2017年8月20日(日) マタイ 15:21-28
カナンの女性の信仰のすばらしさ、また力づよさを再び感じている。 しかし、「カナンの女性の信仰」といってしまうと、信仰がカナンの女性に所属しているような言葉遣いになってしまうが、決してそうではないのだと思う。イエスも「あなたの信仰は立派だ」といいながら、「信仰」の意味をさらに考えると、「イエスの信仰」でもある。信仰によって社会の変化が起こっていく話を説教でしたが、変化がおきていく際の主語は主なる神。
2017年8月22日(火) ローマ11:13-29
キリスト教は、ユダヤ教の木にキリスト教は接木されたというたとえが語られている。 20節には、ユダヤ教の木において、ユダヤ人の枝は切り取られてしまって、異邦人の枝が接木されたイメージをパウロは語っている。 そこに控えめに「あなたは信仰によって立っている。」となにげなく書いてある。 ここでも、信仰の主語は、ここでもつきつめていくと、「イエスの信仰」なのだと感じる。
2017年8月26日(土) エゼキエル36:33-38
主なる神が廃虚を建て直す希望が語られている。今年も終戦記念日の前後、広島や長崎はもちろん日本各地の廃虚となったような多くの都市の写真をテレビで見た。 しかし、日本のほとんどの都市は見事に建て直された。 もちろんたいへんな人数の人々の働きがあったことだろうが、根底に働かれた、そして今も働かれている御方の存在を敬い、感謝する。
2017年8月27日(日) マタイ16:13-20
修養会でじっくり読んだ16章だが、また読んでいかがだろうか? イエスのことを、もうこの世に生きていない過去の予言者と同列にしてしまう人々がいた。 ペトロは、「あなたは救い主、生ける神の子です。」と告白している。単に「救い主」とだけではなく、さらに、「生ける神の子」とまで告白しているところに、すばらしさを感じる。
2017年8月13日(日) マタイ14:22-33
イエスからは「私だ、安心しなさい」と声をかけられていながら、ペトロがとった行動は、そのイエスに向かって、「もし本当にあなたなら」といって、さらにイエスである証拠を求めている。そのペトロの心の裏にあるものは、「疑い」という一言で言い表せるのかもしれない。しかし、もっとつきつめていくなら、ペトロが弟子たちのリーダとして、弟子たちがまだイエスだという確証をもてない気持ちを代表したのか、あるいは目立ちたいのか、いずれにしろ主なる神の御心にはそぐわない気持ちがペトロにあったことを、イエスは見抜いておられたように思う。そして沈んでいくペトロがあった。私には、なぜか世界の主要国といわれるリーダたちの多くが、このペトロと重なってきてしまい、そして、大国といわれている国も、みごとに沈んでいく様子が思い浮かんできてしょうがない。しかし、グットニュースは、そんな場合でも信仰により、主が手を伸ばしてくださること。
2017年8月14日(月) 第二ペトロ 2:4-10
上述したペトロは、イエスの死と復活後キリスト教の伝道に残りの生涯をささげた。ペトロの第二の手紙は、彼が殉教する直前の紀元後60年代に記したのではないかと思われる。与えられた聖書箇所では、旧約聖書に残された史実や、あるいはおとぎ話のような形で表現された教えから、神の裁きがとりあげられている。 読んでいて、あまり気持ちの良い箇所ではないかもしれない。10節の後半にある、「彼等は厚かましく、わがままで、栄光あるものたちをそしってはばかりません。」と書いているが、ここで「彼等」とはだれのことかと考えると、イエスに従って修行中だった30年前のペトロたちに重なってくるし、また、現代の世のリーダとも重なってきてしまうのは私だけだろうか。
2017年8月19日(土) イザヤ 56:1-5
20日の聖日の福音書では「カナンの女の信仰」として一人の異邦人女性の信仰と救いの話がとりあげられる。それに関連する箇所として、第一日課にはイザヤ56章の1節と6-8節が拝読され、さらにその前日の聖書日課箇所としてイザヤ56章の1-5節が読まれる。旧約聖書にも異邦人の救いが表わされている箇所があったことを覚えておきたい。また3-4節にある「宦官」という言葉は、使徒言行録の8章に出てくるエチオピアの宦官がイエスの信仰を持ち洗礼を受ける箇所を思い出させる。また5節の言葉は、カナンの女の信仰を思い出させないだろうか。
2017年8月20日(日) マタイ15:21-28
イエスが異邦人を犬にたとえており、ちょっと信じられないと思うような言葉が出てきている。それに対して「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」とここまでへりくだるカナンの女の信仰に力を感じる。イエスは態度を変えられた。弟子たちも時間はかかったが、考え方は変わり、いってみれば、ユダヤ教の宗教改革の一端を見る思いがする。 先週末は悲しい事件が、ヴァージニア州シャーロッツビルで起こったが、このようなことがいまだに起こる人間社会に、2000年前のカナンの女の信仰の話を通して、主なる神が問いかけてくださっているように思う。
私たちを憐れんでくださるイエスの信仰が深まりますように。
2017年8月6日(日) マタイ14:13-33
イエスが幼馴染だった洗礼者ヨハネの悲しい知らせ(1-12節)を聞き、イエスが「ひとり人里を離れた所に退かれた」ことに、感慨深いものを感じている。 悲しいときに、イエスがひとりになり、神との関係、対話を求めていたのだと思える。しかしすぐに群集が後を追ってきて、大勢の人々を憐れみ5,000人の給食へと展開することになる。 その時間が短かかったにしろ、イエスが給食直前にひとりになる時間、神との関係を求めたイエスに見習うことがあるように思う。私たちの普段の生活に追われている中でも、神との対話を求めて生きるよう心がけたい。
2017年8月8日(火) ローマ 1:8-15
まだローマまでは足を伸ばしたことがなかったパウロが純粋にローマ行きを希望し、祈っていたことが書かれている。地中海沿岸地域にあって、経済的にも政治的にもリードしていたローマへパウロが行きたかった理由は、福音を述べ伝えるため。そこには経済や政治の指導的な立場にあったローマ地域の人々でも、決して真の喜びや心の平安が満たされずにいたことを見抜いていたパウロの思いを覚える。 現代においても、政治や経済がリードしていると思われる地域に住んでいる方々に対しても主の憐れみが豊かに注がれていることを覚える。
2017年8月11日(金) 列王記上18:17-19, 30-40
週の後半は預言者エリヤについて書かれている旧約聖書箇所がとりあげられている。13日の聖日の福音書箇所はイエスが弟子たちをボードに残して一晩イエスが見えなくなってしまう箇所である。それと関連がある箇所として列王記19章9-18節が第一日課に選ばれている。そこには、エリヤが自分の無力さを体験するものの真の主に信頼することの強さを実感できたことが記述されている。 エリヤがいかにヤファエ信仰に厚いすぐれた預言者であったかを記述している箇所が今週後半の旧約聖書箇所ともいえる。 エリヤの生涯は簡単にいうと、バアル信仰(土地や家畜の生産力を支配する神でイスラエルの農耕社会に広まっていた)という異教との戦いだったともいえる。バアル信仰は、現代でいう自分の経済的豊かさだけを求めてしまう宗教というか偶像礼拝ともいうべきものとも密接に関連しているのかと思う。
2017年8月13日(日) マタイ 14:22-33
5000人の給食の後、イエスは弟子たちを船に無理やり乗せて向こう岸に行かせ、さらに群集を解散させ、今回こそ一人で祈るために山に登られる。 その間に、弟子たちはたいへんなことになってしまう。24節から33節をじっくり読んで観想したい。とくにペテロの信仰のあさはかさが浮き彫りになってくるのかと思う。ほかの弟子たちのことはあまり描写されていないが、彼等も脅えていたことに変わりは無い。そして、わたしたちの信仰も、ここに描写されている弟子たちと似てはいないだろうか? 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」といわれる主の御言葉をしっかり聴きたい。
2017年7月30日(日) マタイ13:31-33, 44-52
イエスがこれでもかこれでもかといわんばかりに、「天の国はーーーに似ている」と言って説明してくださった。当時の弟子たちも、また2000年経って、その話を何度も聞いてきた代々のキリスト教徒すら、いまだに、天の国をよくわかっていないのだ。 しかし、地球50億年くらいの歴史から見ると、あるいは数百万年とも言われる霊長類の誕生から見ても、この2000年間という短い期間に、とんでもない変化が起こっているのではないかと思えてくる。人間と神とのかかわり方、また人間同士の関わり方も。(ブラッド牧師の30日の説教を読まれていない方は、ぜひウェブにアップしているので、読んでいただけたらと思う。)
2017年8月1日エフェソ6:10-18
イエスが教えてくださった天の国のたとえを思い出し、またこのエフェソ箇所を読む中で、なぜか、ある牧師が「キリストの愛の実践とは、もっとも自分が愛せない人を愛すること。」と言っていたことを思い出す。そんなことはできないと思う人間の思いを超越して、聖霊の働きにより、それは可能なることを、パウロ(エフェソ信徒への手紙の著者)は説いているように思えてくる。
2017年8月3日(木) 箴言10:1-5
ダビデを継いだソロモンが著したとされる箴言の言葉をじっくりあじわいたい。とくに3節にある「主は従う人を飢えさせられることはない。」はどういうことを語っているのだろう。 飢えの意味は、かならずしも、食べ物に対する飢えということだけでなく、いろいろなことに対する飢えのことであるように思えてくる。
2017年8月6日(日) マタイ14:13-21
有名な5,000人の給食の話である。じっくり読んでいただければと思う。聖霊の導きの中で、また新しい発見や気づきが生まれてこないだろうか。 この箇所で語っているイエスの言葉は、最後の晩餐のときの言葉、そして、聖餐式のときの言葉でもあるのだ。聖餐式を受けるなかで私たちはどうなるのかを思う。。。 5,000人の給食で飢えをしのいだ人々は、決して食べ物だけによって満腹になったということだけではないのだと思う。 おなかがいっぱいになること以上の、満たされた感覚があったのだろう。
2017年7月23日 マタイ13:24-30, 36-43
毒麦のたとえ話とその説明の箇所を今一度読んでいかがだろうか? 23日のスティンストラ牧師の説教のタイトルは「忍耐」だった。人間がたとえ毒麦だとか雑草だとか判断しているものに対してでも、イエスは忍耐強く待ってくださることを再度覚える。 神奈川県の相模原市での身障者施設殺傷事件から一年になるが、この聖書箇所と関係があるように思う。
2017年7月24日(月) 黙示録 14:12-20
23日の福音書のテーマは「主が忍耐してくださっている」だったが、与えられた黙示録の箇所は、天使が述べる言葉として、信仰者に向けて「忍耐が必要である。」とある。 主がどれほど忍耐してくださっているかを思うときに、信仰者も忍耐できるのかと思う。14節以降に描かれているイメージには、23日の福音書後半の毒麦のたとえの説明と重なってくる部分がある。
2017年7月27日(木)列王記上1:28-37
今週後半の旧約聖書箇所は、ダビデ王の死期が近づき、ソロモンに王位が継承されるときの箇所が続く。27日に与えられているダビデの側近たちの言葉の中に、「主は王と共にいてくださいました。またソロモンと共にいてくださいますように。」(37節)とある。月並みな祈りのようにも感じられてしまうかもしれない。しかし「主が共にいてくださる。」ということは、どんなことも主の愛を私たち一人一人から離すことをできない(ローマ8:38で30日の第二日課の一部)ことを覚えて何事にも対応することは、どんな苦境にも耐えられ、希望があり、喜びにつながると思う。
2017年7月30日(日) マタイ13:31-33, 44-52
イエスは「天の国はーーーに似ている」と言われ、いろいろなたとえ話を語られる。44節から46節のたった3節の中に「畑に隠された宝」のたとえと「高価な真珠」の二つのたとえが描かれている。 言葉が短いだけに、それぞれにいろいろ質問が出てきたりイメージ(たとえばなぜ畑の中の宝だけを買わずに土地を買うのかとか、畑の中に隠された宝がどんなものかを想像したり)が膨らんでしまう。 しかし、両方とも天の国のたとえであることから、この世の富でも、天に積むことの大切さを覚える。