LCR日本語部週報通算#1288号(日本語)
2013年12月29日の週報

LCR日本語部週報通算#1288E号(英語)
Sunday English Bulletin 1288E

LCR日本語週報通算#1288号(日本語)
2013年12月29日の週報

LCR日本語部週報通算#1288E号(英語)Sunday English Bulletin 1288E

“ハッピーエンド”

この教会のメンバーなら私がどんなに風変わりなセンスの持ち主であるかご存知だと思います。例えば、映画鑑賞専門家は、“Raging Bull”、“カサブランカ”、“風と共に去りぬ”を三大映画と評価していますが、私の好みはどちらかというと、 “Brazing Saddles”,“Fargo”,
“The Life of Brian”で、もう一つ加えるなら、Chevy Chase の “The Griswald Family Christmas”です。コメデイアンのChevy Chaseは主人公のClark Griswaldを演じます。彼は変わり者の親戚や隣人に囲まれているにも関わらず、クリスマスを特別素晴らしい時にしようと頑張ります。彼は、これでもか、これでもかと言うように失敗ばかり繰り返しますが、最後はめでたくハッピーエンドとなります。クリスマスを盗んだグリンチも最後には改心しますし、トナカイのルドルフもサンタを助けて大働きをします。有名なディキンズの小説に出て来る、年老いて憎しみに満ちたスクルージでさえも、最後には心を改めるのです。これらの素晴らしいお話は、ただハッピーエンドで心を暖めてくれるだけではなく、もしかしたら、こんな世の中でも希望が持てるかもしれないと私たちに思わせてくれます。そう解ってはいても、ハッピーエンドはいくら私達が楽観的でも、日々の希望の無い絶望的な現実をみるとただの幻想にしか思えないのです。考えてみて下さい。1日として人が射殺されたニュースや、盗み、飢餓、貧困、治療不可能な病気や不正行為を耳にしない日があるでしょうか?こんな状態の何処にハッピーエンドがあると言えるのでしょうか? 俳優のWoody Allenが言うように、この世は絶望かまたは絶滅に向かっているのでしょうか?こんな状況から、どうすれば幸せな思いや希望や喜びを持てるというのでしょう。それでも、どこか奥深い所で、全ての支離滅裂な現実に反して、人生にはそれら腐敗や詐欺や暴力以外の何かが、それがほんの少しの何かであっても、きっと在るに違いないと私達は信じたいのです。神様が私たちに手を差し伸べて下さる時、ただの幻覚や夢ではなくて何か、小さくても必ずハッピーエンドが訪れるのではないでしょうか。それと同じように、クリスマスのお話の一部分は、私たちが完全に希望を失ってはいないという事を語っているのです。

イエスの母マリアをちょっと考えてみて下さい。彼女はただ普通のテイーンエイジャーで王女さまでも貴族や高貴な家柄でもありません。彼女は他の娘と何の変わりも無い少女でした。
だからこそドラマテイックなのです。何の前触れも予告も無く、突然天使のガブリエルが訪れ、マリヤに、あなたは身ごもって神の子を生む、と告げた時、彼女がどれ程ショックだったか私たちにも解ります。でもここで彼女は天使に幾つか質問しますが、その後で、「そうなりますように」と素直に受け入れているのです。殆どの女性がそんな事を言われたら心臓麻痺でも起こしてしまいそうなのに、彼女は「おことば通り、この身になりますように」と答えたのです。多分マリアのどこか奥深い所で、神様のご計画が最後には悲劇に終わる事はないと信じていたからこそ、「お言葉通りになるように」と、素直に神様に自分を委ね、選ばれた器として神様に仕え従う事が出来たのでしょう。彼女は、神様が自分の人生に関わって下さる時、そこには勝利と幸せに満ちた素晴らしい終わりが在る事を知っていたのです。
今宵、私たち一人一人が問う事は、キリストの聖誕が、私たちの中に希望と喜びをもたらす事を信じるかどうか、なのです。マリアのように勇気をもって大胆に、キリストに従えば、スクルージやグリズウオルドの世界だけではなく、私たち全てにハッピーエンドが訪れると信じられますか?
家族や友達に囲まれて楽しく食事をしたり、プレゼントの交換をしたりする今夜は、とても「静かな夜(聖しこの夜・Silent Night))の
イメージではないかもしれません。でも知っておいて下さい、神の天使があなたの上を舞いながら耳元でこう囁いているのです:
「見よ、私はあなた方に良き知らせを伝えに来た。」そしてこの良き知らせとは: キリストの誕生と共に約束されたハッピーエンドなのです。

皆様、それぞれに祝福に満ちたクリスマスをお迎えください。アーメン。

”A Happy Ending”
Members of this congregation know that I have a peculiar, quirky sense of humor. For instance, while the experts name Raging Bull, Casablanca and Gone With the Wind as three of the greatest movies ever produced but I’d rather watch Blazing Saddles, Fargo and The Life of Brian. Allow me to add one more: “The Griswald Family Christmas.” You know the one-Chevy Chase plays Clark Griswald who tries to make Christmas special even though he’s surrounded by wacky relatives and odd neighbors. The movie is one mis-adventure after another and Christmas appears to be headed for a complete meltdown, but in the end, it has a happy ending and our faith in family is once again restored. Many seasonal films end like that. The Grinch who did his level best to steal Christmas finally came around and Rudolph helped Santa save the day. Even old, bitter Scourge had a change of heart in Dicken’s holiday classic. These wonderful stories with happy endings tug at our heart strings but they do more than that…
They help us believe that maybe, just maybe, there is hope for this frail and fragile world of ours.

And yet, believing in happy endings seems something of a pipe dream…..Even the most optimistic of us can’t deny or escape the constant barrage of hopelessness and despair that confronts us every day.

Think about it…Has there been a single day this year when someone wasn’t gunned down, taken down or pushed around. How about the endless litany of drive bys…break ins and shoot outs or the endless and depressing accounts of famine, poverty, illness and injustice. Where is the happy ending in all of that? Maybe Woody Allen was right when he predicted that the world is headed in one of two directions: To despair or extinction.
How’s that for a happy thought on this night of hope and joy?

And yet deep down, despite all the craziness and chaos, isn’t there something that calls, urges, begs and beckons us to believe that there’s more to life than greed, deception, corruption and violence?
Deep down, isn’t there something – even just a little something– that says happy endings are more than an illusion or pipe dream when God is involved?

In part, that’s what this Christmas narrative does…It reminds us that all is not lost.

Think for a minute about Mary, the mother of our Lord. She was, from what we can tell, a rather average teenager. There was nothing regal or royal about her….Nothing in her lineage to suggest that she was born with a silver spoon in her mouth or destined for greatness. She had little reason to expect that her life would be much different from the other girls living in her village.

And that’s what adds to the drama of her story. We can understand her shock when, out of nowhere and without warning, the Angel Gabriel told her that she would conceive and have a son – God’s Son. And here’s the interesting thing…while she did have a question or two, she surrendered to the incredible news with a simple affirmation: “Let it be.”

“Let it be” – that’s her simple response to news that would give most women a heart attack…”Let it be.” And I think she allowed herself to be God’s servant and vessel because deep within her she believed that things do not always have to end in turmoil and tragedy. She understood that when God is involved life can be victorious and glorious-filled with happy, extraordinary, triumphant endings!

And, you see, there’s a question that lingers within each and everyone of us tonite…Will we believe….will we dare to believe that the birth of Jesus means the birth of hope and joy within us?

Like Mary, are we bold enough…faithful enough to believe that because of Christ, happy ends are not just for the Griswalds and the Scrooges of our world but for all of us?

With family, friends, festive meals and gift giving there’s not much chance that this will be a Silent Night, Holy Night, but know this: The angel of the Lord hovers over you…whispering in your ear: “Behold, I bring you good news.”

And the news is this: With the coming of Christ, comes the promise of a happy ending.

May each of you have a blessed and happy Christmas!

心から主イエスキリストの御降誕を喜びたい。今週は詩編97編を読もう。この12月25日のクリスマス、主の降誕日に与えられている詩編。年末年始は、何かと忙しい時期だが、ぜひ、じっくりこの詩編を味わう時間が与えられるように祈る。25日はもう過ぎてしまったが、主の降誕節は1月6日の顕現日まで続くので、この時期に詩編97編を読まれると良いと思う。   

詩編97編
1:主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。
2:密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ/正しい裁きが王座の基をなす。
3:火は御前を進み/周りの敵を焼き滅ぼす。
4:稲妻は世界を照らし出し/地はそれを見て、身もだえし
5:山々は蝋のように溶ける/主の御前に、全地の主の御前に。
6:天は主の正しさを告げ知らせ/すべての民はその栄光を仰ぎ見る。
7:すべて、偶像に仕える者/むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。
8:シオンは聞いて喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る/主よ、あなたの裁きのゆえに。
9:あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。
10:主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる。
11:神に従う人のためには光を/心のまっすぐな人のためには喜びを/種蒔いてくださる。
12:神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。

詩編97編は1-5節は神が創造されたすべて、自然も含めて、地球全体で、喜び踊って祝うようにと詠っている。 そして6節から9節では、イスラエルの民、共同体で主を喜び祝う様子が詠われている。さらに10-12節では、個人的なレベルで主にあって、喜び祝うようにと言わい、感謝を捧げるように詠われているように思う。

クリスマスが、つまり救い主であるイエス・キリストの降誕が個人的なレベルでいったいどういう意味を持っているのか、黙想されると良いと思う。

「主イエス・キリストという神を信じると楽でいいですよ。」という牧師がおられた。 彼の言いたかったことは、この詩編の7節にある、「神々はすべて、主に向かってひれ伏す」という言葉に現れているように思う。 というのは、日本的な文化では、お寺や神社などさまざまな拝む対象が存在してしまっている。安倍総理大臣が戦争で亡くなった方たちのためと言われて靖国神社を参拝されたようだ。私の伯父も戦死したがクリスチャンだったので、もしできることなら安部総理はキリスト教会の礼拝にも出席されるのが良いようにも思ったりする。そうすると外交上、もっと楽にならないだろうか?。。。。また、お寺や神社だけでなく、もっと広い意味で、何かに没頭してしまって、神聖なる主なる神ではないものに対して、それが自分の神であるかのごとくに行動を取り続けている人々もいる。 しかし、そのような神々はすべて、主に向かってひれ伏す。 つまり、その主なる神を信じれば、他の神々も包括しているような部分がある。 

といってもすべての神々が主と仰ぐような神がいったい存在するのだろうか?という疑問がでてくる。。。。そのような主なるお方が、人間の体で2000年前に誕生した。 それも、とても理解に苦しむような形で。常識では考えられない結婚をしていない乙女、マリアから生まれた。生まれた場所は馬小屋。そして馬のえさをいれる飼い葉おけに寝かされた。名はイエスと名づけられた。日本でいえば、「太郎」とでもいったらよいか、要はどこにでもあるような名前がつけられた。それがキリスト(救い主の意)イエスの誕生の次第だった。 

24日のクリスマスイブの礼拝の祝祷で語られた言葉を以下に記しておきたい。

救い主誕生の喜びがあなたの日々の生活を喜びで満たす。
救い主誕生による平安があなたの日々の心配事をとりさってくださる。
救い主誕生の光があなたの置かれた暗闇を明るく照らしてくださる。 
そしてベツレヘムの星の下に生まれた愛なる御子が毎日のあなたの生活のなかで共に歩んでくださる。
父なる神と、その子・救い主と、聖霊の御名によって。アーメン

「ひとりじゃないの」 マタイ 1: 18-25

ここに集まった会衆の上に、また、この礼拝を覚えながらもこの場所に集えない兄弟姉妹にも、主イエス・キリストの恵みと平安が豊かにあるように! アーメン

1970年代に日本の国民的スーパーアイドルとなった天地真理さんという歌手を知っている方おられると思う。 数々のヒット曲、水色の恋、小さな恋、ひとりじゃないの、虹をわたって、若葉のささやき、等々、のヒット曲が生まれた。最大のヒット曲は何だったかご存知だろうか? ウィキペディアなどで検索してみたが、「ひとりじゃないの」が最大のヒットだそうだ。私はかってから、たった2-3分の歌なのに、それが世間の注目を集める背後には、主イエスが働いているような思いがしてならない。 カンという歌手の「愛は勝つ」、子門真人の「およげたい焼きくん」なども、讃美歌として歌われるわけではないが、私は主イエスキリストとの関係を無視しないわけにはいかないようなストーリがあると思っている。今日は、本日の福音書と関係のある「ひとりじゃないの」ということに焦点を当ててお話したい。 

第四アドベントの聖日に与えられている聖書の箇所、さきほど読んだ通りである。 聖母マリアの妊娠の話は、ルカ福音書ではマリアに焦点があたっているが、マタイ福音書では男性のヨセフに焦点があたっている。 ここにおられる方々は女性が多いが、ちょっと無理な話かもしれないが、仮に婚約中の男性の気持ちになってほしい。そして、婚約相手が、自分に身におぼえがないのに妊娠したとしよう。どんな気持ちになるだろうか? 今日、不思議なことに、というか意味のある偶然だというべきか、礼拝の後、婚約式をされるカップルがおられる。今日の福音書箇所は、聖書の中で、著しく意味深いヨセフとマリアの婚約に関わる話だ。とにかく、婚約中に婚約相手の女性が別の男性と関係を持ったとしか考えられず、妊娠してしまうなんて、ただごとではない、冗談じゃないという話だ。ヨセフの場合は、ひそかに縁を切ろうと心を決める。  どうしようもない状況のヨセフに、天の使いの言葉、「恐れないでマリアを迎えるように。」「おなかの子は聖霊に宿ったのだ。」「マリアは男の子を生み、イエスと名づけるように。」そして「神の民を罪から救う。」が与えられる。そして、マタイが伝えていることは、それは、もともとイザヤ7章14節で預言していた「乙女が身ごもって男の子を生ヨセフは信仰深いユダヤ教徒だったので、このイザヤの言葉はよく覚えていただろうし、天使の言葉を信じることができたのだろう。 それにしても、新約聖書を見る限り、イエスが生まれてから一度も、「インマヌエル」と呼ばれているのはどこにも書かれていない。 

いったいこの話、現代に生きる我々とどういう関係があるのだろうか? 私はイエス時代にだれもイエスのことをインマヌエルと呼ばなかったとしても、インマヌエル、「神が共に私たちと居る」という意味のその言葉は、その言葉通り、過去もそうであるし、現在もそうだし、将来に渡って、真実なのだ。 マタイ福音書は28章まであるが、その最後はイエスの言葉で終わっている、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」となっている。 つまり、わたしたちひとりひとりは、ひとりぼっちだと思ってしまうこともあるが、けっして「ひとりじゃないの」ということをイエスの存在から気がつこう。
いろいろな人生がある。長年の結婚生活をするなかでも、離れ離れに生活している夫婦がいたりする。そのような時代を通って行けるのは、たとえ離れていても、神なる主イエスキリストがずっと共にいてくださるという共通の信仰があるカップルは多くの神の恵みに気づいて生きることができるとおもう。  
聖書の中に描かれている多くのイメージの中に神が花婿で、私たち人間は男性女性にかかわらず、全人類が花嫁のようなところがある。 そして、花婿がずっと花嫁を愛し続けてくださっている。たとえ花嫁がどっかそっぽを向いてしまうようなことがあったとしても、ときには、花婿の気持ちを理解できないことが起こるようなことがあったとしても、永遠に花婿は花嫁を、愛し続けてくださっている。 その花婿がイエスとして、この世に現れてくださり、インマヌエル、私たちとともにいてくださる。わたしたち一人一人は、決して、ひとりじゃない。アーメン。

“Not Me Alone”- “Hitorijanaino”
Matthew 1: 18-25
May God’s Grace and Peace be with you in this sanctuary! We welcome congregants, visitors and those that wished they were here (but illness or obligation prevent them from attending). Amen.
In the 1970s, there was a pop superstar named Mari Amachi. Her songs became very popular and many of them ranked No. 1 on the hit charts at that time.
Do you know which one was most popular? I googled and researched a bit. Then I found that “Not Me Alone,” which means you are not alone, was the best-selling song among her many hits… Over the years, even in Japan, I wonder how some songs become so popular regardless of who sings them. I am a strong believer that God, Jesus Christ, is working behind these songs.
There were songs like “Love Wins” sung by Kan and “Swim On, Taiyaki!” by Masato Simon. I believe those songs, too, are Biblical and I believe Jesus is in those songs, although they are not really sung in church as hymns or praise songs. In today’s message, I would like to talk about “Not Me Alone” which is closely related to the Gospel text today.

On this fourth Advent Sunday, the Gospel text is from Matthew Chapter 1. Regarding Mary pregnancy, if you read Luke, the focus is more on Mary rather than Joseph. However, in Matthew, the focus is really Joseph, the guy who was engaged to Mary.
If we look around at the people in this sanctuary, I see more females than males; however, I would like all of you to think as if you were Joseph. Even though it may be hard to imagine, but your virgin fiancé is pregnant. How would you feel?
I think this is a meaningful coincidence; we have a couple celebrating their engagement, with us, after this service and we’re discussing a Biblically significant couple. Anyway, if your fiancé is pregnant with another man’s baby, it’s no joke…Therefore, Joseph most likely decided to dismiss her quietly, which ultimately meant not marrying her.
In that situation, God sent him an angel…. The angel said, “Do not be afraid to take Mary as your wife, for the child conceived in her is from the Holy Spirit. She will bear a son, and you are to name him Jesus, for he will save his people from their sins.”
Then Matthew also wrote that this was originally prophesied by Isaiah, “Look, the virgin shall conceive and bear a son, and they shall name him Emmanuel.” Emmanuel means “God is with us.”
The message by the angel was basically written in Isaiah, one of the Old Testament books, since Joseph was a devout Jew, I believe he knew and could believe what the angel said. However, the word “Emmanuel” does not appear in any other part of the New Testament. Therefore, Jesus was not called “Emmanuel.”
What does this mean to us who live in this 21st century? Even though nobody called Jesus “Emmanuel,” I believe it is a great truth that God, Jesus Christ, has been, and is, and will always be with us.
The Gospel of Matthew ends in Chapter 28. The last sentence ends with the words of Jesus, he said, “And remember, I am with you always, to the end of the age.” Which means “you are not alone, “Hitorijanaino,” since you are with God.”
There are many kinds of lives. Satoko and I have been married 29 years. Out of those 29 years, for almost four years we lived separately. Even though we were apart, I believe our faith that God was with us helped us tremendously and allowed us to endure our time apart.
One of many images that Bible describes is: God is the groom and that the whole human race is the bride. That groom loves the bride tremendously and lives with her forever, even though the bride sometimes hates him or does not agree with him. His love was not well understood to her until God revealed himself as Jesus Christ, son of the Father. Christ is the one who is always among us and within each one of us forever and we are better for it. Amen.

  

LCR日本語部週報通算#1286号 (日本語)

2013年12月22日の週報

LCR日本語部週報通算#1286E号(英語)
Sunday English Bulletin 1286E

今週は与えられている詩編は80編の1-8節と18-20節を読もう。今週も最初にできる限りこの詩編作者を想像しながら詩を味わってみよう。次に、待降節にあって、主の降誕と再臨を覚えながら、神はこの詩編を通して現代を生きる私たちに何を語っているか黙想してみたい。  
  
詩編80編
1: 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。アサフの詩。賛歌。】
2:イスラエルを養う方/ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ/御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください
3:エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい/わたしたちを救うために来てください。
4:神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。
5:万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。
6:あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ/なお、三倍の涙を飲ませられます。
7:わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ/敵はそれを嘲笑います。
8:万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。

18:御手があなたの右に立つ人の上にあり/御自分のために強められた/人の子の上にありますように。
19:わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。
20:万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。

今週の詩編もだれが作者であるか断言はできないし、時代も明確ではない。まず2節にある「顕現してください。」、3節にある「来てください。」という願い、さらに、5-7節に書かれている言葉から想定すると、詩編作者が属する国、イスラエルの民が、とんでもないピンチに陥っていることが考えられる。4節、8節、12節の言葉は、ほぼ同じ言葉が繰り返されているが、なかでも「わたしたちを連れ帰り」という表現からして、どこかほかの国へ民全員が捕囚されてしまっているような状態なのかもしれない。そのような状況のなかで、18節の言葉から考えると、神と同等の方が力をもって救い出してくださらないとならない状況を訴えているように思う。 そして、19節では、神への忠誠心を誓っているように思える。 

4節、8節、20節で、3回も繰り返されている言葉の中で、「御顔の光を輝かせ」という言葉がある。 毎週の礼拝は、派遣の讃美歌を歌って終わるが、その前にいつも、「祝祷」がある。 祝祷では、
「主があなたを祝福し、あなたを守られます。
 主の御顔があなたに輝き、あなたに恵みを与えます。
 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えます。」
という言葉が語られている。 詩編80編のなかで「御顔の光を輝かせ」という言葉と近い言葉が祝祷の中でも使われていることからして、そもそも「御顔の光を輝かせ」や「御顔があなたに輝く」や「御顔をあなたに向け」が、主が民に親密であり、主が近くにいてくださる状況を詩編80編では乞い願っているように思う。 

以下は、この80編を私たちが21世紀に読むことを通して、神がわたしたちに何を語ってくださっているかを考えたい。詩編の80編の大きなテーマは、「神にすぐに来てください。顕れてください。」と言ってよいと思うが、作詞された時代と現代とで、「神にすぐに来てください。」という緊急性の違いがあるかどうかということを考えた。 現代にあって、宗教を避けようとする機運が高まっているように感じる。そのような世間情勢は、ある意味、「神様なんて来ていただかなくていいんですよ。」という社会的風潮を感じる。 しかし、本当にそうなのだろうか。しかし、実際問題、人類が自らの努力とか知恵だけでは全く解決できない問題にたくさん遭遇している。もう三年近く前になるが、東日本大震災、また最近のフィリピンの台風やアメリカ各地でおこる竜巻などの自然災害などはもちろん、アメリカの債務が天文学的な数字になってしまっていることや、日本もそのGDPからすればとてつもない債務になっていて、解決策があるとは思いがたい。また諸国間の外交問題も不協和音が響いているように思う。世界的に大きなピンチに陥っているように思う。そこで、礼拝堂で協和している和音を聞き、神に祷り、神にすぐに来てくださいと歌うように、詩編80編が招いているように思う。 復活ルーテル教会の聖餐式で、よく「マラナタ」を歌うが、その意味は、「主よ、来てください。」 アーメン。

マタイ 11:2-11
主イエス・キリストの恵みと平安が豊かに注がれますように!

お母さんが洗礼を受けるのを見ていた男の子が、なぜ洗礼の時、お水をかけたの?という質問をした。それはとても良い質問で小学校1年生の彼に、「ごはん食べるまえに手を洗うでしょう。それと似ていて、神さま、イエスさまを信じて生きていこうとする時に、その前に、水できれいにしてもらうみたいなもんだよ。」と答えた。すると、「神さまを信じて生きていくというのは、見えないものを信じることでしょ。できるのかな?」 と彼の質問は続いた。そこで、「すばらしい質問だね! そうなんだよ、信仰とは見えないけど神様を信じて生きることなんだよ。」と答えると、それ以上は質問は続かなかった。 

今日のメッセージでは、あえて、ひとつ付け加えたい。信仰とは、まさに見えないものを信じて生きていくことだが、単に見えない神様だけを信じて生きて行くことと、主なる救い主イエス様も信じて生きて行くということは、決定的な違いがある。
この違いは、キリスト信仰の根本にかかわる問題で、主なるイエスを信じることに、キリスト教のすばらしさ、主の神秘性、秘密の業があるからだ。秘密の業については、さらに説教の後半で述べたい。 
与えられた福音書、本日アドベント第三週は、第二週に続き、洗礼者ヨハネに関係している。先週の福音書箇所では、ヨハネはイエスの宣教開始前に、洗礼者ヨハネの元に集まってくる人々に、頼りにならないものとか、真の神ではない人に向かうのではなく、私の後につづいてこられる方、イエス様に向かって歩むようにと人々を導いた。
ヨハネの元に集まった多くの人々は、イエスに追従しはじめた。 しかし、イエスの宣教がはじまっても、ヨハネの弟子のままでいる人々もいた。 ヨハネはそのような人々に対し、イエスのところに行って、「あなたは救い主としてこの世に来られた張本人なのでしょうか?あるいは、本当の救い主が来るまで、もっと待たなければならないのでしょうか?」という質問をさせた。
ヨハネは、イエスは救い主であるということはわかっていたものの、イエスは神として怒りと裁きを顕されるような方だと思っていた節があった。 ところが実際はヨハネが想像していたイエスとは違い、あまりにも恵みに満ちた方であった。 それで、いまだにヨハネに追従してくる弟子たちに、このような質問をさせたように思う。 
その質問に対してイエスはまず、「ヨハネの所に戻って見聞きしていることを話すように」と話した後で、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と話した。
マタイの11章より前あるいは後の章も読めばわかるが、それらは、実際にイエスが行なっていた業であり、しかもイザヤがすでにイエスの降誕前の紀元前600年ごろに、神の言葉として語っていたことだった。 そこには、イエスが神として、また救い主として顕われたことの証拠があったといっても良い。
すなわち、ヨハネの弟子たちが質問したことに対して、「私は救い主です。」という答えを返したともいえる。 つまり、2000年前、救い主イエスはすでに顕われたということ。 
このヨハネの弟子たちの質問とイエスの回答は、いったい現代を生きる私たちにどういう意味を持っているのか。さらに、待降節と称して主の降誕を思い、また再臨を待つ時期にあるなかで、われわれに、神は何を語りかけているのだろうか? 
現代の私たち、イエス様の存在を2000年前のように、見ることはできない。しかし、聖霊として、わたしたちの周りに、いまだに存在してくださっている。 そればかりではなく、イエスはもっとも小さいものにしてくれたことはわたしにしてくれたことなのだという言葉も残している。
もっとも顕著なことは、イエス自身が、「このパンはわたしの体である。」といわれたこと、「この杯は、罪の赦しのために私が流す血による新しい契約だ。」とも言われた。 だから、聖餐式でいただくパンとぶどう酒に、イエスの存在を信じて、わたしたちは、聖餐式に預かっている。 
このアドベントの時期にあって、いろいろな困難に出会うわたしたちの人生にあって、その真っ只中にいてくださる主イエスの存在を確認しよう。 それはとても神秘的なことで、よくは見えない存在。 しかし、パンとぶどう酒のなかに、あるいは、世の中のもっとも小さい兄弟姉妹のなかに、存在してくださって、私たちを強め、そして永遠の命に導く存在だ。
そのイエスの存在により、自分の置かれている状況がよく見えなかったのに見えるようになったり、人生の歩みに挫折していたのがまた歩めるようになったり、体調が悪く心も死んでいたようになっていたのに身も心も健やかになったり、本を読んでもよくわからなかったのが聖書の御言葉がどんどん読めるようになる等ということが、現在もたくさん起こっている。 皆さんの中にそのような体験をした方々がたくさんいるはず。 
このアドベントの季節、今一度、人類が神から頂いた最高のプレゼントである神の子、イエス様の存在に気づき、その大きな恵みに与り、将来に向けて、新たに夢と希望を持って歩み出せますように。アーメン。

“Jesus’ Presence”  Matthew 11:2-11 Pr. H. Adachi

May the Grace and Peace upon us in the name of our Savior and Lord, Jesus Christ!
A six year old child asked me a question, “When my mother was baptized, why you put water on her head?” Actually, this was a very good question, and I answered to him, “Before you eat dinner, do you wash your hand to clean? Correct? The Holy Baptism is something similar, before you start the faithful life, which is to follow Jesus Christ believing in God, you had better be washed spiritually by the water.”
Then he asked the next question. “Believing in God is to believe something that cannot be seen. Can I do? I wonder…” Then I said to him, “What a wonderful question you asked! Yes, the faith is to believe in God that is not seen.” Then he did not ask any further question.
Here in this message, I would like to add that, there is a substantial difference between to believe in only God and to believe in Christ as our Lord and Savior. The latter belief has a fundamental mysterious aspect which cannot be seen as well as cannot comprehend. I will talk more about this aspect toward the end of the message.
The Gospel text on this third advent, we continue reading the text that is related to John the Baptist. Last week, we learned that John was guiding the people to turn from what was not really divine to the truly divine, Jesus Christ who would come after John.
Many of followers of John started to follow Jesus after he started his ministry. However, there were people those were still following John, even when he was in jail. John let them to ask Jesus, “Are you the Messiah we’ve been expecting, or should we keep looking for someone else?”
Although John knew that Jesus was the Messiah, John was probably surprised by the fact that Jesus was graciously caring for the people without showing any fearful aspect of God’s judgment. I believe that is why John let his followers to ask such a question.
To respond to John’s question, Jesus answered, ““Go and tell John what you hear and see: the blind receive their sight, the lame walk, the lepers are cleansed, the deaf hear, the dead are raised, and the poor have good news brought to them. And blessed is anyone who takes no offense at me.”
If you read the several chapters before today’s Gospel of Matthew, you know these were the things that Jesus was already doing and also, if you know the book of Isaiah, they were the things that Isiah had already prophesized six hundred years ago, which means that Jesus revealed as Messiah. In other words, Jesus answered to John’s question that he was the Messiah, God revealed His Son two thousand years ago, although Jesus was using his language very cautiously because if he said “I am the Messiah,” that would cause Jewish leaders to start killing him right away.
What do these conversations between Jesus and John’s disciples mean in our lives? Especially reflecting on the season of advent, celebrating the birth of Jesus and waiting for his second coming, what is God speaking to us, disciples of Jesus Christ, now?
In reality, Jesus Christ appeared surely 2000 years ago, however, he was killed in the end. Then on the third day, he was resurrected and said to his disciples “Peace be with you” without any accusation to them even though they could not stop the crucifixion and ran away from Jesus when he was crucified. Then 40 days later, Jesus went to the sky, heaven, but 10 days later, on the Pentecost, the Holy Spirit obviously came on earth. The same Holy Spirit, God’s breeze, has been among us even though we cannot see it.
We cannot see Jesus Christ as the disciples 2000 years ago saw him, but Jesus is among us as the Holy Spirit. Not only that, Jesus left his words that “when you did it to one of the least of these my brothers and sisters; you were doing it to me!”
Even though we cannot see Jesus Christ as he appeared 2000 years ago, we can believe His presence here and there in our lives. Probably the most prominent matter is that Jesus said “Take and eat, this bread is my body. Do this for the remembrance of me.” And then, “This cup is the new covenant in my blood shed for you and for all the people for the forgiveness of sin. Do this for the remembrance of me.” Therefore, in the Holy Communion, we may believe Jesus’ presence in the sacrament which is the bread and wine, or wafer and grape juice.
In this season of advent, many of us are actually facing lots of difficulties and challenges, but the Holy Spirit, Jesus Christ, is among us, and the blind receive their sight, the lame walk, the lepers are cleansed, the deaf hear, the dead are raised, and the poor have good news brought to them. These things are really happening and people can walk with Jesus Christ eternally because of the body and blood of Jesus Christ that strengthen us and give us the eternal lives. Let us confirm His Presence during this Advent, and let us receive His precious grace through the birth of Jesus and walk our lives with great hope and dream. Amen。

 

今週与えられている詩編は42編。最初にできる限りこの詩編作者を想像しながら詩を味わってみよう。次に、待降節にあって、主の降誕と再臨を覚えながら、神はこの詩編を通して現代を生きる私たちに何を語っているか黙想してみたい。  
  
詩編 / 42編
1:【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】
2:涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
3:神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。
4:昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。
5:わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。
6:なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。
7:わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
8:あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。
9:昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。
10:わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」
11:わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/「お前の神はどこにいる」と。
12:なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

この詩編もだれが作者であるか断言はできないし、時代も明確ではない。しかし、5節の言葉から想像して、かつては喜び賛美しつつ、祭りの中をユダヤ教のエルサレムにある神殿に入り、神聖なる神の御顔(契約の箱を意味しているかもしれない)に会っている経験をした。しかし、神殿に定期的に入って礼拝するような生活はできなくなり、神殿からは遠く離れた地で、ほとんど絶望とも思えるような状況に置かれていることを詠っている。ダビデがサウルから追われほとんど絶対絶命とも思えるような状況になってしまった時のことを詠っているようにも思える。エルサレムから離れ、ヨルダンの地、さらに現在のシリアとレバノンの国境にあるヘルモン山の方まで、逃げていって、その地で、あたかも殺されるか自決せざるを得なくなる状況を待っているようでもある。詩編作者を追いつめている者は、「お前の神はどこにいるか」(4節、11節)としつこく迫っている。しかし、完全に希望を失っているわけではない、6節とまったく同じ言葉が、12節の中で繰り返されている。自ら「神を待ち望め」と詠い、さらに「御顔こそ私の救い」と告白しようと詠うなかで、神なる方、救い主、を待ち望む中に、希望を詠っているように思える。

待降節にあって詩編42編をしっかり読むことはとても意味が深いと感じる。21世紀に生きる私たちにとって、2000年前に主イエス・キリストは来られたが、わたしたちは、その当時生きていた人々のようにイエス・キリストという生身の体を持った主なる神を見ることはできない。それはある意味、この詩編作者が神の御顔を見れずにいることと共通している。現代、キリスト教を信仰していない方々から「あなたの神はどこにいるのか。」と言われてしまう面はある。それでも、この詩編作者が詠っているように、「神を待ち望め。」と私たちも自分たちに詠うことの意味がある。主なる救い主イエスが2000年前に顕われてくださったときに、再臨してくださるということが新約聖書(マタイ16:27-28、ルカ21:27、使徒1:11他)には書かれている。また、父なる神、子なるキリスト、そして、聖霊を信じるキリスト教徒にとって、復活したイエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と語ってくださっていたことは、たとえ目に見えなくても、私たちの間に聖霊が、つまり、イエスの存在があることを確信できる。そして、私たちがこの世で生きている時か、天国でかはわからないが、私たちは主の御顔を見る時が訪れることを、主なる神がこの詩編を通して教えてくださっているように思える。    

詩編42編の「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」という言葉が詠われている。それは鹿にとって水が不可欠のように、どのような時代であろうが、私たち人間にとって神は不可欠の存在であり、私たちから見えるか見えないかに関わらず、神はしっかり存在してくださっている。私たちがどのような状況にあろうが、たとえ絶望と思えてしまうような状況にあっても、実は主にある希望を抱いて間違いはない。 アーメン。