Tweet 9月3日(日) マタイ 16:21-28 この箇所を読むと、いつも「あなたの十字架を担ぐ」の意味について、毎回せまられる。とくに今回は、同じ日に与えられていたエレミア15:15の「わたしがあなたのゆえに辱めに耐えているのを知ってください。」との言葉にピンときて、イエスの言われていることも、そういうことなのかという気がしていた。キリスト教の神学は、この世の考え方とは異なり、徹底的に相手を愛し赦し続ける。この世的には、馬鹿正直で世間から恥さらしにされるような面があることはいなめない。イエスが十字架で担いでエルサレムを歩かされたのも、恥さらしにされたのだった。恥さらしにされようが、イエスの信仰を恥としない生き方が十字架を担いで歩むことではないだろうか。 9月4日(月) 黙示録3:1-6 黙示録の2章3章は、7つの教会に宛てた手紙。いにしえの教会宛ての手紙でも、現代の教会にもあてはまってくる面がある。与えられている箇所は、サルディスにある教会に宛てた手紙だが、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」とあるのは、十字架を担いで歩くなどということは何も考えずに、ソーシャルクラブ的に、自分たちだけで楽しむ、一見活発なような教会になっているような教会が問題にされているようである。司祭は白い衣を着て礼拝を司り、集う者が告解し、イエスの教えを思い出し、愛を実践する教会となれますように。 9月9日(土) エゼキエル 33:1-6 与えられている言葉を聴き、現代を鑑みる時、6節にあるような、「剣が望む」傾向を見ていないだろうか。日々のニュースで絶えない、北朝鮮のミサイルや核兵器問題も然り、また対応の仕方は異なるアメリカ、ロシア、中国、韓国の指導者たち。それをただ茶の間で見て、第三者的になって何も行動を起こさないのでは、エゼキエル書に書かれた「角笛を吹かない見張り」であり、また角笛を聴いてもそれを無視する民になってしまうのではないだろうか。 9月10日(日) マタイ18:15-20 この箇所だけを読んで解釈して、小さな集団である一教会においても、だれかに罪を犯した者とか、何かルールに従わない者がいた場合、まず一対一で話す。それでも悔い改めなければ、さらに数人で話す。それでもらちがあかなければ、教会全体で話す。それでも従わなければ、教会から追放するというルールが教会にできてしまったような面がある。しかし、そのようなプロセスは本当に神の御心なのだろうか。私の友人が牧師をしている教会の近くのいわゆる単一教会(Non Denominational Church)では、性的少数者が教会から追放されたあげく、自殺してしまったケースがある。その追放した教会はもちろんお葬式もしてあげない。友人牧師は、自殺した女性とその家族のために葬儀をとりおこなった。ある一教会に集まっている人々だけでは罪を犯しているのが、正反対だってありうるのだと思う。「自分たちが正しい」と思っていたことが全く逆の場合があることを、この聖書箇所が教えているようにも思えてくる。15節より前にどんなことが書いてあったか、また20節以降にどんなことが書いてあるのか、その脈略の中で読むと意味がわかってくるように思う。 10日のビーチサービスとビーチクリーニング、17日のメモリアルサービス、またさらなるハリケーンが近づいており、各方面で天災にあわれているかたがた、覚えて祈りつつ。 主の恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2017年8月20日(日) マタイ 15:21-28 カナンの女性の信仰のすばらしさ、また力づよさを再び感じている。 しかし、「カナンの女性の信仰」といってしまうと、信仰がカナンの女性に所属しているような言葉遣いになってしまうが、決してそうではないのだと思う。イエスも「あなたの信仰は立派だ」といいながら、「信仰」の意味をさらに考えると、「イエスの信仰」でもある。信仰によって社会の変化が起こっていく話を説教でしたが、変化がおきていく際の主語は主なる神。 2017年8月22日(火) ローマ11:13-29 キリスト教は、ユダヤ教の木にキリスト教は接木されたというたとえが語られている。 20節には、ユダヤ教の木において、ユダヤ人の枝は切り取られてしまって、異邦人の枝が接木されたイメージをパウロは語っている。 そこに控えめに「あなたは信仰によって立っている。」となにげなく書いてある。 ここでも、信仰の主語は、ここでもつきつめていくと、「イエスの信仰」なのだと感じる。 2017年8月26日(土) エゼキエル36:33-38 主なる神が廃虚を建て直す希望が語られている。今年も終戦記念日の前後、広島や長崎はもちろん日本各地の廃虚となったような多くの都市の写真をテレビで見た。 しかし、日本のほとんどの都市は見事に建て直された。 もちろんたいへんな人数の人々の働きがあったことだろうが、根底に働かれた、そして今も働かれている御方の存在を敬い、感謝する。 2017年8月27日(日) マタイ16:13-20 修養会でじっくり読んだ16章だが、また読んでいかがだろうか? イエスのことを、もうこの世に生きていない過去の予言者と同列にしてしまう人々がいた。 ペトロは、「あなたは救い主、生ける神の子です。」と告白している。単に「救い主」とだけではなく、さらに、「生ける神の子」とまで告白しているところに、すばらしさを感じる。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2017年8月13日(日) マタイ14:22-33 イエスからは「私だ、安心しなさい」と声をかけられていながら、ペトロがとった行動は、そのイエスに向かって、「もし本当にあなたなら」といって、さらにイエスである証拠を求めている。そのペトロの心の裏にあるものは、「疑い」という一言で言い表せるのかもしれない。しかし、もっとつきつめていくなら、ペトロが弟子たちのリーダとして、弟子たちがまだイエスだという確証をもてない気持ちを代表したのか、あるいは目立ちたいのか、いずれにしろ主なる神の御心にはそぐわない気持ちがペトロにあったことを、イエスは見抜いておられたように思う。そして沈んでいくペトロがあった。私には、なぜか世界の主要国といわれるリーダたちの多くが、このペトロと重なってきてしまい、そして、大国といわれている国も、みごとに沈んでいく様子が思い浮かんできてしょうがない。しかし、グットニュースは、そんな場合でも信仰により、主が手を伸ばしてくださること。 2017年8月14日(月) 第二ペトロ 2:4-10 上述したペトロは、イエスの死と復活後キリスト教の伝道に残りの生涯をささげた。ペトロの第二の手紙は、彼が殉教する直前の紀元後60年代に記したのではないかと思われる。与えられた聖書箇所では、旧約聖書に残された史実や、あるいはおとぎ話のような形で表現された教えから、神の裁きがとりあげられている。 読んでいて、あまり気持ちの良い箇所ではないかもしれない。10節の後半にある、「彼等は厚かましく、わがままで、栄光あるものたちをそしってはばかりません。」と書いているが、ここで「彼等」とはだれのことかと考えると、イエスに従って修行中だった30年前のペトロたちに重なってくるし、また、現代の世のリーダとも重なってきてしまうのは私だけだろうか。 2017年8月19日(土) イザヤ 56:1-5 20日の聖日の福音書では「カナンの女の信仰」として一人の異邦人女性の信仰と救いの話がとりあげられる。それに関連する箇所として、第一日課にはイザヤ56章の1節と6-8節が拝読され、さらにその前日の聖書日課箇所としてイザヤ56章の1-5節が読まれる。旧約聖書にも異邦人の救いが表わされている箇所があったことを覚えておきたい。また3-4節にある「宦官」という言葉は、使徒言行録の8章に出てくるエチオピアの宦官がイエスの信仰を持ち洗礼を受ける箇所を思い出させる。また5節の言葉は、カナンの女の信仰を思い出させないだろうか。 2017年8月20日(日) マタイ15:21-28 イエスが異邦人を犬にたとえており、ちょっと信じられないと思うような言葉が出てきている。それに対して「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」とここまでへりくだるカナンの女の信仰に力を感じる。イエスは態度を変えられた。弟子たちも時間はかかったが、考え方は変わり、いってみれば、ユダヤ教の宗教改革の一端を見る思いがする。 先週末は悲しい事件が、ヴァージニア州シャーロッツビルで起こったが、このようなことがいまだに起こる人間社会に、2000年前のカナンの女の信仰の話を通して、主なる神が問いかけてくださっているように思う。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 私たちを憐れんでくださるイエスの信仰が深まりますように。 2017年8月6日(日) マタイ14:13-33 イエスが幼馴染だった洗礼者ヨハネの悲しい知らせ(1-12節)を聞き、イエスが「ひとり人里を離れた所に退かれた」ことに、感慨深いものを感じている。 悲しいときに、イエスがひとりになり、神との関係、対話を求めていたのだと思える。しかしすぐに群集が後を追ってきて、大勢の人々を憐れみ5,000人の給食へと展開することになる。 その時間が短かかったにしろ、イエスが給食直前にひとりになる時間、神との関係を求めたイエスに見習うことがあるように思う。私たちの普段の生活に追われている中でも、神との対話を求めて生きるよう心がけたい。 2017年8月8日(火) ローマ 1:8-15 まだローマまでは足を伸ばしたことがなかったパウロが純粋にローマ行きを希望し、祈っていたことが書かれている。地中海沿岸地域にあって、経済的にも政治的にもリードしていたローマへパウロが行きたかった理由は、福音を述べ伝えるため。そこには経済や政治の指導的な立場にあったローマ地域の人々でも、決して真の喜びや心の平安が満たされずにいたことを見抜いていたパウロの思いを覚える。 現代においても、政治や経済がリードしていると思われる地域に住んでいる方々に対しても主の憐れみが豊かに注がれていることを覚える。 2017年8月11日(金) 列王記上18:17-19, 30-40 週の後半は預言者エリヤについて書かれている旧約聖書箇所がとりあげられている。13日の聖日の福音書箇所はイエスが弟子たちをボードに残して一晩イエスが見えなくなってしまう箇所である。それと関連がある箇所として列王記19章9-18節が第一日課に選ばれている。そこには、エリヤが自分の無力さを体験するものの真の主に信頼することの強さを実感できたことが記述されている。 エリヤがいかにヤファエ信仰に厚いすぐれた預言者であったかを記述している箇所が今週後半の旧約聖書箇所ともいえる。 エリヤの生涯は簡単にいうと、バアル信仰(土地や家畜の生産力を支配する神でイスラエルの農耕社会に広まっていた)という異教との戦いだったともいえる。バアル信仰は、現代でいう自分の経済的豊かさだけを求めてしまう宗教というか偶像礼拝ともいうべきものとも密接に関連しているのかと思う。 2017年8月13日(日) マタイ 14:22-33 5000人の給食の後、イエスは弟子たちを船に無理やり乗せて向こう岸に行かせ、さらに群集を解散させ、今回こそ一人で祈るために山に登られる。 その間に、弟子たちはたいへんなことになってしまう。24節から33節をじっくり読んで観想したい。とくにペテロの信仰のあさはかさが浮き彫りになってくるのかと思う。ほかの弟子たちのことはあまり描写されていないが、彼等も脅えていたことに変わりは無い。そして、わたしたちの信仰も、ここに描写されている弟子たちと似てはいないだろうか? 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」といわれる主の御言葉をしっかり聴きたい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2017年7月30日(日) マタイ13:31-33, 44-52 イエスがこれでもかこれでもかといわんばかりに、「天の国はーーーに似ている」と言って説明してくださった。当時の弟子たちも、また2000年経って、その話を何度も聞いてきた代々のキリスト教徒すら、いまだに、天の国をよくわかっていないのだ。 しかし、地球50億年くらいの歴史から見ると、あるいは数百万年とも言われる霊長類の誕生から見ても、この2000年間という短い期間に、とんでもない変化が起こっているのではないかと思えてくる。人間と神とのかかわり方、また人間同士の関わり方も。(ブラッド牧師の30日の説教を読まれていない方は、ぜひウェブにアップしているので、読んでいただけたらと思う。) 2017年8月1日エフェソ6:10-18 イエスが教えてくださった天の国のたとえを思い出し、またこのエフェソ箇所を読む中で、なぜか、ある牧師が「キリストの愛の実践とは、もっとも自分が愛せない人を愛すること。」と言っていたことを思い出す。そんなことはできないと思う人間の思いを超越して、聖霊の働きにより、それは可能なることを、パウロ(エフェソ信徒への手紙の著者)は説いているように思えてくる。 2017年8月3日(木) 箴言10:1-5 ダビデを継いだソロモンが著したとされる箴言の言葉をじっくりあじわいたい。とくに3節にある「主は従う人を飢えさせられることはない。」はどういうことを語っているのだろう。 飢えの意味は、かならずしも、食べ物に対する飢えということだけでなく、いろいろなことに対する飢えのことであるように思えてくる。 2017年8月6日(日) マタイ14:13-21 有名な5,000人の給食の話である。じっくり読んでいただければと思う。聖霊の導きの中で、また新しい発見や気づきが生まれてこないだろうか。 この箇所で語っているイエスの言葉は、最後の晩餐のときの言葉、そして、聖餐式のときの言葉でもあるのだ。聖餐式を受けるなかで私たちはどうなるのかを思う。。。 5,000人の給食で飢えをしのいだ人々は、決して食べ物だけによって満腹になったということだけではないのだと思う。 おなかがいっぱいになること以上の、満たされた感覚があったのだろう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2017年7月23日 マタイ13:24-30, 36-43 毒麦のたとえ話とその説明の箇所を今一度読んでいかがだろうか? 23日のスティンストラ牧師の説教のタイトルは「忍耐」だった。人間がたとえ毒麦だとか雑草だとか判断しているものに対してでも、イエスは忍耐強く待ってくださることを再度覚える。 神奈川県の相模原市での身障者施設殺傷事件から一年になるが、この聖書箇所と関係があるように思う。 2017年7月24日(月) 黙示録 14:12-20 23日の福音書のテーマは「主が忍耐してくださっている」だったが、与えられた黙示録の箇所は、天使が述べる言葉として、信仰者に向けて「忍耐が必要である。」とある。 主がどれほど忍耐してくださっているかを思うときに、信仰者も忍耐できるのかと思う。14節以降に描かれているイメージには、23日の福音書後半の毒麦のたとえの説明と重なってくる部分がある。 2017年7月27日(木)列王記上1:28-37 今週後半の旧約聖書箇所は、ダビデ王の死期が近づき、ソロモンに王位が継承されるときの箇所が続く。27日に与えられているダビデの側近たちの言葉の中に、「主は王と共にいてくださいました。またソロモンと共にいてくださいますように。」(37節)とある。月並みな祈りのようにも感じられてしまうかもしれない。しかし「主が共にいてくださる。」ということは、どんなことも主の愛を私たち一人一人から離すことをできない(ローマ8:38で30日の第二日課の一部)ことを覚えて何事にも対応することは、どんな苦境にも耐えられ、希望があり、喜びにつながると思う。 2017年7月30日(日) マタイ13:31-33, 44-52 イエスは「天の国はーーーに似ている」と言われ、いろいろなたとえ話を語られる。44節から46節のたった3節の中に「畑に隠された宝」のたとえと「高価な真珠」の二つのたとえが描かれている。 言葉が短いだけに、それぞれにいろいろ質問が出てきたりイメージ(たとえばなぜ畑の中の宝だけを買わずに土地を買うのかとか、畑の中に隠された宝がどんなものかを想像したり)が膨らんでしまう。 しかし、両方とも天の国のたとえであることから、この世の富でも、天に積むことの大切さを覚える。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 以下、聖書観想になりますが、お配りしたカレンダー・聖書日課やウェブに載せた聖書日課・カレンダーでは、21日(金)の聖書箇所が間違って記載されていました。21日(金)は正しくは、イザヤ44:9-17とヘブラ6:13-20です。申し訳けありません。 2017年7月16 日 マタイ13:1-9, 18-23 「種を蒔く人」のたとえを今一度読んでいかがだろうか。あらためて読んでみて、私は、同じ福音の種、同じ聖書の御言葉であっても、実にさまざまな形で世の人々は御言葉をとらえる、つまり一時的に異常なまでの関心をもってしまう、あるいはほとんど関心を示さないという色々な現実がある事とおおいに関係のあるたとえ話であると思う。御言葉が、真に人の心に浸透して信仰的な成長を帯びていくには、単に文字を読む(あるいは聞く)という関係だけにとどまらず、神の働き、聖霊の後押しなしにはありえない。 2017年7月17日(月) 第一テサロニケ4:1-8 テサロニケの信徒への手紙の一は、聖書に記載されたパウロの書簡の中でも、最初のもの、紀元後50年代はじめに書かれた。テサロニケの人々の信仰を喜びながらも、間違った教えが紛れこんでいることを心配しているような面はいなめない。そこで、与えられたような箇所にあるような、やや律法的というか、聖なるものにならないとだめですよ、みないな文面になっている。聖日の聖書、第二日課において、今年の聖霊降臨後の主日ではローマの信徒への手紙が読まれることが多い。 パウロの書いた書簡の中で、最後の書簡とも思われるローマ信徒への手紙と、最初に書かれた第一テサロニケとのパウロの書き方や内容の違いというか、深みの違い、読んだ後の余韻の差を覚える。 2017年7月21日(金)、22日(土) イザヤ44:9-17, 18-20 偶像礼拝を問題としている預言者イザヤの言葉。キリスト教の歴史を振り返りながら、この箇所を読むとき、偶像とはなんなのかということを考えさせてくれると思う。 とくに今年宗教改革500年だが、500年前からさらにさかのぼること数百年、ローマ教会が歩んでしまった教えの中に、偶像礼拝に相当するものがあったのだろうと思う。そして、ローマ教会内では、「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」とすら言わなかった(20節のイザヤの言葉)。しかし、ローマ教会の一司祭であった、マルティンルターは、神の導きにより「私たちが信じてきたものは偽りではないか」と気がつき、宗教改革、プロテスタントの運動が起こっていったともいえる。そして、時間はかかったが、ローマ教会も変わっていくように神が導いてきてくださったといえるのだろう。そして、皮肉なことに、現在三万ものプロテスタント教会の宗派が存在しているが、中には偶像礼拝に相当する教えがはびこってしまっていると感じている。 2017年7月23日(日) マタイ13:24-30, 36-43 良い麦と毒麦のたとえ。じっくり読んでいかがだろうか。先週のたとえも、今週のたとえも、拝読箇所の後半は、前半で語られたたとえ話の説明がされているが、後半の説明はあまり気にせずに、前半だけをしっかり読むのが良いように思っている。 私は前半で、僕たちが「毒麦を抜きましょうか?」と質問しているのに対し、「育つままにしておきなさい。」と主人が言われていることに感銘を受けてしまう。毒麦自身が、神の愛の中で、変わりうるということを暗示されているように思う。ローマ教会の歩みと重なるような気がする。また三万のプロテスタントの宗派にも、神の愛が働いていることを祈り覚えて。 そして私たち自身の、過ちや失敗をする生活に対しても。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2017年7月2日(日) マタイ10:40-42 もう一度読んで何を思われているだろうか? 41節に書かれていることから、正しい方(イエス)を受け入れる者は、正しい方と同じ報いを受けることになる。パウロも聖書で語っており、マルティンルターも語っていた、「人は信仰によって義とされる」ということは、ここでイエスが語っていたこととも密接に関係していると思う。 イエスを受け入れるという信仰のみによって、人々はイエスと同じく正しい人・義人とされる。 2017年7月3日(月) 第一テサロニケ4:9-12 兄弟姉妹、互いに愛するようにということは、新約聖書で強調されることではあるが、とくに、2日と9日の日曜に与えられた二つの福音書箇所との関係から、「互いに愛する」ということの前提条件として、「神が私たちを愛している」があると感じる。 2017年7月6日(木) ゼカリヤ1:1-6 旧約聖書には、神の派遣した預言者たちに民は従わなかったことが、繰り返し述べられる。 その歴史があるゆえに、旧約聖書が難しく、状況によってはとても悲惨であるように感じる。 旧約聖書も最初から最後までくまなく読んで学ばないといけないかのごとく思われている方も結構いるのかと思う。しかし、子供のような心をもって、イエスが神の子、救い主、であると受け入れる人には、旧約聖書のゴタゴタ劇や、細部にわたる律法を、一字一句読まなければいけないという話ではないのだと思う。 2017年7月9日 (日) マタイ11:16-19,25-30 28-30節は耳慣れた聖書の言葉であるが、それに至る25-27節の言葉の意味はなんなのか。16-19節はいったいどんな意味があるのか? 25節の、知恵のある者や賢い者には隠されていて、幼子にあらわされた「これらの事」とはいったいなんなのか?そこに鍵があると感じる。それは当時の知恵ある賢い者、つまりユダヤ教の宗教指導者が旧約聖書の律法に精通することが大切だと信じきっていたのに、律法に関してはずぶの素人である幼子でもすぐに理解できる「神が私たちを愛している。」ということこそもっとも重要な事だったのだろう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2017年6月24日(日) マタイ10:24-39 今一度読んでどんな気持ちだろうか? 39節にある、「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」と言われて、世に伝道の業のために派遣された弟子たちを覚えたい。特にイエスの復活・昇天後に、力強い聖霊の働きの中で、初代教会群を立てていった弟子たちのうち10人の弟子は殉教したと伝えられている。 2017年06月26日(火) ヨハネ黙示録 2:8-11 黙示録の1章ー2章には、7つの初代教会へ宛てた手紙が記されている。どの教会も問題を抱えていた。与えられた箇所はスミルナ(現在トルコのイズミルという都市)にあった教会。貧困と激しい迫害があったと思われる。しかし、11節「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」とある。 では第一の死とは何なのか? 父と子と洗礼の名によって受けた洗礼における死と復活なのだろう。 2017年6月29日(木) エレミヤ25:1-7 エレミヤが伝えているイスラエルの実状は、預言者に従わない民の存在。実際には偽預言者も出現していた(例として金曜に与えられたエレミや28章に出てくるハナンヤ)ので、預言者を受け入れられなかった人々もあったのだろう。 2017年7月2日(日) マタイ10:40-42 イエスが派遣した者とは、社会的には迫害を受ける者であり、そして、その派遣したものを受け入れるものも、同じく迫害を受けることになるかもしれないことを覚えることは大切なのかと思う。現代においても、キリスト者となることが、死にものぐるいのような、厳しい状況を味わうことになる覚悟を。しかし、それでも天の父が報いてくださるものは、この上なく豊かな恵みなのだ。厳しい状況の中でも、うれしくなってしまう喜び、希望が見えてくる。 日曜の礼拝に集まる会衆に、喜び・希望が湧いてきますように! 独立記念日を覚え、主にある自由が絶えませんように! Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 先週から昨日まで牧師休暇中だったため掲載が遅れておりお詫びします。 2017年06月18日(日) マタイ9:35-10:15 いま一度読み返していかがだろうか? 12 弟子が派遣されるときにイエスが語られた言葉には、かなり厳しいものを感じる。キリスト者として生きる心構えのようなものを感じてこないだろうか?けっして言葉通りに、着替えはもたないようにとかではなく、質素なこと、謙虚なこと、辛抱強くあること。。。 2017年06月19日(月) 第一テサロニケ3:1-5 テサロニケの信徒への第一の手紙3章の書きはじめを読む限り、うまくいっていないものを感じる。パウロはテサロニケの信徒たちへ、厳しい状況を体験することを、あらかじめ伝えていたのに、残念ながら誤った教えが入ってきてしまったようだ。 そもそもキリストに従うことは難しい状況に直面し、忍耐を要求されることは当然なのだが。。。 2017年6月22日(金) エレミヤ18:18-2 エレミヤ18章というとその前半に、陶工(焼き物師)が粘土でかたち造っても気にいらなければ、ぐしゃぐしゃにして作り直してしまうように、創造主の神もイスラエルの民に対して同じようにふるまうと、主の言葉がエレミヤに臨んだことが記載されている。民はすべて主のものなのである。しかし、主の言葉をそのまま述べたエレミヤを気に入らないイスラエルの民たちがいた。そして、エレミヤを殺そうとする計画さえ出てきてしまった。主の言葉をそのまま述べ伝えるがゆえに、預言者エレミアがあじわった不安・苦難を覚えておきたい。 2017年6月24日(日) マタイ10:24-39 12弟子派遣にあたってのイエスの教えが続いている。 近年になって新聞記事でわかったことだが、ノーベル賞を受賞した大村智氏は、私の祖父の家によく一升瓶をもって飲みにきていたようだ。そして祖父から「何事も千畳敷のど真ん中でやれ」といわれていたことが、彼の研究方針に大きな影響力があったようだ。祖父の言葉はイエスの教え「おおわれたもので、現われてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。」というイエスの言葉から出てきたような気がする。 さまざまな困難の中に、主の大きな恵みがありますように! Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace