南カリフォルニアは、先週は暑いと思っていたが、今週は肌寒い日が続いている。青空となる時間も少ない。いろいろ地球の温暖化とか原子力の問題も考え、また電力会社や工事会社の勧めもあった。州や国からの資金援助もあった。創造主から与えられた恵みをいかに大切にする執事として生きるかということに関係してくるのだが、私の家は去年、いろいろな工事をした。贅沢なことはいっさいしておらず、外観はほとんど変わらないが、明らかに変わったのは屋根には小さいがソーラーパネルがついている。そして、毎日、何キロワットの電力が作られたかパソコンでわかるようになっている。 先週は毎日6キロワット台だったが今週は一日も6キロワットには到達せず、おとといは2キロワット台、昨日は3キロワット台となった。
4月5月の南カリフォルニアにしてはめずらしく曇り空が続くなかで今日与えられている詩編は98編。以前にも「詩編を読もう」でとりあげているが、今日また読み、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの復活節にあってひとりひとりに何を語りかけているか思いを巡らせよう。

詩編98編
1:【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。
2:主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し
3:イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。
4:全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
5:琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。
6:ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
7:とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。
8:潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え
9:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。

98編を読み返して、気になる言葉やインパクトのあった節はどこだろう? 私の場合は、一節の言葉。

紀元前数百年前のユダヤ教の詩編作者の気持ちになって、この詩編を読み返し、どういうことを歌っているのか、考えてみたい。 新しい歌を主に向かって歌おう、主は驚くべきことをなされた、聖なる御腕によって救いの業を果たされた(1節)。 主は救い・恵みをユダヤの民ばかりではなく諸国の民に示した(2節)。 イスラエルへの慈しみとまことを御心にとめ、地の果てまで、すべての民が主の救いの業を見た(3節)。だから全地よ、喜びの声を上げて、ほめ歌え(4節)。弦楽器に合わせて(5節)。管楽器も響かせて、主の前で喜びの叫びをあげよ(6節)。鳴り響かせよ、海にいるもの、世界に居るものよ(7節)。海の満ち干も、手をうちならせ、山々も共に歌え(8節)。世界を裁くために、民を公平に裁くために、主は来られる(9節)。 紀元前に生きた詩編作者にとって、エジプトに居たイスラエルの民が、エジプトを出国し、イスラエルの地に戻ってこれた話がユダヤ教の中ではとても大切で、それを救いの御業としているのかと私は考えて、この詩編を読み始めた。 しかし、もっともっと、大きなできごとを、詩編作者は神から預かり、この詩編を著したように感じる。 それは、イエスの死と復活を預言していたような詩編にも思われる。 そして、さらに、イエスの再臨をも預言しているような。

さて、この詩編98編は、21世紀にあって、私たちに何を語っているのだろうか? 98編は、「あたらしい歌を歌い主を賛美するように。」ということが結論なのだろうが、なぜ、主を賛美するかということがとても大きなスケールで描かれ、それを現代の私たちに伝えているように感じる。 驚くべき御業というのは、イエスが降誕したこと、そして再臨することも含めて、すべて、創造主なる御方が、してくださってきた恵みをすべて包括して、私たちに気がつくように、そして人類ではなにもコントロールできないような、さまざまな自然現象について、創造主なる御方を覚えて、賛美するようにと導かれているように感じる。 冒頭に、ソーラーパネルのことを書いたが、化石燃料にしても、なんのエネルギーにしろ、すべては神からいただいたもの。 ただ、ソーラーパネルからくる毎日の電力量を知らされることで、そのありがたみが増すような面もある。 今は、旱魃で水不足が深刻化しているが、やはり創造主からの雨の恵みの大切さに気づかされる。 日本では、今は火山の噴火も各地で心配されているが、創造主からの恩恵を受けてきているかを覚える。 だから、主に向かって喜びの声を上げ、賛美礼拝しよう。日曜日には、多くの民が、礼拝の場に集うように祈りつつ。 アーメン 安達均

ヨハネ15:1-8

主イエスの恵みと平安が人々の心の中に浸みわたりますように! アーメン

先週は「私は良い羊飼いである。」と言われ、わたしたちは羊という、ちょっと羊にされてしまうのはなんだかぴんと来ないというか、羊の習性を考えると、履歴書には「私は羊のような人間です」などとはなかなか書けないような話だ。しかしイエスの言われる通りなのかと思う。 
さて今日は、イエスが「わたしはまことのぶどうの木」であると話され、わたしたちイエスの弟子たちを、民をぶどうの枝にたとえられた。いったいこれはどういう意味なのだろうか? 

このぶどうの枝にたとえられる比喩は、とにかくぶどうの枝を通して栄養が与えられて果実が育つということが鍵だと思う。 
イエスはぶどうの木とぶどうの枝のつながっていることの重要性、つまり、イエスとわたしたちの信仰により、つねにつながっている大切さを述べておられることはまちがいないと思う。
この1週間の間、今日の福音書箇所を読み返し、また、牧師仲間とも話し合いの機会を持つなかで、このぶどうにたとえた、イエスからの思いを模索するなかで、「あっ」と気付かされる事がでてきた。 それは、イエスが、自分は羊飼い、門、真理、命のパン、生きた水などと云われた中ではなかなか気がつきにくいことだと思う。 

それは、ぶどうの木がぶどうの果実を生むには、ぶどうの枝が必ず必要だということ。 もしぶどうの枝がなかったなら、ぶどうの実はならない。 かといって、ぶどうの枝はぶどうの木につながっており、ぶどうの木の一部であるため、どうしてぶどうの実がなるのだろうかという詳しい仕組みを知る必要はない。 
実際は、ぶどうの枝が伸びで花の芽が出て、小さな花のかたまりの房ができて、小さな花びらは落ち、その小さな花の根元だったところがぶどうの実になっていく。 しかし、そのような細かい機序は知らなくたって、ぶどうの木であるイエスからいただく恵みをひたすらぶどうの実に注ぎ続けるのが、ぶどうの枝の役割だ。 そして、ぶどうの木としてはぶどうの枝は絶対に必要なものだ。 

このたとえを通して、イエスはいったい私たちに何を語ろうとしているのだろうか? ぶどう畑の農夫である父、ぶどうの木であるイエスにとって、木につながってぶどうの実がやどるところとなるぶどうの枝、つまり私たち、イエスの弟子は、とてつもなく大切なのだ。
もしイエスの弟子たちが存在していなければ、どうやって果実なるこどもたち、また新しい弟子たちは生まれてこない。
そして、弟子たちの成すことは、まことのぶどうの木なるイエスからいただく愛をぶどうの実となる新たな主イエスの子供たちに、ひたすら受け渡すこと。
このように考えると、イエスの愛をこどもたちに示すことはシンプルなことだ。 イエスから受けた恵みと愛をひたすら子供たちに継承すればよい。 イエスの弟子は、所詮、ぶどうの枝であり、あれやこれやとイエスの愛についてこねくりまわすことはない。ひたすら、イエスの愛を受け渡すのだ。 
わたしたちは、今週もまだ復活節の中にある。 イエスキリストの復活から受けた、主からの赦しとあわれみを覚え、わたしたちの信仰を新たに生まれかわらせ、私たちの子供の世代へ、また来るべき孫、ひ孫の世代にも、イエスからの恵みを継承しよう。 そのようなイエスの弟子である私たちを、神は必要としておられる。 
アーメン
安達均

Why Does It Grow?
John 15:1-8

May the Grace and Peace be with you in the name of Jesus Christ!

Last week, we heard Jesus say, “I am the Good Shepherd.” In the Gospel of John, there are many other metaphors where Jesus refers to himself as “I am something.” What else you remember besides the Good Shepherd?
According to Jesus, he is the Good Shepherd, but we are just sheep. Considering sheep’s characteristics, we would not like to be compared to sheep. In today’s lesson, Jesus described himself, “I am the true vine. And he said [as his followers], “We are branches.” What does this mean?

In this metaphor, the branches are the ones that bear fruit, the grapes. The reason why the grapevine may bear grapes is because branches carry nutritious ingredients to the vine flowers that become grapes.
In this metaphor there is no doubt that Jesus wanted to teach us the importance of connectedness between the grapevine and its branches. Said another way, faith nourishes each branch. Without God’s miraculous nutrients to each branch, there wouldn’t be grapes on each branch.
During this past week, I read the text again and again. I found that there is a very important aspect in the grapevine metaphor that is a bit different from other metaphors, such as the good shepherd, the bread of life, the gate, the resurrection, the way, the truth, and the life.

In order for the grapevine to bear fruit, it is a necessity to have branches. If there are no branches, the grapevine cannot bear grapes. The branches do not need to know every detail about why the flowers bloom first and the small petals fall and then the bottom parts of the many petals became grapes. However, the branches carry rich nutrients that come from the grapevine to the flowers and then the grapes. Again, the grapevine needs its branches.
Through this metaphor, what is Jesus saying to us? What is Jesus telling us to do? For the father, the grapevine grower, and for the Son, Jesus Christ, the branches are so important to bear fruit. Jesus is saying he needs us.
If there are no followers of Jesus, no Christians are born. What followers, the branches, need to do is carry Jesus’ love that comes from the grapevine, to children, the grapes. This is done through faith in Jesus Christ, so we’re vitally connected to Christ.
I think showing Jesus’ love to our children is simple. Whatever we receive grace and love from Jesus; we should just pour that love unto our children. We are branches and do not need to think about details, and carry his love to others.
We are still in Easter season, by reflecting upon Jesus’ forgiveness, we should renew our faithful hearts and carry Jesus’ love and grace to our next generation and the generations to come. Jesus loves each one of us and Jesus needs us to carry that love to others, especially the children. Amen.

今週は聖書日課に従って、詩編22編25節から22編の最後までを読む。「えっ、また22編?」と思われる方もいるかもしれない。というのは、「詩編を読もう」では、今年の四旬節の間に、2回も22編をとりあげたから。しかし、復活節にあって新たな気持ちで、この詩編箇所を読んでいきたい。来る日曜日は復活後第五主日となる。福音書は、イエスが「わたしはまことのぶどうの木」といわれ、ご自分を「真理なるぶどうの木」にたとえ、また弟子たちを「ぶどうの枝」にたとえられた話を読む。そのたとえ話を思い浮かべつつ、この詩編箇所を新たな気持ちで読むのも良い。そして、いつものように気になる言葉や節はなにか? 次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。最後に神はこの詩編22編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 
  
詩編 22編
25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
29:王権は主にあり、主は国々を治められます。
30:命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
31‐32:子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、26節にある大いなる礼拝のなかで「神を畏れる」人々が集まっている様子。

さて、過去に読んだ22編のことにとらわれず、新たに詩編作者の立場を思って詩編22編を読む。主は貧しい人の状況を見下してしまうようなことはなさらず、また助けを求める叫びを聞けば、聞こえぬふりなどなさらず真剣に御顔を向けて聞いてくださる(25節)。だから、神を畏れる人々が集まる大きな集会にて、私は主を賛美して、満願の捧げ物を捧げる(26節)。飢えていたものは食べて満ちたり、主を求めた者が賛美し、主の御心がわたしたちの中に永遠にやどるように祈る(27節)。地のはてまで、この地に存在するすべての人が主を覚え、主に向き直り、国々に行き渡る主の民が、主にひれ伏すように(28節)。御国は主が権利を持っており、すべての国々は主が治めている(29節)。この地で満ち足りたものも皆、主を拝み、また塵となってしまった者も主の御前でひれ伏し、自分の命ではなく主の命、蘇りの命が与えられる(30節)。来る世代の人々も主に仕えて、その次の世代に主のことを語り伝え、代々、主が成し遂げた恵みの御業が継承されていく(31-32節)。

この詩編22編のこの聖書箇所を通して、主なる神は何を現代の私たちに語りかけておられるのだろうか? 復活節とは言うものの、世間を見回すと、ネパールでは大地震が起き数千人の方が亡くなっている。ボルチモアでは、またもや人種差別と思われる行動がひきがねとなっているようだが、暴動が起きている。安部首相が今週前半はボストン、ワシントンを訪問し、見事な議会演説をされたようだが、かたや中国や韓国から安部首相への歴史認識に関する激しい非難が寄せられており不気味にさえ思える。一市民にはとてもコントロールできかねるような問題が、またかまたかと繰り返し起こっているような気もしないでもない。このような状況の中で、復活された神がおられるなら、なんでこんな悲しい事件や悲惨な歴史は繰り返し起こるのかと、神様に文句を言いたくなるような気持ちが起こっても仕方がないような気がする。しかし、詩編22編の言葉の中で、主なる神が、わたしたち被造物である人類、つまり神によって創られた一人一人が、どう対応したらよいかという鍵が含まれているように思う。26節にある主を畏れる民として集まり、主を賛美して、満願の捧げ物を捧げる状態を、主が望んでおられることを覚えたい。キリスト教徒は20億人とも25億人とも言われるが、まだまだ復活の主の働きを認めず、そっぽを向いて我が物顔にこの地を歩む者がいて、大きな失敗を経験する。あるいはキリスト教徒といえども、迷える羊となり、主から離れて行動してしまう。 だから毎週毎週、復活の日曜には主のもとに立ち返り讃美歌を歌い、反省する。こんどの日曜であれば「私は真理なるぶどうの木であり、人間はその枝でる。」という本来ならきってもきれない関係にあるという主のみ言葉が与えられる。十分の一の捧げ物をし、主なる神からあらたなる祝福をうけて世に送り出される。そのような生活を全人類が歩めますように!アーメン
安達均

ヨハネ 10:11-18

主イエスの恵みと平安が人々の心の中に浸みわたりますように! アーメン

私たちの体験することとして、現代においてもキリスト教を信仰するという方々が二人組となって、玄関のドアをノックされる。キリスト教とはいわれるが、私たちが毎週礼拝で信仰を告白している使徒信条に従った信仰とは違うようだ。 
キリスト教と言う言わないに関わらず、使徒信条を否定する宗教は、キリストの十字架の死と復活が起こった直後からいろいろな宗教団体の名前で存在してきている。ただ存在しているばかりではなく、三位一体を認めない一部の勢力は、キリスト教徒を激しく迫害してきているという現実がある。 
一部の勢力という言い方をしているのは、かならずしも、キリスト教を信じない方々全員が、キリスト教と敵対する考えを持っているわけではないということを述べておきたい。 むしろ、日本などでは、従来の仏教のお墓があるからとか、迫害に会う可能性があるから等の事情でキリスト教を信仰するという事は隠して、キリスト教の考えを持って生きるという方々もいることにも言及しておきたい。
アメリカ合衆国が歩んできた240年あまりの歴史において、キリスト教が迫害されるという感覚は持ちにくいかもしれない。迫害されるかされないかに関わらず、キリスト教徒として、キリスト教の考えを認めない方々と、どのような対話をするかは、とても大切な課題なのだと思う。

今日は復活後第四主日である。毎年、復活節の第四主日は、イエスが民を羊にたとえ、ご自分のことを良い羊飼いにたとえて、話をされたところを読んでいる。 一人の羊飼いが自分で責任を持つ羊の一群を導いて、草原を歩んでいくところを想像する中で、牧師が教会に集まる方々を導く光景を想像する方もいると思う。
しかし、イエスは、いろいろな教会ができて、それぞれの教会の指導者が、別々に囲いをつくって、それぞれの教会に集まる人々が、別々に宣教・伝道・社会奉仕活動をすれば良いということを言われたかったのだろうか? 
与えられた福音書の16節には、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と言われている。 これはいったいどういう意味を持っているのだろうか?

当時の社会情勢からして、イスラエルにおいては、ユダヤ人か異邦人かの区別がとてもはっきりしていたのだと思う。だからイエスのこの言葉を聞いた弟子たちには、とまどいもあったのではないかと思う。
囲いの中にいる羊たちとは、自分たちユダヤ人のことで、ユダヤ人が、救い主イエスによって救われるのだろう。しかし、異邦人はどうでも良いという考えも持っていたのではないだろうか? 
イエスはそれをはっきり否定したのだと思う。ユダヤ人ばかりではなく、異邦人をイエスは導くということをここで宣言されていたともいえるのではないだろうか? 囲いの外の羊も、イエスの声を聞き分けるとなっており、異邦人もイエスに従って歩むということを、述べておられたように思う。 
16節を今一度、全部読むが、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」という言葉を21世紀にあって、改めて聞くとき、現代の私たちに、さらに重要な意味を持ってくるように思う。

私たちは、教会教会といって、教会という囲いがあるのは現実だと思う。教会には来ない方々もたくさんいるし、教会の教えを理解しようともせず、避けてしまっている方々もたくさんいるのかと思う。
冒頭にも述べたように、キリスト教についてよく学んだ上で、教会の三位一体や、イエスが神だということは受け入れられないという方もいるのが現実である。 しかし、どのタイミングで起こるのか、私たちの知りようがないが、その囲いの外にいる羊が、主イエスの声を聞き分け、理解できるようになるということが起こる。キリスト教には無縁と思っていた方が、あるいはキリスト教を完全に否定していた方が、聖書の話を聞き入り、伝道活動をするようになる。 
明治初期に日本人の最初の司祭となったといわれる、沢辺琢磨という方がいる。 彼はもともとは武士であり、当時函館にいたロシア正教会の宣教師ニコライを殺すつもりで、ニコライに会いに行ったという。 しかし、ニコライ宣教師から「キリスト教のことがわかっていないのに、なぜ、私を殺そうとするのですか?」と言われ、ニコライの話を聞き、すばらしい神の愛に気付き、キリスト教の洗礼を受けることになり、何年後かにはロシア正教会の司教がロシアから来て按手を受け司祭になってしまった。 
いつかはわからないが、明日か、10年後か、もっと先か、キリスト教を迫害する者さえ、教会で語られるメッセージを聞き、教会との関係を持つときがくることを、しっかり念頭におき、いまは教会に来られていない方々とも、長いおつきあいをしていくように導かれているのではないだろうか。新しい1週間、新たな希望、喜びを抱いて歩めますように!
アーメン
安達均

Other Sheep Not in the Fold
John 10:11-18

May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into peoples’ hearts! Amen.

May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into peoples’ hearts! Amen.
We’ve had experiences with people standing outside of our front door wanting to share their faith. Even though they say that they are Christians and that they read the Bible (very similar to our Bible but a special translation) they do not accept the Apostles’ Creed according to which many Christians confess their faith.
Regardless of whether they say they are Christians or not, there are people who deny the Trinity. Those religions have always existed even after Jesus was crucified and resurrected. Not only do they deny the Holy Trinity, some sects have actively persecuted Christians throughout history.
The reason why I said “some sects” is that not all people who deny the Holy Trinity act against Christians at all. For instance in Japan, there are people who say they are not Christian due to their ancestor’s grave in a Buddhist temple, but some of them study Christianity and believe in Christ although they could never accept Christ publically.
In the US, those that have lived in the later part of our nation’s 239 year history, find it difficult to imagine that Christians are persecuted. Regardless of whether or not we are persecuted, a very important issue is how we relate to people who do not know about Christianity or do not accept the Christian faith.

It is the fourth Sunday of Easter Season. Every fourth Sunday of Easter, the gospel about the Good Shepherd is read. When we imagine that the Good Shepherd leads the sheep into a certain fold, you might also imagine that pastors also lead the members inside the church.
However, did Jesus state that pastors or leaders of the Church should not care about sheep outside the fold? Did he state that pastors should not care about the people outside the Church?
In today’s Gospel, verse 16 says, “I have other sheep that do not belong to this fold. I must bring them also, and they will listen to my voice. So there will be one flock, one shepherd.” What does this mean?

Considering the social context in Israel at that time, there was a clear distinction between Jews and Gentiles. Therefore, I believe his Jewish disciples were perplexed by what Jesus said.
The sheep in the fold were Jews and the disciples had been thinking that they would be saved by the Messiah, but they did not know if Gentiles would also be saved. The disciples might not have cared if Gentiles would be saved or not.
Jesus ignored his disciples’ possible indifference. Jesus proclaimed clearly that Jesus would lead the Gentiles as well. He proclaimed that even the people outside the fold would listen to Jesus’ voice and follow him.
2000 years after Jesus said this, almost over 2 billion Gentiles worldwide listen to Jesus’ voice through the Bible and worship Him as our Messiah. All of us in this sanctuary worshipping Jesus today are actually Gentiles. And again, when we hear the Scripture that says, “I have other sheep that do not belong to this fold. I must bring them also, and they will listen to my voice. So there will be one flock, one shepherd.” and it is still very important, for us, even in the 21st century.

There are many people who won’t try to understand what Jesus taught or will try to get away from apostolic confession. Are we making a fold that prevents non-Christians from listening to what Jesus taught? There are those that definitely stay outside the fold, but that does not mean we should ignore them.
There are also a different group of people who learned about the Holy Trinity and completely deny it. Although, we do not know when it will happen, there will be a time when people outside the fold will know Jesus’ voice and follow him.
At the beginning of the Meiji era (a time of open Western influence in Japan), there was a samurai named Takuma Sawabe. He came to see the missionary, St. Nicolai, in Hakodate, with his sword unsheathed ready to kill him. However, St. Nicolai said to him, “Why do you try to kill me even without knowing what Jesus taught us?” Surprisingly, Takuma Sawabe started listening to St. Nicolai, then he was baptized, and several years later, became the first Christian priest in Japan.
We do not know when, it could be tomorrow, ten years or a thousand years from now, but there will be a time when even the people that persecute Christians will listen to Jesus and there will be one flock led by Jesus, the Good Shepherd. We should pray for and try to talk with the people who do not come to church or do not listen to what Jesus teaches, remembering Jesus’ inspiring words: “There will be one flock, one shepherd.” Amen.

Pr. H. Adachi

2015年4月26日LCR日本語部週報通算第1349号

2015年4月26日(復活後第四主日)の週報

April 26, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1349E

 

来る日曜日は復活後第四主日となる。7週間ある復活節の半ばに入ってきている。毎年この復活節第四主日は「良き羊飼い」に関する福音書箇所が読まれ、詩編は23編が聖書日課には与えられる。詩編23編は現代ではメモリアルサービスなどでもよく読まれ、「もう読んだことがある」という方が多いのではないかと想像する。 しかし、何度読んでも、その度に新たな発見をするような詩編ではないかど思う。 今年も23編を読んで、いつものように気になる言葉や節はなにか? 次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編23編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 
  
詩編 23編
1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は、1-3節を読み進む中で、主が休憩のために導いてくださることを詠うなかで、ダビデや詩編作者がいかに疲労困憊するような状況にあったことを想像する。 

詩編作者の立場を思って詩編23編を読む時、この詩編を詠いはじめるまでの状況が、いかに痛ましくたいへんな状況であっても、不安に陥りそうな羊に必要なものを必ず与えてくださり導いてくださる羊飼いのようなお方、主がおられる(1節)。そして、そのような疲労困憊にある羊に、とても大切な安全で休息の場へと導いてくださる(2節)。その憩いの場において魂は生き返り、まさに主の御名にふさわしく、次のステップに向かう際には、軌道修正をしてくださる(3節)。そして新たな道に向かうとなると、さらに厳しい死の陰の谷を通るようなことがあっても、主が共に歩んでくださっており、羊飼いが手に持って歩む鞭や杖さえも私を力づけ、災いにあうことだって恐いことではない(4節)。 私を苦しめるものが目前に現れても、主が食べ物を与えてくださり、油を注いでくださり、ふんだんに飲み物を与えてくださる(5節)。永遠に主の恵みと慈しみが私の後をはげしく追ってきてくださり、それはどこにいっても、その場が主の家でありつづける(6節)。 

この詩編を通して、主なる神は何を現代の私たちに語りかけておられるのだろうか? 読む一人一人、お若い方も、還暦を過ぎておられる方々もいると思う。 しかし、それぞれに、ピンチという状況を経験されてきたのではないだろうか。 私は2歳のころに結核になったりしているが、まさに、2-3節にあるように、主が十分な休息の場を与えてくださり、快復への道へと導かれたように思う。そして、人生へのさらなるチャレンジを目前にしようが、4-5節にあるように、主なる神が元気付けてくださる。それは主イエスが十字架に架かり、死にて葬られても復活されたように、主イエスの信仰により、私たちにも復活の命、永遠の命が与えられていることを確信することができて、さまざまな困難に立ち向かう勇気が新たに与えられるのではないだろうか? それはこの世の肉体的な死を迎える時、いっさいの食べ物も家も財産もこれから先は持っていくことができないような境遇を迎える時になっても、このうえのない主の恵みと慈しみが与えられ続ける。 今、どんなにか困難な状況を迎えている方々がおられようが、そこに存在する主の癒し、慰め、慈しみが豊かに注がれている。 アーメン

安達均

今週は聖書日課では4月16-19日に与えられている詩編4編を読む。主なる御方に心を集中させて読んでいこう。そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編 4編
1:【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】
2:呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。
3:人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ
4:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。
5:おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ
6:ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。
7:恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
8:人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。
9:平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。

気になる言葉というと、私の場合は5節の「横たわるときも」と9節の「平和のうちに身を横たえる。」

さて、詩編作者の気持ちになって、一節づつ振り返りたいが、5節の言葉に、「横たわるときも」という言葉があり、最後の9節には、「平和のうちに身を横たえ」という言葉が書かれていること推測して、なにか眠れないときに、作詩されたように思える。 1節にある説明は、この詩編は音楽の伴奏付で歌われる様子が想像できる。しかし、眠りと関係しているので、静かな伴奏を詩編作者はイメージしているのではないだろうか。また、賛歌でありながら静かな曲想で、またダビデの生涯でいろいろな挑戦を受けた時とも関係がある歌なのだろう。2節以降、詩に入っていく。眠れずにいる詩編作者が神によびかけて、私の正しさを認めてくださる神よ、私に答えて、苦難から解放し、憐れんで、祈りを聞いてくださいと嘆願する(2節)。人々は、いったいいつまで私の主にあって生きる誉れを辱め、主の思いから離れたむなしい言葉を愛し、偽るのか(3節)。セラとあるので間奏が入る。主に生きる人は見分けてくださり、主を呼び求めるものの声を聞いてくださるということを知ろう(4節)。 主を畏れよう、そして横たわるときに、自分に正直に語り、そして沈黙しよう(5節)。 またセラとあるので、間奏が入る。 主にふさわしい献げ物をささげ、主を信頼しよう(6節)。 主から恵みが示されることを疑う人々がたくさんいるが、主よどうか私に御顔を向けてください(7節)。人々はぶどうを豊かに収穫して喜ぶ、そして、それにもまさる喜びをどうか私の心に与えてください(8節)。いろいろと気になるこことだらけだが、それでも主に信頼して平和のうちに横たわり、私は眠れる。主よ、あなただけにより、私はこの地に生活することができている(9節)。

さて、この詩編を読むなかで、主なる神が現代の私たちにいったい何を語ろうとされているか思いを巡らせたい。この詩編の背景にある、信仰を持つことを疑問視し、詩編作者に挑戦した人々がいたという時代は、現代にも通じるものがある。 しかし、主なる神、すべてを創造された主が、今も活き活きとおられ、それゆえに、太陽も地球も、さまざまな星も、主にある創造が続いており、秩序が保たれ、わたしたちの永遠の命もその中に存在している。さらに現代は、キリスト降誕と復活後の世界に人類は生かされており、死にて葬られても死を滅ぼしよみがえられ、私たちとともに主なるイエス、聖霊が、私たちのなかにしっかりと働いてくださっている。その創造主であり、この世に来られたそのひとり子イエスであり、そして聖霊なる三位一体なる主を信頼して歩むことがどんなにすばらしいことなのか。この地球上での生活には様々なチャレンジがあるが、しかし、主に頼り主の体である教会に仕える中で、この上もない喜びを覚え、そして主にある平安を与えられる。それはすなわち、どのような困難があって眠れない夜にも遭遇するが、それでも主に信頼する中で、喜びの眠りが平安のなかで与えられている。 
安達均
  

ヨハネ20:19-31

Orthodox Resurrection Icon

主の恵みと平安が全人類の心の中に浸み込みますように!

「あなたは救われましたか?」 という質問をされる方々がいる。 私はルーテル教会では、そのような聞き方はまず聞いたことはない。 また、私が育った家庭は、正教会だが、やはりそのような質問は聞いたことがなかった。 結婚してからは、妻が洗礼を受けた日本キリスト教団の教会の群れに加わっていた時代があるが、そのなかでもそういう質問の仕方は知らなかった。 
その後家族でカリフォルニアに来たわけだが、単立教会とか会員数は多いが少数の教会だけで成り立っていて、はじまってまだ数十年というような教会の方々で、英語では”Have you been saved?”とか日本語の「救われましたか」という言い方をする方々が多いことがわかった。また日本にある教会でもそういう質問をされる方々がいることもわかってきた。 
その質問は、ただ「洗礼を受けましたか?」の代わりに使っているのだろうと思っていたが、どうも、ピンと来ないままである。 「私たちは救われたが、あなたは信仰告白をしていないから、あるいは洗礼を受けていないから救われていないのです。」という意味に聞こえてしょうがない。この質問は、残念ながら教会間でも分裂を招きそうな言葉であるとも思う。本当に、洗礼を受けてない方が聞きやすい言葉なのか?  

本日は、復活節第二日曜日。カトリック教会とほとんどのプロテスタント教会では、イースターは先週の日曜、4月5日だった。 しかし、東方正教会は使っている暦が異なるため、今日が復活日となる。 
イエスは木曜夜半には、ユダ以外の弟子たちからも見放され、金曜には十字架にて死に、墓に葬られた。しかし三日目の日曜夕方に、弟子たちの前に現れた。弟子たちは、復活の主にあったことを話し合っていた
しかし、12弟子の一人で、トマスは他の弟子たちとは別行動をとっており、そこには居合わせなかった。弟子たちがイエスの復活に出会ったことを告げても、「イエスに会って、その傷を見ない限り、私は決して信じない。」と言い張った。一連のイエスの十字架の死と復活は、いわば弟子たちの間に一時的な分裂を引き起こしてしまったような面がある。
ルカ福音書には、復活した日曜の午後、二人の弟子たちが、他の弟子たちとは別行動をとってエマオに向かったいたことも書かれている。主イエスの死と復活の出来事により、ある意味、弟子たちの間で分裂が起こっていってしまったような面がある。しかし、それは神の意志だったのだろうか?

この質問に答えようとするには、さらに聖書をしっかりと読む必要があるのだと思う。 弟子たちに裏切られたイエスだったが、復活したイエスは、まず、あなたがたに平和があるようにという言葉を2 回も語っている。
イエスは「派遣」について述べられ、息をふきかけて「聖霊を受けなさい」と話し、さらに私があなたを赦している現実を示しつつ、弟子たちもだれの罪でも赦すよう述べられた。この息を吹きかける行為は、もともと創世記2章で、神がアダムに息を吹きかけ命を与え、イブにも命が与えられたことと直接関係している。このイエスの行為は、新創世記ともいえる。
創世記3章では、 アダム、イブ、そして生まれてくる人間みなが、罪の世界に入ってしまう。そして、ユダヤ人も異邦人も共同して神の一人子を十字架にかけ殺す時代が来てしまった。 しかし、神はイエスを復活させ、復活したイエスが慈しみ深い愛をもって、全人類を赦し、そして、新しい復活の命をくださる。全人類は、罪と死の世界から、赦しと新しい命というまったく新しい時代に突入する。 

説教の前半で述べたように、先週の日曜から西方教会やプロテスタント教会では復活節に入った。 わたしたちの兄弟姉妹である、東方正教会でも今日はイースターを祝い、全世界のキリスト教会は、全地域で復活節を祝うシーズンに入った。ここで正教会でよくみかけるイースターのイコンの話をしたい。 このイコンには復活の主が墓からよみがえったところが描かれている。 そして、手をさしのべて、イエスから引き上げられているのはアダムとイブ。
時代を超え、また人種や国境を越え、またキリスト教の宗派をも超えて、イースターの前は、罪と死の世界に立っていた私たち全人類が、主の復活の後は、赦しと命の中に立っている。 私たちは、まったく新しい世界にいる。イエスの復活ゆえに、人類は全く異なる時代に生きることができる。 
キリストの復活は、ある特定の個人が新しく生きるようになるためでも、ある宗派のある単立の教会だけが救われるわけでもない。 主イエスの復活にあって、私たち全人類が復活し、共同の教会として、赦しと新しい命の中に生かされている。
教会の暦では、復活節は7週間あり、最初の1週間が過ぎた。 残りの6週間、ぜひ、主の復活にある共同の教会がどういうことなのか、おひとりおひとり観想されることを祈る。共同の教会ということを考える中で、ぜひ、神が復活ルーテル教会をよき方向へと導かれますように。 皆様が新しい命に生かされますように。
アーメン 
安達均

We Are Church Together
John 20:19-31

May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this world!
Some Christians ask “Have you been saved?” I do not think I have ever heard Lutherans ask someone this question. I believe many of you now know that I was baptized in the Orthodox Christian Church but again, I do not think I have ever heard Orthodox Christians ask, “Have you been saved?”
After I married my wife, she was still attending one of the largest Protestant denomination churches, in Japan, called United Church of Christ. I attended that church too and, yet again, I never heard anyone ask, “Have you been saved?”
Then, about 10 years after Satoko and I were married, we came to the United States. I found that there are many non-denominational churches in Southern California (worshipping in English and Japanese). It seems like in many of them, people often ask “Have you been saved?”
I interpreted the meaning of the question as “Have you been baptized or confirmed your Christian faith?” But to me that question does not really make sense. I feel if you ask “Have you been saved?” the meaning behind it is “Although we are saved, if you have not confirmed your faith or are not baptized, you are not saved.” “Have you been saved?” is often used in a way that creates division among denominations. Is this really something Christians should say to non-Christians? Is this common sentiment even true?

Today is the second Sunday of Easter in many Protestant denominations as well as in the Catholic Church. However, our brothers and sisters in Orthodox churches are celebrating Easter today this year (just for your information).
Jesus was abandoned by his disciples Friday morning and sentenced to death and crucified and killed later that Friday afternoon. According to John 20, on the same day Jesus was resurrected, later in the afternoon on Sunday, Jesus came to see his disciples; the disciples saw the resurrected Jesus.
However, one of the twelve disciples, Thomas, was doing something else and was not with the other disciples when Jesus visited the other disciples. Later on, even though the other disciples said that they saw resurrected Jesus, Thomas insisted that he wouldn’t believe them unless he saw Jesus himself. In a sense, as a consequence of the death and resurrection of Jesus Christ, a division occurred among the disciples.
I know, according to Luke, there were two other disciples who were heading to Emmaus that day. We might say that was a sort of division, too. Were these seeming divisions among the disciples Jesus’ Intention?

As we think about that issue, I believe we need to read the text more carefully. The resurrected Jesus neither accused nor retaliated against his disciples because of their abandonment. Instead he said, “Peace be with you” twice to his disciples on the first Sunday since he was risen.
After he said this, he talked about sending the disciples throughout the world first, and secondly, he breathed on them saying “Welcome the Holy Spirit,” and thirdly, as he was showing that he forgave them, he guided them to forgive sins of others. The Risen Jesus, the son of God, breathed on the disciples. This action is strongly connected to Genesis in that God breathed on Adam and Eve giving them life.
As you know Adam, Eve and the whole of humanity are marked by sin. However, even though God’s son, Jesus, was crucified and died, God resurrected Jesus and revealed His gracious forgiveness and gave new life to all human beings. Because of Jesus Christ’s resurrection, humanity entered a completely new age.
As I mentioned, at the beginning of my sermon, our brothers and sisters of the Orthodox Church are also celebrating Easter, I would like to share with you a famous icon in the Orthodox Church. Of course, the central figure is Jesus Christ; however, who are the two individuals being pulled from their tombs (or caskets) by Jesus? The answer is: Adam and Eve. Even the first two human beings who sinned were resurrected.

Beyond ages, beyond races and nationalities, beyond Christian denominations and before the promise that Easter brings humanity is marked by sin and death. Easter, allows us to acknowledge and celebrate the Lord’s gracious forgiveness and our new life. The world is different and we, human beings, are different and better because of Jesus’ presence in our lives.
The resurrection of Jesus Christ is not only for certain individuals or not only for certain churches. The resurrection of Jesus Christ is for all people. The resurrection is for the salvation of all time and all nations (i.e. the whole world). We, all Christians, are Church Together. We, all human beings, are all saved.
On the Church calendar, that most churches follow, Easter season is seven weeks or 49 days. During the rest of this Easter season, as you reflect upon Jesus’ resurrection, please think about what Church Together truly means. I hope and pray that you experience new perspectives about how God is leading Resurrection Lutheran Church to find ways that help unite our communities of faith, instead of focusing on things that divide us.
Amen. Pr. H. Adachi