September 28th, 2014

召天者記念礼拝

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今年は、9月28日に召天者記念礼拝の時を迎えました。10時半に教会の納骨堂の前に何人かが集り、去年亡くなった佳代子Balser さんを始め、美代子Oteroさん、その他の教友が神様の御手の中にあって平安である事を祈り、神様に讃美を捧げました。11時半の礼拝では聖壇に並ばれた遺影を前に、お一人お一人を覚えて礼拝をし、お花を捧げました。礼拝に出席された皆さんの中には、一年に一度お会いする皆さんもいらっしゃいました。本当に先に召された方が、こうして私達を繋げて下さっているのだと思い、心から感謝でした。

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一年に一度の召天者記念礼拝では、先に天に召された愛する人々を覚えて、時を過ごす事ができました。この幸いを感謝致します。

2014年9月28日LCR日本語部週報。

2014年9月28日召天者記念礼拝の週報

 

今週は詩編28編を読む。「ダビデの詩」となっているが、ダビデの生きた時代を想像するより、もっと後世に生きた一人の詩編作詞者の時代背景を思い浮かべつつ読んだら良いかと思う。 では、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編28編
1:【ダビデの詩。】主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ/わたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます。
2:嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます。
3:神に逆らう者、悪を行う者と共に/わたしを引いて行かないでください。彼らは仲間に向かって平和を口にしますが/心には悪意を抱いています。
4:その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。その手のなすところに応じて/彼らに報い、罰してください。
5:主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません。彼らを滅ぼし、再び興さないでください。
6:主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。
7:主はわたしの力、わたしの盾/わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。
8:主は油注がれた者の力、その砦、救い。
9:お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください。

気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、2節に表現された「至聖所に向かって手を上げ/あなたに救いを求めて叫びます」という祈る姿勢。祈るという行為は、両手を合わせて静かに祈るだけではなく、時と場合によっては、両手を上げて嘆き叫ぶ祈りもあって良いのだと思う。 

詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。冒頭にも書いたが、詩編作者は、紀元前1000年頃のダビデの時代というより、イスラエルの指導者たちが腐敗し、その信仰が揺らぎ、神に悪とされる行為を実行してしまった時代があって、されにその時代にも救いが訪れたことを想像しつつ、読んだら良いのかと思う。 さて、一節づつ読んでいきたい。 大胆に「主よ」「私の岩よ。」と呼びかけ、「黙っていないでください。主が沈黙しておられるなら私は死んで墓に葬られてしまいます、それでもいいのですか?」と言わんばかりの強い呼びかけ(1節)。嘆き祈る私の声を聞いてください。私は手を挙げて、必死に叫んで祈っているのです(2節)。 私が、神に逆らう者、悪を行なう者の仲間にならないようにしてください。彼等は平和を唱えても、実は心の中で別のことをたくらんでいます(3節)。彼らの悪い行いに応じて、あなたが報いて、罰してください(4節)。彼等は主の恵みの御業を学ばず、理解せず、語ろうともしません。そのような彼等を滅ぼし、起き上がれないようにしてください(5節)。 6節以降は、ぐっと雰囲気が変わってくる。 主を賛美しよう。主は、嘆き祈る私の声を聞いてくださったから(6節)。 主は私の力であり盾でもあり、だから主に寄り頼みます。主が助けてくださり、私の心は喜び踊り、賛美の歌をささげて、感謝します(7節)。主は油注がれた者の力、私の砦であり、救い主(8節)。どうかあなたの民全部を救ってください。祝福してください。あなたの恵みを受け継ぐ民全部を。永遠に導き養ってください(9節)。

この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか?この詩編は、詩編作者が生きた時代だけではなく、現代の我々の生きている時代にも、迫ってくるものがある。中東地域では戦争がまた起こってしまっている。また、日本を含めた、東南アジア地域にも、不和・葛藤が起こっている。民を代表して政治を司る者が、本当に心の中で何を考えているか、神の思いに従っているのか? また、詩編の中で「神に逆らう者、悪を行なう者」という人々は、世のリーダだけではなく、至るところに存在してしているのが現状だと思う。そしてうかうかしていると、3節にあるように、自分も神に逆らう者、悪を行なう者の仲間入りをしてしまうような面がある。悪を行なうという表現はきついかもしれないが、神の思いに従わず、神の思いから離れて行動している民が多いのだと思う。そして、その中に自分も入ってしまうことがあり反省を迫られる。 だから、毎週の礼拝で、罪の告白をすることの大切さがあると思う。 罪という言葉がピンと来ないなら、自分の不完全さとか、恥とかを、すなおに神に告げる大切さがあると思う。そして、毎週、礼拝に集う者として、今日の詩編にあるように、主に嘆き祈ろう。主は必ず、その祈りを聞いてくださることを信じて。アーメン
安達均

今週は詩編145編1-8節を読む。新共同訳聖書では、(アルファベットの詩)と書かれているが、この詩編こそヘブル語の「いろはがるた」というべきものかもしれない。 150編ある詩編の中で最も長い119編を説明するときに、「いろはがるた」と書いてきたが、119編は、ヘブル語の各文字からはじまる数節の詩が、ヘブル語のアルファベットの数だけ並べられている。 145編は、ヘブル語の各文字からはじまる一節だけの短い歌が並んでいる詩。そして145編全体ですばらしい賛美になっている。 さて、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編 145編
1:【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。
2:絶えることなくあなたをたたえ/世々限りなく御名を賛美します。
3:大いなる主、限りなく賛美される主/大きな御業は究めることもできません。
4:人々が、代々に御業をほめたたえ/力強い御業を告げ知らせますように。
5:あなたの輝き、栄光と威光/驚くべき御業の数々をわたしは歌います。
6:人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。
7:人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。
8:主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。 

気になった節や言葉はどこだろう? 「御業」という言葉が3節から7節の中だけで、6回も登場している。

詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。今日の詩編個所には、大きく分けて、三つのことが詠い込まれている。 ひとつは、詩編作者自身が「主を賛美する。」ということ。二つ目は、主の御業がすばらしいこと。つまり賛美する理由。そして三つ目は、「詩編作者だけではなく、人々が主を賛美するように」という願い。 一節一節を読んでいきたい。そしてそれぞれが、「賛美」なのか「理由」なのか「願い」なのかを確認していきたい。 わたしの王で、神よ。あなたを崇めます。どのような世の中であろうがいつも御名をたたえます。途絶えることなく、あなたを讃え、御名を賛美します(1-2節:賛美)。 偉大なる主は、時代を超えてほめたたえられる主。その偉大なる御業は、人間が研究して全容を明らかにするようなことはできない(3節:理由)。世代交代して世が変わり行くが、主の御業をほめたたえて、力強い御業が、世代を超えて伝え続けられるように(4節:願い)。栄えある主の輝き、また人々を従わせるような威光を、また驚くべき主の数々の御業を、私は誉め詠います(5節:賛美)。 大きな御業をわたしは数え上げ、人々は恐るべき主の御力を語りますように、人々が主の深い恵みを語り継ぎ、救いの御業を喜び詠うように(6-7節:願い)。 主は恵みに富んでおり、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられる(8節:理由)。 

この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか?詩編作者が主を賛美し、その賛美する理由(主の偉大な御業)を語り、人々が代々賛美するように願い祈っているだけではないと思う。現代の私たちも、主を賛美し、主がなさった数々の御業を語り、また世の人々が主を賛美するように願い祈る気分になってくる。主の偉大な数々の御業として、旧約聖書に著されている、主の創造、アダムの誕生、アブラハムの生涯、イサクの家族・ヨセフ物語、出エジプト、等々の主の働かれた偉大な出来事も述べ伝えるように導かれている。それと同時に、新約聖書に著された、数々の主イエスの御業、教えも、もちろん語り継がれる。来る聖日は、福音書はマタイ20 章1-16節の「ぶどう園の労働者」のたとえ話である。 すばらしい個所であり、主イエスがいかに人々を憐れんでくださっているか、びっくりするような話である。福音書個所をじっくり味わう機会が与えられるように。 そして、聖書に書かれた主の御業だけではなく、各自私たちに与えられた主の御業がいろいろあると思う。 それは、実際起こった時には、主の御業だとは全然気づかなかったことでも、後から振り返ると、その中に主の御業があったことが必ずある。 そのような実体験も語り合い、そしてまた、それらの御業の証を通して、世の人々が、偉大なる主を賛美するように願い祈る。

現在、復活ルーテル教会では50周年の記念文集を編算すべく、寄稿を願っている。ぜひ、おひとりおひとりが体験された、主の御業をわかちあっていただければと願い祈る。 アーメン
安達均 

マタイ18:21-35

主イエスの恵みと平安が一人一人の心の中に染み渡りますように。アーメン。

私はだれかに、「借金がある」「負債がある」あるいは「負い目がある」という言葉を使うとき、どういう意味で使っているだろうか?本当にお金を借りている時に使うだろうか?だれだれさんに本当に申し訳ないことをしてしまった。ということがあるのではないだろうか?それを罪を犯したという言葉があてはまる場合もある。しかし、罪を犯したというよりか、とんでもない恥ずかしい事をしたということもあるのではないだろうか。
四重衝突を体験したある友人がこんな話をしてくれた。彼の後方4台目の車が3台目に衝突、すごい衝撃音。そして、3台目の車が2台目に。2台目も自分の車に。ドーン、ドン、トンというか3回の衝突音を聞く。
幸い彼には怪我はなく、彼の車はたいした衝突でもない。彼はすぐに出ていって、自分の後方バンパーがどう壊れたかを見に行った。しかし、うしろの3台の車に乗っていた人たちは、うしろから2台目の車が前も後ろもぐしゃぐしゃで、中に乗っていた女性が、まだ車から出られない状況になっていたため、彼を除いた事故の当事者たち全員がその女性の救出にあたっていた。 

自分の状況判断の甘さ、自分のことばかり考えていたこと、恥ずかしさが襲ってきた。ばかなことをした。さて、どうしたらよいのだろう。 彼は、そのことを私に打ち明けた。 私に話したところで、その恥ずかしいことをした事実は、もう永遠に消えることがない。 じゃ、どうしたらいいんだろう。 
本日の福音書、また一番弟子のペトロが話し出す。 兄弟が罪を犯したら、何回許せばよいか?という質問をする。「7回ですか?」 聖書には、7回という数字がよく出てきており、7がひとつの完璧な数字と言われる。  
イエスは7の70倍、つまり490回までも赦しなさいといわれる。訳によっては77回とも訳している場合もある。 それは、491回目は赦さないようにとか、78回目は赦さないようにという意味ではない。無限に赦しなさいといわれているようなもの。
そして、イエスは例によってたとえ話をはじめる。 このたとえ話は3部構成になっている。 第一部は王様の住む宮殿での出来事。その王様は、家来たちに貸した金の決済をしはじめた。 一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。一万タラントンというとおそらく現代の価値にして、何兆円とかの金額かと思う。 
しかし、そんなお金はない。主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。そして、家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願う。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやる。なんと気前のよい王かと思う。

そして、話は第二部に入ってくる。街中で事件が起こる。 例の何兆円もの借金を帳消しにしてもらった家来が街に出て、彼に現代のお金にして百万円程度の借金をしている仲間に出会う。すると捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼む。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。それを見ていた仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛める。
そして第三幕、仲間たちが王様の所に行き、事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつる。 そして「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」 そして、王様は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡す。
そして、イエスは、弟子たちに言う。 「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

今日の話はたとえ話であり、王様は主なる神、奴隷たちは人類。借金を問題にしているようだが、実は人類の罪、神から背いてしまう行動を問題にしている。人類の罪は二度と消えることがない。 
しかし、最高のグッドニュースが、神から人類に与えられた。 たとえ話の中で、王様が家来に対して借金を帳消しにしてくださったように、神は人類の罪、私たち一人一人の罪を赦してくださる。 どうしてそんなことを言えるのかというと、最高の出来事、神の子、イエスがこの世に来られて、十字架の死と復活を通して教えてくださったから。
赦しは、修行を積んだり、何かの行いによって罪が赦されるわけではなく、イエスを救い主と信じること。 イエスが語られた言葉が聖書に残されて、この御言葉を信じるときに実現する。神の贈り物である洗礼を受け、また、イエスの体と血、聖餐をいただくなかで、罪が赦されるということが実現する。主イエスの信仰によって、負い目は負い目でなくなり、希望と喜びをもって歩めるようになる。

この世の中で、さまざまな程度はあるが、馬鹿なことをした、恥ずかしいことをした、取り返しのつかないことをした。 いろいろある。 あきらかに自分の間違いだったのに、それを友人のせいにして、のうのうと生きようとしてしまうことがある。 そこには、当然、人々の目があり、非難の目を感じる。人々の責める言葉はなかったとしても、自らの心の中には、良心の呵責というか、自分自身で感じる、負い目がある。 
取り返しがつかないという言葉を使ったが、肉親の病や事故に自分がかかわっていて、あのとき、あういう治療をすればよかったとか、あの時、あんなことをしなければよかったという思いがある。911で亡くなった方の中には、家族の用事のために、現場に行き亡くなった方もいて、その家族はたまらない。 自分も赦せないし、もちろん、アルカイダだって、テロ組織だって赦せない。だれによって、赦されるのだろうか?  
その悶々とする人々を、憐れに思い、呵責から解放してくださる方がいる。  

今週も、父、子、聖霊なる唯一の神を信じて赦されて、喜びの信仰生活を送ろう。 またその最高の知らせを知らない方々に、いや頭では知っていても体験していない方が、信仰生活に導かれ体験できるようになるという希望を抱いて、日々の生活を送ろう。 アーメン
安達均

Even in Our Indebtedness
Matt: 18:21-35

May Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary!

What does it mean if you say, “I owe you” or “I am indebted to someone”? Is it always about owing money? Similarly, there are times that “I did something wrong to you” or “I did something stupid and someone is emotionally hurt and I am emotionally hurt, too.” At those times, you could say “I sinned” but you may not have literally sinned and it’s more like a “Shame on me, I should’ve known better.” situation.
One of my friends told me about his experience. He was involved in a car accident, a four-car pileup. He was driving his nice car and stopped at a traffic light. The third car back from his car hit the second car. The second car hit another car behind him. And lastly, that car hit the bumper of his car. He heard distinct collision sounds three times.
Even though his car’s bumper was slightly hit, he was in no danger and was not injured. Right after the set of collisions, he got out of his car and carefully examined the bumper damage. While he was inspecting his car, he realized the two collisions behind him were much more serious ones. The second from the last one, the lady’s car was hit from behind and she hit the car in front of her, so her car was almost totaled. She could not open the driver’s side door and could not get out. The air bag had activated and it looked like she was injured. Therefore, several people were trying to rescue her and get her safely out of the car.
After the accident, he felt great shamefulness. “Why didn’t he realize sooner that the collisions behind him were much more serious?” “Why didn’t he help rescue her first rather than just seeing if his car was OK?” What he did could not be changed. He made certain choices that embarrassed him. What should he have done?

In today’s Gospel, Peter again started the conversation with, “Lord, how often should I forgive someone who sins against me? Seven times?” The number “7” often appears in the Bible and “7” is commonly thought of as a perfect number.
Responding to Peter’s question, Jesus said, “No, not seven times, but seventy times seven!” which is 490 times… In a different translation, it says “seventy seven.” Both translations strongly suggest that you should forgive the 491st time or 78th time as well. Indicating Jesus meant us to always forgive those who harm us whether it’s ourselves or others.
Then Jesus started a parable. This story has a three part composition. The first part details an incident that happened in a king’s palace. The king decided to bring his accounts up to date by collecting money from servants who had borrowed money from him. In the process, one of his debtors was brought in who owed him the equivalent of several million dollars.
He couldn’t pay, so his master ordered that he be sold—along with his wife, his children, and everything he owned—to pay the debt. But the man fell down before his master and begged him, “Please, be patient with me, and I will repay it all.” Then his master felt pity, released him and forgave his debt.

The second part begins in town. The forgiven servant went downtown and saw a fellow servant who owed him a few thousand dollars. He grabbed him by the throat and demanded instant repayment. His fellow servant fell down before him and begged for a little more time. “Be patient with me, and I will repay it,” he pleaded. But his creditor wouldn’t wait. He had the man arrested and put in prison until the debt could be paid in full. When some of the other servants saw this, they were very upset.
Then the final part begins: They went to the king and told him everything that had happened. Then the king called in the man he had forgiven and said, “You evil servant! I forgave your tremendous debt because you pleaded with me. Shouldn’t you have mercy on your fellow servant, just as I had mercy on you?” Then the angry king sent the man to prison to be tortured until he had repaid his entire debt.
Jesus concluded the story saying “That’s what my heavenly Father will do to you unless you forgive your brother or sister.”

God forgives the tremendous debt, of sin, we all carry, so we should forgive those who harm us. As I said earlier, this story is a parable. The king is God and the servants are human beings. Even though it talks about money, it is talking about sin as well. Especially in the first part, the amount was a large amount that no individual could repay in a lifetime. Human sins cannot be erased by human actions or money paid.
However there is tremendously good news that God gave to humanity. As we noticed in the parable, God showed His compassion to the fellow servants and forgave our sins completely. How can God do such a thing? It’s because God sent his son, Jesus, to this world and taught us through his words and also through his death on the cross and resurrection.
Our sins are not forgiven through our study or whatever human action we may perform. They are forgiven through faith in Jesus Christ, which involves the belief that Jesus is the Savior. When we believe or accept the gift, of Grace, from God, we are forgiven. Through faith means through the Word and the sacraments, the Holy Baptism and the Holy Spirit, we are released from our indebtedness and walk with hope and joy.

In this world, we often encounter our failure, shameful acts, or doing something which cannot be recovered from. When it happens, even though it is his or her fault, the person blames someone else saying “it is not my fault” and goes on with their life. However, there are eyes of others and most importantly there are the eyes of God focused on this world. God knows everything you do and think. You feel that other people are blaming you and you feel that you did something wrong and suffer from your guilty conscious. You feel indebtedness.
I mentioned something which cannot be recovered from. When we encounter the death of a family member or someone beloved due to illness or accident, we often feel guilty because we think if we did something differently he or she would not die. There are still many people who feel that way about 9/11 or 3/11, the Japanese earthquake and tsunami. People feel that they cannot forgive themselves. How can he or she be forgiven? Who will forgive them?

There is one who releases us from our indebtedness, from our guilty conscience, and forgives all our sins.

And once you realize this, in response to this gift of Grace you will forgive others, too, as Jesus teaches us to do. We can never repay God for the gift of His son Jesus Christ, but God releases us from our tremendous indebtedness (i.e. our sins) and still loves us anyway. This week, let us be forgiven through our faith in the Father, Son, and the Holy Spirit, eternal God, and live with Hope and Joy. Let us also proclaim the good news to people who feel the burden of indebtedness, and let’s invite them to church. They will learn to forgive themselves, when they realize God has already and will always forgive them. Amen.
Pr. H. Adachi

いよいよジャパンフェスティバルの週を迎えました。LCRの50周年を記念して、神様の導きの中で御心に適った素晴らしいお祝いができますように祈ります。ティケットは当日も販売致します。是非お出で下さい。

2014年9月14日LCR日本語週報通算第1323号

2014年9月14日の週報

September 14, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin

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今週は詩編103編8-13節を読む。103編は22節からなるやや長い詩編。1-2節と20-22節の最初と最後は、「主をたたえよ」という言葉が5回出てきている賛美の詩編であることを念頭におき読むようにしたい。いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編 103編 
8:主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。
9:永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。
10:主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。
11:天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
12:東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
13:父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

気になった節や言葉はどこだろう? 8節にある「慈しみは大きい」という言葉。

詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。冒頭に書いたように、詩編103編全体は、「主をたたえよ」という言葉にはじまり、同じ言葉でしめくくられる讃美の詩編であるので、3節から19節のサンドイッチの中身は、なぜ主をたたえるのかという理由が、いろいろと詠われている。 そして、本日与えられている8-13節は、主をたたえる理由の中核部分なのだと思う。 一節ごとに想像力を膨らませながら読んでいきたい。歴史的にイスラエルの民全体に主がどれだけ、憐れみ深かったか、恵みに富んでいたか、忍耐強かったか、そして主の慈しみがとてつもなく大きかったかを振り返っているように思える(8節)。主はイスラエルの民を責めたり、民に怒りを覚えられたこともあったが、それらは、あくまで一時的なことでしかなかった(9節)。 主は決して罪の大きさに応じてあしらったり、報復したりするようなことはなさっていない(10節)。天は3次元で、2次元の地上より、はるかに高い空間を備えているように、主の慈しみは、主を畏れる民が感じることができる慈しみをはるかに超えた、とてつもない高さ・大きさがある(11節)。東方向と西方向は全く正反対で、東のはては、西のはてからは届きようがないようなところまで、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる(12節)。 父がその子をこの上なくかわいがるように、主を畏れる民をこの上なく憐れんでくださっている(13節)。 

この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 詩編103編の3節から19節は、「主をたたえる」理由がいろいろ詠われているが、その最初の理由は、3節にある「主はお前の罪をことごとく赦し」という言葉が筆頭にある。 主の赦しの程度がどれほどのものかを8節から13節で形容しているかのように感じる。 そして、その赦しの究極を人類に示してくださったのが、主イエスの十字架の死と復活、なのだと思う。 

あの911から13年が過ぎた。 いまだに癒えない心の痛みを覚え続けておられる方々もいるのだと思う。とても赦せないという気持ちでいる犠牲者の家族・友人や、あるいは政治家も多いのだと思う。 オバマ大統領は、極端なテログループ、イスラム国(ISIS, ISIL)への空爆拡大を辞さないことを昨日表明したようだ。 そのような報道を聞いているのは、13年前の911の出来事が根底にあるのだとは思う。 その時のことは話でしか聞いていない今の中高生以下のこどもたちには、今の報道はどう聞こえてくるのだろうか? 911を覚えている私たちの世代は、911以降に生まれた世代に、どう語っていけばよいのだろうか? 

自分を十字架にかけ葬むる人類を赦し「平和があるように。」と言われる救い主イエスを覚える時、いろいろな思いがこみあげてくる。 さらに救い主イエスが顕われる数百年前に遡って、詩編作者たちが覚えた主なる神の慈しみの大きさを覚える時、神が21世紀を生きる人類にも、主なる神の慈しみの大きさを次世代に継承していくようにと言われているように思う。アーメン
安達均

マタイ 18:15-20

救い主イエスの恵み福音が会衆の上に与えられるように!

だれかから、忠告を受けた体験を持っているだろうか? どんな感じがしただろう? 30年近く前になるが、私は今でもはっきり覚えている厳しい忠告のことを思い出す。技術屋時代で、一台の商品の仕様作成から設計まで担当することになった。 
どんどんペースメーカが使われる時代になって行く時で、そのペースメーカを入れるかどうかを判断するのに、重要な検査に利用される心臓刺激装置というものだった。 仕事として、とてもやりがいがありそうだし、結婚して間もないころで燃えていた。 
仕様のレビュー会議の時に、私の考えたものを発表した。当時にしてはコンセプトは斬新でやや自負しながら発表した。先輩のエンジニアは、大きな声で「それは違うと思うな。」と一言。会議に出ていた課長たちも部長も、ちょっとびっくりしてしまうような激しい口調だった。  
よく考えると、そのスペックはあまりにも技術屋思考で、当時の医療現場で使うには、おそらく使いにくいもので、あのまま製品化していたら、全然使われないものになっていたと思う。 結局、その一言が効き、自分ひとりで仕様を考え出すのではなく、他のエンジニアや、医療現場の医師や技師ともっと時間をとって相談して、仕様作成に当たることができ、一年半後には良い製品として世に送り出すことができた。

今日の福音書、イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉ではじまっているが、これはいったいどういう罪が問題になっているのか全然書いていない。 いろんな想像をしてしまいたくなるが、その話は置いておいて、先を読んでいきたい。
イエスの話はどんどん解決方法になっていく。 まず二人だけのところで忠告しなさい。 もし忠告を聞き入れてくれたら、兄弟になれたことになる。 聞き入れなければ、一人か二人を連れて行き、さらに話し合うように。 それでもだめなら、教会に行くように。。。。 
忠告をするというのは、はっきり言って勇気のいること。 忠告された方は、いやーな気分になったり、そっぽを向いてしまい関係が傷つく可能性だってある。「聞き入れなければ」とイエスが言われているのは、じゅうぶん、関係悪化に結びついてしまう可能性をイエスは視野に入れて話しているのだろう。
それでも、イエスは、さらに二人三人であったり教会につれて行くようにという話をしているのは、一人では解決できないと思ってあきらめてしまわないように。つまり、影で文句を言って愚痴を言って終わりにしないようにと言われているように思う。 イエスの話は、弟子たちに対して、さらに続く。 与えられた福音書の後半には、「はっきり言っておく」という言葉が二回も出てきている。 この言葉が出てきた後に、イエスが話していることは重要。 福音書にはこの言葉が70回以上出てくる。 

最初の「はっきり言っておく」の後は、地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは、天でも解かれる。 それは、弟子たちが地上で自分勝手に話してよいということではない。 むしろ逆で、天の父なる神は、地をしっかり見ている。 あなた方が、話すことが天の思いにかなったものであるように。
そんなこと言われたって、天の思いを自分が話せるわけないじゃない。という弟子たちの声が聞こえてくるような気がする。 そして、イエスは、二回目の「はっきり言っておく」という言葉を語った後、もっと重要な事を話す。 
それは、一人でも無理だし、人間的な思いだけで、だれかの罪を解決しようとしても難しいということをイエスは言われているのだと思う。どんな願い事でも、二人以上がこの地で心をひとつにして祈るなら、必ず適えられる。 二人以上で、イエスの名のもとに集まるところに、イエスがいっしょにいてくださるから。どんな願い事でもというのは、どんな自分勝手な願い事でもという意味ではなく、そこにいてくださる主によって、罪を犯す者が神の思いに適うものになっていくという面があるのだと思う。神が私たちとともにいてくださるという言葉は人類にどれだけ希望、信頼、喜びを与えているかはかりしれない。 

さて、ざっと今日の福音書を振り返ったが、キーワードは、「忠告」と「祈り」という解決策なのかと思う。しかし今一つしっくり来ない点がある。最初の方にも述べたが、兄弟があなたに対して罪を犯した者がいたら、と書いてあったが、それは教会内の兄弟姉妹だけのことなのだろうか?
「罪を犯す」の罪は、神の思いに対し背を向けてしまうような行為。 いってみれば、毎週毎週礼拝もあり、週一回の安息日には、教会に集まり、悔い改めて御言葉を聴き恵みを受けるという神の思いに従っていない方々がたくさんいる。 その方たちを影で非難するだけでそのままにしておかないようにということがあるのではないだろうか。
この世に生を持って生まれたもの、すべて神の被造物であり、神がとてつもなく愛しておられる。しかし、その神の愛に背いて歩んでいる人々に対して、忠告すること、そして、共同体で祈ることが大切なように思う。 
教育者、新島襄の言葉で、「少々角ありも可、良心溢るる若者」になるように教育するという言葉がある。 この地球に信者も信者じゃない方もいる中で、信者が信者ではない方に忠告することは角が立つかもしれない、しかし、イエスの愛をもって、忠告すること、そして良心あふれる教会の友たちで祈ることが大切なのだと思う。 

最初に、私に忠告をした先輩の話をした。 ともにエンジニアとして同じ職場で働く中で、個人的な話になると、私たち夫婦は毎週、日曜日は教会に行く生活をしていることを話すことが多かった。それが逆に私から彼への忠告になっていたような気もしている。 実際問題、社会人生活をするなかで、宗教の話をすることがタブーのような面があるのは事実で、私は若干敬遠されるような感じが出てきていたような面がある。  
私は10年技術職を体験したのち、技術の部門から離れたこともあり、話をすることが途絶えた。 しかし、私が会社をやめるころに、また彼に話す機会が与えられた。 私は牧師を目指すために、会社を辞めるので、私はもっと教会やイエスの話をだれとでもするようになってきた。それと同時に礼拝でも祈ることが続けられてきている。 この世にあって、教会から離れている方々のことを思って祈ることが続けられている。 数年後、突然連絡があり、彼の息子がキリスト教の中学高校に入り、おかげで毎週、息子につきあって、父親である彼が教会にいっしょに行く生活をしているとの連絡があった。 

教会を離れてあるいは知らずに生活している人々に、忠告し、そして彼等が教会に集い、悔い改めて、神の恵みを受けられるように祈り続けよう。 アーメン
安達均

When We Pray Together
Matt. 18:15-20

May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into the hearts of the people in this sanctuary!

Has someone ever pointed out your faults? I’m not talking about your parents or siblings, but has a friend, coworker, or an acquaintance pulled you aside to talk with you? If so, how did you feel about it? In the mid-80s, when I was an engineer (and also a newlywed), I was given a project. I wrote a set of specifications and designed a medical electronic device called the Cardiac Stimulator (CS).
That was the time when pacemakers were becoming increasingly popular and the CS was an important tool to diagnose if a patient needed pacemaker or not. I was very glad that I was given the project and was enthusiastic about my work.
When it was time for the first review meeting for me to discuss my proposal for the equipment, I was a bit proud of myself and eager to show the new concept. However there was an engineer in the meeting, a year older than me, and he strongly objected to my concept. I was a bit surprised how strongly he disliked my proposal and even the other managers and a senior manager became quiet since they did not quite know how to respond to his criticism.
When I reflected upon my initial concept, I realized my colleague was right to object. My proposal was something too new and would not be accepted by cardiac physicians and technicians at that time. After realizing my error, I talked more with physicians and technicians in the field. As a result of my conversations, I changed the specifications and a greatly improved product was introduced into the market one and half years later.

In today’s gospel, Jesus starts with the words, “If another member of the church sins against you,” but it did not specify what kind of sin at all. Also, FYI, the word “church” was not commonly used in Jesus’ time. So I wonder what Jesus was talking about when he mentions sin and church here? However, I would like to have a deeper discussion about what Jesus said.
Jesus is teaching how you should deal with someone’s sin even if you do not know the nature of the sin. He recommends first to go and to point out the fault in private…then if the person listens, that is great, but if they do not, ask one or two people to go to that same person and talk with them. If they still do not listen, involve the church.
“To point out someone’s fault” (even if it’s just giving advice) is a courageous act. Could you do it? Would you do it? If you confront someone, about a problem, they might become angry and your friendship might be ruined. I think Jesus knew very well about the negative consequences about discussing sin. Therefore, he gave several options when someone refuses to listen to your point.  
I think Jesus strongly suggests that if you find an issue, although you might not know the specific nature of the issue, do not leave it as is, do not grumble about it to one’s self, and do not complain to someone else until fist talking privately with the person. Then Jesus further talks to the disciples. In the last half of today’s Gospel, Jesus says “truly I tell you” twice. In the four gospels the phrase, “truly I tell you” appears over 70 times. It is commonly known that Jesus mentions important things after saying “truly I tell you.”

In today’s Gospel, “whatever you bind on earth will be bound in heaven, and whatever you loose on earth will be loosed in heaven.” We might think that we may say whatever we want to say. However I do not think this is the case. Here maybe Jesus wants to say “whatever you say in this world is heard by God in heaven. Therefore, you should speak according to God’s will.”
The disciples most likely said, “How do you speak according to God’s will?” although there is nothing written about how the disciples responded. Then Jesus said the second “truly I tell you,” and I think the most important sentences in today’s Gospel appear:
“If two of you agree on earth about anything you ask, it will be done for you by my Father in heaven. For where two or three are gathered in my name, I am there among them.” I believe Jesus is telling us, there are things you cannot do alone or even when you gather with others there are things beyond human understanding. However whatever you and at least two others pray for something, it will be realized according to the Father’s will since Jesus is among the two and praying with the group.

I just reviewed today’s Gospel and the key words are “Advice” and “Prayer”. However, I still have not talked about what kind of sin we should point out (or give advice about). Does this only apply to people within the church? Again, it was uncommon for Jesus to use the word “church.” Since the Gospels were written 40 years after Jesus ascended, I believe Matthew added the word, “church.”
So forget about the word “church” and just think about “if someone sins.” Sin is something that causes people to turn away from God. Of course, we know that we do sin every week and we confess to Jesus. Also, every week, God is inviting people to come to worship to confess their sins but there are so many people refusing to do so. Is it OK to leave them as they are?
I believe all people are created and loved by God. Therefore, I think people here in this sanctuary are guided by God to point out people’s faults. If you do not want to use the phrase “point out their faults,” why not say we should “advise” others. I think today’s Gospel is inviting us to give advice to people and not to just attend church. Whether you use the words “to point out” or “to advise.” Discussing faults may lead to discomfort and a strained relationship, but it must be done. However, don’t just give advice. It is very important to pray together with other believers. God will hear you and answer you.

Let me return to the person I talked about in the beginning who pointed out my faults. After that incident, he and I became closer friends. The fact was that later on I was talking more about the Christian church even to friends at work. As you know, it is kind of taboo to talk about any religion in Japanese society or even in the US. This strained our friendship and we did not speak to each other for ten years. The situation was not helped by the fact that my career as an engineer ended in the early 90s. I eventually transitioned to a pastoral career.
I have been praying here with my brothers and sisters that God invites and calls people who are not aware of church. I strongly believe that God listens when we pray as a group of Christians. A few years after I joined the seminary, I received an email from my former colleague saying that his son joined a Christian middle school and he is attending church services on Sundays. Although I am not sure if he is still attending church, we pray together for people separated from God to come to church, the body of Christ, and confess their sins and to receive God’s grace and mercy. Amen.
Pr. H. Adachi

2014年9月7日LCR日本語部週報通算第1322号

2014年9月7日の週報

September 7, 2014 LCR Japanese Ministry Sunday Bulletin

 

 

今週は詩編119編65-72節を読む。詩編119編はヘブル語のいろはがるたのような詩をならべたもの。22文字あるヘブル語アルファベットの各文字ではじまる22の詩が集められている。65節はヘブル語の”t”の文字ではじまる言葉が最初に位置されている歌。もちろん日本語に訳されているので、”t”の文字ではじまっている言葉かどうかはわからない。しかし、新共同訳の聖書をみると(テト)と65節の前に書いてある。これはヘブル語のアルファベット文字の”t”に相当する文字をカタカナで表記している。さて前置きはそれくらいにして、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編119編 
(テト)
65:主よ、あなたの御言葉のとおり/あなたの僕に恵み深くお計らいください。
66:確かな判断力と知識をもつように/わたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。
67:わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。
68:あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの掟を教えてください。
69:傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが/わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。
70:彼らの心は脂肪に閉ざされています。わたしはあなたの律法を楽しみとします。
71:卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。
72:あなたの口から出る律法はわたしにとって/幾千の金銀にまさる恵みです。

気になった節や言葉はどこだろう? 67節にある「ついに卑しめられました。」という言葉と71節にある「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。」

詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。全体的には、とてもわかりやすい言葉で表現されており、すんなり読める詩である。詩編は詩編作者の祈りであり、また詩編にくみこまれている歌であるので、この言葉をシナゴーグにあつまったユダヤ教徒たちが礼拝の中で皆で祈り詠うようになったと想像する。この詩編個所、すんなり読めるとは書いたが、詩編作者の人生は、決して「すんなり」したものではなく、山あり谷ありの信仰の旅路を歩んだことだろう。さて一節一節を振り返りたい。 主の御前にへりくだって、あなたの僕である私を恵み深く計らってください(65節)。と詠いはじめ、あなたの戒めに従う判断力や知識を持ち合わせていなかった自分に、ぜひあなたの判断力や知識を教えてください。あなたの戒めを信じています(66節)。  私はあなたの戒めに従わず迷いの人生を歩んでいたため、ついに卑しめられましたが、今からはあなたの戒めに従います(67節—詩編作者は人々から非難されたりしたのだろう)。あなたはすべて善なる方で、すべてを善に変えられる方なので、あなたの掟を教えてください(68節)。あなたの掟を学ばずに傲慢に生きている者はうわべだけを繕おうとするが、私は心からあなたの掟、命令を守ります(69節)。その傲慢な者たちはあなたに心を開いていないが、わたしは心をあなたに開き、あなたの法を楽しみにします(70節)。卑しめられたおかげで、あなたの掟を学ぶようになりました(71節)。あなたが語る律法は、どんな財宝にもまさる恵みです(72節)。 

この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 上記には、新共同訳聖書に用いられた「卑しめられた」という言葉をそのまま使って書いてきたが、卑しめるという言場、どう解釈したら良いか考える時、7日の日曜に与えられた福音書個所(マタイ18:15-20)にその答があるように思った。福音書からキーワードを二つ挙げるとすると「忠告」と「祈り」なのだと思う。 兄弟姉妹から受ける忠告と兄弟姉妹が集まって、心を一つにしていっしょに「祈る」ことの大切さがある。 「卑しめられた」とあったが、周辺の信仰者から「忠告を受けた」という言葉がピンと来るように思う。 そして、現代を生きるキリスト信仰者たちも、もし主の道からはずれて生きているような場合は、兄弟姉妹間で、忠告しあうことの重要性を教えられているように思う。 また、忠告しただけで終わるのではなく、この詩編作者が詩編に残して、信仰者たちが集まった場で、皆で詠い祈ることが行なわれていたように、現代の兄弟姉妹たちも、いっしょに主に感謝して祈ることの大切さがある。もし兄弟姉妹が集まる機会がすぐに得られないような場合は、2500年以上前に生きた詩編作者たちが残してくれた、詩編を読み、時を越えて詩編作者と心を一つにして読むように心がけることもすばらしいことだと思う。アーメン 
安達均