イエスキリストの恵みと平安が会衆の上に豊かにあるように! 

 

1909年、北海道の塩狩峠を上っていた旅客列車の最後尾の連結器がはずれる事故がおきた。その車両にはキリスト教徒の職員が乗り合わせていた。 その名前は長野政雄(ながの まさお)兄。 彼は、逆向きに暴走しそうになる客車の前に身を横たえ、暴走を食い止めた。彼は殉職することになったが、これにより多くの乗客の命が救われた。 なぜ長野兄は、自分の身を犠牲にして、人の命を助けることができたのだろうか。 もし同じような状況におかれたら、あなたは、彼と同じ行動をとるだろうか? 

 

ちょっと質問を変えたいと思う、あなたはイエスキリストとどのような関係だろうか? ひとりひとり、さまざまな表現でその関係を描写されるだろう。しかし、もし、縦の関係か、あるいは横の関係かと聞かれたら、どのように答えられるだろうか?

私が若かったとき、こんな話を聴いた。 イエスキリストは主人、そして私たち人間はその仕え人、だから、キリストと私たちの関係は縦の関係。 そして、私と兄弟姉妹の関係は、横の関係。 そして、この縦の関係と横の関係で、十字架をなしている。 

この話は、ある意味、とてもわかりやすく、的を得ていると思った。 しかし、イエスキリストと私たちの関係は、縦の関係だけだろうか? 

 

今日与えられているヨハネ福音書では、イエスは弟子たちに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。」

これは、イエス・キリストが十字架に架かる前日、つまり最後の晩餐の時に、弟子たちに話していた言葉。 ここで、わかるように、イエスと弟子たちの関係は、主人と僕の関係以上のものになってきている。 そして、イエスは最後の晩餐の翌日には、弟子たちのいたらない部分すべてを赦すために、十字架に架かった。 弟子たちと同じ立場、弟子たちの友、弟子たちを愛しているキリストの愛がある。 それは、イエス・キリストが復活後に、弟子たちに顕れ、「なんで私が十字架にかかるのはとめなかったのか?」とか、「十字架にかかるとき、なんで逃げていったのか?」などと非難の言葉を述べるわけではなく、復活後はじめてあった弟子たちに、「あなたがたに平安があるように。」と言われた。

 

十字架刑から三日目の弟子たち、イエスには、弟子たちが、どんな気持ちでその日を迎えていたかよくわかっていた。 自分たちがなすべきことをなにもできずに、ただ罪や恥の意識で、どうしようもなかった弟子たちの気持ちを察したイエスの愛のあらわれだと思う。 

今日は母の日だが、キリストの愛は、ある意味、子を愛する母の愛にも似ているような愛。 短い話を紹介したいと思う。50円のお金を、自分の家においてあった教会への献金箱からとろうとした6歳の男の子がいた。 しかし、そのまさに取ろうとするところを母親に見つかってしまう。 自分のしていたことが、どんなに悪いことかをわかっているその子は恐くてしょうがない。 その気持ちを十分にわかっている母親はとがめることなく、そっとその子をだきしめ赦す。 

 

イエスが十字架刑に架かる前、そして復活後に語った言葉は、聖書に記載され、世界中の人々に与えられている。イエスの死と復活から2000年たった今も、わたしたちはその同じ言葉を礼拝の中で聞いている。 わたしたちは、礼拝に出るということは、人間がイエス・キリストに仕えるために礼拝に出ていると頭では考え勝ちだ。たしかに、私たちは仕えているが、しかし、礼拝の中で、実は、神ご自身、キリストご自身が、私たちに仕えている面がある。 

 

メッセージの後、岸野先生の司式により聖餐式があるが、その聖餐式のパンとぶどう酒の中に、イエス・キリストの存在がある。そして、イエスが私たちに仕えてくださって、霊的に滋養され、キリストの愛と赦しが与えられ、そして私たちは、礼拝の場から外に向かって派遣される。 

 

メッセージの最初に、長野兄がなぜ、あのようなことができたのか、という質問をした。 長野兄は、クリスチャンであり、礼拝に出て、イエスの御言葉を聴き、そして聖餐に与っていた方。 最初の質問について考えるとき、イエスが弟子たちに対して言っていた言葉が参考になると思う。イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」と語っていた。 それは、長野兄が主語ではなく、主なるイエスが主語で、キリストが長野兄を選び、神の御用のために、彼を派遣した。 そして、客車に乗っていた多くの人々の命が救われただけではなく、長野兄の話は小説になり、また映画にもなり、多くの人々に影響し、いまでも多くの人々の心が動かされている。  

 

私たちは、この礼拝に自分できて、自分で聖餐をいただき、この礼拝堂を出ていくように思い勝ちだが、実のところ、神が私たちを礼拝に呼んでくださり、神がこの礼拝において奉仕してくださり、そして、私たちを、神の御用のために、この礼拝堂から送り出してくださる。キリストの友であるわたしたちは、主イエス・キリストが私たちに与えてくださっている愛を、さらに地域の人々、困難の中にある方々、あるいは家族、友人たちと、分かち合うように導かれている。それは、かならずしも、神が長野氏を通して示したようなドラマチックな愛の示し方ではないかもしれない。 しかし、一人一人、キリストの友として、この上のないキリストの愛と赦しを、聖霊の助けにより示すように、遣わされる。 

この一週間、また、さまざまな境遇におかれると思うが、イエス・キリストの愛が豊かにあなたがたに宿り、そして、キリストの愛を、あなたが遭遇する方々に示されるように祈る。

 

今日は母の日。まだ母が健在とおっしゃる方も、残念ながらもう母を亡くされた方も、あるいは母が病床の中にあるという方もあり、今日の母の日の思いはいろいろ複雑だと思う。 しかし、一人一人、どのような状況であろうが、母のようなキリストの愛が、一人一人に宿っていることを覚え、豊かな母の日を過ごされますように。 アーメン。 

マタイによる福音書18章1-5節

ルカによる福音書18章15-17節

マルコによる福音書5章21-43節

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方の上にあるように。アーメン。

今日は特別な日曜日です。と言うのは私たちの教会の中で子供祝福式をしたいからです。そこで自分はまだ子供だと思っている人に前の方に出てきて神様と私たちの関係を考えて見たいからです。

皆さんにお父さんとお母さんがいますね。お父さんとお母さんはとても大切な人です。「あなたの一番好きな人は誰ですか」と質問されたら、それはお母さんとお父さんと答える人がほとんどだと思います。同じような質問を大人の人たちに聞いてみます。「大人の皆さん、皆さんが一番大好きな人は誰ですか?」やっぱり大人にとって自分の子供はとても可愛いのです。もっともお父さんの一番好きな人という質問にお父さんが、「それはお母さんと子供たち」、同じように「お母さんの一番好きな人はだれですか」の質問にお母さん、「それはお父さんと子供たち」と答えたら、それは素晴らしい家族だと思います。

聖書の中で一番初めの話は神様が、広い宇宙の中で地球を作ってくれた、それは空の星、太陽、植物、動物と、私たちの生活の中で必要なものを作ってくれた話です。また、神様は、人間を神様の姿に似せて造ったと書いてあります。それほど神様は自分と、自分のお創りになった私たちを大切に愛してくださっているのです。

私はもう60歳の大人ですけれど、子供の時、お母さんとお父さんから私が生まれてきた時の話をよく聞きました。同じように、私の27歳になる娘、Katie と22歳の息子、Andrewも恥ずかしながらも、生まれてすぐのビデオ・テープを何回も何回も見てきました。彼らがお父さん、お母さんになるとまた同じことを経験するのです。

将来のいつか、私たちは誰でも年をとり、この世を去り、神様の国に行くことができると信じます。私たちは子供としていつも遊んでいられたいなと思うことがあるでしょう。学校は楽しいのですが、時には算数も、英語のクラスも難しくて泣きたくなることがあるでしょう。でもまだ小さい時はいろいろな知識を身につけることが簡単にできます。大人になると忘れっぽくなってしまい、昔のことは良く思い出せるけれど、若い皆さんが好きなビデオ・ゲームなどとてもついて行けません。それなのに、昔はやった歌、それも40年も、60年の昔の歌をカラオケで歌う時が楽しみな大人になるのです。

イエス様の話は教会で、Sunday schoolで、あるいはおとうさん、お母さんから聖書の中に書いている話を聞いているでしょう。もうここにいる皆さんは教会の中で、聖書の話しをたくさん知っているでしょう。私の子供の時の一番好きな聖書の話はノアの箱舟の話でした。ノアさんは神様から命令されてすべての雄と雌の動物を箱舟に入れなさい。これから洪水が来ます。箱舟に入った人と動物はすべて救われますよと約束なさったのです。

同じようにイエス様はすべての人に「私を信じなさい、私を信じる者はたとえ死んでも生き返るといわれました」。本当に死んだ人は生き返るのでしょうか?言い方を変えれば、イエス様を信じ、この地球で人生長い間生きた人たちは、たとえ死ぬ時が来ても、神様は神さまの元へ連れて行ってくださる。そこで、また私たちは私たちのおじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、すべての愛する人とまた会うことができるのですと教えてくださっているのです。まだ若い皆さんはしかし今そのことを心配しないで大丈夫です。

大切なことは、お互いを助け合いなさい。誰かが悲しい時、優しい声をかけてあげなさい。誰かが仲間はずれにされているのを知っていたら、仲間に入れるようにしてあげなさい。そして家族の中で、お父さんとお母さんを敬いなさい、兄弟の中で喧嘩をすることがあるでしょうが、喧嘩の相手も私たちと同じように神様から愛されていることを知ることです。

私の心を打たれる聖書の話は、イエス様が死んでしまった13歳の女の子をよみがえらせる話です。それをもう今日の福音のことばとして聞きましたがもう一度その話を聞いてください。

ユダヤ教の会堂長のヤロイという人がイエス様のところに来て、ひざまずき、自分の幼い娘が病気で死にそうなことをイエス様に話たのです。「イエス様どうか、おいでになって娘に手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」しかしイエス様が会堂長の家に帰る途中、彼の家から使いが来て言いました。「お嬢さんはなくなりました。もう先生をわずらわすにはおよばないでしょう。」イエス様はその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と会堂長に言われたのです。そして弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネのほかは、誰もついてくることをお許しにならなかったのです。さて一行は会堂長の家に着きました。イエス様は人々が大声で泣きわめいて、騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われたのです。「何故、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているだけだ。」

人々はイエスをあざ笑ったのです。しかしイエス様は皆を外に出し、子供の両親と3人の弟子だけを連れて、子供のいるところへ入っていかれたのです。そして、子供の手を取って言いました。「タリタ・クム」その意味は、「少女よ、私はあなたに言う。おきなさい」という意味です。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。もう12歳になっていたからである。それを。見るや。人々は驚きのあまり我を忘れた。

この記事はマタイとルカによる福音書でも書いてあるイエス様の有名な奇跡です。まだ幼い者には私たちが多くのことをしなくてはならない。しかし幼いないものに私たちは、大きな希望と夢を託しているのです。そして私たち子供の親が、いつか孫の顔を見たいのです。自分の子にも、孫にも私たちは親としての愛を注ぎたいのです。そしてその愛の精神は長い世代を通して、今世界を平和の世界へと導くのです。

最後にカール・バルトさんと言う教会の教授であり牧師先生である人が、アメリカに来た時、ある新聞社の記者にこう質問されました。「バルト先生、あなたは神様についての勉強を長い間やってきていることを知っていますが、あなたが知っているイエス・キリスト様を一言で言うなら、どのように言えるか教えてください」。

カール・バルト先生はこう答えました。「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ、わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す」。この讃美歌の英語の歌詞を皆さん知っているはずです。 “Jesus loves me this I know”です。Jesus loves me this I know for the Bible tells me so.  Little one to him belongs, we are weak, but He is strong.  Yes, Jesus loves me, yes, Jesus loves me, yes Jesus loves me, the Bible tells me so.

大人の人も一緒に日本語でさんびかを歌ってください。神さまは私たちをどんな時にも忘れず、愛してくださいます。Here we go.  Jesus loves me this I know. For the Bible tells me so, little one to him belongs, we are weak, but He is strong.  Yes, Jesus loves me, Yes, Jesus loves me. Yes, Jesus loves me, the Bible tells me so.  Amen.

 

 “The Good Shepherd”

May God the Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace.  Amen.

This is a pure guess, but two of the most loved Bible verses are the following: the first is from the Gospel of John 3:16, which is “For God so loved the world that he gave his only Son, that whoever believes in him should not perish but have eternal life”. 

And the other one was written by King David almost 3,000 years ago called Psalm 23 that begins by saying, “The Lord is my Shepherd.  I shall not want.  He makes me to lie down in green pastures.  He leads me beside the still waters.  He restores my soul.  He leads me in the paths of righteousness for his name’s sake.  Even though I walk through the valley of the shadow of death, I will feel no evil for you are with me.” 

This is beautiful English and it almost sounds like a poem, but for me this King James English is difficult to understand.  So every time I have difficulty understanding the Old English Version, I read the translation through either the Bible called– Today’s Revised Standard Version Bible or The Good News Bible.  The following is Psalm 23 by the Good News Bible or another name for this Bible is The Good News for Modern Men.

 Close your eyes and Listen.  “The Lord is my Shepherd; I have everything I need.  He lets me rest in fields of green grass and leads me to quiet pools of fresh water.  He gives me new strength.  He guides me in the right paths, as he has promised.  Even if I go through the deepest darkness, I will not be afraid, Lord, for you are with me.  Your shepherd’s rod and staff protect me.  You prepare a banquet for me, where all my enemies can see me; you welcome me as an honored guest and fill my cup to the brim.  I know that your goodness and love will be with me all my life; and your house will be my home as long as I live.”

Today as well as throughout the years of history , hundreds and millions of people read and have read these Bible verses over and over again, especially when we are in need of comfort and assurance that God is with us, loving us, guiding us and comforting us.  The following story is from my internship experience when I was a seminarian in 1977 in the city of Lebanon, PA which is not too far from the heart of the Pennsylvania Dutch Country.

My supervisor, Pastor Wilson Hoyer, was Pastor of Holy Trinity Lutheran Church in Lebanon, Pennsylvania, the congregation had about one thousand members.   Pastor Hoyer asked me to visit the elderly members 3 days a week and give them communion in their homes and the nursing home. There were about 200 people in this congregation who could not attend Sunday worship due to poor and declining health.  And at any given time there were about one dozen members in the local hospitals who we visited on a regular basis. 

Initially, when I visited these elderly people I was not quite sure how to carry on a conversation with them. Many of them were widows and widowers who were looking forward to having their supportive family members and friends visit them.  However, many of these people had little to no family members visit them.  They were lonely.  Sometimes they were desperately lonely.  So they were glad to have a visitor and to see me, their Student Pastor. But, when I first approached them many did not know what to make of this Japanese Intern Pastor.  Some even told me that they were in the war and they fought with the “Japs”.    A beautiful thing always seemed to happen with each of my visits and that was that conversation just flowed and flowed and time passed so quickly as we got to learn about each other. And at the end of my visit, we would celebrate communion together and before I would leave them I assured them that Jesus truly loved them and that they would never be alone because Jesus was always with them and would never ever leave them.  One old man told me with a loving smile that he would have never guessed that he would be sharing communion with a “Jap” Pastor.  

Throughout my internship year I visited these folks many times, and they would tell me how much they looked so forward to receiving Communion.  I would say–This is the Body of Christ given for you.  This is the Blood of Christ Shed for you.  Then I would often see tears welling up in their eyes.  I was often moved by their simple devotion of the Lord Jesus and I too often would shed my tears with them.  Those who know me well, know that I am a person who can cry easily when I am touched and moved by emotions, and I am not ashamed about this.  That’s just me.

Now…There are two tools that Shepherd’s use while tending to their SHEEP.  The first tool is called a “staff”.  Well. What is a Shepherd’s “Staff”?  It is a wooden stick often made out of the branch of a tree and is shaped like a walking stick but it has a hook, like the letter “C” on the top of it. 

A shepherd lovingly reaches his “staff” down into a hole and slips the staff under the sheep’s leg and gently pulls the sheep out of the hole where the sheep has fallen.  And we, people, are like sheep.  We get into holes during our lives, and God is forever pulling us out of our holes.

The second tool of the Shepherd is the Shepherd’s voice, and his voice is important to the sheep.  Over time, the sheep get to know the shepherd’s voice.  By the way, the sheep of the Bible were not raised for their meat or to be eaten, but they were raised for their wool.  The sheep were part of the family and many lived for twenty to twenty five years. 

The sheep were treated like pets, often had names and became part of the family.  The point is that, sheep had identities and they were all known by the Shepherd—every one of them.  And likewise with you, the Bible guarantees us that we all have a name and God knows each of our names.  Yes, our God, is the Good Shepherd, who knows our very name and our own personal needs.

In the Old Testament, “The Lord is my Shepherd” refers to God.  In the New Testament, “The Lord is my Shepherd” refers to Jesus.

Let’s go onto the next phrase. “The Lord is my Shepherd.  I shall not want.”    King David wrote this Psalm when he was in his old age and when he was no longer wanting for anything.  As a young man today, King David would have wanted the equivalent of our cars, boats, houses, and electric gear and technology.  He wanted all the latest gadgets and things of his time in history.  And that’s the way it is, isn’t it?  We get a house and we fill it up with gadgets, things and junk and then we want even more junk.  How many of us do not have enough room in the storage areas in our homes, or enough room in our closets or in our garages?

Someone said, “You spend the early portion of your life stuffing yourself, your closets, and your garages with things, junk and stuff. Then you reach the middle age of your life and then move into a smaller house and you sell or get rid of some more of your junk.  We call them “garage sales”, but they are really junk sales and you are so glad to unload your junk and get rid of your stuff.

Next, You make another move into a smaller apartment or retirement home.  And perhaps Your children sell or keep some of your stuff and then you give all the rest away to the “Good Will” or you take the leftovers to the dumpster. By the end of our lives we don’t have very much stuff at all. 

At the end of our lives, hopefully, the wealth that we have around us is no longer material things but the wealth of the love from your husband, wife, kids, grandkids, friends and loved ones who are standing gathered around your bed at the last moment of your life on this earth.  Hopefully, by then we have learned that God’s wealth is the wealth of the love of people around us.   This is what we eventually learn from life: We learn that–The TRUE happiness of life does not come from material things but from our human relationships.  Happiness does not come from the accumulation and piles of things but happiness comes from the depth of our relationships.   Isn’t this the lesson that the author of the Psalmist, King David is talking about? 

 Psalm 23 continues on and says that God makes us to lie down in green pastures.  He leads us beside still waters and thereby restores our souls. The first thing the Shepherd does for us is that he makes us to be quiet.  To become quiet can be a very hard thing to do for most of us who lead busy lives.  But this is very important.  God makes us to be quiet and thereby our spirits, our souls, our inner selves can be restored.

I ask:  how many of you rushed to get to church today?  We rush to school and to work.  We rush our kids to soccer games, we rush to the next appointment and to meet clients, and sometimes we become so exhausted.  We must examine our life and our Lifestyle.  God is saying our souls are shriveling up because we don’t take the time to honor our quiet moments and talk with him and pray with him.

Quiet time and stillness is needed in our lives so that we can reflect on God’s love and blessings he has given to each one of us.  You often hear that we are so busy that we do not take enough time to smell the roses.  We don’t take enough time to cultivate the roses and watch them grow.  That is why God is asking each one of us to restore our spiritual lives and to take the time to pray and meditate.  We need to take the time to RENEW OUR SPIRIT. Do you pray with your loved ones, especially with your spouse, do you take the time to pray with your children asking for God’s guidance to be upon their lives?  I am also asking myself this question. 

When we say we believe in God and the Lord Jesus Christ, the greatest way we can love and honor this Good Shepherd is to share our time and our love with our family, friends, and those who still do not know God in Jesus. We also honor the Good Shepherd by the words we speak and by our actions.  Take time TODAY to be still and RENEW YOUR SPIRIT and REFLECT on ALL the WONDERFUL Blessings “THE GOOD SHEPHERD” HAS GIVEN TO EACH ONE OF US.  Amen.

 

 

 

2年に一度行われるアジア伝道集会が、今年は4月11日より3泊4日に亘りモントレーパークの信儀教会(Christ Lutheran Church)で開催された。

私達LCR日本語部からは、岸野豊牧師を始め、愛子Gordillo、大橋静江、Day, そして芙美Liangが参加した。安達均牧師も、私達の教区より、教区長補佐として出席された。

 私は水曜日の開会礼拝で、何らかの奉仕を担当する依頼を受け、開会礼拝の一時間前には教会に来るようにと指示を受けていた。思ったより交通事情が良く、12時前にはモントレーパークに到着した私達は、早速ホテルのチェックインを終え、昼食を終えた後教会へ向かった。既に岸野先生は教会に到着していて、AAPI集会の総責任者を勤めるポンサック牧師、そして開会礼拝担当のダニエル牧師と共に参加者に渡すパッケージ作りをされていた。私もお手伝いをしながら、ダニエル牧師からどのような奉仕を礼拝で担当するのかと尋ねた所、司式者の一人として、礼拝をリードするようにと言われた。その時始めてプログラムを手にした私は、これは重大な事になってしまったと思った。聖書の朗読から献金の奉仕等、英語の聖書も持参していないので、どこからか探して来なくてはならない。そうこうしているうちにレジスターが始まり、続々と各地からの参加者が集まって来た。二年前にシカゴで共に集会をした懐かしいアジア伝道の仲間の顔があちらこちらに見える。挨拶したい気持ちと、礼拝の準備をしなくてはと焦る気持ちで落ち着かない私の前に、トーレンスから到着された中村先生が立たれた。「お久しぶりです。AAPIの集会は皆さんに久しぶりに会って、共に伝道の熱を再び燃やし合うのが目的ですよね、なのに、今回は礼拝奉仕のお役目を仰せつかって緊張してます。」と言うと、中村先生が、「それも“燃えさせる”一つの要だと思って担当すれば、きっとこの集会があなたにとってもっと恵まれた時になりますよ。」と言われた。私は、「神様のご計画は凄い」と思った。2年前はただの参加者だった信者の私が、今回は神様がこのような奉仕の役を用意してくださっていたのだ。途端に私は「しゃん」となった。神様の御用の為に用いられる者として相応しい心構えができた。礼拝堂の一番後ろに座り、礼拝の始まるのを暫し待っていた時も、中村先生はそっと後ろから私の肩に手を置いて、「心の中に常に共にいらっしゃる神様をあなたは知っているでしょ?心の真ん中にある存在をあなたは感じているでしょ?簡単なお祈りをして、後は全てを神様に委ねたらいいよ。」と声を掛けてくださった。何故か涙が出そうになった。礼拝は始めから終わりまで満たされて終わった。中村先生の言われた通り、私にとってはこのAAPIの集会で心が“燃える”きっかけとなった礼拝となった。

 二日目、いよいよ今回のテーマに基づいて、聖書の学び、特別講座、グループの話し合い等のスケジュールが展開される。今年のテーマは「We and The Bible」である。日本語で訳せば簡単に「私達と聖書」となる。先ずAAPIの会長であるDr.Yeeが挨拶をされた。その時、中国人である彼は、「アジア人の私達にはこの”We and The Bible”と言う英語はすぐに理解できるけれど、文法的にはちょっとおかしい英語かも知れない。でも敢えて直さなかったのは、私達アジア人にとって、聖書がどのように生活に生かされているかを考えたいからであり、何故 “I”ではなくて “We” かと言うと、アジアの諸国を代表する私達が、全部まとめて一体となってこの集会に集うからであり、それぞれに異なった背景を持つ私たちだけれども、それを越えて一つの “We” として聖書の読み方を考えて行きたいからであると力説された。

 9時からの聖書の学びは、ヨハネによる福音書1章1節から18節までの箇所から、インドのDr. Surekha Nelavela 女史がリードされた。彼女はホテルのカウンターで、私がお昼に食べきれなかった肉まんをあげた女性で、美味しかったありがとう、と昨晩お礼を言いに来てくれた人だ。これがAAPI独特の良い所で、牧師であろうが、教授であろうが、信徒であろうが、ここに参加した人達は「肩書き無し」で知り合う事ができる。余談になるが、シカゴから来たPastor Jade は可愛い中国人女性だ。昨日の開会礼拝前に教会まで車に乗せて行って欲しいと彼女から頼まれ、車中では同行の愛子さんや静江さんと楽しくお話をしていた。そして彼女が開会礼拝での説教をした。そこで始めて愛子さんと静江さんは彼女も牧師だったと知ったというわけである。

さて、話を元に戻して、“Dr.肉まん”の話は本当に興味深かった。タイトルは、“Grace instead of Grace”だった。始めに彼女は、“Well done is better than well said”、と語った。私達が頭でイエス様を考えている、知識はあるかもしれないが、その知識が行動に繋がっているだろうか。 ヨハネの1:17に:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと心理はイエス・キリストを通して現れたからである。と書かれているが、この律法とは 「Empire-King」であり、恵み(Grace)は「Jesus- household」ではないだろうか、と彼女は語った。確かに律法も大切だが、恵みも大切、要は私達が私達の生活の中でどのように受け止めて行くか、どのように行動に示せるか、なのだ。

 聖書の学びの後は、Keynote Speaker の講演だった。Rev. Dr. Moses Penumaka による講義は、かなり内容が難しく、始めはいったい何を言いたいのかよく理解できなかった。新しい目で聖書を読み、新たな心を持ってみ言葉を愛す、いったいどう言う事だろう? 伝統的な聖書の読み方がただ忠実に聖書を読み、祈るという形であれば、新しい読み方とはどのような読み方か?しかも彼はPost-Colonial Approachという言葉を使ったので、私はますます解らなくなった。Postcolonial Approach という言葉は「植民地」後、という事だから、植民地だった一つの国が支配国から独立して新たな自分たちの国を築いて行くという事なのだろう。(私なりの理解なので定かではないが。)とすると、Dr. Moses が言おうとしているのは、自分たちが今まで教えられたように読んで来た聖書を、本当の自分の物とするには、どう読んで行ったらいいのか、という事なのだろうか? それと同時に、私が感じた事は、植民地になった経験のない日本で生まれ育った私には、どうもこのPostcolonial という言葉がしっくり来なかった。この集会に出席している多くの民族が日本の植民地だった。ふと思い出したのは伊藤文雄牧師が私達の教会で牧会をされていた時に言われた言葉だ。伊藤先生も4年前にモントレーパークで開催されたAAPIの集会に出席されたが、その時に、プログラムの中に組み込まれていたアジア多民族伝道の各諸国の中に「日本」が入っていなかった。伊藤先生はその事をポンサック牧師に指摘されたが、その時「日本は軍事国家でアジア諸国を植民地として押さえ付けて来たから、私たちは殊更気をつけなくてはならない。日本伝道はアメリカでは他のアジア諸国の伝道と同じ立場にあるという事をAAPIで示す事が必要だ。」と私に話された事を思い出しながら、確かに私達の日本語部はLCRのミニストリーとしてありがたい程に諸条件が揃っている。日本語部の年度予算もきちんとあり、他の小さなアジア諸国のアメリカでの伝道とは比べ物にならない程恵まれている。だからAAPIでは「日本語伝道」は特にサポートする必要もない、自分たちでやっているから、と思われたのではないだろうか。伊藤先生は日本に帰国される前、私に他のアジア伝道の人達と共に、このアメリカでの多民族伝道を考える事を、しっかり教えて行って下さった。それが、今Dr. Moses の講義を聴きながらやっと理解できるような気がした。私には「植民地」体験がない、しかしアメリカに住む多民族は、背景が違っても、この土地で生活するからには、「新しい土地で生きて行く」体験をしているはずである。その過程で、同じような悩みや困難を乗り越えて行く、その時私たちの心の糧となるのがみ言葉である。新しい土地で生きて行く私たちが、私たちの背景にある伝統的文化習慣にだけ固守して新しい土地で生きて行くのか、それとも伝統は大切にしながら、新しい土地の文化習慣も身につけて生きて行くのか。伝統的に、聖書のみ言葉をただ「読む」のか、それとも「身につけるのか」、もしかしたらそこに「New eyes of reading the Bible, new hearts to understand God’s love」の真意があるのかも知れない。正に、目から鱗の講義を聞いた思いだった。そして自分の勉強不足も痛感した。

 この日は午後からもアジア伝道の為の資料の紹介や、アジア各国の讃美歌を集めた本の紹介、またシカゴのルーテル教会本部ELCAからの世界飢餓援助運動の説明や、プロジェクトの案内など、盛りだくさんだった。6時からの夕食は、2年前にシカゴでもお世話になったグラディスが今年も台所に立ち、采配を振るっていた。この教会は彼女の母教会なので、彼女に取っては自分の家と同じなのだろう。2年前もシカゴで彼女の素晴らしい奉仕の精神に感激したが、今回も朝早くから夜遅くまで彼女は台所で参加者全員の朝昼晩の食事を笑顔で担当してくれた。

夕食の後は、また賛美の時が始まった。この晩の賛美礼拝で、岸野先生を始め、何人かの牧師が、それぞれの働きを認められて表彰されたのだが、思ってもみない事に牧師でない私も表彰された一人だった。民さんが私の紹介をしてくれた。私の事をこれほど彼女はよく見てくれていたのだ、びっくりする程民さんは私の教会での奉仕を皆さんに語ってくれた。心から感謝である。

思えば8年前にミネソタのAAPI集会に始めて出席したとき、まさか自分が神様に用いられるとは思っても見なかったことだ。あの時は日本に帰国される高塚牧師夫妻もミネソタの集会に参加され、そこから日本に帰国された事を覚えている。そしてその当時Mission Director をされていた現在この日本語部の牧師である岸野先生から、是非英語部と日本語部の架け橋になり、これからの日本語部を支えてほしい、と頼まれた。自分には何ができるかわからないが、新しく日本から来られる田中牧師夫妻のお手伝いをする決心をしたのはその時だった。それから田中牧師夫妻が帰国され、伊藤牧師が復活ルーテル教会日本語部と、トーランスにあるファーストルーテル教会日本語部を兼牧され、伊藤牧師夫妻が日本に帰られた後、岸野先生が牧会を引き継がれた。私達の日本語部は今年で24周年を迎える。神様に守られて24年、日本語伝道を南カリフォルニアのハンティントンビーチで続けて来られたのである。聖霊の導き無しでは考えられない。それを思うと、今回表彰された事は大変光栄であり、まさにこの光栄を感謝と共に神様にお返ししよう。神様は、今きっと私に「まだまだあなたの奉仕は終わってません、これからですよ」と言われるに違いない。

 

翌日も朝早くからグラディスが台所でお粥を準備して待っていた。賛美の音楽が礼拝堂から聞こえる。毎回長髪の若いタイから来た牧師が、若い音楽家達を引き連れて賛美の担当をしてくれている。私達は彼を「ゴルフ」と呼ぶ、彼の名前があまりに長過ぎて誰も覚えられないし発音できないからだ。彼からは常に溢れ出るパッションを感じる。韓国の牧師は、2年前シカゴの集会の前に交通事故で片目を無くした人だが、彼もパッションの固まりのようだ。フィリピンの牧師で、コラ牧師は70代の女性だが、彼女も歌い踊り、元気一杯である。インドネシアも凄い。今回の参加者の3分の1がインドネシアの皆さんだ。誰が牧師で誰が信徒かはまったく解らないが、皆さん一体になって賛美する姿は素晴らしい。

この日は、10時からKeynote Panelがあり、私もパネルスピーカーの一人であった。前に備えられた椅子に座ると、隣にグラディスが座った。台所から駆けつけたパネルスピーカーである。まさに彼女は何でも御座れの人材だ、凄い!私達が話す事は、昨日のDr. Moses の話をもとに、自分なりの意見や思いを発表するという事だった。実は昨日のDr. Moses の話を聞きながら、私は夜ホテルに戻ってから読み返そうと、ラップトップに必死でメモったのだが、なんとその日になってラップトップが動かなくなってしまったのだ。仕方が無い、自分の思いを正直に話すまでだ、と却って開き直れたような気がする。

私の話した内容は:

*私の背景は、日本で生まれた中国人であり、母はクリスチャンだが父は馬祖教という台湾の土教で、毎年祖先を祭る儀式がある。今でもその為に台湾に父と一緒に帰るが、その度にお線香を持つ。この行為に対して「クリスチャンとしてそれは偶像崇拝だから律法に反する」と言う人もいるが、私はそう思わない。要は、自分の中に神様との平安を見つけて自分の生き方の中に神様のみ言葉をどう築いて行くかだと思う。

*ナイーブだと言われるかもしれないが、Postcolonial と昨日聞いたときピンと来なかったのは、自分にその経験がなく、「人間は皆平等」という思いが私の根底にあるからだと思う。アメリカに移民した私達が、自分達の文化背景はこうだからそれを崩しては行けないと、回りはどうでも我が路を行く、という姿勢が正しいのか、それとも回りに同化して行く事が正しいのか?どうだろう?

*例えば、私の知っている「伝統的鮨」を誇りに思っている鮨シェフは、客が「カリフォルニアロール」を注文しようものなら、とんでもない、それは日本の鮨にはないと怒って客を追い出すような人だ。スパイシーツナや、レインボーロール、クランチロールなんて彼に取っては邪道であり、とんでもない事なのだ。でも私はカリフォルニアロールや、スパイシーツナが決して悪いとは思わない。それどころか美味しいと思う。日本人が外地で生み出した味だからだ。伝統に雁字搦めにされた鮨シェフは、彼なり伝道文化を大切にする思いが強いのだろう、それは理解できる。しかし彼のアメリカでの人生は楽しくないかもしれない神様はそれを臨んでいるだろうか? 

*中村先生が2年前の集会で、「肩を張ってクリスチャンですと宣伝する事よりも、福音を常に顔に着ている事です。」とおっしゃったが、私はその通りだと思う。聖書の読み方が伝統的な読み方にしろ、新しい読み方にしろ、聖書は永遠に変わらない伝道の道具なのである。それをいつも新鮮な気持ちで身に付けていることが大切なのではないか。古い洋服でも大切に扱っていれば、いつまでも新しく着られるように。聖書は、誰でも、どんな時でも、直ぐに身につけられるように、One Size fits allなのだ。それは永遠に変わらないと思う。

 パネル発表の後、グループで話し合う場が設けられた。私のグループに大橋さん、愛子さん、民さんが参加された。時間が限られていたので、皆さんの話をゆっくり聞く事ができなかったのが残念である。話し合いの終わった後、シカゴから参加しているJoeが、大橋さんの話に感動し、「第二次世界大戦後に日本人があんな体験をした(大橋さんのご家族は佛教だが、その当時教会に行けば美味しいお菓子が貰えると、親御さんが泣く泣く教会へ行ってお菓子を貰って来いと言われたのだそうだ。)話を始めて聞いた。是非記録に取っておくように。絶対にそれは貴重な記録だ。」と私に力説した。確かに私たち日本語部には多くの歴史を生き抜いた人達が集まっている。証集を出してはどうだろうか?と考える。日本は植民地になった事は無いが、もしかしたら戦後の体験は別の意味でのPostcolonial 体験と言えるかも知れないと思った。

 さてその夜はタレントショーである。日本語部は一度もAAPIのタレントショーに参加した事がない。今年こそ参加したいと思っていた。ありがたい事に、安達さと子さんも金曜日の午後から安達牧師と共に駆けつけてくれた。さくら、さくらを英語と日本語で歌い、大橋さんが着物を着て日本舞踊を踊ってくれることになっている。今回の集会で知り合った、熊本から来て、シカゴの神学校で勉強中の安川美歩さんも一緒に歌ってくれる事になった。先ずは全員で「慈しみ深き」を歌い、その後さくら、さくらで、最後は民さんと私の、習いたてほやほやのシニア和太鼓で閉めるプログラムを用意した。民さんは毎日和太鼓を練習している模範生で、私は練習をしない劣等生だ。どうなることか、とにかくやるしかない。一応皆で練習し、大橋さんも夕食前にホテルに戻って着物に着替えて来た。いよいよタレントショーが始まった。皆さんそれぞれに自分たち独特のお国柄を披露してくれる。インドネシアは大勢で楽しく歌い、手拍子と踊りとで、会場に笑い声が響く。フィリピンは、コラ牧師と家族、そしてSan Diego からのジョギー牧師が身も悶えんばかりの(その動作が恋の歌を語っているかのように)フィリピンの有名なラブソングを歌った。大喝采である。やっと私達の番になり、歌も踊りも順調に、拍手喝采のうちに終わった。次が和太鼓なのだが、ビデオを撮っている牧師のバッテリーが無くなり、交換するのを待っていたいり、ちょっと間が空いてしまったが、結構間違いも少なく、「ドンツク」と無事に終わった。ほっとした途端に、会場からアンコールの声がかかる。冗談でしょう、一曲しか知らないのに、アンコールなんてとんでもない、と私が思っている矢先に、民さんが「ドンツク」と始めてしまった。「民さん、何やってんの?」と私は顔が真っ青である。民さんは平気な顔で「ドンドンやればいいのよ、適当にやってよ」とか良いながら「ドンツク」を続ける。仕方なしに、私も「ドンドン」と叩き、適当な所で辞めた。私達の先生が見たら「よくぞそこまでめちゃくちゃにできるもんだ」と呆れ返るだろう。でもこれで良かった。今まではきっと日本人は真面目でコチコチだと思われていたのに、今回で「できなくても、皆と楽しむ」私達を見てもらえたと思う。

最後の中国人の合唱団の合唱は素晴らしかった。その教会の牧師、Pastor Maoは台湾の彰化出身の方で、私の父も彰化出身なのでそれだけで話に花が咲き、いろいろなお話を聞かせていただいた。現在、この教会は中国大陸からアメリカに来ている中国人が多く、台湾人は少なくなってしまった。台湾人と中国大陸の中国人は、同じ中国人でも考え方や習慣が違う。増して大陸は共産党であり、台湾の中国人は日本植民地時代の台湾人、戦後大陸から台湾に来た「外省人(台湾省以外の省から来た人達)人達だ。私が台湾の大学で学んでいた時は、まだ「大陸に撃って帰ろう」という声があった時で、現在のように、多くの台湾人が大陸に工場を築いたり、大陸と台湾が行ったり来たりするなどは、夢物語だった。だからこそ、台湾人が始めたこの教会で、台湾から迎えられたPastor Maoが誰でもこの教会に来る人たちを心から温かく迎え入れている事は素晴らしいと思う。青年合唱団のほとんどが大陸から来ている若者だそうだ。分け隔てなく彼らを受け入れるのは、決して容易ではなかっただろう。祈ってここまで達成されたに違いない。私は歌声も素晴らしいが、一人一人の若者の顔を見ながら、これからこのアメリカで生きて行く皆さんの上に、神様の祝福と守りがありますように、と祈らずにはいられなかった。

 最終日の閉会礼拝には、私と岸野牧師が出席した。この礼拝の説教はコラ牧師で、力強い説教をされた。メッセージの中で印象に残っているのは、コラ牧師が、「皆さん、随分昔にあった車のスティッカーで、“I found Jesus”というスティッカーがあったのを覚えている方、いますか?」と尋ねられた。何人かが手を挙げた。「それはどういう意味でしょうねえ、イエス様は一度も迷子になったことはない。一度両親が一緒に居ない彼に気がついて探しに行った時がありましたが、その時イエス様は”父の家に居るのに何故心配されたのか“と両親に聞かれたわけですから、迷子になられたわけではない。この “I found Jesus” と言う言い方は自己中心的な言い方だと思いませんか? 私たちが都合のいい時、自分の欲している時だけ、イエス様を探すのでしょうか?自分たちの時に合わせて信仰を持つのでしょうか?都合が悪くなれば必要ないと、どこかにほっておくのでしょうか? そうではないと思います。イエス様はとっくに私達を見つけて、いつも私達と共にいて下さいます。私達は、失敗しても、決してイエス様から離れられないのです。だからこそ、自分の都合のいい時だけでなく、何時でも、常に、イエス様に答えられる私達でありたいのです。」 コラ牧師のメッセージを私は忘れないだろう。私達は自己中心に物事を考え、行動をする。しかし、聖書を道具とし、み言葉を常に身につける事ができたなら、私達は常にイエス様中心の生活ができるのではないだろうか。私はみ言葉を身につけていたい。全能の神様、どうか聖霊の力によって、私を導き、守り、常にみ言葉を顔に着ている人間に成らせて下さい!

 今回のAAPIも、燃えたぎる信仰を体中で表現している人達に囲まれた4日間を過ごす事ができた。この力を絶やす事無く、毎日の生活に活かせて行きたい。また、今年の6月に日本語部主催する修養会のテーマも「聖書と私たち」にする事が決まったので、私のAAPIでの体験を、修養会参加者の皆さんと分かち合う事ができたら幸である。

 Fumi Liang

LCR Cultural Ministry Coordinator

 

 

 

 

                         

 

 

 

 

ルカによる福音書24章36b-24節

「私たちはキリストの証人」        “We are witness of Christ” 

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。

今日の福音書はイエス様が復活して3度目に弟子たちの前に現れた話です。一回目はイエス様が復活された日曜日で、弟子たちは、墓に葬られたイエス様に出会った婦人たちから聞いて、それが本当なのか、一体これはどういうことかと思っていた、またユダヤ人のリーダーたちが弟子たちを探していることを恐れてびくびくしていた時に、イエス様が、弟子たちが集まっていた部屋の閉まっていたドアを通り抜けて、弟子たちに会われた時です。

二回目にイエス様が現れたのは、二人のイエス様の弟子がエマオと言う町に行く途中に独りの旅人として旅の仲間に入り、エルサレムで起こった出来事を話し合っていた時、また、特に夕食を一緒にいただいた時、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いた時で、その時、この二人のイエス様の弟子の目が開け、その旅人がイエス様だと分かったのです。

さて、今日の聖書の記事に戻る前に皆さんに質問があります。2003年に、South East Asiaから始まったと言うSARS と言うインフルエンザが世界に散らばっていったのをおぼえていますか? 英語では、 “Severe Acute Respiratory  Syndrome” と呼ばれていました。その時、 私は日本に両親を尋ねていたのですが、帰りの飛行機は殆どの人たちがマスクをかけていました。あちこちでごほん、ごほんと咳をしていた人は皆から睨らまれていたのを思い出します。そのSARSはカナダのBritish Columbia で多くの人を肺炎にし、何百人もの人の命を奪ったのです。これが、世界的な感染病になると心配していましたが、それまでにならなかったのはluckyと言うしかありません。

しかし、今現在、SARSはなお続いているのです。そのSARSはSevere Acute Respiratory Syndrome ではなく、 “Severe Acute Rejection Syndrome” と言われ、多くの人を「神様なんているわけない」と思う、また、多くの人がイエス・キリストへの信仰から離れてしまったのです。

少しここでキリスト教の日本に入ってきた明治時代のことをお話しましょう。

明治初期の日本は、文明開化の名の下で、日本人の思想家、政治家、また西洋から始まった蒸気機関車、エンジン、また民主主義とはどのようなものか、また西洋の宗教であるキリスト教を勉強するために、多くの人がアメリカとヨーロッパの国々に送られたのです。何年もこのように外国で文明開化の土台となる学問、知識、またキリスト教も多くの日本人によって広められていったのです。日本人が西洋の文化を受け取り、世界一流の国になりたいと思ったのは何も悪いことではありませんでしたが、その西洋の土台にあったキリスト教の教えは、天皇陛下が日本の文化の中で「朕は神なり」と言われていた時にも伝わってきたのです。

メソジスト教会はRev. Dr. Brown、聖公会はRev. Dr. William,  長老派教会は、Rev. Dr. Hepburn, ルーテル教会は、Rev. Dr. Schere, そして東方教会、それはオーソドックス教会は同じように1861年にDomitri Kasakinを日本に送りキリスト教の布教を始めたのです。もちろんカトリック教会は徳川時代の前から日本で布教を始めたのですが、キリシタン禁止令により隠れ・キリシタンと言う形でつづき、今なお、独自の形でイエス様の教えを伝えています。

少しここで脱線するならば、明治維新に活躍した日本人の政治家、教育家の中にキリスト教の教えの精神を取り込んた有名人が沢山いるのです。日本初代の文部大臣は森有礼というひ一つ橋大学を築いた人、早稲田大学の初めの総長、大隈重信、慶応大学の初めの総長、福沢諭吉また西郷隆盛、大久保利通、板垣退助、また日本の武士道の教えにキリスト教を結び合わせた内村鑑三のように、キリスト教の精神と日本の文化と共に守ろうと試みた人たちが沢山いたことを知って欲しいのです。

日本人はアメリカ人のほとんどがクリスチャンであると思ってるようですが、アメリカの教会が一番燃えていた時は第二次世界直後の1950年から1975年でこの時に、アメリカの人口の50%が教会に通っていました。教会の礼拝の前に、Sunday school もまだ沢山の人たちで守られていました。その当時は皆勤賞などもあり、Sunday school を一度も休まない子供たちにピンが与えられた時代もあったのです。日本の教会でも毎日曜日に小さいカードを頂くのが私にとっては一番の楽しみでした。そのカードに書かれた聖句、イエス様の言葉を知ることができたのです。

小さい時は両親と共に毎日曜日は教会に行っていたと云われる方の中にも、今日教会には月に、一回、二回と言うのが当たり前になっているような言い方をする人たちもたくさんいます。日曜日は子供のサッカー、野球の試合の時、何か世界で一番キリスト教に熱心であった国と呼ばれたアメリカでもSpiritual SARS が私たちの世界を襲っているように思うことが多くあります。若し、Spiritual SARS によって私たちが、イエス様の教えから遠ざかっていると感じる時、私たちが戻るところは、神様の言葉、それは聖書を読むことです。聖書を読むことにより、また聖書の言葉が良く分かるようになるのです。しかしこれも神様からの聖霊によって分かるようになると言うのが本当ではないでしょうか。その聖霊とは、私たちの罪を取り除く為に十字架に架かって死んだイエス様、そのイエス様は今生きており、私たち何時も共にいてくださる、いつも神様の愛に私たちを包んでくださっていることを知ることです。しか、しこれも自分で信じられるように努力すると言うのではなく、聖霊により今生きていられるイエス様の導きで信じられるようになるのです。多くの人が、何故イエス様は私たちにご自身の姿を顕わさないのかと質問されますが、イエス様が自分の姿を私たちに顕わさない理由もあるのです。イエス様は私たちに、私たちの信仰によって神様を見てくださいとおっしゃっているのです。イエス様はまた私たちに手で触って神様を知るのでなく、信仰の手でイエス様に触れていただきたいのです。

またイエス様は私たちに、イエス様についてのことは何千年も前から旧約聖書の預言の中に救い主が生まれる、イエス様が私たちの罪を負って十字架にかかり死ぬ。しかしそれは、私たちの罪のため、その罪を取り除く為にこられると書いてあるのです。まさに2000年も前にそれが成就され、神様の愛が、すべての人を救う教えとして私たちがいただいた賜物です。

最後に私の牧師友達の教会から送られたnewsletterから読んだ話を紹介して今日の説教を閉じたいと思います。

ある時、13歳になる男の子がお母さんのことで、友達からからかわれ、いや思いをしていたことがありました。子のお母さんは息子の学校で給食担当の仕事をしていました。また息子のスポーツのイベントにも欠かさず参加して応援してくれていたのです。このお母さん若い時、とてもきれいな美人でした。しかし今、子のお母さんの方頬に大きな傷があるのです。その醜い傷を見て、友達の男の子は「君のお母さんどうしてあんな顔をしているの、お化けみたいだ」とからかうのです。

そのようにからかられて、この男の子、「僕は学校にいきたくない」と言い出したのです。友達からお母さんの顔の傷のことでからかわれている。His mother knew that he was ashamed of herと知ってお母さんは、どうしてお母さんの顔の傷ができたのかを息子にはじめて語ったのです。お母さんの顔の傷は、昔住んでいた家が火事になった時にできた傷です。それは13年前、お母さん、夜中に、何かが燃えている匂いで起こされ、家で火事が起こっていることに気がついたのです。まだ赤ちゃんだった息子をブランケットに包み家から出ようとしていた時、火がお母さんに降りかかり、顔の半分が火傷でケロイドのようになっつてしまったのです。

その話をはじめて聞いた息子は、その時始めてお母さんの顔の傷を感謝の念を持って見ることができるようになったのです。そして僕を助ける為に命をかけたことを感謝する思いが初めてできたのです。それ以来、お母さんの顔の傷を愛の傷と思うようになったのです。

イエス様が私たちの罪のため十字架にかかってまで死んでくださった。それは御子を信じる者が、独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。これが私たちのためにイエス様が下さった最大のギフトです.私たちは愛されることから外れることなく、今も後の世界もイエス様と共に過ごすことができるのです。アーメン。

 

 

 

 

ヨハネによる福音書 20章19-30

「信仰を持つとは?」”What Does It Mean to Have Faith?”

私たちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

今日の説教を始めるにあたって、信仰とは何かという質問を皆様に答えていただきたいのです。(皆さんからの答えを聞いてみる)私の英和辞典によると、信仰は英語ではfaith で、信頼、信念とも訳されています。また、信仰は、希望、そして愛と共にキリスト教の3つの大きな徳の一つと言われています。聖書辞典によると信仰の定義は聖書の言葉から出てきます。ヘブライ人への手紙、11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見えてない事実を確認することである」と書かれています。また私の信仰と言うものの聖書以外からの定義では、「信仰とはまだ理解できないことであってもそれを信じることです」。英語の訳では、 “Faith means you believe even when you do not understand.” と言えるでしょう。

さて、皆さんは福音書の中で出てくるイエス様の友達のラザロと言う人の名を覚えているでしょう。ある時、イエス様は友達のラザロが死んだと弟子たちに伝えたところ弟子たちはイエス様に「そんな所に行くのは辞めてください。この間、私たちもそのラザロの家のあるベタニアに行った時、町の群集があなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこに行かれるのですか」と不満の声を出したのです。しかし、イエス様の弟子の一人は他の弟子たちに言いました。「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と。又たある時、イエス様は弟子たちに自分が死が迫っていることを語ったのです。「私は去ってゆく。あなたたちは私を捜すだろう。私の行くところにあなたたちは来ることができない」と。イエス様はご自身のこの地上での命がもう長くないことを知り、弟子たちに「私はあなたたちの行き着くところの準備に行ってくる。それは私のところで、そこにあなたたちも来ることになる」と言われたのです。

その時、また同じ12弟子の一人がイエス様に食って掛って言った言葉は、「主よ、私たちはあなたがどこに行くのか分かりません。どのようにしてあなたが行くところがわかるようになるでしょう」と。そう言った弟子は誰でしたか?ペテロではありません。ヤコブ、ヨハネ、アンドレでもなく、トマスです。疑い深いトマスと言うあだ名が付けられたトマスです。今日の福音書によると、このトマスはどういうわけか、イエス様が弟子たちに復活された日曜日の午後、他の弟子たちが、ユダヤのリーダーを恐れて鍵を閉めた部屋でびくびくしていた時、イエス様が、鍵のかかったままのドアを超えて弟子たちの中にあらわられた時, そこにいなかったのです。

きっと独りで、イエス様が死んでしまったことを悲しんで泣いていたのだと思います。私も何か悲しい時があると、ほかの人から慰められることより、悲しみの思いに駆られて長い間、自分の気落ちした世界に、はまってしまう時があるのです。「独りだけにしてくれ。私にかまわないでくれと」。それは自分に失望とは言わないまでも、自分はなんて惨めな人間と真っ暗な部屋の中で涙をぽろぽろ流すことがあるのです。或は、皆さんもそのような気持ちになること、なったこともあるのではないでしょうか?

8日たって弟子たちが皆、そこにトマスも共にいた時、復活されたイエス様がもう一度現れ、「私は、あの方の釘のあとを見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と宣言したトマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい」と言われたのです。トマスはそのイエス様の言葉からの聖霊に答えて、「わたしの主、私の神よ」と言ったのです。

イエス様は言いました。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と。多くの人は疑いのトマスと言うあだ名を付けてましたが、私たちも皆、疑ったことがあるはずです。イエス様は奇跡なんて本当にできるんだろうか。こんな広い世界の中で、私のことなんか、私の存在なんか分かっているんだろうか。私が悲しみに浸っている時、どのように私を支えてくれるんだろうか。私のこの世の人生が終わった時、本当に神様の国に連れて行ってくださるのだろうか。

疑いのトマスと言われているこの聖書の話は、実は、私たちすべてに当てはまるのです。しかしそれ以上に神様は、疑う私たちを信じる私たちに変えてくださるのです。変えさせて下さっているのです。心の中でイエス様の存在を熱く感じたことがありますか。ある人は私にこう言いました。「私はイエス様が私に話しかけてくれるのを我慢強く待っていますが、まだ、その経験がありません。私の信仰がまだ未熟だからでしょうか?」イエス様、神様は私たちに耳に聞こえる言葉で語るだけではなく、ある時急に、神様の存在を感じることができる時もあるのです。

自分ごとですが、私は時々、皆さんから、「岸野先生、何か心配事でもあるんじゃないですか?何か何時もらしくない、無邪気さがない、何か寂しそうな顔をしている。どうしたんですか?先生は私たちをリードしてください。牧師さんは羊飼いないですよ。羊飼いがいなくては信徒はばらばらになってしまいます。先生、私たちを見捨ててしまったんですか?、やる気をなくしちゃったんじゃないですか。私、私たち信徒は羊飼いなしではばらばらになってしまうんです」と。

さて牧師はどんな時も歯を食いしばって信徒に「私はあなたの牧師です。私についてきなさい」。と言うべきかもしれません。しかし牧師も同じ人間です。心の迷いもあるし、信仰が弱い時をあるのです。それが私のときは顔にも、言葉にも、態度で出てしまうのです。

しかし皆さんからの思いを聞くことはできます。できるだけでなく、それが私の牧師の仕事の中で必要なんです。皆さんの心配事を聞く、一緒に祈る、祈ってもらうことは牧師、信徒と言う関係を越して、イエス様に従う私たちにとってとても必要なのです。

さて疑い深いトマスとあだ名まで付けられたトマスに戻り、このトマスが実に私たち、一人ひとりの思いと行動をこの聖書の話の中で書かれていることに気がついてください。私たちひとり、ひとりもトマスと同じみじめな思いと行動に落ち込む人間ですが、そんな惨めな私たちをイエス様は、私の掛け替えのない子供、Children of God と呼んでくださっているのです。トマスは私たちであり、私たちはトマスなのです。そのトマスを愛されたイエス様は同じように私たち、一人ひとりを愛してくださいます。愛されている私たちはお互いを愛し、大切にするとこを命じられているのです。どうか毎日の生活の中で、神様の愛を感謝し、その愛をお互いの生活の中で実行できる私たちになることをイエス様にお願いしましょう。アーメン。

ワシントンDC日米友好の桜植樹100年を記念して、私たちLCRでもFTF主催によるCherry  Blossom Festival Luncheonを来る4月29日「日曜日の礼拝後」に行われる事はお知らせ済みです。LCRと日本語部を合わせて85名の会員がこのお祭りに参加されます。  当日は日本語部の何人かの有志が着物を着て「さくら、さくら」をLCRの有志と日本語、英語で歌います。 また大橋さんが踊りも披露いたします。その他さくらに因んだ歌、         

It looks  like rain in cherry blossom lane ,                                                     Cherry Blossom time, (I’ll be with you in)                                                      Cherry pink and apple blossom white                                                         

を皆で歌います。午後のひと時を桜の木の下で日本の様に「御弁当」を楽しむ雰囲気で過ごします。写真は後程掲載致します。

 

100 YEARS OF BEAUTY & FRIENDSHIP (FTF, Gail Perkins記)

Every year at this time, the National Cherry Blossom Festival takes place in our nation’s capital. This Festival commemorates the 1912 gift of 3,000 cherry trees which were sent to Washington D.C. by Tokyo Mayor Yukio Ozaki. This gift, and the annual celebrations that ensued, honor the lasting friendship between the United States and Japan. This year marks the 100 anniversary of this gift of friendship.
It all began with a simple ceremony on March 27, 1912, when First Lady Helen Taft and Viscountess Chinda, wife of the Japanese Ambassador, planted the first two cherry trees on the north bank of the Tidal Basin in West Potomac Park. These original cherry trees, along with many others, turn the Park into clouds of pink each spring. In 1915, the United States Government reciprocated with a gift of flowering Dogwood trees to the people of Japan.
In 1927, a group of Washington D. C. school children reenacted the initial 1912 planting of the trees. Other spring activities also took place on that day, effectively creating the first Festival. The Festival had grown even larger by 1935 and was sponsored by civic groups in the nation’s capital.
In 1965, First Lady, Lady Bird Johnson accepted 3,800 more cherry trees from Japan, And in 1981, the gifting came full circle when Japanese horticulturists were presented with cuttings from the Washington D.C. trees, designed to replace some cherry trees in Japan which had been destroyed in a flood.
The Cherry Blossom Festival was expanded to a two-week event in 1994, to accommodate a diverse activity schedule during the blooming season. Today, more than a million people visit Washington each year to admire the blossoming trees and attend events that herald the beginning of spring. The trees and the American/Japanese friendship continue to blossom and flourish.