LCRは今年50周年を迎えます。そして日本語部がLCRで日本語伝道を始めて26年になりました。この機会に、日本語部の最大支持者であるLCRの主任牧師、Zimmermann牧師に特別メッセージを御願い致しました。  Zimmermann 牧師は、LCRの主任牧師を務められて今年で20年になります。日本語部の宣教記念礼拝で説教をされるのは今回が始めてです。私達が、アジア人として、これからどのような伝道のヴィジョンを描いて行くのか、神様はどのようなご計画を用意されているのでしょうか。ご一緒に原点の戻り、神様のみ声に全身全霊を注いで聞きませんか?

マタイ 22:1-14

主イエスの恵みと平安が集まりました会衆の心の中まで、豊かに染み渡りますように!

何年も前になるが、こんな証を聞いた。「私は人生の最高の決断、洗礼を受けるという決断をして本当によかったと思う。」彼女は、キリスト教の幼稚園に通ったが、「神はいつもいっしょにいます」という話を聞き、そんなのいやだと思ったそうだ。なぜかというと悪いことをしたらそれも全部見ているわけだからしかられる。ある日台所で隠れてみたが、神様が見ていると思うと恐怖心を覚えたらしい。 
音大に入って、音楽の歴史を学ぶなかで、教会音楽の大切さを知ったのだろう。友人に誘われて、礼拝の音楽を聞きに行くことになった。礼拝に何度か出席するうちに、小さい時に抱いた恐怖の神のイメージは変わっていった。 
神は、愛の神さまで、自分勝手な悪い行いや言動を赦してくださる神さまであることがわかった。その愛の神様が自分のなにもかもを見てくれていることに気づき、これはすごい方だとわかる。この方に頼って生きていけばよいのだと思うようになる。だから、この方を畏れ、敬まい、賛美して生きていく決断は最高の決断だ。そんな内容の証だった。  

本日与えられた福音書、イエスの天の国のたとえ話。王様がその息子の婚宴があるからといって、多くの人々を招く。ところで、その息子がだれと結婚するか、花嫁のことはここでは触れていない。 
家来たちを遣わし、婚宴の準備が整ったと、わざわざ誘いに行かせるが最初に誘った人たちには、無視されたり、用事があるからと来ない。ある町ではひどい人々がいて、家来たちを殺してしまう。王は逆に軍隊を送り家来を殺した人々を滅ぼす。 
王様は家来たちに、「最初に誘った人々はふさわしく応じてくれなかった。善人悪人だれでもよいから手当たり次第、招いてきなさい。」といって、家来たちを町に送る。すると婚宴は、客でいっぱいになる。しかし、一人だけ婚礼の席にふさわしくない服装の人がいた。 
王はなぜ礼服を着てこなかったのかと質問する。その者がなにも答えずにいると、王は側近たちに、「この男の手足を縛って暗闇にほうり出せ。泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」と言う。 そして、招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。 とイエスは言われる。 

悲しい話で、恐い話にも感じる。しかし、これはあくまでたとえ話。それも天の国のたとえで、終末のイメージをイエスは語っている。婚宴のたとえ話には、王の息子とだれが結婚するかは書かれていないが、旧約聖書、新約聖書全体に描かれた終末の救いのイメージとして、神の子、イエス(花婿)と人類全体(花嫁)が一体となる、一つに結ばれるということがある。
そして、このたとえ話に語られていることは、その婚宴に、すべての人が招かれている。しかし、たとえ話の最後に出てきた礼服を着ていない人がほうり出される話は納得がいかない方も多いと思う。来なさい来なさいとさんざん誘ったあげく、礼服を着ていないから追い出されるというのはなんでだ?そりゃないでしょう。。。 と言いたくなる。 
今日のたとえ話をもうちょっと現代風に言うならば、主イエスの父なる神が、全人類に対してプロポーズしているような面があるのだと思う。それは、とてつもないすごい価値のある招きなのだ。まず、その神の招きがどれだけ価値があるものかに気が付く必要がある。

神の招きとは、善人も悪人も導かれている。マタイ5章には、「神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださる方。」とあり、罪人を赦し愛してくださる神。その御方がプロポーズをしてくださっている。この招きを真剣に受けとめて、どう応えるかが問われている。 
礼服を着ているかどうかということがたとえ話で語られているが、それは、外見ではなく、中身のふさわしさが問題になってくる。罪人も愛してくださる神。それは自分という罪人を含めて、人類全体を愛してくださる神。その神の愛にふさわしく、自分も神と人を愛する人になっていく生き方、キリストの信仰を身につけて生きて行くことを問われている。
洗礼を受ける、それはプロポーズに応えて婚約すること。そして、神の愛に包まれながら、自分もその愛にふさわしく応答する、神と人を愛する信仰という衣を着て婚約期間を過ごすものでありたい。
そして婚約期間に入ったら、当然デートをするわけだが、週一回は必ず、神さまのほうから礼拝という場でのデートへの招きがある。そして、礼拝で互いの約束を確認するような面がある。
それはみなさんが男性か女性かに関係なく、またその年齢にも関係なく、生き生きとした神との婚約期間を生きて行こうという招きに、全世界の人々が応じるように、神はいつも招いてくださっている。ぜひ活き活きとした、神様との婚約期間を過ごしてまいりたいと思う。アーメン  
安達均

To Accept or Ignore God’s Precious Invitation
2014 10 12 Matthew 22:1-14
 

May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of people gathered in the sanctuary!

Several years ago, I heard the following testimony. She said, “I made the best decision to be baptized and am so grateful for the baptism that I received.” Although she went to a Christian kindergarten, she did not like to hear the teacher saying “God is always watching you,” because if she does something wrong, she thought that God would punish her. She was scared and one day after she came back from kindergarten, she hid herself in a corner of kitchen and felt that God was still looking to punish her.
When she attended a university majoring in music, she studied how important church music is and someone invited her to come to a church. She attended church services for the purpose of listening to church music, but she realized that her perception about God was incorrect.
She realized that God is love and he forgives her selfishness and past bad behavior through Jesus Christ. The loving Lord is watching over her and it was OK just walking in her life trusting the Lord. Even when difficult situations happen, just trusting God is wonderful. And she made the best decision in her life.

The Gospel today is again, Jesus’ parable about the kingdom of heaven. A king invited many people to a banquet to celebrate his son’s wedding. However, this parable does not tell whom his son would marry.
The king’s servants were asked to invite people saying that the sumptuous dinner was ready, so please come. However some people just ignored the invitation, some just said they had other priorities, and some people in a town killed the servants.
The king mentioned to his other servants that the people invited were not appropriate guests, so the king asked them again, whoever they saw in town, please bring them. Then a large group of people arrived at the banquet. However, there was one person who was unsuitable to attend.
The king asked him, “Why do you not wear your wedding robe?” He could say nothing, and then the King said to his servants “Bind him hand and foot, and throw him into the outer darkness, where there will be weeping and gnashing of teeth.”
It sounds like a sad story and we may have an impression the king is punishing the guest. If we think about this parable, it looks like the King was an angry God or a punishing God. Is that really so? Again, this is the parable of the Kingdom of God. This parable is talking about the end of the world.

This parable of the Wedding Banquet does not tell who the bride is. However the image of the end of the world is something like the wedding between God and all of humanity, or Jesus Christ and all human beings, we find this symbolism throughout Old Testament and New Testament.
According to the parable we read, all people are invited to the banquet. However, why was the guy who was not wearing a wedding robe thrown out? He came to the banquet since he was invited…
What does it mean that he was not wearing a robe? If we talk about this parable in a bit of a modern way, I think God is proposing to us, so we join with the Lord. This proposal is so generous and priceless. People need to understand this invitation to the wedding is precious. This is the wedding between God and humanity at the end of the world.

This precious invitation is not only given to certain people but it’s given to everyone, because God is the one who makes the sun rise on the evil and on the good, and sends rain on the righteous and on the unrighteous. God, who forgives people, all sinners, proposes to all sinners to marry the Lord. We are asked to accept this priceless invitation.
Although the parable talks about the guy who was not wearing a wedding robe, it is not an issue of proper attire (or one’s appearance) but more about inner spiritual readiness to be together with God who loves the evil and the good, who forgives the righteous and the unrighteous. If we accept the invitation, we need to respond appropriately, we are to love God, and our neighbors, and yes even sinners. How can this be done? It can be done through wearing faith in Christ.
If we read only the parable chosen today, we might misunderstand that God punishes and is not really a loving God. However, we should consider what Jesus says to us in other places and we then understand how God is love and graciousness. The woman who came to understand God’s love is the woman whose testimony of her baptism I shared at the beginning of the message.
To be baptized is to accept God’s invitation, which is his proposal, and we are to live a wonderful engagement period. While being wrapped by the love of God, we are to love God and our neighbors joyously living in this engagement period. Regardless of your gender or age, this invitation is extended to you. Let’s hope and pray that everybody in the world accepts God’s precious invitation. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

2014年10月12日LCR日本語部週報通算第1326号

2014年10月12日週報

October 12, 2014  LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1326E

今週は詩編34編の1 節から11節を読む。聖書日課では来週の月曜から水曜に読む詩編箇所が詩編34編となっている。その中で、12日の聖日に与えられた福音書箇所(マタイ22:1-14)との関係から、特に1-11節に集中したい。もちろん、余裕があれば、12節以降23節までもぜひ読んでいただきたい。何れにせよ、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。

詩編34編
1:【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】
2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。

気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、9節にある「味わい、見よ」という言葉。この言葉はイエスが最後の晩餐の時に、パンをとって感謝して、それを裂いて弟子たちに与える時、「取って食べなさい」(マタイ26:28)と言われた言葉と同じなのだと思う。詩編はヘブライ語を訳して日本語にしており、また,マタイ福音書ではギリシャ語を日本語に訳しているので、ニュアンスが変わって聞こえるかもしれないが。 

詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。詩編作者は、詩を綴ってゆく中で、ユダヤの礼拝を表現しているような場合がある。詩編34編はその例だと思う。 というのは、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、それが讃美歌になって歌われる。そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られているような面があるのではないだろうか。さて、一節づつ読んでいきたい。どんな場合でも絶えることなく私は主を賛美する(2節)。貧しい人々よ(まだ主を賛美する気持ちになれない人、礼拝来ていない人々よ)どうか讃美を聞き、そしていっしょに喜び祝おう(3節)。共に一体となって、主の御名を崇めよう(4節)。 私が主に求めると主は答えてくださり、脅かすものからいつも救い出してくださった(5節)。主を仰ぎ見る人は輝き、たとえ失敗や間違いを犯しても恥辱を味わったままになることはない(6節)。 虐げられてしまった者が主を呼び求めると、主はそれを聞き、苦難から救い出してくださった(7節)。 主が遣わす者が苦難の中にある者の周りに集まり、畏れて主を呼び求める者を助けてくださった(8節)。主の恵みの深さを味わってみなさい、主の元に身を寄せる人は、どんなに幸いなことか(9節)。主に創造されたすべての聖なる人々よ、主を畏れ敬え、主を畏れる人には不足はなく満たされる(10節)。 若者が欲するものが得られず飢えることがあっても、主を求める人は良いものが与えられ、不足することはない(11節)。 

この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか? 10月12日の聖日に与えられている福音書箇所がマタイ22章1-14節、「王が人々を婚宴へと招く」たとえ話である。王は神であり、招かれた人々はわたしたち人間。 また、礼拝を婚宴にたとえているような感じもする。 詩編34編を読み、旧約聖書の時代から、主なる神が、人々を礼拝へと招いている。 礼拝の場に集うことは、物理的にただ礼拝の場に来ることが目的ではなく、精神的かつ霊的に、主を畏れ、主を求める人になること、悔い改めて信仰の道を歩む人々になっていくこと。それは、主の恵みを「味わい、見続ける」生活をすることだと思う。アーメン
安達均

マタイによる福音書 21:33-46

主イエスの恵みと平安が集まりました会衆の心の中まで、豊かに染み渡りますように!

日本の小学5年生の国語の教科書に、伊藤和明という方が書いた「一秒が一年をこわす」という論文が載っている。この論文に書かれたアイデアは、カールセーガンというアメリカの科学者が提唱しはじめたことと似ている。 
簡単にその内容を説明すると、地球は生まれてから約46億年という考え方が一般的になった。この46億年に対して、人類の生きてきた時間は、わずか350万年ほどと言われている。仮に、地球の歴史46億年を一年にたとえて、地球が1月1日午前0時に生まれ、今が丸一年たった大みそかの夜中の12時だとしたら、人類が誕生したのはいつごろになるだろうか。
答は何と、12月31日の牛後5時ごろとなる。つまり、地球の歴史を一年にたとえるなら、人類は生まれてからわずか7時間ほどしかたっていないことになる。(その7時間の中で)人類がさかんな活動の結果として石炭や石油などの化石燃料を使うようになったのは、わずか200年ぐらいに過ぎない。350万年を7時間とするなら、200年はわずか一秒に過ぎない。
たった1秒間、はげしく人類が活動したために、この1秒が、神が一年かかって築き上げてきた環境を取り返しのつかないような状況までに壊してしまわないだろうかということが、一秒が一年を壊すという論文の趣旨。

本日与えられた福音書、イエスのたとえ話は、ある主人がいろいろな工夫をして立派なぶどう園を作った。 そして農場主は農夫たちに貸して旅に出かける。旅の間に農夫たちがぶどうを収穫する時期となった。農場主は当然そのぶどうの一部をもらえるものと思い、農場主の使用人何人かを農夫たちのところへ送った。
しかし、農夫たちは、この収穫物はすべて自分たちが使えるものとして、使用人に渡すどころか、送られてきた使用人を次から次へと袋だたきにして殺してしまう。そこで、農場主は、もし自分の息子を送ったらその息子を尊敬してもらえるのではないかと考え、息子まで送ることにする。 
ところが、農夫たちは、息子はこの農場の跡取りだから、彼を殺せば、この農場は自分たちのものになると考え、息子までも殺してしまう。なんという悲しい話なのかと思う。

しかし、この話はただの「悲しいお話」どころではない。イエスが語っていたことは、実際に起こっていたこと、そしてその時代にもうすぐ起ころうとすることのたとえ話だった。農場の主は神、その使用人は預言者たち、農場主の息子とはイエスのこと、そして、農夫たちとは、イスラエル人たちだが、とりあえず、律法学者やユダヤ教の指導者と申し上げておきたい。
神はイスラエルの人々のために、たいへん恵まれた大地を用意した。アブラハムとセラそしてその子孫たちのために、特別に恵みあふれる土地を用意した。 
しかし、子孫たちはその土地を得たことを当たり前のように思って行動するようになる。おまけに、その土地をくださった神の存在を忘れ、偽りの神々を崇拝したりもするようになる。神は、イスラエルの民の軌道修正を試みるため、預言者たちを送るが、民は預言者たちの言うことを聞かない。
豊かな土地の管理を任されたイスラエルの民は、神の思いから離れていき、自分勝手に振舞うようになる。 神はその御子、イエスも送ったが、そのイエスさえも十字架にかけて殺してしまう。本当にひどいできごとだが、神はイエスを復活させて、さらに、イエスは弟子たちや、多くの人々を赦す。彼等はイエスの十字架刑を止めることもできず、むしろ十字架刑に加担したにもかかわらず、赦す。 

このたとえ話は、2000年前のユダヤのリーダたちに語られていたばかりではなく、現代を生きる私たちにも、真剣にせまってくるものがある。聖書に著された御言葉とともに、考古学や自然科学から導かれた知識が、神がどのようにわたしたちに関わってきてくださったかを、今一度考えてみるように導いている。私は、カールセーガンのような自然科学者は、環境問題の切羽詰った状況を、人類が気づくようになる考え方を提示してくれた天才だと思う。セーガンは宇宙学者だが、地球とその環境についても深い考慮をしていた。 
神は宇宙を創造し、地球も創造、配備し、さらに人類が生まれ存続繁栄するようにとてつもない配慮をしてくださっていた。たいへんな恵みをいただいている。 神はとてつもない自然エネルギーを備えてくださった。 そして私たちは創世記に書かれている通り神からそれらを委託されている。

ここで、私は一秒が一年をこわす話にもどりたい。人類は警告に値するほどのスピードで資源を消費しはじめているのではないか?それはここ200年にわたっており、将来の世代に向けて、とりかえしのない破滅に導かれているように感じる。
私たち個人個人は 神に豊かに祝福され、とてつもない才能を託されている。言い換えるなら、一人一人が、何かを委託され、それらを運営するように任されている。今私たちは、ひとりひとり、振り返り、自分に委託されたことは何なのかということをよく思い起こしたい。電気、ガス、水道などの資源、お金、地位、知識や知恵、友人、家族、などなどは神からさずかったものの本の一部に過ぎない。 
そして私たちは、それらを無責任に消費してしまっているのではないだろうか。神は、私たちひとりひとりが神に喜ばれるような消費の仕方をしているのか、自ら質問をしたい。そして、その質問に対して、だれひとり、「私は神の思い通りにしっかり正しく使っている。」と胸を張れるような人はいない。皆この200年の歴史の一部だから。 
しかし、私たちは罪深い人間であるが、最高の知らせは、神はそのような私たちでも赦してくださっている。だからといって、わたしたちは、無駄な浪費を続けてよいわけではない。私たちは、一人一人、昨日までの行いとは違う行動をとるように、神に迫られている。どうか一人一人、神の御心がどのようなことなのか、しっかり祈り願い、そして神の望まれることを実行するように、謹んで申し上げたい。アーメン 安達均

Tenants Entrusted to Manage the Vineyard
Matthew 21:33-46

May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! Amen.

There is a famous article in Japan titled “Ichibyo Ga Ichinen wo Kowasu” which means “One Second Destroys One Year” written by Kazuaki Itoh. For the last two decades, this article has been included in a Japanese language textbook for fifth graders. I think a similar idea was originally discussed by scientist Carl Sagan in the late 20th century. Anyway, it is a common understanding that 4.6 billion years have passed since the earth was born. Out of which, human beings have lived only 3 to 4 million years.
Let’s assume that 4.6 billion years equals one year. In other words, let’s assume that the earth was born January 1st at 0:00 a.m. And let’s assume that the current time is December 31st midnight of the same year. When is the time that human beings first appeared on the earth?
The answer is about 5 p.m. on December 31st. So if we assume the history of earth is one year, the history of man is only 7 hours. Human beings became so active using fossil energy like coal then oil in the last 200 years. Which is only 1 second assuming that 3.5 million years equals 7 hours.
This one second might be destroying nature and the environment that was created during the long history of earth in one year. The article is a wakeup call for humans to realize how aggressively we are using natural resources that were created by God.

In the Gospel text today, Jesus talks about an analogy. There was a landowner who prepared a well-equipped vineyard. He entrusted the vineyard to tenants and went to another country.
When the harvest season came, the landowner obviously thought that he should receive a portion of the harvest, therefore he sent his servants to the tenants to retrieve some of the grape harvest. However, the entrusted tenants did not think that they should give a portion of the grape harvest to the owner, and instead, they killed the servant.
Since the first servants did not come back, the landowner sent other servants several times, but the same thing happened. Every time the servant was killed. Therefore, the landowner thought that if he sent his son, he would probably be more respected.
In the end, the landowner sent his son. However, again, when they saw him, they said “This is the heir. Why don’t we kill him and get his inheritance? Then, they seized him, threw him out of the vineyard, and killed him. This is a sad story.

However, this is not just a story, but this is analogy about something that would and did happen. The land owner was God, the servants were the prophets, the son was Jesus, and tenants were Israelites, or I should say the scribes and leaders of Jews. God prepared the wonderful land for Israelites. God brought Abraham and Sarah to the promised land. God made it possible for their offspring to live there.
However, their offspring started taking for granted all the benefits and gift prepared by God, then they began worshipping false gods. Although God sent prophets and tried to redirect the Israelites, they did not listen well to what the Prophet said.
Then Israelites, the tenants, acted more selfishly. Even though God sent his Son, Jesus Christ, they put him on the Cross and killed him. In spite of this terrible incident, God resurrected Jesus and let him forgive the disciples and many other people, even though they helped in Jesus’ death or they did nothing to stop Jesus’ death.
This analogy written in the Bible is a message not only for Israelites, but also for human beings living now in the 21st century. Together with the Word in the Bible, with knowledge gained from archaeology and natural sciences has caused us to rethink how God has been relating to human beings. I think Carl Sagan was a genius to bring the environmental situation to humanity’s attention. Even though Sagan studied the universe, he cared deeply about Earth and its environment.
God created and equipped the whole universe and the earth so that human being could live and prosper. He prepared tremendous rich resources for humans. We are entrusted to manage them by God as written in Genesis.

Here, I would like to come back to the story, “One Second Destroys One Year.” Human beings use resources at an alarmingly fast rate. This has been happening for the last two hundred years and might cause catastrophic effects for future generations.
Each individual is richly blessed by God. God gives tremendous talents and gifts to each individual. In other words, each one of us is entrusted to manage something. It is good to think about what each of us is entrusted with by God. Natural resources, money, status, intellectual properties, friends, and family are a few of the many things we have been entrusted by God.
Are we using or utilizing those entrusted resources appropriately as God really wants us to use them? Are we squandering those resources by using them too rapidly? I do not think there is anyone who can say “I have been using the resources most appropriately”, because all of us contribute to excess energy consumption.
However the good news is we are forgiven through faith in Christ, but it does not mean that we can continue to use our talents and gifts inappropriately. I believe each of us is invited to act differently from how we behaved yesterday. I believe, the Holy Spirit is positively changing each one of us. Please seriously pray about God’s plans for you and I humbly suggest that you follow what God guides you to do. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

今週は詩編80編の8節から16節を読む。読むにあたって、10月5日の福音書個所、マタイ21:33-46に描かれたたとえ話を頭に思い浮かべながら詩編を読んでみるのも良いと思う。 何れにせよ、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。

詩編80編 8-16節
8: 万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。
9:あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。
10:そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。
11:その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。
12:あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。
13:なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
14:森の猪がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。
15:万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
16:あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。

気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、8節に「御顔の光を輝かせ」と詠い願っていること。 逆に言えば、イスラエルの民にとって、主との関係が悪化していることを思わせる。 

紀元前8世紀ごろから6世紀はじめにかけてのイスラエルがどのような状態であったか、また6世紀半ばにはイスラエルの民がバビロンに捕囚されてしまったことも振り返り、詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。「木」と表現されているのは比喩で、イスラエルの民を表していると思われる。 万軍の神よ、との呼びかけのあと、信仰的に神の思いから異なる行いに走ってしまったイスラエルの民がバビロンに捕囚されてしまっているが、どうかイスラエルの地に連れ帰ってください。神の御顔を輝かせ、我々を救ってください(8節)。 神は、エジプトで奴隷として働きぶどうの木のようにやせ細ってしまったイスラエルの民を、エジプトから解放して、当時イスラエルの地に住んでいた民族を追い出してくださって、エジプトから帰ってきたイスラエルの民が、またこの地に住むことができるようにしてくださった (9節)。 イスラエルのさまざまな部族はイスラエルの地で部族ごとに割り当てられた地で繁栄してきた(10-12節)。 神はイスラエルの民を囲ってくださっていたのに、他の地からやってくる異なる信仰を持つ民が、イスラエルの民の信仰を揺るがせて、あなたから離れた行いをしてしまうようになりました(13-14節)。どうか万軍の神よ、天から今一度、あなたが弱っていた民をエジプトから解放し、あなた御自身のために強めてくださったイスラエルの民に、御目を注いでください(15節)。

この詩編個所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか?10月5日の日曜日に与えられている福音書の個所は、ぶどう園運営を任された農夫たちだが、収穫をするころになると、ぶどう園を前もって整備してくださった農場主のことを忘れてしまう。 そして貪欲にまた自分勝手に収穫物を管理しようとする。おまけに、農夫たちは、農場主が送ってくる使用人と、さらに息子までも殺してしまうという悲惨なたとえ話。 農場主からいただいていた元々の恩恵を忘れてしまう農夫たちとは、この詩編に登場してくる、ぶどうや杉の木、また大枝や小枝のこと、つまり、イスラエルの民といえるだろう。しかし、自分勝手になってしまうのは、イスラエルの民だけではなく、地球に住んでいる人類全体のことも考えて、この詩編は詠われているように思う。 今日与えられた詩編個所は、現代の社会に、警笛を鳴らしているようにも思える。 主がすべてを創造してくださって、主が、わたしたちの不完全さや恥を、赦していたわってくださっている。しかし、それを忘れ、あるいは気づかずに、詩編に詠われた紀元前のイスラエルの民のように、現代の人類の多くが神との関係悪化に陥ってしまっているようでならない。その関係悪化とは、神は常に人類を悔い改めへと導いているのに、それに従っていない民が大勢いるということを危惧する。詩編作者と同じように、「主よ御顔を輝かせてください。お救いください。」と祈りたい。アーメン
安達均

マタイ 5:1-12

主イエスキリストが私たちの間にいっしょにいてくださいますように! アーメン

わたしたちの友人で40代半ばにしてなくなった方がいる。彼女のご主人は、「結婚するということは、必ずいつかは辛い別れを経験するということだった。」としみじみ語ってくれた。 
斉藤由紀のヒット曲、「悲しみよこんにちは」の歌詞の中では、「出会いと同じ数の別れがある」と歌っている。 出会いがあれば、いつかは必ず悲しい別れがある。確かにと感じる面はある。 しかし、本当に、出会いの数と別れの数は同じなのだろうか。 

今日のイエスの言葉、「心の貧しい人が幸い。」 とか、「悲しむ人が幸い。」という言葉が出てきて、どうして?と言いたくなってしまう。イエスは、天の国は、心の貧しい人のものだからと言われる。 また、悲しむ人は、慰められると言われる。 
そもそも、心の貧しいとはどういうことなのだろうか? わたしたちが経験したように、愛するものを亡くす体験、配偶者だったり、父親母親、あるいは子供、親しい友人を亡くすような体験も含まれるのだと思う。神の前で霊的に飢え乾いてしまっている場合を指すのだろう。また、悲しむ人とは、別れを体験して、悲しみの中にある状況をさしているともいえるのだろう。

そのような状況で、イエスの愛は迫ってくる。 そして、イエスはその生涯を通して、人間の死は、死で終わりではないという事を教えている。イエスは、天においてもいっしょにいてくださるということを約束してくださっている。 だから神の前で飢え渇いているものも、悲しみにあるものも、天に行けるし、主イエスの慰めに授かることができる。
現実問題、私の配偶者、家族、知人はクリスチャンになることはなかったけれどもと心配される方がいる。しかし、今日この場にいて、キリストの民の群れと一緒に、信仰を告白する中で、神は、「あなたの信仰が、彼を(あるいは彼女)を救ったという事もイエスは言われる方。おこがましい言い方かも知れないが、毎週の礼拝は、そこに集まる者だけではなく、集まっている者たちの家族や隣人のためにも守られている。 

霊的な飢えは、かならず、神の恵みで満たされる。また、悲しみのどん底にあろうが、悲しみが悲しみのまま終わるということはない。かならず、夢と希望に満ちる扉が見えてくる。救い主イエスの信仰さえあれば。人生なにがあろうが、復活の主イエスといっしょである。この世を先に去った家族も、今はイエスといっしょにおられる。 
ここで出会いの数と別れの数が同じなのかどうかの問題に戻りたい。別れが来ない出会いがひとつある。私は、イエスに会えば、出会いの数は、別れの数より一つ多いのだと思う。そしてイエスと出会っていれば、イエスを通して、先に天に召された家族、友人もいっしょに、今、イエスを礼拝している。 私たちは、イエスを通して、天に召された方々とも再会の機会が与えられる。 アーメン
安達均

Matthew 5: 1-12

May the Grace and Peace of our Lord Jesus Christ be among us and within us! Amen.

My wife and I had a friend who passed away, 8 years ago, in her mid-40s. Her husband shared his thoughts with us saying, “To marry to someone means to experience a painful separation anyway.”
There is a famous actress and singer in Japan named, Yuki Saito. One of her hit songs is called “Kanashimiyo Konnichiwa” meaning “Hello Sadness” in English and “Bonjour Tristesse” in French. She sings that “a number of encounters is the same as that of separations.” If you meet someone, you always say good bye. Do you think it’s true that when you meet someone and there will be always a time of separation?

In the Gospel that I read a few minutes ago, Jesus said, “Blessed are the poor in spirit,” and “Blessed are those who mourn.” We may want to ask “Why?” Jesus says, “Blessed are the poor in spirit because theirs is the kingdom of heaven. Blessed are those who mourn, because they are comforted.”
To begin with, What does “poor in spirit” mean? I believe this includes situations when we experience a painful separation from someone we love and we starve for peace of mind. “Those who mourn” are people who are in the depths of sadness.

In those situations, the love of Jesus Christ, the savior of the world comes to you. Jesus Christ taught and showed that your earthly death is not the end of your life. Jesus showed us this through his life, through his death on the cross and resurrection from the cross. Emmanuel Jesus promised us that He is with us eternally. Those who are starving for peace of mind, those who are in the depths of sadness will be in the kingdom and will be comforted.
Starvation in spirit is surely filled with God’s grace. Even when you are in the midst of sadness. Jesus is the doorway to hope and joy. Because of Him, the Savior and Redeemer of the world, you are with Him. And surely the people who returned to their eternal home before us, such as our departed loved ones, are with the Redeemer now.

Although it is sung that the number of encounters is the same as the number of separations, there is one special encounter which does not end with separation. It is not true that the number of encounters is the same as the number of separations. If you see Jesus, the Savior and the Redeemer, and through faith in Christ, there is no separation. Through the Father, through His Son, and through the Holy Spirit, all of our loved ones and we are worshipping together and honoring the eternal Savior. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

9月20日に行われましたジャパンフェスティバルは、200人以上の参加者を迎え、大盛況でした。午後1時からの開幕でしたが、12時過ぎから駐車場が混雑し始め、2時には路上駐車された方が殆どだったようです。当日は、バーコーホールにフードコートを儲け、太巻き、稲荷、カリフォルニアロール、チキンカレー、チキン照り焼き丼等をメインコースに、果物や枝豆、グリーンティーアイスクリームに、緑茶、ラムネ等、豊富なスナックと飲み物が用意されました。バーコーホールの一角には、私達の姉妹教会である熊本大江ルーテル教会の皆さんの手作りの品々、また私達日本語部の方がちりめんで作った髪留め等を並べてのショッピングブースが置かれました。ラッフルティケットの品物等もずらっと並び、開幕から閉幕まで、大変な賑わいでした。隣の高塚ホールでは、展示会を行いました。墨絵や、押し絵、古代布アートなどが所狭しと並びました。また、展示場の半分を使って、着物の着付けデモンストレーションや、墨絵のデモンストレーションも行われました。中庭には、生け花、墨絵、折り紙、盆栽のワークショップが並び、大人も子供もやってみたい、作ってみたい、と大人気でした。中庭の奥には茶道裏千家の社中の皆さんがお点前とお茶会が45分おきに行われました。私達教区のビショップが、1時のお点前に参加され、ご夫婦揃って初めての体験に大感激されていました。何度も日本に行かれているビショップですが、お茶会は初めてだったそうです。そして礼拝堂では、2時15分からライブショーが行われました。先ずは松豊会に皆さんによる民謡、そして、藤間勘須磨の日本舞踊の皆さんがステージ(聖壇なのですが、当日はステージでしたね)に花を咲かせたかのようでした。その後、ゆうかりコーラスの皆さんの日本の歌の披露もあり、4時に礼拝堂でのライブは終了しました。4時からは前にはでラッフルの当選者発表が行われ、4時半からはシニア太鼓が60の手習いで太鼓演奏を披露し、5時からは友情太鼓の皆さんが素晴らしい太鼓を披露してくれました。最後の太鼓の音と共に、50個の金色の風船が一斉に天に向かって放たれました。50年の年月を経て、アメリカのオレンジカウンティー、ハンティントンビーチで、英語部と日本語部が一緒になって50周年を祝い、神様に感謝の祈りを捧げた一日でした。私達Friendship Task Force は10年前に、日本語部と英語部の橋渡しとして結成されました。神様の守りと導きの中で、第五回ジャパンフェスティバルを開催し、教会が一体となって奉仕する事ができた幸いを心から感謝いたします。惜しみなくお手伝い下さった皆様、遠くからお手伝いに来て下さった方、お一人お一人に御礼申し上げます。