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今年の修養会は、7月13日土曜日の午前10時より、サンタアナの教区会堂で行われた。
講師にKenneth Dale (ケネス・デール)先生をお招きし、「神とは?」というテーマが与えられた。

司会の芙美Liangから、「神とは?」という漠然としたテーマではあるが、本日の修養会を通して、私達一人一人がそれぞれの神との関係を何らかの形で心に見えて来るような学びの一時であるように、と始めの挨拶があり、プログラムが始まった。              

始めに均先生が詩篇63章1ー9節を読み、開会の祈りがあった。その後、全員で讃美歌21, 351番「聖なる聖なる、聖なるかな」を歌い、均先生がデール先生の紹介をされた。紹介文は
修養会プログラムにも載っているが、その他にも、均先生が個人的にデール先生が45年間も
日本伝道に携わり、またその後、アメリカに帰国されてからも素晴らしい働きを続けられた事等、均先生が個人的に感じている事、またデール先生に牧師になる時の始めのインタビューを受けた事等を語られた。

午前の部のデール先生のお話し
*キリスト教の基本的問題に取り組む − 丁度今の時期が三位一体とペンテコステの季節
であるという事で、本日の修養会では、神様について考え、話しあいたいと考えている。
神の存在を思うことは、信仰の出発点で有り、終わりでもある。私達の生活の中心である神はどこに存在しているのか、その事をいつも心に留めていたい。神を求める姿勢を持つ事が、信仰の基本である真実の神は、神秘的な存在。誰も見たことがない。しかしながら、ほとんどの文化、歴史を見ても、人間はいつも、神を探し求めて来た。しかし、面白い事に、この「神」という言葉は色々に使われている事もあるので、注意しなくてはならない。良い例が、ある本からの引用だが、戦後の日本では、「キリスト」という言葉を使ってはいけないが「神」という言葉は使っても良かったと記されている。それは、どういうことだろうか? 日本文化の中で、「神」という言葉を「八百万の神」、として理解して来ている人達が沢山いる。この「神」という言葉の使い方によって、どれ程うやむやになってしまうことか。500年前に日本に「キリスト教」が入って来たとき、「神」をラテン語の「神」、デウス(Deus) 、またカトリック教会が使う「天主」と呼んでいた事も明らかである。このように、
歴史的背景から見ても、人類は常に「神」を追い求めている事は確かである。この「全能の神」を私達キリスト者がどのように考えるか。現在言われている環境保護の観点から見ても、「創造主である神」が創造されたこの地球を守ることがキリスト者として考える姿勢なのだろうが、原理主義者(Fundamentalist)的になってしまうと、絶対的概念を人に押し付けることになってしまい、それは神様の御心ではないと思う。このような事を考えていると、私達の神様は、本当に神秘的な存在である事が再確認されるようだ。神様が解って来たと思うと、まだまだ解らない事が沢山出て来る。
本当に神様は神秘的で、もし完全に解ってしまえば、それは神様ではなくなってしまうだろう。

さて、ここで、神様の本質を理解する為にいろいろ考えてみたい。
先ず始めに他の宗教には無いのが「三位一体」である。

** 三位一体 − この事をどう理解するか。三位は、英語では three persons である。という事は、3つの異なるものから1つとなっている。1つは「父なる神」、2つは「神様の子として人間の姿で表われたイエス」、3つは「霊なる神−聖霊」である。説明すると、1つは「創造主」、2つは
「救い主」、3つは「いつも私達と共にいる存在」である。これが三位一体の神と呼ばれる。

** 神の概念を明確にするために大切な4つの言葉
1.Hidden God 神の存在は常に比喩を使って表現されているように (「光」であるとか)
 大切な部分は常に隠されている。
 Monothieism:一神論 ただ唯一の神、旧約聖書が一番偶像崇拝を否定し、一神論をはっき
 り述べ伝えている。
 Panentheism- 万有内在神論。全ての物に神が存在するという考え。
 Pantheism – 汎神論。 地球が神の身体、宇宙全体が神の身体という考え。

2.Revealed God: 顕されている神。キリストは人間の身体で人類の目の前に現れた。
 これはどういうことか?それはキリストが私達の知りうる所だけを示して下さったという事である。 
 それは神の本質であり、哀れみであり、愛である。一番大切なのは、「十字架の愛」である。
 なぜならそれは自己犠牲の愛だからである。ここで考えてみたい現在の問題は、キリスト教が
 どのように他の宗教と交わっていくかということである。このイエス様が身を以て示して下さった
 「十字架の愛」は、キリスト教だけのものか、他宗教の人々にも示されているのか、考えてみよう。

3. Transcendence God: 超越する神、万能の神。詩篇40章12-17を読む。
 宇宙を創造された偉大なる神を私達は解らない。人間の理性の力をはるかに超える小さな力  
 が、宇宙を作っている。 現在、一番小さな分子と呼ばれているのがGod Particle (神の粒子)。 
 神秘に包まれた、超越する神に、沈黙を持って従う。神の超越する力は、常に何らかの形でこ 
 の世の中で働いている。イザヤ書40: 28-31を読む。
 しかし、この「超越する神」が存在するのなら、歴史も神が支配するはずであるのに、何故歴史  
 上で様々な悲惨な出来事が起こったのか。また、全能の神が愛の神であれば、何故津波等の
 悲しい出来事が起こるのか? 悲劇が起こるのは神がいないからと思う人がいる。
 デール先生の答えは、神様は私達の日々の生活の全てをコントロールされてはいない。この世
 で自然に起きる悲劇は神のみ言葉とは関係無しに必ず起きる。では何故信仰を持つのか、
 それは、神の霊は心の中で必ず働いていて、必ず共にいて助けて下さるからなのである。これ
 は十字架の神学である。正にイエス様は十字架にかけられるという悲劇の中で、神様は決して
 イエス様を見捨てた訳ではない。起こった悲しみに耐えることによりそこから忍耐が生まれ、
 希望が与えられる。

4. Immanence-内在する神ー聖霊。 内在ということと、自分の感情を決して一緒にしてはいけな
 いが、神が常に自分の内に一緒にいる存在であること。 あり得ないところに神は存在する。 
 神が人格を持っているとすれば、父なる神であるから、親子関係のように自分と親しい存在。

 この神秘的「神」を私達は崇めるべきである。

デール先生のお話の後、全員が中庭で記念写真を撮り、小休憩の後、グループ別の話し合が
始まった。約45分に亘り、プログラムの4ページに書かれてある質問参考項目に沿って話し合ったグループもあり、項目には沿わなくても、「神とは?」のテーマで話し合ったグループもあった。それぞれのグループの話し合いが終わったあと、昼食と交わりの時を迎えた。交わりの時に
自己紹介をし、その後ラッフルティケットが行われた。

午後の部修養会
*信仰の新しい表現法
デール先生は、午前中はあまりに「言葉、言葉」の修養会だったので、午後からは言葉を使わないで、どのように信仰を表現するか、を様々な形で示して下さった。
Verbal- 言葉による。
Non-verbal−言葉無しのcommunication. もっとも大切な事は、神様の愛を行動で示す事である。
** 太極拳: 全員が立って、デール先生の行う太極拳の呼吸をしてみる。この時に感じる事は、
祈りの境地。深く息を吸いながら手を上に挙げて行きながら神を讃美する境地になる。手を前にあわせて上に挙げて行くときは感謝の気持ちになる、等、身体で信仰の表現ができる。
** 芸術: デール先生の描かれた絵から、何を感じるか? 個展を間近に控えたデール先生が、ご自分の幾つかの作品を用いて、皆さんに何を感じるか、感想を聞かれた。

この後、各グループの報告があった。それぞれの報告書は、日本語部のオフィスにファイルされる。 とても有意義な話し合いがそれぞれのグループで出来た事が、リーダーの報告からよく
理解された。

** 音楽: グループ別の報告の後、デール先生が最後に音楽を用いての信仰の表現として、
ジャズ風にアレンジされた讃美歌の幾つかをピアノで弾かれた。

最後に閉会礼拝の中で、均先生が詩篇の19章1節から10節まで読まれ、「神とは?」のテーマで短くメッセージを語られた。その後全員で最後の讃美歌「輝く日をあおぐとき」を歌い、デール先生の閉会の祈りによって、修養会は幕締めとなった。

修養会を終えて感じたことは、先ず内容が盛りだくさんだったという事だ。論理あり、歴史あり、芸術あり、様々な角度から私達はこの「神とは?」というテーマにチャレンジする事ができたと思う。
86歳のデール先生が、私達の修養会の為に、時間をかけて準備をされ、遠くから運転して来て下さった事は、私達にとって大きな恵みである。先生がおっしゃったように、「神とは?」の答えがはっきりと定義づけられる事は決してない。私達の神様は神秘であり、私達が理解できたと思った途端に、理解できない事がまた現れて来る。だからクリスチャンは一生その答えを求めて行く者とならなければいけない。先生は自ら「求道者」として私達の前に立たれた。私は、先生のそんな姿から、言葉にならない教えを頂く事ができた幸いに心から感謝している。先生から溢れ出る「求道者たる姿勢」が、私達に「求道者」として生きる事こそ、神様が私達一人一人に望まれている事なのだ、と無言で語りかけていた。                            芙美 Liang 記録

7月11日 詩編を読もう: 主の道 (詩編25) 

今週読む詩編は25編。聖書日課によれば、今週の木曜から日曜までは25編の1-10節。来週の月曜から水曜で11節から20節を読むことになっている。少々長くなってしまうが、25編全部、以下に記すので、読んでみよう。 
詩編 25 編
1:【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
2:わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。
3:あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
4:主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。
5:あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
6:主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
7:わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。
8:主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。
9:裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。
10:その契約と定めを守る人にとって/主の道はすべて、慈しみとまこと。
11:主よ、あなたの御名のために/罪深いわたしをお赦しください。
12:主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。
13:その人は恵みに満たされて宿り/子孫は地を継ぐであろう。
14:主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。
15:わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。
16:御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。
17:悩む心を解き放ち/痛みからわたしを引き出してください。
18:御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。
19:御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。
20:御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し/恥を受けることのないようにしてください。
詩編25編は、ヘブル語で読むとわかるが、各節の最初の言葉の文字をならべていくと、ヘブル語のアルファベット順になっている。いってみれば、いろはガルタを読んでいるような面がある。 いろはガルタといえば、人々はそれを暗記して、カルタ遊びをすると同時に、一枚一枚に教育的配慮がある。つまり教えがある。 

この詩編25編も、ユダヤの民が憶えることを意識して詩編作者が作詩したように思う。いろはガルタのように、一節一節がことわざから成り立っているわけではないが、25編全体では、一貫した教えがある。 それは「主を畏れ、主の道を歩む。」

旧約聖書の箴言の一章七節には、「主を畏れることは知恵の初め。」という言葉があり、詩編25編にも通じる言葉である。友人で、この言葉に強い影響を受け、宗教を除いて教育しようとする公立の教育に疑問を持ち、自分の子供たちをホームスクールで育てたご夫婦がいる。本当によく努力され、すばらしいと思うし、私はご夫妻のことを尊敬している。 

しかし、たとえ公立の教育機関の中にあっても、しっかりキリストの生き方に根ざした先生方はおられる。 いろはガルタの「ろ」の「論より証拠」ではないが、たとえイエス・キリストという言葉を出すこともせず、聖書を持ち出して議論をするようなことをしなくても、キリストのような愛をもって、実生活を送り、生徒たちを自然に主の道に導びこうとされていた何人かの公立の先生方を見てきた思いがあり、子供達を小学校から高校まで、公立の教育機関に委ねた私たちは、決して後悔していない。

詩編25編を解説するうちに、子供の教育の話になってしまったが、詩編25編は必ずしも、子供たちだけのために詠われたものではない。 人生何歳になっても、たとえ、この世の死を迎える時になっても、詩編25編に詠われた内容は、大いに記憶しておくべき事だと思う。

たとえ、人生の後半にあっても、いや、むしろ人生の終盤だからこそ、しっかりと主に望みをおき、主を畏れ、主の道に導かれ、永遠の命の道を主といっしに歩むことをお勧めしたい。その道には永遠の喜びもある。       

2013年修養会Program

2013年7月13日(土)10時AM~3時PM、Pacifica Synod 事務所で
LCR日本語部の修養会が催されます。

今回のテーマは「神とは」

講師はKenneth Dale牧師です。

喜び溢れる帰還  ルカ10: 1-11, 16-20
主イエス・キリストの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かにありますように!

神学校で学んでいた時、聖書について二つの譬えを学んだ。 ひとつは聖書を窓としてみること。 もうひとつは聖書を鏡としてみること。 何人かの人にはもうお話したことがあるが、この譬えはとても意味がある譬なので、今日もこの譬を簡単に説明したい。窓を見る、たいていその外で何が起こっているかを見ている。 しかし、その窓が、突如として、自分自身を写している鏡になることがある。それと同じように、聖書を読んでいると、例えば新約聖書なら2000年前の様子を見ているような気分になる。 或いは、旧約聖書のサムエル記であれば、3000年前の様子とみている。 
しかし、その聖書が突如として鏡のようになってくることがある。 それは、その聖書の中に描かれた様子のなかに、実は、自分も描かれているように思えてくる。 つまり、何千年も前に起こったことが、自分の人生の現実になってくるようなところがある。 
本日与えられた福音書の箇所は、イエスが72人を派遣するところ。ここで、みなさんに質問をしたい。 先程ルカ福音書の内容を聞かれていたとき、聖書を窓として聞かれていたでしょうか、あるいは、鏡として聞かれていたでしょうか。 もちろん、正解はなく、みなさんのなかには、両方と思うかたもいると思う。 
本日のメッセージでは、まず、窓として、2000年前の様子を振り返ってみたい。 とくに、イエスが弟子たちに教えた教訓をもとに、弟子たちがさまざまな家に入って話した言葉に集中したい。 
弟子たちが知らない人の家に入って、最初にしゃべった言葉は、「シャローム」という言葉をだ。 この言葉、ユダヤの人々の間ではとても一般的な挨拶だったと思う。 そして、彼等がそれなりの歓待を受けたところで、さらに「神の王国が近づいた。」と宣言した。この言葉には、多いに希望があった。 
なぜなら、その時のイスラエル情勢は不安定で、人々にストレスもたまっていた。 しかし、神がイスラエルの王となって支配するという話に、勇気付けられた。そして派遣は大成功で72人は喜びに溢れてイエスの所に戻ってきた。   
この72人が派遣される前に、もし歓待されない場合は、「足についた埃さえも払い落として、あなたがたに返す。」と言ってくるように言われたが、敢えて、このような言葉は語らないで済んだ。というのは、72人は帰ってきたとき、「イエスのお名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服した。」とあるから。 
ここまで、今日の聖書を「窓」として、話してきたが、次に聖書を 「鏡」として、話していきたい。 2000年前に起こったことが、21世紀の時代背景の中でも、現実となって行く。 
例えて言うと、私たちは72人の一人となって、さまざまな困難に出会う時代であっても、この礼拝堂から送り出され、イエスの王国を言い広めるように導かれている。 真理を宣べ伝えるならば、否定されない。信仰者の一人として、いままで知らなかったところへ派遣される。派遣されるにあたり一人であっても、すくなくとももう一人、イエス・キリストという方、聖霊なるお方が横にいることを覚えて。 最初に語る言葉は、聖霊に導かれて挨拶の言葉を語る。それは「ニーハオ」かもしれないし、「おはようございます。」かもしれない。 そして、「神の国がここある。」と話す。 なぜなら、主がわたしたちの間に、そして、私たちの中に、おられるから。 たとえ、いろいろな国や地域が存在し、異なる文化がまじりあって生きていても、この全宇宙、そして、この地球もも勿論、主の支配の中にある。 
そして、喜びに溢れて、また礼拝堂に戻ってきて、「私たち全員、私たちが知らなかった人々から歓待をうけ、人々は、神こそすべての宇宙を支配されている王であることに気づき、主を受け入れた。」と語る。 
本日の聖書の箇所、ただ、「窓」として過去を見るのではなく、鏡として読み、その中で私たちもイエスの信仰を分かちあっている自分たちを新たに発見することになるように祈る。 

“JOYFUL RETURN” July 7, 2013 at LCR
Luke 10: 1-11, 16-20 Hitoshi Adachi

Grace and Peace to you in the name of our Lord and our Savior, Jesus Christ!

While I was a seminary student, I learned two metaphors about the Bible. Number One: “the Bible is a window”; Number Two: “the Bible is a mirror.” Let me briefly explain what they are. If you look at window we usually look at what’s out there…however, that window may become a mirror and you may see yourself.
Likewise, if you are reading the Bible, you may look at what happened 2000 years when you read New Testament or depending on which book you read, you might look at what occurred 3000 years ago if you are reading “Samuel.” In this way, you read the Bible as window.
However, the Bible may become a mirror…which means, you see yourself in a situation that is described in the Bible. In other words, what happened two or three thousand years ago may become a reality in your own life.
Today’s Gospel that was just read, is a famous story that Jesus sent seventy two others. I would like to ask each one of you to think about the following question: when you were listening to this story, was the Bible “a window” or “a mirror”? Of course there is no right or wrong answer…it could be both.
Here in today’s message – I would like to go back 2000 years ago and first use the Bible as window, and focus on what disciples said based on Jesus’ teachings when they visited houses for the first time.
The first phrase they said was “Shalom to this house.” This was a very common greeting in Israel. And after they were welcomed, they said “The Kingdom of God is near you.” These words were very hopeful because people wondered who would control Israel. Would Jewish leaders continue to rule or Roman Empire would take over completely?
That was the time of uncertainty and many people were under stress. However, when people were told that God would become the king of Israel and control it, people were encouraged. And the seventy two joyfully returned to Jesus that all visits to houses were pretty successful.
Before they were sent out Jesus warned them, only if they were not welcomed, they were directed to say “we wipe off the dust that clings to our feet, but please remember the Kingdom of God is near.” However, I believe they were all welcomed and did not have to say these words, because according to the last verse, “they joyfully reported to him, “Lord, even the demons obey us when we use your name!”
So far, I have been explaining the scripture as a window. But next, I would like to use the Bible as a mirror. What happened 2000 years ago becomes reality in the context of our lives in the 21st century.
Metaphorically, we are asked to see ourselves as one of the seventy two – to proclaim God’s lordship even in times of difficulty. If you speak the truth about the Kingdom of God, you will not be denied. As a believer you are asked visit a house, in a town, that you have never visited in the past. You may go with someone or you might be alone, but you remember that at least you are with Jesus Christ, the Holy Spirit. You say a very common greeting, something similar to “Peace be with you;” the Holy Spirit guides your exact words and you are welcomed.
Then you say “the Kingdom of God is here,” because our Lord is among us and within us. Even though we have so many different cities, regions, and countries and each has different leaders, despite this the entire Earth and the entire universe are under God’s reign.
And you joyfully return to sanctuary saying “We were all welcomed by the people we visited and they turned to God realizing that He is the Lord of all and the king of the whole universe.”
I pray that what was described in the Gospel today you look at not only as a window into the past but also as a mirror through which we see ourselves living and sharing the illuminating faith of Jesus Christ. Amen.

7月4日 詩編を読もう:神の永遠の支配 (詩編66:1-9) 

今週読む詩編は66編。いつも3回読むことを勧めているが、必ずしも、続けて3回読まなくてもかまわない。 一月に一回配っている聖書日課では、詩編66編は今週の木曜から日曜まで4日間に亘って読むことになっている。だから、聖書日課に沿って読んでいる方は、数日に亘って他の聖書箇所との関連の中で読むということもお勧めしたい。といっても、聖書日課に載っている箇所を全部読んでいる時間が無いという方は、少なくとも6日の土曜に読むルカ福音書9章1-9節や、7日の聖日に読むことになっている同じくルカ、10章1-11節、16-20節だけでも読まれると良いと思う。    

詩編 66 編
1:【指揮者によって。歌。賛歌。】全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。
2:御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ。
3:神に向かって歌え/「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。
4:全地はあなたに向かってひれ伏し/あなたをほめ歌い/御名をほめ歌います」と。〔セラ
5:来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を。
6:神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。
7:神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。〔セラ
8:諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。
9:神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。

上記の1節から9節の構成を簡単に書いておきたい。
1-4節は賛美への招きと内容: 1-2節で、すべて神によって創造された地球上のすべてが、神を賛美するようにと勧めており、3-4節には、賛歌のポイントが具体的に書かれている。
5-9節は三つの賛美する理由:5-6節に神の過去の御業、イスラエルの民が紅海もヨルダン川も渡ることができたこと。7節で神がすべての国々を含め永遠に支配されていること。8-9節ではさらなる賛美への招きの言葉と、神が「我ら」つまり全人類に命を与え、しっかり歩むことができるようにしてくださっていること。 

冒頭で、ルカ9-10章の一部をいっしょに読むようにお勧めした。イエスが天に上げられるエルサレムへの旅の途中、12人の使徒たちを派遣する箇所と、さらに72人の弟子たちを派遣する箇所。 ルカが伝えている二回の派遣の最大のポイントは、「神の王国」の宣教だった。つまり神が王で支配されるということ。 
「神の支配」ということは、与えられた詩編66編の7節でも詠われている。ただ、ここで注意したいのは、神の支配の仕方。 神は人間を奴隷のように支配したいと思っているわけではない。 神は人間をこよなく愛している。それゆえ、実際にエジプトで奴隷だったイスラエルの民に、たいへんな御業を見せてくださった。 6節に描写されているように、紅海の水を両方に分け、民が渡れるようにしてくださるという奇跡を見せてくださった。 しかし、そのようなことだけではない。 9節に描かれていることは、21世紀を生きる私たちにもあてはまる。さまざまな誘惑に弱い私たち人間に、神が「そっちじゃないよ、こっちだよ。」といってよろめかないで歩むように指し示してくださっているようなところがある。

何を指し示してくださっているのだろうか? 私は世界中のあらゆるところにさらに建てられ続け、またいろいろなところにますます掲げられ続ける、あるいは人々の心に刻まれている「十字架」だと思っている。ある意味、死刑に使われていた道具である十字架が世界中にここまで広がってきているのも奇跡的なこと。 イエスの死と復活の十字架を思うとき、わたしたちは、よろめかないで主の道を歩める。たとえこの世の肉体的な死が訪れようが、わたしたちは、主イエスの愛に与り、永遠に主とともに歩むことができる。
7日の日曜は、10時の礼拝で10歳の女の子と8歳の双子の男の子への洗礼式がある。また14日の日曜には、まだ生まれて1ヶ月の男の子への洗礼式もある予定。 洗礼によって刻印された者には、新しいしるしとして、十字架がしるされる。 

神の国はどこにあるの?  ルカ 9:52-61
主イエス・キリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように!
クリスチャンなので、私はほかの宗教のお葬式には出ません。という方おられると思う。皆さんはどうだろうか。 どなたかそのような方をご存知だろうか? 
しかし、私の叔母は、本当に熱心なカトリック教徒で、結婚相手の叔父は、熱心な仏教徒だった。宗教の違いにもかかわらず、お互い、尊敬し合い、とてもうまくいっていた夫婦だった。 叔父が先に亡くなったが、叔母はもちろん叔父の信仰していた仏教のしきたりに従ったお葬式をし、叔母が亡くなったときは、叔父はもういなかったが、子供達がカトリック教会でのお葬式をした。 
与えられている福音書、イエスの弟子になるなら、あたかも親の葬式もせず、また、家族への挨拶もせずに、イエスに従ってこなければならないようにとられてしまうことがある。 
この聖書箇所は、多くの日本人クリスチャンに、日本神道や仏教で行われる両親の葬式には出てはいけないということを言っているのか? そんなことは無いと思う。 与えられた福音書の中に描かれたストーリの背景を理解する必要がある。 イエスと弟子たちが、エルサレムへの道を急いでいる最中だった。 聖書には、イエスの十字架の死と復活まで何日あったのか明確には書かれていないが、おそらく数週間しかなかったのだろう。    
イエスは、その短い期間にひとりでも、イエスの弟子を増やし、神の国の福音を語る弟子が一人でも増えて、十字架の死と復活を証する集団になって欲しいと願っていたことと思う。時間はあまりなかった。だが緊急性があった。 神はキリストの弟子の家族にはやさしくないという事ではなく、弟子たちが真にキリストの弟子になるのには、厳しいものがあるということを教えている。決してイエスは、家族としてなされなければならないことが重要ではないということを言っているのではない。     
今日の箇所のポイントは「神の国」という言葉に表されていて、家族の葬式にあるわけではない。ルカ福音書だけで、「神の国」という言葉は35回も使われているが、葬という文字はわずか数回出てくるだけ。イエスの弟子になるということは、家族に挨拶もせず両親の葬式もせずにイエスに従うということがポイントではなく、事実として、イエスが人々を神の国に招いていること、そして弟子になろうとする本人が、イエスの神の国への招きを真剣に受け取り、その神の国を述べ伝えることが最大のポイント。しかし、神の国への招きを受け取り、その神の国を述べ伝えるという事は、どういうことなのだろうか? 「神の国」とは、たとえばエルサレムのような、どこかの場所を指しているのだろうか? あるいは、なにかの状態を言っているのだろうか? 
「神の国」という言葉、もう少し掘り下げて、考えてみたい。日本語聖書では、「神の国」と訳されているが、英語聖書は”Kingdom of God”と訳されている。”Country of God” ではない。 ギリシャ語の意味からしても、”Kingdom of God”が正しい訳といえる。それで、「神の王国」という言葉で考えて欲しい。国と王国の違いは、国といういうと、政治形態にかかわらず、広い意味をもってきて、お国柄なんていう言葉の通り、文化、領土、言語なども意味してくる。 しかし、王国という言葉を使うと、王が支配する国となる。 そして、「神の王国」と言うならば、神が王となって支配する国という意味になってくる。それは、領土や文化の範囲を意味するのではなく、神が支配するという状況を指している。 
2000年前イスラエルの人々は、ユダヤ教のリーダが引き続きイスラエルを支配するのか、あるいはローマ帝国がイスラエルを支配することになるのかわからないでいた。 そのような中で、イエスは人々を神が王となって支配する国、「神の王国」に招いた。「神が支配する国」という言葉には、人々が従っていける希望があった。さて、みなさん、何を思われているだろうか? みなさんの中には、「神の王国」は天にあって、召されたときに、行くところという思っておられるだろうか。 先週、佳代子さんのメモリアルサービスをした。佳代子さんは、「神の王国」に行かれた。 それはそれで事実だ。 
今一度、言うが、「神の国」というのは、「神の王国」。神が支配している状態をいっている。ある時点から神の王国でそれまでは神の王国ではないというものでもない。 
全宇宙、この地球上のすべての場所を含めて、実は私たちは、神が支配されている状態の中で生きている。 したがって、神の王国への招待を受け入れたからといって、必ずどこどこに出かけるというものでもなければ、他の宗教を嫌うというものでもなく、神が支配していることを認めるということ。 神はもっとも優先されるべきもので、わたしたちは自分の命が神の支配にあることを受け止め、喜びあふれて神の王国を述べ伝える。  
今週、アメリカ合衆国は独立記念日を迎え、好き嫌いにかかわらず、勇気を象徴する赤と真理を象徴する白と正義を象徴する青のアメリカ国旗を目撃することになる。このアメリカという国を象徴する、赤と白と青の国旗は、18世紀後半に生きた、クウェーカ教徒で、フィラデルフィアに住んでいた、ベッティ ロスという女性が刺繍して作ったのがはじめとされる。クウェーカ教徒たちは、ピューリタンとして最初にアメリカにやってきて、彼等のもつ才能と強い信仰により、アメリカ合衆国設立に多大な影響を及ぼしている。 
そのような多くのクウェーカ教徒たちの協力で作ったアメリカ国旗であるので、その赤には神を信じることにより与えられる勇気、白は神ご自身が真実、そして、青には神の信仰による正義が、織り込まれているように思う。今年の独立記念日、イギリス支配下から解放されたアメリカの政治的な独立を記念するばかりではなく、国旗の中にさえも含まれている神の王国、神の支配される状態に、ぜひ、思いをめぐらせよう。 そして、この一週間が、みなさまがまた新たに、すでに神の支配の中にいることを覚え、他の方々にも「神の王国」を宣べ伝える機会となりますように。

“Where is the Kingdom of God?” Luke 9:52-61

May the Lord shower us with Grace and Peace in the name of our savior Jesus Christ!

There are Christians who do not attend funerals of other faith traditions. Are you one of them? Or do you know anyone who behaves this way?

One of my aunts was a faithful Catholic Christian and her husband was a faithful Buddhist. Despite different faiths, they respected each other’s beliefs and got along very well. When the husband died first, she had a funeral for him at a Buddhist temple, and when the aunt died, her children held the funeral at a Catholic congregation.

The Gospel today, seems to say that when a person becomes a Christian disciple, he or she needs to follow Jesus without doing his/her parent’s funeral and even without saying farewell to the family.
Does this text suggest for many Japanese Christians should not attend even their parents’ funerals with other faith traditions?

I do not think so. I believe we need to understand the background of the story. Jesus and his disciples are on the journey to Jerusalem. Although it is not written down, I believe, the number of days until Jesus’ death and resurrection, in Jerusalem, was only several weeks away. In that short period of time, Jesus wanted more disciples to follow Him and proclaim the “Kingdom of God” and he also wanted them to witness the death and resurrection. There wasn’t much time left and there was a sense of urgency. God is not heartless but commitment to Christianity is serious. Becoming a Christian is not meant to be a lukewarm decision. Jesus is not saying family obligations are unimportant, but he is saying serving God should be your first priority.

The key issue here is the “Kingdom of God” and not about disciples’ relatives’ funerals. In the Gospel of Luke alone, there are 35 times where the phrase, “Kingdom of God” appears, but the word funeral appears only a few times. It is not the point whether or not they attend their parents’ funerals but it is the fact that Jesus invites people to the “Kingdom of God,” and if one becomes a disciple, this person should truly accept the invitation to the Kingdom and proclaim it. However, what does it mean to accept the invitation to the “Kingdom of God” and proclaim it? Is the “Kingdom of God” a certain place like, the city, Jerusalem? Or does it mean a certain condition of being?

Let us think about the phrase, “Kingdom of God” a little bit deeper. In most Japanese Bibles, this is translated as “Country of God.” The word “Kingdom” does not appear in many Japanese translations; I do not know why. If we check the word in Greek, I believe Kingdom is more appropriate than Country. So for Japanese speaking people, please think about the word “Kingdom.”

So what is difference between “country” and “kingdom”? If you use country, whatever its political situation is, if there is a king or not, it defines culture, territory, languages, and so on. But if you say Kingdom, it means a government where a king rules. And if you say the phrase, “Kingdom of God,” God becomes the king and rules everything. I believe that “Kingdom of God” does not just mean earthy or spiritual territory, but it defines the situation that God rules and governs everything in our lives.

2000 years ago, people wondered if Jewish leaders would continue to be governors of Israel or if the Roman Empire would control them. In that situation, Jesus invited people to the “Kingdom of God,” the condition that God becomes King and governs. In the phrase, “Kingdom of God” there is a hope that people may follow. What are you thinking about? I understand that there are people who think that we go to the Kingdom of God after we die. For example, Kayoko passed away a month ago and now she is in the Kingdom of God. That is true.

But let me say this again, the “Kingdom of God” is the condition where God becomes the king and controls. This does not necessarily mean a specific territory or a certain timeframe. All over the universe and all over the earth, we are living in the condition where God rules and governs regardless of whatever our political systems are or whatever our territorial situations are. Therefore, the invitation to the “Kingdom of God” by Jesus does not mean to go to certain places or to hate certain faith practices, but to recognize that we already are in the condition where the King, our God, the Lord Jesus Christ, governs this world. We are already in the Kingdom of God, but there are still so many people who do not know this yet. As Christians, God must be our first priority; we must accept God’s lordship over our lives and joyfully proclaim this.

This week, we will celebrate the Independence of the United States. You will see lots of American flags with the colors – red, white, and blue – representing courage, purity, and righteousness. It is told that the first national flag was made by Betsy Ross who was a Quaker. Quakers (or as we should call them Friends) were Puritans that came to America and with their talents and strong faith that helped shape our country. Therefore, I believe: Red symbolizes courage given in believing God, White symbolizes the purity that is God himself, and Blue symbolizes righteousness through faith in God.

This week, let’s celebrate not only the political independence of the United States, but also wonder about God’s dominion even, as it’s symbolized, in the American flag, because all of us are in the “Kingdom of God”. I hope and pray that this week will be another opportunity for each one of you to accept that we are already in the “Kingdom of God” and invite others to recognize God’s dominion. May God continue to watch over our families, our troops, and our Nation. Amen.