今週読む詩編は111編。 いつものように、3回読んで、気になった言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? そのような質問に思いを巡らせてみてはどうだろうか。

詩編 / 111編
1:ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。
2:主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
3:主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。
4:主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
5:主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め
6:御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。
7:御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実
8:世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。
9:主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
10:主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

皆さんは、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことをシェアしたい。

気になる言葉は何だったか? 詩編111編と112編の構成
特定の言葉ではないが、私は構成が気になっている。111編の次の詩編112編を8月29日に読んだが、その詩編との構成が実に似ている。 112編を読んだ時にも気になったが、その時はあえて書かなかったので、今回書いておきたい。 111編と112編の二編で一組を成すような詩編だと思う。どちらも最初の「ハレルヤ」という「主を賛美せよ」という意味の言葉で始まっている。 112編では、1節で「いかに幸いなことか」という言葉で始まって、112編全体は人が幸せな理由は何かが書かれ、全体的には「人間」が動詞の主語になる詩になっている。 111編では、1節で詩編作者が「主に感謝」をささげると同時に、人々の群れのなかで、会衆とともに感謝をするという言葉が述べられたあと、主に感謝をささげる理由は何か、つまり主なる神が何をしてくださっているかという内容になって来て、全体的には、「主」が動詞の主語になる詩になっている。詩編には、このように、構成面でよく考慮されたものがあり、ヘブル語の言葉の遊びのような詩では日本語では楽しめないが、111編と112編のような構成を楽しむことは、日本語に訳されたものでも可能である。  

自分に何を語りかけられたか? 「主を畏れるしかない」
112編を読んだときに、「主を畏れる人が幸せ」という事を書いたが、「主を畏れる」というテーマは、111編から続いており、また、聖書全体のなかでも、とても大切なテーマ。 箴言1章7節に「主を畏れることが知恵の初め」という言葉があったが、今日の詩編111編の10節にも同じことが詠われていて、人間の教育の点でも実は基本中の基本なのだと思う。 そして、「主を畏れる」と言う時の「畏れる」という動詞の主語は、人間だが、よくよく考えると、主なる神が人間を「主を畏れる」しかないように導いてくださっている。 つまり、いくら人間が畏れるという動詞の主語であっても、もともとは、神が働いて、そのようにしてくださっている面がある。
 
コミュニティに何を語りかけているか?  神の恵み
「主を畏れるしかない」ように神が導いていると書いたが、そのようになる具体例として、神がいかに驚くべき恵みの御業をわたしたち人間に成し遂げてくださっているかが、今日の詩編の2節から9節に詠われているように思う。よく歌われる讃美歌に「数えてみよう主の恵み」があるが、 つまり、コミュニティ全体で、神の恵みがいかに驚くべきもので豊かに与えられているかに気がつくとき、その神を畏れずにはいられなくなり、そして、一節にあったように、人間全体で感謝を捧げるということが、自然発生的に起こってくるように思う。 

東日本大震災で多くの漁村が犠牲になったが、2ヶ月前に日本に行った時にその地域に住んでいる方々の話を聞き、また婦人の友に連載されていた漁村での助け合いの記事を読んだ。魚を獲るにしろ、わかめなど海藻類を育て収穫し販売するにしろ、海にある神の創造の恵みは測り知れない。その海が急変することもある。それは潮の具合により、収穫量が大きく変わったり、今回の津波のような大打撃を被ることもある。漁村の方々の中に、いかに自然を畏れ敬うかが大切といわれる方々が多いということがわかった。 また、それに気がついているからこそ、いろいろなお祭りがあり、それらのお祭りを通して、神に感謝することが多いのかと思う。キリスト教会の礼拝においても、神を賛美し神に感謝するという大きなポイントがある。だから、お祭り的な要素も自然に発生してくる。 安達 均  

ルカ 17:5-10
主イエス・キリストの恵みと平安が会衆の上に豊かに注がれますように!

特に私はクリスチャンではありませんとおっしゃる方、たくさんおられる。クリスチャンになるということはどういうことなのか? 私は科学を信じているので、聖書に書いてあることは信じられず、キリスト教も信じられませんと言われる方がいる。そのように考える方は、クリスチャンになるという事は、すべては神が創られたものと片付けてしまい、宇宙学、量子力学、細胞学などの世界も、探求が止まってしまうのではないかと勘違いされている面がある。 
宇宙の研究でも、量子力学の研究でも、クリスチャンが多くの研究を行っており、とてつもない大発見をして、理論や定理に気がついている。神を信じて、すべて神にゆだねているのだから、聖書の内容を信じよく読んでいる以外には、何もしていないように思われかねない信仰者が、なぜ、そんなに科学界で大きな貢献をしているのだろうか? 
ある意味、今日の聖書の箇所を読んでいくと、そのような疑問に答えられる面が出てくるのだと思う。 本日の箇所、使徒たちとイエスキリストとの会話だ。 
使徒たちが、イエスに、「私たちの信仰を増してください。」というお願いをしているところから始まっている。その箇所の少し前を読むと、イエスが使徒たちに、なんども赦すように教えている。 
使徒たちは、ほとんど永遠に赦すなどということはとてもできない状況にも遭遇したのではないかと思う。それでもイエスが赦しなさいと言うので、使徒たちは、信仰を増すことによって、徹底的に赦せるようになるのではないかと思い、イエスに「私達の信仰を増してください。」とお願いしたように思われる。
「信仰を増してください。」というお願いについて、イエスは信仰の大きさや量を測る話をするのではなく、からし種というもっとも小さい物の一つを引き合いに出す。さらに、もっとも大きいものの一つとして桑の木も用いて話す。 地上に根をはっている大きな桑の木が小さなからしダネのようなものによって海に動かされ根をはるという話をする。
からし種は小さいものの象徴で、それが信仰で、桑の木が地上から海の中に動いていってしまうことは大きなものの象徴であり、それは人間が考えられる事や行いをはるかに超えている話。 それにしてもイエスはどうしてこんな話をしているのだろうか? 
キリスト教の信仰者になる、あるいは洗礼を受けるということは、ルーテル教会では、牧師が十戒、信仰告白、主の祈り、罪の告白、洗礼と聖餐について学び、洗礼を受けるように進めている。 しかし、だからといって試験をするわけでもなく、また作文を書いて、神について、このように知的に考えているから、あなたはクリスチャンです、と牧師が洗礼をほどこすわけではない。 
信仰者になるという事は、自然とか宇宙の存在と、聖書に書かれた神の存在を、きっぱりと分けて考えるような考え方の問題ではなく、むしろ、どのようなことに出くわそうが神なるイエス・キリストを信じ、完全に主にゆだねて生きるという、生き方の問題。 
神なるイエス・キリスト、聖霊でもあるキリストを信頼して生きるということは、実体のないものが最初に天と地を創造され、植物や動物もすべてを創造したということ信じることであり、21世紀に信仰者になるということはいってみれば、実体のないものに賭けて生きていくギャンブルのようなものかもしれない。  
信仰に生きるということは、主がすべて司ってくださるという点において、私は理知的に考えられるような存在ではないし、いつも正しく考えて正しい行動をす人間でもなく、よく過ちをおかしてしまう人間であることを認めて生きること。 そのような欠点や過ちにも関わらず、イエスキリストの御心により、私たちの人生は大きく改善していく面がある。 
それゆえ、キリスト信仰者は、神に仕え、あくまで謙虚に神からいただいた才能や恵みを、神の栄光を顕すために用いる。 そして、それはまた、私達が生きる世界についての理解をも深めることになっていく。 
クリスチャンの謙虚な生き様のなかに、父なる神が働いてくださり、主イエスが入ってこられ、主は洗礼と聖餐、さらに、神の御言葉も伴って、クリスチャンを義なるもの、聖なるものとさえしてくださる。  
その結果、神は信仰者たちに偉大な行動をとるように、偉大なことに気がつくようにと導かれる。 それは、神が赦してくださるということと人々を赦すということも偉大なことだが、多くの困難の中、不幸の中におられる方々に奉仕するように導かれるし、とてつもない複雑な現象に気がつくようにも導かれることもある。 たとえば、コペルニクスは15世紀まで信じられていた天動説ではなく地動説を説いたことで有名だが、彼はローマカトリック教会での重職を担っていた信仰者だった。私は、信仰に生きるなかで、神がコペルニクスにとても重要な概念である地動説を導いたと思う。  
イエスの信仰のゆえに、つまり神にゆだねる生き方をする中で、主なる神がクリスチャンの中に働いてくださり、たいへんな事に気がついたり、あるいは、世の偉業を成し遂げるということが起こる、それはあたかもほんの小さなからしダネが、大きな桑の木を動かしてしまうイメージだ。 しかし、どのような偉業を成し遂げても、「主なる神が働いてくださって、私はしなければならないことをしただけです。」というイエスの言葉にあったへりくだった言葉を述べるようになるのではないだろうか。
キリスト教の信仰は、科学的な探求とか発見と排他的な関係にあるものではない。私は、神が私たちに科学的な解明する力をも与えてくださっていることに感謝すべきだと思う。 神が私達に与えてくださっている信仰にも科学にも感謝し、主なるイエスキリストを賛美したい。アーメン。
Not “Why?” but “How?”  Luke 17:5-10
May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the people gathered here!
There are many Japanese people who say “I am not a Christian.” However, what do you mean “Christian”?
Sometimes, we hear, “Since I believe in science, that is why I do not believe the Bible and I’m not a Christian.”
People who think that way might have a perception that if you become Christian, you’re supposed to believe that “everything is created by God and you automatically ignore or disbelieve scientific discoveries like quantum theory, astrophysics, and cellular research.
However, in the world there are many scientists who are Christians and they have made important discoveries and proven many scientific principles.
Christians have entrusted everything to God…and for non-believers, it seems like Christians do nothing other than just believe in the Bible and disbelieve modern science. If this were the case, why have Christians made significant contributions to science?
In a sense, I believe that the Gospel scripture today answers that question, although it may be difficult for many of us to reconcile. The scripture today is the conversation between Jesus and his apostles.
The apostles asked Jesus to, “Increase our faith.” A paragraph before today’s text, Jesus guided them to forgive and forgive and forgive…that is a difficult thing to do in most cases.
“Therefore, the apostles recognized that following Jesus was difficult since Jesus ordered them to forgive almost forever. Then the Apostles thought they might have to do the difficult thing by increasing their faith. However, they did not know how they might increase their faith on their own. That is why they asked Jesus to increase their faith.”
In reply to their request, Jesus told about one of smallest things, which is a mustard seed. And then, he talked about the mulberry tree, which is an example of something large. He showed that something as large as a mulberry tree could be moved by the smallest amount of faith. Our faith in God allows us to accomplish great physical and intellectual things.
The mustard seed represents the smallest thing, faith, and the moving of the mulberry tree represents the biggest thing, which is something beyond what human beings can do alone…what does Jesus want to tell to his apostles?
To become a person who has faith (or to be baptized) especially for adult baptism in the Lutheran Church, pastors teach the Ten Commandments, the Apostles’ Creed, the Lord’s Prayer, Confession of Sins, Holy Baptism, and Holy Communion. However, we do not test how people understand these matters. Or it is not mandatory for people to write compositions or essays about how baptism candidates think about these matters or Christianity in general. Faith is not only meant to be an intellectual exercise.
To become Christians it is not necessary to consider God, Nature, the whole universe, or Biblical understandings separately, rather, we should live trusting everything in the Lord, Jesus Christ, which is “how to live taking delight in the Lord.”
In this 21st century contemporary world, trusting God, Jesus, and the Holy Spirit, is to trust something that is non-physical. Trusting that something non-physical created heaven, earth and all plants and animals asks us, as Christians, to bet our lives on something that is on some level uncertain.
To live in faith is to accept that we do not understand everything, we do not always think or behave correctly, and we often make mistakes, but despite our failings we realize we greatly improve our lives when we live according to Jesus’ will.
Therefore, a Christian must be willing to serve God and exhibit humility and use his or her God-given talents (whether they are physical or intellectual) to help glorify God and increase our understanding about the world we live in.
In the midst of Christians’ humble lives, the father, God works, we allow Jesus Christ to come in, and He sanctifies our lives through Holy Baptism, Holy Communion, and with the Living Word.
As a result, God lets Christians realize tremendous things. This includes forgiving others, not only forgiving wrongs or helping the less fortunate but also many other complicated matters as well. For example, Copernicus advocated the Heliocentric model of the universe when most scientists at that time still believed in the Geocentric model. He was in a very important position in the Roman Catholic Church during the early 16th Century. I believe God made him realize this important concept about our universe.
Because of faith in Christ, through living humbly with Christ, God works through Christians and makes us realize or do tremendous things, like a small mustard seed of faith can move a large mulberry tree from the ground to the sea. Even though we can discover or do important things, we can just say, “We have done only what we ought to have done!” like Jesus mentioned in today’s text.
Christianity is not opposed to scientific inquiry and discovery, but Christians should acknowledge and be grateful that God gave us our intellectual capacities in the first place. Praise God for all He has given us and through our continued faith may we glorify him. Amen!

LCR日本語部週報:通算#1276号(日本語)2013年10月6日の週報

LCR日本語部週報:通算#1276E号(英語)Sunday English Bulletin 1276E

今週読む詩編は37編の1節から9節。いつものように3回読み、一回目は気になった言葉、二回目は神が自分に何を語りかけているか、三回目は神がコミュニティに何を語りかけているか、思いをめぐらせよう。    

1:【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。

2:彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。

3:主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。

4:主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

5:あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい

6:あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。

7:沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。

8:怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。

9:悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。三回読み、それぞれ、どのようなことに思いを巡らせておられるだか? 
私の場合は、とにかく「ゆだねよ」という言葉に強く引かれている。そして、どのような困難があろうが、真剣に「主にゆだねる」生活をするように。 それは主にゆだねて何もしないという事ではなく、同じコミュニティに住む人々にも、「主にゆだねて」生きるように呼びかけるように、神が語りかけてくださっているように思える。

今週はじめ、アメリカ福音ルーテル教会の一教会としてこの南カリフォルニアで中国語伝道をしている牧師と話していた。設立して10年も立っていないその中

国語伝道の教会は、はじめの数年で、中国本土からはもちろん、台湾、香港、フィリピン、マレーシアなど東南アジア諸国からアメリカに移住してくる方々の波に乗り、すぐに100人以上の会員数となった。 二世代目の子供たちへのミニストリーのため英語での伝道者も与えられ、恵まれた礼拝堂のスペースも確保されていて、まだまだ、伸びても良い状況にある。 ところが、その教会の近くで、どこの宗派にも属しませんという中国語の教会がはじまり、そのリーダは、「アメリカ福音ルーテル教会のその中国語伝道の教会は、低所得者層を集めている教会だから、その教会には行かず、私の教会にいらっしゃい。」というようなうわさを立てていることが伝わってきた。 私はそのアメリカ福音ルーテル教会の牧師と話しあったことは、まさに、この詩編97編に詠われていることだった。 決してその単立教会のリーダのことを非難したりいらだつことなく、主を信頼して、主にゆだねて伝道を続けていきましょうという事だった。
「ゆだねる」ということは、信仰のキーワードだと思う。それは自分で怒りを覚えていらだって裁いたりすることなく、すべて主にゆだねて生きること。 しかし、ゆだねた結果、何もしないということではない。 聖霊の働きによりますます、宣教と社会奉仕に燃え、そしてイエスキリストの体の一部である教会形成の働きへと導かれる。 それは、聖霊の働きにより、逆に、主が信仰者にゆ
だね、主イエスキリストの働きを成すものとされるような面がある。10月6日の聖日礼拝の御言葉の歌(讃美歌21-564)は、まさにそのことを歌っていると思うので、その歌詞を最後に書いておく。 

1.イェスは委ねられる、伝道のみわざ、
  「神のことば伝え、病をいやせ」。
  あかしのつとめに 赴く群れに
  主よ、今、与えたまえ、聖霊の力を。

2.イェスは集められる、ひとつの民に。
  「授けよ、バプテスマ。教えそだてよ」。
  共に生かされて つかえる群れに
  主よ、今、与えたまえ、聖霊の力を。

3.イェスは遣わされる、地のはてまでも。
  主は共におられる、世の終わりまで。
  恐れを乗り越え 旅行く群れに
  主よ、今、与えたまえ、聖霊の力を。

様々な状況に置かれている皆様が、主にゆだねる生活をいとなみ、豊かな聖霊の
力が働いて、主イエス・キリストのゆだねがありますように。 アーメン。

「今をどう生きるか」   ルカ 16: 19-31   
主イエスキリストの恵みと平安が皆様方の上に豊かにありますように! アーメン

先週の秋分の日、日本ではお墓参りに行く習慣がある。この復活ルーテル教会では、召天者記念礼拝が行われた。皆様のご協力もあり、またもっとも重要なこととして聖霊の助けにより、天国にいる方々との交わりの時が持てた。 礼拝を終えたあと、食事の時を持ち、故人の思い出を分ち合う機会が与えられた。 そして、月曜から日頃の生活に戻ったが、どのような一週間だっただろうか。 
故人を思い出すことが、なにかみなさんの一週間に変化を与えただろうか? 私は、40代で亡くなった友人のことを思い出していた。 膵臓癌になった彼が、なぜ自分がすい臓がんにならなければならないか等ということを質問するより、現実に迫ったこの世の死期を前に、家族や友人との交わりに感謝し、信仰を持ち、この世の生活を全うしたことを思い出した。
そして、私を牧師に導いたともいってもよい彼の言葉を思い出した。彼の今の天国での幸福を確信するとともに、神が彼を通して与えた伝道という使命を今一度思い出し、新たに、牧師としての仕事に取り込む思いのする一週間となった。
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さて、今週与えられている聖書、大金持ちとラザロのたとえ話。 大金持ちとラザロが死後、天国に行きどのような状況になるかの話。 
大金持ちは、この世では贅沢三昧をしていた。もう一方で、貧乏人ラザロは、見るも無残な生活を送っていた。 ホームレスであることはもちろん、犬にできものをなめられる、それは貧困中のなかの貧困という生活を送っていた。大金持の食卓から落ちてくる食べものを食べれないものかと思って生きていた。  
そのラザロが死んだが、葬式をしてくれる者もいなかったのだろう。ところが、彼は天使に連れられて、天国で上座にいるアブラハムの隣に座る。一方、大金持ちもやはり死に、贅沢な葬式が行われたと思われるが、天国に行くとどうだろう。アブラハムやラザロのいるとても気持ちの良いところの手前に深い割れ目があって、そこを渡ることができず、炎の中で苦しみもだえている。とても天国と呼べるところではない。その割れ目は自分の力では越えることはできず、いろいろなお願いをするものの、この世で贅沢三昧をしたことで、炎の中で苦しみもだ続けるしかない。アブラハムからは、お前はなんでも手に入れいたいものを入手できたが、ラザロは何も持たなかったと諭される。 
イエスはなぜ、こんな話をしているのだろうか。 また、いったい誰に向かってこんな話をしているのかよく考えてみたい。 話の前後関係からいって、イエスのたとえ話は、お金に固執してしまう、ファリサイ派というグループの人々に向かって話している。ある意味、ファリサイ派の人々は大金持ちと共通した面があり、お金に固執していた。モーセや預言者たちの言葉を読んではいるものの、実際にはそれらの話に基づいた行動をしていない生活をしていたと思われる。もし、信仰をもってそれらの言葉を読んでいたとすれば、貧しい人々や寄留者たちと食物を分かち合っていたのだろうが、大金持ちと同じように、貧乏人と分かち合うということはしていなかった。 
たとえば、ミレーの絵画になっている申命記の落ち穂拾いの話は有名だし、イザヤ書の58章の6節7節には、「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」とある。 第一日課にあったアモス書もいってみれば、社会正義に関する話。
つまり、イエスはこの大金持ちとラザロのたとえ話をする中で、旧約聖書の言葉を読むものの、実生活ではお金に執着してしまい、当時のイスラエル社会で困難の中にある人々を見下していたようなファリサイ派の人々に、もともと神がモーセや預言者たちを通じて、どう行動するように言っていたかに気づいてもらうため、イエスは話しているのだと思う。
では、このたとえ話は私たちに何を語っているのだろうか? このたとえ話は、大金持ちと、貧乏人ラザロの死後の世界のたとえ話だが、この話は、私たちの死後の世界の問題というより、私達が、いまどう生きるかをするどく問われているように思う。
私たちは、神なるイエスが、どのようなことに一生懸命であるかよく覚えておく必要がある。そしてイエスが私達を愛し、私達もそれに気づくという関係の中で、イエスが私たちを徹底的に赦すイエスの信仰によって、私達も聖書に書かれていた神の行いに導かれる。 
3週間前の9月8日は、オレンジカウンティのELCAの教会がホームレスや困窮の中にある方々の食料を集める事を行なった。 私達が寄付するだけではなく、スーパーマーケットの前に立ち、できる方には寄付を呼びかけ、たいへんな量の食料が寄付された。 しかし、困難の中にある方々に奉仕するのは、一日限りで終わってはならない。 
今一度、私達教会に集うものは、イエス・キリストの体の一部となって奉仕活動をするように導かれている。 イエス・キリストは、宣教することと、病気や貧困の中にある方々に憐れみをいだき奉仕することに本当に熱心な方だった。  
キリスト教徒はイエスの信仰によって、イエス・キリストが我々に行動して欲しいことをするようになる。 今週与えられた譬え話、イエス・キリストの英知が、わたしたちの今週の生き方を変え、この世の中がさらにキリストの御国へと近づきますように。 アーメン

How Do We Live Now? Luke 16: 19-31

May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! Amen.
Last Sunday was the Autumnal Equinox. In Japan, during autumn, it is customary for people to visit cemeteries to remember loved ones. Therefore, in this Japanese ministry, we do a special Memorial Service on a Sunday around the Autumnal Equinox. I believe that it was a great service to remember our loved ones.
In addition to the service, it was great to have lunch together and share stories of our loved ones with each other. Then on Monday we returned to our normal weekday schedule, but how was last week for you?
Did remembering a loved one change the way you lived last week? For me, I was thinking about my friend who passed away 16 years ago due to pancreatic cancer. Before he was diagnosed with cancer, he was not a Christian but then he accepted Christ as his savior. While he was fighting cancer, rather than ask God why he got cancer, he thought about how to better live with his family, friends, and most importantly with God faithfully.
It is not an exaggeration to say the way he lived changed my life. What he said to me several weeks before he passed away changed the course of my life from a corporate employee to becoming an ordained pastor. During last week, I was confirming his eternal life in heaven, and at the same time, I remember the mission that God guided me on through him and I started a new week of missional work as a pastor of the apostolic church.
Today, the Gospel given is about the rich man and Lazarus. This is a story about their lives in this world and their afterlives.
While they were living in this world, the rich man was living such a luxurious life. On the other hand, Lazarus was a very poor homeless person. He longed to satisfy his hunger by the food dropped from the rich man’s table and only dogs came to lick his sores.
Lazarus died without a funeral. However, an angel brought him to heaven seated next to Abraham. On the other hand, the rich man died with a luxurious funeral, but what happened to him when he comes to heaven and talked to Abraham? The place he was ultimately brought to was a place of eternal punishment and torment. The rich man saw Abraham and Lazarus from far away.
There was a great chasm between Lazarus and the rich man and there was no way for the rich man to come to where Lazarus was located. Since the rich man had everything he wanted in his worldly life and Lazarus had nothing during his worldly life. In their afterlives their situations were reversed.
Why did Jesus share this kind of parable? Let us think about to whom Jesus was speaking. Based on the one paragraph before today’s gospel, Jesus was sharing this story with the Pharisees who dearly loved their money.
In a sense, the Pharisees and the rich man are the same, both dearly loved their money. Even though Pharisees read the Bible (Moses’ Pentateuch and prophets), did they follow what was written, like sharing the food with the needy? They did not act, according to Scripture, as told by prophets. The rich man did not share his wealth with the less fortunate as well.
For example, there is a famous phrase in Deuteronomy 24, “When you are harvesting your crops and forget to bring in a bundle of grain from your field, don’t go back to get it. Leave it for the foreigners, orphans, and widows.” This scene is depicted in a famous painting “The Gleaner” by Millet. In Isaiah 58:7, “Share your food with the hungry, and give shelter to the homeless. Give clothes to those who need them, and do not hide from relatives who need your help.” We read Amos as the first reading, actually that aspect of Amos discusses social justice.
Therefore, by sharing the parable of the rich man’s and Lazarus’ very different afterlives, Jesus wanted the Pharisees to realize the fact that God has great compassion toward the hungry, homeless people, and the needy, and the Pharisees were not acting as God wanted them to act.
So what this parable telling us today? Although Jesus talks about the lives of the rich man and Lazarus after they died, I do not think that the point is the time after we die. It is not too late for us to realize how we are living our lives. The point is how we live and act now.
I think we need to remember what Jesus Christ, the Lord, is passionate about. As Christians we love Jesus, and because of our faith in Jesus Christ, we are guided to act by what was written in the Pentateuch and by the Prophets.
Three weeks ago, on September 8th, ELCA churches in Orange County did a wonderful job to collect foods for the Orange County Food Bank. What we did was that not only us to bring the food for the needy but we also asked our neighbors in the community to consider donating food for the needy and homeless. However, the work and compassion for the needy and homeless should not be a one-time event. Let’s us remember that we, Christians, are a part of the body of Christ. Jesus Christ is passionate about proclaiming the Good News and he is very compassionate towards the world’s needy.
Because of our faith in Christ Jesus, we act what Jesus wants us to do. May this parable and the wisdom of Jesus Christ change our lives during this new week! Amen.   

LCR日本語部週報通算#1275号(日本語)

2013年9月29日の週報

LCR日本語部週報通算#1275E合[英語)
Sunday English Bulletin 1275E

今週読む詩編は146編。いつものように3回読まれることをお勧めしたい。  

1:ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
2:命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。
3:君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
4:霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。
5:いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
6:天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。
とこしえにまことを守られる主は
7:虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
8:主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
9:主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
10:主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。

先週与えられていた詩編は113編はハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編だった。 今週も同じようにハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編。 実は、詩編146編以降は、最後の150編まで、すべてハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編となる。 150ある詩編の結論は、「ハレルヤ」(主を賛美せよ)とも言える。 

最後の5つの詩編の最初、146編について、1-2節、3-6節前半、さらに6節後半から10節までに分けて、以下、思ったことを書いておきたい。

1-2節: 私もみんなも主を賛美せよ
1節では、一見、「わたしの魂よ」という言葉の中に、詩編作者個人が自分自身に「主を賛美するように」呼びかけているかのように読めるが、2編を読み、さらに3編以降に移っていくとき、決して詩編作者個人で賛美するのではなく、自分の属するコミュニティ、ひいては人類全体へ「主を賛美せよ」と呼びかけているように思える。 

3節-6節前半: 誰を頼るか
君候、昔の中近東やヨーロッパの文化で言うなら領主、日本なら大名に相当するような人々、つまり一般市民を支配する立場にあるような人々に頼っても、所詮彼等は人間であり、死が訪れてしまい、頼り続けることはできない。 だから、主なる神に頼る人々は幸福である。 その主なる神は、大昔に天と地と海を造られた方であり、また、現在もそこに住むものすべてを造り続けておられる方。 

6節後半-10節: 貧困の中にある方々を憐れむ主
すべてを創造された主なる神は、虐げられている人々、飢えている人々、捕囚されている人々、目の見えない人々、うずくまっている人々を憐れんで行動を起こしてくださる。 主に従う人々を愛し、孤児や未亡人も励ます。 そして、主に従わないものは、その歩みをひっくり返してしまう。 主なる神は、代々永遠に続く王。 だから主を賛美しよう。

「今をどう生きるか」
9月29日の日曜日に与えられている聖書の箇所はルカ福音書16章にある金持ちとラザロの話。 金持ちとラザロが、死後に行く天国では、立場が逆転してしまうような譬えをイエスは話されている。 その話は、私達の死後の世界への予言というより、現実社会で富める層と貧困層との間に大変な格差がある現実のなかで、私達がどう生きるかを問いかけているのだと思う。 そして、今週、いっしょに与えられている、詩編146編に関しても、ただ昔に詠われた詩編を読んで鑑賞するというのではなく、21世紀を生きる私達に、「今どう生きるか」を問いかけているように思える。 表題に書いたように「主に頼り、主を賛美して」生きることはもちろんだが、主に頼り主を賛美する中で、さらに、私達ひとりひとりにできることをするように、主が行動へと導かれる。 

復活ルーテル教会の中で、さまざなな困難にある方々のことを覚えるとともに、ホームレスの方々、またホームレスではないものの、日々の食料に困っている経済的な困窮の中にある方々の上に主の憐れみを祈り、また教会につながる者が、つまり主イエス・キリストの体である教会が、さらなる行動を起こし続けることができますように。 

マルコ2:1-5

主イエス・キリストの恵みと平安がお集まりの会衆に豊かに注がれますように!

天国にいくことができるのは、キリスト教信仰のある方だけなのだろうか? 聖書を読んでいると、たしかに、そのように読めるところはある。アメリカにいるクリスチャンに聖書で一番好きな箇所はと聞くと、ヨハネ福音書3章16節と答える方が多い。そこには,「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とある。神の独り子であるイエス・キリストを信じる者が、永遠の命を得られるとある。 
では、信じていない者は、どうなってしまうのか? 日本では、1%もクリスチャンはいない。では99%の方々はどうなってしまうのか? イエス・キリストの愛を何も伝えられないまま、亡くなる方や、洗礼を受けるまでにいたらずに、亡くなる方々はたくさんいる。それは、私たちの友人や親戚でも。 
さきほど読んだ聖書の箇所、中風と書いてあるが、たぶんストロークに襲われ、動けなくなってしまった方だと思う。病状はくわしく書かれていないが、意識もまったく無かったのではないだろうか。ストロークを起こす前は、とくに信仰心があったというわけでもなく、暮らしていた方だったのだろう。しかし、イエスに望みをおく信仰者の友人たちが、必死になって、担架に乗せてイエスのところに連れてきた。 
イエスがある家で説教していたので、たいへんな人だかりで、担架を運び込むスペースなどありはしない。そこで、屋根に上がり、屋根の一部を開けて、担架ごと、屋根からつるしたまま、その人をイエスのところに降ろした。 すると、イエスは、その友人たちの信仰を見て、その担架に寝ている人の罪を赦し、救われる。この話で鍵となっているのは、担架でその人を運んできた人々の信仰。担架に乗っていた癒された本人の信仰ではなく、友人たちの信仰により、神なるイエスは、その担架にいる人を救われる。 
今日私たちは、先に亡くなった多くの友や親戚のことを覚えている。もちろん、キリスト教の信仰をもって亡くなった方々もたくさんおられ、残された家族も、はっきり故人は天国に行っていると確信できる。しかし、洗礼を受けるまでにはいたらずに亡くなった方々や、仏教や日本神道の信仰を持たれていた方々もいる。信仰にはほとんど無縁で生きていた方々だっている。しかし、私たちには彼等が天国におられないとは聖書の言葉からしても断定できない。そのような裁きは神のみができることで私たちの仕事ではない。むしろ、先にこの世の命を終えられた方々の友人や親戚の人々の信仰により、私たちは、イエス・キリストが、今日私たちの心に覚えるすべての方々を、信仰や文化の違いの壁を超えて、すべて天国に招き、今も永遠の命を与えくださっていると信じることができる。アーメン。 

A Friend’s Faith Mark 2: 1-5

May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into this assembly!

Are the people who are promised eternal life in heaven, only Christians who believe in Jesus as son of God? There are scriptures that seem to strongly suggest this. It is said that Christians in the United States like this Bible verse most, John 3:16, which reads, “For God loved the world so much that he gave his one and only Son, so that everyone who believes in him will not perish but have eternal life.” Everyone, but who believes in Christ, son of God, will have eternal life…
So we wonder, what will happen to those who do not believe in Christ? In Japan, the number of Christians is only 1% or even less for the whole native Japanese population. What will happen to the 99% of Japanese after they pass away? There are plenty of people who were not told about Christ and they passed away. Or there are many who even though they were told about Christianity a bit, were not baptized and then passed away, including some of our friends and relatives.
The scripture, I read a short time ago, about the paralyzed man on the mat; he probably suffered a stroke and could not move any portion of his body and was unconscious. Before he suffered his stroke, he was not living a faithful life. However, his friends or relatives who heard about Jesus and earnestly believed in Him, brought the paralyzed man to Jesus.
While Jesus was preaching in the house, there were many people in the house. There was no space for them to bring the paralyzed man into the house. Therefore, the friends carried him on his mat up onto the roof and then lowered him down into the room from a hole that they made. By seeing the faith of his friends, Jesus forgave the sins of that paralyzed man.
Jesus did not ask whether or not he believes in Christ. Rather the key issue was the faith of his friends. By seeing the faith of his friends, Jesus forgave the paralyzed man and saved him.
Today, we are remembering many people who passed away much sooner than expected. Out of them there are many who believe in Christ as son of God and we are 100 percent sure that they still live in Christ in heaven. However, there are also many of our friends and relatives who were not baptized or did not know about Christ before they passed away. Also among them, there are people who have different faith backgrounds, such as Buddhist or Nihon Shinto. Even in that situation, we cannot judge that they are not living eternal life in heaven, that is not our job. Only God may judge. Rather, because of someone’s faith in Christ who cares about him or her, we can believe that they are forgiven and saved by Christ. Therefore, all the people we remember today, regardless of their chosen faith and cultural background, are all under the care of Jesus Christ in heaven. Amen.