ヨハネ2:1-11

主の愛と慈しみが集まった兄弟姉妹に、またこの場に集まれない方々にも豊かにそそがれますように!

カナの婚礼の話。 さきほど、読んだ通り、イエスが水をぶどう酒にするというすごい奇跡をしてくださった。 この話いったいどういう意味があるのか? 私はこの結婚式が、いったいだれの結婚式であるかを仮定、推測次第で、神は実にいろんなことを私たちに語りかけていると思う。
たとえば、この婚礼会場において、マリアは最初から会場にいたが、イエスと弟子たちは、婚礼に招かれたとあった。 これはには母マリアにとって甥とか姪に相当するような親戚の結婚式。 しかし、イエスはいとこかまたいとこ、親戚としての招待だったのかもしれない。 いずれにしろ、この描写からは、イエスの母は、事実上、婚礼を仕切って、給仕の者たちに対してリーダシップをとっていたような気がする。そのような立場のマリアにとっては、ぶどう酒がなくなってしまうというパニックに陥った。 
しかし、たとえ心ではパニックと思えるようなことがおこっても、それを外に出さずに、イエスだけに相談する。イエスとの会話はちょっと冷たい感じもしなくもないが、それでもイエスを信頼する。そして、給仕の人々には、イエスに従うようにと告げる。 つまり、マリアの姿勢から、心はパニックでも信仰をもって対処することが、大切なリーダーシップの要素の一つであること教えているという話であるともいえる。  

しかし、このカナの婚礼は、本当に、だれの結婚式だか書いていないのだ。 花婿はこの話には登場するが、花嫁は登場していない。 20世紀、21世紀を生きている私たちは、婚礼というと、だれが一番大切だろうか? もちろん司式をする神父や牧師であると思っている人はいないだろう。。。 花嫁が中心人物なわけだが、花嫁がだれかは、まったく書かれていない。
この話が、私たちに語りかけていることは、一体なんなのだろう。 水を最高級ぶどう酒にできるというのは、もちろん魅力的な話で、もし、それが簡単にできるなら、ぶどう酒をお好きな方は、家計も助かるだろうし、それどころか、ぶどう酒ビジネスで教会にすごい献金もできるし、自分の御殿もたつかもしれない。

しかし、問題はそういうことでもなさそうだ。 結婚式というと、カップル誕生のひとつの門出であり、それから家庭生活を築いていく上での、人生の大きなゲートを通ることだ。 そして、この話の中で、だれの婚礼だかが、特定されていないことは、実は、人類のだれの結婚式にも当てはまることを、聖書は語っているのではないかと思う。 それは、主なる神が常に、ともにいてくださるということ。 
私は、これまでの牧師生活の中で、お葬式は、いろいろな形で関わってきて、両方の指では数え切れないお葬式の司式している。 しかし、結婚式は、片手の指の本数で数えられるほどの経験しかないが、いつもきまって話すことがある。 
それは、結婚式は、いつも二人が結婚するものだが、決して二人だけではなく、絶対的な存在、二人を結びつけて、主なる神が、いつも存在している。 それはたいていの台所には、いつもある玉ねぎの存在のように、実は二人につきそってくださる全知全能なる神がいてくださる。 その神への感謝と賛美を忘れずに、二人で家庭生活を築けますように。
さて、カナの婚礼の話は、実は、同じことをいっているのではないかと思えてくる。 誰の結婚式であろうが、そこに、とても信じられないようなことを起こしてくださる主なる神が、また、励ましを与えてくださる、また苦難をともに体験してくださる、主なる神様が、これからの結婚生活、家庭生活にいつもいてくださることを暗示しているようでもある。

最後に、もっとすごい話をしたいと思う。 私の友人で、40代で妻を亡くした方がいる。 その告別式に際し、彼は、結婚するということは、どんな結婚にも別れも必ず来るということを実感したという。 たしかに、その通りなのかもしれない。 
カナの婚礼の話しをしていたのに、葬儀の話になってしまったが、この世の命の終わりというのは、この世に生をもったものには、だれでも来る、間違いのないもの。 そして、そのこの世の最後は、人が扉のこちら側から向こう側に行くとき。 神に会えるとき。 そして、すべての先に召した方々に会えるとき。
旧約聖書、そして、新約聖書にも、神を花婿、夫にたとえ、人類は花嫁、妻にたとえた描写がいっぱい出てくる。 実は先週の後半は聖書日課では、エレミヤ書が読まれ、神が夫、人類が妻のたとえがあった。 本日のイザヤ書では、花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる、とある。
本日与えられた福音書、だれが花嫁だか特定されていないカナでの婚礼は、だれであっても、かならずやってくるこの世の死が、実は、神を花婿として、亡くなったものを花嫁とする結婚式であるという要素も生まれてくる。 その時には、私たちが全く想像しえないすばらしい、神の奇跡があり、花婿である神との真の出会いとともに、先に召されたものとの再会も起こる。 
安達均

“Whose Wedding?”
Gospel John 2:1 -11
May the Love and Mercy of Jesus Christ be shared with the people in this sanctuary as well as people in the world!
Our Gospel today is the wedding in Cana. As I read a short time ago. Jesus did an unbelievable miracle. What does this story mean? I think depending on who the bride and groom are, we may interpret it so many different ways.
In the beginning part of today’s Gospel, Mary was already there, but Jesus and disciples were invited. It seems Mary was like a mother or aunt and taking on an important host role; said another way Mary was taking on leadership role of all the servants on behalf of the guests. So as the host if there was no wine left, she most likely panic. Even though she was anxious in her heart, she did not show her emotions to the guests and just reported the fact to his son Jesus.
Then, even though the conversation with Jesus was somewhat cold, she just trusted him and then told the servants “Do whatever Jesus tells you.” From this story you might learn an important leadership skill that even in a pinch is helpful, just being quiet and trusting the Lord.

Of the wedding’s details, we do not know whose wedding it was… There is no clear description. Although the groom appeared in this story, it did not say who he was. There is no bride. If it is the 20th or 21st century, the most important person in a wedding is, probably not the pastor who officiate the wedding service, but of course the bride. But again, there is no description of the bride.
What does story really tell us? Of course it is desirable if one can transform water to wine. If you like wine and if you could transform water easily to wine, you can save your alcohol expenses 🙂 and you might also make decent money, so that you may offer more to church. 😉
But what I was focusing on is maybe not the important issue. What do you think about a wedding? It is the “official” start of a couple, husband and wife. Also you may say it is the start of a family. Since the names of the husband and wife were not disclosed, I think God is trying to teach us about a much more important matter which should be common sense in this world: God is always with us.
During last three years, I’ve officiated more than 10 funerals for both Japanese and English speaking members. But I’ve officiated only four weddings. In those four times, I have been always talking about the same important matter.
Although the wedding service is for a husband and a wife to become one, there is not only those two but also the absolute presence of the Lord, who brought the two together and will be with them always. It is something like an onion in the kitchen; He is ever-present. God always walks with you. And I always recommend couples to give thanks and praise to the Lord.
I say that the story of Cana is giving us the same message. Regardless of whose wedding it was, in the midst of the new wedding, there is almighty God who has tremendous power, who encourages people in happy and sad times and is with couples in all seasons of their relationship. He is with families during happy times and difficult times.
To conclude today’s message, I would like to talk about a different aspect of a wedding. A friend of mine lost his wife in her mid-40s. At the funeral, he mentioned that he realized that in any marriage, there will be a time of separation, and that is most probably either spouse’s funeral.
Although we were talking about the wedding in Cana, my message is now talking about a funeral or about funerals in general. It is true that every individual experiences earthly death. When we die, we go through the gate from this side to the other side. That is the time that one can see God and see all the people who have gone to the other side of the gate.
In both old and new testaments, there are descriptions that God is groom, the husband, and that all humans together are the bride, the wife. The first reading today, Isaiah 62:5, reads, “as the bridegroom rejoices over the bride, so shall your God rejoice over you.”
In the Gospel text today, there is nothing clear about whose wedding it was. There is a time for earthly death, and in that moment of earthly death, we may say God as bridegroom welcomes the deceased as bride. In that moment, God is doing something miraculous which we cannot imagine from this side of the gate. On the other side, the bride may see the bridegroom and also all deceased loved ones again. The Lord be with you always before the gate and after the gate. May you experience the wedding when you get there and see the Lord’s miraculous presence. May you also realize and remember that God is and has always been with you. Amen.
Pr. H. Adachi

今週は、聖書日課から、14日から17 日に与えられている詩編、36編6-10節を読もう。先週、いっしょに食事をしていた友人が、翌朝には、自宅ではしごから落ちて事故で亡くなるということが起こったこともあり、奥様や家族のことを思い、自分も気持ちを表現しえない状況にある。状況は異なるが、先日10日の日曜朝10時のみ言葉の学びでは、カトリック教会が、今年を「いつくしみの特別聖年」としており、教皇フランシスコが書かれた、「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」という小冊子をよみはじめた。そのような時期にあって、詩編36編のしかも6-10節だけを、今週読むことには、おおきな意味を感じている。 短い箇所なので、是非、何回か、繰り返し読むことをお勧めしたい。 そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編 36編
6:主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。
7:恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
8:神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ
9:あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
10:命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。

気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、6 節と8節にある、「慈しみ」という言葉。 

詩編作者の気持ちを覚えつつこの詩編箇所を振り返りたい。詩編作者といつも書いているが、詩編を著した一個人というより、モーセ五書に著された旧約聖書の最初の5巻、そしてイスラエルの信仰の歴史の中で、多くの預言者たちを通じて、神の言葉が著されていく中で、イスラエルの信仰共同体として、この詩編36編にある、「いつくしみ」に関わる描写が著されていると思う。 さて、1節づつ、振り返りたい。 「主よ」という呼びかけではじまった6節は、7節の前半まで、主のいつくしみを、大自然にたとえて表現している。 慈しみは天にあり、その主の真実は大空に満ちている(6節)。 恵みのみ業は神の山々のようにそびえており、主の裁きはどん底のような深い淵のようである(7節前半)。7節後半から10節までは、やはり、「主よ」という呼びかけからはじまり、神と人のふるまいを、見事に表現している。 (慈しみゆえに)あなたは人も獣も救われる(7節後半)。 神よ、慈しみは本来ありえないような貴いことで、(罪深い、被創造物であるにもかかわらず) 親鳥が自分の翼に子鳥をかばうように、神のもとに、人々は身を寄せ、神はかばってくださる(8節)。 あなたの家(神を崇拝する礼拝所と考えてよいのだと思う)には、豊かな恵みがあふれ、また礼拝に漂う甘美な流れのゆえに、霊的な渇きは、癒される(9節)。 命の源泉は、主なる神、あなたにあり、あなたは光となり、わたしたちはその光を見る(10節)。

神の御心は、わたしたちに何を語りかけているのだろうか? ずばり、神は、私たち一人一人がどのような境遇にあろうが、そこに憐れんで、恵みを与え、癒してくださる、「主のいつくしみ」を覚えるように導いているような気がしてならない。 冒頭に、先日の10日の日曜日より、10時のみ言葉の学びで、「父のいつくしみのみ顔」という小冊子を読み始めたことに触れた。 その冒頭には、「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です。キリスト者の信仰の神秘は、ひと言でいえばこの表現に尽きる気がします。」とあった。その学びの中では、集まった兄弟姉妹で「いつくしみって何だろう?」ということを分かちあった。いろいろな表現があったが、「人間にはとてもできないような、神からの愛、神の憐れみ、恵み」、「母親が自分の赤ちゃんをいとおしく見つめるまなざし」、「すぐそばに存在してくださる神からの励み」等々の言葉をわかちあった。 

イエスキリスト生誕以来、主イエスを通して、さらにイエスキリストの体である、教会を通して、神が具体的に神のいつくしみを人々に顕されるようになっていることを感じる。教会に集まる者たち、洗礼という不思議な信仰生活のはじまりがある。 それは復活の命のはじまりであり、さまざま人生体験、老い、病、この世の死を過ぎこしていくとき、永遠の命を確かなものとする信仰がある。 その過程で、詩編36編の6-10節にあるようないつくしみや、私たちが上記に表現したような主のいつくしみの体験をし、永遠という中におられる神と、数字で表現してもピントこない何百億年ともいわれる全宇宙・自然と、そして、全人類との信仰体験をあじわう。 冒頭に書いた友人の葬儀のため、これからダウンタウンのお寺に向かう。 彼との交わりは、主の慈しみの介在によって、私にとっても、家族、友人にとっても永遠の記憶となるのだと思う。 葬儀に向かう前に、このようなすばらしい詩編36編が与えられたことを覚え、感謝しつつ。 
安達均

ルカ 3:15-18, 21-21

主の恵みと平安が、集まった会衆の心の中に、豊かに注がれますように!

カトリックの教会には、よくあるが、礼拝堂に入る前に、小さなお皿のようなものがあって、そこに、水が入っている。 カトリックの信者には、礼拝堂に入る前に、その水にちょっと手をつけて、そして十字架をきってから礼拝堂に入る方がいる。
私の学んだミネソタ州セントポールのルーサーセミナリーの礼拝堂は、礼拝堂に入ったところに大きな洗礼盤が設置されていて、洗礼盤には水がはってある。 また、アーバインのコンコーディア大学のCUセンターというコンサートをよく行なうところだが、礼拝堂だ。 そこも正面の入り口から入ってすぐに、洗礼盤があり水が入っている。 
さて、この礼拝堂は、どうなっているだろうか。 入り口には洗礼盤はないものの、聖餐式を受けるときに、聖壇にくるが、聖壇の前に、なるべく洗礼盤をおくようにしている。 それには、どういう意味があるのだろうか。 
教会の礼拝堂に入る、あるいは、聖餐を受けるというときに、自分の受けた洗礼を思い出すということが、とても意味があること。 あるいは、まだ、洗礼を受けていないが、礼拝堂に入る、あるいは、聖壇の周りに集まるという事実のなかに、洗礼へと近づいていることが起こっているのだと思う。 

与えられた福音書の箇所に入っていきたい。 ルカ3章、15-17節では、ヨハネの話が出ている。 ヨハネとは、洗礼者ヨハネのことで、もともとは、イエスの幼なじみのヨハネで、6ヶ月年上。 マリアの妊娠が、天使につげられたとき、すぐに、エリザベトを訪ねたのを覚えているだろうか? そのエリザベトのおなかの中にいた赤ちゃんが、後の洗礼者ヨハネである。 
ヨハネは、イエスを証するために生まれていたといっても良い。 荒れ野で、毛皮の衣を着て、野みつやイナゴを食べて生活していたらしい。 それは、世の注目をひいた。 いまでも現代風ヨハネはいます。 人々は、ヨハネが救い主かもしれないと思い、ヨルダン流域の荒れ野にやってきて、ヨハネから「悔い改め」の洗礼を受けていた。 
しかし、ヨハネは、決して、自分が救い主だとはいわなかった。 私より後から来られる方こそ、すごい方で、私はその方の靴ひもさえ、結ぶ価値のない人間だとして、謙り、後に来られる方に注目するように民衆の心を仕向けた。 洗礼者ヨハネは、後にくるイエスは、聖霊と火で、あなたがたに洗礼を授けるであろうと預言していた。 

そこに、まさに、イエスが顕われる。 しかし、すぐにはイエスがヨハネの言った通りに聖霊と火で洗礼をさずけるおということは、起こらなかった。逆に、イエスが謙り、ヨハネから洗礼を受ける。 ひとりの民衆と同じように、洗礼を受ける。すると、たいへんなことがおこる。そのたいへんなこととは三つの特徴的なこと。 
今日の福音書の後半にそのことが書いてあった。その一つ目は、まず天が開けてしまう。 これって、どういうことかよくわからない。 しかし、天の上におられる神が、この世界に介入してくる様子を伝えているのだと思う。 二番目は、聖霊がはとが舞い降りてくるように、目に見える姿で、イエスにくだった。
聖霊とは、はとのようでも、それは、とても力のあるもの。 聖壇横にかかげたバーナーを見てほしい。復活後のイエスが、天に上って行かれたあと、降ってきた聖霊は、聖書の使徒言行録二章に記述されていたように、炎のようだった。 だから聖霊にすごいパワーがある。 さらに三番目、天から「あなたは私に愛する子」という声が聞こえてきた。 
この声は、ここでは、天からイエスに告げられている。 現代の私たちが、イエスの生涯を振り返る時、そのイエスは十字架につけられ、殺されたが、三日目に復活し、復活後40日目に、ご自分が天に昇られ神のところに行く前に、弟子たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるように」と言われて、天に昇っていかれた。いわゆる宣教命令というもので、その洗礼を、キリスト教会は代々、2000年間さずけつづけてきている。

なにがいいたいかと言うと、私たちの受けた洗礼(あるいはこれから受ける洗礼)で、神がイエスを愛していると言われたように、私たち一人一人にも、必ずしも物理的に聞こえたり、見えたりするものではないが、「あなたは私の愛する子ですよ。」と宣言してくださっている。 そして、炎のような力ある聖霊が、洗礼を受けたものに、与えられて、その聖霊が力となって人生をささえてくださる。
私たちの人生、いやなこと、困難なこと、いろいろある。 先週振り返っても、それぞれにつらいことがあったりしたのではないかと思う。 私は、火曜にいっしょに昼食をとっていた方が、自宅に帰られて、はしごから落ちて、頭を強打して突然亡くなった、と水曜日に連絡を受けた。同じ時期、水曜に日本から連絡が入ったが、父は横浜で転び、頭に14針も縫うケガをした。 ショックであり、自分はどうしたらいいんだろう、と思うことがやってくる。
しかし、本当にどうしたらよいのかと思う境遇に置かれたとき、完全に放心してしまった時でさえ、かならず「あなたは私の愛する子」と言われる神が、主イエスがいっしょにいてくださる。聖霊が困難、苦難の中で、支えとなってくださる。 その信仰者の生き様のなかに、神が介入してくださっていて、信仰者自体の存在が、イエスの愛を顕す存在となる。なぜなら火のような聖霊がささえてくださるから。だから、「あなたは私が愛する子」と言われ、聖霊がくだった洗礼を受けた事実は、重要であり、その洗礼を、礼拝堂に来る度に、また聖餐を受けるたびに思い出す信仰生活には、とても重要だ。火のような聖霊が、私たちを強めてくださり、どんなにか苦難の中にあっても、偉大なる神の慈しみの業を成してくださる。
安達均

“Life Supported by the Holy Spirit and Fire”
Luke 3: 15-18, 21-22

May the Grace and Peace of our Lord be poured into the hearts of the people in this sanctuary!

When you go to Catholic Church, you often see water in a small plate at the narthex of the sanctuary…Catholic Christians often dip his or her fingertip into the water and then make a cross on one’s chest before entering the sanctuary.
The sanctuary at the Luther Seminary, where I studied, has a big baptismal font right after when you enter the sanctuary. Some of you have probably visited CU center at Concordia University in Irvine, there is also a big baptismal font right after entering the CU center.
How about this sanctuary? Although there is no baptismal font at the entrance, we usually put the font here before the service. What does this mean?
When entering the sanctuary or before you receive the sacrament of communion, it is very meaningful to remember your baptism. Or if you are not baptized yet, it is meaningful to think about your future baptism…  

The Gospel today is Luke 3:15-17 and 21-22. The first portion is about how John, was 6 month older than Jesus, foretold about Jesus. John is John the Baptist, who was in Elizabeth’s womb when Mary was told that she would be pregnant.
We may say that the purpose of John’s life was to testify about Jesus. John’s clothes were woven from coarse camel hair, and he wore a leather belt around his waist. For food he ate locusts and wild honey. Actually, he was like a performer and, in a sense, very charismatic. Many people came to him in the wilderness for repentance and to be baptized in Jordan River. Many people wondered if John was the Christ.
However, John never said he was the Christ, he made the people look at the next person. He proclaimed that the next person will be the great person. John was humble and mentioned that he was not worthy to untie the thong of his sandals and the next person, Jesus would baptize you by the fire and the Holy Spirit.

Then Jesus appeared in front of the many. Like other people baptized by John, Jesus was baptized with other people. He was like one of them. However, when Jesus was baptized, some miraculous things happened. Basically, there were three major incidents.
The first thing was that the heaven was opened. I do not know exactly what that meant, but I believe this is the scene that God’s involvement to the world was from heaven. Then the second thing was that the Holy Spirit descended upon him like a dove.
The Holy Spirit is powerful. You might remember that it is described in the second chapter of Acts, the Holy Spirit was like fire and very powerful. Then the third thing was the voice from heaven said, “You are my Son, Beloved.”
Here, this voice focused attention on Jesus. And when we reflect upon the life of Jesus, as you know he was crucified, killed, but resurrected on the third day. Then the forty days after the resurrection he was taken up to heaven. However, before he was taken up, he ordered his disciples, saying “go and make disciples of all the nations, baptizing them in the name of the Father and the Son and the Holy Spirit. The Christian Church has been following this great commandment for two thousand years. The church has continuously baptized people for two thousand years.

In the baptism we received, God said to each one of us “you are my son, beloved,” like we heard when Jesus was baptized, even though we could not physically hear this; the powerful Holy Spirit came to our body and support our lives.
In the realities of our lives, we experience many challenges and difficulties. When you look back upon last week, what did you face? My case was, I was eating with my friend last Tuesday, then I was notified on Wednesday that he died because he fell from a ladder and badly hit his head. Nobody was at home with him so nobody knew about the tragic accident until it was too late. Maybe around the same time, my father in Japan Ifell and injured himself. I was also notified on Wednesday. He has 14 stitches and is recuperating now. On Wednesday, I thought should I go to Japan or not? I didn’t know what to do.
While wondering about what to do or in the midst of confusion and even when we are lost, God is always with us, Jesus Christ is within us, and the Holy Spirit is supporting us in the midst of difficulties and challenges. And God is reflecting the heart of Jesus in ourselves; showing His Love, to other people because of the help of the Holy Spirit. Therefore, the fact that we are told that “You are beloved” by God when baptized, is critically important in our faith. Likewise, remembering our Holy Baptism is so meaningful, every time when we come to worship and every time when we receive Holy Communion. The Holy Spirit’s fire empowers us to be strong and do great things even at the most challenging times. Amen.
Pr. H. Adachi

2016年1月10日LCR日本語部週報通算第1383号

2016年1月10日主の洗礼日の週報

January 10, 2016 LCR Japanese Ministry Sunday Bulletin

Sunday English Bulletin 1383E

新年も最初の1週間が過ぎ去っていこうとしている。聖書日課では、7日から10日与えられている詩編は72編だが、昨年も新年にあたって、72編が読まれたこともあり、今年は、11日から13日、来週月曜から水曜に与えられている詩編106編1-12節をとりあげたい。  いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編 106編
1:ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。
2:主の力強い御業を言葉に表し/主への賛美をことごとく告げうる者があろうか。
3:いかに幸いなことか、裁きを守り/どのような時にも恵みの業を果たす人は。
4:主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき/わたしに御心を留めてください。御救いによってわたしに報いてください。
5:あなたの選ばれた民に対する恵みを見/あなたの国が喜び祝うとき共に喜び祝い/あなたの嗣業の民と共に/誇ることができるようにしてください。
6:わたしたちは先祖と同じく罪を犯し/不正を行い、主に逆らった。
7:わたしたちの先祖は、エジプトで/驚くべき御業に目覚めず/豊かな慈しみに心を留めず/海辺で、葦の海のほとりで反抗した。
8:主は、御名のために彼らを救い/力強い御業を示された。
9:葦の海は主に叱咤されて干上がり/彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。
10:主は憎む者の手から彼らを救い/敵の手から贖われた。
11:彼らを苦しめた者はすべて水に覆われ/生き残る者はひとりもなかった。
12:彼らは御言葉を信じ/賛美の歌をうたった。

気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、6 節にある、「主に逆らった」という言葉。 

詩編作者の気持ちを覚えつつこの詩編箇所を振り返りたい。多くの詩編に見受けられる、賛美への招きからはじまり、ユダヤ教の礼拝に詠われるのにふさわしいのだと思う(1節)。しかし次編ではいきなり現実的な話となり、いったいだれが、主のみ言葉を告げ続けて、賛美しつづけられるだろうか(2節)。詩編一編にも登場していた「いかに幸いなことか」の言葉のあと、裁きに従い、どんな時でも恵みの業を果たす人は(3節)。4-5節では主への嘆願となり、詩編作者とそこに属している民が、主の民が喜び迎え入れられる時、喜び祝う時、私たちも御心を留め、ともに祝うことができますように。6節以降は、音楽でいえば転調したような感じがする内容になってくる。 まず、先祖が罪を犯したように、私たちも主に逆らったという告白(6節)。先祖は主の御業に目をとめず、主の慈しみにも心を留めず、反抗した(7節)。にも関わらず、主が御名のために、先祖を救い、御業を示された(8節)。 先祖の行く道を進めなくしていた葦の海は干上がって、深い谷を行くように通ることができた(9節)。主は、先祖を憎む者、敵の手から救われた(10節)。先祖を苦しめたものは生き残れなかった(11節)。反抗していた先祖だったが御言葉を信じ、主を賛美するようになった(12節)。

さて、上記のような詩編箇所、神の御心は、わたしたちに何を語りかけているのだろうか? 私たちには、日本という地において260年もの間、キリスト教を迫害した歴史がある。キリスト教徒は死罪とされた。 実は、ヨーロッパでの歴史も時代は日本の歴史よりさらに1500年さかのぼるが、紀元4世紀途中までのローマでも同じ傾向があったといってよい。それは、その当時に普通に生活していた人々から見れば、社会として、キリスト教を認めていなかったのだから、やむを得ないような状況は否めないが、ヨーロッパの先祖も日本の先祖も、罪を犯し、主に逆らったということはできるのだろう。 しかし、この詩編に、主がイスラエルの先祖を辛抱強く慈しみをふりそそげ続けたように、ヨーロッパも日本の民をも、主が愛し続け、憐れみを与え続け、主の救いをもたらし続けてくださっているのだと感じる。
安達均

ヨハネ1:10-18

主イエスの恵みと真理、神の真心が、集まった会衆の心の中に染み渡りますように! アーメン!

教会の暦では12月25日がキリストの降誕日でそれから12日間、1月5日までを降誕節と呼んでいる。そして1月6日が顕現日、キリストがこの世に顕われたことを記念する日。1月6日は平日であるため、本日、顕現主日として、この礼拝は守られる。  
降誕と顕現がどうちがうのかと思われるかもしれない。 降誕は、あくまで、イエス様が生まれたということ。 顕現となると、ギリシャ語で、Epiphany、英語ではMinifestation とも訳せるが、でその意味はStriking Appearance でビックリするように顕われること。 
イエスがこの世の馬小屋で生まれてしまったこと以上に、もっとビックリすることがいろいろあったのだと思う。 そのひとつ、マタイの2章の1-12節に書かれていることだが、東方の異邦人の星占いをする博士たちにも、ユダヤの王の誕生がわかり、イエスを拝みに来たのだ。
顕現の意味することのひとつは、イエスが異邦人に対しても生まれた。 それはキリスト教会が、どんな人種や文化を持つものであろが、どんな社会的地位を持つものであろうが、キリストにおいて一つであること。 この教会で、日本人であっても、この礼拝堂で、いっしょに共同体を形成することに、神の意志は強く働いているのだと思う。

降誕にしろ、顕現にしろ、神が人となって、この世に顕われたということについて、神がどういう気持ちで、人間になったのか、神の人間に対する真心がということなのか考えたい。 この説教では、あるたとえ話をした上で、神の真心について、お話ししたいと思う。 
外は大嵐だった。 ある人が家から窓の外を見ると川が流れており、その向こう側はあひるが何十匹も群れを成していた。 その川は濁流が激しく流れており、あひるたちはとても泳いで渡ることはできなかった。 川の向こう側は、今にも氾濫しそうで、あひるたちは、瀕死の状況にあった。
困っているあひるたち。 その川の数百メートル上流に移動すれば、橋があり、その橋を渡ってくれば、あひるたちは、みなこちら側の安全な地に来ることができ、助かるのにと思った。 窓からそれを見ていた人は、自分が今、あひるになって向こう岸にいき、そして、あひるの言葉をしゃべって、橋を渡らせ、こちら側に誘導して助けることができるのに、と考えた。 

さて、この話はたとえ話だが、ひとまず、たとえ話は横におき、与えられた聖書の話に入りたい。 ヨハネ福音書1章の10節から18節を先ほど読んだ。 ヨハネがこの福音書を書き留めたのは、紀元後90年ごろと言われており、イエスを信じる者たちへの迫害が非常に激しくなっていたといわれる。
したがって、ヨハネはこの福音書を書き始めるにあたって、言葉を選び、イエスキリストとは書かずに、別の言葉を使って書き始めたと思われる。 ちなみに、ヨハネ1章1-3節は、1: 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2:この言は、初めに神と共にあった。 3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
今「言」として読んだところは、実は、イエスに置き換えて読むと意味が深まってくる。私が「言」を「イエス」にして、さらにわかりやすい言葉にして、同じことを伝えたい。最初からイエスがいた。イエスは神とともにいた。 イエスは神であった。 すべてのものは、イエスによって生まれた。。。 

さらに10節から18節の中で書かれている「言」となっているところで、本日の説教で鍵となる箇所を、イエスに置き換えて、話したい。 14節には、「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」とあったが、「イエスは肉となって、つまり人間となって、私たちの間で共に過ごすようになった。」ということになってくる。
ヨハネ福音書の1章さらにヨハネ福音書全体で語られるポイントは、この世に存在するすべては、神なるイエスによって生を受けた。 しかし、イエスのことを忘れて、つまり神のことがよくわからずに、行動してしまう人間たちを思って、イエスは人間となってこの世に生まれた。 そして、神が、ご自分の創造した人間をどれだけ愛しておられるかを、イエスの十字架の死と復活を通して、示してくださった。

あひるのたとえ話をしたが、あひるは人間たち。 あひるだけではとても生きていくことができなかった。 そこで、窓から見ていた人は、実は神でありあひるたちに生を与えたイエスであった。 そのイエスがあひるとなり、つまり人間となり、導いてくださったということが、実際に起こった。
そのイエスは、神であり、人間すべてに生を与えた方である。 それゆえ、イエスの人間に対する愛は、抽象的な愛というものではなく、わが子のことで、からだの奥から湧き上がってくるような親の愛情、あわれみといつくしみにあふれている。 その子供たちの肌の色が何色であろうが、この世でどんな文化で育って、どんな仕事についたか、あるいは、年齢や男女に関係なく、造り主の、あふれんばかりのいつくしみが、この世に生まれたものにそそがれている。
その神の本当の気持ち、人間に対する恵みと真理、神の真心を顕にしてくださったのは、人間となって顕われ、私たちの中にやどってくださっている神、イエスキリスト、聖霊である。どのような社会情勢であろうが、常にイエスの愛が、神の真心が、私たちの中にある。 

What is God’s Sincerity?
John 1:10-18

May the Grace and Truth of Jesus Christ, God’s Sincerity, be poured into the hearts of the people in this sanctuary! Amen!

In the Church calendar, December 25th is Christmas, and until January 5th, it is called Christmas Season. Then January 6th is the Epiphany. From Epiphany until one day before Lent, it is called Epiphany Season. Since January 6th is on a weekday, we observe and celebrate the Epiphany today.
People might think what’s the difference between Christmas and the Epiphany? Christmas is the birth of Jesus Christ. The word Epiphany has Greek origins and it can be translated Manifestation or Striking Appearance.
The fact that Jesus was born in a barn and placed in a manger in and of itself striking, but I think there is another more striking thing that is included in the story of Jesus Christ’s birth. It is written in Matthew Chapter 2:1-12. Wise, gentile men in the East, noticed the birth of the King of Judea and came to Bethlehem to worship Jesus.
One of the aspects in the Epiphany of Jesus Christ is that he was born not only to the Jews but also for the Gentiles. Therefore, the Christian Church is open to all people regardless their race, class, gender, or age. It welcomes every individual. The appearance of Jesus Christ to this world at that time is striking. I strongly believe it’s Jesus’ intention that whatever the language is, for example at LCR, both Anglo and Japanese worship at this same sanctuary.

Since we celebrate the Epiphany today, you might wonder what we should call the season between today and January 6th? Whether we call it Christmas Season or Epiphany Season, I would like to think about God’s will and why God became a human being. I would like to talk about God’s sincerity in this message by discussing the next parable.
There was a violent storm outside. One gentleman was looking at the storm from a window. A small river, in normal weather, became a very muddy, violent stream. There was a flock of ducks on the other side of the stream. They could not swim across because the stream’s current was so severe. The other side was almost flooded and they were in great danger. They knew that if they could go to the other side, it would be safe, but they could not do so.
They were obviously stuck. There was a bridge if you could move towards the upper stream a couple of thousand feet, but they did not know whether or not there was a bridge,    since then did not have to travel far in the past. Then the gentleman thought even if he could go there, he knew they would be scared, but if he could be a duck, he could lead the flock and bring them to the safe place by crossing the bridge.

Again, this is the parable. Here, I would like to set aside this story and to talk about the Gospel given today. The Gospel of John was probably written in AD 90; at that time the persecution of Christians was very severe.
When John started writing very carefully, specifically choosing words which means he was not being literal in the beginning, like Jesus. Although I only read the 10th through 18th verses, if we read from the first verse through 3rd verse, it is written, “In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 2 He was in the beginning with God. 3 All things came into being through him, and without him not one thing came into being.”
In the portions I read “Word” can be replaced by “Jesus”, and if I change them, it is much more understandable. Let me read the first three verses replacing “Word” with “Jesus.” “In the beginning was Jesus, and he was with God, and Jesus was God. He was in the beginning with God. All things came into being through Jesus, and without him not one thing came into being.

Further, among the verses in the today’s Gospel, in the 14th verse it says, “And the Word became flesh and lived among us…” but replacing Word with Jesus again, this sentence becomes “And Jesus became flesh and lived among us.”
What John was proclaiming through the first chapter and the rest of his Gospel is summarized below: Everything came into being by Jesus who is God. God loves the people since he created all, but people did not know Jesus and they acted by themselves and did not do appropriate things. God had been very patient so many years, ages to ages, but finally, Jesus became a human being, because God loves the world, human beings so much. And Jesus showed God’s love and mercy to human beings through Jesus’ forgiveness and peace to all when he was crucified, died, and resurrected.

I talked about the parable of ducks. Ducks were humans, who could not live by themselves in such a violent storm. The gentleman who was watching the ducks from the window was God, who was Jesus and gave all human beings our lives. Then the gentleman became a duck, which means, God became a person, and has been leading the whole world.
Jesus is God and makes all things into being. Therefore, the Love of Jesus is not an abstract concept, but the love like a parent loves his or her own children. This love comes from God’s deep grace and mercy toward his creations. Whatever the child’s skin color, whatever culture he or she was born into, whatever that child’s social class, God’s mercy is poured into all human beings.
God’ true sincerity, his Grace, Truth, and Mercy is revealed by Jesus Christ, God, and the Holy Spirit, who lives among us and within us. No matter our social standing, God’s Love is for all and we’re truly blessed because of it. Amen.
Pr. H. Adachi

2016年1月3日LCR日本語部週報通算第1382号

2016年1月3日顕現主日の週報

Sunday English Bulletin 1382E

大晦日、そして年末年始を過ごす時期である。 聖書日課では、大晦日と元旦は詩編8編が与えられているが、さらに大晦日に与えられている旧約聖書箇所、コヘレトの言葉3章1-13節も読んで、各自、2015年あるいは過去を振り返り、2016 年そして将来を展望し、観想の機会を持っていただければと思う。 

コヘレトの言葉3章
1:何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
2:生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
4:泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
5:石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
6:求める時、失う時/保つ時、放つ時
7:裂く時、縫う時/黙する時、語る時
8:愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
9:人が労苦してみたところで何になろう。
10:わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
11:神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
12:わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と
13:人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。

すべてに時があるという話。年末年始にあってじっくり読まれると良いと思う。有名な箇所なので、過去に聖書で読まれたことがあるか、何かで引用されたのを聞くなり読むなりされたことがあると思う。自分でこの箇所をじっくり読んでいかがだろうか。 私が中学生のとき、幾何学の先生が、一枚の紙を空中になげて、落ちてくる様子を生徒に見せて、「何がおこっているかわかるか?」と質問した。 答えに困って、全員、だまっていた。 すると、「何事が起こるにしても、すべて、時間の経過の中で起こっている。」という話をされた。

詩編8編
1:【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8:羊も牛も、野の獣も
9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。

上記のコヘレトと詩編を読みつつ、時と永遠ということを考えさせられた。人間は、この世に生きている時間と、それを超えた永遠の中に生きている。 それは、復活の命、永遠の命。  

今という年末年始の時を感謝し、そして永遠の命に感謝し、主の御名を讃えつつ!
安達均

ルカ2:41-52

主の慈しみと愛が集まった会衆の上に豊かに与えられますように!

今日のメッセージ、私自身の告白からはじめたい。 妻のさと子は、結婚前に、スキーの準指導員の資格まで取得するほどにスキーを好んでいる。私も自然に親しむという意味では山に行きスキーを楽しむことは大好きで、結婚後、ぽこぽこ子供たちが与えられたが、子供たちがスキーに行きたい行きたくないに関係なく、毎年、何回かは家族でスキーに出かけていた。 

7歳5歳3歳の子供たちを連れてスキーに行くには、だれかの協力が必須だった。 さと子の両親がまだ60歳前後のとき、我が家の5人、さと子の両親で、義理の父の持つ、8人乗りのバンに乗って、日帰りスキーに出かけた時だった。

夜遅く11時ごろだったが、私の運転で、妻の実家に着き、その晩は、さと子の両親の家にそのまま泊まることにした。 ぞろぞろ、大人も子供も車から降り、外の車を停車したところの横の玄関から、家に入り、疲れていたため、すぐに眠りについた。 

すると、明け方3時半ごろになって、玄関をどんどんどんどんと激しくたたく音がする。 いったいだれかと思い、玄関にいくと、外から、3歳だった息子の寛の声がする。 玄関をあけると、寛が飛び込んで入ってきて、なんら文句も言わず泣きもせず、すぐに布団に直行し、寝てしまった。 

冬の夜、東京という極寒地ではないにしろ、三番目の子供が車にまだ寝ていたのにもかかわらず、置き去りにしてしまったことに、なんど考えても、運転していて、最後の搭乗者が降りるのをたしかめなかった自分が、本当に情けなく思う。 また、あきらかに、乗車していたほかの家族も寛が後ろで寝ていることに気をとめず、当然いっしょに降りたものと思ってしまっていた。。。。。。 

今日与えられた福音書箇所の内容に移りたい。イエスは両親や親戚とともに、毎年過越祭のためにエルサレムまで旅をした。 ナザレとエルサレムは150キロメートルくらい離れており、当時の交通事情からして、徒歩での往路復路には、それぞれ数日かけて、エルサレムに出向いていたのだと思う。

ある年、ヨセフとマリアは、息子イエスが当然、彼等についてきているものだと思って、エルサレムからナザレへの帰路についていた。 ところが、エルサレムを出て、丸一日たった時、長男イエスがいないことに気付く。 

自分たちの子供がいないのに気付かないまま、一日も進んでしまうとは、いったいどういう家庭なのかと思うかもしれない。 とくにカトリック教会では、今日の聖書箇所は、聖家族の主日の箇所としているが、聖家族の両親とはいったい何なのかと考えさせる。

聖書をさらに読むと、ヨセフとマリアは、イエスが群れの中にはいないので、なにはともあれ、エルサレムに引き返すことにする。 エルサレムに戻る途中も、イエスは見つからなかった。 ヨセフとマリアはどんなにか、不安に陥ったかたと思う。

しかし、イエスと分かれてから、三日後、彼らは神殿で学者たちと会話を交わしているイエスを見つけることになる。 そして、マリアがイエスに語った言葉は、「なんでこんなことをしてくれたのです。父と私はどんなにか心配して捜していたことか。」との言葉だった。

それに対するイエスの反応は、少なくとも、息子を置き去りにしたまま、ナザレに向かったことを批判するものではなかった。 それより、「なぜ捜したのですか?」と言う。 さらに、日本語では「私が父の家にいることは当たり前だということを知らなかったのですか?」と訳されている。

この「当たり前だ」としている言葉は、ギリシャ語では「dei」という言葉があり、イエスが受難予告をした時、「必ず多くの苦しみを受ける」とか「三日後に復活することになっている。」などと語った時に使われている言葉と同じである。 そこには、イエスが神殿の境内にいたのは、神の定めたことで、必ず、私は神殿にいなければならなかった。という意味が含まれている。 

三日間にわたる、ヨセフとマリアの家庭に起こった、長男イエスの迷子事件が今日の聖書箇所だった。その発端はヨセフとマリアの親として、不注意があったように思えてしまうような面がある。あるいは、少年イエスの受け答えを理解できない親の話であったような面もある。 それは、どこの家庭でも起こりがちな、反抗期とか、親子の断絶の問題にも似ているのかもしれない。

聖書が教えている家族の意味を考えるとき、たとえイエスの生まれた聖家族と呼ばれる家族でも、決して完璧ではない。どんな家族でも完璧ではないのだ。しかし、すべての完璧ではない家族、問題のある家族の真っ只中に、神が家族の一員となってくださっているという事がクリスマスのメッセージなのではないだろうか。 

クリスマスが過ぎ、今週後半は、New Years Eve そして、新年を迎える。 家族で過ごす方も多いだろう。 また、家族とはいっしょにいられずに一人で過ごす方もいる。 いずれにしろ、家族ということを考えさせる時だと思う。 その真っ只中に、イエスが来てくださっていることを覚えることができれば、あなたも聖家族の一員となるのだと思う。 

安達均

What Does the Holy Family Mean? 2015 12 27
Luke 2:41-52

May the Grace and Peace to you in the name of our Lord and Savior, Jesus Christ! Amen.

I would like to begin today’s message with my confession as a parent…my wife loves skiing and I also love skiing, especially experiencing nature while skiing down snowy mountains. Therefore, when we got married, even though we were blessed with 3 children, we often went skiing, as a family, regardless of whether or not our kids wanted to go skiing.
Think about going skiing with a 7, 5, and 3 year old children…the reality is it not possible without help. Since Satoko’s parents were still relatively young, around 60 years old at the time, they helped us greatly. One day, using Satoko’s father’s 8 passenger van, Satoko and I and our three children went skiing with her parents.
We came back late at night after 11 p.m. That night, we decided to sleep at the in-law’s. I was driving the van and parked in the garage next to the house. The adults and children exited the car, entered the house, and everyone immediately went to bed.
The next day, very early in the morning, like 3:30 a.m., there was a loud knocking at the front door. Both Satoko and I got up and went to the door. Then I heard Kan’s voice. I believe you can imagine how we felt as parents. As soon as I opened the door, he jumped into the house, went to bed immediately and slept soundly.
One winter night in Tokyo, even though Kan was sleeping on the third row seat of the van, I left him there. Obviously, all other exhausted family members went inside without checking on Kan.

In the good news given today, Jesus and his parents, many relatives and friends went to Jerusalem for the festival of Passover every year. The distance between their home town, Nazareth and Jerusalem, was over 80 miles. Therefore, it took several days to travel there.
When Jesus was 12 years old, and still legally a child, the family left Jerusalem after Passover. Joseph and Mary thought that their son, Jesus, was with them and went a day’s journey. However Jesus was not with them.
People might think what kind of family is this? What kind of parents leave their son somewhere and travel a full day without him? In the Catholic church, today is observed as “Holy Family” Day. You might think why is this family considered the “Holy Family?”
In the latter half of the Gospel today, it is described that Jesus’ parents decided go back to Jerusalem. However, they could not find him on the way back, and I can imagine how they were seriously concerned.

Then on the third day, after they left, they found him having conversations with Jewish scholars in the temple. Mary said to Jesus, “Child, why have you treated us like this? Look, your father and I have been searching for you in great anxiety.”
In response, Jesus did not say, “Why did you leave me and travel for three days?” and he did not criticize them. But he said, “Why were you searching for me?” Then it is translated in English, “I must be in the Father’s House.”
The word translated “must” in English is originally “dei” in Greek. This is the word used when Jesus foretold his suffering, death, and resurrection in Luke 22:49. I believe this word expresses the intention of God, and most likely Jesus was indicating, of course this was not our fault but that was God’s plan.
The Gospel is about the story of Joseph’s family and during a three day period. It might be interpreted earlier that this happened because of Joseph and Mary’s carelessness. Or, it has aspects of youthful rebelliousness and parent-child relationship tensions that most, if not all, families experience.

When I think about the theme of the Holy Family, the Bible is teaching us that no family is perfect, or every family has many issues in their real lives. However, I think that the message in the Christmas season is that the holy child came down to earth and he became a member of every family.
Christmas Eve and Christmas Day were celebrated last week, and we entered into the week of New Year’s’ Eve and January 1st. There are many people who get together with their families this season, but at the same time, I understand that there are many people who cannot be with his or her family members during this season. Either way, this week, this is a great time to think about the “Holy Family.” If you are able to believe that Jesus, Son of God, came to all the families and that none of them are perfect, then you are a member of the “Holy Family.” Amen.
Pr. Hitoshi Adachi