各自、聖書日課のその週の木曜から日曜までに与えられている詩編箇所、あるいは、翌週の月曜から水曜に与えられている詩編箇所を読むよう、お勧めしたい。もちろん余裕のある方は両詩編とも読んでいただければと思う。 
そして、いつものように以下の3点について観想していただけたら良いと思う。
1.一度音読して、一番インパクトがあった言葉や節はなにか?あるいは質問したくなる箇所でもよい。
2.二度目の音読をしたのち、二千数百年時代を遡って、詩編作者の気持ちになってどのようなことをその詩編は詠っているか思いをめぐらしてみる。
3.さらにできれば三度目の音読をしたのち、いま主なる神は、この時代に生きる私たちに、詩編を通して何を語りかけているか思いを巡らせる。

詩編30編
1:【賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。】
2:主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。
3:わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。
4:主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。
5:主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
6:ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
7:平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
8:主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。
9:主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
10:わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
11:主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
12:あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
13:わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。

詩編68編節
【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。歌。】
2:神は立ち上がり、敵を散らされる。神を憎む者は御前から逃げ去る。
3:煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。
4:神に従う人は誇らかに喜び祝い/御前に喜び祝って楽しむ。
5:神に向かって歌え、御名をほめ歌え。雲を駆って進む方に道を備えよ。その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め。
6:神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。
7:神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。
8:神よ、あなたが民を導き出し/荒れ果てた地を行進されたとき〔セラ
9:地は震え、天は雨を滴らせた/シナイにいます神の御前に/神、イスラエルの神の御前に。
10:神よ、あなたは豊かに雨を賜り/あなたの衰えていた嗣業を固く立てて

19:主よ、神よ/あなたは高い天に上り、人々をとりことし/人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。彼らはそこに住み着かせられる。
20:主をたたえよ/日々、わたしたちを担い、救われる神を。〔セラ

“Remembrance : 記憶”  
Joshua 4:1-7
Pr. E. Carl Zimmermann

要約 安達

人間の記憶力はいいかげんなものである。サウスコーストプラザの駐車場に車を停め、買い物をした後、いざ駐車場に戻ってみて、車を停めた場所がすぐに思い出せなかった経験などあるのではないだろうか。
しかし、逆にすばらしい記憶力がある人もいる。フィラデルフィアの郊外に、毎週何千人もの客がやってくる有名なレストランがある。食事はおいしく、雰囲気もよく、人々が“ウィリアムソンおじいさん”と呼び、親しまれた創立者でオーナーだった彼が亡くなるまでは、それは大人気のレストランだった。レストランに入るなり、彼は、握手をして、顧客の名前を聞いていた。びっくりしたことに、5年後に訪問しても、彼は名前を覚えていた。 
しかし、多くは悲しいかな記憶力の衰えを経験する。たとえば、名高い哲学者、ラルフ・ワルド・エマーソンは、どんどん悪くなる記憶力喪失に悩んだ。親しい友人、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローが亡くなったとき、エマーソンは棺の横で、「この紳士は、親切ですばらしい魂の持ち主だったが、私は完全に彼の名前を忘れてしまった。」と言った。
人々が、「年を取るのは良いが、記憶力を失いたくはない。」と言うのをよく聞く。みんなそういう気持ちを持っているのではないだろうか。今この場のことを覚えられるということも良いことだと思うが、また、過去につながることも大切だ。

一昨日には、オバマ大統領が広島を訪れ、次のような言葉を述べた。「なぜ、私たちはこの場所、広島を訪れるのでしょうか? 私たちは、それほど遠くはない過去に、恐ろしいほどの力が解き放たれたことを深く考えるためにここにやってきました。。。。犠牲になった人たちの魂が、私たちに語りかけています。もっと内側を見て、私たちはいったい何者かを振り返り、今後、どのようになろうとしていくべきか、私たちに語りかけています。」
だから私たちには、年一回のメモリアルデー、国民の祝日があるのかと思う。メモリアルデーは、私たちに今の自由があるのは、過去の犠牲の結果であることを思い出させる。
最初のメモリアルデーは1865年5月1日だと信じている人々がいる。その日に、サウスキャロライナ州のチャールストンで、過去、奴隷だった人々が、南軍拘置所の墓地に埋葬された257名の北軍の兵士を称えた。またある人々は、ニューヨーク州のウォータールーにおいて、1866年5月5日に、町を国旗と花々で美しく飾って、南北戦争の英雄、ジョンマーレイ将軍がメインストリートのパレードの先頭に立ったのが、メモリアルデーの始まりだとしている。 

なにが起源であろうが、66万5千人もの人々が勇気を持って、進んで、犠牲を払って命を落としたことを覚えてたい。しかし、ここで、ちょっと違う方向から、記憶ということについて話すことを許していただきたい。ある神学者は、「健忘症が、神との関係をそこなっていく。」とも言う。
それは、イスラエルの人々を悩ませた一つの問題だった。 神は、イスラエルの民のためにしてくださったにもかかわらず、選民の記憶は短く貧しかった。創造者は、ある日にすばらしいことをしてくださっていたのに、次の日には、彼等は忘れてしまった。だから、多くの記念碑、記念の食事、毎年のお祝い、お祭りが、聖書には記されている。 聖書の記述は、人々が神の偉大なるみ業を忘れないようにする。  
それがヨシュア記から学べることだ。40年の間、モーゼの指揮の下で、ヘブライ人たちは、荒野をさまよい、約束の地を捜し求めた。そして、ヨシュアはリーダーとして引継ぎ、ヨルダン川の土手へと人々を導いた。対岸は、求めてきた約束の地であった、しかし、問題があった。 川の水量はふくれあがっており、横断することは、あまりに危険なことだった。 しかし、40年さまよった後、引き返すことはありえなかった。そこで、司祭たちは、契約の箱をかつぎ、先頭を歩んだ。 そして激しい流れの川の中に進み行くと、流れは止まってしまい、人々はなんら支障もなくヨルダン川を渡ることができた。 そして、彼等が、対岸に渡ったすぐ後、石を積み上げて、簡単な記念碑をつくった。 神が、イスラエルの歴史の中で、またもや立役者となってくださったことを、忘れないようにするためだった。
 
さきほど読んだヨシュアの言葉を覚えているだろうか? 「我等は、これらの石を、メモリアルを立てるために使う。 将来、これらの石はどういう意味があるのか?と子どもたちが聞くだろう。あなた方は、『契約の箱が川を渡ったときに、水がせき止められたことを忘れないようにするために、これらの石があるのだ。』と答えなさい。そして、これらの石はイスラエルの人々の間では、永遠の記念となるだろう。」  
言い換えていうならば、記念碑は、神の予想もしえない奇跡的な顕われであり力なのだ。 聖書を通して、とくに旧約聖書において、これらの記念碑は、何十回にもおよんで示されており、みな同じ目的がある。人々に、神が驚くみ業をしてくださったことを、思い出すためである。 
私は先月のドイツ旅行から、あることを感じている。 いずれ、私はたくさんの場所を訪れたことを忘れてしまうだろう、しかし、マルチンルターが、誓約したチャペルを忘れてしまうようなことは無いだろうと思う。 彼が恵みと赦しの説教をした説教壇を忘れたりしないだろう。 95カ条の論題を掲げたウィンテンベルグの教会の扉も、10 週間で新約聖書をドイツ語に訳したヴォルトブルク城も、忘れないだろう。これらの場所は、偉大な男、ルターというより、さらに大きな神の、記念碑であり、記録である。

そして、さらに私を考えさせる。 もし、私たちの教会の名前をレザレクションメモリアルルーテル教会(Resurrection Memorial Lutheran Church)に名前を変えたらどうだろうかと。もしそうしたら、通りかかった人々は、すくなくとも二つのことを知るのではないだろうか。
まず第一に、我々がルター派であること。そして、もっと大切なことは、私たちが、永遠に続く、記念教会であり、すべては、神がなさったこと、また将来にわたってすべて神が計画されていることを、永遠に記念しようとしている教会であると。
もっとも私たちの教会は、すでにLutheran Church of the Resurrectionと呼ぶべきかResurrection Lutheran Churchと呼ぶべきか、議論が起こっており、さらに名前を変えようということにはならないだろう。。。
しかし、Resurrection Memorial Lutheran Church、レザレクションメモリアルルーテル教会、ちょっと良い名前だと思えないだろうか? 
アーメン。

今週からの詩編を読もうは、各自、聖書日課のその週の木曜から日曜までに与えられている詩編箇所、あるいは、翌週の月曜に与えられている詩編箇所を読むよう、お勧めしたい。もちろん余裕のある方は両詩編とも読んでいただければと思う。 
そして、いつものように以下の3点について観想していただけたら良いと思う。
1. 一度音読して、一番インパクトがあった言葉や節はなにか?あるいは質問したくなる箇所でもよい。
2. 二度目の音読をしたのち、二千数百年時代を遡って、詩編作者の気持ちになってどのようなことをその詩編は詠っているか思いをめぐらしてみる。
3. さらにできれば三度目の音読をしたのち、いま主なる神は、この時代に生きる私たちに、詩編を通して何を語りかけているか思いを巡らせる。

詩編96編
1:新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。
2:主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
3:国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。
4:大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。
5:諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ
6:御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。
7:諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。
8:御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り
9:聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。

詩編5編
1:【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2:主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。
3:わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。
4:主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます。
5:あなたは、決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず
6:誇り高い者は御目に向かって立つことができず/悪を行う者はすべて憎まれます。
7:主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。
8:しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。
9:主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。
10:彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。
11:神よ、彼らを罪に定め/そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。
12:あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。
13:主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。

ヨハネ 14:11-17

このメッセージを聴く人の心に、またこのウェブサイトを介して読んでくださる方々の中にも、主の恵みと平安が豊かに注ぎ込まれますように!

二週間前、母の日の日曜、LCRとしては、恒例のPSS Project Self Sufficiencyをサポートする日だった。 私はPSSのような働きはとてもすばらしいと思い、応援したいと思っているが、その日、二人の母親、それぞれの子供をつれ、一組目の親子が8時半の礼拝に、二組目の親子が10時の礼拝に来られた。その子たちの名前を覚えているだろうか? 意味のある偶然だと思ったが、二人ともFaith という名前だった。 
その後、はっと気がつかされたが、私たちの子供の一人にも、Faithという名前の子がいると思った。なぜ? と思われるかもしれない。 母の日の10時の礼拝に出られていた方はご存知だが、献金の最中に、長男がチェロを弾く機会をいただいた。 長男の名前は信。 信は、信じるという意味であり、Faithでもある。 妻と私は、あきらかにFaithを意識して、長男の名前を信にした。

さて今日、与えられた福音書の内容に触れていきたい。12節を読んでどんなことを思われただろうか? 十字架に架かって、明日には、死に葬られるイエスキリストは、使徒たちに、あなたがたがイエスのした御業をするようになると話している。それも、もっと大きな業をするようになるということになる。イエスのされたことより、もっと偉大なことをするなんて、そんなことはおかしいと思われるかもしれない。しかし、イエスは「私が真理を述べる」と言われた後の語った言葉であることを覚えておきたい。
しかし、ここで注意しなければならないことは、条件があるのだ。イエスは「私を信じるものは」といっておられる。私を信じるとは、どういうことだろうか、まさにFaithなのだと思う。イエスの信仰を持つものは、イエスのされたことより大きなことさえできるという。 そこで、ちょっと考えてみた。 信のしていること、もちろん世界中に、信よりすばらしいチェリストやピアニストはいるが、イエスはどうだったのだろうか? 信はイエスより偉大な、チェリストやピアニストと言えるのか???
もっとも、イエスがチェロを弾いたり、ピアノを弾いたという記録は残っておらず、信がイエスより偉大なチェリストだとか、ピアニストであるかどうかは、間違った質問だと思う。 それより、イエスを信じる信仰のあるものが、イエスより偉大な御業をするという、イエスの言葉の意味をもう少し掘り下げて考えてみたい。イエスを信じるということはどういうことなのか? Faithとはどういうことなのか? 

イエスを信じるということは、神が地球上ではないところ、はるかかなたから神が私たちを見ておられて、私たち人間をコントロールしているような、そういう神様を信じているのではない。 イエスの言葉で、「父なる神が私の中にいる。 また私は、父の中にいる」ということを言っておられた。つまり、この地球に2000年前に来られたイエスの中に、神もおられた。 この地球で寝泊りされた、神がおられる。
ここで、最初に出した、Faithを漢字で書いた場合の「信」にいて説明したい。 信の左側は肉体を持つ人を象徴したものだ。 そして、右側は、「言:ことば」”Word”である。 ヨハネ福音書は、「はじめに言(ことば)があった、その言は神とともにあった。その言は神であった。」という文章ではじまっている。信ということは、神と人がいっしょになった漢字なのだ。 神が人と一体になったことを著す漢字を使って、信じるという意味を表していることに、とても意味深いものを感じる。
また、イエスの語られたことは、父なる神と子なるイエスが一体だというだけでは終わらない。本日の福音書でイエスが語られたことからして、自分がいなくなったあと、父にお願いして真理の霊、つまり神の霊、聖霊を送ってくださる。その霊は私たちの弁護者であり、ずっと私たちとともにいてくださる。その父なる神の送ってくださる霊のおかげで、イエスの名によって祈ることは、なんでもかなえられ、つまり、イエスの業、さらにおおきなる業が可能になる。

今日は三位一体主日であるが、父なる神と、子なるイエス、そして、神が送ってくださる息、聖霊が、一体である、そういう神の存在を、私たちキリスト教者の信仰を覚える日である。 どこか遠くにいる神、この世を見下ろしているような神ではなく、イエスの体となって、この世に下りてきてくださった神である。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。イエスの信仰とは、この世の常識として信じられることではなく、わたしたちに与えられる信仰である。そして、その信仰は、聖霊となって、この世の私たちの中に永遠にやどってくださる神を信じること。その信仰は、わたしたちにとてつもない業をさせてくださる。
とても人間の力だけではできないと思っても、イエスの神がおくってくださる霊のパワーのおかげで、大きな事ができたり、あるいは大きな慰めになったりする。 それは、ピアノでもオルガンでも、人間業とは思えないような演奏ができたりする。あるいは、聖書の言葉を聴くなかで、とてつもない困難や悲しみを解消するし、あるいは、信仰者たちどうしが、互いの愛をもって、偉大なミニストリーを行なうことにもなる。父、子、そして聖霊なる三位一体なる神がわたしたちとともにいてくださる。 
アーメン
安達均

“Faith Makes Us Do What??”
John 14:11-17

May the Lord’s Grace and Peace be poured into the people’s hearts while listening to this message!

Two weeks ago, on Mothers’ Day, as usual we invited guests from Project Self Sufficiency. Two single mothers and their two daughters attended the two worship services. One mother and her daughter came to the 8:30 a.m. service and another mother and child came to the 10:00 a.m. service. Do you remember their two daughters’ names? Coincidentally, or I would say meaningfully coincidental, the names of both girls were “Faith.”
Then later on, I also realized there was another child whose name was “Faith”. For those of you who attended the 10:00 a.m. service, one of our children played the cello during the offering. His name is “Shin.” The Chinese character of Shin means to believe or “faith.” Satoko, my wife, and I named “Shin” using the character “信”, remembering our faith; that we both strongly believe.

Let’s dive into today’s Gospel text. When you read verse 12, what did you think? One day before he was crucified, our Lord told his disciples, “anyone who believes in me, you do what I have done, even greater works than I have done.” Can the disciples do even greater works? Or can Christians do even greater works than Jesus did? You might think it is impossible… However, remember, this is what Jesus said, after he said, “I will tell you the truth.”
Though, we should be careful, there is a contingency. Jesus said “anyone who believes in me” or “if you believe in me.” What does it mean to “believe in him”? I believe that is the very “faith of Jesus”. If anyone, believes in Jesus, they’re able to do greater works. Then I thought a little bit more… Can we say Jesus was a greater pianist or cellist than Shin or Faith is?
Since there is no record in the Bible that says Jesus played cello or piano of course, we do not know… But we might say many Christians, the church together, have been doing great works to share Jesus’ love because of Faith. Let us think further about faith, believing in Jesus. What is Faith?

To believe in Jesus is very different from believing in a god who, we think, lives far away from us and controls us. In Jesus’ own words, “Father God in me and I in Him.” In Jesus who came to Earth 2000 years ago in a human body, God was there, too. In Christ who lived in this world God was with him.
Here I would like to explain the Chinese character Shin, “Faith.” This character is composed of two parts. The left part represents human. The right part represents “word”. John’s Gospel starts with “In the beginning, there was Word, and the Word was with God. The Word was God. Therefore, the Chinese character “Faith: Belief” is a character that shows human and God together. I believe there is a deep meaning that God can be together with humans.
And what Jesus said did not end with saying God and Jesus are together, Jesus told them after he was gone, he would ask God, the Father, to send the true spirit, God’s spirit. And that God’s spirit is the advocate and dwells with the disciples forever. Because of the Holy Spirit sent from the Father, whatever disciples pray in Jesus name, everything is possible. Disciples who have faith in Him do even greater works than Jesus did.

Today, we call this Holy Trinity Sunday. We remember that our faith is believing in the Father, God, the Son, Jesus, and the Holy Spirit. This belief is not believing in a god who is far away, but God who is in Jesus incarnate who came to our world.
For our God had such love for the world that he gave his only Son, so that whoever has faith in Him may not come to destruction but have eternal life. This is something we do not believe in because of common sense, but we believe in because of faith given to us. Also we believe that God sent the Holy Spirit, His breath, into the world and dwells within us. Such faith, believing in the Triune God make us do tremendous works.  
Even if someone think that he or she cannot do something by themselves, God sends us the Holy Spirit that enables us to do incredible works and Jesus encourages us and comforts us. This might take the form of someone playing cello, piano or playing any sort of sports well. Or while listening to the Word of God, the Holy Spirit enables us to be comforted and make us love one another, and accomplish great ministries together. The Father, Son, and the Holy Spirit is among us and within us. Amen.
Pr. H. Adachi

主の恵み、心の中に豊かに注がれますように!
5月から復活ルーテルの新しい体制に入った。日本語での礼拝は、いままで月4-5回あったのが月二回となり、英語の礼拝に参加することを呼びかけているのは大きな変化。 もう一つの変化がある。 
Carl牧師より日本語会員に英語で月二回のバイブルスタディが行なわれていたが、今後は日本語で、み言葉について、神さまの思いについて、学ぶ、思いを巡らす機会になる。 今日のメッセージでは、最初の5月6月の学びの中心となる課題やその意味の概要を含めてお話できればと思う。 
この復活ルーテル教会は、全米に一万近く、380万人くらいの教会員からなるアメリカ福音ルーテル教会の一教会。 そのアメリカ福音ルーテル教会のスローガンは、”God’s Work. Our Hands.” という言葉。 「神様のお仕事を、私たちの手が。」とでも訳したら良いだろうか。 
しかし、神様に代わって私たちが神の仕事をするなんて、おこがましいし、そんなことはできない、と否定される方もいるかもしれない。 でも本当にできないのだろうか? 
本日与えられている聖書の箇所にふれていきたい。 第二日課として読んだ、使徒言行録2章では、復活後50日目にパワフルな聖霊が下った事実が記されていた。 ガリラヤ出身の使徒たちに、ユダヤに集まっていた、さまざまな地方から来ていた人々のために、異なる言語で話す力が与えられた。 
さらに、使徒たちには、聖霊の力が働き、イエスキリストの福音伝道のために、派遣され、伝道の言葉を述べていこうとする力が宿った。 
しかし、この聖霊がくだることは、ヨハネ福音書に書かれていたように、イエスは預言していた。 父なる神にお願いし、真理の霊を送り、あなたがたとともにいる。 イエスは、父の内におり、また父がイエスの内にいることを繰り返し述べ、イエスを信じる者は、イエスが行なった業よりも、もっと大きな業をされることを述べておられた。

本日の第二日課とヨハネ福音書、さらにキリスト教会に集められた者が、長い歴史の中で、聖霊の働きを体験する中で気がつかされたことがある。まず、聖霊によって、たとえいままでは文化も異なるし、話す言葉さえ異なった人々との交わりが起こる。
隼人くんはこの礼拝に来て、まだ日本語もよくわかっていないが、私は聖霊のただよう空間に置かれ、神の言葉や、賛美歌を聞く中で、隼人くんと私は、交わっていることを感じる。さらに、聖霊の力は、隼人くんを、父なる神とその子救い主イエスとの交わりにも近づけていく。 つまり、聖霊は、人と人を結びつけ、また人と神をも結びつける働きをする。
そして、聖霊は、イエスを信じるものに、神の派遣・使命を果たそうとする力を及ぼす。神の思い、無償の愛に根付いた、奉仕の業へと遣わされ、その業は、イエスが2000年前になさった業よりも、もっと大きな、キリスト教会全体で行なっている奉仕の業の一部を担当する力が与えられる。 

God’s Word. Our Hands. の話をさきほどしたが、聖霊の力によって、私たちの手が神の業を成すということ、おわかりいただけるだろうか。また、必ずしも、手だけではないのだと思う。私たちの、見る目も、話を聴く耳も、言葉をしゃべる口もすべて、イエスのみ業のために、さらに言うならば、イエスのなされた業より、さらに大きな御業のための道具になる。
今年のはじめから、ステファンミニストリーの話をしているが、このミニストリーは、信徒が、救い主イエスがされたように、世の中で本当に困っている方や、突然の災害、病、あるいは家族の死を体験した方々等を尋ね、目と目をあわせて対面し、話を聴くミニストリーだ。 
それは、数十年前までは、牧師の仕事だとまかされていたような面があるが、実は、この世の中に、牧師や臨床宗教師のケアを長期的に必要としている方々はとてつもなく多い。 そのような境遇に招かれて、派遣され、神の御業のために遣えるのがステファンミニスターといわれる、信徒の方たちだ。
5月6月の木曜、合計、4回にわたって行なわれる、学びの機会は、最初に聖書のみ言葉をよみ、観想し、さらに、ステファンミニスターとして、人々と接するということは、どういうことなのかを疑似体験するような機会としたい。 
ステファンミニスターになるためには、合計50時間の学びのときが必要になるが、その最初の部分をこの5月6月の学び、さらに5月の修養会で体験していただければと思う。 すべての学びに全部出なければいけないというわけではない。 どれもが、一つ一つ、独立した講義なので、出れるときに出ていただければと思う。 それぞれの学びで、キリスト者として生きるための、意味のある洞察が必ず与えられることを確信する。 アーメン 
牧師 安達均

“Can We Do What God Does?”
John 14:8-17
May the Holy Spirit of our Father be showered into the people’s hearts in this sanctuary!
Starting this month, members of Resurrection Lutheran Church are experiencing something new. Japanese language services are now twice a month, the first and third Sundays. There is also another major shift.
Pastor Carl has held Bible studies for Japanese members twice a month for the last three years. And starting this month, I will lead Japanese language Bible studies twice a month at LCR on Thursdays. In this message, I would like to include some information what we will learn in the May and June Japanese Language Bible studies.
Resurrection Lutheran Church is one of 10,000 churches of the Evangelical Lutheran Church in America. We have a slogan, “God’s Work. Our Hands.”
You might think that we cannot do what God does or God’s work, but is that true, that our hands do not do God’s work?
Let’s dive into today’s text. The second lesson, we read is Acts Chapter 2. On the fiftieth day from the Resurrection of Jesus Christ, the powerful Holy Spirit blew into the community in Jerusalem. The many of the Apostles were from Galilee and their native language was Aramaic, a dialect of Hebrew, and with the help of the Holy Spirit; the Apostles could speak many different languages of the people gathering from different parts of the world.
Further, the powerful Holy Spirit enables the Apostles to be encouraged and to evangelize people of the world. Therefore, it is recognized that the day of Pentecost is the birthday of the Christian Church.
As we read the Gospel that was written in John, the Father would send the Spirit of Truth, the Holy Spirit, to the disciples, and the Spirit would dwell among them. Jesus repeated that He was in the Father and the Father was in Him. And those who believe in Jesus would do even greater things than Jesus did.
What are we learning from the text and Gospel today? There are truths about the Holy Spirit from the Bible and from experiences that Christians gathered together at Christian church experience. The Holy Spirit may connect people to people in different cultures and speaks different languages to accomplish God’s work. The Holy Spirit also connects people to God in a very real way.
Hayato, Ken and Kanako’s son does not know the Japanese language well yet, but I believe, with the help of the Holy Spirit, I am connecting with Hayato through the sounds of words and hymns both spoken and sung. Also I believe the Holy Spirit connects Hayato to God. The Holy Spirit connects people to people and people to God.
Also, the Holy Spirit influences people to be sent on missions doing God’s work. People are sent to do things because of God’s love and justice. It is true that what has been done through Christian Church, the body of Christ, may be larger than what Jesus did 2000 years ago. And what we are doing at Resurrection Lutheran church is a part of the great things that the Church has been doing.
I mentioned a short time ago about the phrase, “God’s Work. Our Hands.” I hope you understand that why the Evangelical Lutheran Church has been using this slogan. And not only by using our hands, but through our eyes, our ears, and our mouths, we may do the same thing or even greater things than what Jesus did 2,000 years ago. I pray that our hands, eyes, ears, and mouths, may become instruments of our Lord, Jesus Christ.
Since the beginning of this year, in this church we have been talking about the Stephen Ministry. In this ministry, like our Lord Christ did, lay members of the church will visit, meet face to face with, and listen to the people who experience a sudden crisis, chronic/acute diseases, or sudden loss of loved ones.
In the past that kind of pastoral care was considered a Pastor’s job, however, due to the fact that the number of pastors who can do pastoral care are decreasing but at the same time the number of people who need to receive care is increasing. Stephen Ministers are trained to be caregivers for those in need.
During the May and June Japanese Bible studies, in each session, we will read a few verses of the Bible and do devotions. Then in each session, we will learn about what it means to be a caregiver as a Stephen Minister.
To officially become a Stephen Minister, it takes about 50 (or more) hours of study time. Even if you might not become a Stephen Minister in the future, I would encourage each one of you to take several basic classes of Stephen Minister training. Since this is a trial period, you do not need to attend all classes. Every class is independent, so even if you miss the first one, just come to the second or third or attend when convenient for you to do so. I am sure each session will give you some meaningful insights to be a true Christian caregiver who does God’s work. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

今年は5月15日が聖霊降臨祭。ペンテコステとも言われる。クリスマスやイースターのように、非宗教的な世界でもお祝いするような面があるお祭りと異なり、聖霊降臨祭はキリスト教会独自のお祝いなのかと思う。といっても、ペンテコステという言葉は、50日目という意味で、ユダヤ教ではイスラエルの民が奴隷としてエジプトで仕えてきた時代が終わるきっかけとなる過越祭から数えて50日目にエジプトからイスラエルに旅をするリーダだったモーセにシナイ山で律法が与えられるという記念の日でもある。与えられた詩編箇所から、104編後半24節から32節のみを読んでいきたい。 いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの復活節の最後、そして聖霊降臨日を迎えるにあたって現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。

詩編104編
24:主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
25:同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
26:舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
27:彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
28:あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
29:御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。
30:あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。
31:どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
32:主が地を見渡されれば地は震え/山に触れられれば山は煙を上げる。

気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、30-32節を繰り返し読んでいる。一節にしぼるとすると、30節「息によって、、、地の面を新たにされる。」だろうか。日本の熊本や大分で起こった大地震の被災者の皆様のことを覚え祈りつつ。 

詩編作者の気持ちになって、与えられた詩編箇所を振り返りたい。 24節から26節では、いかに主の御業がすばらしいことか、地も海も、地上に住むものも、海の中に住むものも、すべて主の知恵、つまり神の考えによって創造された。27節から30節では、すべての生物の創造は今も続いており、創造されたものは主に望みを置き、主から与えられるもので満たされる。主が見渡してくださらなかったら恐れが生じ、生物の存続は、主なる神の息を注いでくださるかどうか次第である。 30節から最後までは、その息によって、地は新たにされる。主が見渡せば、地は震え、主が地を触れると噴煙もあがる。

与えられた詩編箇所が21世紀に生きるわたしたちに何を語っているのか思いをめぐらせたい。 現代の言葉でいうエコシステムは、神の知恵であるという面があるのだと思う。そして来る日曜日には、キリスト教会では聖霊降臨日を控えている時に、そのエコシステムの中に、絶対に欠かすことができない、神の息、聖霊の存在を覚える。この詩編は紀元前数百年前に詠われはじめたものだが、ユダヤ教の伝統、そしてそれを引き継ぎキリスト教の伝統の中で、現代の21世紀にも詠われる。主なる神の息の大切さを思い出させる。 私たちの目にははっきりとは見えるものではないが、主なる神の知恵、考えが秘められている、聖霊の働きについて、聖霊降臨日に向けてさらに思いを巡らせたい。

30-32節を読みながら、熊本での被災者の方々のことを覚える。大地震が起こったことは事実で、いま、賛美歌を詠う気持ちになるのは難しい方も多いのかもしれない。しかし、聖霊は、被災者の方々の心の中にも働いていることを確信する。教会が成長するなかで、聖霊がどのように働くかを体験し、教会の知恵になってきたことで、大きな二つのテーマがあることをシェアしたい。 ひとつ目は、聖霊の働きにより、人と人、また人と神が結ばれるという体験。もう一つは、聖霊の働きにより、人が神から与えられているミッション(派遣・使命)を果たそうとする体験。

私は、聖霊の働きの中で、避難所などで、いままでは話すこともなかった近隣の方々との出会いを体験したり、そこに神の派遣を受け牧師・臨床宗教師等が指名を受けて訪れると、あらたな出会いが生まれ、いままではまったく気がつかなかった神と出会いを体験するということが起こっているのだと思う。 
アーメン
安達均