで、イエスはペトロに物理的な鍵を渡したわけではない。これもやはり比喩で、イエスを救い主、生ける神とする信仰が、地上と天国をつなぐことになる。つまり、この地上が天国にもなり得る。それは、鍵が開けたり閉じたりするように、地上が天国のようにもなり、またそうでない時もあるという意味合いがあったように思う。

さて、今日の福音書、イエスと弟子たちの会話からはじまって、さらにイエスとペトロの会話に集中した話、私たちに何を迫ってきているのだろうか。イエスは弟子たちにした「じゃ、あなた方は私を何者だというのか?」という質問は、生ける神、イエスが、現代の私たちにも、質問しておられるのだと思う。 
いかがなものだろうか? 私たちとイエスの関係を振り返ってみてはどうだろうか? わたしたちは、ペトロが「あなたはメシア、生ける神」という告白をしたのと似ていて、洗礼を受けるときには、父と子イエスと聖霊なる、唯一の生ける神を信じてキリスト教徒となっている。 
しかし、私たちは、完璧ではない。洗礼で信仰告白をしても、また、毎週毎週、信仰告白をしても、実は、疑いが生じ、神様からソッポ向いて普段の生活をしてしまったりする時がある。土台である信仰のゆらぎというものが出てきてしまうのだと思う。
しかし、その信仰ががたついてしまうような私たちでも、生ける神、主が私たちを事実として、教会に招いてくださっている。 それは、そのような私たちを礼拝中の主イエスとの関係の中で、憐れみ、赦し、大きな愛を持って、霊的な糧をくださり、だいじょうぶやりなおせるよ、永遠の命に生きているんだよ、と語りかけ、希望と喜びを持って、世に送り出してくださることがおこる。希望は不安悩みに対する最高の武器。 

2000年前、主なるイエスが世に来てくださったということは起こった。そして主の聖霊がずっと臨在してくださっている。かといって、イエスの再臨は起こっておらず、この世はある意味、中途半端な状態。 多くの闇の部分を抱えている。現代の世の中、神の国は来た、でも完全に来たわけではない、という時代が2000年続いている。 
そのような中で、イエスの信仰、十字架にかかって葬られても復活なさるイエスご自身が、どれほど、わたしたちの困難や重荷の支えになっているか、はかり知れないものがある。いろいろな不安や悩みを抱えていようが、主にある希望と喜びを今、新たに与えられて、あらたな1週間を歩みだそう。アーメン

“Who is Jesus?”
Matthew 16: 13-20

May Grace and Peace from Jesus Christ be richly poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary!

We often say, “Jesus Christ” during worship. To ears unfamiliar with worship practices, Jesus sounds like a first name and Christ sounds like a last name. But of course, this is only partially correct. Jesus is his first name, but Christ is not his last name.
“Christ” whether in English, Greek or Hebrew is a title. “Xristos” is Greek and it means “Savior.” In Hebrew, it means “Messiah.” In the Old Testament it means “anointed” and in the New Testament it means someone sent by God who saves the world and brings peace.
Therefore, when we say the words “Jesus Christ,” it means “Jesus, the Savior.” From the title “Christ,” we get our religion’s name “Christianity,” which means something like “religion that saves the world” or “teaching of the savior.”
However, if we call Christianity the “religion that saves the world,” this doesn’t sound very different from many other religions. This general description causes many people, especially Japanese people, to question Christianity because it sounds so similar to other religions. Therefore, we need to think more deeply about Jesus, the Savior and I believe today’s Gospel text is wonderful because it makes us think about the relationship between Jesus, his Biblical disciples and his newer disciples (i.e. ourselves).

Last week, Jesus and the disciples were traveling to the regions of Tyre and Sidon, now part of present-day Syria. Then they came to Caesarea Philippi, about 25 miles north of Galilee. Even though it is just 25 miles north, it is not really considered part of the Jews’ territory. That place was multicultural and multi-religious. Some believed in indigenous religion, some followed Roman religious practice, and of course some were Jews. In that environment, Jesus asked his disciples two questions.
The first question was: “Who do people say that the Son of Man is?” (“the Son of Man” is Jesus)The disciples replied “Well, some say John the Baptist, some say Elijah, and others say Jeremiah or one of the other prophets.”
Then, Jesus asked the second question, which was very straightforward, “You disciples, who do you say I am?” This question is very different from the first one because the first one asked what other people were saying about Jesus, but the second one is what do you, the disciples who has been directly listening to what Jesus said, traveling with Jesus, and watching Jesus’ miraculous activities, say who Jesus is? Jesus is requesting his disciples’ opinions.
In response to Jesus, Peter replied, “You are the Messiah, the Son of the living God.” This answer was 100% correct. So Jesus replied, “You are blessed, Simon son of Jonah.” However, I think Jesus added three major points, which was written down as well.

The first one is “my Father in heaven has revealed this to you. You did not learn this from any human being.” Here, I think Jesus meant that even if you could say the perfect answer, do not be conceited. Also, Jesus knew that, even if Peter could confess his faith of Jesus as the Messiah, the living God, Peter’s faith was weak. Jesus also knew that he would say “I do not know Jesus” three times later in his life, when Jesus was about to be crucified.
Then, Jesus said the second point: “Now I say to you that you are Peter (which means ‘rock’), and upon this rock I will build my church.” If the church is a building, we understand that it needs to have a firm foundation, therefore, something like a big rock or stones are needed under the building. However, this was a metaphor, and I believe that Jesus meant: the faith in Jesus Christ, the Savior, that Peter confessed is the foundation of Christian church.
The last sentence that Jesus spoke in today’s text was “And I will give you the keys of the Kingdom of Heaven. Whatever you forbid on earth will be forbidden in heaven, and whatever you permit on earth will be permitted in heaven.” Here, I do not believe that Jesus gave material keys to Peter. Again, this is a metaphor. Jesus third point meant “depending on your faith, it may open or close the door between heaven and this world. In other words, depending on people’s faith, if the door is opened, this world could be heaven and if the door is closed this world would not be paradise.

So what is this story in the Gospel text, which begun with the conversation between the Jesus and disciples, then focused on the intense meaning of the conversation between Peter and Jesus, teaching us (or should I say forcing us to think about)? I think the same question that Jesus asked the disciples “Who do you say I am?” is a question he’s asking us also.
What do you think…? I would recommend that you now reflect on the relationship between you and Jesus in your life. In a sense, most of us, who were baptized, confessed our faith in the Father, Son, and the Holy Spirit before our baptism, which is a bit similar to what Peter confessed.
However, none of us are perfect. In other words, even if we confess our faith every Sunday during worship, in reality, we have doubts and often act in ways that are opposite from what God wants us to do…like Peter did.
Despite acting contrary to God’s wishes the living God, Jesus, is always inviting us to worship every Sunday. In the worship service, God forgives us, gives us mercy, and spiritually feeds us with his gracious love, his body and blood. Even if as we endure difficult times, God encourages us and gives us joy and sent us out into the world with hope.  
2000 years ago, Jesus Christ came to this world in human form and there has always been the Holy Spirit around us and within us. Jesus is living among us. However, Jesus’ second coming has not happened yet.

We are in an age between the first and the second coming of Jesus Christ. We see wonderful things happening because of Jesus, however, we also see corruption, hardship, and strife in this human world. Even though we may say sometimes this world looks like the Kingdom of Heaven that Jesus controls (in the form of loving, selfless acts), at the same time it is a world marred by human mistakes. Depending on which aspect you focus on, the door between heaven and earth is open or closed based on your point of view.
In the midst of the first coming and the second coming, Jesus Christ, who was crucified and died and buried, but resurrected, still bears the tremendous burdens of human beings and is supporting and saving our world. Because of Jesus, we experience joy and see hope for the future. Why don’t we start this new week with the help and support of Jesus Christ? Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

9月20日土曜日に開催されますJapan Festival のプログラムです。英語と日本語の両方で掲載しますので、お友達もお誘い下さい。

2014 Golden Japan Festival Program English

2014 Golden Japan Festival Program Japanese Final

本日の礼拝後、日本語部信徒会が行われました。9月の20日に開催されるJapan Festivalに向けて、全員で心を尽くして奉仕をし、神様に喜ばれるイベントとなるよう祈ります。行事案内のカテゴリーにプログラムを掲載いたします。ご覧下さい。

2014年8月24日LCR日本語部週報通算第1320号

2014年8月24日の週報

August 24, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin

Sunday English Bulletin 1320E