今年の5月9日木曜日は、カトリック教会や多くのプロテスタント教会の暦では何の日にあたるかご存知だろうか? 今年の主の復活日、3月31日、から復活節に入り、復活節は7週間続いている。主の復活日を第一日目とし、7週間後の50日目の日曜、5月19日には、聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝う。その10日前、つまり復活日から数えて40日目、今年は5月9日になるが、主の昇天日と言われている。復活のイエスが天に昇られた日とされている。 その時の様子は使徒言行録の1章1節から11節に記述されている。 
さて、与えられた詩篇、47編を、声に出して読んでみよう。
詩編 / 47編
1:【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】
2:すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
3:主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。
4:諸国の民を我らに従わせると宣言し/国々を我らの足もとに置かれた。
5:我らのために嗣業を選び/愛するヤコブの誇りとされた。〔セラ
6:神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。
7:歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。
8:神は、全地の王/ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
9:神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。
10:諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
5節の終わりに「セラ」と書いてある。 詩編を読んでいると、しばしば、「セラ」と書いてある。何の意味があるのだろうか、と思われた方もいると思うので、今日、この文字に触れたい。 詩編は、そもそも歌である。毎週この記事を書くのに、題目は「詩編を読もう」としているが、「詩編を歌おう」の方が良いのかもしれない。歌であるなら、五線譜があって、音符や休止符があったりするのが良いかと思うが、残念ながら、そのような記述は紀元前数百年前は存在しなかった。よって、詩編は歌われながら、伝承され、文字にも残されたのだろう。 
そして、五線譜のようなメロディは残せなかったものの、休止符に相当する記号として、「セラ」という文字が、記述されてきたようだ。ヘブル語で「セラ」という言葉は「つるしておく」という意味があり、つじつまはあう。さて、「セラ」を休止符とし、詩編47編の5節まで歌うような気分で読み、しばらく休止して、6節以降をまた歌うように読んでみたらどんな感じだろうか。主の昇天日にあって、6節「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。」がより強調されてくる。 神は、主イエスキリストの昇天を詩編47編作者に預言されたのだろう。 詩編は、時代順序からすれば、キリストの降誕より1000年近く前から歌われはじめたが、詩編の中には、イエス・キリストのことが歌われているとしか思えないような箇所がたくさんある。イエス・キリストは復活後、次のように言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」(ルカ24:44より)
ところで、復活ルーテル教会の礼拝堂正面には、どんな彫刻が刻まれているかご存知だろうか? どんな彫刻だったかよく覚えていないという方は、ぜひ、彫刻をご覧いただきたいと思う。また、復活ルーテル教会で讃美歌を歌う時は、角笛ではなく電子的に作られたものとはいえパイプオルガンの響きとともに讃美歌を歌っている。オルガンの上にパイプが並んでいるが、オルガンと連動しているわけではない。よく見ていただくと、「なんだ、意味ない。」と思われてしまうかもしれない。 私は、それでも、あそこにパイプが置かれているのは、意味があると思う。 とくに、この詩編47編を6節に思いを巡らす時、礼拝堂の彫刻もパイプも、ひとつひとつ、それぞれ神に在って、意味がある。
5月7日または8日の教会からのemail連絡をご覧になった方は、ご承知の通りだが、私は7日に肺炎と診断され、痛み止めを使いながら、抗生剤を服用する治療がはじまった。少なくとも肺炎だとわかったことに感謝している。そして皆様からのお祈りに心から感謝している。 
それにしても、8日の夜までは、痛み止めを使っていても、咳がすこし出ると、右下の胸部から右の背中、さらに肩にかけて痛みが走っていた。9日朝は、症状が改善されてきたのを感じている。 肺炎の困難にあるのは、私だけではないし、さまざまな肉体的・精神的な痛みを覚えている方々も大勢おられる。 そのすべての場にあって、主の平安、癒し、慈しみが、豊かに与えられるように祈る。 そして、どんな苦しみにあっても、主の恵みにより、詩編にあるように神を讃美し喜び歌おう。 

神の国は誰のもの? ルカ18:15-17
主のイエス・キリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように。

脳波検査を受けたことがある方どのくらいおられるだろうか? 睡眠障害になったり、あるいは、交通事故等により強い衝撃を頭に受けたりすると脳波を測定する。 あとは、エピレプシー、発作を起こしてしまう患者さんにもよく脳波測定が行われる。 脳神経を専門とするあるドクターが教えてくれた。脳波は、大人の場合は、比較的安定していて、通常の脳波と異常な脳波を判定することは比較的容易だが、子供の脳波は、もともとだれも不規則で、子供の脳波測定をしたところで、その子供の脳波が異常なのかどうかわかりにくい、と語っていた。 
子供のときは、ひきつけ(てんかん発作)を起こしてしまう確率が大人に比べとても高い。 みなさんの中にも、小さい時、私はひきつけを起こしたという方もいると思う。 しかし、かなりの確率で高校生ぐらいまでの間に、発作は起きなくなる。 要は、子供の体が成長過程にあるように、脳だって発達過程にあり、子供が何人かいたら、その子供達全員に、大人と同じような振る舞いを期待したって無理である。 ひきつけを起こさないまでも、騒いでしまったり、落ち着きがない子もいるだろうし、いろいろなことが起こる。 
さて今日与えられている聖書の話をしたい。こどもの日にちなんで選ばれた聖書の箇所だが、今日の箇所の少し前で、イエスはどのような話しをしていたかをちょっと述べておきたい。
ルカ18章前半で、イエスは二つのたとえ話をしている。 最初は、まず、裁判官はなかなか取り合ってくれないような人だったが、しつこく裁判官のところにやってくる未亡人がいて、その裁判官がその未亡人の訴えを聞くという話し。当時の社会状況からして、未亡人の主張はなかなか認められないような状況があったのだろう。しかし、その裁判官が未亡人の訴えを聞いた理由は何であれ、神は、正しいことを義とされる。 いわばソーシャルジャスティスについてイエスは弟子たちに教えていた。  
二つ目のたとえ話は、ファリサイ派の人と徴税人の二人が祈る話。ファリサイ派の人は、自分は神の善しとすることをしており、自分は正しい人間だと思い祈っていた。しかし、徴税人は、言ってみれば意地の悪いような人であり、自らも自分の罪を認め神の赦しを求めた。 すると、その徴税人こそ、神の目には義とされる人となることが話されている。 弟子とイエスたちは、社会正義の問題や、信仰生活における罪の告白といった、真剣な問題について語り合っていた。 そこに、イエスの評判を聞いて、子供たちが、ちょっとでもイエスに触ってもらえたらと思い、子供たちを連れて来た人々がいた。 弟子たちは、大切な話をしている最中だし、騒いだり、落ち着きのない子供たちが来るところではないと判断して、連れて来た人々を叱りはじめた。 ところが、イエスは、子供達を連れて来た人々を呼び集めるため、「子供達を私のところに連れて来なさい。」と言われ、また弟子たちに向かっても、「妨げてはならない。」と言われた。 弟子達は、子供たちを連れてきた人々を、追い返すことこそ、主イエスの考えておられたことだと思って、叱ったところなのに、主のお考えは全然違っていた。 さらに驚いたことに、イエスは次のようなことを述べられる。 「神の国は、このような子供たちのものである。子供たちのように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできない。」 
弟子たちは、自分たちこそ、神の国を引き継ぐ者という気持ちでいただろう。しかし、イエスからは、神の国はこのような子供達のものであると言われてしまった。しかし、この話、いったい私たちにどういうことを語りかけているのだろうか? それは、決して、弟子たちが神の国を引き継げないということではない。復活節にあって、弟子たちは、なかなか復活したイエスの存在を信じられなかった話をしてきた。 しかし、なかなか信じられなかった弟子たちも、結局はイエスの伝道活動をするようになり、現代では70億人の世界人口のなかで約20億人がキリストを信じる者になってきているようだ。 
イエスが死んで葬られて復活して弟子たちの前に現れることまでしても、イエスの赦しと愛をなかなか信じられなかった弟子たちに対して、子供達はどうなのだろうか。 子供たちは、大人の目からは、落ち着かず、わあわあ騒いでしまう存在に思われてしまうが、主が考えられていることは、主イエスの赦しと愛は、子供たちに簡単に伝わり、彼らこそ主を受けいれ、すぐに神の国を引き継いでいける存在になる。  
「神の国は、このような子供たちのもの。」と主イエスが2000年前に言われ、この言葉は聖書に記述され、代々伝えられ強調されてきたことは、とても大きな意味がある。 この世において主イエスの体の構築は現代も続いており、その過程において、子供のたちは、とても大切な存在である。  
イエス・キリストの体、教会、そして神の国の建設は、子供達のように素直に神の愛が永遠に続くということを信じられる、そのような信仰者たちに引き継がれていく。子供の日を祝うとともに、私たち大人も子供達のような気持ちで、主イエスに従う群れになってまいりましょう。復活の主、イエス・キリストの平安が、皆様方そして子供達、さらには子孫の上にも、豊かにありますように、復活の主イエスキリストの御名によって祈ります

To Whom Does the Kingdom of God Belong?
Luke 18:15-17

How many of you have experienced EEG (Electroencephalogram) test? When you have a sleep disorder, a serious car accident, a seizure or anytime there is head trauma, doctors order an EEG.
One doctor shared with me that it is relatively easy to diagnose adults’ EEGs, however, it is generally very difficult to diagnose children’s EEGs. Children’s EEG patterns are so different from adults’ EEG patterns. It is difficult to define what is baseline abnormal for children.
Did you know that a high percentage of children experience seizures? You may have experienced one or two seizures yourself when you were younger…or you may know parents whose child had a seizure.
However, about 70% of children stop having seizures as they grow older. My point is that even if children never have a seizure, their brain activity is very different from adults’ brain activity. Children’s brains are still developing, so it’s unfair to expect them to have an adult’s patience & attention span. If children have Attention Deficit Disorder (ADD), it’s even harder for them to sit still and pay attention.
Let’s talk about the text chosen on this Children’s Day. I would like to explain a little bit about the context of what Jesus and his disciples were talking about regarding today’s text (which I read a few minutes ago).
Luke chapter 18 starts with two of Jesus’ parables. The first one was about an unjust judge (who didn’t fear God and didn’t care about people’s opinions of him) and a widow. The widow kept coming to the judge for him to grant her an appeal. Although, it was a time when widows’ social status was low, in general, the unjust judge granted her appeal; he didn’t want to keep being bothered by her. Unlike the unjust judge God gives justice to His people because it’s right and not only for convenience’s sake.
The second parable was about a Pharisee and a tax-collector, both of them came to pray at the temple. The tax-collector humbled himself, confessed his sins and asked for God’s mercy and God said the tax-collector was truly righteous. The Pharisee who was arrogant and thought he was sinless and already righteous was rebuked by God. These two stories were serious matters regarding social justice and confession of sins.
While Jesus and his disciples were talking about these important matters, people brought youngsters to be touched by Jesus since they heard that Jesus could save them. Disciples sternly told them, this is not a place for children to visit and they ordered them to go home.
Although the Bible is not clear whether these children were epileptic or had any behavioral issues like attention deficit disorders, generally speaking, I believe their parents or guardians had difficulties raising these children.
So, Jesus said to people who brought their children and infants to him, “Let the children come to me. Don’t stop them!” His disciples thought the children would be an unwelcome distraction and Jesus’ warm response was totally opposite of what his disciples expected.
Further, Jesus amazingly said, “For the Kingdom of Heaven belongs to those who are like these children.” “Anyone who doesn’t have their kind of faith will never get into the Kingdom of God.”
Although disciples were thinking that they would be the ones who would inherit the Kingdom of God, it sounded as if they would not necessarily do so. What do Jesus’ words really mean? I do not think that Jesus meant that the disciples would not inherit the kingdom of God; rather he was reminding people that they need to believe with a faithful heart and not just say they believe.
During this Easter season, I’ve been talking about how it is difficult to believe in the Resurrection, even for disciples. Even though, at first, they did not believe Jesus was the resurrected one, the disciples eventually realized that Jesus did conquer death. When his disciples believed he was the Risen Lord, the rest of their lives were changed so that they accepted the mission of the Kingdom of God, to make all people in all nations baptized, as Jesus told them. Even adults may be changed to faithful children by the Grace of God.
From adults’ perspectives, children are often restless and sometimes noisy, however, God’s love, as Jesus thought, is easily passed along to children, and they may easily become successors to the Kingdom of God.
It is so meaningful that Jesus’ words, “The Kingdom of God belongs to children such as these.” were written in the Bible, repeated and re-emphasized from generation to generation. In this world, the building of the Body of Christ is still ongoing and children are an important part of that process.
The Body of Christ, the church, and the Kingdom of God, are inherited by faithful people like children who believe with an innocent heart and know that God’s love is enduring. In honor of Children’s Day let us follow our Lord as faithful children would. May the Peace of the Lord be with you in the name of the Risen One, Jesus Christ!
   

 

   

5月2日 詩編を読もう: いただきます (詩編 67) 牧師:安達 均

食事の前に、「いただきます」と言って食べるのは、そこに感謝の意味がある。 ある牧師は、「いただきます」という言葉には、「神が創造された命をいただく」という事だと説明してくれた。そこには、深い感謝の意味がある。  
さて、与えられた詩篇、67編を三回、声に出して読んでみよう。

詩編 / 67編
1: 【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。歌。】
2:神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくだ
さいますように〔セラ
3:あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。
4:神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こ
ぞって/あなたに感謝をささげますように。
5:諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁
き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ
6:神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こ
ぞって/あなたに感謝をささげますように。
7:大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が/わたしたちを祝福して
くださいますように。
8:神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで/すべ
てのものが神を畏れ敬いますように。

どんなことを思われているだろうか? 冒頭に書いたが、この詩篇を読んで、「感謝」することの大切さを感じている。 復活ルーテル教会の牧師をしながら、アメリカ福音ルーテル教会パシフィカ教区の教区長補佐の仕事を与えられている。正直、かなり大変、きつい、と思うこともあるが、いろいろな経験ができることに感謝しつつ、また、不思議なことにどこに行っても、神の恵み、食べ物が与えられる。 食べることができる健康が与えられていることにも感謝し、まさに「いただきます」という感謝の気持ちを表し食べている。 
与えられた詩篇に戻るが、気がつかれただろうか? 4節と6節は全く同じ言葉が並んでいる。 しかも、神への呼びかけの言葉の後は、それぞれの節に「すべての民が、あなたに感謝をささげますように。」という言葉が二回繰り返されている。 ただ、二回目に繰り返されるときに、「こぞって」という言葉が入ってくる。「すべての民がこぞって」とすべての民を強調するような言葉。それは、たとえどこの国の方であろうが、また、たとえどのような状況にある方であろうが、すべての民、全員がという意味になってくるのだろう。 
全体をよく読むと、「すべて」という言葉は3節、5節、さらに、最後の8節にも出てきている。 3節、5節は、4節、6節と同じように「民」にかかる言葉として使われているが、8節では、「すべてのもの」という言葉に代わっている。 数週間前に読んだ、最後の詩篇150編のさらに最後の節には、「息あるものはこぞってハレルヤ」であったことを思い出す。 
詩篇67編を読みながら、二つの目的を感じている。 ひとつ目の目的は、この詩篇を読むなかで、その読む方々が、「感謝を捧げる」ものとなるように。 そして、二つ目は、感謝を捧げるのは、自分だけではなく、この世界中のすべての民、さらには、息をするものすべてが、神に感謝を捧げるものとされるように。  
今、復活ルーテル教会のなかには、病のため、まともには食べ物がいただけないという状態の方もいる。しかし、痛みや息苦しさの中にあっても、そこに神の恵みがあり、たとえ肉の糧はいただけなくても、神の祝福があり、御言葉の糧、命の糧をいただき、感謝の気持ちがもてますように。多くの方々の祈りの中で、それが実現していますように。 
また、世界70億人の方々、さらには、神が創造されたすべてのものが、神の愛、祝福に気づき、感謝を捧げるものとなりますように。    

2013.5.5子供祝福式
2013年5月5日LCR日本語部では子供祝福式礼拝を行います。
何方でもお子様、ご家族の礼拝出席を歓迎致します。

“ A New Commandment” 「新しい掟」 ヨハネ福音書13:31-35 Rev. E. Carl Zimmermann

皆さんが使われている聖書ですが、それぞれの聖書によって、訳し方が様々異なっています。しかし平均すると、聖書は774,746の単語から書かれています。そして私が驚いたのは、「愛」という単語が646回しか出ていない事です。「愛」はキリスト教の信仰の心髄であるべきですから、私はもっとこの言葉が頻繁に使われていると思っていました。聖書のみ言葉には、沢山の異なった愛の形が述べられています。友達の間の愛(友情)とか、ロマンティクな愛、等があります。そして最大の愛とは、キリストが私達に下さった愛だと思います。その愛とは、他人を赦し、哀れみ深く、無条件の愛のことで、私たち人間の理解と思いを遥かに越えたものです。

この「愛」をテーマとしているのが今日の福音書の箇所です。イエスはこのように語られています:「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」さて、誰もこの言葉に反対する人はいないと思います。私たちの殆どは、誠の愛がどのように私達の毎日の生活を左右し、人間関係に良い影響を及ぼすか良く理解しているからです。

では、このイエスの掟をさらに深く考えて見たいと思います。その前に、最初にこの時の様子を舞台にしてみましょう。イエスがこの「互いに愛し合いなさい」という掟を与える直前の状況がどうであったか覚えていますか?イエスはこのように言われています。

「子たちよ、いましばらく、私はあなたがたと共にいる」。この言葉は、聖書の中で最も悲しい言葉だと私は思います。もうすぐ、弟子達は自分たちのリーダーであり、良き指導者であり、また友であるイエスを失ってしまうのです。多くの人の心を動かし、多くの人の人生を変えたこの方が、ただの遠い思い出の中の人物となってしまうのです。全てがめちゃくちゃで、何も機能していないかのようです。舞台の幕は、この三年間の偉大なる冒険を閉じようとしているかのようです。そして聖ヨハネは、何もかもめちゃくちゃになっていると報告しているのです。それは主が亡くなる前夜、イエスが部屋で仲間達と集り、過ぎ越しの祝いをしている時の様子です。皆は食事を終え満腹な状態でした。そしてイエスに洗ってもらった弟子達の足はまだ濡れていた事でしょう。イエスに耳元で何か囁かれたユダは、ぶつぶつとつぶやきながら部屋を出て行きます。そしてその後の何時間の間に、イエスへの裏切りと否定が起こるのです。午前中にはでっち上げられた裁判が有り、午後には木の十字架が待っていました。さあ、舞台は整えられました。もう戻る事はできません。台本を書き換える事もできません。幕閉めは間近です。

「友よ」とイエスは語りかけられます、「私がもうすぐ去って行く、そして私が行く所にあなたたちは来る事ができない。」私たちも、このような胸の張り裂けるような悲しみを知っていると思います。「もう行かなくちゃならないんだよ、一緒に来る事はできないんだ」と、4歳の娘に言ったのは、アフガニスタンへ向う飛行機に乗る兵士。「私の逝く時間が来たわ」と、悲しむ夫に言ったのは不治の病で死んで行く妻。
「暫くいなくなります」と、上司に言ったのは、6ヶ月の間リハビリに行くアルコール中毒者。

イエスは今弟子達から去ろうとしています、そして彼らはどうして良いのかわからないのです。質問などする時間もない。イエスの知恵や全ての知識を吸い込む時間もない。全てがバラバラになっているような状態の中、イエスは別れの言葉を語り始めるのです。弟子達と同じように、私達もめちゃくちゃな状態の世の中に住んでいると思います。最近起こったボストンでの爆破事件、学校で起こる射撃事件、人間売買、経済の低下、解雇、直ぐに激怒する人達、冷めた結婚生活、そしてなんでも他人のせいにしてしまう私達。しかし、このように全てがコントロールを失ってしまいめちゃくちゃになりそうな時に、イエス様は入って来られ、「愛」を主張されるのです。「愛」だけが、人類を結ぶ絆なのです。

次に書かれている4章で、イエスは弟子達がこれから必要な全てを語っています。しかし、一番大切な事は最初に示されています。「わたしはあなたがたに新しい掟を与える」、とイエスは言いました。「互いに愛し合いなさい。」

2010年の1月、ルーテル神学校から何人かの学生がハイチに伝道の旅に行っていました。貧しい生活にも関わらず、人々が互いに大切にし合っている姿に、学生達は驚きました。彼らの報告によると、ハイチの人々が運転して出かける時に、知り合いの誰かが反対車線を運転してくるのに出会ったりすると、車を止めて、降りて来てお互いに抱き合いの挨拶を交わすのはよくあることだそうです。どうりで、半マイル行くのに一時間かかる訳です。そして1月12日に震度7の大地震が起こり、その後52もの大きな余震が続きました。地震は殆どの建物を破壊しましたが、それ以上に悲惨だったのは300万もの人達がこの地震の被害にあい、約22万もの人が命を失った事実です。

ルーテル神学校の学生達は勿論文字通り震え上がりました。しかし彼らがそこで見た事は、ハイチの人達が、「愛」という絆によって、この悲惨な状態がこれ以上大混乱に陥る事がないようにとお互いに支えあいながら守った有様でした。近辺にいた生徒は、そこに集った人達が賛美している声を聞いたそうです。その人達は、自分たちが助かった事を神様に感謝し讃美していたのです。ルーテル神学校の学生達はきっと怖くてこれからどうなるのか解らなかった事でしょう、でも土地の人達が彼らにこう言ったのです:「あなた達は私達の家族ですよ。私達がお世話します、お互いに助け合って行きましょう。」 これも言い方こそ違いますが「互いに愛し合いなさい」という事なのです。

もし私達がこれから何かを達成したいと願うなら、皆で一緒にやらなくてはできないのです。私達はお互いに大切にし合いどうすれば互いに愛し合えるかを学ばなくてはなりません。そして、この事を私達は真剣に考えなくてはならないのです。なぜなら、これはただの提案ではなく、「掟」だからです!   

                           芙美 Liang要約

“A New Commandment” -Sermon for April 28, 2013 John 13: 31-35

It varies with what translation you use, of course, but on average the Bible is made up of 774,746 words and to my surprise the word “LOVE” appears only 646 times. “LOVE” is so much at the center of our Christian faith, I thought the word would be used more often. There are many different kinds of love referred to in the scriptures.
There’s the love that friends have for one another and then there is romantic love. The ultimate kind of love is the love that Christ has for us. It’s a forgiving, compassionate and unconditional love that exceeds both our expectations and understanding.

This theme of LOVE is at the foundation of today’s Gospel. Jesus said: “I give you a new commandment-That you love one another.”

Now, I don’t think anyone would argue with that! Most of us understand how true love can affect our day-to-day lives and have a positive impact on our relationships with others.So let’s take a closer look at this command from Jesus, but first we must set the stage. Do you remember what Jesus said immediately before giving this commandment to love one another?

He said: “Little children, I am with you only a little longer. ”I think tat’s one of the saddest verses in the entire Bible. Soon, the disciples will lose their guide, leader, mentor and friend. The one who touched so many hearts and transformed so many lives will soon be gone and to many he will be nothing more than a distant memory.

Everything appears to be unraveling. Nothing seems to be working. The curtain appears to be falling on a great three year adventure and St. John reports that things are getting messy. It’s the night before our Lord’s death. Jesus and his companions have gathered in the Upper Room to celebrate the Passover. Their stomachs are full. Their feet still damp from being washed. After Jesus whispered something in his ear Judas left in a huff-mumbling under his breath. In the coming hours there would be betrayals and denials. In the morning would be a trumped up trial. In the afternoon, a wooden cross.
The stage was set. There was no turning back. No change in the script. The end was at hand! “Friends,” Jesus said “soon I will be gone and you cannot come with me.”

We have known sad, heart-breaking moments like that.
“I have to go. You can’t come with me” is what the soldier says to his four year daughter as he boards the plane for Afghanistan.

“It’s time for me to go” says the terminally ill wife to her grieving husband. “I’ll be gone for a while” says the addict to his boss as he prepares to spend the next six months in rehab.

Jesus is about to leave the disciples and they don’t know what to do.
There is no time to ask questions. No time for them to soak in all of the Master’s wisdom and knowledge. Everything is coming apart, so Jesus begins his farewell speech.

In the next four chapters he gives the disciples everything they will need to hold it together, but the most important thing is revealed at the very beginning. “I give you a new commandment,” Jesus said. “You shall love one another.”

Like the disciples, we also live in a world that seems to be coming apart at the seams. Boston-school shootings-human trafficking-an anemic economy-lay offs-hot tempers-cold marriages-name calling and finger pointing.

And yet, just when everything appears to be spiraling out of control Jesus steps in and insists that LOVE is the only thread that will keep the human race together.

In January, 2010 some students from Luther Seminary were on a mission trip in Haiti. Despite their poor economy, the students were surprised by the love most Haitians had for each other.
They reported that when people drive down a street and see someone they know it was not uncommon for them to stop the car; get out and give that person a hug. No wonder it takes an hour to drive just half a mile! Then on January 12, a massive 7.0 earthquake struck and 52 major aftershocks followed. The quake did extensive structural damage but the human toll was even greater. Over 3 million people were adversely affected and an estimated 220,000 lost their lives.

The students from Luther were shaken-both literally and figuratively but they discovered that it was this common bond of love that kept the island from exploding into chaos. In different neighborhoods the students heard groups of people singing. They were praising God that they had survived and that things had not been worse. Understanding that the Luther students were afraid and uncertain one of their local guides gathered them and said: “You are our family now. We will care for you. We will care for one another.”

That’s another way of saying: “You shall love one another.”

If we’re going to make it, we will have to make it together. We will have to learn how to care for each other and how to love each other.
We will have to take both seriously because they are not suggestions…..They are commands!

4月25日 詩編を読もう:いつ、なぜ、賛美? (詩編 148) 牧師:安達 均

昨晩は、またアラバマ州で爆発が起こっているようだ。現時点では事故が事件かわからない。 先週のボストンやテキサスに続いて、またか。。。 また数日前に中国四川州で大きな地震が起こっている。アメリカ中西部では洪水が各地で起こっている。 さまざまな痛みにある方々を覚えつつ。
与えられた詩編148編を、3回、声に出して読んでみよう。 
詩編 / 148編
1: ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
2:御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
3:日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。
4:天の天よ/天の上にある水よ主を賛美せよ。
5:主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。
6:主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。
7:地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ
8:火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ
9:山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ
10:野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ
11:地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ
12:若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。
13:主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。
14:主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。
どんなことを思われているだろうか? 世の中で起こっているさまざまな出来事に巻き込まれている方々、また復活ルーテル教会の兄弟姉妹、特にキモセラピーを続けておられる方々、を思う時、この詩編に書かれているように、「天のものも地のものも、みな主を賛美せよ。」と、大きな声で手をたたきながら讃美歌を歌う気持ちには、なりにくい。 「このような時に、なぜ、賛美するの?」という疑問が沸いてこないでもない。 
この詩編148編には、「どこで、だれが、主を賛美するか?」 というような質問に対する答えは書かれているが、「いつ賛美するか?」ということが書かれていない。 いつ?という質問をされると、テサロニケの信徒への手紙第一の5章のなかに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と書かれていたことを思い出す。 聖パウロが残した、このテサロニケの信徒への言葉をかみしめよう。
もうひとつの質問、「なんで主を賛美するの?」ということに関しては、上記の詩編148編の5節、6節の言葉、「主は命じられ、すべてのものは創造された、、、越ええない掟を与えられた。」という言葉に注目したい。
主が天のものも地のものも、すべてを創造してくださって、さらに、「掟」をくださったことをしっかり覚えたい。 主がくださった「掟」という言葉、4月28日の日曜日に与えられている福音書箇所は、ヨハネ13章31節から35節。 その中の34節、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」を覚えたい。
旧約聖書を含めて聖書全体にさざざまな掟が書かれているが、主イエス・キリストは、「主を愛することと、互いに愛すること。」を最も重要な掟とされている。 また、主イエス・キリストが言われたことからして、この掟がすべての掟を包括している。 
主イエス・キリストが十字架に架けられ死にて葬られても、復活して、十字架に架けてしまったような人々、加担した人々も含め、赦してくださり、主が私たち人間を愛し、大切にしてくださっていることを示された。 私たちもその赦された民として、神を愛し、また、神が創造してくださっている天にあるもの地にあるものすべてを愛し、互いに大切にする存在となるように、主が掟をくださっている。 
たとえ、おひとりおひとりが今、どのような気持ちになっておられようが、これらの言葉をかみしめて、詩編148編ももう一度読みかえしてみよう。 日曜日には、元気に復活ルーテル教会の礼拝に加わり、そして、大きな声で讃美歌を歌い、神が創造されたものすべてを大切にし、互いに大切にしあう民、「掟」に従う民とされますように。
 


十字架の死と復活による完成      ヨハネ10:22-30

主イエスキリストの恵みと平安が皆様方と共に豊かにありますように!
どういう復活節の季節を送っておられるだろうか? ここに集まっている皆さんの多くは、イースターの朝、羊の肉を食べた。 おいしかっただろうか? それが今年はじめて、何かの意味があっただろうか? 
先週はどんな週だっただろうか? ボストンやテキサスで相次ぐ爆発が起こった。 私たちにも、なにか似たような状況に陥る可能性だってあり恐れを覚えた方もいるだろう。  
今年のイースターの季節、第四日曜日を迎えた。 3月31日が復活節第一日曜。 三回のメッセージとも、なかなかイエスの復活を信じられない弟子たちの話をしてきた。 とくに先週は、3度目にイエスに出会っても、よくわからなかったペトロの話もした。
いったいイエスという方はどういう方なのか。 クリストロジーという言葉がある。 これはキリスト学、キリストはどういう存在かということを学ぶ学問。 神学校で学ぶことの大半はこの学問。 私が学んだルーテル神学大学には、そういう科目があったわけではないが、実は、歴史、神学、旧約学、さらに新約学とか、すべてが、クリストロジに直結している。 このクリストロジーを私の場合は6年もかかって学び、神の赦しと慈しみにより、牧師にさせていただいた。 
しかし、いまだに、牧師になって3年たったが、いろいろな教会で説教をしているが、同じ質問を繰り返している。 というか、20年30年も牧師経験のあるビショップとの研修のときだって、いったいキリストってどういう方なのという質問を繰り返す。 日々の生活の中で、神の働きに新たに驚かされることがしょっちゅうだからだ。 そして、神の新しい創造に気づかされ、そして、新たにされて、最近はほぼ毎週日曜、あるいは指名を受けた場所と時に、神のみ言葉を述べ伝えるメッセージに取り組んでいる。  
さて、今週与えられている福音書、復活後の話ではない。 十字架に架けられてしまう数週間前。ユダヤ教の指導者たちも、いったい、イエスという男は何者なのか? という問いに悩まされていた。 ナザレで育ち、ガリラヤで数々の奇跡を起こし、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、病にある人々を次々に癒した。 ユダヤ教を信仰する人々は、救い主がこの世に来るということは預言されていたので、この人が救い主なのかと。 しかし、ユダヤの法律では、もし人間で自分が救い主であるという人が出ることは、それは石投げの刑で殺されてもよいことになっていた。 
民衆の中には、イエスが救い主だと思う人々がたくさん現れていた。そして、ユダヤ教の指導者たちは、じれったくなってきた。 このような人間は、イスラエルのユダヤ社会にあって邪魔者で、殺してしまった方がユダヤ社会のために良い。 それには、イエス自身が、自分が救い主だ、つまり神だという発言をしてくれれば殺せるという話になってきた。
そこで、「自分が救い主ならはっきりそう言ったらどうか。」という質問を、ユダヤ教の指導者がイエスに投げかける。 イエスを死刑に導こうとして、このような事を質問されている事は、イエスは十分わかっていた。 
そして、イエスは、救い主を羊飼い、人間を羊にたとえて、「たとえ私があなたがたの羊飼いだと言ったところで、あなたがたが、私を羊飼いだと思っていない人々には、何の意味も無い。しかし、私を羊飼いとして従ってきている羊たちには、わたしは永遠の命を与え、決して滅びることはなく、その羊たちを、羊飼いであるわたしから、奪うことはできない。 なぜなら、私と神はいったいだからである。」
ユダヤ人たちは、石投げの刑で、イエスを殺そうとしはじめるが、すぐにはイエスは石投げの刑では殺されることなくその場を逃れる。 結局は、その数週間後、ローマの政治家たちも参加して、十字架刑にされ、そして三日後に復活する。  
今日の言葉の福音書の中で、イエス自身が、羊飼いであることが述べられ、さらに、「イエス自身が父なる神と一体。」という話がされた。 それは、すべての羊たちを導くことのできる完璧な羊飼いであることを示唆していた。永遠の命を与えることができる羊飼いであると。 たとえ、ユダヤ教の指導者やローマの政治家から殺されてしまう羊飼いであっても、それは完全なる神、完璧なる神と一体である羊飼いイエスは、羊たちとわかれてしまうことがない、羊たちを見捨ててしまうことのない羊飼いであると。
さて今日の最大のポイントは、イエスが語らてていたことからすると、十字架の死と復活は、私たちが死と復活を信じるとか、信じない問題ではなく、むしろ、イエス・キリストの死と復活は、必ず起こるということ、つまり必然だった。 イエスの語っていたことを完成させるために、さらに、旧約聖書の中にちりばめられていた数々の預言からして、イエスの十字架による死と復活は、必ず起こることだったということ。
それが、私たちの現代の生活でどういう意味を持ってくるのだろうか。三つのことをお話して、今日は終わりにしたい。  
まず、一つ目、イエスキリストという方と天の父なる神との関係の完成。イエスは十字架に架かっても復活なさる方。 全く何も無いところから命を発生させることができる神は、たとえ、死に遭遇しても、その死をほろぼし、復活できる、父なる神と同等な方である。 つまりイエスキリストと神が一体であるというイエスの説明を完成させてくださった。  
二つ目は、イエスと私たちの関係の完成。 私たちが羊で、イエスが羊飼いというたとえ話をしておられたが、実際、羊飼いが羊になってくださるような羊飼い。 神からついつい背き、行動すべき行動をしない私たちの現実がある。本来、殺されて、毛をむしられ、食べられてしまわなければならないような、羊の存在であるにもかかわらず、むしろ、羊飼いの方が羊になってしまわれ、私たちに永遠の命を保ってくださるため、また復活して羊飼いとなる。十字架と死と復活は、とんでもなく、羊を愛してくださっている羊飼いと羊の関係の説明をも完成させてくださった。
そして三つ目は、私たちとイエス・キリスト、さらには、神との関係が完成している中で、毎日を歩む私たちには、なんら恐れが無い。 災難や災いがおこらないということではない。 いや、むしろ、えっ、まさかというびっくりするようなことがある。 しかし、そこに、どんな状況からも復活できる、永遠の命をさずけてくださる、神と一体なるイエス・キリストという方が、私たちと共にいてくださる。先週末の詩編を読もうは23編だったが、今一度読み、ぜひ、復活のイエス、羊飼いがいっしょにいてくださる喜びを実感しよう。

Completion through the Death and Resurrection
Psalm 23 John 10:22-30

May Grace and Peace be with you in the name of our Risen Lord, Jesus Christ!
How is your Easter season so far? Most of you ate Lamb on Easter morning. Did it taste good? Was it somewhat meaningful to you? Three weeks have passed since then. How was last week for you? Terrible news from Boston…were you afraid, that a similar incident would happen locally?
Today is the fourth Sunday of this Easter season. We discussed the empty tomb on Easter Sunday. The second and third Sundays, we read in the Bible how difficult it was for disciples and Jewish leaders alike to comprehend the resurrection of Jesus Christ.
Understanding Christ is not an easy thing to do. Have you ever heard the term “Christology”? This is the study about who Christ is. Everything we learn in Christian seminaries is about Christology. Although the seminary I attended did not have a subject called “Christology”, whatever the subject is, like History, Theology, Old Testament, or New Testament, all subjects relate to Christology. In my case, I spent almost 6 years studying Christology during my candidacy process leading up to my ordination.
However, even though I was ordained three years ago, I still ask the same question again and again, “Who is Christ?” In my daily life, I am still surprised by God, Jesus Christ, and continue finding new aspects of him and I am renewed by him. Because of this renewal, when God asks me to proclaim and preach a new message every Sunday (or any day); I gladly do so.
The Gospel today, is not from the text after the resurrection. It was about several weeks before Jesus was crucified. At that time, Jewish leaders were also wondering who Jesus was. He was raised in Nazareth, did many miracles in Galilee and in other cities nearby including healing many sick people regardless of if they were Jews or Gentiles.
Among Jews, it was prophesized that the Messiah would come, so people wondered who he would be. However, among Jewish leaders, it was unacceptable if any human being said “I am the messiah.” If someone claimed to be the messiah, that person was sentenced to death.
Among the Jewish public, some people started saying, “Jesus must be the messiah,’ and they believed it to be true. Jewish leaders were irritated and thought that it was better if Jesus were dead and thus be easier to keep the Jewish public under control. In order for Jewish leaders to act, Jesus would have to admit, “I am the messiah” and this would be the perfect excuse for the leaders to kill him.
Therefore, the Jews said to him, “If you are the messiah, just say so plainly.” Jesus understood that this was part of their plot to sentence him to death. And Jesus replied likening the messiah and people to a shepherd and his sheep, “Even if I say I am the messiah, the shepherd, you do not think I am the messiah since you do not think I am the shepherd of you, sheep. However, I give eternal life to the sheep that follow me, they won’t perish and nobody is able to take them away from me, the Father, the messiah, because the heavenly father and I are one.”
Jewish leaders almost started throwing stones at Jesus, but it was too early for Jesus to die, and Jesus left the temple and came to Jordan River. Several weeks later, Jesus came to Jerusalem again and was sentenced to death, under Pontius Pilate, and was crucified. Three days later, as you know, the resurrection happened.
In his reply to the Jewish leaders, it was clearly mentioned that Jesus was the perfect shepherd to take care of his sheep. Jesus and the heavenly father, God, are one. In other words, Jesus was the messiah who could give eternal life to people. Even though the shepherd would be killed by Jewish religious leaders and Roman political leaders, Jesus predicted that he would be the perfect shepherd that would not fail his sheep and not forsake his sheep.
The most important point in this message is: according to what Jesus said, the death and the resurrection of Jesus Christ are not a matter of whether we believe or disbelieve, but a matter of necessity. His death and resurrection are inevitable events that must occur in order for our salvation to become a reality.
What does this mean in our lives? What does the completion through the death and resurrection mean in our lives? I would like to conclude today’s message by mentioning three things:
Firstly, Jesus explained the relationship between the heavenly Father and Jesus. The death and the resurrection were the perfect incident that the heavenly Father and Jesus are one. God can create a life from nothing, and God can recreate new life even if his Son encounters death.
Secondly, Jesus explained the relationship between Jesus, the messiah, and us. Jesus likened the messiah and his people a shepherd and his sheep. That shepherd so loved his sheep that the shepherd became a sheep, too. The messiah, God, became a human being. Even though the sheep would be slaughtered and eaten, the shepherd allowed himself to be slaughtered and consumed as well.
Thirdly, upon the complete understanding of the relationships between God and Jesus and between Jesus and us, even though we walk through the dark valley of death, the shepherd will not fail us or forsake us, he is always beside us, and we will not fear. Whatever unexpected events happen to us, we will not be afraid, since the Lord, our good and perfect shepherd is ever with us. Rejoice, because Jesus’ words have come to pass!