ルカ福音書 17:11-19

主イエスの恵みと平安が豊かに注がれるように!

「自然が神」とおっしゃる方がいる。私もすばらしい自然に触れて、グランドキャニオン、モニュメントバレー、いや近くのハンティントンビーチでも、すばらしい自然に触れ神の存在を感じることはある。でも神についての話は、「自然が神だ」だけでは終わらない。
地球上の自然ばかりではなく、真っ暗な山奥で、降ってくるような星の中に立ち、あふれんばかりの宇宙の偉大さ、神秘性を感じる。しかし、「全宇宙が神だ」という話で神の話しが完結するわけでもない。
全宇宙を越えた所はどうなっているのかと考える人は多い。私は空間や時間という概念を超えた存在である、神がおられると思っている。それは、宇宙の向こうでありながら、しかし、とてつもなく身近な存在、というかもっと人間的な神がおられると、私はひしひし感じる。

今週木曜は感謝祭である。今年で私が南カリフォルニアに来て18年目になる。復活ルーテル教会あるいはKing of Glory ルーテル教会で、感謝祭イブに感謝礼拝が行われなかった年があったかどうか覚えていない。はっきりしているのは、今年は、両教会とも、水曜の夜の礼拝はない。感謝祭当日も礼拝はない。実際問題として、昨年の感謝祭イブの礼拝は、礼拝出席者があまりにも少なかった。まるで、日本語礼拝の時の人数程度しか、礼拝堂には人が集まらなかった。にもかかわらず、私はその時のことを良い方向に向かっているのではないかと、ポジティブにとらえたい。なぜ良い方向なのか?ということは、このメッセージが終わるまでの間に、一人一人が気がつくと思う。
昔、私は感謝祭の話を聞いた。そもそも感謝祭は、17世紀のはじめ、アメリカ大陸に到着したばかりのピューリタンたちは、自分たちの収穫物は十分ではなかった。そこで、ネイティブアメリカンの人々から困っているピューリタンたちと分かち合い、収穫物をともに食べたということがあったらしい。そして1621年に最初の収穫感謝祭が行なわれたようだ。
ネイティブアメリカンとイギリスからやってきたピューリタン、ぜんぜん育った環境も違う、言葉も通じ合えない二つの異なる民族が、自然の恵みである食べ物を共有しあい感謝したということなのかもしれない。 しかし、自然の恵み、に感謝したということだけでは終わらなかったのだと思う。アメリカンインディアンも、清教徒たちも、自然の恵みを与えてくれた方、神に感謝したのだと思う。

今日の福音書の話に触れたい。イエスを出迎えつつも、距離を置いてイエスに憐れみを願った10人の思い皮膚びょうの人々、一人はサマリア人、他の9人はユダヤ人だったのだろう。 サマリア人とユダヤ人は、通常健康な人々の間柄であれば、話もしないような関係だった。でも、サマリア人とユダヤ人がともにいっしょにいて、同じ社会から孤立されていた孤独感の故、サマリア人とユダヤ人という違いを超えて、励ましあって生きていたような面があったのかもしれない。
今日の福音書の要点は、単に異なる人種がいっしょに励ましあったという話では終わらない。そこがポイントではなく、イエスがそのどうしようもなく社会から阻害されてしまう重い皮膚病に悩む10人をユダヤ人であろうが、サマリア人であろうが助けている事実をよく考える必要がある。
そして、その10人のうちの一人のサマリア人が感謝し、賛美のためにイエスのところにもどってきた。この話から、イエスは戻ってこなかった9人も、感謝と賛美の気持ちを持たなければならないとおっしゃっているのだと思う。そして、この話が聖書に書かれてそれを読んでいる私たちにも、神なるイエスに感謝と賛美の気持ちを持つように導いているのかと思う。
しかし、感謝と賛美の気持ちは、だれかから神に感謝し賛美しなければならないといわれて、感謝の念、賛美の気持ちが本当に湧いてくるのではないように思う。この一人のサマリア人は、なぜ、わざわざ戻ってきて、感謝と賛美をささげる気持ちになったのだろうか? この質問についてよく考える必要があるのだと思う。
それは、ただ単に皮膚病が治ったということで幸福感を味わったということだけでわなく、とてつもなく、感謝して、賛美したいという気持ちが湧いてきてしょうがなかったのだと思う。そこには、ユダヤ人ではなかった自分までも、イエス様が愛してくださっていることに気づいたからではないだろうか?自分に起こったことが神の御業、イエスの恵みだと認識できたから、イエスのところに戻ってきたのではないだろうか?

与えられて福音書の中で、あなたはどこにいるだろうか? 皮膚病は治ってうれしいけれど、わざわざ、イエスに挨拶に来なくてもよいと判断した9人のユダヤ人の一人か、あるいは、ユダヤ人に混じって、神の御業を実感してイエスに感謝したサマリア人だろうか?
私たちはこのサマリア人の立場になってみることが大切だと思う。事実、みなさんは感謝と賛美のために礼拝に来たサマリア人なのだと思う。もし、重い皮膚病のサマリア人の気持ちになることが難しければ、400年前にアメリカに渡ってきて、ネイティブアメリカンから神の恵みを分かち与えられたピューリタンの立場になることが大切だと思う。
私たち、サマリア人のような体験、あるいはピューリタンの体験と似たような体験を持っているのではないだろうか? 病が治ったとか、食べ物でおなかがいっぱいなる、なにかに成功した、あるいは失敗したけど慰められた。。。自分に起こったことが、神の御業、主イエスキリストの親密な愛情によるものだと気づかされた経験がおありなのだと思う。
あなたに与えられたイエスキリストの体と血ですと言うと、パンとぶどうジュースを受け取る際に、必ず「私のために」といって大喜びでパンとぶどうジュースを召し上がる方がいる。その方に起こっていることが、まさに神の働きだと実感して、感謝し賛美する気持ちであふれている方々がたくさんいる。

さて、今日私たちは、何を神から学んでいるのだろう。 冒頭に述べたように、今週木曜日は感謝祭だが、前の晩も、木曜日も感謝祭の礼拝はない。今週感謝祭が無いということより、もっと大切なことは、神の慈しみ深い愛は、一年に一回の感謝祭だから働いているというわけでなく、毎日、どのような時であろうが、私たちひとりひとりに豊かに働いている。どうか、この感謝祭の時、神の愛を、ご近所の9人の人々と分ち合ってほしい。というのは、カリフォルニアは毎週日曜日に教会に来る人は10%以下というデータがある。 だから、平均的には、一人の周りには、9人以上の礼拝に来られない方々がいることになる。 自分たちに起こっていることが、神の愛の御業であることを分かち合った後は、日曜日には、感謝と賛美のために礼拝に来るように祈ろう。どうかすばらしい感謝祭の期間を過ごされますように。そして毎週日曜には、全員もどってきて、感謝と賛美の礼拝で会おう。 アーメン 安達均

“Overwhelmed with Gratitude”
Luke 17:11-19

May Grace and Peace come to you from our Lord and Savior Jesus Christ!

There are people who believe that nature is God. I often feel God through experiencing nature. For example, when I experience the beauty and wonder of the Grand Canyon, Monument Valley, or even locally in Huntington Beach; I feel God’s presence. The notion that “Nature is God” is not the end of the story about God.
There are also people who not only believe that nature is God but they further believe that the entire universe is God. When we visit open spaces at night, away from cities, we marvel at the sight of shooting stars or the moon. It is at times like these, we sense God’s greatness. The notion that “The Entire Universe is God” is not the end of the story about God.
I believe many of us have thought about what is beyond our universe. I believe there is someone who is beyond the entire universe, beyond our concepts of space and time. Even though that existence is so different and difficult to fully comprehend, I still feel that the existence is so personal and close to me. This close, personal existence wants to reach out to everyone on Earth. This is the depth of God’s love and generosity, despite the vast distance between us, humanity, and God; He invites us to be close to him.

This Thursday is Thanksgiving. This year is my eighteenth year in Southern California… I do not remember if there was any year that we did not have Thanksgiving Eve service either at Resurrection or King of Glory. But this year, and this week, we won’t have Thanksgiving Eve or Thanksgiving service at either church. The reality is, that last year, we had very low worship attendance Wednesday night; it was like one of the Japanese language services. Even so, I think this is a positive and not a negative. I hope you will know why by the end of this message.
I heard the story how Thanksgiving started many years ago. Puritans recently arrived on the North American Continent in the early 17th century, could not harvest enough food. So the Native American Indians shared their harvest with the Pilgrim Fathers and celebrated the first Thanksgiving in 1621 in Massachusetts.
Two different ethnic groups, Native Americans and Puritans, they came from very different environments and different cultures but they shared a meal, were thankful for the harvest and celebrated together. They were not only thankful for nature providing a bountiful harvest, but they thanked the one who created all things in nature…God.

Let’s talk about what was written in the Gospel. Out of ten lepers who approached Jesus, there was one Samarian and the other nine were Jews, Samaritans and Jews were two different ethnic groups, separated by culture, and they usually did not talk each other. Because the lepers were isolated from society, the one Samaritan and other nine might have shared the same feeling of desperation and loneliness despite their differences.
The point of the Gospel is not the fact that two different ethnic groups helped each other, but that Jesus healed 10 lepers who were marginalized and desperate. He showed them compassion regardless of whether they were Samaritan or Jew.
Only the Samaritan came back to Jesus to thank and praise him. I believe it is true when Jesus teaches that not only the Samaritan but the other nine should have also come back to thank and praise Him. In this Biblical story, God is teaching us, in this 21st century, to still come thank and praise Him.
However, I do not think we give thanks and praise because someone orders we should. I think it is important to ask ourselves why this Samaritan came back to Jesus to thank and praise him.
I believe not only he was happy because his leprosy was cured, but he was overwhelmed with gratitude. Even though he was not a Jew, he recognized that Jesus loved him. He recognized what happened to him was an act of Jesus, the Lord, God. Therefore he came back to Jesus.

Where are you in this story of Gospel? Are you one of the nine Jews, who were healed by Jesus but did not come back to him? Or are you the Samaritan who thanked and praised God?
I think it is important to walk in the Samaritan’s shoes. If it is difficult for you walk in a Samaritan leper’s shoes, it is important to walk in a Puritan’s shoes who came to North America 400 years ago and received God’s harvest from the Native American Indians. We need to be ever thankful to God for all things.
Please ponder this, each one of us has had experiences like the Samaritan had or the Puritans had. Your sickness was healed, your stomach filled, or success achieved because of the love of God and due to the personal, gracious, and merciful relationship with Christ.
During Holy Communion, when I say “the body and blood given and shed for you,” In my experience many people receive the sacrament saying “For Me” and consume it joyfully. I also notice that very many people are overwhelmed with gratitude.

So what are we learning from God today? I think you already know that there is no Thanksgiving service this Wednesday or Thursday at either Resurrection or King of Glory. However, I think more importantly we should learn that the love of merciful Jesus Christ works within us not only during certain days (like the Thanksgiving holiday), but His unconditional love is within us every day and every moment of our lives. Please proclaim God’s love to your nine neighbors whatever their ethnicities are, and pray that they come to this Sanctuary so they can thank and praise the Lord, as well. Have a Wonderful and Happy Thanksgiving and see you every Sunday! Amen. Pr. Hitoshi Adachi

 

来週から待降節に入ります。

2014年11月23日LCR日本語部週報通算第1331号

2014年11月23日の週報

November 23, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1331E

今週は詩編95編の1-7節だけを読む。今年の四旬節の間には、詩編95編12節全部を読んだが、今週はあえて、1-7節だけが与えられている。聖書日課では11月23日に与えられている福音書は、マタイ25:31-46で終末の話。終末の話が控えていることを覚え、詩編95編を読んでみるのも良いと思う。いつものように、詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編 95編
1:主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
2:御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
3:主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。
4:深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。
5:海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
6:わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
7:主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。

気になった節や言葉はどこだろう? 私は、7節にある、「主の声に聞き従わなければならない。」という言葉でこの箇所が終わっていること。

詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。詩編95編は、ユダヤ教の礼拝をテーマにして詠った詩編のように思われる。とくに1節から7節は礼拝のはじめのすばらしい讃美歌なのだと思う。事実、讃美歌21の20番や226番の歌詞の一部は、この詩編95編の言葉が詠われている。そして、ユダヤ教の礼拝に出ていることを思い浮かべながら、一節づつ、読んでいきたい。この礼拝に招いてくださった主に向かって喜び歌おう、救いの岩である主に向かって喜び叫ぼう(1節)。シナゴーグ(礼拝堂)に入って主の前に近づいていき、感謝して、音楽に合わせて喜び叫ぼう(2節)。主は偉大な神、人々はさまざまな神々を想像しているが、主なる神は、すべての神々を越える大いなる御方(3節)。湖の底といえども、神の御手の内に存在しているのであり、高い山々の頂きも主のもの(4節)。大海も主のもので、海を造られたのも主であり、陸も主の御手により形造られた(5節)。 私たち人間をも造られた方なのだから、この礼拝堂で主の前にひざまずこう、私たちは共にひれ伏して、伏し拝もう(6節)。主はわたしたちの神で、私たちは主の民、主は羊飼いで私たちは主の御手のなかで養われる羊たち、今、ここで聞く、主の御声に聞き従わなければならない(7節)。 

さて、ここまで読んだところで、主なる神が現代の私たちに語りかけていることに思いをめぐらせたい。 8節以降に何が書いてあったか気になるが、簡単に言うと、8節以降は辛口の説教が書かれているといえる。そして、ここ数週間、日曜の聖書日課で与えられている福音書は、終末の箇所であり、辛口のイエスの御言葉である。といっても、終末の話を聞く中で、わたしたちは、悔い改めへの導かれるような面が多分にある。詩編95編の1-7節を讃美歌を歌うように読んでいくなかで、イエスの厳しい御言葉を聴く心の準備が整えられるような面を感じる。とくに、7節の言葉の中には、たとえどのような主の御声を聴くことになっても、また御言葉にびっくりしてしまうような内容であろうが、よく聞き入って、その御言葉が導いている方向へと歩めますように。  

23日の日曜礼拝での福音書は来週後半の感謝祭にちなんだ福音書箇所でルカ17章になるので、あえて、聖書日課にある23日のマタイ福音書25章後半から一部を抜粋して以下に書き写しておくので、ぜひ読んでいただきたい。
31:「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32:そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33:羊を右に、山羊を左に置く。 34:そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。—-途中略— 41:それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ42:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43:旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44:すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45:そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46:こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

アーメン 安達均

11月から、コロナとタスティンの家庭集会は、新しいシリーズに入り「竜馬をめぐる5人のサムライたち」というビデオを見ています。 幕末のサムライたちに、救い主イエスが、オランダの宣教師だったり讃美歌だったりあるいは英語教師だったり、さまざまな過程を経て、御言葉が働いたことを学びはじめました。そして、実は同じ御言葉が私たちにも働いていることに気づかされる、そのような学びの時となっています。

11/15/2014タスティン家庭集会 

今週は詩編90編を読む。教会の暦では今年は11月23日が聖霊降臨後最終主日となる。聖書日課では11月9日、16日、23日に与えられている福音書箇所がマタイ25章で終末がテーマと言える。イエスの語られていた終末を覚えつつ詩編90編を読むのも良いと思う。いつものように、詩編を読んだ後、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編90編 1: 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
2:山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。
3:あなたは人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
4:千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
5:あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。
6:朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。
7:あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。
8:あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
9:わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。
10:人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
11:御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りをも知ることでしょう。
12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
気になった節や言葉はどこだろう? 私は、12節にある、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができるように」と古代に生きた人々が祈ってくれていたこと。
詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。最初に【祈り。神の人モーセの詩。】となっているが、モーセがこの詩を作ったというより、後世の詩編作者の一人が、モーセ五書の最後の書、申命記最後32章にあるモーセの歌や、33章のモーセが生涯を終える時にあたって人々に語った祝福の言葉を振り返る中で作った歌なのかと思う。 12節ある詩編箇所を、大きく4箇所に分けてそのポイントだけに触れていきたい。 主よ、あなたは山々、大地、人類を創られる前から永遠に存在しておられる神。私たち人類は世代を超えて神の中で存在している(1-2節)。あなたの永遠という単位から考えれば、私たちが生きる時代がたとえ1000年だとしても、それは朝に花が裂き、夕方にその花が枯れてしまうような、とても短い時間にしか過ぎない(3-6節)。神の「怒り」の中で、私たちの罪はあらわにされ、私たちの人生は、70年、80年といえども、あっと言う間で、労苦と災いに過ぎず、あなたの憤りに気づかされる(7-11節)。生涯に日々を正しく認識して知恵を心得て生きることができるように祈る(12節)。

この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? この詩編なんども読み返すと、神が私たちに語ろうとしていることは、非常に根が深く、また空中に大きく広がる大樹のようなイメージが沸いてくる。その大樹のなかに埋もれそうな多くのことのなかから三つほど抽出してみたい。ひとつは、私たち個人の人生は平均は80年程度だが、詩編作者の詠っているように、罪に満ちていて、労苦と災いを感じるだけの人生になってしまうのかもしれない(信仰心無しに生きると)。 二つ目として、個人のはかなさだけではなく、人類全体のはかなさも詠っていると思う。そして三つ目、数十年という単位にしろ、数千年あるいは数万年という単位にしろ、永遠という単位に生きる神の存在からは、人類の生存期間は本当にわずかと思う。にもかかわらず、個人個人をしっかり知っておられる神の存在に畏れをいだいて生きるように。
12節の「生涯の日を正しく数える」という言葉から、50代半ばを過ぎた知人と食事をした時、「残りの人生を25年とすると、夕食を食べられる回数はもう9000回程度だから、一回一回の夕食を大切にしたい。」と言っていたことを思い出した。個人個人が神から与えられた時を大切にすることはすばらしい。同時に、それを与えてくださっている神を畏れ神に感謝し、社会に生かされている一員として、神と隣人を愛し続ける生活を送れるように願い祈る。それが、喜びと希望にあふれるイエスの再臨、終末に備えることで、神を畏れる知恵(箴言1:7)を持って生きることのように感じる。アーメン 安達均

マタイ 25:1-13

私の口から出る言葉が、あなたの御心にかない、そして、集まった会衆の上に豊かな恵みと平安が与えられますように!

イエスの再臨、についてどんな考えをお持ちだろうか? いろいろな教会の指導者がいて、とくにルーテル教会以外の教会の方々から、「イエスの再臨はもうじき来ますよ。」とか、「再臨とは、世の終わりであり、イエスの裁きなのです。」という話をするのを聞かれたことがあるのではないかと思う。
テレビ伝道者たちは、よくそのような話をされるように思う。じゃ私はどうなのかと言われると、「終末はすぐ来ますよ。」などとはほとんど言わない。簡単に言うなら私は次のように考えている。
再臨のことは、たしかに聖書に書かれており、再臨はあると信じている。しかし、イエスがいつ再臨されるか、終末の時、どうなってしまうのかということより、再臨に対して心構えをすることが一番重要だと思っている。しかしイエスの再臨に備えてどのような心構えをすればよいのだろか? 

今日与えられている福音書はマタイ25章1-13節の十人のおとめのたとえ話だが、マタイ24 章、25章は、終末が大きなテーマになっている。イエスは弟子たちに対して、終末について教えている。その教えには、大きく分けて二つの要素が含まれているのかと思う。
一つは、最終的な全人類の救いが完結すること。もう一つは、終末に対する警告であり、人々を回心へと導いている面があると思う。
与えられた福音書の内容を確認すると、終末を結婚披露宴にたとえているわけで、そこには、大きな喜ばしいことが起こる希望が含まれている。 旧約聖書と新約聖書を通じて、神がいかに人類を愛しているかということを著すために、神と人類が終末において結婚する、つまり主イエスと全人類が結婚して結ばれるという比喩が使われている。その一例が今日の福音書箇所だともいえる。
今日の福音書箇所理解のためには、当時のユダヤのしきたりを知っておく必要があると思う。結婚披露宴当日は花婿は花嫁を迎える準備で忙しく、夜にならないと披露宴ははじまらない。花婿が花嫁を迎える準備はいったい何時になったら終わるのかわからず、夜遅くになってしまうことがあったようだ。なので、披露宴に出席するものは夜中になっても良いように、灯火と、その灯火を絶やさないように油を十分用意しなければならなかった。 

たとえ話では10人のおとめがいて、5人のおとめたちはしっかり灯火と油も十分用意していた。しかし、他の5人のおとめたちは、灯火は用意したが、油を十分備えておらず、花婿が到着間際に、油を用意したおとめたちに分けてくださいと願うが、油は分けることはできなかった。 そして、油を店に買いに行くが、買いに行っている間に花婿は到着してしまい、結婚披露宴ははじまり入り口の戸は閉められ、披露宴会場には入れない。
いったい、イエスは油を十分用意した5人のおとめたちと、そうではなかった5人のおとめたちの話をすることによって、終末に対して、どういう準備をするように言われているのだろうか。 この話、人によっては、意地悪でけちな5人のおとめと、不幸な5人のおとめたち、というような解釈をしてしまう方もいるかもしれない。 
しかし、もちろん、意地悪をしても良いなどということがテーマではない。イエスが、油を準備した5人のおとめたちを評価していることは確かだと思う。 油を用意したおとめたちは、分けることができなかったのだ。この分けることができない油が何を意味するのかよーく考える必要があると思う。 いったい何を意味するのだろうか。 

日本語では「ゆだん」という言葉がある。 「油を断つ」という漢字を使う。 しかし、この言葉を使う時、文字通り、油を断ってしまうという意味で使うことはない。うっかりするとか、うかつなこと。 それはひとりひとりが自分で備えができていないようなとき、油断するといい、備えている場合は、油断しないという。 つまり油断という言葉は、心構えをしない時に使う言葉なのだと思う。そして、心構えというものは、私たちが互いに「油断しないようにしよう。」とか「油断大敵」と声をかけあうことができるが、最終的にはひとりひとりが、心で決断しなければならないもので、分け与えるものとは違う。 
いかがだろうか? 主イエスは、今日のたとえ話を21世紀を生きている人類に語られるなかで、わたしたちに何を教えてくださっているのだろうか? 分け与えることができない油の意味することは、次のように考えることができるのではないだろうか?

私たちは、ひとりひとり洗礼を受け、信条にしたがって信仰告白もしている。イエスは私たちを愛してくださっており、私たちも主なる神イエスと、人々を愛して生きていくという、いわば婚約期間を過ごす決断をした。その婚約期間中に、神と人とを愛し続ける生活を送ることができると思いがちだ。 
しかし、ついついうっかり、灯火は準備したが、油を十分用意できなかったおとめたちがいたように、決断の持続がむずかしくなるものも出てきてしまう。 この決断の持続は、だれかから分け与えられるものではない。だれかが忠告したりすることはできるが、毎日毎日、与えられる主イエスキリスト、神からの愛に対して、最終的には、わたしたち一人一人が応答するかどうか決断するしかない。 
毎週毎週、主なる神が愛してくださるがゆえ、招待してくださっている礼拝、神とのデートに出向くかどうかは、究極的には、本人の自由意志である。その意志は、礼拝に出席しようとしたものが、ほかの人を誘うことはできても、最終的に礼拝に出ようという決断は、分けることではない。いつも神の愛に応答し、わたしたちも神を愛し、隣人を愛する決断を持続することが、分けられない油の意味ではないだろうか。イエスの再臨に備え、日々神と隣人を愛することを最優先にする信仰生活を歩めますように! アーメン 安達均

“OIL THAT CANNOT BE SHARED”
Matthew 25:1-13

May the words spoken through my mouth be blessed according to your will and may the grace and peace of Jesus Christ be poured into the people’s hearts gathered in the sanctuary!

What do you think about the second coming of Jesus Christ? There are some people who say, “The second coming is close!” For example, I’ve heard many TV evangelists say that “Jesus is coming soon….” And it may be interpreted as “The End of the World” and “Final Judgment by God” will occur in the near future. People may wonder what I think about the second coming.
I hardly say “The second coming is near.” in everyday conversation. However, since the second coming (the end or the final judgment) is written in the Bible, I believe it will eventually happen. I do not think that it is more important “to forecast when it comes” or “how it will look” than “to prepare ourselves for it.” How can we, as Christians, prepare for the second coming?

The Gospel text is Matthew 25:1-13 “The Parable of Ten Bridesmaids (“Virgins” in original Greek).” In both Matthew 24 and 25, Jesus talks about the End Times and Final Judgment a lot. Jesus teaches his disciples about it. In his teaching, there are two major aspects in the end or the final judgment.
The first aspect is “The salvation of the whole world is complete.” The second aspect is “His caution/warning that leads the people to repent.”
When we read the Gospel, I would say that the metaphor of the wedding party itself is something joyful and hopeful. Both in the Old Testament and the New Testament, in order to express how God, Jesus Christ loves the people, prophets and Jesus metaphorically talked about the wedding between God and the people. I believe the Gospel text is one of those examples.
I think Jewish customs should be mentioned to better understand the parable. The wedding, in Jewish custom, happened at night and the groom might have been late. So the bridesmaids were to prepare their lamps and also have enough extra oil to prepare for his late arrival.

In the parable, there were ten bridesmaids, and five of them prepared both their lamps and brought flasks of extra oil However, the other five only prepared their lamps. Before the groom was to arrive, the bridesmaids who did not have enough oil asked the other five, “Give us some oil for our lamps.” However, it was not possible to share the oil with the five unprepared bridesmaids. The five bridesmaids were told to buy extra oil. While they were gone, the groom arrived, the wedding banquet started and the door was shut. When they came back with oil, they were shut out of the banquet and ceremony.
What does Jesus say to us when he advises these ten bridesmaids? Jesus explains how people should prepare for the banquet, the second coming. Some people misinterpret the focus of this story as being about five spiteful and miserable bridesmaids.
However, of course, spitefulness is not the point of the story. It is obvious that Jesus is in favor of people being like the five bridesmaids who brought both their lamps and extra oil. We should ask: “What does the oil which cannot be shared mean/represent?”

In the Japanese language, there is a word “Yudan (油断).” When we write this word in Chinese characters, we write “oil(油) cut(断).” Literally written “oil cut” but the meaning of this word is not really cutting oil, but it means careless, thoughtless, absent-minded, etc. I believe Jesus is pointing out the importance of careful and thoughtful preparedness. Of course people may say to each other “let’s prepare for something.” However, each person has to decide whether or not to prepare. The point is that the decision people make cannot be shared. Each person has to decide for themselves.
What do you think? What does this story teach those of us living in the 21st century? I think the “oil that cannot be shared” means something like this:

Each of us is baptized and each of us confesses our faith according to our creeds. We know that Jesus loves each of us so dearly and in response to his unending love, we declare that we love God and love our neighbors. We think that we can be like the five prepared bridesmaids who brought both their lamps and extra oil.
However, like the other five bridesmaids who only prepared their lamps and did not bring extra oil, we often fail to continue in our decision to love God and to love our neighbors. This continuous decision cannot be shared. Each person has to decide his or her own response to God’s love and care towards them.
God has always been inviting each of us to come to worship, to praise Him, to listen to God’s words, and to receive sacraments. However, whether or not people respond to God’s invitation continuously is ultimately each person’s decision. People may invite each other to accept Jesus Christ, but the final decision still should be made by each individual. May each one of us continuously respond to God’s invitation and continue loving God and our neighbors as we prepare for God’s second coming. Amen. Pr. Hitoshi Adachi

今週は詩編70編を読む。9日の聖日に与えられている福音書箇所は、マタイの25章1-13節で、十人のおとめが花婿が来るのを待つが花婿が思い通りの時には現れないたとえ話である。その福音書との関係を考えて読んでみるのも良いと思う。 今日の詩編は短いので、何度か読んでみて、そして、詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編70編
1:【指揮者によって。ダビデの詩。記念。】
2:神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください。
3:わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き
4:はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように。
5:あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。
6:神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。

気になった節や言葉はどこだろう? 私は、最初と最後の、「速やかに」「遅れないで」という言葉を用いて、神に向かって語りかけていること。
詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。それにしても、70編を一度読むと、「あれ、前にも読まなかったっけ?」と思われるかもしれない。私の記録では、「詩編を読もう」を毎週書き始めてから70編を読むのははじめてだ。しかし、確かに以前にも、この箇所は「詩編を読もう」の中で取り上げたと思う方がいたとしたら、それは記憶違いではない。70編2節から6節は、実は40編の14節から18節をほとんどコピーしたもの。詩編作者は、一度完結した詩編40編の中から14節から18節の部分だけを写して、あらたな詩編としたのではないかと思う。あくまで私の想像だが、神殿の役割として、日本でいう「かけこみ寺」と似たような役割もあったのではないかと思う。つまり、人間関係でにっちもさっちも行かなくなってしまい、命さえも狙われてしまうような状況に陥り、神殿に駆け込む人がいる。神殿に来て、神に祈るにしても、どう祈ってよいかもわからない。そのような場合、40編の13節までは読まなくても、神に祈る結論として、14節から18節だけを書き写して、これだけを、緊急のお祈り用に、どこか見えるところに貼られていたのではないだろうか? 1節の最後に、「記念」と書いてあるが、そのような状況を匂わせる。 さて、2節以降、今一度、振り返りたい。 神よ、私の主よ、すみやかに私を救い出し、助けてください(2節)。 私の命を狙う者、災いにあわせようする者、失敗を笑う者が、逆に恥を受け、あなどられ、笑われ者となり、私から逃げさるようにしてください(3-4節)。あなたを尋ね求め、あなたの救いを愛する人が、あなたにあって喜び祝い、楽しくあなたを賛美できますように(5節)。神よ、わたしは貧しく、小さくなっています。あなたはわたしの助け、逃れ場です。主よ、速やかにわたしのところにきてください。遅れないでください(6節)。  
この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? とても短い詩編だが、逆に、いろいろな神の教えが頭の中に浮かんできてしまう。三つに絞って、書いておきたい。一つ目は、緊急の場合、短くてもよいから、とにかく祈り求めることの大切さ。現代の世の中には、よくストーカとその被害者のことが報道されることがある。そこに、このような祈りが用意されていることを覚えたい。短くてもよい、神との関係を求める重要性がある。二つ目は、たとえ命をねらうような相手であっても、狙われた相手は、逆にその相手が殺されるようにと祈ってはならない。相手が神によって恥を知るように、そして、そこには、相手も神の愛を知るようにと祈るのが良いように思う。イエスは「敵を愛するように」と言われていたことを思い出す。三つ目は、いくら「速やかに、遅れないで。」と神に祈っても、自分の時計で、神様に期限を設けてはならないのだと思う。それは、9日に読む福音書の中で、十人のおとめに、なかなか花婿が現れない状況のたとえ話から、このようなことを書いている。 
現代にあって、たとえあなたのことを殺そうとしている具体的な人がいるわけでもないが、テクノロジーが日々激しく進歩しており、生活環境も変わり続けるゆえに、日々の生活をとてつもなく多忙にしてしまい、忙殺されそうな感覚を覚えている方々も多いのではないかと思う。そのような生活から一瞬でもよいから離れ、この詩編70編の短い祈りを口ずさみ、神との関係を求める時が与えられますように。そして、1週間に一度、日曜日には一時間の礼拝の時間を、神と出会って有意義に過ごされますように祈る。アーメン 安達均 

今年、復活ルーテル教会(Lutheran Church of the Resurrection) は50周年を迎えました。そして私たち日本語ミニストリーがLCRで宣教を開始して今年で26年の月日が流れました。高塚牧師に始まり、田中牧師、伊藤牧師、岸野牧師と、この26年の間に様々な牧師が与えられ、現在は安達牧師が私たちの群れのリーダーです。去年は大江ルーテル教会から姉妹教会の皆さんが立野先生と一緒に25周年記念礼拝に参加されました。今年は、主任牧師のカール先生が、言葉を超えて、伝統習慣を超えて一人一人が福音の橋渡しの役割を果たすには、どのようなヴィジョンを将来に描くのか、という大きなメッセージを語られました。LCRの英語部の方や、タイのミニストリーからも何人か礼拝に出席してくださり、まさに異文化の集合した礼拝堂で、キリストの福音が響き渡りました。これからも私たちの群れが、すべての人たちとの橋渡しの役割を果たすごとく、神様のご計画に喜んでチャンレンジして行きたいと切に祈ります。

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11月2日の宣教26周年記念礼拝で、LCR主任牧師のカール先生は私たちに最高のメッセージをくださいました。ぜひお読みください。

2014年11月2日宣教記念礼拝説教日本語訳

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