今週読む詩編は103編の最初の8節。神の愛を詠ったすばらしい讃美だと思う。時間の許す限り3回でも5回でも読まれたら良いかと思う。  

詩編 / 103編
1: 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。
2:わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
3:主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
4:命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
5:長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。
6:主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。
7:主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。
8:主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。

この詩編を読み、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。気になる言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? 

私は、1節と2節にある「たたえよ」という命令形の言葉が気になった。3-5節の部分は自分に語りかけられる言葉と感じた。6-8節は、人類全体というコミュニティに向かって語られているような気がした。 そこで、1-2節、3-5節、6-8節に分けて、それぞれ思いつくことを書いておきたい。

1節、2節ともに「わたしの魂よ、主をたたえよ。」という言葉からはじまっている。 繰り返されることで、「主をたたえよ」という強い命令のように感じる。 それは、詩編作者、ダビデが自分の体験から自分自身に言っているようでもあり、この詩編を読むものすべてが自分で自分に、「わたしの魂よ」と呼びかけ、「主をたたえるように」命令しているようでもある。それも、ただたたえるのではなく、全身をもって(1節後半)、また、主が計らってくださったことを何ひとつ忘れることなく(2節後半)たたえるように。 命令する以上は、その理由が書かれているのかと思い、続きを読んでいくと、3節以降は、やはり「主をたたえる」理由が見事にうたわれている。 

3節から5節は、「主はお前の」という言葉ではじまっていて、主と自分の関係の中で、主が直接、自分にしてくださるすばらしい御業が書かれている。「赦し」、「癒し」、「購い出し」、「冠を授け」、「満ち足らせ」、「新たにし」という主が自分にしてくださる動詞が6つ出てきている。 まさに神の行い、御業。主の愛が自分を包括してくださっているようでもある。

6-8節は、コミュニティについて詠っているように感じる。 6節では、虐げられている人々へ、つまり、コミュニティのなかで、騙(だま)す人々と騙されている人々に対して、主の裁きと恵みの御業を行ってくださる。 7節では、歴史的に起こったひとつの例として、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民に対して、そのリーダであるモーセにイスラエルへ帰還できるようにその道を示し、そして、イスラエルの民、一人一人にも、主の御業を示された事実を短く詠っている。そして8節で主の慈しみが、いかに大きいかを詠っている。

最後に「慈しみ」という言葉について触れておきたい。 本日の詩編の4節と8節に出てきたし、実は、今日の詩編の9節以降を読んでいくと、11節と17節にも出てくる。 聖書を読んでいて、あるいは、キリスト教の牧師や神父たちの説教、メッセージ等々を聴いていて、「慈しみ」という言葉はよく使われる。 キリスト教ばかりではなく、仏教でも。 そもそも、「慈しみ」というのは、仏教の言葉だった。 ポルトガル語、ラテン語、英語などでキリスト教が日本に入ってきて、神の大きな愛の表現方法として、ぴったりあてはまる日本語として、仏教で使われていた「慈しみ」が近いということになったのだと思う。 しかし、この日本語に訳された「慈しみ」という言葉は、詩編が書かれたヘブル語では、そもそも何という言葉なのだろうか? 

ヘブル語の詩編では、”rebem” (ヘブル語は文字が違うが、ヘブル文字をアルファベットで表記した)という言葉が使われている。 そして、この言葉はそもそも、英語でいう”womb”、母の胎、子宮のこと。 そこで、神の「慈しみ」のイメージとして、母が子宮の子に愛情を注いでいるところを思っていただければ良いのかと思う。

復活ルーテル教会に集まる人々、特に病の中にあり困難の中にある方々、そして、地球上のすべての人々に、神の慈しみが豊かにありますように。 
主を賛美しつつ。 

 

ルカ12: 49-56
集まりました会衆の上に聖霊が注がれ、豊かな恵みと平安が与えられますように! アーメン

先週、アメリカ福音ルーテル教会全体総会が行われていた。 「Always Being Made New」というテーマが掲げられたすばらしい総会だった。 テーマの言葉は、第二コリントの5章、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ること、」という言葉から来ている。
総会では、Presiding Bishopの選挙があり、12年務められたマーク・ハンソン ビショップに代わって、「Always Being Made New」という言葉にふさわしく、アメリカ福音ルーテル教会では初めて女性のPresiding Bishopが誕生した。現在オハイオ北東教区のビショップを務められているエリザベス・イートン牧師が、Presiding Bishop になられた。 選挙中の候補者のスピーチや質疑応答の場面をインターネットを介して見ていたが、刺激を受け、またいくつかの言葉に感銘を受けた。 質疑応答を聞いて、神によっていつも新しくされるということは、ある意味、人間同士で分裂や葛藤が起きるのはしょうがないという気持ちにもなっていた。   

さて、本日の福音書の内容に触れていきたい。皆さん、聖書を読んで、どうしてこんな事が書いてあるか疑問を持ったことがあるだろうか。今日の福音書箇所を読んでどんな思いを持たれているだろうか? イエスご自身が、「私が来たのは、火を投じるため」とか「平和では、なくて、分裂だ」とか。イエスは何をおっしゃりたいのだろうか。このルカ福音書のこの箇所は、聖書日課に沿って3年おきに、第二次世界大戦の終戦記念日の前後に読まれることが多く、考えさせられる。 
原爆を持って第二次世界大戦が終ったが、イエスを火と投じるためといっていたのは、イエスが原爆を投じるということだったのかと思われる方もいるかもしれないが、イエス様がおっしゃる火はそういうことではない。じゃ、「火を投じる」っていったい何だろう?   
聖書の読み方として、ある箇所だけに集中して読む時もあるが、聖書のストーリの流れの中で読むこと。また、新約聖書のイエスの言葉は、旧約聖書や、新約聖書の福音書以外の手紙も鑑みながら読むことが重要な要素である。
第一日課の、エレミアが言葉が火であると伝えていることは多いに今日の聖書箇所と関係がある。またヘブライ人への手紙の中で、信仰が、さまざまな困難を克服するということが書かれていることも多いに考える必要があることなのだろう。
聖書のストーリの流れという点では、イエス・キリストがこの世に登場したことで、困難や分裂が起こった。事実として、救い主であるイエスの存在自体によって、ユダヤ教指導者たちとの間に分裂が起こり、よってローマ軍の指導者たちも巻き込んで、イエスを十字架に架けたという面は否めない。 そればかりではなく、イエスの十字架の死と復活、そして聖霊降臨の後には、キリスト教信仰者たちの迫害も起こっている。しかし、そのようなこの世の分裂の中でも、キリスト教会は、聖霊降臨後ずっと続いている。聖霊降臨が大きなきっかけとなって、キリスト教会は誕生した。 聖霊降臨の時、何が起こったのだろうか。 使徒言行録の2章に描かれているが、聖霊が炎のような舌となり別れ別れになって、人々の口のなかにとどまって、言葉を語らせるような状況になる。
聖霊降臨のできごとで、聖書が伝えているとても大切なイメージは、聖霊が炎のような存在。 燃え上がっている火の存在である。 そこで、本日与えられている聖書の最初の節、火とかかれている言葉は、聖霊という言葉で置き換えて読んだら、どうなるだろうか。 
「わたしが来たのは、聖霊を投ずるためである。その聖霊がすでに燃えていたらどんなに良いことかと。 しかし、私には十字架の死と復活が先に起こらなければならない。 私がきたのは平和のためだと思うか。そうではない、むしろ分裂だ。」
この21世紀にあって、イエスがおっしゃりたいことを、じっくりと考えたい。 Always Being Made New とあるように、イエスと結ばれる者が毎日現れ続け、その結果、教会、社会もいつも新しくされている。 
そのような新しい状態へ、神が創造してくださっている中で、新しい組織なり人物なりに、反対する勢力も出てきてしまう。 つまり、イエスが救い主として現れたこと事態が、当時の宗教指導者たちにとってみれば、「そんな馬鹿な?」という話で対立が起こったのと、ある意味、似ていて、女性の牧師すら認めない教会がある世の中で、女性のPresiding Bishopとはとんでもないという教会の考えをしている教団がまだ世の中にはある。 
そのような対立や分裂のまっただなかで、神なるイエスが投じてくださった火のような聖霊が働いてくださっている。 人間の目から見れば、起こってしまった分裂は、なかなか解決しないように見えるが、その分裂の中に聖霊が存在してくださっていて、必ず、落ち着くところに落ち着くようにしてくださる。 
聖霊は、火の玉のようであり、どのような困難や分裂がある中でも、突き抜けていく。分裂がはげしいものでも、突き抜けていく聖霊によって、新しい道が与えられる。アメリカ福音ルーテル教会全体でも、この復活ルーテル教会の中でおこるさまざまな問題に対しても、また、ここに集まっている一人一人の実生活の中で起こる困難や分裂に対しても、豊かに働いてくださっている火のような聖霊の働きを信じ、新しくされて、主に遣わされて生きて行こう。 アーメン “Fire and the Holy Spirit” 2013 8 18
Luke 12: 49-56 Pr. Hitoshi Adachi

May the Holy Spirit bless each individual here in this Sanctuary! Amen.
During last week, the ELCA Churchwide Assembly was held in Pittsburg, Pennsylvania. The theme of the assembly was “Always Being Made New,” and it was a wonderful assembly. The theme came from the second Corinthian 5:17-18: “So if anyone is in Christ, there is a new creation: everything old has passed away; see, everything has become new! All this is from God.”
During the assembly, there was a Presiding Bishop election. The current Presiding Bishop Mark Hanson was not reelected, but as “always being made new,” a female Presiding Bishop was elected for the first time in ELCA history.
The Presiding Bishop-elect is Pastor Elizabeth Eaton, she is currently serving as Bishop of Northeastern Ohio. Although I could not watch everything that happened during the assembly, while I was watching the assembly via internet, on Wednesday, I was impressed and moved by the four candidates’ speeches.
When I was listening to the questions and answers between the chair and candidates, I happened to think that since God is always making people new in Christ, conflicts and divisions are eventually settled. Not always according to human timelines, but God does deal with them according to His plan.
Now I would like to dive into the Gospel text. I would like to ask you a couple of questions, while reading the Bible, have you ever thought “why these kinds of things written in the Bible?” “What was your reaction when you read the Gospel text today for the first time?” Jesus said, “I came to bring fire to the earth” and “Do you think that I have come to bring peace to the earth? No, I tell you, but rather division!” What was Jesus trying to say? The Gospel today is read during the middle of August, almost every three years (Luke 12), during this month the Japanese experienced the end of the World War II. Therefore, as a people it gives us a lot to think about.  
Many years ago, many years before I started my seminary education, I thought that God allowed the atomic bombs over Japan to end WWII, and felt that was symbolic of Jesus coming to bring fire to the earth. Now I do not think that was right at all. So what is the meaning of the “fire” that Jesus would bring?
In order to read the Bible, sometimes we have to take time focusing on certain verses in one book. However, it is important to consider and to take into account of the flow of the story of the Bible. Also, other important factors to consider are what the Old Testament says and what other epistles say related to the text, especially focusing on interpreting Jesus’ words.
It is important to notice that Jeremiah said, “Is not my word like fire, says the Lord, and like a hammer that breaks a rock in pieces?” I think it is also important to notice that faith in Christ overcomes many challenges and difficulties.
As for the flow of the Bible, the existence of Jesus Christ caused difficulties and divisions. As a matter of fact, the presence of the Savior, Jesus Christ, bothered Jewish leaders. They took advantage of Roman Empire leaders in Jerusalem and with their help, Jesus was crucified. Not only was Jesus crucified, but also, after the Pentecost, there was a large-scale Christian persecution that lasted almost three hundred years.
However, even in the midst of such difficulties, the catholic Christian church has existed almost 2000 years after the Pentecost. What happened on the day of Pentecost? Of course, the Holy Spirit came down, but what was the image that the disciples saw? According to Acts Chapter 2, “Divided tongues, as of fire, appeared among them, and a tongue rested on each of them.”
One of the images of the Holy Spirit, that is important in the Bible, is “fire.” So how about exchanging the word “Fire” with the phrase “the Holy Spirit”? “I came to bring the Holy Spirit to the earth, and how I wish it were already kindled! I have a baptism with which to be baptized, and what stress I am under until it is completed! Do you think that I have come to bring peace to the earth? No, I tell you, but rather division!”
As we now live in the 21st century, let’s think about what Jesus said. As it is written in second Corinthians, “So if anyone is in Christ, there is a new creation,” in this world, someone is always made new through the Holy Spirit that Jesus brings even today. And through newly baptized people, the whole church is recreated and reignited by the Holy Spirit. As a result there are always disagreements about what is happening even though God is creating a new direction, and conflicts or divisions continue happening. As Jesus himself became a stumbling block for Jewish leaders, the female Presiding Bishop-elect Elizabeth Eaton might be a stumbling block for certain Christians because certain denominations still do not ordain women.
However, even in the midst of conflicts and divisions, the Holy Spirit, brought by Jesus Christ, is working like fire. Although healing the divisions and overcoming the challenges may not seem possible in humanity’s eyes, the Holy Spirit is present and working in our midst.
Again, the Holy Spirit is like fire and it can go through all the difficulties and challenges. As we go forward, we are always made new and at the same time we face challenges and divisions, but with the help of the Holy Spirit, i.e. cleansing fire, we are OK and we are shown a new path.  
May the Lord, our Savior, Jesus Christ recreate the Evangelical Lutheran Church in America, Resurrection Lutheran Church, Japanese Ministry, and renew each individual everyday; and may the Holy Spirit, like fire, settle all challenges and divisions in each individual, Resurrection Lutheran Church, and in the church at large! Amen  

週報通算#1270号     (日本語)

2013年8月18日の週報

週報通算#1270E号     (英語)
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終戦記念日にあって黙祷の祈りを持ちつつ。 今週読む詩編は82編。今回は、まず一回読んでから、下の解説を読まれたら良いかと思う。 

詩編 / 82編
1:【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。
2:「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
3:弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
4:弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
5:彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
6:わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。
7:しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
8:神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。

一回読んでみて、どんな感想を持たれているだろうか? 1節に描かれている光景に何か違和感を覚える方もいるのではないだろうか。神聖な会議が行われている様だが、神々の間で裁きを行われる神が立っている。 とくに21世紀に生きる我々にとって、また、一神教を信じているはずの、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の聖典のなかに、このような光景があるのに、なにか疑問を持たれるかもしれない。 しかし、旧約聖書には、これと似ているイメージは描かれている。皆さんに聖書を読むときに、とかく、「現代の私たちに何を問いかけているのかを考えよう」と申し上げているが、このような光景を読む時は、いきなり現代の私たちへの状況を考えるより、どっぷりと、自分が旧約聖書時代に戻ったようなイメージの中で、2回目を読み、さらに、以下の解説を読まれたらどうだろうか。 

詩編に82編2節では神が、神に逆らって不正をを働いている神々にクレームをつける。そして、「セラ」となっているので、休止符が入る。(セラについて以前にも説明したが、詠うときの休止符の意味を持つ記号のようなものと理解すればよい。)3-4節では、クレームから、アドバイスに変わる。神々に弱者、孤児、生活に困窮している人々こそ正しい人であることを認めるようにと。

5節では、そのアドバイスを受け入れる気配の無い神々が暗闇の中で行き来している様子が描かれ、そして、地の基がぐらぐらと揺れ始める様子が描かれている。    

6節7節で言われていることは、「私は言った」となっていて、詩編作者の言葉のようでもあるが、むしろ、会議の中で、神が裁定を下す時の言葉のイメージで捉えて良いと思う。 「あなたがたは、神ではなく、地上に生きる人間で、いずれは死が訪れる、いや、いっせいに没落の時がやってくる。」と語られ、それは、有罪判決とともに、刑の執行が同時に起こるかのイメージが描かれている。

8節は、祈りの言葉で終っているが、今週の詩編においても先週と同じく、「嗣業」という難しい言葉が使われている。この「嗣業」という言葉を使わずに、祈りを表現するなら、「神よ、立ち上がって裁いてください。 すべての民は、元々、あなたが創られたのですから、すべての民が、あなたからの恵みを受継ぐ者としてください。」という伝道的な祈りで締めくくられていると感じる。 

さて、ここで、上記のような旧約聖書時代のイメージが現代の私たちに語りかけている事は何なのだろうか。 あるいは、旧約聖書時代のイメージが現代と共通することはないだろうかと考えながら、詩編の3回目を読まれたらどうだろうか。 

現代においても、孤児や弱者、生活困窮者たちはたくさんおられる。 また、社会正義の観点からは疑問を抱かざるを得ないようなリーダ、それは政治家であったり、あるいは、企業や非営利団体(宗教団体も含む)の幹部だったりする。 

現代においても、地の基がぐらぐらと揺れているような事態は続いている。 社会全体が、実は、とても不安定な中にある。 だからこそ、すべての民が、この詩編にあるような言葉を読み、そして、すべての民、とくにさまざまな会社でも団体でも、リーダ一、一人一人が実は自分が神に創られたという原点に気づくようにと祈る。

ある方がロボットを開発した。ロボットは精巧に作られたがため、開発者の言う事を聞かなくなってしまった。現代の神と信仰を持たずに生きる人々の関係は、このロボット開発者とロボットの関係に似ているような面もある。(まだそのようなロボットは実在しないと思うが。。。) 

「真の平和への備え」ルカ12:32-40 牧師 安達 均

集まりました会衆の上に、イエス・キリストの恵みと平安が豊かに注がれますように! 
8月の第二あるいは第三日曜は、第二次世界大戦の終了が8月15日だったことから、日本のキリスト教会の多くは平和主日としている。 
1912年から1953年まで、アメリカから宣教師として派遣されていたローラ・モークという方がいた。 第二次世界大戦が始まる中、在留していた多くのアメリカ人は帰国せざるを得なくなった。 しかし、彼女は「私は福音のため帰国しません。」と断った。結果、戦争中、日本の強制収容所に入れられた。 ある日、収容所では防空壕をほっていた。すると、彼女は「だれのためにほっているのか。」と質問した。「あなたがたのためだ。」との答えが返ってくると、ローラ宣教師は、「私のためなら防空壕は要りませんよ。私は毎晩、雨のように降ってくる爆弾を見て命が縮まる思いがします。あれは、日本人逹の上に落ち、あの下で皆さんが苦しみ、ことに幼い子供たちも死ぬかと思うと、どうか、あの爆弾が私の上に落ちてくるようにと祈らずにはいられないのです。」と言われた。 普通だったら、爆弾が自分に落ちないようにと祈るのに、自分に落ちるようにと祈る、その言葉に収容所の所長は感銘していた。 戦後、収容所の所長は家族で教会に行くようになり、洗礼を受けた。 

さて、第二次世界大戦中のエピソードを紹介したが、さらに1900年さかのぼって、新約聖書が書かれた時代がどういう時代だったか考えてみたい。 ある意味、その時代のキリスト教信者たちは、第二次世界大戦中に日本に住んでいた者(日本人アメリカ人を問わず)の体験と似ているような面がある。イエスが十字架に架かるだけではなく、ユダとヨハネ以外の弟子は、殉教した。殉教とは、キリスト信仰を持つがゆえに殺された。キリストを信じるようになった者たちは、迫害される時代になっていった。そのような時代になることを、神なるイエスは、わかっておられたと思う。 イエスは、本日の聖書箇所の少し後、ルカ12章後半で、「私が来たのは平和をもたらすためではなく、火を投じるため、むしろ分裂だ。」と言われていた。 迫害の時代がやってくる中で、イエスは弟子たちに、どう生きていくようにと言われていたのだろうか。そのひとつが、今日の聖書箇所に書いてある。 それは主人が家を留守にしていても、主人がいつ帰ってきて扉をたたいても、すぐにその扉を開けられるように、目を覚まして待っているように。そのイメージは、家の中の扉の近くでじっと寝ないで待っているようにと思われるかもしれない。しかし、これは比喩であって、自分の住む物理的な家ということではなく、弟子たちがどのように考えて、行動するかを示唆していた。つまり、私たちの心を、世の中の流れにまどわされてしまわないようにして、キリストが語られたような生き方をする。それはマタイ5章のイエスの山上の垂訓にあったように、「平和を実現する人々」とか、「自分を迫害する者のために祈る。」という言葉に表れている生き方をし、イエスが再臨してくださるのを待つことを示唆していたと思う。  

さて、現在2013年を生きる私たちにとって、どういう生活をしなさいということなのだろうか? 現代の歴史家や社会学者たちの多くは、しばらく厳しい時代がやって来ると予測している。 それは、歴史を振り返ると、80年から85年おきに、アメリカ合衆国では厳しい時代がやってきている。 アメリカは1940年ごろの第二次世界大戦を経験する80年前の1860年代、60万人の戦死者を出した南北戦争を経験している。 さらに80年さかのぼると、独立戦争の時代である。 ちなみに、日本では第二次世界大戦から80年さかのぼった1860年代は、江戸時代つまり徳川の時代が終わって、さまざまな戦いを経て明治時代になっている。 そのような80年周期で戦争のような時代が起こるのは、リーダになる世代の性格やパターンから80年ごとに大きな試練を体験することになっていると予測されていて、2020年代は、とても厳しい時代を迎えるのではないかと考えられている。 具体的にどのような厳しさなのかはよくわからないが、とにかくそのような時代が来るかもしれないという中で、イエスが2000年前に述べておられたことと、現代の私たちに語られていることは、変わっていないように思う。 それは、聖書の中で、イエスが私たちに命令していることは、洗礼に授かり、パンを裂き聖餐にあずかる生活をしながら、自分を迫害する者のために祈り、平和を実現する者となっていくようにと。 日本のことわざで「負けるが勝ち」という言葉もあるが、争わずに負けることが実は勝利というのは、十字架にかかられたキリストの実践されたこととも言える。 つまり、洗礼と聖餐を与り、み言葉を聴くということをしてゆくことが、平和を実現する者とされていくことになる。 つまり、礼拝に集う生活の中で、み言葉を聴き、洗礼と聖餐にある主の働きに与り、そして礼拝から押し出されて、世の中で行動して行くことがとても重要な生き様ということになる。どうか、みなさん、日曜の礼拝に継続的に参加し、どんな厳しい時代が来ようが、キリストの体であるパンを分かち合い、キリストの言葉によって、確かに平和を実現していく者となり、真の平和の訪れに向かって行動しよう。アーメン。
Preparation for the True Peace Aug. 11, 2013
Luke 12:32-40 Pr. Hitoshi Adachi

May the Lord bring grace and peace over the people gathered in this sanctuary! Amen.
August 15 is the anniversary of the end of the World War II for Japanese People, and many Japanese Christian Churches celebrate the second or third Sunday of August as “Peace Lord’s Day”.
My parents and my mother in law were 20, 16, and 13 years old when World War II ended, so they still remember their experiences of the war, although there were some differences in their individual experiences. My mother was living in Japan during the World War II, but my father and my mother in law were in Manshu (Japanese-controlled area within China) when the war ended.
Wherever they were, they understood how painful the war was and felt great hope and peace when the war was over. Therefore, they have a very strong feeling that we should never enter into war again.
So far, I’ve talked about the World War II era, now let’s go back further another 1900 years. That was the age when disciples experienced severe persecutions in the late first century which was similar to hardships that many Japanese youth endured in the middle of 20th century.
After Jesus was crucified and resurrected and then the Holy Spirit came upon the disciples, Christ’s followers experienced an even harder time. Not only was Jesus crucified, but many other disciples became martyrs. Most probably, all disciples except Judas and John were killed similarly to Jesus and were crucified.
Actually, Jesus knew what kind of age would come. Although this is the text of the following Sunday, in the latter part of Luke 12, Jesus said, “Do you think that I have come to bring peace to the earth? No, I tell you, but rather division!”
Jesus knew what kind of age it would be…a difficult age would come. What did Jesus suggest regarding how disciples should live? In the Gospel text today his advice is actually written down. It is as follows:
“Be like those who are waiting for their master to return, so that they may open the door for him as soon as he comes back and knocks.” The literal image might look like this: staying at home near the entrance door without going to sleep. However, this was a metaphor and it’s better not to interpret that the disciples should stay in a house physically. Rather it is better to understand how the disciples should live and act.
In other words, don’t let their hearts be overly-influenced by the world, stay focused on what Jesus said and how He lived. And wait for the coming of Jesus.
What does it mean for us who live in the 21st century? How should we live?
Current historians and sociologists forecast that a difficult age is coming again. Some of you may know that every 80-85 years, the US has experienced major wars. World War II was in the 1940s, 80 years before, there was the Civil War. 80 years before the Civil War, there was the War of Independence, against England.
Japan also experienced WW II as the US did, and when the Civil War happened, Japan was experiencing wars in the closing period of the Tokugawa/ Edo era. So what we may experience in the 2020s that is 80 years after WWII might be a very tough time.
I believe what Jesus said 2000 years ago and what he is saying now are the same. The commandments are: wait for when the Lord comes back as we baptize the people all nations (Mat 28) and as we commune (Luke 22, I Cor. 11). But of course, for Baptism and Holy Communion to be meaningful, we must listen to the Word of God; doing so is also important part of our lives.
Listening to the Word of God, Holy Baptism, and Holy Communion commonly happen in Sunday services. I would like to conclude today’s message with the following words: Let’s continue to attend Sunday worship services and wait for the coming of Jesus. In spite of difficult times we may encounter in the future, true peace will come as we share Christ and allow His words to shape our lives. Amen.

8月8日 詩編を読もう:主を畏れる人 (詩編33:12-22) 牧師:安達均

今週読む詩編は33編の12節から22節。時間があれば3回ほど読んでみよう。そして、気になった語句や節、さらにこの詩編が自分に何を語っているか、また、自分の所属しているコミュニティに何を語っているか、思いを巡らせていただきたい。

詩編 / 33編
12: いかに幸いなことか/主を神とする国/主が嗣業として選ばれた民は。
13:主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり
14:御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。
15:人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。
16:王の勝利は兵の数によらず/勇士を救うのも力の強さではない。
17:馬は勝利をもたらすものとはならず/兵の数によって救われるのでもない。
18:見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
19:彼らの魂を死から救い/飢えから救い、命を得させてくださる。
20:我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
21:我らの心は喜び/聖なる御名に依り頼む。
22:主よ、あなたの慈しみが/我らの上にあるように/主を待ち望む我らの上に。

7月29日にロサンゼルス空港を立ち、1週間半かけて日本に行っていた。二日づつ妻の実家と私の実家を訪問し、最後の三日は東北へ向かい、東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた岩手県三陸海岸中央部の釜石市、山田町、宮古市、田老地区を訪ねた。大震災を経験した方々から、地震がおきたら丘に逃げるという防災のための基本的な話を聞いた。その基本を聞く度に、美しい自然に感謝しつつも、自然の脅威を知り、自然を畏れて生活することの大切さを覚えた。また「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)という言葉を何度も思い浮かべた。

カリフォルニアに戻って、最初に与えられた上記の詩編箇所の18節には「主を畏れる人」という言葉があり、今日の詩編箇所を数回読むなかで、この「主を畏れる人」という言葉がどんどん迫ってきた。 詩編記者は、「主を畏れる人」について、どのように語っているのかという質問に答えるべく、感じたことを、以下記していきたい。

12節は、主を神とする人々の幸せが述べられている。「嗣業」というむずかしい言葉が使われているが、主の宝を代々受け継いでいく民のすばらしさが述べられているように思う。

13節から18節には、主が、この地球上に住んでいるすべての人々(14節)をいかに見ておられるかが詠われている。人の心も含めて、すべて主が造られた(15節)のであり、創造主がすべての人を見分けておられる(16節)。 17節18節は戦いの勝利について書かれているが、これは現代の私たちには比喩で、人間の幸せ、あるいは人生の勝利は、結婚して子供がいるかどうかとか、財産の多さ、立派な家に住んでいるかどうかなどに左右されるものではないと教えられているように思う。そして、問題の18節になるが、「主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」を主は特に注意して見ておられる。言葉を変えて言えば、主を畏れているか、主の慈しみを待ち望んでいるかどうかを、主が見てくださっていて、そして、19節にあるように、そのような人々の魂を死と飢えから救い、命を与えてくださっている。 

20節から22節は、この詩編のしめくくりで、そのように見てくださっている主を待ち望む、つまり紀元前にあっては救い主の降誕を待ち望むことであり、現代にあっては、いつも聖霊がいっしょに居てくださっていることを知ってイエスの再臨を待ち望むことで、主が盾となって助けとなってくださり(20節)、主に寄り頼むことで、私たちは大いに喜びに満ちた人生を歩む(21節)。そして22節の祈りの言葉をもって、詩編は終わっている。 

上記、12節で嗣業を説明するところで書いた、「主の宝を代々受け継ぐ」とはどういうことかさらに考えたい。 私は田老地区の大震災の被害は、堤防が崩れたこともあり、とてもひどかったという感覚を持っていた。 しかし、今回現地に出向いて、実際にそこにいた人々と話し、また資料を見せていただく中で、今回の死者は、明治29年や昭和8年の大地震による大津波の時より、はるかに少ない人数で済んでいたこを知った。そこには、「大地震が起きたらすぐに丘に逃げる。」という知恵、知識が、過去に起っていた津波の経験から、代々受け継がれていて、田老地区に住んでいた方々にかなり浸透していたことを知った。 そこには、知恵の伝承があった。それは、知恵が宝であり、その知恵の根本は、自然への畏怖、主を畏れることが宝。この地球上、どこに住んでいても、さまざまな自然災害に遭遇する可能性がある。カリフォルニアでは山火事が各地で起こっているが、どのような地域に住もうが、主を畏れる事を代々伝承しよう。

「誰もがすること」 E. Carl Zimmermann 牧師

最近のブランデイス(Brandeis)大学での調査によると、90%の人が、それぞれ何らかの形でお祈りをしているそうです。多くの人が、とにかくその日が無事に過ぎるようにと、祈りによって神様からの導きを得る事が必要だと告白しているとの事です。祈りの75%は家族、友人の事だそうです、又アンケートによると、例えば買い物に行く時に、お店により近い良い駐車の場所があるようにと願う小さい祈りもあれば、健康や仕事についての大きな祈りもあるようです。

「祈りの力」と言えば、宗教を持って毎週祈る人の寿命は3年延びる、と2006年のピッツバーグ大学医学部の調査の結果に出ています。

数年前のニュースウィーク(News Week) の調査報告によると、80%の人が「祈りには癒しの力がある」と信じ、また75%の人が「祈りは困難な時に良い結果をもたらす」と信じているそうです。もうひとつ面白い事は:多くの『無信仰者』も災害にあった時や病気の時にはお祈りをすると言う事実です。

皆さんはきっと牧師達こそしっかりとお祈りをするに違いないと思っている事でしょうが、作家でもあり、牧師でにあるバーバラ・テイラー・ブラウンさんはこう執筆しています。
「私は祈りが下手なのです。きちんと祈れないし、必要な程頻繁には祈っていないのです。私が祈る時の言葉は、どうも言いたい事とは違うようなのです。」

彼女が書いている事は、私の祈る態度にもかなり当てはまっているかのように思います。私には決められた祈りの時間はなく、祈りの日記帳も付けていないし、特別な祈りの会にも属していません。祈る時はもぞもぞ言ったり,的確な言葉を探しているうちにどもったりします。印象に残る祈りのできない自分ですから、時々作家のアン・ラモント(Ann Lamont) の助言に従います:「私たちに必要な二つの祈りは:『神様助けてください。:神に感謝します。』です。」

ここまでの話を前置きとして、ご一緒に祈りましょう:
「生きている神様、私達が信じる時も疑う時も、どうか助けて下さい。心を開いて、あなたの存在を受け入れ、それによって私達の人生が聖霊によって満たされ、聖霊によって導かれますように。あなたに感謝します。アーメン」

では、よく知られているみ言葉の箇所を見てみましょう。「ある日、ある場所でイエスが祈っていました。祈りが終ると『先生、ヨハネが弟子達に教えたように、私たちにも祈る事を教えて下さい。』と一人の弟子が言いました。」「教えて下さい」とは「なんと言えばいいのでしょうか」という事でしょう。
それは私達が神を讃美する言葉を口から語る事です。

私たちは言葉が好きです。書く言葉、話す言葉そして歌う言葉。言葉によってコミュニケーションを取ります。ところで、皆さんご存知でしょうか、女性は1日に単語を2万使い、男性は1万3千使うそうです。

そして私達は「言葉」の偉力を知っています。言葉は人を傷つける反面また癒すことが出来ます。眠っている時以外に2-3時間、言葉を聞かずに、また文字を見ずに過ごす事ができると思いますか?

日曜の礼拝で、安達牧師又は私が説教するのではなく、15分間無言で座っているならどんなに快適でしょう!

誤解しないで下さい。私は「言葉」が大好きです。特に心に沁みる印象深い言葉が好きです。私は時々歴史的に有名な発言やスピーチを集めた本を読みます。すぐれた演説家は、今も昔も、彼らの語る言葉で、私たちを感動させ、勇気と力を与えてくれます。ジョン・ケネデイやマーテイン・ルーサー・キングの言葉は今でも私たちの心に触れ感動させます。

イエスは「言葉」を巧みに使う名人であり「言葉」によって天国を約束し、貧しい人を慰め、偽善者を戒め、疲れた者を労わり、冷酷な人々に立ち向かいました。そして勿論「言葉」で祈りました。

聖書のみ言葉に、イエスは「夜明け前に起きて、家を出て、静かな所に行き祈りました。」と書かれています。聖書には「祈り」という言葉が34回出て来ます。そのうち12回はイエスが天の父と過ごす為に一人で祈った時の事です。イエスは一人で静かな所で祈る事を好まれました。そして大袈裟に回りの注目を自分に集めるような祈りをする者達に警告しました。路上でもったいぶって祈りを捧げて見せる人達に、イエスはきっと憤ったに違いありません。

イエスが祈る時に、実際何を祈られたか私たちには解りませんが、行き着く所は他でもない、「お父様お助けください、どうか助けて下さい、お願いです、助けて下さい」だったのではないかと思うのです。綺麗ごとを並べて言うのではなく、ただ神様に導きと、知恵と、勇気と信仰を願ったのです。多分私たちがここから学べることは、全てを言い尽くしてしまった時に必要なことは、困難な人生を乗り越えて行けるように「助けて下さい」と願うという事でしょう。

ついこの前私はアフガニスタンで地雷を踏んだ為に手足をなくした兵隊の話を読んでいました。第1週間目に兵隊は「死」を祈りました。手足なしで生きて行く事は考えられなかったのです。でも時間が経つとともに「新しい境遇に立ち向かう勇気と力を与えて下さい」と祈るようになりました。辛い、厳しい日々にも関わらず、祈る事により、毎日を希望と喜びをもって過ごす事ができるようになったのです。

ここにいる私たちは、腕や足を無くした者は誰もいませんが、皆人生に何か欠けているものがあるのではないでしょうか?心に隙間を感じていたり、もしかしたら夫婦の間、又は友人との親近感を求めていたり、何かを達成したいという欲求が満たされないでいるのではないでしょうか?皆、何か欠けているものがあると思います。

イエスは私達に言われます。どんな状況にあろうとも、どんな難題に直面しようとも、どんな困難な時も、もし私達がただひたすら「お父様私を助けて下さい、助けて下さい、助けて下さい」と祈れば、神様は必ず側に来られ、私達が必要とする勇気と信仰を与えてくださいます! アーメン。
要約:民 Day
Message: “Almost All Of Us Do It!”
A recent survey by Brandeis University indicated that 90% of Americans, in one form or another, pray each and every day. A large percentage confessed that they needed some direction and guidance from God “just to get through.”
75% of the prayers were for family and friends and while the survey showed that people pray for some major things like health and their jobs, many also pray for “little things” like finding a good parking spot close to a store entrance.

As to the power of prayer, a 2006 study from the University of Pittsburgh Medical Center, found that those who both worshipped and prayed on a weekly basis added three years to their lives!

Some years ago, Newsweek Magazine reported that 80% of people believe in the healing power of prayer while 75% think that prayer can make a positive difference during difficult times.

One more interesting finding: A high percentage who claim to have “no faith” pray during times of illness or national crisis.
Many, I suppose, would expect pastors to have a solid prayer life, but listen to what author and pastor Barbara Brown Taylor wrote:
“I am not very good at prayer. I don’t do it enough or well enough. The words I speak in prayer never seem to come out right.”

That’s a pretty good description of my prayer life. I don’t have a set time every day when I pray and I don’t keep a prayer journal nor do I belong to a prayer group. When I pray I often mumble and stumble trying to find most appropriate or inspirational words.

Lacking the ability to pray in a way that would inspire others, I often follow the advice of author Anne Lamont who said:
“There are only two prayers you need: ‘Help me Lord and Thank you God.’

So, with that as an introduction let’s pray:
“Living God, help us in our time of faith and doubt. Allow us to embrace with open hearts the power of your presence so that our lives might be spirit fed and spirit led. Thank you God. Amen”

For a few minutes I’d like to look at a few well known verses from scripture. “One day Jesus was praying in a certain place. When he finished, one of the disciples said ‘Master, teach us to pray just as John taught his disciples.’

“Teach us to pray” – In other words, tell us what to say. Put on our lips the words that will glorify and please God.

We are a people who love words. We love the written, the spoken and the sung word. We use words to communicate. By the way, did you know that women speak about 20,000 words a day and men only about 13,000!

And we know the power of words. Words can injure and hurt but they can also comfort and calm.

Other than during sleep, can you imagine going 2 to 3 hours without speaking or listening or reading any words?

Think how pleasant it would be if some Sunday, instead of Pastor Hitoshi or me talking away for 15 minutes, we just sat in total silence!

Don’t get me wrong! I love words, especially words that stir and inspire me. A book I often turn to is a collection of history’s greatest and most memorable speeches. Think how the great orators of the past and present have warned, encouraged, challenged and motivated us. The words of John Kennedy and Martin Luther King continue to touch our hearts.

So, words have an unusual impact upon us and obviously Jesus was a master at using words to proclaim the promise of the Kingdom. With words he blessed the lowly; chastised the hypocrites; soothed the weary and confronted the cold-hearted.

And, of course, he also used words to pray and notice how he did it.
One verse from scripture reads: “In the morning, long before dawn, Jesus got up and left the house and went off to a lonely place to pray.”
In the Gospels, the word “pray” occurs 34 times. 12 times it refers to Jesus going off by himself to spend time with his heavenly Father.
He preferred to pray in quiet places alone and he warned people about praying in a way that would draw attention to themselves. The ones who stood on bust street corners spouting long winded, rambling, pompous prayers annoyed the daylights out of Jesus.

We are not always told what Jesus prayed for or the words he used, but I imagine that once you boiled them down they were nothing more than “Help me Father, Help me Father, Help me Father.”

Nothing puffed up or eloquent. He simply asked God for guidance, wisdom, courage and faith.
And perhaps we can learn a lesson from that, because when everything is said and done what we want and what we need is for God to help us get through the demands and difficulties of life.

The other day I was reading about a young soldier who was critically wounded in Afghanistan. His arms and his legs were blown off when he accidentally stepped on a hidden land mine.
During the first weeks after the incident he prayed that he would die. He could not imagine a worthwhile life with any of his limbs. In fact, he had no idea how he was ever going to survive. As the weeks past and he became more and more adjusted to his situation he stopped praying to die and prayed that God would give him the courage and the strength to meet every new challenge with a thankful and joyful heart. Life has not been easy for that young man but now he visits other wounded Vets and encourages them to greet each new day with a sense of hope and optimism.

None of us here are without our arms and legs. But each of us knows that there’s something missing in our lives. Perhaps you feel empty inside. Perhaps you miss the comfort of a close relationship with a spouse or friend. Maybe you miss the feeling of accomplishment. Each of us has something missing.

Jesus reminds us, that no matter what our situation…No matter what we are going through…No matter how difficult or dark life seems to be….If we will simply pray “Help me Father, Help me Father, Help me Father” God will come and give us all the courage and faith we will ever, ever need!  Amen.