LCR日本語部9月の教会カレンダー/聖書日課
2015年8月23日LCR日本語部週報通算第1365号
August 23, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin
今週は8月20 日から8月23 日の聖書日課に与えられている詩編34編16 -23節を読もう。23日の礼拝では、福音書は再びヨハネ6章にもどって、イエスが話された「命のパン」の話しの続きになる。聖餐式のことを覚えつつ読むのも良いと思う。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編34編
16:主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
17:主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。
18:主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。
19:主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。
20:主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し
21:骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。
22:主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。
23:主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。
気になる言葉として、20節「主に従う人には災いが重なるが」という言葉。
詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいくが、その前に、先々週と先週の復習。先々週は、34編の1-9節、先週は10-15節、そして今週は16節-23節を読んできている。 詩編作者は詩編34編で礼拝を表現しているように思える。1節は前置きのようなもので、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られている。そのように見てくると、本日の箇所、16-23節の説教の結論であり、また礼拝の締めくくりとも言える。先週12節-15節の説教のポイントは、「主を畏れるように。そして、言葉に気をつけて、平和を探し求めよ。」ということだった。 そして16節以降は、なぜ主を畏れ、従うことがそんなに大切なのか、その理由が語られる。あるいは、礼拝の結論として、主に従うものに神が祝福を与えてくださるという宣言が語られるとも言える。さて一節づつ振り返りたい。主は、従う人に目を向け、助けを求める叫びを聞いてくださる(16節)。 :主は悪を行う者にも御顔を向け、その名を地上から絶つ(17節)。主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に助け出される(18節)。主は打ち砕かれた人の近くおり、悔い改める者を救ってくださる(19節)。 主に従う人には災いが重なるが、そのすべてから救い出す(20節)。骨の一本も損なわれないように、守ってくださる(21節)。 :主に逆らう者は災いに遭えば命を失い、主に従う人を憎む者は罪に定められる(22節)。 主はその僕の魂を贖ってくださり、主を避けどころとする人は罪に定められない(23節)。
今日、この詩編34編16-23節を通して、主なる神は、私たちに何を語られているのだろか。私は、言葉は違うが、この詩編に書かれていることは、聖餐式の最後に牧師の宣言や、礼拝の祝祷(祝福)に相当するように思える。 聖餐式の最後は、「主イエスの体と血は、あなた方を強め、永遠の命を与えてくださいます。」と語る。「主イエスの体と血は、」と言っているのは、主イエスの命のパンと血をいただくもの、すなわち、聖餐に授かるもの、主イエスを信じ主に従う者は、強められ、永遠の命が与えられるという宣言だ。さらにダメ押しともいえる、祝祷(祝福)をもって礼拝は終了するが、「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主があなたに御顔を向け、あなたに恵みをあたえてくださいます。主があなたに微笑まれ、あなたに平安を与えてくださいます。」というこれらの言葉が意味していることと、詩編34編の16節から23節は、聖餐式と礼拝全体のしめくくりの言葉に思えてならない。 ただ、詩編では上記に書いたように、「主に従う者には災いが重なる」と書いてあり、これは話しが違うのではないかと思われるかもしれない。 しかし、現実問題は、信仰者だって、天災にあうかもしれないし、事故にあったり、スピード違反で捕まったり、ということだってありうるのだと思う。 大切なことは、そのようなことがあっても、そのままでは終わらないということ、救い出される、主が購い出してくださるという事だと思う。
アーメン
安達均
詩編 34: 9-14, フィリピ 4:4-9, ヨハネ 14:27
主の平安が豊かに注がれますように!
今日どのような気持ちでこの日を迎えているだろうか?日本では8月15日土曜の正午、それは西海岸時で8月14日の午後7時に、太平洋戦争の終戦後、ちょうど70年となった。なにをもって終戦と呼ぶかは、昭和天皇が、無条件降伏を認め、天皇自ら肉声で、玉音放送として、日本国民に向けて放送された。 さらに、後に多くの言語に翻訳されて、世界にも紹介された。
昭和天皇の言葉の一部を口語訳にしたものを紹介したい。「今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。(中略)しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。」また最後の段落では「責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟せよ。」 との言葉があった。
戦後70年たって、経済的な復興は見事に達成されたのかもしれない。また戦後70年の間に、日本だけを見れば、たしかに戦争は起きず、平和だったといえるかもしれない。 しかし、未来永劫のために平和な世界を切り開くという点においては、現在世界各地で、戦争は10箇所で起こっているともいわれる。 世界平和への道はまだまだ遠い。
そのような中で、キリスト教徒として、この世界をいかに生きていくように、今日、主なる神は私たちに話されているのだろうか? どのように平和を実現していけるのだろうか? 第一日課として、読まれた詩編の言葉には、「平和を捜し、追い求めよ。」という言葉が語られていた。 そして、その言葉の前には、「主を畏れて、また舌を悪から、唇を偽りから遠ざけて、平和を求めるように。」とあった。
そこには、平和を求めるということは、必ずしも暴力とか、武器をもって戦わないことが、平和をということではないのだと思う。 私たちの交わす言葉において、口から出る言葉も、どんなにか暴力的なことになってしまうか、相手を傷つけてしまうかを、よくわきまえるように言われていると思う。 平和を探し、求めるということは、行動が平和的な行動をするだけではなく、心の上でも平安が求められるということになってくる。
そのように考えると、私たちの身も心も平和な状態に達するということ、しかも世界中の民が、その状態に達するということは、はてしなく道のりの遠いことのように思えるし、とても達成できそうもないことのようにさえ思える。
いったい、神様、私たちは、平和に向けて、どうしたらよいのでしょう? 今日与えられていた福音書、ヨハネ14章27節は、十字架に架かる前に、イエスが弟子たちに、さらに人類に残されている最高の言葉であるようにも感じる。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 」 と弟子たちに話された。そしてその翌日の金曜日には、十字架に架かり、日没前に、イエスは墓に葬られる。
しかし、三日後、日曜日には復活して、なにも暴力を防ぐことができなかった弟子たちをいっさいとがめることなく、赦し、「あなたがたに平和があるように」と言われ、主の真理の霊を注いでくださった。
今日、日曜日、世界中のキリスト教会で、なぜ礼拝の時があるのだろうか? 今日、新たに、日曜日に礼拝の時が与えられているのは、主イエスが復活し、全人類を赦し、そして「あなたがたに平和があるように。」と言われたのが日曜日だったから、毎週日曜日、キリスト教会では、礼拝の時がある。
毎週、日曜日は、復活の日であり、神の憐れみの深さ、その寛大さに、私たちは、驚かされ、ひたすら主を畏れ、崇める。主イエスが与えてくださる平和について、その意味を深く考えよう。 人間的な思いからすれば、説教の最初で述べたように、世界平和はとてつもない遠くのゴールのように感じる。 しかし、キリスト教徒として、たとえ、イエスが十字架に架かられた週末があろうが、世界のいろいろなところで戦争が起こった過去があろうが、先週、金曜あるいは土曜かもしれないが、どんな悲惨なできごとがおきようが、もちろん私たち過去を認め、罪を告白する。そして主が復活した日曜日には、神の憐れみが与えられることを実感する。 私たちは、それらの過去のことは、反省はするが、もう心配はせず、こわがらなくてよい。
今日という日曜に、イエスが与えてくださる平和、それが私たちが想像できる平和とは大きく異なる、主イエスの平和を覚えて、喜びあふれる思いで、イエスの体と血をいただこう。 人類は2000年間、とても不思議な聖餐式、主の体であるパンを裂き、それを分ち合い、また主の血であるぶどう酒を、わたちあってきている。
人間の頭では世界平和が依然、遠くはるか先のことのように思える、しかし、われわれは主イエスから赦し、主の愛、主イエスにおける平安をいただこう。 そのパンとぶどうジュースに、イエスが存在している。 そのパンとぶどう酒に、主の赦し、主の愛、イエスにある平安、が存在している。 神の平和は、実はもうここにある。 マルチンルターキング博士が示唆していたように、神が与える平和とは、最終目的ではないのだ、しかし、平和はそのものは、手段であり、われわれが歩む道である。 わたしたちは、その神の平和、主の体とパンを、さらに多くの人々と分ち合い人生を歩もう。そして、主の体である教会が、ますます、主の御心に満ちたものになっていきますように!
アーメン
安達均
“A Long Way to Go?”
Psalm 34: 9-14, Philippians 4:4-9, John 14:27
May Grace and Peace to you in the name of our Lord, Jesus Christ!
What do you feel today? In Japan time, at noon, Saturday August 15, which was in Pacific Daylight Saving Time, 8 p.m., on Friday, August 14, it was exactly 70 years after the end of WWII.
70 years ago, at that time, the Japanese Emperor declared unconditional surrender and his speech was broadcast all over Japan and later it was translated into different languages and rebroadcast all over the world.
In his speech, he mentioned, “The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great…it is according to the dictates of time and fate that We have resolved to pave the way for a grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.”
Although it is not very clear in this English translation, the Emperor was envisioning “Peace for all over the world.” And, he also mentioned in his last paragraph, “mindful of its heavy burden of responsibility, and of the long road before it.”
After 70 years, Japan geographically has not been an aggressor and there has been no war (involving them) during the post-war period, but if you looked back including other regions, the Korean and Vietnam wars happened, and if we look at today’s world, we have about 10 simultaneous wars somewhere in the world. We are far away from the peace of the whole world for all the generations to come. It seems like we have a long way to go.
Given these circumstances, how are we to live in this world as Christians? What is God, Jesus Christ, telling to us today? How may we be closer to the goal of worldwide peace?
In Psalm 34 that was read a few minutes ago, “Keep your tongue from evil, and your lips from speaking deceit. Depart from evil, and do good; seek peace, and pursue it.”
I believe “seeking and pursuing peace” is not just ending war or stopping fights using weapons, it is also getting away from hurtful and/or violent words during everyday conversations. I believe the Psalm is teaching us not only about a visible, practical peace but references peace of mind. If we think of peace this way, attaining a peaceful state of mind and body, all over the world, may be even farther away.
How can we reach that kind of peace? I believe today we are given wonderful words of Jesus from John 14:27, “Peace I leave with you; my peace I give to you. I do not give to you as the world gives. Do not let your hearts be troubled, and do not let them be afraid.” These words were given to disciples one night before he was crucified. After he left this word, the next day, on Friday, he was killed and buried.
However, on the third day, Jesus was resurrected and forgave disciples who could not stop the crucifixion, then he breathed the Holy Spirit on them, saying “Peace be with you.”
Today, why are we worshipping God, Jesus, the Holy Spirit? Because Sunday is the day when Jesus was resurrected, forgave all human beings, and said “Peace be with you.” God is amazingly generous and merciful. That is why we worship the Lord on Sunday.
Let’s think deeply about the peace that Jesus gave us. Worldwide peace seems a concept that that will be a long road and take much more time to achieve. However, as Christians, we are living in the eternal life because of Jesus’ love and forgiveness. Therefore, even though we acknowledge and repent all our sins of course, we do not worry about the terrible incidents happened to us, in the past, or last week, or last Friday or Saturday.
This Sunday, why don’t we joyfully receive the body and blood of Jesus Christ contemplating the peace that Jesus gives us that is very different from the peace that the world can give. For almost 2000 years after the crucifixion, we have been breaking bread and consuming the sacrament mysteriously.
Although we have not reached the goal of peace that is still very far away in human thinking, why don’t we continue receiving God’s forgiveness, Jesus’ love, and peace in Christ. In the Sacrament, we believe the presence of God, the presence of peace. Like Dr. Martin Luther King Jr. indicated, “the peace that God gives is not the goal but peace itself is the means and is the way we walk.” We are called to share the body and blood of Christ and to shape our lives for peace. Amen.
Pr. H. Adachi
2015年8月16日LCR日本語部週報通算第1364号
August 16, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin
今週は8月13 日から8月16 日の聖書日課に与えられている詩編34編10 -15節を読もう。16日は平和主日礼拝を予定しており、聖書箇所は、第二日課と福音書は、聖書日課から選んだものではない箇所が拝読される。しかし、第一日課は、あえて、今週与えられている詩編箇所が読まれる。 平和礼拝へ向けて、心を供えつつ、しっかりこの詩編箇所を読みたい。 いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編34編
10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
12:子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。
13:喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者は
14:舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ
15:悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。
平和主日礼拝を控えて、インパクトのある言葉として、15節の「平和を尋ね求め、追い求めよ。
詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいくが、その前に簡単な解説を加えたい。先週後半の詩編は、34編の1-9節、今週は10-15節、そして来週は16節-23節が与えられている。先週、書いたことの繰り返しになるが、詩編作者は詩編34編で礼拝を表現しているように思える。1節は前置きのようなもので、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られている。そのように見てくると、本日の箇所、10-11節の2節は先週の証の続き。そして12-15節は、神の御言葉、説教のポイントに入ってくるといってもよい。 以上を踏まえて、一節づつ読みたい。ダビデの体験したことから、聖なる人々よ、主を畏れて敬うように、主を畏れる人には、なにも不足するものがない(10節)。 若獅子は獲物がなくなって飢えるようなことがあっても、主を求めている人にはいつも良いものが与えられる(11節)。若い世代の人々よ、私に聞き従うように、主を畏れることがいかに大切かを教えよう(12節)。喜ぶあふれ、長生きしようと幸いを得ようとする者は(13節)、語る口や舌を悪や偽りの言葉から遠ざけ(14節)、悪い行いはせず、善を行い、平和を探し、追い求めよ(15節)。
今日、この詩編34編10-15節を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。この週末は第二次世界大戦の終結から70周年を迎えるにあたって、復活ルーテル教会では、6月終わりから「40日間の平和への祈り」を呼びかけてきている。今日読んでいる詩編34編15節の言葉は第15日目に与えられていた箇所でもあった。 そして、12-15節を通して、今日改めて読むとき、そのポイントは「主を畏れて、悪を語らず、平和を追い求めよ。」ということになるのだと思う。 「40間の平和への祈り」の小冊子には、その三日目に19世紀のアメリカのラルフ・ワルド・エマーソン牧師の言葉で、「暴力によっては平和に導くことはできず、理解によってのみ達成する。」という言葉があったことも思い出している。 詩編34編12-15節で歌われていることと、共通するような面を感じる。理解しあうということには、決して暴力を振舞うことを避けるという行為も大切なことだが、それ以前に、悪を語らない大切さがあり、さらに、もっともはじめには「主を畏れる」ことの大切さを知った上で、対話の席にもつけるように思えてくる。
アーメン
安達均
John 6:35 41-51
主の恵みが集まった会衆に豊かに注がれますように!
キリスト教で、予定説という言葉があるが、聞かれたことがあるだろうか? 一例は、「ある人がクリスチャンになるかならないかは、あらかじめ神様が決めていることですよ」ということ。
勘違いしないで欲しいのは、この予定説という考え方は、一部のプロテスタントの考え方で、カトリックや東方正教会では、そんな考えは同意していない。 ルーテル教会もプロテスタントではあるが、予定説という考えはしておらず、そんな話はしない。といいながら、今日、予定説という言葉は使って話ている。
というのは、今日の福音書には、イエスが「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」と話された言葉が出てきたが、これは予定説のことをいっているのではないだろうか、と考える方もいると思うから。もう少し違った言い方をすれば、イエスは、ある人がイエスのもとに来るかどうか(信者になるかならないか)は神があらかじめ決めておられるということをイエスはおっしゃりたいと思う方もいるだろうから。
私は、そのような考え方は、しない方が良いと思っている。というより、この44節の言葉には、もっと他のすばらしいことが含まれていると思っている。信者になるかならないかは、イエスの父なる神があらかじめ計画されていたことなのだ。と言ってしまうと、それは、神はある特定の人々のみを導いているという話になってしまわかないだろうか? また、それは人間の先入観とか偏見すらも、あたかも神の考えであるかのごとく語ってしまう可能性すらもあるように思う。
では、イエスが言われた「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」という言葉は、どういう意味を含んでいるのか、さらに思いを巡らせたい。ここで、今年の修養会でジョンウェスレーの話を今一度振り返ってみたい。
メソジスト運動をはじめたジョンウェスレーは、イギリスのアングリカン教会から、アメリカにいる原住民への伝道を志して、アメリカに渡った時は、そもそも戒律主義者だった。 聖書にある律法を守れば、人間は正しいとされると思っていた。メソジスト派という名前の通り、Methodology つまり、きちんきちんと規律を守っていれば、人間は救われるという考え方で伝道しようとしていたのだろう。しかし、アメリカに伝道に来たものの、全然うまく行かなかった。
ウェスレーは、失意のうちにイギリスに戻る。ロンドンのアルダーズゲートという場所で、モロビア派のピーターベーラー宣教師が、当時からすれば、さらに200年前に著されたマルチンルータのローマ3章の説教集について語っていた。ウェスレーに雷が落ちたかのごとくの回心が起こる。 ローマ3章のポイントは、人間はそもそも罪人である。正しい者とされるために、律法を努力して守って義とされるわけではない。
そのような人間を憐れみ、神はイエスキリストを立てて、十字架の死に到るまで父なる神へ従順な信仰を貫かれたイエスをいけにえとされた。その真理なるイエスを信じる者が、正しいとされることを神は示された。言い換えれば、イエスの信者になるということは、完全に神の恵み、神の贈り物であって、人間の努力によるものではない。 人間が努力するかどうかではなく、人間が、その神からの恵みを受け取るかどうかが問題。
神の贈り物ということについて、250年前のベーラー宣教師の言葉ではなく、もうちょっと現代的な贈り物の比喩を使って話してみたい。バレンタインチョコレートは、箱に入っていて、きらびやかな包装紙につつまれ、さらにリボンがかけてあったりする。そこで、そのチョコを食べるには、リボンをはずし、包装紙をとって、箱をあけ、やっとチョコレートにありつける。 神からのプレゼントである、恵みとはそのようなバレンタインチョコとは異なっていて、箱にも入っておらず、包装紙もなければ、リボンもない、私たちのまわりに、神からの恵みが、そのまま満ち溢れている。その恵みは、すべての人間が享受するには、リボンも解く必要もなければ、包装紙をはがす必要もなく、箱をあけなくてもよい、なんら人間が努力する必要はない、勉強をする必要もなく、その恵みにありつける。人間は、実は、神からのプレゼントである恵み、イエスキリストをふんだんに享受してしまっている。 キリストを信じるものになるかどうかは、その恵みを、イエスキリストと信じて、受け取るかどうかになってくる。
ウェスレーは、ローマ3章の説教を聞き、神の恵みに気づいて回心した際に、心がジーンと温まってくるものを感じたそうだ。 そして、それから後のメソジスト派は、驚くばかりの発展をして、アメリカにとどまらず、世界中に広まっていく。
さて、しつこいようだが、最後にもう一回質問したい、「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」という言葉は、イエスは現代の私たちに、なにを教えようとされているのだろうか。自分で戒律を守ったりするという努力とか、人間の力によっては、だれもイエスの元へ行くことはできない、つまり人間の力によって信者になるというわけではない。 しかし、父なる神が引き寄せてくださる、一方的な神の恵み、全人類にくださった十字架のイエスキリストを受け取るかどうかが、私たちが信仰者となり、神から義とされるということを教えてくださっていると思う。
人間の力、あるいは聖書を学んで御言葉を暗記したりする人間の努力によって、信仰に到達するのではなく、信仰は神からの贈り物、「私は命のパンである」といわれた、すべての源、イエスを受け取ることから信仰が新しく始まるのだと思う。そして、イエスの御言葉と聖体をいただきつづけ、常に新たにされ続けることが、信仰の継続ともいえる。 今日、新たに、イエスの御言葉を聞いた。そして、これからイエスキリストの体と血である聖体をいただくが、ぜひその深い意味を覚えながら、いただこう。そして、新たな聖霊の力、喜びをもって、世に遣わされ、そのイエスの恵みを分かちあうものとされよう。 アーメン
Becoming A Christian According to God’s Grace
John 6:35 41-51
May the Lord pour his grace and mercy upon the people here in this sanctuary!
Have you ever heard the word, “Predestination” in a church? For example, whether or not a person will have Christian faith is pre-planned by God.
Please do not misunderstand: “Predestination” is not a concept or doctrine that all Christian Denominations agree with. Catholic and Orthodox Churches do not agree with this concept. As for Lutherans, we do not talk about this…however, I am talking about it a little bit this morning:
Because, people might think that the words Jesus said in the Gospel today, “No one can come to me unless drawn by the Father who sent me” are somewhat related to Predestination. In other words, some people might think that Jesus is telling that whether or not you come to Jesus (become a believer of Jesus Christ) is already planned by God.
My thoughts on this are, it is better not to think that way or said another way, there is more important aspect of the verse to reflect upon. If you pursue the concept of predestination, people might think that God is inviting only certain individuals and not others. There is a possibility that someone can replace God’s thinking by one’s individual predetermination.
So what does it mean “No one can come to me unless drawn by the Father”? I would like to reflect on this verse further. Here, I would like to revisit what Pastor Ito said about Rev. John Wesley, two months ago, during this year’s retreat.
Rev. John Wesley who started the Methodist movement was a strict precept advocate from the Anglican Church in the UK. When he came to United States to evangelize Native Americans, he believed that if you proceed with Christian faith methodologically salvation was assured, that meant if you lived strictly according to Biblical law, you would be saved. However, his mission did not go well.
Then, he went back to England. One day, at the place called Aldersgate, he happened to listen to Moravian missionary Peter Boehler’s message discussing Martin Luther’s precept of Roman’s Chapter 3 that was written a couple of hundred years ago at the time. The point of the Chapter 3 of Romans was: Human beings are always sinners. Even if a sinner tries to atone by working hard or by his or her own ability, you cannot be saved.
For all human beings, God put Jesus forward as a sacrifice of atonement so that people who believe in Jesus are justified. In other word, to become a believer of Christ is totally God’s grace, God’s gift, rather than through one’s own effort or ability. The issue is whether or not you receive God’s gift by believing in Him.
Let me explain about God’s gift a little bit differently, although are not Peter Boehler’s words, think about a simple but valuable gift. Let’s say, Valentine’s chocolates you receive. The Valentine’s gift is usually wrapped with ribbon. So in order to eat the individual chocolates it takes a little bit of time to do so. You remove the ribbon, unwrap the paper, maybe open the box, and take individual chocolates and eat them. God’s gift in this example is like ready-to-eat chocolate – no unwrapping required. In other words, without hard work or test, you just receive God’s gift.
When he realized this about God’s grace, Wesley felt that his heart was warmed up, and he got it. Then what happened for Methodist Church was that its mission amazingly expanded not only in the United States but throughout other parts of the world.
So again, let me ask the same question, what does it mean when Jesus said, “No one can come to me unless drawn by the Father”? I believe Jesus meant that to come to Jesus or to become a believer, it cannot be accomplished by one’s own ability or efforts, but it is only through our Father’s gift, Jesus Christ. And the real matter is whether or not you receive Jesus in believing in Him.
I believe Christian faith starts with the receipt of God’s tremendous gift believing in Him rather than studying very hard or memorizing Biblical verses. And in our life in Christ, we continue to receive Jesus’ words and sacraments and we are created new. When we receive the body and blood of Jesus Christ, why not contemplate the simple yet deep meaning of faith in Christ? We are sent out to the world with Joy and new spiritual energy that God gives us through his Word and sacraments to share His Grace. Amen. Pr. H. Adachi
2015年8月9日LCR日本語部週報通算第1363号
August 9, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin
今週は8月6 日から8月9日の聖書日課に与えられている詩編34編1-9節を読もう。いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編34編
1:【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】
2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
今週、私にインパクトのあった言葉としては、9節「味わい、見よ、主の恵みの深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」
詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。詩編34編を「詩編を読もう」でとりあげるのは今回で2回目。 以前にも書いたが、詩編作者は、詩を綴ってゆく中で、ユダヤの礼拝を表現しているような場合があり、詩編34編はその一例。2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られているような面がある。 その中で、9節までだけを読む。 どんな場合でも絶えることなく私は主を賛美する(2節)。貧しい人々よ(まだ主の恵みの深さを味わっていない人)どうか讃美を聞き、そしていっしょに喜び祝おう(3節)。共に一体となって、主の御名を崇めよう(4節)。 私が主に求めると主は答えてくださり、脅かすものからいつも救い出してくださった(5節)。主を仰ぎ見る人は輝き、たとえ失敗や間違いを犯しても恥辱を味わったままになることはない(6節)。 虐げられてしまった者が主を呼び求めると、主はそれを聞き、苦難から救い出してくださった(7節)。 主が遣わす者が苦難の中にある者の周りに集まり、畏れて主を呼び求める者を助けてくださった(8節)。主の恵みの深さを味わってみなさい、主の元に身を寄せる人は、どんなに幸いなことか(9節)。
今日、この詩編34編を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。ここ数週間の聖日は、ずっと福音書はヨハネ6章が与えられていて、ややしつこい位に、イエスが「わたしが命のパン」と言われた言葉にちなんだ御言葉をあじわっている。 はじめて聖餐式の様子を見る者にとって、司祭や牧師が「あなたに与えられたイエスキリストの体です。」と言いパンやウェハーを信者に渡している光景は、「なんでパンやウェハーがイエスの体なのか?」と疑問を抱き、滑稽にさえ思えてしまうかもしれない。 しかし、現代を生きる者は、この詩編の5-8節で詠われていたような、失敗や間違いをして恥辱を味わったことのある者、虐げられた経験のある者、苦難の真っ只中にある者であり、なにか絶対的なものがあるなら頼りたい、という人々が、ほとんどなのだと思う。そして、この詩編では、絶対的な存在である主の御もとに身を寄せる人が、いかに救われるかを詠っている。しかし、その絶対的な存在は、詩編に綴られた時代には目には見えなかったが、目に見える形で、神のひとり子イエスが送られた。 詩編34編9節で「味わい、見よ、主の恵みの深さを」と詠われていたこの「味わい、見よ」は、本当に味わうことができ見ることができる「わたしは命のパンである」と話すイエスの登場を示唆していたように思えてくる。 そして、イエスを通して、現代に生きる私たち、日頃の生活でさまざまな苦難に直面する者にとって、その絶対的な存在が、意識・無意識に関係なく、聖餐式の中で体験し、イエスの愛と赦し、希望、喜びを得て、新たな局面に向かう力が与えられている。
アーメン 安達均
August 6th, 2015
2015年8月2日聖霊降臨後第10主日聖餐礼拝説教:「弟子たちにとらえられた人々はどうなるの?」
No Comments, Uncategorized, by admin1.ヨハネ 6:30-35
主イエスキリストの恵みと平安が、ここに集まった会衆の上に、豊かに注がれますように! アーメン。
今年のヴァケーション・バイブル・スクール(VBS)のテーマは、”GO FISH”、「魚とりに行こう」だ。 その初日、明日の月曜日はマタイ4章から、次のようなことを学ぶ。 イエスの弟子たちは、ガリラヤ湖で魚をとる漁師たちだった。 その漁師たちに向かって、イエスは、イエスの弟子になるにあたり、「あなたたちを人をとる漁師にしよう」と話されたことを学ぶ。
なぜそんなことを言われたのだろうか? そもそもとられた魚は、食べられてしまうわけだ。 だから、じゃ、人をとるとは、とった人を食べるということなのだろうか? おもしろいことに、VBSの三日目は旧約聖書のヨナの物語で、ヨナが魚に食べられてしまう話を学ぶ。
しかし、もちろん、イエスが人間をとる漁師にしようといわれたのは、とらわれた人間が魚や弟子に、ましてやイエスに食べられてしまうわけでもない。
教会の言葉で言うならば、洗礼を受け、信仰を告白し、キリスト教の信者になること。簡単に言えば、キリストを信じること。 それにしても、キリストを信じるとはいったいどういうことなのだろうか。 今日の聖書の箇所は、私たちに、キリスト信者の根本にせまっているところともいえる。
イエスは5000人の人々を、5個のパンと2匹の魚だけで、満腹にした。この奇跡やイエスが行なった他の奇跡によって、人々には、いろいろな思惑が生じた。 このような奇跡を行えるイエスに、病気を癒す専門家になってもらいたいと思った人もいただろうし、イスラエルという国家がローマに支配されることがないように、イスラエルの自治を確立してもらいたいと思う人もいただろう。 いっさい食べ物に困ることがないように、永遠に食物を提供してくれる人になってもらいたいという人もいた。
しかし、なぜ、神の子イエスは、人の子として人々の間に現われたのだろうか? イエスは確かに、病を癒したり、食べ物を与えたり、人々に奇跡的な業を見せられた。 しかし、その奇跡を人々が見て、人々の思惑通りにイエスを利用してしまうわけにはいかなかった。 もっともっと大きな目的が神にはあったからだ。
イエスの御業を人々が見ることで、イエスを知り、そして神を知るようになるということが、とても大切な目的だった。 神を知るというのは、知識として、神はこういう方であると理解する事とは大きく異なる事などだと思う。 私たちの思いでは理解しようがないような、神の力に頼る、イエスキリストを信じるということなのだろう。
イエスはもちろん、肉体的にも5000人の集まった民を満腹にしてあげたいと思った。 しかし、神の究極的な目的は、民が霊的に満たされることだった。 イエス自身が「わたしが天から降ってきた、命のパンである。」と言われたのは、イエス自身がすべての源ということ。また「そのパンをいただくものは、もう飢えも渇きもなくなる。」ともいわれた。霊的に満たされることは、イエスキリストだけによって可能なこと。
イエスはたとえ十字架刑にかかって、肉体的には心臓がとまることがあったとしても、神はイエスを復活させ、死をほろぼした。 そして聖霊として、ずっとこの世に生きるものとしてくださった。イエスを信じるものにとって、つまりイエスの体、命のパンをいただく者にとって、イエスの死と復活は、ただの奇跡だったとか、他人後事ではない。その命のパンといただく者は、イエスが復活し永遠の命に生きているように、私たちも、復活の命、永遠の命に生きている。
このメッセージのはじめに、漁師たちにとらわれた人々が、いったいどうなってしまうか。魚と同じように食べられてしまうのか? という話をした。その答えは、とらえられた人々は、食べられるのではなく、逆にイエスを食べる人になる。パウロは第一コリントの中で、「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」と書いている。
そして、それから2000年経って、洗礼を受け、かつ信仰を告白する者となった私たちも、毎週イエスを食べる人々の仲間入りをしている。 そして、イエスの体、教会の一部をなし、永遠の命に生きている。
今日、新たに、キリスト者であることの深い意味を考えながら、感謝をもってイエスを皆でいただこう。これまでの自分自身の勝手な考えや、後悔、すべての罪から解放されて、永遠に生きるイエスの体の一部となって、神の思いを実現しよう。イエスにとらえられたことを喜び、そして、新たに、人々をとる漁師となろう。 アーメン 安達均
What Will Happen to Those Fished By the Disciples?
John 6:30-35
May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! Amen
As you know by now, the theme of this year’s Vacation Bible School is “Go Fish.” The first day, Monday tomorrow, kids will learn from Matthew Chapter 4: The first disciples were fishermen, but Jesus called them, saying “I will make you fish for people.”
Why did Jesus say such a thing? Fish caught by fishermen are usually eaten by people. So what is going to happen to people caught by the disciples? Are they also going to be eaten? Interestingly, the third day of VBS, on Wednesday, children will learn the story of Jonah, in which Jonah was eaten by a big fish.
Of course, the purpose of the disciples fishing for people is not for the people to be eaten by actual fish, disciples, or Jesus. So what will happen to those caught by the disciples?
Ecclesiastically, the correct answer is to be baptized and to confess their faith in Christ. Or more simply stated, to believe in Christ…however, what does it really mean to believe in Christ? I think that the Gospel text today is fundamental when thinking about this question: What does becoming a Christian truly mean?
Several paragraphs before today’s text, 5000 people were well fed by Jesus with only five loaves of bread and two fish. Not only because of this miraculous action, but because of other miracles performed by Jesus, many people had certain expectations of him. For example, some thought that Jesus was the perfect doctor who always healed the sick. Some wanted him to be the political leader of Israel and some others undoubtedly wanted him to be a miraculous, eternal food provider.
What is the real purpose for Jesus to be present in the human world? Jesus physically revealed himself among humans and indeed performed miracles, such as healing the sick, feeding the five thousand, as we learned from the Bible. However, human beings could not utilize Jesus to solely satisfy their own personal agendas. There was a larger purpose/vision Jesus wanted to share with the world.
By seeing Jesus’ miraculous actions, I am sure that God wanted people to know his son, and not just have intellectual knowledge of Jesus but have faith-based awareness of Him. We, human beings, have been expected to trust and rely on God’s power that we cannot fully comprehend intellectually. We are expected to
believe in Christ as being 100% in our lives, rather than Jesus being there out of convenience to satisfy our personal agendas.
Of course Jesus wanted to physically feed the hungry 5000, but God’s ultimate goal was to ensure they were spiritually fed. As Jesus told in the Scriptures, “I am the bread of life that came down from heaven.” The bread of life is the source of everything. He said also “Whoever comes to me will never be hungry, and whoever believes in me will never be thirsty.” That spiritual satisfaction comes only from our Lord, Jesus Christ.
Jesus, the bread of life, is the Lord, he who was crucified and died. He whose physical heartbeat stopped and, despite this, he defeated death. Jesus’ Holy Spirit may live eternally among us. And for us, who believe in Jesus, the resurrection story is not just a miracle but we too can live eternally by eating his bread and drinking his blood.
In the beginning of this message I asked the question, what will happen to those caught by the disciples? Would they be eaten like fish? Not at all, the answer is the opposite. Those caught will consume Jesus’ body and blood. St. Paul writes in the 1st Corinthians Chapter 10, “The bread that we break, is it not a sharing in the body of Christ? Because there is one bread, we who are many are one body, for we all partake of the one bread.”
And we, too, who were baptized and confirmed our faith in Christ, are consuming Jesus Christ every week. By consuming Jesus’ body and blood, each one of us becomes a part of Jesus and lives the eternal, resurrected life with Him.
Today, why don’t we consume Jesus again with our thankfulness, while contemplating the deeper meaning of being Christians. Our own selfish agendas, our regrets, and all our sins are cleansed and forgiven. Let’s live out God’s will as a part of the Body of the living Jesus. Let’s become an instrument of our Lord, Jesus Christ. May we rejoice that we were fished by Him, and let’s go fish for people in the world. Amen. Pr. H. Adachi