ヨハネによる福音書6章51-58節 「ただの食事を求めて」    “In search of a  Free Meal”

私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安が皆様の上にありますよう。アーメン。

これは皆さんが経験した事と思いますが、誰かがあなたから何かを貰いたい、手伝って貰いたいという前に、何か急に親切になったり、あなたを褒める様なことを云うことを思い出しませんか?これは子供だけでなく、大人も同じ事をするのです。

自動車のdealer は、皆さんに自分たちの車を買ってもらいたい、その手段として、手紙を送るのです。手紙の内容は、「新しい車が入りました。性能のいい、効率のいい車です。是非テスト・ドライブしてみてください。同封の手紙に中に見つけられた鍵を忘れずに持ってきて宝の箱があなたの鍵で開いたなら、新しい車は、ただであなたの物となりますよ」と。初めから新しい車があたるなんて、考えたこともありませんが、もしかして今回は当たるかもと期待したこともあるはずです。でも良くあることで、初めから当たる鍵など誰にも送られてないのでしょう。そのような時、また引っかかったかと不愉快な気持ちになったことを覚えているでしょう。

イエスから何かを頂きたい、して欲しいと多くの人が、イエス様の元に来たのですが、実際にはイエス様から何か食べるものをいただいてお腹を一杯にしたいとの思いで慕ってきた人も多くいたはずです。しかしイエス様は心の底から、私たちがイエス様の所まで来なさいと呼んでくださっているのです。私たちはイエス様、神様から、物質的なもの、精神的なものを求めることは昔も今も同じではないでしょうか。

しかし、ある人たちはイエス様に従うことにより、物質的な欲望を満たす望みを抱くのです。よくテキサスにいたとき見た日曜日のテレビ、ラジオによる礼拝の中で、こういう言葉が何回も繰る返して言われていたのを思い出します。というのは、「もし誰かが物質的なものを求めるのなら、イエス様に従いなさい」と。「イエス様に従う人は、必ず神様の祝福を受けるのです」と。言い換えるなら、「もし誰かがイエス様に従うようになったのですが、まだ経済的にも物質的にも恵まれないものは、神様に対しての信仰が弱いからだ」と言うのです。

イエス様の弟子たちもイエス様について行くことによって大きな祝福を受けていますが、経済的な、物質的な恵みは非難されることはなくとも、経済の安定していない人たちは神様から祝福されていないと考えることは私たちにとってとても悲しいことです。

自分の腎臓がもう役目を果たしていない、一日ごとに4時間にわたる透析をしている竹馬の友がいます。お酒が好きで、若い時はビール、ウイスキーの飲みすぎで体を壊し今でこそ後悔していますが, その彼と、私が日本に帰った時はいつも会うことになっています。彼の親父さんは大手の信託会社の重役でしたが、お父さんをもう35年前に亡くされ、話の中で、「もし親父が生きていてくれたらなー」との言葉が何回も出てきます。私も父を亡くし時々寂しい思いになりますが、そんな時、父は神様の身元に今いるんだとの確信を持っています。この頃はもう23歳になる息子のアンドリューと聖書のいろいろな話について会話ができるようになりました。それも彼自身が、イエス様の人々に対しての慈しみと哀れみを聖書の中で読み取ることができるようになったからです。しかしそれ以上に、親と子の関係を深めることができるようになったことを神様に感謝するのです。

私はこの教会に来てからもう3年半の時間がすぎました。お互いの信仰を分かち合う大切さを神様の恵みとして受け取ることができるようになりました。私たちの信仰の一番大切なことは、愛されるということと愛することは同時に起こる、私たち人間にとってなくてはならない人生の基本であるということです。

今日の主題である「ただの食事を求めて」がどのように今のメッセージにつながるかは皆さん自身で考えてください。

私の家族は一足先に家内、ナンシーの父がなくなって一年目の礼拝をペンシルベニアでおこなっています。今夜、夜行の飛行機で、私も、Nancy の実家に行ってきます。彼女は7人兄弟姉妹の一人でその7家族がみなNancy のお母さんをかこんで過去から、未来のことを話し合うのです。そこに神様の支えと導きが見出されると信じます。

私が良く質問される信仰について何回も説教の中で話してきましたが、信仰は自分で作り出すもの、一生懸命信じることが信仰だと思っている人が多くいます。キリスト教で言う信仰は神様のギフトなのです。というのは私たちが信仰を作り出すのではなく、神様、イエス様自身より私たちは信じる心を頂いているのです。

それでは私たちは、操り人形みたいですね。自分の思いで神様への感謝もできないのですかと聞かれたことがありました。神様に感謝するとは、神様を私たちの救い主として認めることです。それは赤ちゃんとお母さんの関係の中でも見出されるでしょう。赤ちゃんは皆さんが気がついている以上に自我、自分の欲しいものを、して欲しいものを求めるのです。おしめを取り替えてとは云えないまでも泣くことによって、「おなかがすいたよ」も同じく泣くことによって満たされること、抱かされることで安心してお母さんの腕の中で眠ることができるのです。

信仰を持つ。イエス様という神様を信じ、イエス様の愛の精神で私たちが生かされているのは本当に幸福です。アーメン。

週報通算#1223号 (日本語)

2012 8 19W

 

週報通算#1123E号 (英語)

Sunday English Bulletin 1223E

週報通算1222号 (日本語)

2012 8 12W  

週報通算1222号 [英語

2012 8 12 1222E

ヨハネによる福音書6章24-35節「信仰の働き」    “The Work of Faith” 

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方にあるように。アーメン。

皆さんの内、夏休みに家族、日本からのお客さんを連れて、Las Vegas、或はGrand Canyon に行かれたことのある方がいらっしゃると思います。それが春、または秋なら良いのですが、夏の半ばに行って、あんな熱い所には二度と行きたくないと思われた方もいるでしょう。Las Vegas の8月の昼間の平均温度は華氏で108度といわれています。

しかしアメリカの中で一番暑い所はこのCalifornia Death Valley と言れる砂漠地帯です。1913年の7月10日に、ここでアメリカの一番暑い日を記録、温度は華氏の134度でした。このDeath Valleyは名前のとおり、過去に何百人もの人が、水を持たなく道を間違えてさまよい命を落としたところです。また、このDeath Valley は、第二次世界大戦が始まったすぐ後、日系アメリカ人が、強制的に連れて行かれたキャンプの一つであるManzanar からそんなに遠くはありません。ということは、4年にわたる強制キャンプの生活は信じることもできないきついものだったのです。

今日の説教はそのように熱い砂漠の中で水を求めてさまよった一人の男の話からはじめます。聖書の中に、いくつか砂漠の中での井戸の話がありますが、イスラエルの国は70%の領土が砂漠地帯ですから水の大切さを良く知っています。聖書に出てくる井戸は皆さんの想像するバケツに縄が付けられていて、それが滑車につるされているものです。昔、水道がまだなかった時代に桶に水を入れて家まで持ってくる仕事は女の人の仕事でした。日本人になじみの深い井戸は殆どにふたがついていて実際には水が見えません。私の育った家は父の両親と私の両親の二世帯の家でしたが、そこにも手動ポンプがありました。私の祖父が、地下水を汲む時は、必ず差し水をしなさいと言われたことを思い出します。

さて前置きが長くなりましたが、水を求めてさまよった男は幸いにも井戸にたどり着き、さっそく水を汲もうとしたのですが、このポンプのハンドルにはこう書いたノートがついていました。「ポンプの右脇に水を入れたボトルが埋めてあります。その水は飲んではいけません。その水の半分をポンプの乾いた革のベルトにかけなさい。皮のベルトが柔らかくなったら、今度は残ったボトルの水を差し水としてポンプに注ぎなさい。そしてゆっくりとポンプのハンドルを上下に動かしなさい。心配しないで大丈夫。そのうち水は出てきます。」

この砂漠でさまよった男、のどが渇いてふらふらになっていたかもしれません。そこで井戸を見つけ、そこにあったノートからボトルに入っている水が地面にかくされているのを知りました。そこを掘ってボトルが出てきた時、これこそ命の恩人だといってボトルの水を飲み干したかったかもしれません。しかしノートに書いてあることを一つ一つ、そのとおりに行うことで、彼は唯一のボトル以上の水に預かることができ、また水をいっぱい入れたボトルを地面に埋め、彼の後にこの井戸に水を求める旅人を思ってよき行いをすることができたのです。私たちがこの旅人であったなら同じ事をしたと信じます。祝福を受けた者は祝福を与えることのできる者にならなければなりません。

この話は今日の福音書に書かれていることに繋がるのです。というのは、私たちにとって聖書の言葉、神様の福音は私たちの命の糧であるからです。特に私たちが疲れきった時、悩み、悲しみに沈んでいる時、神様の言葉は私たちを力ずけて下さるからです。聖書の中に出てくるさまよう羊はまさに私たちのことで、私たちは私たちを見守ってくださる神様に聖書の中で出会うたびにイエス様に感謝をするのです。

さて今日の福音書に、群衆の中にいた誰かが、イエス様にこう言いました。「神の業を行うためには何をしたら良いでしょうか」。イエス様の答えは、「神がおつかわしになった者を信じること、それが神の業である」と。

これは私の経験ですが、「神様を信じることができるようになるには、また、神様に愛されるようになるためには、何をしたら良いでしょうか」という質問は、日本人だけでなく、すべての宗教の信仰を求めている人に共通です。日本人の多くは、何かをすること、それは山にこもって、または、滝に打たれて祈り続けること、お寺、お宮参りをすること、また、善行、それは良き行ないをすることで、神様から認められる、喜ばれるということです。

世界中のすべての人が、他人、隣人のために尽くすことができるようなれたら、それほど素晴らしいことはないでしょう。そうすれば、戦争もなくなり、餓死する人たちもいなくなるはずです。しかし、キリスト教でいう救いは、私たちの自分の善行によって神様からいただくことのできるものではありません。神様が、世界のすべての人を救うために、この世にこられ、ご自身が私たちの罪を背負い、十字架による死によって救いの約束をくださったのです。

キリスト教で言われる救いはすべての人に約束されているのです。天地を創造された神様が、長い人間の歴史、それも、ユダヤ人の歴史を通して私たちに示してくださっているのです。聖書はとても大きな本で、短編小説のように一日で読めるようなものではありません。しかし天地を創造された神様は、私たち人間を神様のイメージをもって造り、お互いが、愛し合って生活できるような精神を私たち一人ひとりに与えてくださったのです。聖書は一言で言えば、神様の私たちにくださった Love Letterなのです。

イエス様はこの世のすべての人に神様の愛を知って欲しいのです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

神が御子を世につかわされのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」とヨハネによる福音書に書いてあります。

 英語で言うなら、Salvation is free gift, handed over to us by God with no strings attached.  私たちは無条件で神様から救いの約束をいただいているのです。どうも無条件でという言葉の裏に何かあるのではないかと思われているようですが、救いの約束は自分の意志で、できるものではありません。神様に頼る、神様を信頼することのよって初めて私たちに与えられていることを知るのです。私のフィラデルフィア時代の友達であるハイソン牧師がこのことを何年か前、次の話の譬えで語ってくれました。それを紹介しましょう。

 あるクルーズ・シップが、一週間にわたる太平洋の航海を終えて、霧に包まれたSan Francisco Bayに入ってきました。デッキに出ていた人たちは期待していたGolden Gate も、アルカトラズも何も見えません。それなのに、このクルーズ・シップはなんと全速力で走っているのです。これを心配したクルーズのお客さんたちは、一等航海士に言いました。「何も見えないところでスピードもおとさず、事故を招くようなことを何故するのですか?」一等航海士はこれに答えて「船はキャプテンの指図で安全に航海しています。心配することはありません。キャプテンのいるデックは船の一番高い所で、そこからはすべてが見えるのです」と。同じように、神様は、高い所から私たちの霧の包まれたような人生を見つめていてくださっているのです。神様は私たちを愛する神様です。私たちの人生に祝福を与えてくださる神様が、私たちのパイロットであると信じ、神様に従う人生を共に助け合って生きてゆきましょう。アーメン。

 

John 6:24-35  The Work of Faith

May God our Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace.  Amen.

You may remember the following story I shared with you a couple of years ago.  It’s a story of a traveler who came to the dry well in the midst of the desert.

You have probably heard that the hottest temperature recorded in the United States is Death Valley in the summer that is about 150 miles North East from us.  Many of you experienced hot weather of Las Vegas or Phoenix on your summer vacation, but the small city of Furnace Creek in Death Valley recorded 134 degree temperature on July 10th 1913.  No wonder people get heat stroke by just visiting Death Valley for just a few hours. 

By the way, one of the Japanese internment camps during the World War II is called “Manzanar” and this was also located not so far from Death Valley.  I cannot imagine the suffering these Japanese Americans experienced in this kind of extreme weather.

The following story is what I used a couple years ago in my preaching.  Some of you may remember.  This is a story of a man who arrived at the well alone in the midst of the desert.  He traveled several days in the desert and was exhausted and super thirsty.  He was ready to fill his canteen, but wait there is a  note attached how to handle of the pump. The note read, “I have buried a bottle of water to prime the pump.  Don’t drink any of it.  Pour in half of it to wet the leather.  Wait for a while and then pour in the rest.  Then pump.  The well has never gone dry, but the pump must be primed to bring the water up. Have faith and believe.  When you are through drawing water, fill the bottle and bury it in the sand for the next person who will pass that way.”

What would you do? This story possesses an interesting question for all of us.  Would you believe and trust in that written message by the water pump, or would you only worry about your own thirst and drink from the water bottle knowing that the water will give you enough strength to go on?  What would you do?

Now in the same way think about the words in the Bible.  They are our words of salvation in the desert of life.  They are our source of life, life for eternity.  Do you believe in them, or do you want to try your own way?

Our lesson this morning concerns faith.  Someone in the crowd asked Jesus, “What must we do to be doing the works of God.  Then Jesus goes on and says, “I am the bread of life; he who comes to me shall not hunger, he who believes in me shall never thirst.”

Faith can be defined as an obedient attitude to the will of God.  Trusting and believing that the promises God has made for us through Jesus Christ is true.Sometimes you and I get our work all mixed up.  We think our work is salvation and so we try our hardest to save ourselves instead of trusting in God and being obedient to his will.  It is as if we drank that bottle of water beside the pump instead of using it to prime the pump.   We would have been trusting in ourselves, our own resources for living instead of trusting and believing in God and his promises.esus tells us in this passage that salvation is a gift that is the Bread of Life.

It is a gift, a present, something that is handed over to us with no strings attached.  Something that God through his Son wants us to have, salvation.  Notice Jesus doesn’t say anything about us working for this gift, or earning this gift, or achieving this gift for ourselves, but Jesus says he will give it to us, it is ours, a free gift.

This is very important for us to know that salvation is a free gift from God.  Sometimes we want to try to earn that gift of salvation.  Listen to the words of Jesus:  “But through Christ,” God makes us ready for him.  God is doing the work, God is doing the action, and God is giving us salvation through the body and blood of Christ.Our work as Jesus says is to believe in him.  Our work is to have in Jesus Christ who will give us salvation.

We don’t need to worry about our salvation.  We don’t need to try and obtain it for ourselves.  Our work is to believe that this promise of salvation is true for us.  It is God who is steering the ship of life.  It is God who is in control of our salvation; it is God who will welcome us home to him when our pilgrimage on earth is ended.  Jesus wants us to believe that our salvation is secure in the hands of God.

It is like the ship which was returning from an oversee voyage entering the San Francisco Bay.  A heavy fog enveloped the ship on all sides, completely concealing the shores and all objects from the view of the passengers. 

To much of their amazement, the ship continued at full speed.  They became frightened and felt that the speed was extremely reckless on the part of the captain.Finally, one of the passengers expressed concerns to the first mate of the ship, demanding that the ship be slowed down.  The mate listened.  The first mate listened, and then replied with a smile:  “O don’t be afraid, the passengers need not be uneasy in the least.  The fog extends up only a short way above the water and the captain is at the masthead, and that is up above the fog and it is he who is directing the ship.”

In the same kind of way, Jesus is asking us to believe and trust in God as the captain of our ship directing us above all the foggy situations of life that we cannot understand.  God is directing our ship of life because as captain God loves us and wants us to have a life that is abundant with all of his blessings.  Amen.

 

 

 

 

 

週報通算#1221W号 [日本語)

2012 8 5W

週報通算#1221E号 [英語)

2012 8 5 English Bulletin 1221E

 

ヨハネによる福音書6章1-21節「奇跡のメッセージ」“The Message Behind the Miracle”  
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

私が両手にバスケット・ボールを持つ時、それはただ単に、バスケット・ボ-ルですが、それが今年National Basketball Association の最優秀選手に選ばれた、LeBron James の手に渡ると得点に代わるのです。Wimbledon  Tennis Tournament でテニス・ボールがRoger Federer と言う世界一のテニス・プレーヤーの手に渡され、ラケットで打たれると、それが得点となり、世界一のランキングにつながるのです。ここで言われることは、ただ、一つのボールでも、ある人の手に渡されると、素晴らしい結果が出てくると言うことです。それは神様についても同じです。考えてみてください。五千人もの群集が、イエス様の話を聞きに山を登ってきている。しかし群集は、疲れている、お腹もすいている。

イエス様はフィリポにこう言いました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。こう言ったのは、フィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と福音書は書いてあります。フィリポの心の中で、「イエス様、冗談やめてください。5千人分の食べ物を売っている所なんてどこにもありませんよ」と言いたかったのではないでしょうか。 その時,弟子のアンドレが5つのパンと二匹の魚のを持っている子供をイエス様の前に連れてきたのです。この子供は両親から言われて、これをイエス様の所にもって行きなさいと言われたのかもしれない。或は、この子ども自身が、イエス様ならこの食べ物を奇蹟で多くの食べ物にしてくれると思い、イエス様の所にきたのかもしれない。アンドレ自身はこれだけの食べ物でイエス様は何ができるでしょうかと考えたかもしれません。しかし、わたしは、アンドレの心の中に、イエス様は何かできる方との確信があったと思うのです。そこで、アンドレの紹介により、イエス様は5つのパンと二匹の魚を子供から受け取ったのです。

これだけのパンと魚がどうやって5千人の人たちのお腹をいっぱいにすることができるのかと誰でも疑うのは当然でしょう。それでもイエス様は5千人の人々を草の上に座らせて、「このパンをくださった神様に感謝します」と言い、みんなが満腹になった後、パン屑を集めると、12の籠にいっぱいになったのです。ある人は、何故こんなに食べ物が残るほど出てきたかと言う質問に、「実は5千人の中にはお弁当を持った人も沢山いたのではないか、パンと魚が配られる中、お弁当を持っていた人達は自分たちの食べ物をみんなにわけ与えたのではないか。だからこそ、イエス様は、みんなが食べ終わった後に、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われ、その残りものは12の籠にいっぱいだったのではないでしょうか。何故そんなに多くのレフト・オーバーがあったかと言うと、それはイエス様が、generous ,寛大な神様だからです。皆に心ゆくまで食べて欲しかったからです。ですから、私は、この奇跡が、どのように起こったのかということに焦点を置くよりも、イエス様によって、お腹のすいていた人たちが、祝福されたと考えたいのです。祝福された私たちは、その祝福を私だけに与えられたというより、私たちによってその祝福を分かち合うところに神様の御心を読み取ることができるのです。

ヨハネによる福音書6章35節にこう書いてあります。「わたしが命のパンである。私の元に来る者は、決して飢える事がなく、私を信じる者は、決して渇く事がない」と。食べることができる。食べるものがあるとは幸福なことであるのはもちろんです。聖書の初めの人間アダムとイブもエデンの園に連れられて来たその日から果実を受け取り彼のお腹を満たしたのです。

出エジプト記の中に、奴隷として働かされていたユダヤ人がエジプトの土地から逃げ出したのは良かったのですが、40年にわたって荒野でさまよっていた時の神さまへの文句は何かといえば,何時もお腹がすいていたことです。そんな時、彼らは言いました。「私たちがここで死ぬより、エジプトで、奴隷でいた時のほうがましだった。それは食べるものがあったからだ」と。

3日前のCNN のニュースで、アフリカのマリという国で、過激派のアルカイダが、この国を荒らしまわり、多くの難民は食べ物もなく途方にくれているという報道をテレビで見ました。この国には Timbuktu と呼ばれる古代文明それも砂漠の中にある有名な、アラビアの駱駝の商隊がアフリカのサハラ砂漠の中でキャラバン・ルートの一番古い町です。みなさんが知っているシルク・ロードの中にある町と同じようなところです。それが今アルカイダ、イスラム教の過激派に占領され、町の住民は食べ物もなければ、自分の家も失い、住むところもない状態です。マリというこの国は、クリスチャンの国ではないから私たちに関係ないと思われる方もいるかもしれません。しかし私たち、イエス様に従うものは、宗教を問わず、困っている人たち、難民となってこれからどのようにして生きていったら言いのだろうかと途方にくれている人たちを私たちの祈りに覚え、神様が施しと慰めの手を差し伸べてくださることを願うのです。

イエス様の元に来た人たちの多くは、イエス様に何かをしてもらいたいと来た人たちがいたのを私たちは聖書中で読むのですが、私達が、イエス様から一番いただきたいものは、イエス様は私たちを見放すことはないとの確信です。私たちはイエス様の奇蹟にいつも驚かされるのですが、本当の奇蹟は反対に、イエス様によって私たちはイエス様を信じる心をいただいているということではないでしょうか?

私の両親は私の生まれる前からクリスチャンであったことが私人生の中で、大きなギフトであったことは確かです。わたしは、イエス様を私の先生、私の慰めぬし、私に勇気を与えてくれる方と信じます。イエス様は、神様が私に下さった、かけがいのないギフトです。

皆さんも、同じ神様からのギフトをイエス様から受けているのです。私たちの住むところ、食べ物、私たちの健康、私たちの友達、私たちの家族、私たちの神様と会話をする祈りも、すべてイエス様からいただいたギフトです。

ヨハネによる福音書6章35節にこう書いてあります。イエスは言われた。「私が命のパンである。私の元に来る者は決して乾くことがない」と。このイエス様の言葉を言い換えるなら、「私があなたに食べるパンを与えることが、そんなに素晴らしいことであるなら、覚えてください。あなたがたが、本当のパンをいただくことは、私、イエスが、あなたの命の中にいることですよ」と。

イエス様がいつも共にいらしてくださることを知る私たちは幸福です。イエス様の愛を知ることにより、自分ひとりでできないことも、神様の手と足となって、私たちの隣人を愛することができるようになるからです。少しでも隣人を大切にすることにつながるように私たちはイエス様に祈るのです。アーメン。

 

 

 

 

主イエス・キリストの恵みと平安が会衆一同と共に豊かに与えられますように。

 

今日、7月にクリスマスを祝うことを知らずにこの礼拝に来られた方、いらっしゃると思います。 「こんな予定ではなかったと。クリスマスはそもそも冬の12月に祝うものなのに、なんで夏に祝うの?」と思っていらっしゃるかもしれません。でも、ようこそいらっしゃいました。 あるいは、「7月のクリスマス」という言葉に馴染みのある方でも、言うまでもなくクリスマスは冬に祝うものという暗黙の方程式を感じている方々もいらっしゃるでしょう。7月にクリスマスソングを歌い聞くとは、どうも方程式に沿っていないというご気分の方々がいらっしゃると思います。 

あなたの現在の人生を振り返ってみてください。「私の人生、こんな予定じゃなかった。」と言われる方、いらっしゃるのではないかと思います。

聖書の話から、ヨセフとマリアは、彼らの婚約期間にどんな心境だったかを見てまいりたいと思います。 さらに、羊飼いたちにとっても、イエスキリストの誕生について、どんな気持ちだったのか考えて見ましょう。

今日与えられた聖書の箇所からさかのぼること9ヶ月か10ヶ月くらいでしょうか、乙女マリアは天使からお告げがあり、「神の意思によって、あなたは妊娠し赤ちゃんを授かる、その子は、いと高き方。」と言われます。 そんなことは、もちろんヨセフとマリアの方程式には入っていませんでした。 

実際には、確かに妊娠して、誕生の時期が近づいてきました。 しかし、そのような時期に、住民登録の関係で、ヨセフはマリアをつれて、ベツレヘムに旅行をしなければならなくなりました。「それにしたって、ベツレヘムで宿くらいはみつかるだろう。」と思って出かけたことでしょう。ところが実際は宿も見つからず、思いもしなかった場所でイエスが生まれる状況におちいります。それは馬小屋でした。 マリアとヨセフは、馬にえさを与えるいれものの中に布にくるんでイエスを寝かせました。 これまた、ヨセフとマリアの方程式には入っていなかったことです。 そのころベツレヘム近郊には、羊飼いたちがいました。 そこに、天使からお告げがあり、「飼い葉おけに寝かせた赤ちゃんをベツレヘムで見つける、その赤ちゃんが、世の救い主だ。」と言われます。

羊飼いたちにとって、そんなバカなと思えるようなことだったでしょう。 しかし、そのとき、ほかの多くの天使たちが、最初の天使に加わって、大合唱をはじめました。 「いと高きところに栄光、神にあれ。地には平和、御心の適う人にあれ。」との大讃美です。そして、羊飼いたちは、そんなに天使たちが讃美するならと、実際にベツレヘムの街中に出かけてみることにしました。

すると確かに、飼い葉おけに寝かされた赤ちゃんを発見し、その子が、神の子、救い主、平和の御子と信じることになったのです。  

マリアから生まれたイエスは、すくすく成長し、若いころは父親の職業をついで大工になりました。 しかし、突然、大工の道からはずれ、宣教の道にはいり、3年後には十字架にかけられ殺されてしまいました。そのとき、おそらくマリアは四十代半ばだったと思いますが、自分より先に長男が悲惨な十字架刑により亡くなるなどとは、全然、彼女の方程式には入っていなかったことでしょう。  

しかし、それから 2000年後、世界で20億人もの人々が、毎年すくなくとも一回はイエスキリストの誕生を祝い、また、イエスが復活した日曜には毎週イエスを礼拝しているのです。これは、人間が考えだした方程式ではなく、神のみ心によって成り立っている方程式なのだと思います。

今日読んだクリスマスのストーリ、さらに、イエスの生涯、さらにキリスト教会の発展は、いったい何を私たちに物語っているのでしょうか? 

すくなくとも、私たちは、今日の聖書箇所からは、どこにもイエスキリストが生まれたのが12 25日だとは書いていないことは自明だと思います。ちなみに聖書のどこの箇所を読んでも、イエスが生まれたのは、1225日だとは書いてないのです。

北半球に住んでいるわれわれにとって、とかく、キリストの誕生は12月の冬に祝うものだという感覚がありますが、南半球に住む方々にとっては、夏にクリスマスを祝うという経験をしています。また、赤道付近にある国々にとって、クリスマスは冬ではありません。よく言われることは、キリスト教は南でのびているというのです。 20世紀を振り返るとアフリカや東南アジアでキリスト教徒が非常に増えたというのです。たとえば、インドネシアにはHKBPというルーテル教会がありますが、その信徒数は400万人を超えて、おそらくアメリカ福音ルーテル教会の信徒数より増えているのです。夏の気候や、赤道直下の気候の中でクリスマスを祝っている方々にも、まちがいなく、この世にイエス・キリストが生まれた喜び、キリストの愛は、伝わっています。さて、この話が、南カリフォルニアとハワイで伝道をしている、パシフィカ教区、さらに、この復活ルーテル教会にとって、どういう意味があるのでしょうか?

パシフィカ教区には118の教会がありますが、その半数以上、65教会は1950年代、1960年代に建てられた教会です。建てられたときの戦略は、中西部からこのカリフォルニアやハワイにやってくるルーセランを、教会に招いて、各個教会が成長しようという方程式でした。それは、その時代は有効な方程式だったと思います。しかし、80年代90年代になってくると、様相は大きく変わっています。 わたしたちは、ルーテル教会にきている家族の次世代の子供たちは、現在礼拝をしている人々すべてにとって変わることはないだろうという話を聞きます。 しかし、この復活ルーテル教会を見てください。ちょっと質問をさせていただきたいのですが、私はそもそもローマカトリック教会、あるいは正教会系の家庭で育ったという方、、、おそらくかなりいらっしゃると思います。 ようこそ復活ルーテル教会にいらっしゃいました。 あるいは福音派プロテスタント教会に行っていたという方もいらっしゃることでしょう。 ようこそ復活ルーテル教会にいらっしゃいました。 あるいは、わたしは、過去とくに教会にはいってませんでした。 あるいは、いまだに信仰があるのかどうかよくわからないという方いらっしゃるかと思います。 ようこそいらっしゃいました。 なぜなら、お一人お一人、だれかからの誘いでこられたのかもしれませんが、真理は、神の呼びかけがあって、今日この場にこられているからです。  

私自身は、日本のロシア正教会で、洗礼を授けられた人間です。それでも、神の慈しみ愛の中で、神が導かれた過程を経て、アメリカ福音ルーテル教会の牧師にさせていただきました。10年前まで、その ようなことは、私が計算していた人生の方程式には全くありませんでした。 

また、48年前にはじまったこの教会で、24年後には日本語でのミニストリーがはじまり、その48年後には、一人の日本人牧師が子供向けのメッセージを担当し、もう一人が説教を担当するということが起こっていますが、このようなことは、復活ルーテル教会がはじまったときの方程式では、まったく計算されていなかったことだと思います。 最後に、忘れてはいけません。 代々、私の家系はルーテル教会の家族で、今日もこうしてルーテル教会に来ましたという方もいらっしゃることでしょう。 本当に、異なる文化、異なるキリスト教会の宗派の人々を受け入れてくださって本当にありがとうございます。 

今日、7月にクリスマスの箇所の聖書を読んだことから、とくに申し上げたいことは、わたしたちが考え得る方程式をはるかに超越した神の思いと恵みが、マリアにヨセフ、そして羊飼いたちに働いたように、私たち一人一人の上にも働いています。 どうか過去の方程式にとらわれず、聖霊の働きによる新しい方程式に導かれて、神の使命のために仕えましょう。 

 

メリークリスマス。

 

 

 

 

Aug 2012 Calendar

 

今月はVacation Bible Schoolがあります。

7月30日~8月3日まで

民さん、毎日のボランティアご苦労様です。

私たちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

牧師さんの殆どは、キリスト教に関心を持つ人達に、聖書に親しむために一番最初に読んで欲しいのは福音書です。私は聖書を初め創世記から読みたいという人もいます。創世記自身は読んでその話の内容が面白い、考えさせられる、と感じる方も沢山いるのですが、ユダヤ人の守るべき律法の本、レビ記などを読み始めると、これは何のことを言っているのかわからない、つまらない本だ思う人も多くいるはずです。

私の母は、敬虔なクリスチャンですが、聖書と言うとやはり新約聖書、それも福音書のイエス様の話を私がまだ幼い時に物語として語ってくれました。わたしが旧約聖書を真剣に読み出したのは、立教大学のキリスト教学科に入ってからのことです。旧約聖書の中に多くの預言書といわれる本があります。それは預言者といわれる人が書いたイスラエルの歴史の中で、神様から、神様の言葉を預かり、その言葉をイスラエルの人々に伝えたのです。

皆さんの中で、預言をすることのできる人を知っていますか?  もうそろそろ一年半になる東日本の大震災のことについてそれを予言した人たちのことが日本のウエブ・サイトでたくさん出てきます。この場合の予言は漢字で予言、その意味は未来を予測して言うこと、未来のことを言い当てることであり、聖書の中で出てくる預言は、ユダヤ教、キリスト教で、神様から受けた啓示を人々に伝えること、また、もっと端的に言えば、神様の言葉を預かって語ることです。

聖書の中には48人の男と7人の女の預言者が出てきます。それには、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、エリ、サムエル、ダビデ王、ソロモン王も入りますが、多くの預言者はイスラエルの国が、北と南に分かれたころからの国の乱れが出てきた時に、神様の元に戻れと呼びかけているのです。

特に有名な預言者であるイザヤはイスラエルの人たちに、彼らの神からは慣れてみだらな生活をしている者の生活を批判しながらも、慈しみに満ちる神様が、もう一度地上に現れる。その方こそが、私たちの待ち望んでいる神様なのだと宣教したのです。

さて今日与えられた聖書の日課、それは、アモス書とマルコによる福音書の中で与えられた預言者の言葉の内容を考えて見ましょう。

アモスは職業が、ダビデのように羊飼いであり、また、イチジク桑の世話をしていた紀元前750年前の預言者です。この時代にユダヤ人の国は、政治的な問題によりイスラエルの国が二つに分かれたのです。北は、サマリア地方を含むイスラエルと言う国の名を付けたのですが、南はエルサレムを中心とするユダと言う名の国となったのです。

今日の福音書の中で出てくる洗礼者ヨハネは、イエス様と同時代の預言者であり、イエス様のお母さんとヨハネのお母さんとは従兄弟同士であったのを皆さんご存知だと思います。この二人が共通に嘆いたことは、国の政治が乱れていたことであり、宗教のリーダーも堕落していたことです。

金持ちは自分たちだけの利益、また宗教のリーダーも自分たちの面子を守ることに固執して、世の中の貧乏人、病気の人たち、職業のない人たちに、何らかの慈しみを与えることさえ考えることもできなかったのです。

どこの国にも、繁栄した時があり、後退する時があります。敵は、そのような堕落した国の政治とその国の内政が乱れた時にやって来て、その国を滅ぼすのです。また国家が繁栄していると思われる時、すでに、内部から崩壊が始まっていることがあります。それは地上の色々の国が、あらゆる時代を通して経験してきた事実で、権力につくものに、自分は絶対者であると言う意識が出てくるのです。

紀元前1400年のころ神様はモーセを通してイスラエルの人たちに、律法を授けました。その後、カナンの地に定住したイスラエル民族は、モーセから400年がすぎて、ダビデ王によって、自分たちの王国を確立しましたが、紀元前933年にダビデ王の孫、レハべアム王の時代に、北イスラエル王国と南ユダヤ王国に分裂したのです。

この北にあったイスラエル王国は、紀元前721年に、アッシリア帝国に滅ぼされ、住民は皆捕虜として、バビロニアまで奴隷として連れて行かれたのです。

神様はイスラエル民族が、カナンの地のおいて、どう生きていくかについて、モーセを通して律法と言う形として教えてきたのです。それは第一に、「あなた方の神、主である私は聖なる者であるから、あなた方もせいなるものにならなければならない」と宣言し、具体的なこととして、「父母を敬うこと」、「安息日を守ること」、「偶像礼拝をしてはいけないこと」また、神様に対して聖であると言うことは、隣人を愛することであるとして、「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」と教えたのです。

その具体的なことは、在留異邦人のため収穫の落穂を残しておきなさい、隣人を虐げたり、盲人をつまずかせてはならない、と言うことです。

しかし、北イスラエル王国の歴史は、まさにその教えを踏みにじるようなものでした。北イスラエル王国が誕生した時の王様、ヤロボアムは、国の民が南のユダヤ人のエルサレムまで行って民の心が北イスラエルから離れることを恐れて、金の子牛を作り、それはユダヤの民をエジプトから救い出した神であると言って礼拝することを求めたのです。

預言者アモスは、イスラエルの民が犯した罪を指摘していきます。神様はアモスを通して、北イスラエル王国にその滅亡と捕虜になってアッシリアに連れて行かれることを預言したのです。

旧約聖書はユダヤ人のためのもの、新約聖書こそ民族をこえたすべての人を救う神様の愛が示されている書物と一般に考えられますが、聖書は旧約の創世記から、新約聖書のヨハネの黙示録に亘って、神様が全世界の人たちへの救いの道を宣べ伝えている神様の Love letter です。

さて新約聖書の4つの福音書に共通に洗礼者ヨハネの記事が書かれています。ヨハネも旧約聖書の預言者と同じく、神様、特に、神様の一人子としてこの世に送られたイエス様に対しての愛の信仰を求めるように語った預言者の一人です。

新約聖書の洗礼者ヨハネはイエス様と同時代の預言者であり、イエス様のお母さんマリアとヨハネのお母さん、エリザベトは従兄弟同士であることを皆さんご存知と思います。

ヨハネ、イエス様の時代、イスラエルは、ローマ帝国の一部であり、国民は税金をローマ帝国から徴収されていたのです。イスラエルには一応ヘロデと言う王様はいたわけですが、このへロデは暴君で民衆からはあまりよく思われていなかったのです。イエス様の生まれた時、3人の博士たちがユダヤの地に生まれた救い主はどこで見つけることができるのかとこのヘロデ王を尋ねたのですが、このヘロデ王とは血のつながりはあっても違うヘロデです。

このへロデは自分の兄弟のフィリポの妻ヘロデアを娶ったことで洗礼者ヨハネに非難されことに嫉みを持ち、ヨハネを殺す機会を待っていたのです。ヘロデ王の誕生日を祝う宴会に多くの客を呼び寄せ、そこでヘロデアの娘に余興のダンスをしてもらうよう頼んだのです。ヘロデ王は言いました。そのダンスのお礼に、欲しいものがあれば、何でもあげよう。この国の半分もやろう」と言ったのです。ヘロデアの娘は母親の所に行き、王様から何をいただきましょうかと相談した処、ヘロデアは「洗礼者ヨハネの首」をと言ったのです。

聖書の中に、このような悪さ、怖いことが書かれているのを、キリスト教の信仰を持とうと考えている人達に、聖書は、何と酷いことを書いていると思う人もいると思います。キリスト教の教えに従う私たちの信仰の先輩たちの中にも、このように、迫害された人たちが、過去に多くいたのです。

ルーテル教会というプロテスタン教会の生みの親と言われる、マルチン・ルターは15世紀のローマ法王のキリスト教の教えと行動に憤慨したのです。当時、レオ10代目という法王の下でカトリック教会の本山バチカンを大きくしたい、人が見て、これこそ地上における神の国の素晴らしい所だと言われるようなものにしたいと言う思いがありました。

ヨーロッパの教会は皆バチカンに教会税を払っていたわけですが、それ以上のものが必要と、レオ法王が考え出した特別献金は免罪符と言うお札を民衆に買わせたのです。私たち日本人の中にも、神社でおみくじを買って人生の占いをするのと同じように、免罪符と言うものはそれを買うことにより、地獄とこの世に宙ぶらりんになっている死んだ私たちの親、子供、家族の人たちを天国に入れてもらえるようになると書かれた救いの手段が買された、それも法王認定の証明書です。

しかし、人間は、イエス様、神様の愛をお金を払って買うことはできません。しかし、イエス様を信じ、イエス様が私たちの罪のために死んでくださった。その私の、私たちの罪のために十字架で死んでくださったイエス様は、復活したのです。そして、私たちも、いつの日か、神様の許に連れて行ってくださることを約束なさっているのです。

イエス様と言う神様を信じる私たち、信じるその賜物をいただいた私たちは幸福です。またその賜物をまだイエス様の愛を知らない人たちに知ってもらえるよう私たち、キリスト者は常に祈るのです。アーメン。