マルコ 4: 26-34, 第二コリント 5:6-17  

聖霊の力によって、キリストの愛が人々の心の中に染み渡るように!

「悟りの境地に達する」という言葉がある。 本来、仏教の言葉だと思う。 この言葉をどんな風に、捉えているだろうか?  仏像を見たことがあると思うが、いろいろなものがあるが、美術品として本当に美しいものもあるが、仏陀がとっている姿勢がまさに、悟りの境地に達している姿勢なのではないかと私は想像している。
では、仏教もキリスト教も宗教なのでから、イエス様だって、同じように悟りの境地に達していると思われるだろうか? そして、キリスト教徒として究めれば、キリスト教徒も悟りの境地に達するといえるのではないかと、世間では思われているかもしれない。
さて、みなさんの中には、キリスト教徒として、人生が長い方もおられる。 どうだろうか、自分は悟りの境地に達していると、思われる方いるだろうか? 

与えられた福音書の言葉と、さらに、第二日課で与えられた言葉を通して、キリスト教徒も仏陀と同じように悟りの境地に達するようなことがあるのかどうか、考えてみたい。
福音書の中で、イエスが、「神の国のたとえ話」として、ちっぽけな種がとてつもなく大きな木になるという話をしている。 からし種のような小さな種でも、主の御力によって、とてつもなく大きな木へと成長し、さらには、その木の上に、鳥の巣さえ出来てしまうような木に成長するという話。これはあくまでたとえであり、実際に、イエス様がいわんとしていることは、種から大きな木が成長するということではない。 
イエスがいわんとしていることは、先週の福音書箇所だったマルコ3章には、イエスは気が狂った人と、思われ、まるで価値の無い人間だとすら思われてしまったが、そのような状況を覆す必要をイエスは感じていたのではないだろうか?  

気がくるっていて、社会的にはまるで価値が無いとされてしまうような存在、もっとさかのぼるなら、エルサレムの馬小屋で生まれたような小さな赤ちゃんから、実はとてつもないおおきな神の国に変わっていくということをイエスは述べたかったと考えてはどうだろうか。 彼の生き様自体に、とてつもない価値があることを人々に知らせる必要があったのだと思う。 そして、自分優先ではなく、神優先、神の栄光のために生きていこうとすることがどれだけ価値があることかをイエスは示したかったのではないだろうか。 
そしてイエスの死と復活、昇天後も、そして現代もその神の国を形成していくのは、聖霊に導かれてキリストを信じるようになった者たち。 成長しつづける巨木の一本一本の枝を成す存在になっていくということが云えるのではないだろうか? 
本日の第二日課、コリント信徒への手紙の二、5章17節には、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」という言葉があった。 その神の国を形成する人類、一人一人も、イエスとつながって、成長する木の枝となり、いつも恵みを受け続けて、常に新しくされるということがおこっているのだと思う。

さて、このように考えてきたところで、説教の最初の質問、「キリスト者が悟りの境地に達するか?」という質問にもどりたいと思う。 キリスト者が常に新しくされるというのは、一つの悟りかもしれない。 しかし、悟りに境地に達して、そこに留まるということではないのだと思う。
キリストの教会につながるという事は、私は5つのポイントがあることを述べてきている。 復習すると、1)聖書の御言葉を読む、2)主に祈る、3)礼拝を休まないようにして、礼拝でも、社会のためにも奉仕する。 4)家族、友人、知人を誘って御国の伝道に協力する。5)いただいている恵みに応答して、恵みの一部を捧げる。 キリスト者は、このような生活を営む中で、キリストの体である教会に遭遇する中で、さまざまな状況に遭遇し、そこに聖霊の働きがあって、さらに神を褒め称えたくなるような新たなる発見をするし、自分も新しくされていくという経験を繰り返す。

6月3日から8日まで、さと子と私は休暇をいただいた。とくに留守を守ってくださった皆さんに感謝したい。休暇をとってボストンを旅行するといってもやはり日曜朝はどこで礼拝を捧げるか、教会を探していた。 4日の朝、最初の候補だったハーバード大学近くにある、University Lutheran Churchに出向いた。 すると今年第二次世界大戦終了から70年にあたり、世界ではじめて原爆投下となってしまった日本時間8月6日午前8時16分、東海岸時間で8月5日午後7時16分に向けて、5月28日から、毎晩7時から7時16分まで、祈り会が持たれているという張り紙を見つけた。
私たちは、6月6日の夜の祈り会に参加した。参加者は私たちを含めてわずかに6名に過ぎないが、その小さな群れで祈る中で、広島や長崎で亡くなった方々の痛み、さらには十字架上のキリストの痛みにも感じた。しかし、アメリカの方々が広島、長崎の犠牲者も覚えて祈ってくださっていることへの感謝と同時に、神の御国にも通じるものを感じ、十字架に架けられ殺され、葬られても復活するイエスによる喜びさえ覚えた。 そして、喜びを覚えるだけではなく、聖霊の力とともに、この祈りの輪を広げる行動をしたいという気持ちでいっぱいになった。 小さな祈り会であったが、神の働きについて、新たな視点を得たように思う。 
私たちキリスト者は、悟るということはあるのだと思う。 しかし、悟りの境地に達して、とどまっているということではない。 キリスト者としての生活を歩む中で、なにげなく見逃してしまいそうで、こんなもの何にもならない、と思われてしまいそうなちっぽけな種のようなもの中に、とてつもなく大きな神の御国を見る。 そして、聖霊の働きの中でおこる悟りに応じて、私たちは新しくされ、私たちは新たな可能性に向けて世に遣わされる。 
アーメン
安達均

“Achieving a State of Perfect Enlightenment?”
Mark 4: 26-34, 2 Corinthians 5:6-17

May the Holy Spirit be poured into the hearts of the people in this sanctuary!

There is a phrase in Buddhism, in Japanese it’s “Satori no Kyochi ni tassuru,”which means “Achieving a state of perfect enlightenment.” I believe most of you have seen statutes of Buddha. Buddha is often depicted sitting calmly and many people see them as examples of serene beauty and I agree that some statutes are very beautiful. I think Buddha statues symbolize the state of perfect enlightenment.
So do you think there’s a similar concept in Christianity? Do you think that Jesus Christ is like Buddha sitting calmly because he achieved a state of perfect enlightenment? Do you think that Christians can also achieve a state of perfect enlightenment?
Since some of you lived as Christians for many years, what do you think? Do you think that you have achieved a state of perfect enlightenment or is it a process?
Based on the Gospel text, Mark Chapter 4, together with the second reading, II Corinthians Chapter 5, let’s think about the image of Christians sitting very calmly while achieving a state of perfect enlightenment.

In the Gospel, Jesus talks about a parable describing how even the smallest seed may become a very big plant. It represents the fact that something as great and important as the Kingdom of God had small beginnings. Since this is a parable, what Jesus really wanted to talk about was the Kingdom of God and not the tree.
I think what Jesus really wanted to discuss was changing the perception that he was “out of his mind” or his teachings were unimportant, as evidenced by some passages before today’s scripture in Mark Chapter 3.

Even though most people were skeptical of Jesus because of his humble birth in a Bethlehem manger and they thought he was “crazy” because he spoke of an unseen Kingdom, Jesus wanted to say there was priceless value in his life. If people stopped living for themselves and started living for God’s sake and His glory, they would be greatly rewarded. What Jesus was saying is that the Kingdom of God will be built from his presence and his Word.
Even after his death, resurrection, and ascension, the Kingdom of God continued being built by believers of Jesus Christ who were ignited by the Holy Spirit and part of the big, flourishing plant, the Kingdom of God. Each believer is a branch of the big plant and always growing and being made anew.
In Second Corinthians, Chapter 5:17, there are these words “So if anyone is in Christ, there is a new creation: everything old has passed away; see everything has become new!” I think each branch of the big plant is always being made new with nutrition coming from the central part of the plant, Jesus Christ.

Having thought about Jesus and the Kingdom of God, let’s go back to the original question, Can Christians achieve a state of perfect enlightenment? I believe the phrase, “the Christian is always being made new” points to a form of enlightenment. However, even though each of us has the potential to achieve this enlightenment, it does not mean that we stay in that state.
I frequently mention that there are five main aspects that connects us to the Christian church: 1) Reading the Bible, the Word of God; 2) Praying to the Lord; 3) Worshipping the Lord every Sunday and serving the Lord during Sunday services and within the surrounding community; 4) Inviting family members and friends to church; 5) Giving back a portion of the gifts received from the Lord. In the midst of our Christian lives and being connected to the church, the body of Christ, we encounter many situations, find new reasons to glorify God and are always being made anew.

From Wednesday, June 3rd, through Monday, June 8th, Satoko and I took a vacation to Boston. Even though we were on vacation, we still looked for a place to worship on Sunday June 7th. The first possibility was to go to University Lutheran Church near Harvard University. On Thursday morning, my wife and I were walking there to verify its location. While walking, we found a poster saying that they pray for peace every night from May 28th through August 5th between 7:00 p.m. and 7:16 p.m. Since this is the 70th anniversary of the end of World War II, they decided to pray for 70 days from May 28th until 7:16 p.m. Eastern time on August 5th which is the time when the first Atomic Bomb was dropped on Hiroshima at 8:16 a.m. (Japan time) on August 6th.
We attended the Saturday evening vigil on June 6th. Only 6 people attended that vigil, in that small group I felt the pain of victims of Hiroshima and Nagasaki, but I also felt the lives connected to the Kingdom of God. I was thankful to God that people in the United States still prayed for the victims of the atomic bomb attacks and WW II victims in general. I even sensed the Joy in Christ who was crucified, killed, but resurrected and ascended. The Holy Spirit enabled me to expand this prayer chain to communities other than just Boston Massachusetts. In the midst of a solemn event, the Holy Spirit enabled me to gain new insights about God’s work.

We Christians often see seemingly unimportant things in our daily lives, but in those small things are majestic works for the Kingdom of God, and our Lord Jesus Christ. Through the Holy Spirt we achieve a state of enlightenment, but we do not stay in that state. We are made anew and we are sent into the world to respond to new insights and opportunities to glorify God.
Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

June 14th, 2015

2015年度日本語部修養会

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6月13日土曜日の午前10時より、Santa AnaにあるPacifica Synod Office (教区オフィス)で行なわれました。今年のテーマは、「祈りについて」でした。講師に伊藤秀美牧師を招き、素晴らしい学びのひと時となりましたことを感謝いたします。祈ることによって、喜びが与えられる。祈ることによって、神と自分との間が適合され、自分の中の落ち着きと平安が生まれる。それが周りの人たちへの思いやりや愛情へとなり、決して他人を責めたり傷つけたりせず、どのような人でも同じように受け入れられるような社会、国、世界となっていく、それが神の御心であり、祈りが私たちの生活に生きている、キリスト教が社会に適合しているという事なのだと学びました。また様々な宗教は人が作ったものであり、人は自分たちの宗教を最高のものだと思ってしまうところに問題が起こり、他の宗教を受け入れないという狭さに繋がってしまうが、実はそれらの宗教の上にもっと大切な「無条件の愛」がある事を忘れてはならない、というお話お印象深かったです。10時から3時半までがあっという間に過ぎてしまい、もっとお話を聞きたいと全員が思いながら閉会となりました。

 

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修養会プログラム

修養会プログラム2015

 

2015年6月14日LCR日本語部週報通算第1356号

2015年6月14日の週報

June 14, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1356E

今週は6月11日から14日の聖書日課に与えられている詩編92編を読もう。新共同訳聖書では最初の5節までと、最後の13節から16節までの短い箇所に集中して読む。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編92編を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。

詩編92編
1: 【賛歌。歌。安息日に。】
2:いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い
3:朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは
4:十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。
5:主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。

13:神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。
14:主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。
15:白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし
16:述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。

インパクトのある言葉や節として、私は15節の「白髪になってもなお実を結び/命にあふれ、いきいきとし」という箇所を挙げたい。ほとんど白髪となってしまった私には、元気づけられる言葉である。 箴言の16章31節には、「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」とある。また中国の諺には、「なにかわからないことがあったら白髪の人に聞くように」という言葉があるそうだが、そのような言葉も思い出す。 

詩編作者の気持ちになって、与えられた詩編を振り返ろう。1節の説明からして、ユダヤ教の土曜日(安息日)の礼拝で歌われていた讃美歌なのだと思う。きっと弦楽器もたくさん使われて讃美歌を歌ったのかと思う。 主に感謝し、讃美歌を詠うことはどんなにか楽しいことか(2節)。毎朝、あなたが夜の間、ずっと私たちを愛し、まもってくださったことを、そして毎晩、あなたの正しさを述べ伝えることは楽しい(3節)。さまざまな種類の弦楽器の調べにあわせて賛美することは楽しい(4節)。主よ、あなたを賛美する理由は、あなたの御業が私を喜ばせ、祝福してくださるから、私はその喜びを歌います(5節)。
神に従って歩む人は、なつめやしのように茂り続け、レバノン杉のようにどんどんそびえていく(13節)。主の家に植えられており、神の庭に茂る(14節)。年老いて、白髪になろうが、なおも他の人々を主へと導き、いきいきとしている(15節)。そして、私が岩として信頼する主は正しい方で、そこには不正がない、と述べ伝える(16節)。

主イエスがこの世に降誕された後の紀元後、とくに21世紀、現代に生かされている私たちに、主なる神はこの詩編92編をもって何を語っておられるのか考えたい。 1-5節に詠われていることは、現代の私たちにも、全く共通することで、主なる神を賛美し、楽器に合わせて讃美歌を歌うことは、いかに楽しことであるか。ただ、その理由として、主の御業を思うとき、紀元前であれば、イスラエルの民が、エジプトの奴隷時代から解放されたことが一つの大きな、主の御業になるのかと思う。しかし、現代の私たちにとっては、イスラエルを越えて、どこの人種であろうが、主イエスが、全人類のために、十字架に架かり、死にて葬られても、復活し全人類の罪を赦し、「あなた方に平和があるように」といって新たなる永遠の命を与えてくださったことが、最大の御業なのかと思う。 その御業を讃え、毎週、主の復活された日曜日に、礼拝があり、賛美している。13節以降に描かれた、いきいき茂るなつめやしや、そびえたつレバノン杉にたとえられた、神に従って歩む人とは、信仰深い方々を指しているのだろう。しかし、その中に、主なるイエスも、信仰者たちの間に混じって存在しているのだと思う。 そして、主なるイエスが永遠に生きておられるように、信仰者たちも、肉体的にはたとえ白髪となり老人になろうが、霊的には、常に実を結び、いきいきとしている。だから、絶対に正しい、主なる神、イエスキリスト、そして聖霊として、21世紀にも存在してくださっている御方を信頼して生きて行くように。そして、そのことを人々に伝道して、主なるイエスの体である教会が、ますます命あふれて成長しますように。
アーメン
安達均

2015年6月7日LCR日本語部週報通算第1355号

2015年6月7日の週報

June 7, 2015 LCR Japanese Ministry English Sunday Bulletin

Sunday English Bulletin 1355E

聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝の説教は、今日の福音書、マルコ3章の20−30節より、カール先生がメッセージをくださいました。

“ Is Jesus Out of His Mind? “

「イエスの気が狂った?」

Mark 3:20-30 マルコ福音書3章20−30節

2015年6月7日聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝説教

E. Carl Zimmermann 牧師

 

  • イエスは、彼が行った多くの奇跡や、語ったお話しで、大変な人気を集めた。
  • しかし、彼の家族はイエスの気が変になったと思った。
  • そして、宗教指導者たちは、イエスの事を、執拗に人々を騒がせている困った奴だと思っていた。
  • 彼らにとってイエスは脅威であった。なぜなら自分たちユダヤ人の伝統や風習、信じて行っている事柄を否定されていると思ったからである。
  • 更に、彼らの中にはイエスの人望やカリスマ性を快く思わない者もいた。
  • 宗教指導者たち(律法学者)にとって、あまりにも不愉快であったので、彼らはイエスに対して不信をいだき、イエスが宣教開始直後から、イエスを無き者にしようと陰謀を企んだ。
  • 律法学者たちは、イエスがサタンに取り憑かれているか、またはサタンの手下だと思った。
  • ある訳によれば、“サタン(魔王)”は“Beelzebub(ベルゼル)”と呼ばれ、それは“Lord of the Flies(蠅の王)”という意味だ。
  • ベルゼブルは古代フェニキア人の異教の神だった。
  • 彼は死と汚物の神だった。彼は常に人間の汚物に関わっていたので、“蠅の神”という名がつけられたのだろう。
  • イエスの伝道の最初から、ベルゼブルはキリストの最大の敵だった。
  • そして暗黒の世の中では、ベルゼブルは凄まじく威力のある存在だった。
  • 彼は、憎しみや狭い心、怒りや嫉妬によって人々の生活を惨めにしていた。
  • ベルゼブルはさらに全力で、イエスと神を冒涜した。
  • 彼は悪行高い、偽りに満ちた醜い神だった。彼の使命は人々の人生を台無しにし、心痛と悲しみをもたらすことだった。
  • それに対してイエスの使命はどうだっただろう:

「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に 解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、..」

(ルカ4:18)

  • イエスとベルゼブルの違いが一目で解るだろう。一人は死をもたらし、他の一人は命をもたらす。
  • サタンは私たちを傷つけようとする;

イエスは私たちを常に癒してくださる。

悪魔は偽る;イエスは真実のみを語る。

ベルゼブルは私たちを惑わす;イエスは私たちをより優れた者へと導く。

悪者は私たちを失望させる;イエスは私たちにエネルギーを与える。

  • そして彼らの違いの最終的決定打はこれだ:

ベルゼブルの力は一時的なもの;イエスの力は永遠に在るもの!

  • イエスが十字架を克服した時、サタンも克服したのだ。
  • 聖パウロは、私たちがこのことを常に心に止めているようにと、コリントの信徒への手紙にこのように書いている。

『「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。私たちの主イエスキリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。』

  • 私たちの死を乗り越えた勝利は、サタンからのものではなく、イエスの十字架の勝利によるものであることに注目したい。
  • 確かに、現在の世の中にも悪魔の働きは続いている。キリストの十字架によって傷ついてはいるが、彼は戦い続け私たちの人生に影響を与え続ける。
  • 私たちは、ひたすら彼の悪行に立ち向かわなければならない。しかし、キリストが再び来られる時、サタンは完全に征服され、永久に消滅される。
  • その日がくるまで、私たちはイエスに従おう。

彼は決して気が狂ったのではない。

  • 彼は決して自分を失ったのでもない。
  • 彼は決して悪霊に取り憑かれたのではない。

そうではなくて、

  • 彼は神の独り子である。
  • 彼は主の主、彼は王の中の王
  • 彼は私たちの羊飼い、リーダー、先生、友、そして私たちをいつも導いてくれる方。
  • 彼こそが、であり、真理であり、生命である、その事が何よりも大切な事実なのである。

 

 

要約: 芙美Liang

 

 

 

今週は、詩編120編を読もう。まず、いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。そして、7日の聖日にあたえられている福音書はマルコ3章20-35節。詩編の言葉とイエスの気持ちを重ね合わせるようにして読むのも良いと思う。

詩編120編
1:【都に上る歌。】苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。
2:「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」
3:主はお前に何を与え/お前に何を加えられるであろうか/欺いて語る舌よ
4:勇士の放つ鋭い矢よ/えにしだの炭火を付けた矢よ。
5:わたしは不幸なことだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは
6:平和を憎む者と共に/わたしの魂が久しくそこに住むとは。
7:平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。

マルコによる福音書3章
20:イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
21:身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
22:エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
23:そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
24:国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
25:家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
26:同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
27:また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
28:はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
29:しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
30:イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
31:イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32:大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
33:イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
34:周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35:神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

本日は牧師のコメントは休暇中のためお休み。

ヨハネ3:1-17

三位一体なる主の恵みと平安が人々の心に豊かに浸み込むように!

今日は、スクリーンに現われた絵を見て欲しい。 何に見えるだろうか? 「あひる」に見える方? うさぎに見える方? 
Picture1
このような絵を見た経験はあると思う。 見方によってはあひるだし、見方よってはうさぎ。 これは、あひるの頭が50%描かれているのではなく、うさぎの頭が50%描かれているわけではない。 あえていうなら、あひるの頭が100%描かれているし、うさぎの頭が100%描かれている。

三位一体主日に与えられた福音書の最後には、ヨハネ3:16、:「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という有名な箇所が出てくる。
よく車のステッカーに、「John3:16」と貼ってあるのを見ることもある。 ヨハネ3:16だけを読んでも、聖書の結論ともいえる、「主われを愛す」がよく現われている。しかし、なぜこの言葉が三位一体主日に読まれているのだろうか。 

この言葉がイエスが語られた背景をもうすこし注意深く読むことによって、イエスキリストがどういう方であるかがわかってくるように思う。 
ヨハネ3章は、「イエスが神のもとから来た”教師”である」ことはわかるというファリサイ人の議員ニコデモが、イエスの元にきて、イエスと会話をしている。 イエスは「はっきりいっておく」という重要なことを語るぞ、という前置きのあと、「人はあらたに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と話す。
そこで、ニコデモは「この世に一度生まれたものが、母親の胎内に入ってあらたに生まれるなんていうことができるのか?」と質問し、イエスの話す意味はわからずにいる。 そこで、イエスは、二回目の、「はっきりいっておく」という言葉を述べたあと、「だれでも水と霊をもって、新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と語る。
それでも「どうしてそんなことがありえるのか」と質問するニコデモに、3回目の「はっきりいっておく」という言葉を述べて、神がこの世のすべての人々を愛しており、神から送られた自分自身が十字架にかかり、捧げ物となることを示唆する。 そして、この自分が神から送られた超本人であり、十字架にかかる自分を信じる世界中の人々が、一人も滅びることなく永遠の命を得られるように、している。

現代、イエスは神なる救い主としてみるより、イエスは人間の一人にしか過ぎないと見る人々が増えている。 とくに現代は、イエスは「神が送った預言者の一人に過ぎない」、あるいは、「教師」に過ぎないというイスラム教勢力が圧倒的に伸びている現実がある。 イエスは過去の教師では終わっておらず、また過去に生きたただの預言者ではないのだが。。。 
数十年後には、イスラム教徒はキリスト教徒を上回るともいわれる。 このような状況の中で、今日あたえられているヨハネ3章のイエスの言葉は、現代の世界中のキリスト教徒にも、また世界中の「イエスは預言者」あるいはただの人間の教師だったとする人々に、「もう一度、真剣にイエスのことを見るように」と言われているようだ。
現代を生きる、キリスト教徒にもイスラム教徒々に対しても、イエスをどう見るかによって人生が大きく変わりますよ、といわれているように感じる。 神の一人子が、十字架にかかって葬られたが、復活した、そして聖霊としてこの世に存在されている。そのイエスをもう一度、見上げるようにと言われているように思える。
私自身の反省もあるが、今までの三位一体主日に「三位一体」は、むずかしいから、説教では、三位一体の話を置き去りにしてしまう傾向があったことはいなめない。 だからこそ、今日の箇所から三位一体について、話すように聖霊が働き、今日の礼拝で私たちは三位一体なるお方に少しでも近づくように導かれている。

一昨年の修養会で私は、神を太陽に例える話をした。とくに打ち合わせをしたわけではなかったが、昨年の修養会でキム先生も、話されたことで、少々復習したい。 三位一体を簡単に話すなら、父なる神は、地球から遠くに存在している太陽みたいなもの。
地球から遠いといっても、しっかりと、光となって、太陽光は地球に届いている。 その太陽光がイエスキリスト。 神から放たれて地球に生まれたイエス様である。 そして、その光はこの地球上を覆っていて、熱となって、暖かくしてくださっている。 その熱こそ聖なる霊。聖なる霊が地球を覆うという状況は、イザヤの預言で、聖なる万軍の主、主の栄光がこの地を覆うという状況とも似ている。
太陽、光、熱はわたしたちがまさに見ることもでき感じることもできるもの。 そこに、父、子、聖霊なる三位一体なる主を見出すことができるのではないだろうか。 
太陽は太陽ひとつで100%の太陽。 しかし、太陽から光となって100パーセントの光にもなるし、それが熱として存在するとき、100%熱だ。 33%が太陽で、光が33パーセントで、33%が熱ではない。同じように、イエス様は100%神であり、100%人間であり、100%聖霊で、300パーセントなる御方ともいえるのではないだろうか。このような三位一体なるお方について、私たちは世の人々とシェアするように導かれているのではないだろうか。よ人類がイエスをどう見るかによって、私たちの世界は大きく変わるのだと思う。アーメン
安達均

“Your Life Depends on How You Look at Things”
John 3:1-17

May the Lord, Holy Trinity, pour the grace and peace into hearts of the people in this world!

Please look at the screen. What is pictured? Do you see a rabbit’s head or do you see a duck’s head?
Many of you are probably familiar with this type of image. You can see the duck’s head and the rabbit’s head at the same time. This drawing is not 50% a duck’s head and not 50% a rabbit’s head. Both heads are perceived 100% respectively.

The Gospel text today includes John 3:16. It reads, “For God so loved the world that he gave his only Son, so that everyone who believes in him may not perish but may have eternal life.” This is one of most famous verses in the Bible.
Many of you have seen “John 3:16” stickers on cars. The reason the verse is so popular is that a central tenet of the Bible is expressed in it: God so loves the world. God loves each one of us. However, why was this text chosen for the Holy Trinity text?

I believe that understanding the contextual background of John 3:16’s text leads us to a better understanding of who Jesus is. In other words, reading the verses before 3:16 helps us better understand Jesus’ character.
Chapter 3 begins with the description of Nicodemus, a Pharisee politician in Israel. He said to Jesus, “We know that you are a teacher from God.” but when people say “I know” or “we know” it probably means that people don’t “truly know.” So Jesus said, “Very truly I tell you.” Then, he said, “no one can see the kingdom of God without being born from above.”
Then Nicodemus replied, “How can anyone be born after having grown old? Surely, no one can enter their mother’s womb a second time to be born?” He took what Jesus said literally. Then Jesus replied a second time, “Very truly, I tell you, no one can enter the kingdom of God without being born of water and Spirit. What is born of the flesh is flesh, and what is born of the Spirit is spirit.”
Nicodemus still didn’t fully understand Jesus’ and said to him, “How can these things be?” Jesus answered him, saying “Very truly,” three times, and he explained that he is the one who came down from heaven and indicated that he will be crucified on the cross. Then, He proclaimed, “that God so loved the world that he gave his only son. So that whoever believes in him may not perish.”
When we think about people in the 21st century, the number of people who disbelieve that Jesus is God tends to exceed the number of people who believe Jesus is indeed God. Some sociologists forecast that the number of Muslims who believe that Jesus is a prophet, as the Jews believe, will exceed the number of Christians within several decades.

In this modern age, when we listen to the Gospel text read today, it seems that our Lord is not only guiding us Christians to see Jesus well. He also wants people who see Jesus only as a teacher and deny the Holy Trinity and deny him as their Savior and Lord to truly see Jesus. God loves even those who deny him. The text is guiding us to contemplate who Jesus truly is.
I think we are being guided to see Jesus as someone who was crucified, died, was resurrected, ascended, and is still among us as the Holy Spirit.
I am lamenting my past Sunday sermons that focused on the Holy Trinity. I often avoided the topic of the Holy Trinity since it can theologically difficult to understand. Therefore, I think today the Holy Spirit is guiding me to talk about who Jesus is as the Holy Trinity.

A year before last, during the Japanese Ministry retreat, I talked about the image of God as the Sun, and then last year, Pastor Kim also talked about the same metaphor. Those of you that attended the retreat should remember the discussion. It will be redundant for you, but please bear with me, the Sun exists very far away from the Earth.
Even though it is located far from the Earth, the energy of Sun comes to Earth as light. That light is Jesus. From God, Jesus comes to Earth. The Earth is surrounded by light…that light warms the entire world. The light warms our hearts and lives. The life-giving light is also the Holy Spirit.
We can see and feel the Sun, sunlight, and its radiant heat. From these three aspects, we metaphorically sense the existence of the Holy Trinity. We perceive the Sun as 100% the Sun, its light as 100% light, and its radiant heat as 100% heat.
Each aspect is fully perceived and not just seen as one-third of a whole. Likewise, Jesus is 100% God, 100% human, and 100% the Holy Spirit. He is indeed the Triune God.
Amen.
Pr. H. Adachi

6月13日土曜日の10時から行われます修養会に是非ご参加ください。

修養会招待状2015

6月は13日に修養会が午前10時から午後3時半まで、サンタナにあるパシフィカ教区のオフィスで行われます。忘れずに申し込みましょう。

2015年6月カレンダー&聖書日課