Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet 「礼拝を休むのはもったいない」  第二コリント5:16-21  ルカ15:1-3, 11-32 主イエス・キリストの恵みと平安が豊かに与えられますように!  過去一週間を振り返ってほしい。 何か、失敗した、恥ずかしいことをしてしまった、と思うことはないだろうか? あるいは、これまでの人生を振り返り、あの時は正しかったと思っていたことでも、よくよく考えると、やっぱり自分が悪かったと思うことはないだろうか。   ジャックウェルチという方をご存知だろうか。ジェネラルエレクトリックの会長を1981年から2001年まで務めた方で、各事業部の徹底的な効率化をした人で、フォーチュン誌では、”20世紀の経営者”とまでいわれた人。 それほどの方でも、側近には、「自分の判断の3-4割は間違っている。」と言われていたという話を聞いた。 彼は、リストラ、人員削減にも、とてもドライな決断をして、人減らしを徹底的に行った人物。 多くの経営者が彼のやり方に追従した。  しかし、ウィキペディアの日本語版によると、そのウェルチ氏が、一貫して終身雇用策をした日本の横河電機の美川さんという経営者こそ、経営の神様だとコメントしていたそうだ。これは私の考察だが、ウェルチ氏は、自分の経営判断が、神の考えに背いたものだったことを認めていたともいえる。  さて、今週与えられている福音書箇所は、放蕩息子と呼ばれる譬え話。 二人の兄弟がいたが、弟の方は、父親に生前贈与をしてもらった資産をすべてお金に変える。 そのお金で、今でいえば、ラスベガスのような所に行って、放蕩の限りを尽くした。そして、生活費は無くなり、困り果てる。 豚を飼っている農家で働くが、豚に食べさせる餌さえも食べたいと思うほどの、悲惨な生活。 彼は自分の判断がいかに過っていたか、父の思いに背いていたかを反省した。 彼は、財産を譲り受けた父親のところに帰って、「自分は父にも神にも大変な罪を犯しました。 もう息子と言われる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。」と言おうと決心する。 実家に戻って来ると、何と、遠くから父親が走り寄り、抱いて接吻する。 放蕩息子は、決心していた通り、「私はお父さんにも神さまにも大変な罪を犯しました。息子と言われる資格はありません。 雇い人の一人にして下さい。」と言う。 父親は、雇い人たちに、「この子に最高の服を着せ、指輪をはめ、そして、子羊を屠ってパーティだ。」と大喜びをする。 すると、事の成り行きを知った兄は、父に不平を言い出す。「わたしは父にいっさい背いた事はないのに子山羊の一匹だってくれたことはない。。。」 父は、「お前の弟は、死んでいたのに生き返って、帰ってきたんだ。 祝宴を開いて祝い喜ぶのは当たり前ではないか。」 と兄をなだめる。  さて、この譬え話、いったい誰を何にたとえているのだろう? とくに、キリストが十字架にかかる前の40日間を過ごしているわたしたち。 よく考えてほしい。 息子たちの父は神。二人の息子、放蕩息子と兄は、わたしたち人間。。。 ではこの譬え話の中で、イエス・キリストは、どこにおられるのだろう? 祝宴とは何だろう? 今日、与えられている聖書の話は、わたしたちの現実をたとえている。 また、放蕩息子が帰って来るところから祝宴が行われる話は、わたしたちが毎週、経験する聖日礼拝において起こっている。 毎週ラスベガスに行っているわけではないが、この放蕩息子のように、言ってみれば、意識する意識しないにかかわらず、私たちは失敗、過ちをおかしているのが現実。 例えばた、アメリカ時間の今夜、東日本大震災から2年目を迎えるが、大勢の方々が亡くなり、また、その後も大変な苦労をされている。家族を亡くした方の中には、未だに、「ああ、私がこうしていれば誰々は助かったのに。」と言って、自分が本当に過ちを犯したかのように思っている方々がいる。東日本大震災で亡くなった方は、2万人程だが、ほぼ同じ数の方々が毎日、飢餓のために亡くなっているという現実もある。多くの先進国では、むしろ食べ物を余らしているのに。 世界を構成するそれぞれの社会が、自分たちのことだけを考えて生活してしまっている現われでもある。   しかし、礼拝では、自分たちの神の思い通りではない生活をしている事を認め告白するため、私たちは、神の招きに与っている。その招きに応じるとき、礼拝堂に入るところから、実は、大変な神の歓迎が起こっている。 そして、神の歓迎への応答として、讃美歌も歌う。 もっとも兄のように、「わたしは父に背いたことも無い」と思って入って来られる方もおられるのは現実。 さらに、放蕩息子が告白したように、「わたしたちは、言葉と行いによって多くの罪をおかしました。」と言って、罪を告白する。  そして神は、赦してくださる。 そして、さあ、最高の服を着せ、最高の指輪をはめようとまで言ってくださる。 それは、礼拝の中で与えられる聖書の朗読や説教により、つまり神の最高の言葉によって、信仰の着物を着せてくださる事。 更にすごいことが起こる。 最高のことが起こる。 神は罪の赦しのためと言って、まったく罪のない、最高の純粋な子羊を、わたしたちに代わって、屠ってくださり、聖餐式という形で、子羊なるイエスの体と血、パンとぶどう酒をいただく、祝宴を行ってくださる。 そして、祝いと喜びの讃美歌を私たちは、歌う。 神の本当の赦しと恵みが、そこにあり、私たちを、力づけ、永遠の命を与え、そして、また新しく創造してくださり、新しい一週間へと送り出してくださる。  本当に、この聖日の礼拝に来ないのはもったいない。        “Simply A Waste Not To Come to Sunday Service” II Corinthian 5:16-21 and Luke 15:1-3 11-32 by Pr Hitoshi Adachi Grace and Peace to you in the name of our Lord and Savior. Please reflect upon your actions this past week. Did you make a mistake or fail to do something that you know you should have done? Think about not only this past week, but please reflect upon your entire life. Even though at first glance you may feel you’ve not done anything really wrong; if you gave it serious thought, could you say with confidence that you’re blameless in the eyes of God? Do you know a man named Jack Welch? He was CEO of General Electric between 1981 and 2001. He drastically changed GE’s corporate culture and acted contrary to the prevailing business wisdom. He eliminated bureaucracy, fired ineffective middle managers, and significantly increased GE’s profitability. Other Fortune 500 companies would later follow his “crazy” ideas. In 1999, Fortune Magazine named him “Manager of the 20th Century.” Even though Mr. Welch was an excellent manager and business leader; he admitted that 30-40% of his decisions were wrong. Mr. Welch was also the man who reduced payroll, sold off GE’s under-performing units and was often criticized for his brutal honesty. According to Japanese Wikipedia, he highly praised Mr. Eiji Mikawa, former president of Yokogawa Electric, because Mr. Mikawa championed corporate efficiency,…

Tweet “神の招待:私のところに来なさい” イザヤ 55:1-9, ルカ13:1-9 イエス・キリストの恵みと平安が豊かにありますように。  二つの質問をしたい:あなたをだれが教会に誘っただろうか? 親、配偶者、あるいは、友人? 次の質問は、だれかを教会に誘った経験はあるだろうか?  だれが誘ったにしても、あるいはだれかを誘ったにしても、どちらの場合も、神の誘い。 神を礼拝することに、神がだれをも招待している。 だれかを誘うということは、その方との、より意味のある深い関係を持ちたいという気持ちもおこるが、教会に誘うということの最大の目的は、より深い神との関係をその方が持つようになってもらう事。それぞれがより深い神との関係を持つとき、神を介して、その方とすばらしい関係を持つようになってくる。 今日与えられた旧約聖書の言葉から、神がどのように預言者イザヤを通して、人々を誘っているか考えてみたい。 お金があることこそ一番大切、お金がないから、もう自分はだめだと思ってしまうようなわたしたちに、お金がなくたって、もっと大切なことがあるよ、「私のところに来るがよい。」といって神は招いている。  あるいは、お金がある人々に対しても、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは自分の投資は間違っていないかどうか悩んだり、さらに何に投資をしようかと思っている人々にも、もっと大切なことがあるよ。。。「私のところに来なさい、魂の命を得なさい」と招待してくださっている。 お金があろうがなかろうが、資産を持っていようが持ってなかろうが、神はすべての人々を愛してくださっており、私たちは、神の創造された大切な人間。 そして、神は、一人一人を礼拝に来るように、そして、神の慈しみを得るようにと招いている。 イザヤは、神のとてつもなく高価な招待を述べ伝えるよう任命された神の預言者の一人で、彼の言葉は聖書に記された。  このようなイザヤの言葉を聞いたあと、今日は、イエスのたとえ話で、実のならないイチジクの木の話を聞いた。 いったいなぜこの話を聞いているのだろうか?今日のイザヤの言葉、神の招待とどんな関係があるのだろうか? 実を結ばないイチジクの木はなにを象徴しているのだろうか? いったい誰がイチジクの木の持ち主なのだろうか? いったい、園丁、つまり庭師は、だれなのだろうか?  イチジクの木はいったい誰だろうか?  私には、このたとえ話は、私たちに必要な悔い改めへの誘い、そして神の愛への誘いに思える。 このたとえ話は、すべて神についてのことであり、イチジクの持ち主は神、庭師はイエス・キリスト、そしてイチジクの木は、神の教会。 特に、現代にあって、このイチジクの木は、アメリカにあるすべてのメインラインプロテスタント教会ではないかと思う。  もうちょっと考えるなら、われわれルーテル教会のようなメインラインのプロテスタント教会に限らず、すべてのプロテスタント教会、カトリック教会、そして正教会も含めてよいと思う。 なぜなら、ごく一部のプロテスタント教会や、カトリックや正教会のある部分は伸びていても、多くのイチジクの木々は、実を結べずに、維持が難しくなっているので。 アメリカ全体で見るとき、誘惑に負け、神の存在から離れようとして、実を結べない神の教会の存在をそのまま放置してしまっているようなところがある。 しかし、神の慈しみと恵みにあって、希望がある。 園丁であるイエス・キリストは、イチジクの持ち主なる神に言う、「お願いだからもう一年待ってください。 もっと肥料、栄養をイチジクの木にあげてみますから。」 さて、私たちは、いったい何なのでしょう? この礼拝堂に集まっている私たちは? 私たちは、教会の一部。 私たちは、このイチジクの木の一部だ。  さて、イエス・キリストが何をなさるかご存知だろうか?イチジクの枝枝である私たちを愛するがゆえに何をなさるのか、ちょっと、ここで時間をとりたい。 とくに3週間後に、受難週というイエス・キリストが十字架に架かる週を迎えるときに、よく考えてみたい。 イエスはイチジクをとてつもなく愛しておられる。 私たちイチジクの木である私たちだけでなく、これからイチジクの木の一部になる人々も愛しておられる。  それゆえ、彼自身は、イチジクの木を救うためにイチジクの木の肥料、栄養になってしまわれる。 イエスはイチジクの木の中にいつも活き、栄養を与え、イチジクが花開き、実を結ぶようにしてくださる。 この礼拝の後半では、私は皆さんが喜んで、その栄養である、イエス・キリストの体と血をいただけることを宣言する。  しかし、そのパンとぶどう酒をいただく前に、按手を受けた牧師として、いま一度、イザヤの言葉に戻りたい。 イザヤは、「魂の命を得るために、私のところに来るが良い」という神の招待を伝えた一人の預言者だった。 しかし、21世紀にあって、お金では買えない、とても高価な、イエス・キリストの招待を、いったいだれが伝えるのだろうか? 現代にあって、預言者はいったいだれなのだろうか?  私の祈りは、すくなくともこの礼拝に出ているお一人お一人が、イエス・キリストの栄養をいただくことで、現代のイザヤの一人となり、イエス・キリストの高価な招待を、周りの人々に伝えるように祈る。 そして、イチジクが切られてしまうことなく、豊かな実を結べるように。  “God’s Invitation: Come to Me” Isaiah 55:1-9, Luke 13:1-9 Grace and Peace to you in the name of our Lord and Savior, Jesus Christ! I would like to ask you two questions. Who invited you to come to church? Was it your parents, your spouse, or your friend? I believe someone initially invited you to church. The next question is: have you ever invited someone to come to church? Whoever invited you to church or whomever you invited to church? Both situations, I strongly believe, are ultimately God’s invitation. As with all opportunities to worship, God invites everyone. Between you and whomever you invited to church, there might be a desire for you to have a more in-depth, meaningful relationship with that person, but ultimately the purpose of the invitation is for someone to have an in-depth loving relationship between that person and God. If a person has an in-depth, loving relationship with God; all other relationships are deepened and strengthened as well. Based on the words of Isaiah, which was read a short time ago, I would like to share with you how God invites people to come to church through the prophet. In this world, some people think the most important thing is money and if you do not have it, that it is the end of the story. There are people who have no money and feel the end…. However…

Tweet 「祈り:最高の神とのコミュニケーション」 ルカ13:31-35  神学校の学びがは始まって3年生になれるかどうか、大切な面接試験を控えている前日のことだった。 一年先輩の神学生と話していた。 親身になって、色々な話をしたあと、「じゃ、とにかく祈るから。」と言われ、その日は別れた。 面接試験は無事に終わり、とて上手くいった。 その後、たまたま、その先輩と食堂で一緒になった。 私が、祈ってくれてありがとうと言い、面接試験がうまくいったことを話はじめたときだった。 彼の顔がどんどん、血の気が引いていき、そして、彼が、「I am very sorry」と言い出した。 「祈ると云っていたのに、祈らなかった。」と正直に私に話して、本当にすまないと言い出した。  結果はとてもよかったのだから、そんなに謝らなくてもと思ったが、私は、そのとき、彼から、とても重要なことを学んだような気がしている。 「祈る」ということの大切さ、実に高価なことを学ばせてもらったと思っている。  わたしたちは、祈るという言葉はよく使うがその大切さをあまり認識していないように思う。「祈ることしかできない。」と言ったりする。 「このつたない祈り」だとか、「小さき祈りを捧げます。」なんていったりする。 たしかに、祈るしかないということはあるし、謙遜の意味をこめて、そのような言葉を言ったりすることもあることはわかる。 しかし、祈るということを、卑下するというか、謙遜すべきことなのだろうか。 実は、祈ることはとても素晴らしいこと。 イエス様も本当に祈ることを大切にされていた。  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書のなかでは、祈るという言葉が68回でてきていた。 祈っているのはだれかを調べると、その内38回は主語はイエス。また、残りの30 回の内、21 回は弟子たちが主語、というか、イエスが弟子たちに祈ることを勧めている。この数からわかるように、イエスは祈っておられるし、弟子たちにも繰り返し、祈ることを推奨している。 また、祈るという言葉は使われていないところでも、例えば、ヨハネ福音書の本文のなかでは、「祈」という言葉は、2回しかでてこない。 それは、パンとさかなに感謝して、祈るときだけ。 しかし、祈るという言葉は使われていなくても、明らかに17章に書かれていることは、イエスが神に祈っている。  また、今日の福音書箇所にしたって、イエスを十字架に追いやってしまう罪深い人々が、将来、「主の御名によって来られる方、主イエスに祝福があるように」と祈ることをイエスは願っておられる。 主イエス、神なるイエスという方は、人間の身になってご自分でも神に、一生懸命祈られたし、また、イエスを十字架の死に追いやってしまうすべての人間を赦し、赦される人々全体がイエスの名によって神に祈るようになることを、切望しておられる。 祈るということは、神との最高でかつ、唯一のコミュニケーション手段。  イエスは、教会は祈りの家といわれる。 そう、この礼拝堂は、祈りの場。この礼拝堂に入って、祈るということはすばらしいこと。 わたしたちの現実、とくに、神社や仏教に親しみがある日本人は、とても、その感覚がわかっている方々が多い。 ただし、祈るということは、教会の礼拝堂の中だけでしかできないということではない。聖書を読むことは、いまでは聖書が家にあれば家でもできる。 祈りも、家にいても祈ることができる。 それは神さまが、私たちの間にいてくださり、さらに私たちの中にもいてくださるから。 パウロによれば、私たちの体が、神殿でもある。  さらに、祈るということは、聖書がなくったって、また、電話やコンピュータがなくたって、なにかほかのことをしながらでも、「神さま、ありがとうございます。」「神様、お願いします。」「だれだれさんがすごく困ってますが、神さまの思い通りになりますように。」「神様、ごめんなさい。」などなどという祈りは、どこにいても、なにかをしながらでもできる。 たとえば車を運転しながらでもできる。 しかし、車を運転しながら祈る場合は、目をつぶらないでください。  メッセージの最初に、私のために祈るのを忘れてしまい、ものすごく謝ってくれた先輩がいた。しかし、私はたとえ、彼が祈らなくても、主イエスキリストが私のために祈ってくれたと信じる。かといって、私たちは、「あなたのために祈りますよ。」といってすぐに忘れてよいということではない。 しかし、たとえ、私たちが祈ることを忘れてしまう時があったとしても、イエスが本当に頻繁に祈ってくださっている。  今日の私の祈りは、私たちが、さらに、祈るという生活習慣をつけ、神とのコミュニケーションをとれるように。 イエスさまご自身も、頻繁に祈ってくださっているから。 Prayer: The Best Way to Communicate with God Luke 13: 31-35 Grace and Peace to you in the Name of the Father, the Son, and the Holy Spirit. Amen. When I was in the second year of my seminary education, there was one of the three important interviews to proceed with the steps to become an ordained pastor. This interview was especially important because unless a seminarian passes this interview, he or she is not given an internship opportunity. A senior seminarian and I were sitting together on the day before the interview. He gave me good suggestions to prepare for the interview and just before we departed, he said to me, “I will pray for you that all goes well for your interview tomorrow.” The next day, the interview went really well. Right after the interview, I happened to meet with the senior student. I said to him, “Thank you very much for your prayers.” Right after I thanked him, I noticed that his face changed completely…the color of his face became quite pale, and he started apologizing, saying “I am very sorry. Although I said I would pray, I forgot to pray.” Since the outcome of the interview was good, I thought that he did not have to apologize at all. Even though I thought there was no need to apologize to me, I think I learned a very important thing…

Tweet ご存知の方もいらっしゃると思いますが、昨年の6月この教会から5人の参加者がバルデイ山に登りました。私達は、6ヶ月前からそれに備えて月一回の訓練もを重ねました。当日はハイキング用の特別な靴を履き、充分な水と体力を保つためのスナックも備えました。     5人の中で私が1番のろまでした。私は高山病の恐れがあるので、1万フィートの高さは大きな障害になるだろうと解っていました。また私は肺の状態も少し問題があるので呼吸困難を招く心配もあり、このハイキングは私にとって大変な努力を課するチャンレンジでした。 山道は狭くて急な上り坂があり、またある所では40マイルの突風が吹いていたりしました。私の歩きはのろく、遅れがちでしたが仲間は励まし続けてくれました。私に向かって「あせらずに、必要ならばいつでも休むように」、又「大丈夫、ガンバレ、やれば出来る!」と励まし続けてくれました。山の頂上直前の最後の1/4 マイルは特に急坂で、私の肺も両足も疲労困憊状態で、正直言ってもう諦めたいと思いましたがどうにか頂上まで登り着きました。その時「ね、信じて頑張ればちゃんと達することができるじゃない」と友人が言いました。 その言葉こそ多くの私たちは人生を通して言い聞かせられる言葉です。もし私達が自分を信じているなら、自信をもって何事でも達成することが出来ます。 テニス選手のヴィーナス ウィリアムスは「勝利を獲得したいなら、自分を信じていなくては勝てない」ノーマン ヴィンセント パールは「自分に自信をもっていないなら絶対成功できないし、幸福にはなれない」と言っています。 私たちは皆「自信」を持って生きて行かなくてはいけません。でもそれだけで充分なのでしょうか?自分の意思と決心と勇気と忍耐だけで人生が決まるのでしょうか。そうだと言う人は大勢います。私はそうは思いません。なぜなら聖書の66の本の中で神様は私達に神を信じるようにと招いているからです。 私は以前からヨシュアの話が好きです。モーゼはエジプトから民を解放して40年間砂漠を彷徨いました。そしてようやく約束の地に達する目前にモーセは亡くなり、リーダーの役はヨシュアへとバトンタッチされました。彼は長年モーゼの助け人として仕えましたから、彼が謙虚で忠実な人物である事は立証済みですが、彼自身はヘブライ人を導けるかどうか、自信がありませんでした。しかし、何度も勇気を持って強く在れ、と自分に言い聞かせたに違いないと私は思います。彼は自分を信じるように、自信を持つようにと言われたのですが、一番大切な事は、神を信じるように、と言われた事なのです。そして神様は彼にこう言いました:「どこへ行こうとも、どのような問題に直面しようと、どんな困難な状況に出会おうとも、私はあなたと共にいる」。 ヨシュアは神様が常に側にいて下さる約束にどれ程励まされたことでしょうか。 話はもとに戻して、バルデイ山の頂上を目前に私はもう体力を使い果たしていました。山頂到着を達成したい思いは変わりませんでしたが、体力の方が維持できず、達成不可能だと思ったのです。 グループの中には最近高校を卒業してスポーツの奨学金でオレゴンの大学に入った女性がいました。ですから、勿論体力は充分に訓練されている事は予想できるでしょう。私が苦しんでいる場所に彼女は逆戻りして降りてきました。そして、私と一緒に頂上まで登るつもりだと言いました。何度私が休んでも、どんなに時間がかかっても、私と同時に頂上に達するのだと言いました。彼女は意を決して私の達成を見届けようとしたのです。 「神を信じる」と言うことはこれに似ているのではないかと私は思います?どんな厳しい道でも、楽しい時も辛い時も、神が常に一緒に歩いてくださると信じること。信仰とは神が「勇気を持って強くありなさい」と語りかける言葉を信じること。信仰とは私たちに最善を望まれる神の手に未完全な自分を委ねること。 果たしてヨシュアが自分はヘブライ人を約束の地に導いていく忍耐力と勇気があると信じたかどうか私は解りませんが、彼が実行できたのは、神の約束が有ったからこそできたのです。私達も同じだと思います。 私たち一人一人それぞれに登らなくてはならない山があり、道は細く、坂は急で、時にはもう諦めたくなるでしょう。自分には出来ないと思う事もあるでしょう。あまりに辛くて、諦めたほうがましだと思うでしょう。もしそう思う時があったらヘレン スタイナー ライスの言葉を思い出してはどうでしょうか:「どれほど山道は険しくても、神は一緒に登ってくださいます」。 神様の差し出す手を取り、一歩ずつ前に進みましょう。天の国を見あげ、必ず神様が頂上まで導いてくれる事を信じて行きましょう。 * ヴィーナス ウィリアムス:テニス プレイヤー * ノーマン ヴィンセント パール: 牧師、作家 * ヘレン スタイナー ライス:有名な宗教的詩人    民 Day 訳 “The Walk of Faith” Sermon for Feb. 17, 2013 Some of you know that last June five of us from church climbed Mt. Baldy. We had trained for that adventure for over six months by taking monthly hikes with each one a bit more challenging than the last. On the day of the climb we wore good hiking boots, carried plenty of water and snacks to keep us energized.Of the five I was the slow poke of the bunch. I suffer from altitude sickness and I knew that Mt. Baldy’s altitude of 10,000 feet would affect me. I also have a slight lung condition that makes breathing a bit more difficult when I exert myself. So, this hike was going to be strenuous and challenging. Some of the paths up the mountain were very narrow and steep and in certain sections the wind was blowing over 40 miles an hour. Even though I was walking very slowly and fell behind the others, my climbing companions kept encouraging me. They told me to take my time and to rest as often as I needed. Over and over they said: “You can do it…You can make it.” The final quarter mile to Mt. Baldy’s summit is especially challenging. It’s very steep and my both my legs and lungs were very tired and I must confess that there were times when I just wanted…

Tweet ルカ4:21-30 ラブレターをもらった経験はおありだろうか? もらった事がないという方、どうぞ心配しないで欲しい。 もらった事のある方、差出人との関係はどういう関係だっただろう? 自分はその人を好きなのかどうかよくわからなかったという経験をお持ちの方がいると思う。また、そのラブレターはどんなことが書かれていただろうか? 「私はあなたを好きです。 愛してます。」みたいな、手紙をもらった経験をされたかもしれない。あるいは、ところどころ意味がよくわからないようなラブレターをもらった経験のある方もいると思う。 さて、私は、聖書を一言でいうなら、神からのラブレターと申し上げたい。 わたしたちと、その差出人である神との関係は、どういう関係なのだろう? また、聖書は、どんなラブレターなんだろうか?  今日与えられていた福音書箇所だけを読むなら、いきなり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」とある。  「この聖書の言葉」って何なのだろうか。 実は、もう少し前のほうから読まないとわからないが、イエスは、少年時代に慣れ親しんでいた会堂に来て、席を立ち会堂前方に向かい、イザヤ書から次のような言葉を読まれる:・「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。  主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」 そして、席に戻ったが、さらに、イエスから次のようなインパクトのある言葉が発せられる。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」 その場にいた人々の中には、すごいと感じた方もいれば、イエスの子供のころを知る人々の中に、「何を言ってんだ?大工の息子が?」といって、イエスの言わんとすることを理解しないものもいた。  さて、2400年程前のイザヤ書の言葉と2000年前のイエスの言葉を今、聞かれて、あなたはどう思われるだろうか? 「圧迫されている人々に解放される」なんて実現していないと思われるだろうか。 なぜなら、この世の中、実に多く方々が、貧困の中にいて、貧しい現実がある。 また、世の中の動向がわからず、先が見えない。 圧迫感を感じている人々が多い。2400年間ずっと同じだ。  イエスの言葉を今日聞いているわたしたち、イエスがおっしゃりたいことは、「世の圧迫されている人々」、つまり第三者を問題にしているのだろか?  今日の聖書の箇所、最後のイエスの言葉を今一度、よく読みたい。 「あなたが耳にした時、実現した」とある。 そう、まず、あなた方、一人一人が、まず、この聖書の言葉を聞いたとき、圧迫や束縛から解放されるという現実が起こっている。 それは、イエスの言葉を聴いているここにおられるお一人お一人のこと。 その言葉というのは、私の言葉ではなく、イエスの言葉が今ここで語られている。  イエスは当時のユダヤ教の会堂の聖壇に現われただけではなく、今、礼拝という時間を持ち、そこに、イエス・キリストというお方が、この礼拝堂のスペースにいてくださり、そして、あなた自身の心のスペースにも、イエスの言葉、愛が入ってきている。  聖書には、出エジプト記25章には、神はモーセとその民に幕屋を建設して、そのなかに聖所を作るように言われ、さらにそこに、私は住むと言われている。 今日読んだエレミアでは、エレミアの口の中に、神が私の言葉を入れると書いてある。 また、新約聖書になると、第一コリントでは、3章や6章に、「あなたがたの体が神の神殿である」とのことが書かれています。   神と一体なるイエス・キリストというお方は、一人一人の創り主なるお方で、たとえ神を嫌ってイエスを殺してしまうような人間でも、愛しておられる。 だれひとりとして、「私はだれに愛されることもなく、世の中の役に立たない人間だ」ということはなく、イエス・キリストの愛はそこに来ている。   聖書は、66の書物からなっていて、それは、そのひとつひとつを読んで、特に旧約聖書のあるところだけに集中してしまうと、これは律法の書だとか、いや、人間の戦争の歴史だ、などという話になってしまう。 しかし、聖書全体のストーリとしては、神が一貫して、私たち人間ひとりひとりを、いかに大切にして、神が情熱的にわれわれを、さらに被創造物を愛しておられるかが書かれている書物。 通常、ラブレターを読むとき、この言葉おかしいとか、字が間違っている、ということを問題にするのではなく、主旨である差出した人の愛を読むものだと思う。   聖書を読むときも、神さま、イエスさまが、わたしたちを愛してくださっていて、私たちの間に、さらに私たちの心の中に言葉が入ってきて、私たちを喜びで満たしてくださる。 お一人お一人がそのような聖書の読み方をされるように祈る。    Message for Japanese Language Service Sunday, Feb. 3, 2013 “Love Letter from God” Luke 4:21-30 Pr. Hitoshi Adachi When You Read a Love Letter There are different interpretations of the Bible. Some people say it is a book of history, or a book of laws, or a book of war, or a book about the future. Some people, even, say it is a book about science! Reading certain portions of the Bible, you can interpret the Bible in many ways and I do not think those different interpretations are necessarily wrong. However, today, I would like to focus on one interpretation of the Bible, when read in its totality, as a “Love Letter from God” Have you ever read a love letter from someone? What was the relationship between you and the person who sent you the letter? What kind of love letter was it? I mean, was it a simple “I LOVE YOU.” Or was it a long one and you didn’t quite grasp its depth the first time you read it…. I said that the Bible is “Love Letter from God,” I would like to raise two questions: The first question is what is the relationship between you and God? (Is it a one-sided relationship or a mutual relationship? Does God love each one of you without question?) The second question is: What kind of love letter is it? In answering the first question,…

Tweet コへレトの言葉3章1節―17節 「何事にも時がある」 “There is a Right Time for Everything” 私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 浅野先生というルーテル市ヶ谷教会の牧師さんが今年の年頭のエッセイを「突き刺さる時間」という題で書いているを読みまして、時間というものはなんであるか、考えることがありました。 最初に時間とはどこで生まれたのでしょうと先生は質問しています。私たちは時間に追われて生活をしているのですが、時間とは誰が考え出したのでしようか?勿論私たちの生活は時間を気にして動き回っているのですが、物理学者はそもそも、時間などと言うものは存在しないと言うのです。私は以前に日本人ほど時間を気にする民族はいないと書かれた文章を読んだことがあります。新幹線は朝6時から7時までに毎日5分おきに東京から大阪のに出発します。それも十両編成です。日本の新幹線ほど正確に時間通りに動くものはないと言われています。私は思うのですが、日本人は誰でも家を出る前に時計をはめて、夜、時計を外して床に入るまで、腕時計とにらめっこして生活しているのではないでしょうか? 今日の旧約聖書はコへレトの言葉です。皆さんがもう何回も聞いたことがある言葉はコへレトの言葉3章1章の「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。それは生まれた時、死ぬ時、植える時、また植えたものを抜く時である、コへレトはすべて定められた時があると断言するのです。 しかしコへレトの言う時間は神様の定めた時間であって、私たち一人一人が作り出すものではないのです。私たちの人生はそういう意味で、神様からいただいた、あるいは預かった時と言っても良いでしょう。 私がこの復活ルーテル教会の日語部の礼拝に始めて来たのは1989年の夏の終わりでした。その年の春、ELCAのシカゴ本部よりPacifica Synod とSoutheran California West synod よりMission Director としての招聘を受け、ダラス・テキサスから家族とともにコロナに引っ越ししたのです。その時、娘のKatie は、まだ4歳、息子のAndrew は生まれて3か月目でした。コロナはリバーサイドの隣町ですから、私とNancy にとっては人生の中で一番長い間暮らしているところです。今もう24年この土地に住んで来たわけです。子供たちもここSouthern California が自分たちの故郷なのです。 さて時を遡のぼり、1948年、第二次世界大戦が終わり、日本がまだ戦争の恐ろしさから立ち上がらなければと少しずつ再建の夢を抱き始めた時の様子を思い出してください。この年にアメリカの特に、Protestant の教会の団体が、日本にイエス・キリストによる救いの希望を与えようと、多くの宣教師を送り始めたのです。 その一つの教会の団体はEvangelical Lutheran Church という北欧系のアメリカ人の教会で、特にNorway からの移民たちが多い教会でした。Evangelical Lutheran Church は戦争が終わったが、まだ暗闇の中で何も希望のない日本に伝道調査団を送り込んだのです。その主事にあたったのが、Dr. Olaf Hansen という宣教師で、その人により東京の巣鴨という山手線の近くに、倉のあった大きな家と土地を買い取り、アメリカから宣教師とその家族の住めるアパートを建てたのです。 同じころ、私の両親はお見合いをし、結婚をすることを決めていたのです。又、父も母もすでに洗礼は受けていましたから、結婚式はぜひ教会でしたいと考えていたのです。そんな時、父は先に述べた宣教師のOlaf Hansenさんと川島亀三郎という英語のできたルーテル教会の牧師さんに出会い、ぜひ私たちの教会にいらしてくださいと勧められ、自宅から歩いて3分のところでしたので、これは好都合と、この小石川ルーテル教会の初めの会員になりました。その時それは1950年のイースターの日でした。その年の11月に両親は小石川教会で第1号の結婚式を挙げ、母は、着物と角隠し、短刀を帯に隠してという面白い日本式の結婚式を見に多くのルーテル教会の宣教師達が来られたと聞いています。5年ほど前、トーレンスのFirst Lutheran Church で宣教師として働いていた山本裕先生はその時神学生で小石川教会に来ていましたので、父と母の結婚式に出席していたのです。そう云う訳で、私は赤ちゃんの時から両親に連れられて教会に行き、日曜学校にも教会礼拝にも何の違和感を持たずに出席していました。又、教会での遊び相手も宣教師の子供たちでしたので、そのころからアメリカに行ってみたいと思っていたのです。父は、早稲田大学の土木課を卒業後、人事院に勤めていましたが、役所の仕事が自分の好みではないと早く悟り、大学時代の先輩のお父さんが始めたダイヤモンド経済雑誌社に入社、そこで父は多くの会社史の編集の担当をしたのですが、大学時代、それは戦争の時期で英語を習うことができなかったことをいつも残捻と思い続けていたのです。ですから私がアメリカの高校にExchange student として一年行きたいといった時、是非行きなさいと言ってくれたのです。そして立教大学を卒業する前にアメリカで神学校に行きたいと言った時も母は悲しそうな顔をしていましたが、父は、自分のやりたいことをやるのが一番と賛成してくれたのです。そういうわけで、私は娘にも息子にも、自分のやりたいことをしなさいといつも言っています。 皆さんの中で、岸野先生、また同じことを言っていると思われている方もいるでしょう。しかし、今年、私の34年目になる牧師としての働きは、いつも神様からのここに行きなさい、あそこで伝道をしなさいとのガイドがあったのです。 一番最初の招聘はAssistant Pastor としてPhiladelphiaの歴史の古い教会でした。多くのお年寄りの会員を訪ねることと、Youth Ministry を尋ねることが私の主な仕事でした。 このZion Lutheran Church はほとんどがblue collarの教会でしたが、何もまだよく知らない私の手を取り、足を取り助けてくれたのです。 続いて2回目の招聘は1983年にDallas郊外 のPlano というところで、設立してからまだ間もない、テキサスの中で伸びていた教会の副牧師のポジションでした。この教会で、私の役目は新しく教会を訪ねてきた人たち、又、新しく引っ越ししてきた人たちに教会の案内状を持って訪ねることでした。 又60人のHigh school student のConfirmation の担当をまかされました。Plano でのministry の3年目にTexas 州での伝道主事、Mission Director から新しい教会を始める仕事をする気があるかと聞かれ、しばらく家内と考えた末、これも神様からのCalling 、招聘ではないかとそのチャレンジを受け取りました。6,000件もの新しい住宅が建つという今まで草原であったGrand Prairie というところで毎日毎日door knocking をして少しずつ新しい教会に興味を示した人たちを家に招き、その輪を大きくしていったのです。これは自分でも信じられないことですが、door knocking を初めて4か月目にShopping center の一部を借りて礼拝をする機会を与えられました。それから1年後にOur Redeemer Lutheran Churchが創立されたのです。 私はこの教会を出ようとは考えてもみなかったのでが、1989年の春、Chicago のELCAの国内伝道局より南カリフォルニアでのMission Director としての招聘を受けたのです。その最初のコンタクトはこのLCRの日本語部の伝道を支えていく仕事、また多くの新しい教会を築くMission developer である牧師さんたちの教会設立の仕事のアドバイザーとして働きました。1995年から1998年はInterim minister としてClaremont とWhittier の教会で働き、2010年からLCRの日本語部担当の牧師として今日まで来たわけです。 今、これらすべての伝道の仕事を振り返ってみる時、私は神様の導きの中に生きてきたとの強い確信があります。 しかし、神様とともに生きるとは何時も私たちの人生、仕事が旨くゆく、成功するということではありません。その反対に、失敗したことがたくさんありました。自分が如何に惨めな者であるかを知らされた時も沢山ありました。皆さんもご存知のように、私は自分が惨めな時は無口になり、いつもの活気もなくなります。そのことを気づいていた方もいらっしゃるでしょう。しかし自分では私は本当はみんなの中で、楽しく物事をやりたい、悲しみに沈んでいるいる人と共に泣き、ともに重荷を負いたい。お互いが、お互いの思いを心の底から語り合い、許しあい、受け入れあい、泣きあい、祈りあう、そのような場を、神様から与えられたのです。それは、皆さんにとっても人間として最高の時と場であると信じます。 今日がLCR 日本語部の私にとって 最後の日と考えると寂しい気持ちになりますが、実際には祈りの中で共にいることを覚えてください。そして、もう一つお願いがあります。この教会のリーダーをいつも一人一人の名を指して祈ってください。日本語部でいつも、一生懸命お世話してくださっている、芙美さん、祥子さん、この教会の日本語部のwebの管理をしている愛子さん、礼拝の中で受け付け、司式、お祈りを担当する皆さん、誕生日のケーキを作ってくださる民さん、オルガニストであり聖歌隊のリーダーであるさと子さん、そして、カール先生、又、これからの日本語伝道の主事となる安達牧師を皆さんの祈りに覚えてください、支えてください。牧師は信徒のために祈りますが、同じように牧師も信徒さんからの祈りと励ましが必要です。 明日から私は1週間にわたり、日本に行ってきます。今では電話にも出られなくなり、転んでばかりいる母を訪ねます。意志疎通が難しくなった母にとって息子のゆうちゃんは一年に1回しか私を訪ねてくれないと思っていた時もあったでしょう。ルーテル老人ホームに入ったときはお父さんも一緒にいたのに、今は一人ぼっちで寂しいと思っているかもしれない。もっと親孝行をしたかったと思うのですが、母は何時もイエス様に対して子供のような信仰を持っていました。母がよく私がまだ幼い時に歌ってくれた讃美歌は、「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ、わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す。」。さようならを言うのは、もの悲しいことですが、同じイエス様を信じる私たちは信仰によって繋がれています。ただ会員が多くなることが教会の目的ではありませんが、一人でも多くの人が、主イエス・キリストからの恵みの愛を受け、その愛をお互いの生活の中で実行することができるよう祈りに覚えます。 最後にもう一度、コへレトの言葉に戻ります。神は「永遠を思う心を人に与えられる。しかし神の時間は時計では測れません。どの様な人生も神様の時間の中で与えられてきたのです。初めから終わりまでの私たちに託された時間の中で、お互いにお互いの思いを打ち明けることができるように、そしてそこに神様も皆さんと共にいてくださることを覚えてください。 私たちは神様に生かされているのです。イエス様を信じる者は幸いなりとは信仰を持つことです。どうか、この神様の愛が皆さん一人一人のうえにありますよう祈ります。アーメン。 どうか、私のこれから始めるinterim ministry を皆さんの祈りに覚えてください。人知では測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守られるように祈ります。アーメン。 There Is A Time For Everything  「何事にも時がある」 Ecclesiastes 3:1-17 May God the Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace. Amen. Recently, I read the article written by the Rev. Asano, the pastor of the Ichigaya Lutheran Church of the Japan Evangelical Lutheran Church (JELC). He was asking the reader, “What is time”? He is asking, “What is time”? And where does time come from? Who invented the notion of time? I have never thought about this but according to the physicists, there is no such thing as time. It’s the invention of humans by observing the universe. I still don’t understand this, but I do know that our lives are organized by our watches and clocks and these things give us a sense of time, time limits, and the sense of short and long periods of time. I recently read the article that stated that there are no…

Tweet コリントの使徒への第一の手紙2章1-11節 「あなたに与えられたギフト(賜物)」 “Spiritual Gift Given to You” 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。 皆さんの中で英語のCharisma 、あるいはCharismaticという言葉を聞いたことがあるという人がいらっしゃると思います。それは日本語に訳すと「その人に特殊な人格」あるいは「その人の持っている人を引き付ける力」ということです。Charisma はまた英語ではGift とも訳することもできます。 若くして大統領になった、John F. Kennedy はその人柄、そして彼の演説に人を引き付ける力があったとも言われていました。私たちも過去20年の間に大統領となった Ronald Reagan, またBill Clinton も人を引き付ける力があったのを知っています。 テレビ、映画の中でも人を引き付けるようなギフトを持った俳優さんもいます。私たちの教会の仲間の中でもお花、料理、お茶、俳句、お習字などの先生もいます。これらのギフトの持ち主は、その才能を私たちの造り主である神様からいただいていると言っても過言ではないでしょう。 今日の使徒書、コリントの信徒への手紙の12章に、私たちクリスチャンの持つギフトについて書かれています。それは優れた知恵を持っている者、信仰を持っている者、癒すことのできる者、奇跡を行うことのできる能力のある者、預言を語ることができる者、そして、異言を話すことができる者と多くの賜物を持っている人たちがいるのです。又このほかにも経営,運営する能力のある人たち、財産を多く困っている人たちに分かち合えることのできる人たちもいるのです。又私たちにとってこれはよくわからないものですが、異言を語ることができるというギフトを持つ者もいるのです。 この他にも、教えること、困っている人を助ける才能を持っている人もいるのです。これらの賜物はすべて神様から私たちに与えられているのです。私たちの持つ才能、知識、他人を助けることのできる思いもすべて、私たちは神様からいただいているのです。私たち一人一人が持っているギフトを私たちクリスチャンはこれを神様、イエス様から、これはあなただからこそできる才能、その才能をギフトとしてお互いの生活の中で、分かち合いなさいと教えられているのです。 ところで皆さんの家族、友達の中で、私はCharismatic Church に行ってますという人もいると思います。このCharismatic Church は今世界中に広まっているクリスチャンの心に神様を感じた時には震える、踊りだす、異言を語る人たちの多い教会です。 私たちの教会の礼拝の内容に親しんでいる私たちの教会の礼拝中に異言を語られる人が一人でもいたら「私は居心地がよくない」と言われるかもしれませんが、キリスト教の歴史の中で異言を語る才能のある人たちの集まった教会はいつもあったと言われています。 ところで、皆さんは自分の持つSpiritual Giftは何であるか知ってますか? それは私たち一人一人違うのですが、そのギフトを持っていない人は一人もいません。誰がどんなギフトを持っているのかは、友達とか、家族の人から言われて、「ああ、そうなのか、そう云われれば、私はいつも私たちの信仰の友を毎日祈りにおぼえて、感謝していますという、素晴らしいイエス様の弟子たちも、私たちの中に何人もいるはずです。 しかし私には何もそのようなギフトがないという方もいられるとおもいます。その人達は自分のギフトが何であるかなど考えてみたこともなかったからです。 私は33年にわたる牧師の仕事の中で、訪問をすることが自分のSpiritual Giftであるとわきまえています。それは病院、老人ホーム、テキサスにいた時は,監獄にも定期的に教会員に、この人を訪ねてくださいという機会を与えられました。 日本語礼拝の中に小さな子がいないので、Chirldren sermon の機会があまりなかったのは寂しかったのですが、私にとって、一番神様の愛を素直に心に感じていた3,4歳の子供たちが聖餐式にお父さん、お母さんと共にイエス様の体であるパンと、血であるグレープジュースをいただけるように聖餐式を全ての人にオープンしたことは大きな喜びでした。 子供はConfirmation の教育を受けたのちの13歳ほどで初めてCommunion を受けることができるという習慣を、イエス様のギフトである聖餐に、だれでも、そこでイエス様と出会うのですよと子供と両親は一緒にイエス様を聖餐という形で受けてくださいという形に変えたのです。 今でもこれは昨日のようの覚えています。お父さんとお母さんに連れられてきた3歳の女の子と5歳の男の子が、聖餐を受けに前に出てきました。両手をこのように掲げ、イエス様の体であるパンをいただき、また小さなカップに注がれたグレープジュースをぐっと飲んで、今度はお父さんとお母さんに、「イエス様のパンとジュースたべちゃった」と。 私は思わず、涙が出てくるのを感じました。15歳になってからやっと聖餐式にあずかれるのではなく、神様はもっと進んでご自身を幼子までに現すのです。 イエス様はイエス様のほうから私たちの方にご自身の愛を示してくださったのです。そしてイエス様の愛は私たちを永遠に神様の子供として注がれるのです。それが、人生の最高のギフトなのです。アーメン。 1 Corinthians 12:3-11 “Spiritual Gifts Given To You”Pastor Yutaka Kishino May God the Father and the Lord Jesus Christ give you grace and peace. Amen. Have you ever heard the word “Charisma?” or “Charismatic”? In the United States many great presidents were told they had wonderful “Charisma” or in plain English it means a “Gift”. I remember President Kennedy had a youthful charisma and many people were attracted to this young politician when he ran for the office of President. In recent history President Reagan and President Clinton had what is called a communication charisma. I also believe TV personalities such as Barbara Walters, Walter Cronkite, and Oprah Winfrey display a great deal of charisma and the Gift of communication and sincerity. The words “Charisma” and “Charismatic” are often attached to the TV personalities, but everyone here has the gift of charisma and communication that has been given to you by God. Most people can say that “I have the gift of cooking”, or “painting” or “flower arrangement”. Musical talent gifts are also found among many of the people in this congregation. The word “charisma” really means gift as I mentioned already. And today’s second lesson from the Bible, first Corinthians chapter 12 mentions many other kinds of gifts. They are…

Tweet 主の洗礼日    ルカによる福音書3章15-17、21-22節 「洗礼を受けるとはどういう事ですか?」 私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安があなた方の上にありますように。アーメン。 これは今から25年ほど前、テキサス州のGrand Prairie という所で新しいルーテル教会の伝道牧師として働いていた時、毎週 色々な宗派の牧師さんたちとBible study をしていた時の話です。そこに集まった牧師さんは、バプテスト、メソジスト、エピスコパル、カトリック、そして、聖霊派の牧師さんたちでした。 その日のトピックスは洗礼についてで、お互いの教会がどのように洗礼式をあげるかが話されました。最初にバプテストの牧師さんは、カトリック、ルーテル、聖公会、メソジスト教会でどうして子供が洗礼を受けることができるのかと質問したのです。彼の理解では洗礼を受けるのは物事をわきまえることのできる15歳以上でなければいけないというのです。洗礼は自分の意志で受けることを決めるのであって、赤ちゃん、小さい子供はそれができないから、teenagerになるまで洗礼を受けさせてはいけないというのです。又聖霊派の牧師さんもそれに合わせ、赤ちゃんはまだ神様のことがわからないので、洗礼は聖書を読めるようになるまで待たなければならないと言いはじめたのです。 皆さんの中にもBaptist 教会、或いは聖霊派、Holiness church で洗礼を受けた人があると思います。自分で神様のことがわからないのは赤ちゃんだけですか?赤ちゃんだってお父さん、お母さんの愛を感じているはずです。神様の愛はどの様なものであるか、はっきり私たちがわからなくても、神様、イエス様に愛されている、また、お母さん、お父さんに愛されているという思いは小さい時から感じていたはずです。洗礼式の主人公は神様であるイエス様です。私たちは幼子も含め神様の子供であるがゆえに洗礼式によりそれを確かめるのです。 ところで、皆さんがどの様に洗礼を受けられたか憶えていますか?私は生まれて3か月後の4月12日に小児洗礼を受けました。勿論そのことは何も覚えていませんが、旧約聖書の「コへレト言葉」と言うところに「あなたの造り主を覚えよ。年が寄って、私には何の楽しみがないと、言うようにならない前に」と語っています。 人を創造された方に出会わない限り、人に生きる意味も目的も、全く理解ができないのです。洗礼を受け、私は神様の子供である確信ができるものは幸福です。又神様が、私たちの信仰の父であることを認める時、私たちの短い人生も神様によって生かされている、それは私たちの信仰の仲間と共に、私たちの送る人生に大きな喜びが生まれてくるのです。 さて私は洗礼は神様のギフトであるということができますが、洗礼を受けたことがないとは神様の恵みにあずかれないという意味ではありません。この世に生まれてきた全ての私たちは、神様に愛されるために生まれてきたのです。神様に愛されるとは神様の子供となることです。神様の子供である私たちが人生の中で実行しなければならないことはお互いを愛することです。お互いを大切にすることです。 さて皆さんの中「たまりの」という双子の姉妹が歌った「君は愛されるために生まれた」という歌をおぼえている方がいると思います。皆さんから「岸野先生又歌いだすのですか」と言われてしまうかもしれませんが、そのとおりです。しかし今回は皆さんとアカペラで歌ってみたいのです。歌の歌詞は週報の中に織り込んであります。 君は愛されるために生まれた。君の生涯は愛で満ちている。 君は愛されるために生まれた。君の生涯は愛に満ちている。 永遠の神の愛、我らの出会いの中で実を結ぶ。 君の存在が私には、どれほど大きな喜びでしょう。 君は愛されるために生まれた。今もその愛、受けている。 新約聖書の使徒書の多くを書いた聖パウロは私たちは罪の奴隷で足枷をはめられているものですが、洗礼により私たちの罪が取り除かれたと教えています。又洗礼により私たちは神様の子供となるのです子供のいないカップルが4歳になる女の子を養子として受け入れました。この子の母親はこの父親がいったい誰だかわかりません。其れにもう一人の娘を抱えて精一杯の生活です。4歳の娘は誰からも愛された記憶がありませんでしたが、養子として受け入れてくれたお父さんとお母さんは最善を尽くしてこの子を自分たちの娘として育てたのです。同じように、どんな状況の中に生まれた私たちも洗礼により神様の大切な子供となったのです。この洗礼により、神様の息子、娘となるのです。 ルーテル教会を起こしたMartin Luther は私たちが悲しみに駆られる時、心が重い時、「私はイエス様に愛されている、洗礼を受けている息子、娘と呼ばれる者であると自分に言い聞かせなさい」と教えたと聞いています。 同じイエス様とイエス様の聖霊が私たちの生涯を愛で満ちているものと見守ってくださっているのです。 アーメン。 The Baptism of Our Lord” Communion Sunday January 13th 2013 Luke 3:15-17, 21-22 Tell me what does it mean to be baptized?” May God the Father and the Lord Jesus Christ give you Grace and Peace. Amen. At the local ecumenical pastor’s meeting they were talking what it means to be baptized and how to baptize people. A Methodist pastor and a Baptist pastor got into some heated discussion. The Methodist pastor asked if a parson was baptized in the pool, how deep the person should go down to the water. “Up to his chin?” The Baptist pastor said, “No!” The Methodist pastor then asked if one was considered baptized if immersed up to his nose. Again the Baptist pastor’s answer was “NO!” “Well, if you immerse him up to his eye brows, do you consider him baptized?” asked the Methodist pastor once again. For that Baptist pastor said, “You don’t seem to understand. He must be immersed completely in water until his head is covered.” The Methodist pastor replied, “That’s what I’ve been trying to tell you all along. It’s only a little water on the top of the head that counts.” Jesus did not tell us how much water to use or how it must be applied. If you did not know, the hundreds of pastors has been writing dissertations on how to baptize…

Tweet イザヤ書60章:1-6節 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方にあるように。  アーメン 私たちの中で、この季節は夜が長くて昼が短いと、少しもの悲しいと思う方がいるはずです。では、皆さんにバローというアラスカの一番北端にある町に行ったと想像してください。この町はアメリカの最北端にある町で、人口は4257人、そのほとんどが、エスキモーです。一年の平均温度はー19度C, 平均風速は34kmです。 ところで、このバローで最後に太陽が見えるのは11月の18日で、次に太陽が見えるのは1月の24日です。その間65日は暗闇の世界です。ですから毎年最初に太陽が顔を出す日は町の全ての人が、ご来光を見るために集まり、盛大なパーティが行われるのです。 私は今日の福音書の記事はまさに預言者イザヤが、アラスカのバローの人たちに話しているような気がするのです。もう一度イザヤ書の60章1節から2節を読んで見ましょう。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光はのぼり、主の栄光はあなたの上に輝く」。 しかし、神様の語られた光と闇は私たちの日常の生活の中で経験するようなものではなく、荒れ模様の暗闇の空から輝く刀が暗黒の世界を切り倒してしまうような光です。 今日は顕現節の初めの日曜日です。皆さんは顕現節という言葉を毎年聞いているのですが、それはどういう意味か御存じでしょうか? 顕現とは何かが本体を表すという意味です。ですから、アラスカのバローで暗黒の日々が65日続いた後に太陽がそこで待っていた人たちに出てくるその姿です。 今日から二か月に渡り、私たちは、この顕現節に、神様が、私たちに救い主としてのイエス様として現れたことを知るのです。 皆さんがご存知のように、この世界はいまだ多くの暗い力に囲まれています。アメリカと同盟している国から送られた兵隊たちがもう10年近くアフガニスタン、パキスタン、イラク、の国々で平和維持を保つよう警備にあたっているのですが、いまだそこに住む住民にとって権力争いが続いているのが実情です。そこに住む多くの人たちは戦いのない時を願っているのです。私たちはシリヤの国での内戦ですでに6万人もの犠牲者が出たことも知っています。サリンのような毒ガスを持っている軍隊が、それを使ったら、それこそヒットラーのユダヤ人殺害と同じようなことになってしまいます。 また最近悲しい事件がコネチカット州のNewtown という町で2週間ほど前に起ったのを皆さん覚えているはずです。一人の青年が、ピストル、機関銃を持ってSandy Hook Elementary School に入って来て20人の生徒と6人の先生を射殺したのです。なぜ無邪気な子供たち、またその子供たちをかばうように、自分の命を落とした先生たち。 神様は、この世界を創造された時、何故このような暗い出来事で人の命を取るようなことを、あなたのイメージで作られた私たちの内に悪魔のような思いを持つことができるような人を作られたのでしょうか?まさに暗闇は私たちを悪魔の味方にするかのように様子を見ているのですか?しかし、私たちはあなたに出会い、あなたの愛をいただきました。其れこそあなたの愛は私たちにとって、冬の寒い中で与えられた暖かい神様のギフトです。イエス様が私たちの心に住むことによって私たちは、神様の御心、それはお互いを大切にしようとの思いが育つのです。 私たち、イエス様に従うものにとって、どんなにこの世の中で、暗いことが起ころうと、私たちはイエス様の光と愛は私たちを照らし、その光は消えることがないということです。 さて今日の説教の最後に、もう一度、バロー、アラスカの人たちのところに帰ってみましょう。そこに今、太陽の光は見出せませんが、5月の10日には地球は反対に傾き、その時から、8月の2日まで太陽が24時間輝くようになるのです。同じことは、私たちの心の奥深くにある魂についても同じく言うことができるのです。イエス様の恵みと 憐れみを私たちの心に持つことができる私たちは、私たち自身が神様の光を放つことができるようになるのです。どんなに暗い思いに駆られる時、あなたに対してのイエス様の光は消えることがないことを覚えていてください。 もう一度イザヤ書聞いてください。60節、1節と2節を聞いてください。 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は登り、主の栄光はあなたの上に輝く」。アーメン。 Day of Epiphany (From Darkness to Light) May God the Father and the Lord Jesus Christi give you grace and peace. Amen. Many people complain about how dark it is this time of the year. But imagine living in the little town called Barrow, Alaska. It is located on the farthest northern tip of the state of Alaska, above the Arctic Circle. If you think it’s dark in the morning this time of the year, you have not seen anything. In Barrow Alaska, Sun sets in the afternoon on November 18th, and it doesn’t rise again until January 24th. Can you imagine the total darkness for 65 days? But the sun does rise for a moment on January 24th, the whole town comes out to celebrate, because finally, there is light again. It seems that the prophet Isaiah was speaking to the people of Barrow, Alaska, when he writes in verse one of our Old Testament lesson for this morning; “Arise, shine, for your light has come!” What God’s word talks about there is a different kind of light, and a different kind of darkness. And when this special light that God speak about begins to shine though that ugly darkness, the results are much more spectacular and joyful than anything you could experience in northern Alaska. Today is the first day of the official beginning of the Epiphany season of the…

Tweet “He’s Already Twelve?” 「もう12才?」 ルカによる福音書2:41-52 私の孫達が幼い時、彼らは完璧でした。悪い所等何処にもなく、目に入れても痛くない程可愛い、私に喜びを与えてくれる存在でした。ところが、気になる変化が起こり出したのです。孫たちに「独立心」が芽生え出し、おとなしくひざに座っていてはくれず、立って歩き出し、何にでも手を出し始めたのです。割れ易い貴重な飾り物をおもちゃにしたり、鍋やフライパンを叩いてさわいだり、そして「NO (イヤ)!」と言うことを覚えました。食べ物の好き嫌いが激しくなり、また嫌がらせを面白がって頻繁にするようになりました。私の二人の可愛い孫達は何故変ってしまったのでしょう?そして12才になると、今までに増してもっとひどくなりました。以前のように私に甘えて抱っこすることもなくなり、むしろ私の事を現代から取り残された、ジョナスブラザースもジャステインビーバーが誰であるかも知らない、渋顔の禿げ頭の爺さんとしか見ないようになってしまったのです。たった12年の短い間にこれほどの変化が起こるとは全く驚かないではいられません。 今日はクリスマスの数日後ですが、聖書には子供のイエスの話が出てきます。もう12歳の彼は、エルサレムで生まれた赤ん坊ではなく、思春期の青年です。きっと彼も親を悩ませたことでしょう。 皆様もこのお話をご存知でしょう、彼らの習慣で、マリア様とジョセフは過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに行きました。過ぎ越し祭は大切な風習の一つで毎年首都のエルサレムで行われ、男性は必ず参加するべきことに決まっています。女性は特に参加する事を強いられてはいないにも拘らず、マリア様も参加したという事から見ても、この家族の信仰がいかに深いかが理解できます。祭りがすんだ後、マリアとジョセフはナザレへと帰途につきました。でもイエスが同行していないことに気が付くと『多分どこかのマクドナルドにでもよっているのではないか?』『遊園地にでも行って遊んでいるのではないか?』と大急ぎでエルサレムに引き返しました。勿論二人はイエスを神殿で見つけるなどとは、考えても見ませんでした。でもその神殿の中に長老やラビ達に混ざって座り、重要な聖句やユダヤ教のしきたりについて討論しているイエスの姿を見つけたのです。この神殿での話しから、どれほど主イエスが幼い時から御言葉を熱心に学んでいたかがわかりますね。でもユダヤ教のこの年齢の子供達はほとんどが宗教の勉強を厳しくさせられており、ほぼ全部がトーラの79847語を暗記していました。しかし、み言葉を暗記したからと言って、必ずしもその意味を理解したとは限りません。それがこの話の特徴であり、そこに重点があると思うのです。12才のイエスは聖書の最初の五冊を暗記したことを自慢する為に神殿に行ったのではありません。彼は聖書の言葉の深い意味を学びに行ったのでした。ここで学ばされることは、私たちがどれ程知り尽くしていると思っていても、実際はもっと学ぶことが沢山あると言うことです。特に神様の御言葉に関してはそう言えます。考えてみて下さい、イエス様が御言葉を読み、学ぶ事が大切だと思っていたというのですから、私達にとってもそうすることが大切だとは思いませんか? ルカが私達に言っている、イエスは背丈も伸び成長した、という事は身体が成長して衣服が合わなくなったという事だけではなく、賢く成長したという事なのです。聖書の中での「賢い」と言う意味にはいろいろありますが、一つは「神の深さを分かりそれを説明する事ができる」とあります。神の心を理解し人々に伝えることに勤めると言うことです。簡単なことではありませんね。 私が大学生のときに初歩の化学を取りました。私はもともと化学は苦手ですが、私の化学の成績の悪さはむしろ教授に問題があったと言っても良いかと思います。この教授は優秀な人でしたが、人に、特に私のような初心者に解るように説明して教えることは出来ない人でした。 イエスはトーラを暗記しましたが、それだけでは充分でなく、もっと理解して人々に説明できるように勉強したかったのです。それは私達にとっても価値ある目標ではないでしょうか?  皆さんにお尋ねします:皆さんの中で聖書は私達に取って最も重要な信仰の本であると信じている人が何人いますか?何人の方が、聖書を理解する事が難しいと思っていますか?最後の質問ですが、皆さんの中でどこかの聖書を学ぶ会に出席している人は何人いますか? 皮肉な話ですが、私たちが神様の御言葉として敬愛している聖書ですが、この66の本には、自分一人では理解出来ない、頭を抱えてしまうような箇所が沢山あるのです。それにもかかわらず、その分からない箇所に時間をかけて学び、理解しようとする人は僅かしかいないのです。聖書研究に集る人数よりも、チリの料理競争に集まる人の数の方が多いと言う事です。おかしいなとは思えませんか?イエス様は賢く成長されました、それは御言葉の深い意味を学ばれたからです。私たちも同じように求めるべきではないでしょうか。 この年ももうすぐ終わりです。新年の抱負としてこれらの事を目標にしてみませんか? 毎日聖書を読む事。一生懸命に、皆さんと一緒に御言葉を学ぶ事。それらの御言葉を心に留めて祈る事。そして、熱意を持ってそれらの御言葉を分かち合う事。 これらの目標を達成する事ができたなら、2013年が終わる時には、あなたはきっと周りのだれよりも賢い者となる事でしょう。 アーメン。 民 Day訳 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace