2014年8月3日LCR日本語部週報通算第1317号

2014年8月3日の週報

August 3, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin

Sunday English Bulletin 1317E

今週は詩編145編8 – 9節および14 – 21節を読む。実は、同じ詩編の8節から14節を7月3日にもとりあげたばかりで、多少、重なっているが、すばらしいところなので、またこの詩編箇所を開いていることに喜びを覚える。 全部で150編ある詩編のなかで、終盤の138編から145編までは特にダビデの賛歌と呼ばれ、146編以降、150編までは、それぞれ「ハレルヤ」ではじまり「ハレルヤ」で終わるパワフルな賛歌で、詩編は閉じられている。そのような詩編の構成の中で、ダビデの賛歌の最後を集中的に読むことになる。いつものように気になる言葉は何かを挙げてみよう。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。

詩編 145編 
8: 主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。
9:主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
14:主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。
15:ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。
16:すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。
17:主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。
18:主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
19:主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。
20:主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。
21:わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。

気になる言葉や節はなんだろう? 今日は21節の「わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。」を挙げたい。 

詩編作者の立場を思って、今週の詩編箇所を読んでいきたい。冒頭にも書いたように、ダビデの賛歌の一部が今日の詩編箇所。 詩編作者はダビデと思っても良いし、ダビデの生涯を良く知る人が、ダビデの生涯を思いつつ、この詩を作ったということも考えられる。 いずれにしろ、ダビデの生涯から、またこの世に命を賜った一人としても、生きている限り「主がすばらしい」と賛美し続けたくなる最たる理由を今日の詩編箇所で詠っているように思う。大きく分けて三つの理由をこの箇所で表現しているように思う。 一つめは、8-9節で、「主がいかにすばらしいか。」 主が恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ち、すべてのものに恵みを与え、憐れんでくださっていると詠う。 二つめは、14-16節で「主がいかに養い支えてくださっているか。」 主は倒れそうな者を支え、うずくまっている人を起こし、主に待ち望むと適切に食べ物を与えてくださり望みを満足させたくださる。三つめは、17-20節で、「主がいかに近くにいてくださるか。」 主の道がことごとく正しく、御業は慈しみを示し、主を呼ぶ人の近くにいて、主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞き救い、主を愛する人を守り、主に逆らう人は滅ぼされる。 そして、最後の21節は、だから、「私の口は主を賛美します。」と詠い、すべて命を与えられた肉なるものは、代々引き継がれて、聖なる御名を讃えます。という言葉で145編は閉じられる。

この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせてみたい。 来る聖日、8月3日に与えられている福音書箇所は、イエスが5つのパンと二匹の魚から「五千人に食べ物を与える」話。その話との関係から上記のさまざまな主を賛美する理由のなかで、二つ目に挙げた、主がいかに養い支えてくださっているか。の部分と関係があり、なかでも15節の、「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。」の一節が浮かび上がってくる。この15節にあらわされている光景は、何千人もの人々のまなざしが、主イエスに向かっていて、そして、イエスが食べ物をとりあげ主に感謝・賛美して、さらにそれを分かち会うために裂き、そして、それらを弟子たちも手伝って、何千人もの人々に分け与えた様子が、15節に表現されていたように感じる。 それは、また食べ物を望んだ時だけではなく、19節に表現されているように、「主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。」にもつながってきていて、主にかしこまって従うなかで、主によって奇跡的に人々が救われることが、この現代においても、教会の活動を通じて起こっていることを思う。 具体的には、説教の話になっていってしまうので、ここには書かないが、要は、主イエスキリストとのわかちあい、そして信仰者同志のわかちあいのなかで、わたしたちの人知にはおよばない、驚くべき御業が遂行されている。 だから、145編の21節にあるように、わたしたちの口は、主を賛美しつづける。この21節は146編から150編の讃美歌につながっているし、また現代の私たちの信仰生活にも直結している。アーメン  

マタイ 13:31-33, 44-51

主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の一人一人の心の中に豊かに与えられますように!

グーグル社と自動車会社各社は、ロボットカー(英語ではDriverless Car)の開発にしのぎを削っており、すでに試作車が走っている。日本政府も2020年にはロボットカー実用化、つまり認可を目指しているらしい。
このロボットカーが実用化されると、どういう社会になっていくのだろうか?たとえば、ブレイクを迎えに行くOCTAはすべて自動化された車。あるいは、ブレイク自身が特別車両を自分で操作して、車いすのまま乗り降りして、自分で礼拝に来ることも現実になるように思う。いそいろ想像は広がっていく。
人間の運転よりロボットの運転の方が安全かつ効率もよく、交通渋滞は緩和されたり、高速道路などの制限スピードはあげてもよくなり、移動に要する時間は早くなるのかもしれない。 しかし、トラックにしろ、バスにしろ、タクシーにしろ、運転を職業としていた人の職種は激減していくのかもしれない。
古い仕事が、やりかたがどんどん変わり新しい仕事に変わって行くということは歴史上起こってきた。19世紀には馬車や荷車の運転手はいただろうが、自動車の運転手はいなかった。今から数十年後には運転手はほとんどいなくなるかもしれないが80年前はいなかったソフトウェアの技術者は、膨大な人数に増えており、今後む増えるだろう。そのほんの一部が車の自動運転ソフト開発の仕事ということか。

さて、今日の聖書は、天の国のたとえ。天の国というと、人間が死んでからの世界と思われるかもしれないが、マタイの語る天の国とは、神の国とも同義であり、神が王となって支配する国をいろいろにたとえている。 今日のメッセージはいろいろと想像力を膨らませながら聞いていただければと思う。
最初は、神の国を、からし種と、パン種(イースト菌とかふくらし粉)にたとえている。もちろん、イエス様誕生の最高のニュースは、イスラエルという小国で起こったが、キリスト教は、世界中に知れ渡るということを示唆している面もある。 また、英語ではGood things come in small packages. という諺があるが、文字通り「高価なものはその包みが小さい。」あるいは少々異なる訳をするなら「小さいものはあなどれず、驚かされる」という意味にもなるかと思う。
しかし、私はからし種から成長した木には鳥が来て巣をつくるという話には、まるで価値が無いものとされてしまうような鳥ですら、ちゃんと神が守り巣を作る場所が与えられるという面が重要だと思う。また、ぱん種の話は神が創造して命をたまわったものに、十分な食べ物が供給されるというイメージを浮かぶ。 つまり神の国には、ホームレスには住む場所が与えられ、食べ物に困る人に、豊かに食べ物が与えられる社会。

次のたとえでは、畑を借りていた小作農民が畑仕事をする中で宝を見つけ、畑ごと買う話がある。生活に貧窮している小作農民が畑を買えるという考えは希望に満ちている。また、宝だけを買うのではなく、畑ごと買う。畑という土地の方が高そうに思うが、土地よりもっともっと、高い価値のものがそこにはある。そして、その小作農民は、小作ではなくなって、自作農民になるのか、その宝でまったく違うすばらしい仕事に従事するのかもしれない。
次のたとえでは、商人がものすごい高価な真珠を見つけるたとえ。その真珠は、商人がいままで稼いできた資産をすべて売り払ってでも買うようなものすごい高価なもの。無一文になっても、その高価な真珠だけで生きていく。神の国のたとえに出てくる真珠とは、物理的な何かの物体なのだろうか?この商人も、いままでと同じような商人ではなく、まったく違うすばらしい仕事をすることになるのかとも思う。

神の国は、漁師の網にたとえられる。網にかかる魚は、いろいろ、良い魚も悪い魚もかかる。 これは先週の良い麦と毒麦のたとえに似ているが、ポイントは、その網にはどんな魚も招かれている。 天の国は、良い人間も悪い人間、罪深い人間、神にそむいて生活していた人間も招かれている。
また、良い魚と悪い魚をよりわける天使の存在がある。 そのよりわけは人間の仕事ではない、神が遣わす天使の仕事。これらのことを学んだ弟子たちは、新しいものと古いものの両方が入った蔵から、新しいものも古いものもとりだす主人、つまり主なる神に似た存在になってくるらしい。
新しいものとふるいものというのは、イエスは何を語っているのだろうか? 旧約聖書と後の新約聖書を指しているともいえないだろうか。つまり、両方の御言葉を蔵にしまっておかずに読むように。
網と蔵のたとえの意味するところは、良いものも、悪いものも、ユダヤ教徒もユダヤ教徒ではない異邦人も、どんな罪や恥のある者だって、どんな人種や文化の人間だって神が王である国に招かれている。しかし、主の裁きもある。その裁きに対して、恐怖心をいだいて生活しなさいということではない。なぜならイエスが十字架に架かって罪を赦してくださるから。むしろ、網の中で、人類をこよなく愛している主なる神に気づかされ、神に似て創られた人間が、どう神の愛に応答して生きるかが問われているのではないだろうか?

六つのたとえから神が支配する国のいろいろな認識がわいてくる。私が話したこと以上に、ここにいる皆さんの心の中に、いままで思いつきもしなかったいろいろな神の国の考えが沸いてきたのではないかと思う。
それらの考えが、私利私欲に満ちたものではなく、すべてを捧げられ、十字架にかかって死にて葬られ、復活するというイエスの生き様につながっていること、また、イエスの教え、主を愛し、隣人を愛する、につながっていることがとても重要なことなのだと思う。
今日、新たな日曜があり、新しい1週間がはじまった。 それに伴い、私たちは神の国に近づく。イエスの教えに従って、主を愛し、隣人に仕える中で、社会は変わって行く。今日与えられた神の国のさまざまな認識に感謝し、また私たちがキリストの体の教会の一部であることに感謝したい。イエスが、慈しみ、希望、平安を私たちの心の中に注いでくださっている。そして、私たちはそれぞれ、イエスの望まれるように、喜んで行動できる。アーメン
牧師 安達均

“Is This What The Kingdom of Heaven  Like?”
Matt. 13:31-33, 44-51

May Grace and Peace of the Lord, Jesus Christ, be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary!

Google and many auto companies are working very hard to develop driverless cars. I heard that some test cars are already running in some cities in the United States. In Japan, according to a governmental study, it is forecasted that by 2020 driverless cars will be commonplace.
What will the society be like when driverless cars are an everyday means of travel? For example, Blake may not need to call OCTA and he might get his own specially-designed disabled car. He would get into it by himself while seated in his wheelchair and come to church or go grocery shopping without anyone’s help. The possibilities seem endless…
The driving capability of driverless cars might be more accurate and efficient, therefore traffic jams may be reduced and speed limits may increase on designated freeways if most cars are driverless. However, bus, truck, and cab drivers may be unemployed. There might not be the need for certain professional drivers in the future.
Some professions may be phased out and new professions will appear, this has happened throughout history. For example in 19th century, there were no professional car drivers but there were expert horse and wagon drivers. Eighty years ago there were no computer software engineers but now there are millions of software engineers in the world.

Today’s gospel is about the imaginings/notions of the Kingdom of Heaven. You might think the Kingdom of Heaven is the place where you go after you die. However, Matthew wrote about parables where Jesus discusses the Kingdom as a place where the Lord, God, becomes the King. In these parables Jesus’ Father is the King. Since there are many parables, I hope and pray that each one of you expands your imagination with the help of the Holy Spirit while listening to this message.
The first two parables are the mustard seed and yeast. Of course, you can imagine the fact that a small baby being born, 2000 years ago, and growing up to found the Christian Church is indeed remarkable. As the popular idiom says, “Good things come in small packages.”
The first parable about the mustard seed becoming a big tree that birds could perch on and build nests among the branches is an important one. In this story, I think there is an important aspect about the Kingdom of Heaven, even common birds and not just exotic birds may find shelter in trees. The other parable that a small portion of yeast incorporated into flour becomes an airy loaf of bread, points out that Jesus’ ministry started small but grew to be in all parts of the world. In other words, these first two parables say that everyone is welcome and there is abundance in the Kingdom of Heaven.

The next parable in the Gospel is about someone who works in the field, perhaps a farmer (who does not own the land that he farms), finds a very valuable treasure and purchases that land. It is a hopeful story that person could purchase the land. It also shows that the Kingdom of Heaven is of priceless value.
The next parable is about the merchant who seeks a pearl of great value. Upon finding it, he sells everything he earned and purchases that pearl. I am not sure if he is going to sell that pearl and continue to still be a merchant. I do not think so. What does the pearl look like? Is it really physical material? Again this is a parable, and the pearl is not really a physical pearl but it describes the Kingdom of Heaven. I believe this merchant decides to do something more fulfilling than being a merchant. Both the third and fourth parables, describe Heaven as a wondrous place beyond compare. Jesus was a carpenter, who became a proclaimer of the Good News that the Kingdom of Heaven is near. God wants to share the promise of Heaven with everyone.

Then, Jesus talks about the fishermen’s net. In that net, there are many kinds of fish, good fish and bad fish as well. This is something similar to the parable last week about good wheat and bad weeds. The point is all kinds of fish are welcomed in the net, the Kingdom of Heaven. All people, good people, bad people, saints, and sinners, are welcomed into the Kingdom of Heaven.
Then, there is an angel, a non-human representative of God, who separates the evil from the righteous. However when disciples are learning these parables, Jesus talks about his disciples like they are masters of a household. Like a master who must maintain a balance of older and new food, so no food is wasted and his family is well fed, Jesus’ disciples must teach scripture but also continue learning more from God and scripture.
What did Jesus mean when he talked about old and new goods in terms of teaching? In a sense there are people who only read the Old Testament. There were Jews who knew the Old Testament very well but also Gentiles who did not know the Old Testaments well but still knew and listened to what Jesus said. Disciples must balance Old and New Testament teachings for a well-rounded spiritual education.
From the net and the treasure parables, there are both good and bad people, both Jewish and Gentiles, whatever we did in the past, whatever our nationality or cultural background, we are all invited to the Kingdom of God, where we face judgment by the Lord. However I do not think that Jesus warns all the people to fear judgment, because of the fact that he himself offered his life to save the world. Rather, we are put into the fishermen’s net or in that treasure house, it is up to us how we respond to God’s inseparable love. We can choose to whole-heartedly accept it or deny it.

From the six parables today, we may have lots of notions about Heaven. I believe each one of you might have lots of different notions from the parables; some of these notions may be new to you.
I think they are OK as long as they are not blinded by self-interest about what we think we deserve in Heaven and as long as they are connected to the life and teaching of Jesus Christ. God’s Word is as important now as it was 2000 years ago.
Today, a new day was given, to us, and we are starting a new week that God made. We are getting nearer to the Kingdom of God and accordingly, what we do and how we serve are changing in good ways according to the Lord’s intentions. Let us give thanks to the Lord, our God, for giving us wondrous perceptions of the Kingdom of God in our daily lives. We’re also grateful for being part of the Christian Church, which is the Body of Christ, which lets us walk with the Lord every day; Jesus fuels us by pouring Grace, Hope, and Peace into our hearts so we can do his work. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

8月は夏休みで旅行に行かれる方も多いのですが、教会も子供達の夏季キャンプや、LCR50周年記念行事等、盛りだくさんです。そして9月の第五回ジャパンフェスティバルに向けて、フルスピードで準備が進んでいます。お楽しみに!!

2014年8月カレンダー・聖書日課

2014年7月27日LCR日本語部週報通算第1316号

2014年7月27日の週報

July 27, LCR Japanese Ministry Bulletin

Sunday English Bulletin 1316E

 

今週は詩編119編129-136節を読む。119編は176節もある最も長い詩編。22の段落からなるが、それぞれの段落がヘブライ語のアルファベット22文字の順番になっている。2月に三週間にわたってその三つの三段落を読んだが、今回はまた違う段落を読む。 いつものように気になる言葉は何か?詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
 
詩編 119編
129:あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。
130:御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。
131:わたしは口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。
132:御顔をわたしに向け、憐れんでください/御名を愛する者への裁きに従って。
133:仰せのとおり/わたしの足どりを確かなものにしてください。どのような悪もわたしを支配しませんように。
134:虐げる者からわたしを解き放ってください。わたしはあなたの命令を守ります。
135:御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください。
136:わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は130節の「御言葉が開かれると光が射し出で」。 

詩編作者の立場を思って、今週の詩編箇所を読んでいきたいが、今回で4回目となる詩編119編全体について述べておきたい。119編は、構成としては、「ヘブル語版いろはがるた」とも言うべきか、ヘブル語のアルファベット(総数22文字)の各文字ではじまる詩が集まって22段落により構成されている。その内容は、この世の人生でさまざまな困難に会う中で、人生の指針というか、歩むべき道について詠っている。また、詩編作者自身は、生まれ故郷とは違う土地に生きている状況の中でどう生きるかというようなことについて書いているような面がある。つまり、あくまで、この世の人生は、仮宿に生きているに過ぎない、だから旅路にたとえているような面がある。 

以上を踏まえた上で、詩編作者の気持ちを想像しながら読んでいきたい。 あなたの定め(詩編の書かれた時代背景から、旧約の最初のモーセ五書に書かれた様々な規定の事を言っていると思う)にはドキッとするような驚きがあり、私の魂は、その定めがあるため、道を逸脱せずに歩むことができる(129節)。 モーセ五書を開くなら人生に迷う者にまるで光が差し込んで来るようで、知識がなかったような者にも、(あなたの思いを)理解するようになる(130節)。 今の私はのどが渇ききってしまい水を求めるように、あなたの戒めを慕い欲しています(131節)。 あなたの御顔を私の方に向けて、憐れんでください。あなたの御名を愛する者たちに、あなたが普段からしているように(132節)。あなたの約束に従って、私の歩みを確かなものにしてください。どんな悪事も私を支配してしまうことが無いように(133節)。私を虐げる者から、救い出してください。私はあなたの命令を守ります(134節)。あなたの御顔をあなたの僕である私に輝かせ、あなたの掟を教えてください(135節)。私の目からは涙が流れ落ちています、なぜなら、この世では、あなたの律法が守られていないからです(136節)。 

この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせてみたい。この詩編作者が言うように、この世の人生は一時的な旅路。日本に住んでいようがアメリカに住んでいようが、いずれは天に還(かえ)る。その旅の途中では、いろいろ指針や決まりごとがあるのだと思う。今週の詩編箇所には、定め、戒め、命令、掟、律法、等々の言葉が出てきたいたが、モーセ五書には600以上ものイスラエルの民が守るべき定めが記された。それはモーセに与えられた神の掟。 モーセが現れてから1000年以上経って、イエスキリストが「神の国は近づいた。」と話されて、この世に現れ、すべての掟は、「神を愛することと、隣人を愛する。」という二つの掟が最も重要であり、すべての律法が、この二つの掟に基づいていることを教えてくださった。21世紀を生きる私たちにとっても、「こうしなければ、あるいはこんなことはしてはいけない。」といろいろなことがあるが、しかし、すべては、「主なる神を愛し、隣人を愛する。」というこの二つに基づいているといえる。「えっ、二つだけの簡単なことなの。」と思われるかもしれないが、そう、実行するのが簡単かどうかは別問題として、たった二つだけの簡単な掟なのだと思う。 そして、イエスは主なる神がいかに、私たち人類を愛してくださっているか、十字架の死と復活を通して顕された。 旧約聖書、新約聖書にある神の御言葉は、私たちを本当に驚かせ、この世でいろいろ悩んでしまう人類に、大きな光を差し込んでくださっている。普段から聖書を開き、日曜には、礼拝で御言葉に触れ、会衆とともに主を賛美、応答するという人生の旅路に、本当に驚きがあり喜びがある。 アーメン 
安達均   

マタイ 13: 24-30, 36-43

主イエスの恵みと平安が会衆の上に豊かに注がれますように!

バイキングという言葉を聞いて何を思い浮かべるだろうか? 70年代に日本で中学高校時代を過ごした私としては、まず、バイキング料理、食べ放題を思い出す。 私は男三人兄弟だったので、バイキング料理は本当に楽しみだった。
もともとバイキングは8世紀から11世紀位に南部ヨーロッパ地方、イギリスやロシアにも進入、略奪を繰り返した盗賊で北方ゲルマン民族の総称。スカンジナビア半島を本拠地としていたようで、現在のノルウェー、スウェーデン、フィンランドあたりに住んでいた民族。盗賊だったので、食事も豪快だったのではないかと思う。 そんなことから、バイキング料理が食べ放題の食事という意味にもなったのかと思う。 
そのヨーロッパでは海賊・盗賊行為をしていたバイキング族は、南方のキリスト教徒からは敵対視されたが、海賊は伝道者に変っていったようだ。 そして、ヨーロッパ北方への布教にたいへん貢献をしていったという伝説がある。しかし、本当にバイキング族は、海賊とか盗賊と呼ばれなければならないほどの悪者だったのだろうか? 

与えられた聖書、良い麦と毒麦の話、どんな風に読まれた(聞かれた)だろうか? この世の悪はいつかは裁かれるというメッセージと思った方もいるのではないだろうか。道徳的・教育的観点からそのような解釈も良いのだと思うが、それは救い主イエスの話のポイントだったのだろうか?
たとえ話の中で、良い麦と悪い麦の芽もまじった状態で生息しており、僕たちが、毒麦の方は抜いてしまいましょうか? と主人に尋ねるが、良い麦まで抜いてしまうかもしれないからどちらも育つままにしておくようにと言われる。
裏を返せば、本当は、どれが良い麦で、どれが悪い麦だか今はわからないということが言えるのではないだろうか? あるいは、人間がこれは毒麦だと思っても、それは、神の目から見て、毒麦ではなく、良い麦になっていくことだったありうるということではないだろうか? 

本日の第二日課は、先週に引き続きローマの信徒への手紙8章。先週も話したように、使徒パウロが残したすばらしい箇所。しかし、使徒パウロという人は、もともとはキリスト教徒を迫害していた人間。また、8章の前の7章にはどんなことが書いてあるかご存知だろうか?
パウロはキリスト教に回心してからも、ローマ人への手紙の7章には、こんな言葉を残している 「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」
パウロは回心し、キリスト教徒となり、世界最大のキリスト教伝道者となったともいえる。しかし、彼が晩年に書いたローマの信徒への手紙の中で、7章に残した言葉は、彼自身の中に存在している罪を認めていて、いわば毒麦の要素が残っている、自身の欠陥を著しているのだと思う。

さらにイエスのたとえ話とパウロの言葉を参考にする時、今日、私たちは何を学んでいるのだろうか?この世の中、良い麦と毒麦両方とも存在しているのが事実なのだと思う。また、一人一人を見ても、同じ一人の人間なのに、良い面と悪い面を両方があるとも言えるのだと思う。つまり、わたしたちのだれが良い人で、だれが悪い人とも断定できない。 
21世紀を生きる人間として、現代の毒麦とはなんだろうか? 先週は、マレーシア航空機が撃墜され、約300名の民間人が死亡する悲しい事件が起こっている。それこそ、一概にすべてが毒麦とは言えないのかもしれないが、さまざまな国々、グループ、テロリストが武装化に動いている。憲法解釈の問題も関連があるが、日本だってその例外ではないのだと思う。また物質主義とか、人種差別にしても、悪い麦がはびこっている社会が現実にあるのだと思う。その社会の中にキリスト教会もおかれている。 
そして、教会に集まる人々の中にも、軍につとめている、あるいは軍に納めるものを開発・販売している方々がいるのも現実。あるいは、コンシューマリズムにのっとって、教会も同じように考えてしまい、さまざまな教派や無教派教会が南カリフォルニアに存在しているのが現実で、さまざまな選択がある。したがっていろいろな教会を比べ、駐車場がどんなか、礼拝堂が新しいかとか、集まっている人々、聖餐式の形や、牧師の説教のスタイルや内容によって、さまざまな要因を考え、そして、どの教会に行くかを決断する。 
それが必ずしも私利私欲に満ちた考えだというわけではなく、私たちは良きにつけ悪きにつけ、決断をせまられる。人々はさまざまな事柄、宗教も含めて、異なった意見、それが、議論になってしまうことを含めて様々な異論が出てしまう。そして同じ一人の人間の中にも、かたや完璧な性格をお持ちの方かと思うと、その同じ個人がとんでもない間違い、恥をさらけ出すこともあるという矛盾が存在するのが現実に起こる。マルチンルターは、わたしたちは、キリストによって聖なる者とされているが、同時に、また罪人なのだだということも言っている。

社会においても個人においても、良い麦、毒麦が共存しているのが現実。そのような現実の中に、私たちの慈しみ深い神がこの世の人々を愛し、一人一人を気にかけている。救い主イエスは、私たちの間に、そして、私たちの中に存在してくださる。その主を見ることができなくても、その存在を感じることができる。最初に話したバイキングの人々の話に戻りたいが、彼等は海賊・盗賊だったと述べたが、そのように言われなければならないほどの悪人だったのだろうか? 最近の説は、海賊とか盗賊というより、商売にも航海術にも長けた商人だったという歴史家もいる。私は彼等の中に良い面と悪や罪も同時に存在していたのだと思う。
バイキング族は、南方のキリスト教徒たちと交流するうちに、自分たちの罪があらわになり、そのような自分たちをも、この上なく愛してくださっている、絶対的な神の存在、主なるイエスの存在がわかり、キリスト教徒となり、最高の知らせを人々に伝えるようになっていったのだと思う。 
キリスト教徒になるということは、自らの行為や言動の中の恥とか罪を認めることがまず第一にあるのだと思う。しかし、そのような面があるにもかかわらず、イエスキリストを通して、神が赦し、この上なく大切に思ってくださっている神の愛に気づく、そして、救い主に応答し、神を賛美し、良き知らせを分ち合い、世に仕えてゆくのがキリスト者だ。
主なる神が引き続き、この世の中に、聖なる霊と無条件の愛を送ってくださり、そして、人々が、自ら、神と社会に応答し、すばらしい神の愛の種まきをし、奉仕する生活を歩めますように。 安達均 

“Can Weeds Become Wheat?” 
Matt. 13: 24-30, 36-43

May Grace and Peace be upon you in the name of our Lord Jesus Christ!

When you hear the word “Viking”, what do you think of and what images come to mind? During my middle school and high school years in Japan, in the 70s, I remember some restaurants that offered “All-You-Can-Eat” buffets. In Japan these restaurants are called “Viking Style.” Since I was the youngest of three brothers, I was so happy when my family ate at Viking style restaurants. I thought it was an exciting experience.
History teaches us that the Vikings were fearsome raiders who lived in northern Europe/Scandinavia and often came to Southern Europe, England, and Russia, too. They seemed to enter regions and plunder again and again between 8th – 11th centuries. Since they were raiders, they ate a variety of hearty foods that were easily taken on longships. Therefore, people started calling hearty all-you-can-eat buffets “Viking Style.”
The true Vikings repeatedly raided and plundered northern and southern Europeans and, at first, treated Christians as enemies; interestingly though over time they converted to Christianity. Then, they became devout followers of Jesus Christ and contributed to the Christian missions to Northern Europe, their motherland. Do Vikings still deserve their terrible reputation? Should we view them differently?

In the Gospel Text today, what did you hear from the Jesus’ words when you read the parable? Some of you might say that “Evil ones will be judged evil in the end and will go to hell. Therefore, you should be good.” From an ethical perspective, this may be a good interpretation. However, is that the point Jesus was really trying to make?
In the parable, the servants offered that they would take out the bad weeds. However, the master of the household, the Lord, ordered them to leave them as they were, since you might remove the good wheat with the bad weeds.
When we look at this parable from another angle, we cannot say which plants are weeds and which plants are wheat. Even though human beings may think certain plants are weds, in God’s eyes, they might be wheat. Humanity is not a good judge of character. Put another way, as Jesus might say, even bad weeds may become good wheat.

Today’s first reading was from Romans chapter eight. We are reading this chapter consecutively for three weeks (i.e. last week, this week, and the next week). As I said last week, this is a wonderful chapter and many people were encouraged by St. Paul’s words. Do you know what was written before this chapter? Do you know what kind of person St. Paul was before he became a Christian? He persecuted Christians.
Even after he converted, he wrote these sentences in Chapter 7. In verses 18 and 19, “For I know that nothing good dwells within me, that is, in my flesh. I can will what is right, but I cannot do it. For I do not do the good I want, but the evil I do not want is what I do.
Even though he became the world’s most famous missionary and he wrote many letters that became parts of New Testament, St. Paul wrote that his sin still existed in his inner heart and that he could not do good and did only bad things. He was troubled by his flawed humanity.
Furthermore, if we consider today’s parable together with St. Paul’s words in Romans, what are we learning? In society, there are both wheat and weeds. When we also look at each individual, there are both weed and wheat aspects in each person.

In this 21st century, what are the weeds now? Just a few days ago, we heard shocking news about another Malaysian Airline jet being shot down over Ukraine. I would say militarization in many countries and many kinds of different political groups/sects, materialism, and racial discrimination are some weeds. The Christian Church is placed among these complicated weeds.
If we look at the people worshipping in Christian churches across the world, the reality that many people are in the military. When we look at worship from a consumer’s point of view there are numerous different denominational and nondenominational churches from which to choose. Therefore, when people visit a church for the first time, they check (among other things) parking availability and the church’s overall appearance/condition, as well as communion style. People also consider the pastor’s preaching style and their sermons’ content. After thinking about all these factors, people make decisions whether or not to attend a particular church.
I am not saying that these considerations are necessarily selfish. We make decisions every day, whether they are good or bad ones. It is a reality that human beings have different opinions on many things. In each individual, there is shame/sin in that person’s heart. Martin Luther was very clear about this aspect, of humanity, saying that Christians are both saints and sinners at the same time.

In society there are both weeds and wheat, and in each individual there is both a sinner and a saint. In spite of this reality, our gracious and forgiving God loves the people in this world and cares about each one of us. Our Savior and Lord, Jesus Christ is among us and within us. Even each one of us cannot see Him, but His presence is felt. At the beginning of this message, I told a story about Vikings. Although, I mentioned that, they were raiders that did bad things. The question is “Were they really bad guys?” In recent times, some historians say, they were not primarily raiders but they were instead skilled merchants. I believe that there were both sinner and saint aspects to them, as with all of humanity.
While they were dealing with Christians in northern and southern Europe, they realized their own sinful aspects and even though they were sinful, God loved them. I believe after this realization, they became devout Christians proclaiming the Good News to European people they once plundered.
We gather here this morning as Christians. To become a Christian, I believe it means that each one of us must recognize our own sinfulness. In spite of this terrible aspect of human nature, God still loves each one of us through Jesus Christ, our Savior and Lord. Realizing His love, for us, we are to respond to Him and to proclaim the good news to the world.
May the Lord continue showering His spirit and His unconditional love unto this world, so that people proclaim the good news and truly serve God; always remembering that only He can judge the weeds from the wheat. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

今回も引き続き「奇跡と譬え話」シリーズを勉強しています。

カール先生の熱の入った丁寧な説明に
私達も大いに盛り上がり楽しい学びの会で次回が待ち遠しい思いです。

Luke 15 : 11 -32 ルカによる福音書15章11節〜32節untitledhoutoumusuko

今日学ぶ箇所はあまりにも有名な箇所で、それぞれが何度か学んだ箇所ではないかと思う。ルカの15章には、「放蕩息子」の譬えの前に「見失った羊」の譬えと「無くした銀貨」の譬えが書かれている。見失った羊を羊飼いは見つかるまで探す、同じように、なくした銀貨を女は見つかるまで探す、どちらも共通しているテーマは「一生懸命に見つかるまで探し続ける」所にある。
さて、この放蕩息子の父親はどうだろうか? 様々な角度からこの譬え話に書かれている神の真意を学んで行こう。先ず、英語の”Prodigal”とはどういう意味だろう? 日本語では「放蕩息子」と訳されているが、実際は “waste”「浪費、無駄にする」という意味がある。何を無駄にするのか、それも考えながら学びを進めて行きたい。
この父親には二人の息子がいた。ある日、次男が父親に財産を分けてくれるようにと言う。父親がまだ健在だというのに、このような大それた事を要求してくるなど、本来なら考えられないことである。近所となりの人達はそれを聞いてびっくりしただろうし、きっとこの次男坊は父親から追い出されるに違いないとまで思ったかもしれない。ところが、この父親はこの息子を怒るどころか、言われるままに、財産を二人に財産を分けてやった。ここで注意したいのは、二人に分けてやったのだから、長男も彼の分をちゃんと貰ったわけである.そして、次男は家を出る決心をする。自分の分け前を全部金に換えて他の土地に行ってしまう。(カール先生はラスベガスと言っていたが、正に適切! )彼が家を出る事で、父親はさぞかし悲しんだであろう。長男は弟が勝手に家を出て行けば、自分が二人分働かなくてはならないし、父親の面倒も自分が見なくてはならない、さぞかし頭に来たにちがいない。近所の人達と言えば、この土地を捨てて他の土地に移り住むという次男からまるで侮辱されたかのように思っただろう。
ここで明らかな事は、次男が取った行動は、彼と父親、兄、そして近所の人達との関係を無駄にしてしまったのだ。He wasted the relationship with his father, brother and neighbors. 家を出た後、次男坊は放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。彼が友達だと思っていた人達も、ひとたび彼が無一文になると、誰も彼を助けてくれなかった。誰からも見放されて、食べる物にも困り始めた次男坊が最後にありついた仕事は、豚に餌をやる仕事だった。ユダヤ人は豚を食べないから、豚に餌をやる仕事とは、最低も最低で、彼は自分の生まれ育った信仰にも背くことになってしまった。しかも、豚の餌であるいなご豆を食べてでも腹をみたしたかった、と書いてある程誰も彼に食べ物をくれなかった。そこで、彼は我に返った(came to his senses)、と書いてある。この「我に返った」というのはどういう事だろうか? 自分が悪かったと心から反省したのだろうか。多分そうではないだろう。彼はきっと、「そうだ、父の所に帰ろう。父の所では、あんなに大勢の雇い人に有り余る程のパンがある。帰って父にこう言おう『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい』、と」そう言えば自分はまた父の所で、自由に暮らす事ができるだろうと思ったに違いない。だから彼は何度もその台詞を頭の中で練習しながら父親の元へ向ったのだろう。ここで注意したいのが彼の練習している台詞の最後の箇所である。「雇い人の一人にして下さい」というのはどういう事か? 当時使用人には3つのランクがあり、奴隷同様に主人に使える使用人、家族の世話をして一緒に住んでいる使用人、そして最後が雇われて給料をもらい、自分の家に住める使用人。そして最後が雇われて給料をもらい、自分の家に住める使用人。次男坊は、こんな目にあってもまだ悪賢く、どうすれば自分の自由に思うような生活ができるかだけを考えている事が理解できる。そうやって帰って来た次男坊は、父親はまだ遠くに離れているのに息子だとわかり、憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻した、とある。ユダヤの習慣からすると考えられない事だ。息子が父親の所に走り寄るのが当然であって、父親から息子の所に走り寄る等考えられない。遠くから直に息子だと解ったというのだから、きっとこの父親は窓辺にでも座って、毎日のように息子の帰りを待っていたのだろう。普通の父親なら勘当したであろう放蕩息子の次男の帰りを待っていたのだ。
そして次男は何度も繰り返し暗記してきたであろう台詞を言いだす、「お父さん、私は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」ところが、そこまで言った時に父親は彼の台詞を最後まで聞かずに、雇い人達に命じて、一番良い服を持ってこさせ、指輪をはめさせ、足に履物をはかせ、しかも肥えた子牛を屠ってお祝いをしようと言ったのだ。この父親は、帰って来た息子はどんな息子であれ、雇い人になる必要はなく、愛する子として受け入れたのである。近所の人達にとっては何とも理解しがたい父親の態度だったであろう。自分勝手で悪賢い息子の思い通りになっているような、どうしようもない父親だと思ったかもしれない。そして長男が仕事を終えて帰って来ると、どんちゃん騒ぎが聞こえる。一体これは何事か、と僕の一人に聞いて事情を知った途端に、この長男は怒り狂った。家に入ろうともしない長男の所に父親が出て来てなだめる。これも考えられない話で、父親がへそを曲げた子供の所に来るなんて考えられない事である。しかし、父親にはこの長男の気持ちがきっと良く解っていたのに違いない。長男の口から「こんなに私が一生懸命に働いてお父さんに仕えているのに、あなたは宴会などしてくれた事はない、ところがあなたの息子が (自分の弟とは言わない )娼婦らと一緒に身上を食いつぶして帰って来たら、子牛を屠って宴会を開くなんて!」と文句が出るのに対して、父親は相変わらず穏やかに、「お前はいつも私と一緒にいて、私の物は全部お前の物だし、死んだと思っていた弟が見つかったのだから、楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言った。そこでこの譬えは終わっている。だからこの長男が父親の言う事を理解して家に入って行ったか、それとも自分の言い分を通して、頑固に家には入らず、弟にも会わずに自分の場所に戻っていったか、どうだろう?  この譬え話からそれぞれが考える事は当然違うだろう。多分同じだと思うのは、次男坊がとんでもない悪賢い人間だという事だろう。反面、兄は真面目で一生懸命に働き、父親に仕えているけれど、よく考えて見ると、何で自分ばかり苦労しなくてはならないのか、といつも苦々しく思っていたかも知れない。そして、弟に対して恨みつらみがあったに違いない。一生懸命に働いている自分が正しいに決まっていると思っていただろう。だから弟を迎え入れた父親に対して不満もあっただろうし、不公平だと思ったであろう。

考えてみると、殆どの私たちにとって、この長男の気持ちは解り過ぎる位解るのかもしれない。それは、きっと私たちが「自分はいつも頑張って正しい事をしている、ちゃんとやっている」と思っているからではないだろうか。私はこの学びを通して、この長男が被害妄想から抜け出さない限り、きっと彼は一生幸せではないだろうと思った。そして次男の方は、悪賢い自己中心から、本当の意味で「我に返る」ことが出来なければ、救いは無いと思う。このどうしようもない次男坊や、自分を正当化する長男を、父親はこよなく愛しているのだ。自分から息子達に手を差し伸べているのだ。どうしようもない私たちに、神様はこの父親のように来て下さる。手を差し伸べて下さる。私たちはそれにどう答えて行けるだろう。本当に我に返って、「自分が悪かった」と素直に父親に言う次男になれるだろうか。「そうですね、一緒に喜びましょう」と素直に父親と家に入って弟の帰りを喜べる長男になれるだろうか? こんなにも神様の愛が深い事を、私たちは解っているのだろうか。
芙美Liang記

本日礼拝後、草野可奈子さんと福山健一郎さんのWedding Shower が行われました。参加者一同心を合わせてお二人のお幸せをお祈りしました。お二人は来週日本でご家族に囲まれて結婚式を挙げられます。

2014年7月20日LCR日本語部週報通算第1315号

2014年7月20日の週報

July 20, 2014 LCR Japanese Ministry Bullten

Sunday English Bulletin 1315E-1

今週は詩編86編を読む。先週の65編と同じパターンで1-17節すべてを以下に書き写すが、後半11節以降に集中する。いつものように気になる言葉は何か?詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
 
詩編86編
1:【祈り。ダビデの詩。】主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。
2:わたしの魂をお守りください/わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください/あなたはわたしの神/わたしはあなたに依り頼む者。
3:主よ、憐れんでください/絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。
4:あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは/主よ、あなたなのです。
5:主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に/豊かな慈しみをお与えになります。
6:主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。
7:苦難の襲うときわたしが呼び求めれば/あなたは必ず答えてくださるでしょう。 8:主よ、あなたのような神は神々のうちになく/あなたの御業に並ぶものはありません。
9:主よ、あなたがお造りになった国々はすべて/御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。
10:あなたは偉大な神/驚くべき御業を成し遂げられる方/ただあなたひとり、神。
11:主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。
12:主よ、わたしの神よ/心を尽くしてあなたに感謝をささげ/とこしえに御名を尊びます。
13:あなたの慈しみはわたしを超えて大きく/深い陰府から/わたしの魂を救い出してくださいます。
14:神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。
15:主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる。
16:わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え/あなたのはしための子をお救いください。
17:良いしるしをわたしに現してください。それを見て/わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう。主よ、あなたは必ずわたしを助け/力づけてくださいます。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は11節の「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。」 

詩編作者の立場を思って、特に11節以降を読む。10節までには、詩編作者が大きな問題の中にあり自分ではどうしようもない状態で神に懇願する様子が詠われている。そして11節は「あなたの道を教えてください。」と懇願し、「私はあなたの真理の中を歩みます。」と詠う。そこには、10節までは神が自分を憐れんで救ってくださるようにという受身の祈りだったものが、11節前半でがらりとその音調が変わったような、能動的な祈りに変化している。11節後半は、信仰生活の鍵、あるいは知恵の源とも言える「主の御名を畏れ敬う」ことができるように、ただ主にのみ集中するような心にしてくださいと詠う。そして12-15節では、さらに音調が変わったような、懇願する状態から、あたかも願いが適えられている状態を客観的に示すように詠う。私は主に感謝し、尊ぶ。(12節) あなたの慈しみは大きく、どん底から私の魂を救い出す。(13節)  傲慢で暴虐な者たちが私の命を狙っているが、彼等は、あなたを第一に畏れていない。(14節) そのような者たちをも含めて、主は情け深く、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみと真理に満ちている。(15節)  そして16-17節では、憐れんでください、御力を与え僕をお救い下さい、良いしるしを私に現してください、という願いの言葉が続いた後、その願いが適えられるのを見て、私の敵が恥に落ち、主が私を助け力づけられるという確信を詠って、この詩編は終わる。

この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っているのだろうか? 現代においても、この詩編作者が経験したような、自分ではどうにもできない状況に陥る。家庭内でも仕事のトラブルでも個人的に身動きがとれないような経験もするし、原子力の問題にしても、東南アジアの国際的な政治情勢にしても一個人ではどうしようもない。そのような状況にあって、この詩編の11節の言葉と主イエスが語っていたことを思い出す。「あなたの道を教えてください。私はあなたの真の道を歩みます。」との祈りに対し、主イエス御自身が現代においても「私は道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と語ってくださっている。主イエスにある信仰の歩みを続けることに救いがある。アーメン 
安達均