ヨハネ18章 33-37節  

主イエスの恵み、憐れみ、そして平安が集まった会衆の心に豊かに染み渡りますように!

北の国からという北海道の富良野を舞台にして、視聴率抜群だったテレビドラマがある。 その主題歌を作詩作曲したのは、シンガーソングライターのさだまさしさん。
「北の国から」が大人気だったため、この曲も本当に有名になった。作詞作曲は、さだまさしと申し上げたが、どんな歌詞だったか覚えている方はいるだろうか? 
「あーあー」「んーんー」「らーらー」「むーむー」という言葉だけが出てくる。 そもそも、さだまさしさんは、北海道が出身ではなく、長崎の出身だ。だから、北海道の様子は作詞できずに、ただ、「あーあー」とか「んーんー」とか言って歌ったのかもしれない。 ちょっと、歌ってもよいが、おそらく、一昨日で三ヶ月になったOOOくんも歌ってくれるのではないだろうか?  
北の国からのドラマの中では、東京に住んでいた黒板五郎・玲子夫婦、長男・純、長女・蛍の4人家族がいた。しかし、玲子の不倫をきっかけに、東京を離れ、五郎、純、蛍は五郎の郷里の北海道、富良野の大地、すばらしい大自然の中で生活をはじまる。ふるさとのすばらしさを訴えるこのドラマは、富良野を有名にした。東京に住む多くの人々に、自分も故郷で、生活しようという思いにもしたのではないかと思う。

さて、今日の福音書の話に入りたい。 ひとことでいってしまえば、今日の話は、イエスのふるさとの話ともいえるかもしれない。ということは、ナザレの話か、それともクリスマスも近づいてきたから、ベツレヘムの話なのかと思う方もいるかもしれないが、私はナザレもベツレヘムも話をするわけではない。どういうことが書いてあったか、その一部を振り返ってみたい。
今日の場面は、イエスが十字架にかけられることが決定する寸前の、ローマ側の総督ピラトと、ユダヤ社会から罪人とされたイエスのやりとりだ。当時のユダヤは独立国ではなく、ローマ帝国の管理下にあった。ピラトはローマに任命されたユダヤ管理の責任者だった。
ユダヤがローマの直轄下にあっては、決してユダヤに王などいてはならなかった。そこで、総督ピラトは、「お前はユダヤの王なのか」と質問する。それはとても大切な質問だった。 ユダヤの教理上は、死刑などにはできないユダヤ教の指導者たちは、イエスを死刑においこみたかった。そこで、イエスが「ユダヤの王だ」という罪状をつけて、総督ピラトの手に渡せば、ローマ帝国派遣の責任者として、イエスを死罪と決めるであろうというもくろみがあった。

総督ピラトのイエスへの質問、「お前はユダヤの王なのか」という質問に対して、イエスは、「私の国はこの世に属していない。」と言われた。原語であるギリシャ語からその意味をつきつめると、「私はこの世から来たのではなく、父なる神の国から来た。」という意味にとることができる。
「神の国から」それは、イエスのふるさとは、父なる神の国であって、決して、この世がふるさとではない。そこには、神の国が本当にすばらしいところであって、神の子としてこの世に一時的にきている状況なのだ、と話しているともとれる。
そして、イエスがこの世においては、たとえどんな苦しいことが起ころうが、十字架に架けられ死刑になろうが、神の国から来たイエスは復活した。神の国にその根本があるイエスは、揺らぐことがなく、人類への赦し、憐れみ、愛を示し、イエスは永遠に生きる存在であることを示された。

冒頭で、「北の国から」のドラマの話をしたが、わたしは、自分のふるさとはどこなのか、ということを考えさせられる。私は、横浜生まれ横浜育ちで、富良野にみられるような大自然のふるさとがあるという感覚はない。自然の中に自分を置くことは大好きだが、北の国からに表現されたような、大規模な大自然のあるふるさとを持たない自分は、さだまさしではないが、北海道をふるさとだと想像しても、「あー、うー」と言う言葉が出てくるだけかもしれない。 
しかし、小さいころにキリスト教に導かれ、キリストの名によって洗礼を受けた私にとっては、ふるさとは、私も神の国がふるさとで、私の根は神の国にはっているのだと思う。それゆえ、この世の生活にいつか終わりが来ても、世の命は一時的であって、神の国へ凱旋し、永遠に生きる存在であると信じている。洗礼を受けた時点で、私たちの永遠の命ははじまっている。

キリスト者として生きるとは、神の国からきたイエスと同じところを、心のふるさととして生きることだといえる。それゆえ、この世の生活のなかで、1週間の間に、なにかつらいことでも、うれしいことでも、なにがおころうが、日曜には、神の憐れみを仰ぎ、赦されて、御言葉を聞き、恵みをいただく。 毎週里帰りをしているようなものだと思う。それは、物理的なふるさとに里帰りをすることとは異なって、不思議な力、希望と喜びをいただける。キリスト信仰者は、十字架の死と復活を通して示された、キリストの愛の中に生きており、すでに神の国における永遠の命に生きている。アーメン
安達均

From the Kingdom of God
John 18:33-37

May the Grace, Mercy, and Peace of the Lord, our Jesus Christ be poured into the hearts of the people!

There was a very famous TV drama called “Kita no Kuni Kara”, featured people living their lives in Hokkaido. The literal translation of the title is “From the Kingdom of the North.” The theme song of “From the Kingdom of the North” became very popular also. It was composed by famous singer, songwriter Masashi Sada.
Although I said, songwriter, is there anyone who remembers the lyrics of the theme song?
The lyrics only consisted of these sounds “Ah, Ah, Nh, Nh, Lah, Lah, Muh, Muh.” Some of you might know that Mr. Masashi Sada was not born on Hokkaido, the north island of Japan, but was born on Kyushu, the south island of Japan. Therefore, he might not know Hokkaido well and his song is only “Ah Ah” “Nh Nh”… anyway why don’t we all sing it together, including Hayato-kun, who turned three-months old just this past Friday.
In the drama, a family of 4 was living in Tokyo: Goro, the father, Reiko, the mother, Jun, the son, and Hotaru, the daughter. Goro and Reiko eventually divorced, then Goro, Jun, and Hotaru returned to Goro’s hometown, a place called “Furano” in Hokkaido.
They began a sometimes difficult but wonderful life in the beautiful town of Furano. The drama showcased the beauty of Furano and the place became very famous. Not only did the show highlight Furano’s natural beauty, but the drama made people in Tokyo and other big cities think about their hometowns as well.

Let’s dive into the Good News, the Gospel given today. If asked to summarize the Good News in a few words, today’s story is about Jesus’ hometown. You might think that I would talk about Nazareth or Bethlehem but actually it’s neither of them. Let’s look at the section of the Bible that I read.
Today’s scene is close to the time that the decision to crucify Jesus will be made. It was a conversation between Pontius Pilate and Jesus. At that time, Judea was controlled by the Roman Empire. Pilate was assigned by the empire as the Governor of Judea.
Because Judea was directly controlled by Rome, Rome would never allow a king of Judea. Therefore, Pilate asked the question, “Are you the King of Jews?” That was a very important question to help Pilate decide whether or not to crucify Jesus. By Jewish law, the leaders of Judaism could not crucify Jesus. Therefore, leaders sent Jesus to Pontius Pilate by claiming that Jesus himself is saying “I am the king of Jews,” so that Pilate would authorize Jesus’ crucifixion.

To respond to Pilate’s question, “Are you the King of Jews?”, Jesus said “My Kingdom is not from this world.” When I interpret carefully based on it’s original language, this may be interpreted as “I did not come from this world but I came from the Kingdom of God.”
“From the Kingdom of God” expresses that his true hometown is the Kingdom of God and that he does not come from this world. Jesus meant that he belongs to the beautiful Kingdom of God and his life is rooted in God’s kingdom.
Even though Jesus was crucified, Christ who came from the Kingdom of God was resurrected. Jesus’ life is very sure and eternal, since he is rooted in God’s Love. He is the love of God. Resurrected Jesus forgives all people, the sinners of the world, and shows us God’s mercy and love.

In the beginning, I talked about the drama “From the Kingdom of the North,” that drama was set in the beautiful town of Furano. But for me, I think about my own hometown. I was born in Yokohama and it does not have as many physically beautiful landscapes as Furano does. Although, I like to be in nature, Yokohama is not like Furano or somewhere else known for it’s natural beauty. Even if I was asked to write a poem for the drama, like Masashi Sada, I would write “Ah nh…” too. Words cannot adequately describe Furano’s beauty.
When I think about my baptism and my life as a Christian, like Jesus, my hometown is the Kingdom of God. I am rooted in God’s Kingdom, therefore my earthly life will end eventually, but I will live forever in the Kingdom with the Lord, eternally. I would say, my eternal life has already started in Christ.

To live as a Christian is living believing that our hometown is the Kingdom of God. Therefore, even if we may have difficult times during the week, such as dealing with terrorism, lost love, divorce, etc…every Sunday, Christians come back to our hometown, the place for worshiping the Lord and listening to God’s Word. Every week, we receive God’s Grace, Mercy, and Forgiveness. It is a much more powerful experience rather than just going back to our physical hometown. As Christians, we are already living in God’s eternal life and in His Love which was shown in Jesus’ death and resurrection. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

2015年11月22日LCR日本語部週報通算第1377号

2015年11月22日主日の週報

November 22, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1377E

 

2015年11月19日:揺らがない (詩編93編)
聖書日課で今週木曜19日から22日の聖日まで与えられている93編を読もう。22日の聖日は、Christ the King 日本語では、「王なるキリスト」と呼ばれる主日となる。福音書は、ヨハネ18章33-37節で、イエスが十字架に架けられる前の、総督ピラトとイエスの対話の箇所が読まれる。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編93 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。
詩編93編
1:主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
2:御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。
3:主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。
4:大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
5:主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。

インパクトのある言葉として、「主こそ王」
できるだけ詩編作者の気持ちを思い浮かべながら、詩編93編がどういうことを詠っているか考えたい。詩編93編は、全部で150編ある詩編の中で、7編存在する(47 編、93編、95編から99編) 「即位の詩編」と呼ばれる。 即位の詩編とは、詩編が作られた時代のユダヤ教国家は君主制。代々君主が即位し、宗教的にも政治的にも国家を統治しようとした。 しかし、実際問題は、さまざまな問題に遭遇する。 そのような、荒波の中でも、新たに王が即位し、その戴冠式のような事が行なわれる時に、即位の詩編が詠われる必要があったのかと想像する。戴冠式に合わせて詩編作者も93編を作詞したのかと思う。 93編に詠われている内容は、国王の座に着くものが、主なる神を顕す存在。1節では、人間的な要素ではなく、絶対的な主なる神の力、威厳を持つ者と詠う。また統治される世界も固く据えられ、揺らがない。2節には、主なる神が時を越えて昔から存在していたのだと。3節―4節では様々な荒波も起こるが、それらの荒波よりさらに強く、また高い主の存在。5節では主なる神が定め、即位する王が、確かな存在であり、日の続く限り(王が生きている限りという意味かと思う)この神殿にふさわしく即位が続く。

神が、詩編93編を通して、また「王なるキリスト」という教会暦では年間最終主日に読まれるヨハネ福音書も通して、現代の私たちに、何を語ろうとしているか思いをめぐらせたい。。。。 先週の詩編を読もうを書いた翌日に、パリでは多発テロが起こり、テロリストたちが潜伏していると思われる地域での銃撃戦が起こっている。次はどこでテロが起きるのではないか、世界の多くの都市では緊迫した状況が続いている。 詩編93編1節後半に書かれたような、「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。」という状況とは、ほど遠いような、現代世界を感じる。。。。。 しかし、私たち一人一人、キリスト者として、堅固な世界など存在せず、本当に心が動揺してしまっているだろうか? この質問は、総督ピラトがイエスに向かって、「お前がユダヤ人の王なのか」と質問したが、つきつめていくと、私たちが「主イエスを、世界の王と信じているか?」という質問を、わたしたちは、問われているように思う。 何を言いたいかというと、3-4節にあるような、大海は大揺れに揺れて、破壊されるような状況も起こるが、その真っ只中で、主イエスが、災難、困難をともに体験しながらも、まったく動じない確固たる主イエスという方がおられることを覚える。たとえテロリストが、どんな破壊活動をしようが、主イエスの憐れみ、主イエスの愛、信仰が礎となり、キリスト者が動じずに、存在することができるように思う。
安達均

マルコによる福音書 13章:1-8節

聖霊が豊かに会衆の心に注がれ、主イエスとともに生きる永遠の命を確信し、希望と喜びに満たされますように!
先週、どんな気持ちで過ごされていただろうか? 教会の暦では、年末に入ってきた。 一年を振り替えさせる事件がおきたように思う。
週末には悲惨なテロのニュースでメディアは明け暮れた。その少し前、中東では、ロシアがシリアで爆撃をくりかえし、アメリカはアメリカで、的をしぼった、無人機からの爆撃をしていた。 
後藤氏と湯川氏や他の人々を人質とし、日本政府や他の国々の政府にも対応をせまっていたビデオに登場していた男性を覚えているだろうか? その男、Jihadi Johnを殺害したと、11月12日に、アメリカ国防総省は、発表していた。 
今年の終盤にはいってきて、今年はじめにおこっていた日本人殺害のニュースを思い出していた。 そして、昨今の状況を見るにつけ、イエスが言われた通り、民は民に、国は国に敵対するということが、世の定めということなのだろうか。 

与えられた福音書、今年はとくにマルコ福音書が中心に読まれてきた。来週は、聖霊降臨後最終主日あるいは王なるキリストの主日と言って、教会の暦では、最後の主日となる。 その日に与えられる福音書はヨハネが読まれるため、聖日にマルコを読むのは、今年最後。 はっきりいって、マルコ8章から後の、福音書は、つらい箇所が多かったように思う。 
そして、今年最後に与えられているマルコは13章が与えられている。難しい箇所ではあるが、じっくりよーく読むと、希望にあふれ喜びを体験できる聖書箇所だと思う。 さきほど、その1節から8節を拝読したが、ユダヤ教の総本山ともいうべき、エルサレムに、イエスと弟子たちがやってきた様子からはじまっている。 
その様相は、神殿の豪華さ、立派さに、一目ぼれしている弟子がいる。 しかし、それに対するイエスの反応は、弟子といっしょになって、石の上に石が積み上げられたおおきな神殿の豪華さに見とれているのではなく、どんな石も崩されずに他の石に載ったままでいることはないと言われる。

イエスはいったい何をおっしゃりたかったのだろうか? 歴史的な事実として、たしかに神殿は紀元後70年には崩壊する。 そのことをただ、神殿の崩壊として予告したということなのだろか? 
私には、現代を生きる私たち、というかいつの時代を生きる人類に対しても、もっと普遍的な教えを述べられていると感じる。
それは、どんな石もほかの石の上に載っていることはなくなるというのは、土台と思っていたものが土台ではなくなってしまう。 マルコ13章後半であきらかになるが、イエスは「天地は滅びる。」とまで言われる。 「しかし私の言葉は決して滅びない。」と言われる。
イエスがおっしゃりたいことは、目に見えるものはすべて滅びる、私たちの目に見える身近なものばかりではなく、天地さえ滅びる しかし、イエスの御言葉は決して滅びないということを、普遍の教えとして伝授したかったのではないだろうか? 

私たちは、目に見えるものや、与えられた地球環境に、振り回されるように生活している。 車に乗っていれば、道路をしっかりみて、周りの車をしっかり見て、また暗くなればライトをつけるし、雨が降ってくれば、より慎重に運転する(カリフォルニアに住む多くの州民を除いてと言いたくなることもあるが:) )、そのような生活をしている。 イエスさまは、そういう生活をするのはやめなさいということではないと思う。
しかし、目に見えるものも、天候だとかも、いずれはすべて滅びてしまうときが来る。 だから、根本のところでは、目に見えるものを土台にする人生ではだめですよ。 という警告をされるとともに、もっとしっかりした土台がありますよ、とおっしゃってくださっている。
それは、イエス様の御言葉。その御言葉は、決して滅びない。 イエスさまご自身、イエスの愛と慈しみは、世の中で、民が民に敵対し、国が国と戦争をし、さらに、天変地異がおころうが、天地が滅びようが決して、イエスの愛は、終わらない、永遠である、そのことを生きる土台として生きてまいりたい。その土台に希望・喜びがある。

2015年の教会暦は、終盤にきた。 Thanksgivingは新しい年の聖書日課となり、Thanksgivingの週末の日曜からはアドベントとなる。 この教会暦の年の変わり目に、家族と会ったり、自然探索などをして、見えるものをしっかり見て、目の保養をすることは巣晴らしと思う。 
しかし、同時に、自分の土台はなんなのか、考えてはいかがだろうか。ヨハネ福音書は「はじめに言葉があった」とはじまっている。マルコ福音書では「わたしの言葉はけっして滅びない」とイエスの十字架に架かる前の遺言のような言葉を述べた。その御言葉、主の憐れみ・愛を土台にして生きる生活を、年の変わり目を迎えていく時期に新たにしよう。アーメン
安達均

Foundation of Our Lives
Mark 13:1-8

May the Holy Spirit come to the hearts of the people in this sanctuary and make us certain about our eternal lives walking with Jesus Christ!

How did you feel last week? It is actually getting close to the end of the Church Calendar year. I think there is an incident that made us reflect upon the beginning of the year.
In the Middle East, Russian is bombing locations in Syria. The US is raiding certain areas using unmanned aircraft. Early this year we saw news video of Mr. Kenji Goto and Mr. Haruna Yukawa as hostages; they were later killed.
In that video there was a man called Jihadi John who was demanding the Japanese Government pay a substantial ransom…last week, the US Department of Defense announced that Jihadi John was killed during one of the raids.
While getting close to the end of this year, the news made me reflect upon the beginning of the year. It is sad but I am acknowledging the reality that nation rise against nation, and kingdom against kingdom, as Jesus said.

This year we have been reading the Gospel of Mark. To be honest, especially after Chapter 8, there were difficult verses. Next week, it will be the last Sunday after Pentecost, and we will read the Gospel of John. Therefore, the reading of Mark is the last one in this Church Calendar year. And I believe that this Gospel is hopeful and joyful even if it sounds difficult.
I respectfully read the Chapter 13 verses 1 through 8. Jesus and his disciples came to Jerusalem, the temple, that I would say the headquarters of Judaism.
Disciples are impressed by the beauty and the large size of the temple. Stones are stacked up and the temple has a magnificent appearance. However, Jesus said, “Not one stone will be left here upon another.”

What did Jesus intend to say? As a historical fact, the temple was destroyed by Romans in AD 70. Was Jesus predicting only the temple’s literal destruction?
For me, I feel Jesus is teaching an everlasting and universal lesson to all human beings that endures beyond ages.
“Not one stone will be left here upon another” leads us to think, the foundation of the stones won’t be a foundation someday. What you currently see as a strong, earthly foundation will disappear as time passes. Then although this is not part of today’s gospel, at the end of Chapter 13, Jesus said, “Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away.”
We are hearing what Jesus said, 2000 years ago, but it’s also relevant now: What we are seeing around us will pass away. Even heaven and earth will pass away. However, the words of Jesus will not pass away. I believe this is the universal lesson to remember.
Our lives are being swayed by what we can see and by natural environment. If we are driving, we have to look around well to see if any cars are approaching us or if there are any people we might hit when approaching a crossing. Or if it is getting dark, we should turn on our headlights, if it starts raining, we need to drive more carefully…although I acknowledge that there are people in Southern California do not drive cautiously even if it is raining.
I believe that Jesus is not teaching we should not be swayed by what you see or by your environment. However, he is teaching us what you see, our environment, and even heaven and earth will disappear. Therefore, he is warning us that what you see isn’t our ultimate foundation of our lives, but there is an ultimate foundation: the words of Jesus Christ. His words will never disappear. Jesus himself, his love and compassion will always endure, even if nation rises against nation, kingdom against kingdom, even if absurdities happen in our lives, even if heaven and earth disappears. We are to live believing that the word of Jesus is the foundation of our lives.

This year, from Thanksgiving Day, the lectionary turns to the new year in the Church calendar. And the Sunday after the Thanksgiving is the first Advent. It is a wonderful season, and you may see family, friends and beauty of nature. I encourage you to do all three.
At the same time, I encourage you to rethink your faith. The Gospel of John starts with “In the beginning was the Word.” Jesus said, “My Words do not pass away.” His words are the eternal truth. God’s words and the love of Jesus are everlasting. Let’s prepare ourselves to renew the foundation of our lives as we move into the new season of Advent. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

2015年11月8日LCR日本語部週報通算第1376号

2015年11月15日主日の週報

November 15, 2015 Japanese Ministry English Bulletin

English Bulletin 1376E

聖書日課で今週木曜12日から15日の聖日まで与えられている16編を読もう。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編16 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。

詩編16編
1:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、5節にある「主はわたしに与えられた分」という箇所。これはいったいどういう意味だろう? 

詩編作者の気持ちを想像しながら、内容を吟味したい。最初に【ミクタム。ダビデの詩。】となっているが、このミクタムという言葉の意味はよくわかっていないので、ヘブライ語で使われる発音にもっとも近いカタカナで表現されている。ミクタムという言葉は、詩編16編のほかに、詩編56編から60編で使われいる。私は、これらの詩編が格言的なことを詠っているので、ミクタムには格言という意味があるのではないかと思っている。さて詩編の内容に入るが、全体としては、ユダヤの礼拝で詠われた讃美歌であり、1節から4節は神への祈願で、5節から11節は、ダビデの体験でありまた後の信仰者たちの体験、証を詠っているように思える。
神よ、あなたを砦とする私を守ってください(1節)。あなた以外には私の幸いはありません(2節)。 この地の聖なる人々、愛する人々に、「あなた以外の神を求めると悲しみが増してしまうので、彼らの祭りは行なわず、彼らの神の名は唱えなません」と言うようにします。(3-4節)。 
主は私の一部分になってくださっていて、喜びの杯をくださり、私のすべての礎になってくださっている方(5節)。麗しい境界が示され、私にすばらしい土地を与えてくださった(6節)。 私を励まし、夜には私を諭してくださる主を賛美します(7節)。常に主がともにいてくださるので、私は動揺しません(8節)。だから喜びがあり、魂は踊り、望みをいだきつつ体は憩うことができる(9節)。聖なる主は決して、私の魂を死者の世界に送ってしまうことはなく、墓穴を見させず(10節)、命の道を示してくださる。あなたの存在により喜び満ち、あなたの右の手から永遠の喜びをいただきます(11節)。

さて詩編16編は、今日、私たちに何を語ってくれているのだろうか? 三点ほど、気付かされたことを書いておきたい。 一点目は、上記に5節の「主はわたしに与えられた分」とは、どういう意味か?と書いたが、つきつめていくと、「主が私の一部になってくださっている。」ということを、気付かされた。二点目は、私の友人で、特にキリスト教信者だとは本人は宣言していないが、キリスト教の大学を出て聖書の話しなども聞いていたのだと思う。その方は、起業して活躍しているが、自分が歩む道、仕事がうまく行くときも、困難なときも、自分の横に、もう一人の自分がいる。そのもう一人の自分がいるおかげで、自分は前に進んでいくことができる、と言われる。私には、「もう一人の自分」とは、自分の一部になってくださっている、主なるお方で、詩編16編の後半の証と同じことを語っているように思える。三点目は、そのお方、いつの時代になっても、私たち人間一人一人に、付き添ってくださっている方に感謝し、主を称賛し、いっしょに歩む人生を生きる中で、喜劇的なこと、悲劇的なこと、世の不条理をも味わうことがあろうが、喜びの人生の道を歩むことができる。 アーメン 
安達均

2015年11月8日LCR日本語部週報通算第1375号

2015年11月8日主日の週報

November 8, 2015 Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1375E

マルコ12:38-44

主の恵みと憐れみが礼拝堂にあつまった兄弟姉妹の心の中に豊かに注がれますように!

私は、横浜の田舎、日吉で生まれ、お寺や神社に囲まれていた。家の近辺、1マイル四方に、神社とお寺が4つはあったと思う。 そのような、さまざまな宗教を身近に感じながら育った。 日本人が、祈願・奉献をするために、日本神道の神社に行って、最初にすることは、まず鈴を鳴らすという作法がある。 

私は最近まで、その意味をよく知らなかったが、先週訪問されていた大江教会の立野牧師や信徒の方の意見を伺ったり、またインタネットで日本神道の専門家の解説を聞いた。それは、罪深い自分を鈴の音によってきよめ、そして、祈願をするためそして貢物を奉納するために、自分が来たことを神にわかっていただく、という意味があるようだ。つまり日本神道の神をお呼びするような意味もあるようだ。

与えられた福音書の内容に入っていきたい。 イエスはユダヤ教の指導者たち、律法の専門家に関する教えを語られた。そのあと、福音書記者マルコは、賽銭箱の前で献金していく人々の様子を伝えている。 当時のユダヤ教のシナゴーグにおいてあった賽銭箱は、ラッパ型をした雄牛の角、13個から出きていたそうだ。

福音書に描かれた光景から、金持ちたちが、たくさん献金していたようだ。 私の想像ではあるが、おそらく、たくさんのお金を入れることによって、この13個のラッパが大きな音をたて、「私はたくさん献金しましたよ。」という神への報告とともに、また、周囲の人々へのみせびらかしもあったのではないかと思う。

そこへ、一人のやもめが、やってきて、当時の通貨では最小貨幣価値の銅貨を、二枚だけ、献金した。それは、金持ちたちの献金に比べ、どんなにかか弱い音で、いったいいくら入ったのか、あるいは、お金だったのかどうかもわからないような音でしかなかったのではないだろか。

しかし、イエスは、それを見逃さず、また聞き逃さなかった。イエスはやもめが入れた献金の音をしっかり聴いた。主イエスは、聞き逃さないどころか、やもめが、夫の死後、ほとんどの財産を、律法の指導者たちから、奪い取られ、ほぼ無一文になってしまったことがわかった。 そのことによる、やもめの痛みが、イエスにも、はらわたが、しくしく痛むほどにわかったのだと思う。

主イエスは、本当にかすかな、寡婦の嘆き、また憐れみを求める願いを、たとえ音にはならなくても、また、言葉には、ならなくても、聞いてくださっている。 そこには、主が、ともに痛みをおってくださっている主の憐れみがある。 英語ではCompassionというが、Comという言葉は、共に、また、Passionには、痛みという意味がある。 だから、共に痛みをおってくださるのが憐れみだ。 

2週間前は、パシフィカ教区とサウスウェストカリフォルニア教区の多くの牧師とともに、Theoasisというカンファレンス(研修会)に参加していた。 講師の一人は、一昨年前まで、アメリカ福音ルーテル教会の総主教を12年務められたマークハンセン氏の90分づつあるいは60分の講演を、三日間にわたって聴いた。 すべてすばらしいものだった。 

彼の講演のテーマの一つは、多文化、またますます増える様々な宗教に囲まれる中で、クリスチャンとしてどういう存在であるべきか、ということだった。講演中になんども牧師たちに質問をし、その質問について牧師たちで真剣に議論しあった。 その最後に、マークハンセン元総主教は、次のような質問をしたのが、印象的だった。 クリスチャンとして、絶対譲れない、キリスト信仰の核となる確信は何だろうか?ということだった。

冒頭に述べた、日本神道の教えには、私はすばらしいものがあると思っている。 また、今日は、話にはとりあげないが、私の母方の祖母が毎日「南無妙法蓮華経」とお経を読み信仰していた仏教にしても、すばらしい教えがあると思っている。 しかし、日本では、1637年代から1873年代までキリスト教が禁教となり、刑罰は死罪だった時代がある。 

しかし、私の父方の曽祖父が、周囲に伝道的なすばらしい宗教がありながらも、1880年、キリスト教が解禁となってまだ10年以内だったが、キリスト教信仰を持った。 曽祖父が書き残してくれたものを読むと、最初はプロテスタントの牧師の話を聴いたようだが、「してはならないこと」ばかりを話され、全然、キリスト教信者にはなろうと思わなかったそうだ。(ちなみに、ルーテル教会が日本に来たのは、私の祖父が洗礼を受けた後、15年くらいしてからである。) 曽祖父は後に、ロシアからの正教の教えを聞き、家族全員で洗礼を受けることになった。 

曽祖父がキリスト教信仰に導かれた背景には、神の憐れみがあったのだと思う。 神は、ご自分の造られたすべての民への憐れみをいだいている。 民が神に背いてしまうようなことがあっても、その民を憐れんで愛しているがゆえに、主イエスは無となり、自らの体と血を捧げ、十字架に架かられた。 そして、墓に葬られた。 そして、墓からよみがえって、その主の愛を永遠のものとしてくださった。 

神は、社会がもっとも小さき、価値の無い者とした寡婦にも、憐れみを示された。 神は、240年もの間、キリスト教など価値が無いとして禁教にして、何人ものキリスト信者を十字架に架け殺してしてしまった日本の民にも、その憐れみを示された。

私は、十字架上の死と復活を通して示されたイエスキリストの愛、どんな人であろうが主が憐れんでくださっていることが私の譲ることができない核となる信仰の確信であると申し上げたい。 私たち、一人一人、譲ることができない核となる信仰の確信について考えることをお勧めしたい。 アーメン 安達均

What is the Core Conviction of Your Faith?
Mark 12:38-44

May God’s Mercy and Grace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary!

I grew up surrounded by multiple religions in Yokohama, Japan. Within a mile square, I believe there were more than four Nippon Shinto Shrines and Buddhist Temples. When people go to a Nippon Shinto Shrine to pray and give an offering, the first thing that person does is ring a bell.
The bell is not like a hand bell used in the Christian Church, but more like a jingle bell. I did not know the meaning of ringing the bell until recently, but I researched a little bit via the internet. Pastor Tateno and one of Japanese congregants, Shingo, helped me to understand the meaning while they were here last week.
The meaning of the bell sound is cleansing a person’s sinful heart and body before giving the offering and prayer. It also calls the Nippon Shinto god to show up and listen to a person’s prayer and see what he or she has offered.

Now, I would like to jump into the good news that was read a short time ago. After Jesus taught about Jewish scribes, St. Mark describes how the crowd put their coins into the treasury box.
At that time the treasury box in the very front of the Jewish synagogue was made of 13 ox horns. I am showing a picture that I found on the Japanese Catholic Church web page.
Many rich people were putting many valuable coins into the treasury box that equaled a large sum. Although this is my imagination, the sound of many coins being dropped into 13 hollow ox horns must have been great, and rich people believed by depositing money into the treasury box that they could show off to the other people visiting the treasury. So that God acknowledged their offering well.

To that treasury, a poor widow came and only put in two small coins. Those copper coins were the least valuable at that time. Maybe the sound of those two coins was barely audible and people had difficulty realizing she made a deposit.
However, Jesus did not have difficulty hearing her offering. Jesus heard the sound that the widow’s coins made. Not only did he hear it, he understood that the widow was almost broke and unfairly treated by the scribes. Jesus knew that the two coins were her last two coins. Jesus vicariously felt her pain.
Jesus listens and sees even though the sound that she made was barely audible, and even though her prayer was not expressed by her voice, the Lord, Jesus carried her burden. He felt compassion for her; he and the widow suffered together.

Three weeks ago, many of Pacifica and Southwest California Synod pastors were attending a conference called Theoasis. One of our guest speakers was former Presiding Bishop Mark Hanson. We listened to his one or one and half hour lectures three times in three days. All of them were wonderful.
One theme of his lectures was “Being Christian in a Multi-faith World of Religious Pluralism”. Bishop Hanson asked many questions during the lectures and his style was very interactive and engaging. At the end of his second lecture, he asked an important and meaningful question in the midst of religious pluralism: What is the core conviction of your Christian faith that you cannot discard?

In the beginning of this message, I talked about Nippon Shinto shrines, and I believe there are many good aspects to them. Although I did not talk about Buddhism, but there are wonderful aspects of it, as well. My grandmother, on my mother’s side, was Buddhist and read Buddhist Scripture every morning and night until she died.
But in Japan, there was a time, between 1637 and 1873, Christianity was banned, and the penalty of being Christian was capital punishment.
Even though there were many good religions in Japan, in 1880, my great grandfather confessed his Christian faith within the 10 years after the Japanese were allowed to be Christians. According to what he wrote, he listened to Christian stories from a protestant pastor at first but he was not impressed at all because that pastor talked about restrictions. At that time, in Japan, there were no Lutheran missionaries yet. Just FYI, Lutherans came about 15 years after he was baptized. He listened to the Christ story from Russian Orthodox missionaries, then he and all his family members were baptized.

The reason behind his confession was God’s love. God loves all people he created with his grace and mercy. Even though all are sinners, he loved the people so dearly. He emptied himself and offered his body and blood to the Cross and even was buried in the tomb. Then God raised him from the tomb and showed his eternal grace and mercy.
God showed his mercy to the window whom Jewish society thought the least. God showed mercy to Japanese people even during the 240 year period that the government banned Christianity and crucified so many people because of their faith in Christ.
I would say that God’s compassion and love for human beings, as shown through the crucifixion and the resurrection is the core conviction of my Christian faith.
I recommend that each one of us think about the core conviction of our faith that we cannot discard. Amen. Pr. Hitoshi Adachi

今週後半は146編が与えらているが、最近読んだこともあり、あえて来週11月9日から11日まで与えられている詩編94編を読もう。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編94 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。来る聖日に与えられている福音書はマルコ12章38-44節で、生活費のすべてを賽銭箱に捧げる未亡人の話。その箇所を振り返りながら、詩編94 編を読むのも良い。 

詩編94編
1:主よ、報復の神として/報復の神として顕現し 2:全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。 3:主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。 4:彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。 5:主よ、彼らはあなたの民を砕き/あなたの嗣業を苦しめています。 6:やもめや寄留の民を殺し/みなしごを虐殺します。 7:そして、彼らは言います/「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。 8:民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。9:耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。 10:人間に知識を与え、国々を諭す方に/論じることができないとでもいうのか。 11:主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。 12:いかに幸いなことでしょう/主よ、あなたに諭され/あなたの律法を教えていただく人は。 13:その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。 14:主は御自分の民を決しておろそかになさらず/御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。 15:正しい裁きは再び確立し/心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。 16:災いをもたらす者に対して/わたしのために立ち向かい/悪を行う者に対して/わたしに代わって立つ人があるでしょうか。 17:主がわたしの助けとなってくださらなければ/わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。 18:「足がよろめく」とわたしが言ったとき/主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。 19:わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました。 20:破滅をもたらすのみの王座/掟を悪用して労苦を作り出すような者が/あなたの味方となりえましょうか。

気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、21節の「彼らは一団となって神に従う人の命をねらい/神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。」という言葉。 
詩編作者の気持ちを想像しながら、内容を吟味したいが、長いので、三つのブロックに分けて記述してみたい。まず1-7節では、「主よ顕現して誇る者を罰してください」と詠う(1-2節)。その背景には、申命記には24:17-20などには、はっきり、寡婦、孤児、寄留者を大切にするようにという掟がありながら、それを守らない世の指導者、「神は見ていない」という最悪の指導者がいたのだろう(3-7節)。 続いて8-15節では、「神は見ていない」という者たちへの応答を詠っているようだ。愚かな者たちよ、耳や目を創造した神が、見えないわけがあろうか、人間の企てはいかにむなしいかを、主はわかっている(8-11節)。主に教えられ、律法を守るものは幸せ、苦難がおそっても、神は決してそのような民を見捨てることはない(12-15節)。 最後の16-23節では、神が砦となってくださるということがポイントのようだ。災いをもたらそうとする者に対して、主が助けとなってくださる、足がよろめきそうなときに主の慈しみに支えられ、思い煩うときに、主の慰めが、魂をうるおす(16-19節)。主は決して、破滅をもたらそうとする者の味方にはならないが、彼らは一段となって神に従う人々を苦しめる20-21節)。 主はかならず私たちの砦、岩となってくださる、どうか彼らに悪に報いとなり、彼らを滅ぼしてください(22-23節)。

さて現代の私たちに何を語ってくれているのだろうか? 三つほどポイントがあると思う。 一つ目は、神が裁かれるということ、ローマ人への手紙12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」に通じるものがある。二つ目は、神に従うものは、苦しみを受けるということ。それはイエスキリストがまさにそうであるし、さらに、イエスに従うものも、実際、そうであることは否めない。上記にインパクトのある言葉として挙げた21節の言葉は、日本のキリスト教信仰者は、たいへんな迫害を受けたことにも通じていると思う。そして三つ目は、神が砦となってくださる信仰こそ最強のもの。特にイエスキリスト以降の時代は、キリストを主とする信仰こそ岩であり、キリスト信仰を土台にして生きることで、どんな困難にも絶えられ、それが楽しく喜びあふれる、永遠の命につながってくる。  アーメン 安達均