Archive for April, 2011

Tweet 2011 Seder Meal Hand Out with Japanese クリックしてご覧下さい。(PDFフォーマット) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet  人は皆、長じて家を離れて別々に暮らす様になると、 たとえ親子の間柄でも、仲なか本音は聞き憎くなる。ましてや他人が社会生活に於いて、同一人物が同じ事柄を、涙ながらに話し、「貴方だけには本当の事を」と、言ひながら、あちこちの話をつなぎ合わせ、つくろいながらの打ち明け話には、其の人の本音は推察するしか無く、つい、まっとうに受け止めて、うっかり発言をしようものなら後々裏切られて、人間不信に陥ることが多々ある。絶えず本音と建て前を使い分けての話には相手に同情をしながらも、時にわり切れない虚しさを覚える。そして私の「神様ごめんなさい」が始まる。 長年教会に親しみ、み言葉にふれ、忍耐、寛容を学び、「愛を持って、対する相手の目線に合わせて話し、真をつくしましょう」と、人様にはもっともらしく言い、はて私は?出口の無いくり返しの会話には、口実をもうけて早々に話題を変え、知らぬ間に相手を傷つけて仕舞う。気が付き、至らなさを恥じて、主のみ前に許しを乞う身勝手さ、御免なさいの繰り返しの日々は、もう沢山?戦中派と言われ、多感な一時期に学童疎開を余儀なく過ごし、必勝を信じて、空腹を我慢し、上を向いて父母恋しの涙をこらえて過ごした年代が、敗戦より六十年の時を経て、其の連れ合いとは、初期の共通のゴールはほぼ達成して(家、教育、財産)子は親を超えて独立、残された二人は、お互いに新鮮味が無く、会話も少なく、相手に対しての思い遣りも希薄に成って、寂しい想ひをしている。故に女の人は、安易に悩みを友に打ち明ける。過去に培った豊富な経験を、良く生かして、対する相手を思い遣り、本音の付き合いが、出来ないはずは無いと、「神様、ごめんなさい」の失敗の少ない様にと、努力する日々、神様のみ前に衿をただし、祈ることに依ってすべてを委ねる事の出来る幸福を感謝して、過去の想ひを大切に過ごして往きたいと願う此の頃です。   2008年    静江       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet  2月17日に過ぎ越しの食事の準備を引き受けてから2ヶ月経った。噛めない食物を口に入れてしまったようにそれを噛みこなして飲み込めるようになるのに2ヶ月かかったとも言える。 4月1日までの過程はつぎのようである。 *  インターネットでユダヤ教の過ぎ越しのしきたりを何箇所か調べる。 *  コーシャーフードの情報をインターネットで調べてコーシャー食料店を訪れる。 *  メニューを定めてレシピを印刷する。 *  買い物のリストを作る。 *  料理に必要な器具を集める。 1週間後には印刷した情報を持ってタステインの食料品店に行った。すでに何ページかのシーダーペサ(正式な過ぎ越し祭りの礼式)の情報を持っていたので、それを見せながら必要品の確認をするためである。レジには20代位に見える若い女性が殆ど化粧なしでおり、ヤムカスまたはキッパス(yamulkes,kippahs)を頭にのせた年長の男性が肉のカウンターの後ろにいて父親だろうと想像した。彼女から一番最初に知った事はシーダーの皿が必要でBed and Bath Beyondはユダヤ人が経営者の店なのでそこで買うと良いだろうと言われた。行っているついでだと考えて買えるものは皆買い入れることにして、羊の骨、マッツァ、マッツァボールスープ、甘いワインを買った。しかし後にワインでなくグレープジュースを買うことになったのだが。肉にはチキン、魚、またはビーフブリスケットをすすめられ、これはほとんど情報は一致している。クリスチャンの過ぎ越しに羊を使う理由は私がまだ調査すべき箇所である。 同じ頃、芙美さんは英語と日本語の式文にとりかかり、その式文を見る事を頼まれたので最初は料理だけだと簡単に考えていたのだが、ユダヤ教の礼式を理解する必要があると思われて、印刷したものを、実際の式の様子を想像しながら何回も読み直しするのだがユダヤ人向けに詳細に説明してあるようでも、見た事もない状態を想像するのは簡単ではない。ビデオも買えないわけではないだろうが出費を避けて買わないことにした。式名はヘブライ語で進みそれの意味は書いてあるが言葉を暗記するのも簡単ではない。結果としてはLCRの式文がすでに出来てから、抜けているところがあるのに気づいたのは、私が理解するのに 5週間以上かかったからである。 シーダー専用の皿をon lineでBed and Bath and Beyond で見てみると最低値で100ドル以上もするので、結果としてはE-Bayで新品を購入した。今になってこそ解り始めたのだがユダヤ教は過ぎ越しを年中で第一の大きな祭日として日暮れに始まり夜中まで続く、それで各自椅子には枕を与えられて左に(理由はまだ調べていない)よりかかりながら、話を聞きながら(語り)過ごすのである。これもまだ調べが終わっていないが7日、8日と続けられるシーダーもあるようである。 エジプトから奴隷で苦しむユダヤ人を自由にした神を褒め称え,神が約束したメサイヤが来る日を待っているのである。最近はクリスチャンが過ぎ越しの礼を持つ事が広まりつつあり、ユダヤ教の人が来てやってくれる例もある。ユダヤ教だけに限らずケーターリングで食事をそろえる事も出来る。ホワイトハウスではクリントン大統領の時期以来行われていると知った。私は並みの人間で私の個人が理解した事を述べているので間違いはたくさんあるだろうことを承知しておいてほしい。クリスチャンの過ぎ越しの礼はイエスという救い主-メサイヤがすでに来られていることから、イエスの「最後の晩餐」(それは過ぎ越しの食事であった)に注目して羊として身をささげられた(イエス、聖霊、神)三位一体を感謝することがユダヤ教の過ぎ越しと異なるのだなと過ぎ越しの日が過ぎて三週間経た今やっと理解し始めた私である。理解した時点で言えるのは、長時間のユダヤ教の晩餐はクリスチャンの式には無くて、シンボルである食べ物を祝して食べ、四部に分かれている式の二番目から三番目の感謝の式にすぐ移り、晩餐は省く事が大きな違いではなかろうか。ユダヤ教ではアメリカのサンクスギビングやクリスマス・デイナーに価する豪華な晩餐が第二と第三との間に時間をかけて行われる。 シーダーという意味は「定められた」とか「規則」と訳すればいいのだろうか。家の準備(清潔、掃除など)皿の準備(ポークをのせた事がない皿)食卓の準備,式礼の役を果たす人、リーダーの服の色(白)質問、答えと全部「定められていて」それに従って式は進められる。間違った皿を使う事を避ける為その日専用の食器を使う人もあるようだ。急いで焼くマッツァの中には濡れていない粉があるとすればそれが水にぬれて醗酵することを予防するために水分を食卓や食器から取り除くのに特別の注意をはらうようだ。  4月1日の食事の内容は別紙を見て頂きたい。チョコレート以外は自然の物を求めて、2千年前には無かっただろうと思われるものを使うのは避けた。干し杏など値が高いけれど自然乾燥品を使用した。自然加工品は安くないと言える。苦労話を語るとすれば、ユダヤ教の式は一定しているがクリスチャンの過ぎ越しはそれぞれ違っていて統一していないことであろう。食品も瓶詰めのアップルソース、ホースラデイシュや小麦粉のケーキを使っているのもあった。  出エジプト記の時代にさかのぼり話を語り続けるこの儀式のことを書くには限がない。リクエストがあるならこれに関することをまた書いても良いと思う。 岸野先生にはこれを学ぶ機会を与えていただいた事を感謝します。芙美さん、愛子Gさん、卵の責任の方々、その他テーブルのセットアップをしてくださった方に感謝します。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 本日は礼拝後故静子Genewichさんのメモリアル・サービス が執り行われます。2011 4 10W Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet Adachi’s Ordination Service <--クリックしてご覧下さい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 過越しの食事礼拝 2009年4月9日 (Maundy Thursday)  ユダヤ人が守っている習慣の中に、過越の食事があります。毎年イースターが近づく頃になると、「過越の祭り」という名称をよく耳にして来ました。いったい どんな食事だろうかと興味はありましたが、一度も経験する機会に恵まれませんでした。今年は幸いな事に、伊藤牧師により、「過越しの食事礼拝」が計画されました。食事は聖木曜日の11時開始です。 食事の全ては伊藤先生が準備され、午前10時前から食卓の用意が始まりました。私にとっては初めての経験なので、何をどう準備して良いのか解りませんでしたが、全て伊藤先生の指示に従い、テーブルのセットが完了し、種入れぬパン、苦菜、ゆで卵、羊の肉、リンゴをすって作られたペースと等が机の上に並びました。いよいよ食事の始まりです。  伊藤先生の司会により、過越の食事の説明が「出エジプト記」を読む事から始まり、ユダヤ人の慣わしに習って、母親役を務める愛子さんが蝋燭を点火され、この家が祝福されるようにと祈りました。そして食事で用いられる食物を伊藤先生が祝福し、第一の杯、感謝の杯を注ぎ、各自に分けられました。過越の食事の間、ぶどう酒の杯が四回廻されます。一つの杯よりぶどう酒が分けられるのは、ここに集う人々の一致のしるしを表すのだそうです。最後の晩餐の時、イエス様はまだ聖別されていない杯を弟子達に廻されたのです。テーブルに着いた私達一同は讃美の言葉を同時に唱えた後、第一の杯を飲みほしました。 それに続いて司会者が手を洗います。キリストは手を洗う事に代わって、弟子達の足を洗われました。これは新しい愛のいましめを表す事であり、また仕えるという新しい律法のあり方を示すためだという事をこの場面から学ぶ事ができました。なるほど、聖木曜日にはよく牧師が信徒の足を洗われるのはこういうことか、と思いました。次に伊藤先生は苦菜を手に取り塩水で洗われました。私達も、個々に準備された塩水に苦菜を浸し洗いました。 ここに備えられた種入れぬパンは、エジプトを出るとき、パンを発酵させる時がなかった事を思い出す為であり、苦菜を食べるのはエジプトの地で先祖が耐えた苦役を覚えるためなのです。「語り手」の説明の後,第二の杯が注がれました。この時に、出エジプト記に記された最初の過越の物語が語られ、最年少の者が伝統的な四つの質問をします。最年少役の広子さんが四つの質問を読みました。1、どうして今夜は他の日の夜とちがうのですか。2、どうして今夜は種入れぬパンをたべるのですか。3、どうして今夜は苦菜を食べるのですか。4、どうして今夜は過越の礼拝をするのですか。これらの質問を読み上げた後、伊藤先生が羊の肉が盛られた皿を高く上げ、これは主の過越の犠牲である、エジプト人を撃たれた時、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、我々の家を救われたのである、と説明されました。次に、種入れぬパンを高く上げ、その説明をした後、苦菜を取り高く上げ、エジプト人がユダヤ人の先祖達に与えた苦役を思い出すのである、と語られました。ハレルヤ詩編を讃美し、食物の祝福をし、第二の杯を飲みます。続いて司会者は種入れぬパンを裂き、食卓の私達に廻します。こうして一つのパンがさかれ、分けられるのは、一致の意味を表していることをここで学ぶのです。そして私達は司会者伊藤牧師の指示に従い、苦菜と種入れぬパンを一緒に食し、「ほむべきかな、天地の造り主、主なる神よ、あなたは戒めによって私たちをきよめ、苦菜を食べるように命じられます。」と唱えます。そして各自が黙祷し、ルカの22章を読み上げます。 これらの説明と儀式が終わり、ここから過越の食事が行われるわけです。 伊藤先生の準備して下さった、「種入れぬパン」、また「苦菜」、「子羊の肉」を皆でいただきました。この他に準備されたゆで卵は「神殿」を表すのだそうです。ちなみにこの卵はイースターエッグとも解釈されるのではないか、と思いました。リンゴをすって造られたペースとは、イスラエル人がエジプトで強いられた苦役、例えばしっくいこねや、れんが作りなどを覚えて、「しっくい」を表すものだそうです。伊藤先生が心を込めて準備をされたこれらの過越の食事を味わいながら、ユダヤの古い習慣を学ぶだけではなく、イエス様が最後の晩餐でこのように一つのパンをさいて、弟子達と分かち合い、杯を廻された事を思い、出エジプト記に記されたイスラエル人の自由と救いを求めての旅立ちと、私達の罪の為に十字架へと旅立たれたキリストの旅立ちを覚えずにはいられませんでした。私達は一同先生の説明を聞きながら、過越の食事を味わいました。そして食事が終わった後、第二のパンが持ち出されました。  おそらく最後の晩餐では、主はこの時にパンをさき、弟子達に「これはあなたがたのために与える私のからだである。」と言われたのでしょう。私達もパンを手にもって主の御名をほめたたえ、パンを食べました。第三の杯が注がれ、祝福の杯に与りました。最後に終わりの杯が注がれ、私達は一同杯を上げて神をほめ、司会者の伊藤先生の祝祷を受け、杯を飲み干し、礼拝が終わりました。この日の為に用意されたハンドアウトには、第四の杯を飲み干すと記されたあと、一番最後に「旅立ち」と書かれていました。過越の食事は、旅立ちの食事でもある事がここで理解できます。ユダヤ人たちは、エジプトから解放され、神を信じ、自由を求めて「旅立ち」ました。私達の罪を担い、イエス様は十字架へと「旅立ち」ました。私達も、毎年灰の水曜日が訪れる度に、復活のイースターの喜びを待ち望むよりも先にしなくてはならないのは「旅立ち」ではないでしょうか。イスラエル人の歩んだ苦役の日々を覚え、キリストの十字架を思い、心を整えると時ではないでしょうか。心を整えて永遠の命へと旅立つ事ができてこそ、初めてイースターの朝、復活の喜びに溢れるのではないでしょうか。食卓を片付けながら、今年のイースターは特別なイースターになりそうだ、と思いながら自分に問いかけてみます、「旅立ちの用意はできていますか?」   芙美Liang 記  註:この日に使われたハンドアウトが欲しい方は、LCR日本語部までお問い合せください。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 神と共に歩いた私の人生  by  よし子 Oster 私は日本人を両親に韓国で生まれました。父は病院の薬局長、母は看護婦でした。父は42、母は35歳でした。母が私を妊娠している間母は大変具合が悪く、医者は母の命を保つ為に妊娠中絶を勧めましたが、母の答えは「NO!」でした。「私は34年間生きてきました。私の赤ちゃんが生きる時です」と言い、私の生後6ヵ月目に35歳で亡くなりりました。父に「母が『No』と言った時なんと思いましたか?」と聞きました。父は「僕には彼女の考えを変える力があったけれど。赤ちゃんに命をあげる事が彼女の唯一の願いであるのを尊重した。」と言いました。「彼女を亡して僕の一部が無くなったけれど、僕には彼女との約束があった。僕は絶対再婚しない、そして子供の世話を立派に果たして誰からも母がないことで指をさされることがないように、僕が母と父との役を果たすと。。」私は素晴らしい父に恵まれて、日本人の乳母たちと家政婦に囲まれて育ちました。父は規則には厳しくても、愛と優しさを与える母と父として育ててくれました  終戦がきて、父と5人の友達は大きいフェリーボートを買い日本に帰ることになりました。合計54人の家族でした。父に「誰がキャプテンなのですか?」と尋ねたら「僕だよ」と言うので驚かされました。キャプテンの免許をちゃんととってあったのです。韓国人の海賊がいると聞いた父は2人韓国人の技師を雇いました。案の定、日本と韓国との中間で小さいボートが接近しました。父は2人の韓国人を呼び、近づいた船の船員と会話すると、ボートは去っていきました。父は2人に「日本に無事に運んでくれたらボートは彼らの所持品として韓国に航海して帰るといい」と約束して雇ったことを幸いといいました。日本に近づくと海に仕掛けられた爆弾を避ける為に夜の航海を諦めることになりました。時にはエンジンを止めてすべることしか出来ませんでしたが、やっと九州の港に着きました。2人の技師に感謝し安全な航海を祈って別かれました。  初めにはおじの家にいましたが、しばらくして父は家を建てて、1948年その家で私が16歳になる直前に亡くなりました。父が死ぬ三日前に、父は私に三つの助言をしました。①いろいろお見合い結婚を勧められるだろうが、それに圧されてはいけない。愛情なしで結婚してはいけないから。②傷つける人に沢山逢うだろうが、決して仇で返してはいけない。取るなら、あなたもそれらの人と同じ位に落ちてしまうのだから。③どんな事があったとしても、常に朗らかにいなさい。三番目の約束を守ることは本当に辛いことでした。けれど何が起ころうと、どんなに辛いことに出くわしても笑顔を保って生きてきました。それは父の助言のせいなのです。  私が働いていたレストランでTomに会いました。彼は優しくて二人とも恋に落ちて14ヶ月後に結婚しました。子供が出来ることは諦めていましたが、うれしいことに懐妊しました。Tomは「よしには良い靴が必要だね。」と言いました。なんと面白い反応だなと思いながら「なぜ?」と聞くと「妊婦は子供の為にも良く歩かなくてはいけないから」と言って上等なウォーキング靴を買ってくれました。なんと思いやりがある人だろうと思わせられました。私のつわりは特別ひどくて、あなたの年で(35)体重減少しているのは体に危険だから妊娠を続けることを思い直すようにと言われました。私の答えは「NO!」でした。そして5ヶ月になってやっと食事を留めていることが出来て体重も増えだしました。そして健康な女児デボラを授かりました。  彼女が6歳の時ナンシー ツーム家の娘がデボラを教会に誘いました。その時点では私は仏教徒、Tom は祖父がエピスコパルの牧師でしたが、教会に通わないキリスト教徒でした。デボラはTom の許しを受けて教会に行って帰ってくると大変幸せそうでした。それが私の好奇心を誘いました。しばらくしてナンシーが私を聖研に誘いました。私はなにがデボラを幸せにするのか知りたくて行きました。皆さんが優しくて、雰囲気の中に何かが存在していて、その日から私の目が開かれました。私はもっとイエスのことを知りたくて英語で学ぶのは大変難しかったですが、行きつづけました。次の年9月に日本人の友人が日本語で聖研を開くとの事で大喜びで参加しました。しばらくすると、私はキリストと仏との一つを選ばなくてはいけないことに気がつきました。父が信じた仏教を捨てることに罪悪感を感じさせられました。でも、キリストは私の罪を背負って死に、心を改めれば神はお許しくださるというのに大きな喜びを得ました。そして洗礼を受けてキリストの家族となりたいと思いました。  娘のデボラも洗礼を受けたいと言いました。Tomに教会を探してくださいと言って探して、Culver DriveのSt. Matthew’s ルーテル教会に決めました。洗礼を受ける前に、Tomが「教会というところは常に美しくスムーズにいくとはかぎらないところだよ。」と私に言いました。「これは私と神とのつながりであって、それはどんな事が起こっても変わらない」と私は言いました。2ヵ月後の、1978年7月23日に洗礼をうけて、 私たちはクリスチャン家族となりました。それから2ヵ月後には会員の半分は牧師に辞任を迫り、後の半分は残って欲しいと言う事が起こりました。私にとっては大変なショックでした。それは私への最初の(キリスト教徒としての)試練でした。牧師は(洗礼をうけたばかりの)私がどう感じているかと案じてくれました。「起こっていることは残念ですが、私には神がそばにいてくれますから」と答えました。  Tomは教会に尽くす事が好きで、また会員からも好かれました。タートルロックでも、アーバイン市にとってもTomはいろいろ援助していたのです。彼の葬式にはユニハイバンドが全員、卒業生でさえも制服を着て参加し演奏をしたのには教会員を驚かしました。すばらしい演奏でした。Tomはデボラやほかの子供の付き添いであちこちの演奏に同行していたのです。  私は今でも自分の父のことを話します。私はデボラも同じに父のことを語り続けてほしいと願います。35歳で今でも彼女は父のことを語ります。彼女の結婚式にはレセプションテーブルの両側にTomへの貢献で盆栽を置きました。Tomは盆栽が好みでした。デボラは現在、彼女の父の神への貢献に従い、テキサスのフォートワースの教会では次の3年間委員長をして尽くしています。  神はなんと私たちの生活を変えてくださったことでしょう?私がクリスチャンでない時でさえ、神は私を見守っていられたのです。私はビジネスのことには無知でしたがTomが時折、こんな時にはどうするか、。などと話してくれていました。Tomが死亡した時、私にはデボラを大学に送る時期、それに義母の世話と会社をマネージする仕事を背負うことになりました。53歳で始めてビジネス業に面することになったのです。けれど神はその私を導いて見守ってくださいました。ジャン パーカーは長年私の聖研の良き指導者なのですが会社に来て支えてくれて、会社を売るまで共に働いてくれました。すばらしい友達、クリスチャンです。  私は13年半未亡人で過ごしました。25年も知人であったダーリーン・オスターが突然亡くなりました。彼女の夫のビルと食事に出かけてダーリンのことを長いこと話して慰めあいました。しばらくすると、自分たちは愛しあっているのに気がつきました。子供たちにも祝福されて結婚しました。それから8ヵ月後に助からないだろうと医者が言うほどの心臓麻痺に襲われました。けれども、多くの方の祈りとビルの献身的な看護で回復しました。神がビルをエンジェルとして私に送られたと信じます。神はいつもおられて、愛してくださいます。クリスチャンであることはなんとすばらしいことでしょう!  (*****この手紙は娘のデボラさんの為に書かれたものをデボラさんの許可 で読ましていただくことになりました。よし子さんのメモリアル・サービスでデボラさんがシェアされました。                                                        訳: 民 Day Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

April 4th, 2011

LCRJM歌壇

No Comments, 証し、その他, by admin1.

Tweet 歩道橋クロスと花は捧げられ癒しを祈るか大事故の場に        山本民子 雨のなき歩道の血の跡なお残り逝きたる人の哀しさ写す 美しき声は神のみ恵みと神のため歌いしパバロテイ主の元に逝かん 復活祭雲ひとつなき青空に気高く咲けり白百合の花    白百合の美しき香りは部屋に満ち主の復活は心に生きる      過ぎ越しの食事の準備の明け暮れに想いを馳せるユダヤの土地に 過ぎ越しは二千年前にも人々を受け入れ招く罪ありてこそ 凄まじき津波の被害を耐え忍ぶ母国の民を誇る毎日            聖堂に讃美歌高く響きくる朝日の中の復活礼拝           鹿島広子 聖堂に天使の歌声愛いらしく友となか良く微笑み合えり 我が友はさよなら告げず召されたり無邪気な孫に涙さそわる 薄命の友に手向けるカーネーション遺影の笑顔は涙を誘う 大津波一瞬にしてのみ込みし尊き命思いておりぬ 冬の朝赤くうるみし空見上げ今日という日を神に感謝す             アカペラの美(は)しき歌声洩れ出るステントグラスに映える落日    蓑輪愛子 我が友の霊慰めん心より歌う「レクイエム(鎮魂歌)」厳かにして 白百合とバラで飾りし十字架の凜として立つ復活の朝 「ハレルヤ」と声高らかに歌いつつ 平和を祈る復活の朝 声合わせ「歓喜の合唱」歌いあげ満足感に我酔い知れぬ 復活の朝の目覚めの爽やかさ声も高らに「ハレルヤ」と崇む 震災で召されし義兄の顔写真柔和な笑顔が涙誘う 我が友は生存せしと名前あり電話掛けども応答は無し 恐れつつ寒き夜には身を寄せて泣く児をあやす年若き母     大橋静江 幸せは限りなく有り我の日日人の災難見て気付き居り 何を捨て何を残すか迷いいて八十路に近き我の屈託 はらり落つ目の前すぎる枯葉にも過ぎ越し日々の物語あり 喜びも悲しむ時も主と共に祈りの日々は命のみなもと         中内豊子 主を信じすべてを託しやすらかに真理に続く道を歩まん 教え子に先に逝くなと師の言葉友の便りに涙誘わる 白百合に紫添えし花を持ち友訪れ来てイースター祝う    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 一ヶ月程前に今台北に住んでいる長男に女の子が生まれました。私にとっては初孫です。生まれてから暫く毎日のように長男とメールのやり取りがありました。スケジュールを徹底させて、母乳の後はおむつを替えて寝かせるけれど、どうもぐずつき出すと黙って見ていられなくて抱っこしてしまう。本には、泣くのは赤ちゃんの運動だから、お腹がすいていなくて、おむつもぬれていなくて、熱も無ければ別に泣いてもほっておけば眠るとあるが、どうもほってとけない、等、真剣に「親の仕事」に取り組んでいる様子が、メールの向こうから感じ取れます。 果たして私が母親になった時はどうだったかしらと思うと、いかに自分が自己中心に生きて来たか今更ながらに考えさせられました。子供の頃から、いつも「自分」が中心にありました。弟が生まれてから体が弱く、よく病気をしたので、母は常に弟につきっきりでした。今思えば当然のことですが、5歳の時に「ママもパパも私を可愛がってくれないから私は今から家出します。」と言って荷物をまとめた事もあります。私の頭の中には、「こんなはずではなかった、どうして私がほっておかれるの?」という思いだけがあり、弟の体の弱さや、両親の大変さなどは考えませんでした。 母親は厳しい人でしたから、いつも「やさしい母親がほしい」とばかり思っていました。今思えば、台湾から日本に渡り、結婚して日本に住んだ母は、「何所に行ってもどんな事に耐えてしっかりと生きて行ける女性」に娘を育てたかったのだと思います。それが解ったのは、高校を卒業してから台湾に始めて一人で帰った時でした。まったく解らない中国語での授業に、何度も日本に帰りたいと思った事か。「こんなはずではなかった、台湾にくれば親から離れて自由に暮らせると思っていたのに。勉強がこんなに大変だとは、一人暮らしがこんなに淋しいとは、こんなはずではなかった」と思う事然りでしたが、アパートで自炊をしながら頑張って行けたのは、母が厳しく育ててくれたからだとその時気がつきました。そして羽田を発つ時に母が「祈っているからね」と言ってくれた事も大きな力でした。父は商売人でしたから、夜は遅く、子供の頃は「怖い存在」でしたが、一生懸命働く父の姿を見て成長することが出来ました。幼い時に父親を亡くした父は、旧制中学の時から台湾の親元を離れて日本に留学に来たわけですが、それから波瀾万丈の人生を送ります。父は身を以て私に、「どこに行ってもしっかり生きて行きなさい。」と示してくれました。私が「自己中心」な事を一番解っていたのは父だと思います。私は負けず嫌いだったので(今でもそうかも)成績は何時もよかったのですが、中学2年の時、急に勉強をしたくなくなり,成績が落ちた事がありました。夏休みの前に家に持って帰った成績簿を父が見た時、何と言われるかとびくびくしていた私に、父はこう言いました。「パパは、国語や数学の点数が落ちた事は別に心配しない。これは、芙美がやる気がないからで、勉強すれば点数はまた上がるでしょう。心配なのは先生の評価にある“人間的豊かさ”がB−という所だ。これはどういう事だと思う?」と聞かれました。そして一夏父が逗子に夏だけだす中華食堂の手伝いをさせられたのです。夏休みの親子ずれや、逗子海岸にやってくる若者たちで食事時は満席になり、大変な忙しさの中、不満そうな顔をした私の表情を素早くキャッチしていた父は、夜家に帰った後、「今日の芙美の態度は何だ?どうして不満だったか言って見なさい。」と聞かれました。黙っている私に父は、「パパが言ってあげようか。芙美は同じ年頃の女の子が楽しそうに食事をしていたね、それを見ながら、自分の夏休みはこんなはずじゃなかった、とおもったんじゃないの?羨ましいと思ったんでしょ?パパは見ててわかったよ。」言われて私は心の中で,よくぞ解ってくれました、と思ったのですが、次に父はこう言ったのです。「そういう気持ちが無くなるまでは、芙美にはアルバイト料は出さないからね。」大変なショックでした、さんざん苦労しているのに、夏休み遊べないし、お金ももらえないなんて。でもその時に私が学んだ事は、どんな場所に置かれても、どんな状態にあっても、喜んで今するべきことを一生懸命することでした。 アメリカに来て、始めての仕事が「Sunny Delight」の工場で、プラスティックのボトルの底に日付のスタンプを押す事でした。スタンプを押しながら、国立政治大学を出た私が、こんな所でニコヨンみたいな仕事をしている姿をみたら,親は嘆くだろうなあ、と思いました。でも、父はきっと「どんな仕事でも喜んでやりなさい」というに違いない、とすぐに思い直し、一生懸命スタンプを押したことを思い出します。 そしてやっと正式な仕事に就いて保険がもらえるようになったのは、アメリカに来て半年してからでした。主人がまだ大学院に入ったばかりでしたが、その時妊娠し、アメリカに来た翌年に長男が生まれました。小さいアパートの台所の床に座って、泣き続ける赤ん坊を抱きながら、「泣きたいのはこっちですよ、こんなはずではなかった。アメリカに来たら主人が全てを面倒みてくれるはずだった。結婚すれば幸せになれるはずだった。子供が生まれたらもっと楽しくなるはずだった。こんなはずではなかった。」そう思いながら母親に国際電話をかけたことを思い出します。母から「母親はあなたしかいないんだから、しっかりしなさい。」と言われました。 子供を育てながら、私も成長して来たような気持ちがします。子育てこそ、一番「こんなはずじゃなかった」事で、子供は親の計画通りには育ちません。さまざまな出来事から、私も子供と一緒に学びました。長男が幼稚園に行く年頃になり、そのころ住んでいた家の真向かいの方が、クリスチャン学校の校長先生で、彼女の息子もその学校に通っていて家の長男とは良く遊んでくれていたので、その学校の幼稚園に通う事になりました。それから子供達と一緒に神様のみ言葉を聞く機会に恵まれるのですが、始めて神様のみ言葉が心に入って来た経験をしたのもこの頃からでした。学校時代に礼拝がありましたし、日曜学校にも行っていました。台湾でも祖母と教会に行っていましたが、私がここで今生きているのは神様のご計画なのだと始めて気がついたのはこのときでした。そして、始めて「こんなはずではなかった」全ての事柄が本当は「それでよかった」、だから今の私があるんだ、と気がついたのです。神様が与えてくれた厳しい母親だからよかったんです。 お給料を父がくれなくてよかったんです。台湾で一人で苦労してよかったんです。それら全てが、アメリカに来て、子育てをして、仕事をして、いろいろな事にぶつかった時に乗り越えて行けるようにという神様の特別なお計らいだったのです。神様は私達がこの世で送る人生が、一人一人違うことをご存知です。日本で暮らそうと、アメリカで暮らそうと、台湾で暮らそうと、同じようにそれぞれに与えられた人生を送るしかありません。私達はどこにいても寄留者です。私の両親は台湾から日本に行った寄留者です。アメリカ生まれの長男は台湾に住む寄留者です。市民権やパスポートはただの「身分証明」でしかなく、どこにいても毎日起こる様々な出来事に対応し、巡り合う人々と交わり、いろいろな体験をし、悲しい思いも、嬉しい思いも、人間は繰り返していくのです。でも私達はただ単に与えられた人生を送るのではなく、神様と共に生きる人生を選ぶ事ができるのです。それが解って来たとき、始めて自分が好きになりました。「こんなはずではなかった」と自分のことばかり考えていた私は、とても好きになれる自分ではなかったのです。中村先生がAAPIの時にお話して下さったのですが、その時に語られた素晴しい言葉のなかで、私が一番好きだった言葉は、「Enjoy yourself in Christ.」でした。イエス様と一緒にいる時の私が一番好きな私です。もっともっと自分を好きになれるように、常にイエス様に戻って、与えられた人生を、何処に置かれようと、喜んで生きて行きたいと思います。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 私達の父なる主イエス・キリストの恵みと平和が、あなた方の上に豊かに与えられますように。アーメン。 アラビヤのらくだの小隊の昔話の中にある一つの話を紹介しましょう。ある夜、テントの中で寝ていた男が夜中に急におなかがすいて起き上がり何か食べるものがないか、蝋燭の火をつけて探し始めました。麻の袋に入っていたdates (なつめやしの実)を見つけてそれを食べ始めたのですが、その中に虫を見つけてこいつはだめだと口から吐き出したのです。次に口に入れたdates もよく見ると虫がついていた。これも駄目だと投げ捨てたのですが、この調子では何も食べるものがないと考えて、今度は蝋燭の火を消して袋に残っていたdatesを食べ干したのです。 私はまだ小さいころ暗い所にいると何か自分の周りが大きくなってその反対に自分は小さくなっていったような思いによく駆られることがありました。叉夜お風呂屋さんに行って帰り道の暗い中をよく家まで駆けて走ったことを思い出します。今でもHalloween のシーズンに遊園地で行なうお化け屋敷に入ってみたいと思うことはありません。暗い所、それは私にとって、叉多くの人たちにとって怖い所、悪いことが起こる所、そしてその場は悪魔の所と言う潜在意識が強い所です。叉、暗いと言うことは、人間として他者への愛と思い遣りが無い処では無いでしょうか。 今日のエフェソの使徒への手紙に、聖パウロはこのように書いています。「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光りとなっています。ですから、光りの子として歩みなさい」。これを読んで、私が思い出したのは、クリスマスの時によく聞く、イザヤ書9章1節の言葉です。「闇の中を歩む民は、大いなる光りを見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」。英語では、 “The people who walked in darkness have seen a great light; those who dwelt in a land of deep darkness, on them has light shined.” ヨハネによる福音書の1章の始めにも次のように書かれています。「初めに言葉があった。言葉は神であった。言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光りであった。光りは暗闇の中で輝いている。そして暗闇はこれに勝たなかった」。 イエス様によって生きる者は光の子として生きると言われていますが、私たちが本当に光りの子であるならば、イエス様の光りによって、イエス様の御心にかなう善意と、正義と真実の行ないが出来るのです。イエス様の光りなしで私たちは自分の人生の道を築くことはできません。皆さんは夜空に出る月を見る時、その月の輝きが月自体から出ていると思いますか? そうではなくて、月が光るのは月が太陽の光りを反射しているからです。ということは、私たちも神様からいただいた光りを思いやり、祈る心、奉仕の精神と言う言葉と行いを持って私達の隣人に反射させているのです。 私の住んでいるRiversideは人口37万人のLos Angeles から60mile 東にあります。仙台市が姉妹都市で、過去10年ほど、毎年仙台から、またRiverside からの団体がお互いを尋ね合っています。今回起こった地震のため、特にRiverside の市長をはじめ多くの市民が先頭に立って募金運動を行いました。今すぐには行けないけれど、できればこの夏に、中学生から大学生まで、大人も交えて日本に行って何か形で仙台にいる友達を助けたいと語っています。 神様のイメージで作られた私たち人間はお互いを助け合って生きてゆく時、神様という創造主が私たち人間に示された愛を感じられるのではないでしょうか。 今日のエフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロはこう書いています。「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」。神様は私たちに何時も光りの子であるようにと祈ってくれているのです。光りの子は人間の一番美しい形です。 私の好きな聖句の一つはコリントの信徒への第一の手紙、12章26節です。「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです」。これを言い返すと、「もし私達の一人が悩めば、他の人たちも皆共に悩み、一人が喜ぶなら、私たち全ても喜ぶ」と言えます。 私たちが始めた祈りのマフラー、Prayer Shawl はこれから作る人も、受け取る人も日本人だけでなく、祈りを必要としている全ての復活ルーテル教会員の人たちに上げられるよう皆さんに話しかけています。苦しい時、悲しい時、淋しい時、心も体も疲れきっている時、そんな時、私たちは友達の慰め、訪問、思いやり、何か作ってくれた食べ物、Hug, そしてそこに祈りのマフラーを受け取ることは嬉しいことです。誰かが私の様な者を思ってこれを編んでくれたのかと思う時、そこに神様が、私達と共にいるのです。 さて、1988年のWinter Olympicに起こった出来事を紹介しましょう。これは去年、土曜日の夕拝をやっていた時、説教で話したもので、すでに知っている方もいるでしょう。この話しの主人公はアメリカの金メダルを期待していた長距離スピード・スケーターのDan Jansen と言う選手です。この人の写真を見て、ああこの人見たことがあると思われ方いると思います。彼のレースの始まる2時間前に電話でDan のお姉さんが亡くなったことを知らされました。彼のお姉さんは何年も前から白血病で苦しんでいた人でした。この悲しいニュースを受けて、お姉さんの為にこのレースを捧げようと思ったのですが、初めのカーブでころんでしまったのです。4日目にもう一つのレースに出たのですが、これでもころんでしまったのです。心が落ち着かなかったんでしょう。彼の泣いている姿を見て多くの人も涙を流しました。彼は何千通もの慰めの手紙を受け取りました。その手紙の一通はMark Arrowood と言う30歳の身体障害者からで、その手紙の内容はSport Illustrated という雑誌に書かれています。それを紹介しましょう。 “Dear Dan, I watched you on TV.  I’m sorry you fell two times.  I am in Special Olympics.  I won two gold medals seven years ago at the Pennsylvania State Summer Olympics, right after my Dad died.  Before we start the games we have a saying that goes like this.  “Let me win but if I can’t win let me be brave in the attempt.  I want to share one of my gold medals with you because I don’t like to see you not get one.  Try again in four more years.” Dan は様な行為こそ私たち人間が神様から戴いた思い遣りの心です。教会は神様からの福音を聞く所だけでは在りません。他者との関係の中でそれを実行してゆく所です。その福音が実行される場には必ずイエス様がいるのです。 さて最後に、アメリカ、コネチカット州のNew London Harbor というところで  燈台守の仕事をしてきたJacob walkerさんの話しを聞いてください。40年の間、彼は一日も休まずこの燈台の仕事を守った人です。海で仕事をするものにとって燈台は道しるべであり、頼れる存在です。然しその裏には昼間も、夜も光りを絶えない様に守る、叉、危険も覚悟での仕事です。このJacob さんは60歳で亡くなり、彼はこの燈台が見える丘の上にあるお墓に葬られました。その後20年、こんどはJacob さんの奥さんが燈台の火を守っていったのです。ある日新聞の記者がこの奥さんを尋ね、「この灯台の火を守るとはどういう心構えが必要ですか」と質問したのです。奥さんはご主人のお墓を眺めながら言いました。「私の主人は生きている間、毎晩口癖のように光りを大切にせよ」。それは英語で、  “Mind the light”です。 同じように私たち、イエス・キリストに従う者は神の光の中を歩む者です。神様の光りは私達を常に善良、正義、そして真実の道に導いてくださるのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace