ルカ福音書  1:26-38

主よ、恵みと平安を、待降節第四主日に、集まりました会衆の上に豊かに注いでください! アーメン

ビートルズの晩年の名曲、レット・イット・ビーという曲をご存知の方、多いと思う。しかし、この名曲が今日読んだ福音書箇所と深い関係があることをご存知の方は、日本人の間では少ないのではないかと思う。
彼等が歌った多くの曲は、ジョンレノンとポールマッカートニーの合作とされているが、すくなくともこの歌詞は、ビートルズの活動がだんだんできなくなりそうな難しい時期に、ポールマッカートニーによって書かれたようだ。 事実、Let It Be をアルバムとしてリリースした後、ビートルズは4人での演奏活動はやめて、各自それぞれに活動するようになっていった。 
その時の難しい状況というのは、Let It Beの最初の歌詞からしてもわかる。 ”When I find myself in times of trouble” つまり「自分が困難な時期にある時」といって詠いだしているわけで、ポールがどうしてよいかわからなかったような状況が想像できる。 
そして、私たちの現実においても、仕事でも、こどもの教育問題にしても、親の介護にしても、あるいは自分自身の将来を考えてみても、自分でどうしてよいかわからず、悩んでしまう人生の現実がある。

さて、時代は2000年さかのぼる。どうしてよいかわからない状況は、イエスの母マリアにもやってきていた。ビートルズが解散しなければならないかどうかというより、種類の違う問題だと思うが、どうしてよいかどうかわからない状況には変わりはない。  
マリアは大工職人のヨセフと婚約はしていた。 しかし、結婚前に、ガブリエルという天使がマリアに顕われて、「おめでとう、恵まれた方。」と話しかけてくる。 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込む。
すると、天使は「マリア、恐れることはない。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けるように。 その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。」と話をつづけた。 
マリアは天使に言った。「まだ男性を知らない身に、どうして、そのようなことがありえますか。」 すると、天使は答える。「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、不妊の女とされていたのに身ごもっている。 神にできないことは何一つない。」
マリアはどんなにか悩んだことだろう。ただ悩むというより、たいへんな心配、恐怖感にさえ陥ったと思う。そもそも未婚の女性が妊娠することは、ユダヤの律法社会では考えられないこと。もし、妊娠しようものなら、ヨセフとの破談どころか、死刑にだってなりかねないようなことだ。

しかし、マリアは徹底的に謙虚に、ガブリエル、神の遣いの言葉を信じる。 そして、マリアは「わたしは主の僕です。 神のお言葉どおり、この身に成りますように。」と言った。
このマリアの言葉、新約聖書の原語であるギリシャ語には、「ゲノイト モイ カタ ト セマ ソウ」 となっており、「あなたの言葉通りに、この身になりますように」という意味。 英語で言えば “Let it be according to your word” となる。 最初のギリシャ語の「ゲノイト」が”Let It Be” 日本語で「成りますように。」 ここのLet It Be は、かならずしも、「ほうっておく」とか「成るようになれば良い。」という「無責任に放置する」という意味ではなく、It という代名詞の中に、「神のお言葉通り」ということが含まれている。
マリアは、自分ではどうしようもない事態で自分自身では何もできないけれども、この主のはしためである私を用いて、主のお考えが実現するようにと祈った。 それは信仰深い、受動的というよりむしろ自分を主のために用いてもらおうとする能動的ともいえる祈りなのだと思う。 

今日与えられた、福音書箇所の中にある、マリアが天使ガブリエルを通して、神に祈った言葉から何をわたしたちは学んでいるのだろうか? 私にはマリアのその「神のお言葉通り、この身になりますように」、”Let It Be”という言葉に、イエスの母、マリアの信仰深いすばらしい祈り、姿勢、さらに行動を見る思いがする。そして、その言葉は、さらにビートルズが歌って大ヒットしたLet It Beを今一度聞いて、私たちの信仰者としての祈りの姿勢、態度、そして行動を、さらに問われるような面があると思う。
ちなみに、さきほどのLet It Be の歌詞の続きを少し紹介すると、”When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me, Speaking words of wisdom, let it be.” 日本語に訳すと、「困ったことになって悩んでいると、マリア様がやってきて、すばらしい言葉をくれたんだ、身をゆだねなさい。と。」 ちなみに、ポールマッカートニーの母はポールが高校時代に亡くなっているが、その名前もマリアだった。 だから、ポールマッカートニーは自分の母親が夢で現れて、「Let It Be」と歌っていたのかとも思う。しかし、ポールは、イエスの母の言った言葉も意識していたように思う。いや、たとえポールが意識していなかったにしても、神の思いがそこに働いて、マリアの祈りの言葉がこめられていると思う。その証拠に、ポールはこの曲ができた後、アレサフランクリンというゴスペル歌手に歌ってもらっている。 

私たちの人生、本当にどうしようもない、壁、難局に直面する。 たとえ自分では何もできないと思うときでも、そこには、必ず、少なくとも一つできることがある。 私たちは、神に祈ることができる。 「神の思いが成りますように」、”Let it be, according to your word.”と祈ることができる。 あるいは、主の祈りの中にある、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と真剣にあきらめずに祈ることがどんなに大切なのかと思う。 そして私たちを神のために用いてくださいという態度をとるなかで、私たちがとるべき言動、行動へと導かれる。自分の思いではなく、神の思いにしたがって、生きるなかで、すばらしい光が射してきて、永遠の命に生きることができる。 
アーメン 安達均 

“Let It Be”
Luke 1:26-38

Lord may you pour your grace and peace unto the people gathered in this sanctuary on this fourth Sunday of Advent! Amen.

I believe everyone knows “Let It Be,” a great Beatles song on their final studio album of the same name. But I am not sure how many of you know the close relationship between the Gospel I read and “Let It Be.”
Although many of their pieces were composed by John Lennon and Paul McCartney, this piece was written by Paul. When Paul wrote this piece, it was during very difficult time in the lives of the Beatles. Shortly after the release of this album the band broke up. John, Paul, George, and Ringo went their separate ways.
We can easily relate to the lyrics of the song, as Paul sings, “When I find myself in times of trouble.”, Paul is not the only person to experience difficulty, each of us often find ourselves in times of trouble. Examples of difficult times can include, raising children, when caring for elderly parents, making business decisions, and making end-of-life plans etc. During these decisions we ponder the best course of action.

Let’s go back to 2000 years ago. Jesus’ Mother, Mary faced a troubling situation. Obviously, it was a much more serious situation than the one the Beatles faced.
Mary was engaged to a young carpenter named Joseph. During that time, the angel Gabriel appeared to her and said, “Greetings, favored woman! The Lord be with you!” Mary was confused, anxious, and was unsure what the angel meant.
“Don’t be afraid, Mary,” the angel continued, “for you have found favor with God! You will conceive and give birth to a son, and you will name him Jesus. He will be very great and will be called the Son of the Most High”
Mary asked the angel, “But how can this happen? I am a virgin.” The angel replied, “The baby to be born will be holy, and he will be called the Son of God. What’s more, your relative Elizabeth has become pregnant in her old age! People used to say she was barren, but she has conceived a son and is now in her sixth month. For the word of God will never fail.”
Mary must have been very worried because being an unwed mother is unacceptable according to Jewish law. Mary would not only face her engagement being broken off, but she also might face capital punishment, i.e. the death penalty.

However, she responded, “I am the Lord’s servant. May everything you have said about me come true.”
This portion of the Mary’s words was written in Greek “Genoit moi kata to thema sou.” Literally, “Let it be according to the word of you.” The word “Genoit” means “Let it be.” This word “let it be” does not mean “to irresponsibly leave it as it is.” She did not mean in a passive sense. Rather this pronoun “it” includes the meaning of “according to God’s will.”
Although Mary pondered this incident and could not do anything by herself, I think she meant that “May the Lord use me as an instrument of God and let it be according to your will.” This was her faithful and active prayer.
What can we learn today, in the Gospel of Luke, about the words that Mary prayed to God through the angel Gabriel? I think we see Mary’s wonderful and faithful prayer, her humble attitude and actions in her prayer “Let It Be.” Also, God is asking us to listen again to the great hit song “Let It Be” and to rethink our prayers, attitudes, and actions as Christians.

Let me reread you the first few lyrics “When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me, Speaking words of wisdom, let it be.” Incidentally, Paul McCartney’s mother was named Mary and she died when Paul was in high school. He might have meant Mother Mary in the lyrics as his mother, but I am almost sure that Paul had Jesus’ mother, Mary, in mind as well because after he wrote the piece, he asked the famous Gospel singer, Aretha Franklin to sing the song.
In our lives, we encounter troubles that we think we can do nothing about. But there is at least one thing I am sure we can do…we can pray. We can pray “Let it be according to your will.” Or we can pray as Jesus taught us, “Thy will be done.” By enthusiastically praying this prayer, God will guide our attitudes and actions. It is not because of our will, but due to His will that we may see the light and live eternally. Amen. Pr. Hitoshi Adachi

クリスマスを一週間後に控えて、今週は詩編89編の1-5節と20-27節を読む。89編は53節もあり、とても長いが、上記の箇所を集中して読む。いつものようにインパクトを感じる言葉や気になる節はなにか? 次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編89編を通して、待降節を過ごす私たちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
 
詩編 89編8-19節
1:【マスキール。エズラ人エタンの詩。】
2:主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に/あなたのまことを告げ知らせます。
3:わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ/あなたのまことがそこに立てられますように。」
4:「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った
5:あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」〔セラ

20:あなたの慈しみに生きる人々に/かつて、あなたは幻によってお告げになりました。「わたしは一人の勇士に助けを約束する。わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。
21:わたしはわたしの僕ダビデを見いだし/彼に聖なる油を注いだ。
22:わたしの手は彼を固く支え/わたしの腕は彼に勇気を与えるであろう。
23:敵は彼を欺きえず/不正な者が彼を低くすることはない。
24:わたしは彼の前で彼を苦しめる者を滅ぼし/彼を憎む者を倒す。
25:わたしの真実と慈しみは彼と共にあり/わたしの名によって彼の角は高く上がる。
26:わたしは彼の手を海にまで届かせ/彼の右の手を大河にまで届かせる。
27:彼はわたしに呼びかけるであろう/あなたはわたしの父/わたしの神、救いの岩、と。

インパクトがある、あるいは気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は27節の「彼はわたしに呼びかけるであろう。あなたはわたしの父。」  

詩編作者の立場を思って詩編89編を読んでいきたい。89編の1節から5節は今年の6月26 日にも読んでいて、繰り返しになるが、マスキールとは詩編の中でしばしば使われている言葉で、ヘブル語の元々の意味は「悟る。」転じて、「教訓的な詩編」という意味をもつ詩なのだと思う。2節から5節は主への賛美。永遠の主の慈しみ(憐れみ)を覚え、私も代々にわたって子孫たちも、主をほめ讃えます、あなたの真理を告げます(2節)。 私は詠う、「天には永遠なる慈しみが用意されており、あなたの真理が天に立っている」(3節) 。4-5節では、主がダビデに約束した、「子孫を永遠に立て、王を代々備える」ということを詩編作者は人々に思いだすようにと喚起しているのかと思う。5節は「セラ」という休符の記号で閉じる。

20節から27 節は、具体的に主がダビデに対して語り実行されたことを、主が「わたし」という第一人称となって詠っているようである。以下、27節までのいくつかのポイントのみ記す。主がダビデに油を注いだ- – – 油を注ぐには、メサイア、救い主の意味がある(20-21節)。主は彼をサポートすること、そして勝利を約束する(22-24節)。神の真理と慈しみは彼とともにあり、彼は崇拝され、彼の力は全世界の大海、大河にまで及ぶ(25-26節)。そしてその彼が、私のことを「わたしの父、神、救いの岩」と呼ぶであろう(27節)。   

この89編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? 今日読んだ、20-27節は単に、主とダビデの過去の出来事を詠っているように思えるが、よく読み返すと、そこには救い主イエスのことが詠われているような気がしてならない。5節にあった言葉には、「ダビデの子孫をとこしえに立てる」ということが詠われていたが、ダビデの子孫とはだれなのか? また今日の詩編箇所の最後で、「あなたは私の父」と言うのはダビデのことなのだろうか? 後にこの世にダビデの子孫として顕われたイエスが、繰り返し神に向かって「私の父」と呼ばれていたことを思い出す。 詩編は150編あるが、紀元前数百年間に、150編の詩だけが詠われていたわけではなく、旧約聖書の詩編には掲載されなかった詩もたくさんあるのではないだろうか?その中で選ばれた150曲は、紀元前の大ヒットチャート150ともいえるのではないだろうか? その中で、人々はヒット曲の深い深い意味に気がつかずに繰り返しユダヤの礼拝で詠われていたような面があるように思う。そして、現在においても、私たちが気が付かずに歌っている、ポピュラーソング、クラッシックソング、歌謡曲、演歌、あるいは民謡でも、そこに神の御心が潜んでいて、神の思いを表している曲があるという教訓を与えられているように思う。 
アーメン 安達均

ヨハネ1: 6-8, 19-28 

たとえこの世が真っ暗闇に感じることがあっても、主イエスの光の輝きに気づくことができますように!

アメリカに来る前に家族で毎日曜礼拝に出ていた東京にある教会は、「あかしびと」という教会のニュースレターを毎月、発行している。漢字で書くなら「証し人」となるが、漢字の構造を見れば、「正しいことを言う人」ということになる。しかし、わざわざひらがなを使っているのは、意味があってそうなっているように思う。 
この言葉、単に「正しいことを言う人」というより、さらに二段階くらい深い意味がありそうだ。一段階目は、裁判で「証人」という言葉が使われるので、「証人」という言葉を用いて説明すると良いように思う。 そこには目撃した、なにかを実体験したという人が証人となる。
そして教会で使う場合は、主なる神と出会う体験をして、神がおられること、神の愛を感じるようになり、その体験を述べる人。

私は、今日与えられた福音書から、「証し」という言葉の、さらなる深さというか、さらにイエスの輝きが見えてくるような面があるのではないかと思っている。ヨハネ1章6-8節には、洗礼者ヨハネは「光について証しするため」という言葉が繰り返し使われている。「証し」という言葉は3回出てきた。ヨハネ福音書の中では、洗礼者ヨハネの「光についての証し」に端を発して、すべての人が光を信じるようになることが啓示されていたのだと思う。
しかし、その「光についての証し」とはどういうものなのだろうか? この質問に答えるには、「さてヨハネの証しはこうである。」という言葉で始まる、ヨハネ1章19節以降を読んでいくことが大切。
それにしても、当時の時代背景を説明する必要がありそうだ。当時のユダヤ地方に住む人々は、ローマ帝国の圧力がますます強まり、政治的には、ローマに圧倒されてしまっていたような状況があった。 
そこで人々の生活は、ユダヤ教の宗教的なさまざまな律法を守ることに加え、ローマ皇帝への税金も増え、人々の暮らしは困窮していたと思われる。さらに、ユダヤ人としてのアイデンティティが無くなってしまう恐れから、経済的にも肉体的にも、また信仰の上でも「真っ暗」という気持ちの民が多くいたのかと思う。

そのような状況で洗礼者ヨハネが出現する。 それは、「お先真っ暗」なユダヤに顕われた「期待の星」のような存在だった。マルコ福音書によれば、ユダヤ地方エルサレムの全住民が洗礼者ヨハネの元にやってきて、悔い改めの洗礼を受けたとまで書いてある。
しかし、エルサレムの指導者たちには、疑う者もいた。そして、司祭たちを遣わして、洗礼者ヨハネに質問させる。「いったいあなたはだれなのか? 待望していた救い主なのか、あるいは、過去の預言者エリヤの再臨か、あるいは、一預言者なのか。」これらの質問に対して、どれもNOと言う洗礼者ヨハネであった。
そして、洗礼者ヨハネは、イザヤの言葉を引用して、「私は荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ」という言葉を述べる。 しかし、司祭たちは何を言われているのかよくわからないので、「いったいあなたはなぜ洗礼を授けるのか?」という質問をしてくる。 
そこで洗礼者ヨハネは大声で叫ぶ。「あなたがたの知らない方が来られる。わたしが水で洗礼を授けているが、わたしの後に来られるとてつもない方がいる。」そこには、洗礼者ヨハネの後に来られる方によって、真っ暗闇に生きる当時のユダヤの民がその輝ける方、光を見ることができるという、先取りした証しを述べたと言える。
 
2000年後の今、この荒れ野での「声」と「光」はどういう意味を持っているのだろうか? この待降節にあって、真っ暗闇の状況に生きておられる方々がいる。しかし、人々は光を見る。現実問題、真っ暗なところに行けば行くほど、星が輝いてみえる。
私は真っ暗闇なんかにはいないという方もいる。しかし、だれも真っ暗闇を経験しないとは保証できない。人生、まさかと思う暗闇に突入することがある。突然の解雇とか、思わぬ交通事故、愛する友人や家族の死。そのような真っ暗闇にあっても、私たちは、光を見れるようになる。その光とは、人々の考え方を完全に変えるものすごいインパクトのある方。その光なる御方により、人生の暗闇の中に、ポジティブな面が見えてくる。
正しいことを話す「証し人」の話に戻りたいが、ひらがなの「あかしびと」には、単に自分の体験談を話すだけではなく、その方の生き様、病や死、さらに死後にも主の輝きを現す人々だと思う。洗礼者ヨハネからはじまって、とてつもない数の救い主イエスの「あかしびと」が出現した。
冒頭で「あかしびと」には二段階の深い意味があると思うと言った。その二段階目は、この礼拝堂にいる一人一人が、永遠の命に生きる信仰生活を通して、世の光、平和の君、最高の慰め人、愛の塊のような御方を証しする、「あかしびと」である。 アーメン 安達均

“The Voice and the Light”
John 1: 6-8, 19-28

May the Light of our Lord, Jesus Christ, shine in the midst of our world’s darkness.

The congregation that Satoko and I attended before we came to the US, has been issuing monthly newsletter called “証人” “Witness.” If I explain the characters, the word means: “言” “to say”; “正” is “right”; and “人” is “Person or People”. Therefore, the phrase is “People who say right things.”
However, when we use “Witness” in Christianity, it has much deeper meanings. I believe it has two deeper levels. The first level is: the term “witness” is often used in court cases; most people are familiar with this meaning. A “witness” in a court case is a person who makes a statement in a court about what he or she knows, has seen, or experiences.
When we refer to “witnesses” in Christianity; they are people who experience God’s love and talk about what they experienced. I think the Gospel today gives us another level of deeper meaning of witness, so that we might see shining light of Jesus Christ even more clearly. I read the word “Witness” three times from the gospel of John verses 6 through 8.

I believe the Gospel text today is indicating that all people on earth might see the Light, Jesus, through the witnesses, beginning with the Baptist John, 2000 years ago. However who is the Baptist John? What is his witness or testimony? To know John better, we need to read carefully from verse 19 that starts with the words, “And this is the record of John.” Well, this is like a court document….
But even before that, I think it is better to explain some historical background. 2000 years ago, the pressure from the Roman Empire was becoming stronger and stronger. Jews were politically controlled by Romans. Jews were pressured to not only observe Jewish laws but they were required to follow Roman law, as well. They felt like they were losing their own Jewish identities and could not a see bright future. In other words, they were living in darkness both physically and spiritually.

In the midst of the darkness, the Baptist John revealed testimony. As indicated in the Bible, he was a “star”. According to the Gospel of St. Mark, “And people from the whole Judean countryside and all the people of Jerusalem were going out to him, and were baptized by him in the river Jordan, confessing their sins.”
However, there were people among Jewish leaders that doubted John and had their suspicions. As such, they sent priests from Jerusalem to ask about John’s identity. They wondered if he was the messiah, Elijah, or a prophet. Answering these questions, John was very clear that he was not the messiah, Elijah, or a prophet.
He stated “I am the voice of one crying in the wilderness, Make straight the way of the Lord” quoting from Isaiah. But the priests did not understand what he meant, so they continued asking, “if you were not either of them, why do you baptize so many people?”
Then, John said with a loud and powerful voice, “I baptize with water: but there will be the great one after me.” His voice declared that there will be the light among the darkness in Judea. John’s voice declared the light.

What does the voice and the light mean for those of us living in the twenty first century? During this advent season, we still know there are people who live in the midst of darkness. However people may see the light. The reality is: the darker the place, the light shines brighter.
There may be people who say “I am not in the darkness.” However, no one can guarantee that they will never be in the darkness. There are cases where people experience sudden darkness. Some examples are a sudden layoff, an accident, an unexpected diagnosis, or the sudden death of your loved one. Even in those situations, you will see the light that completely changes your life. That light that impacts your life so deeply and totally changes your life. You recognize that the positivity that happens in your life is due to the light.
Let me get back to the word “witness” the person tells the right story. I believe that the witness is not only telling his or her story but showing God’s impact in one’s life, death and beyond. It’s been 2000 years ago, since John and there have been other tremendous examples of witnesses of Jesus Christ, God, our redeemer.
As a reminder, here is the second deeper meaning of witnesses. Each one of you is a witness who sees the light shine through your Christian life, death, and beyond. We should faithfully declare that Jesus is the light. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi

今週は詩編126編を読む。すばらしい詩編の一つだと思う。先週復活ルーテル教会の50周年を祝ったなかで、また、待降節の時期にあって、この短い6節だけの詩編を何度か読んでみると良いと思う。 そして、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。

詩編126編
1: 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、「夢を見ている人のようになった」という言葉。 

さて詩編作者の気持ちになって一節づつ読んでいきたいが、この詩編の書かれた時代を想像してみる。日本語だけを読んでいると、紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に詠まれた歌のように思えるが、英語に訳されたもの(1節から3節は過去形、4-6節は現在形の願い)から想像して、バビロン捕囚から見事に解放された時のことを過去のすばらしい体験として詠っているようだ。そして、紀元前6世紀以降に起こった、何かの困難に直面した時に、将来への希望を抱いて詠われているように思う。では、一節づつ振り返ってみたい。主がバビロンに捕らわれていた民をまたイスラエルに連れ戻してくださると聞き、夢を見ているようだった(1節)。その時に、民には笑い、喜びが満ち、他の国々も「主なる神が偉業をなされた」と言った(2節)。主は、わたしたちのために大きな業を成し遂げてくださったと私たちは喜び祝った(3節)。主よ、ネゲブ砂漠に川の流れを導くかのように、新たに捕われた私たちを解放してください(4節)。涙しながら種を蒔く人は喜んで刈り入れる時が来ますように(5節)。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人が、束ねた穂を背負い喜んでうたいながら帰ってくることができますように(6節)。

21世紀に生きている私たち、この詩編が訴えてくるものは何だろう? イスラエルの民は、バビロン捕囚から解放が起こった時、現実が夢のごとくに感じられた。同じように、私たちの人生においても、似たような体験があるのではないだろうか? 私は第二次世界大戦13年後に生まれたので、戦争中の厳しい体験を実体験していない。それでも、子供の頃に、1940年代の戦争という真っ暗闇とも言える状況から思えば、1960年代に起こっていたことが、「夢のようだ」と言われていたことを思い出す。 その現実はいったいどのように実現したかを考えると、ララ物資のような日系アメリカ人やクウェーカ教徒たちが中心になって働かれた日本難民救済の働きとか、逆説のようだが朝鮮戦争を支援するために日本に急速に産業が発展する必要が生じたとか、さまざまな要素があるのかと思う。それらは人間の計画というより、背後に働いている主なる神の存在を抜きにはとても考えがたいことなのだと私は思う。 そして、人類がしばしば経験する、困難は、個人的なレベルでも社会的なレベルでも、繰り返される現実がある。 どのような困難かはわからなくても、そのような困難、暗闇に直面した時に、すべてをご存知の御方が民を愛してくださっていることを確信し、夢が現実になることを思い出し、夢を見つつ希望を持って歩めますように。 待降節にあって、希望と喜びを抱きつつ。 アーメン 安達均

今週は詩編85編の2-3節と9-14節を読む。今年8月7日にも「詩編を読もう」で読んだ箇所。その時は広島と長崎の両原爆記念日にはさまれた日に読んだわけで、神が与えてくださる平和について考えさせらた。そして、同じ箇所を待降節に読むとき、新たな視点が与えられるように思う。 いつものように、詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。

詩編85編
2:主よ、あなたは御自分の地をお望みになり/ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。
3:御自分の民の罪を赦し/彼らの咎をすべて覆ってくださいました。〔セラ

9:わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
10:主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
11:慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
12:まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
13:主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。
14:正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。

気になった節や言葉はどこだろう? 私は、14節にある、「正義は御前を行き、主の進まれる道を整えます。」来る聖日に与えられている福音書箇所はマルコ1:1-8で、主イエスの宣教開始前に、洗礼者ヨハネが悔い改めのバップテスマを述べ伝えたことと重なってくるような面がある。 

詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。主なるあなたがご自分の地(イスラエル)を希望され、ヤコブの子供たちの世代からエジプトに捕らわれ奴隷だったユダヤの民を、イスラエルに連れ帰ってくださったのを思い出します(2節)。自分の民の罪を赦し、あやまちをすべて覆ってくださった事がありました(3節)。という二節が詩編85編の最初に詠われる。そこには、過去の過ちが赦された時があって良き時代になったが、しかし、この詩編が書かれた時代は、また民が神から離れてしまい、困難に直面している時代だったのかと想像する。そして、今日の箇所ではないが4節から8節までは、神に救いを求める駆け引きとも思われるような言葉も出てきて、神への懇願が詠われている。そして9節以降は、現代の音楽でいえば、短調から長調に移調するような感じで、様相ががらりと変わって、賛歌になってくる。 御自分の民が愚かなふるまいに戻ることがないように、主なる神が平和を宣言なさるのを聞く(9節)。 主を畏れている人々(過去を悔い改めている人々)には救いは近く、主の栄光がいっしょにとどまってくださる(10節)。神の慈しみと真理は満ち溢れ、正義と平和は一体となる(11節)。雨が降って見事な植物が地面から芽を出して伸びてくるように、正義が降り注がれて、地上に住む私たちの間に真理が萌出でる(12節)。 主は天からかならず良いものを降らせてくださり、地に実りをもたらす(13節)。正義は主の前を行き、主が歩まれる道を整える(14節)。 

詩編85編を通して、主が現代の私たちに語りかけていることに思いをめぐらせたい。現代をどういう時代か振り返ると、残念ながら不正ははびこっている。飢餓阻止のための協力により、飢餓状態からの向上は起こっているのかと思うが、まだまだ貧富の差がはげしくなっているような様相も感じる。自然環境ということを見ると、1983年からの10年間に起こった世界の自然災害合計は一年平均で147回だったが、過去10年間では、306回に跳ね上がっているというデータを見た。ほとんど毎日のように世界のどこかで自然災害が起こっていることになる。自然災害と呼んでいても、そのかなり災害は人類の愚かな、神を畏れぬ行為が自然災害の原因になっているような面があるのだと思う。このような時代にあって、今、新たに、待降節という季節が与えられている。主の到来を待ち望む時。この季節のはじまりは、南カリフォルニアでは、珍しく雨が続いている。 旱魃でたいへんな思いをしていていた南カリフォルニアには、たいへんな恵みと感じる。また、詩編85編の言葉を読みつつ、雨が降っている音を聴くと、私たちを悔い改めへと導き、過去の罪を洗い流してくださるような面を感じる。世界各地では、大雪や寒波に見舞われている地域もたくさんある。しかし、その厳しさの中にも、主なる神が良いものを与えてくださっており、そこに人々の信仰が芽生え、新しく希望と喜びが抱くことができるように。主の到来に備えることができるように。アーメン 安達均

マルコ 13:24-37

主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上にゆたかに注がれるように!

フランスの作家、作詞家、かつ飛行士、サンテグジュベリの書いた「星の王子さま」は日本だけでも600万部、世界では8000万部が販売されたという世界のベストセラーともいえる絵本。
原作は1943年、第二次世界大戦中に発売されている。翌年に、著者は亡くなっているため、世界的に有名になったのは、本人の死後何年もたってからのこと。
日本語訳は53年に発売になったが、日本で大ブームになったのは70年代以降だと思う。90年代末、箱根に博物館もできている。大ブームの根底には、人生の重要な問題について、大きな指針を与える本である事だと思う。

もう少し言ってしまえば、聖書とはきっても切り離せないような関係があると、私は思っている。事実、著者は、イエズス修道会の教育を受けていることからも、想像がつく。

今日の福音書箇所、待降節に入って、教会の暦では新しい年となり、今年の福音書はマルコを中心に読んでいく。しかし、今日のテーマも11月はじめから読んでいたマタイ福音書の焦点と同じ、終末、イエスの再臨に関係している事。
マルコ福音書は、わたしたちに新たな視点を与えてくれると思う。イエスは、人の子、つまりイエス自身が、雲に乗って来るのを見ると、教えられている。 イエスがこのように話しているのは、旧約聖書の中にダニエル書の中で預言されていたことをイエスは教えているし、またそのことは、パウロが書いたテサロニケの信徒への手紙などに出てきているイメージとも重なる部分があると思う。
人の子が雲に乗ってくると、イエスが話されていたことは、サンテグジュベリの想像力を掻き立て、ほかの星からやってきた、王子様という設定が浮かんできたのではないかと、私は勝手に想像している。 イエスのことを聖書の中でいろいろな呼び方がされるが、平和の君とかThe Prince of Peaceなどとも呼ばれる。 星の王子様の英語のタイトルはThe Little Prince。

本日の福音書で、イエスが話そうとされていることのポイントは、後編に重点が置かれているような気がしてならない。「目を覚ましているように」という表現が4回も繰り返し使われていて、最後の言葉も「目を覚ましていなさい」で終わっている。
目を覚ましていなさいとは、イエスは何をおっしゃりたいのだろうか?文字通り、眠らずにしっかり目をぱっちり開いていなさいということなのだろうか。この箇所については、聖書学者も多くの牧師たちも、「眠らないように、目を開いている」ということを言っておられたわけではないと、解釈しており、私もそう思っている。
そして、今日特に感じているのは、目を開いているというより、むしろ「目を閉じてしっかり考えるように」と言われているように私には聞こえてくる。礼拝で読まれる聖書の箇所はいつも数節だけで短いので、ついついそこだけで解釈しようとして、意味を取り違えてしまう危険性を含んでいるのかと思う。
今日の箇所はマルコ11章からずっとイエスがどういうことを語ってきたのかを振り返ってみる必要があるように思う。
イエスがエルサレムに弟子たちと共にやってきて、なにを見てきたか? それは、まずエルサレムの宗教指導者たちに幻滅したともいえる。さらに弟子たちさえも、神殿にあこがれ、神殿の石のひとつひとつに感動したようなところがある。
しかし、イエスは、弟子たちによく考えるようにいわれているのだと思う。目に見える神殿がそんなに大切なものなのか。目に見えている天地が本当に、あなたが頼るべきものなのか。「天地は滅びるが、私のことばは決して滅びない。」と言われていたことをよく考えたい。どうか、いま、この場で目を閉じて、神の御心、御言葉を静かに聞いてみてほしい。

終末がいつか来る、イエスキリストがいつか再臨される事に備える私たち。もし、終末や再臨への備えという概念が難しければ、いつか私たちに必ず訪れる、肉体的な死とその後の世界を思うとき、わたしたちにとって、本当に大切なものは何なのかを考える必要があるのではないだろうか?いったい何をもっとも大切に、何を頼りに生きていったらよいのだろうか?よく言われる、衣食住、それに必要なお金そのようなものが一番大切なのだろか。それらを超えてもっと大切なものがあるのだと思う。
サンテグジュベリが残してくれた、「星の王子様」の最大のテーマで、人々に一番インパクトを与えている言葉は、「もっとも大切なものは目にみえないんだよ。」と教えてくれていることだと思う。
その目には見えないものをもっとも大切にして、歩むことに、大きな希望があるのではないだろうか? サンテグジュベリは戦争中に自らが操縦する飛行機が墜落して亡くなった。しかし、70年たった今も、「星の王子様」日本語だけでもいろいろな出版社からいろいろな方が訳して、本屋に並んでいる。

たとえ、どのような肉体的な死が訪れようが、たとえ天地が滅びるときが来ようが、そのもっとも大切な目にはみえないものに頼って生きる生き様に、永遠の命の希望、喜びがあるのではないだろうか。
新たに、クリスマスを待つ季節が訪れた。新たに再臨を待つ季節が訪れた。今年、何か異なる新しいことが待ち受けているのではないかと思う。新たに、主イエスの慰め、励み、希望を覚えつつ、今年のクリスマス、再臨を待つときを、主イエスの信仰によって心がたかめられ、毎日毎日を歩めますように。 アーメン 安達均

What Does It Mean to “Keep Awake”?
Mark 13:24-37

May the Lord’s Grace and Peace be showered into the hearts of the all people in the sanctuary!

“The Prince From A Star”(Literal Translation from the Japanese title of “The Little Prince”) is a bestselling book written by Antoine de Saint-Exupéry, a French aristocrat, a poet, writer, and aviator. The story sold, 80 million copies worldwide and 6 million copies in Japan. It was published in 1943. The next year, Saint- Exupéry died; it became very popular and remains popular many years after his death.
The Japanese translation was published in 1953, but it became very popular in late the70s, early 80s. Now there is a museum, dedicated to “The Prince From a Star” in the town of Hakone. The story remains popular because it is entertaining but also asks philosophical questions.
I believe there is a strong connection between “The Prince From a Star” and the Bible. Saint-Exupéry was educated in Jesuit schools. “What is essential is invisible to the eyes.” is a main theme in the book and can be applied to Gospel teachings.

Today is the first advent; it is already the beginning of a new year in the church calendar. This year, we read the Gospel of Mark on most Sundays. However, today’s theme is still the second coming of Jesus (the eschatology: the end of the world/times), we have been reading the Gospel of Matthew for the last several weeks in our lectionary.
I think St. Mark also gives us new insight about our preparedness for the second coming of Jesus. Jesus teaches the disciples that “the Son of Man is coming in clouds with great power and glory.” The way Jesus spoke is similar to what was prophesized by Daniel in the Old Testament, and a similar description is also written in Second Thessalonians by Paul. You may find similar images discussed in other books both in the Old and New Testaments.
The fact that Jesus told “the Son of Man (Jesus himself) will come in clouds” might have aroused Saint Exupery’s imagination to write the story about the prince coming from a star… Jesus is called many things but one title is “The Prince of Peace.”

I believe what Jesus wanted to teach the disciples was focused on in the last paragraph of today’s gospel. Jesus used the phrase “keep awake” four times, and he ends his teaching with this phrase. (In the Japanese translation… the literal Japanese expression of ‘keeping awake’ is “keeping your eyes open without sleeping.”
What does Jesus mean when he says “Keep Awake”? Does this really mean “keeping your eyes open without sleeping”? Theologians and pastors I know have a common interpretation that this does not mean “do not sleep.”
And I agree with that interpretation, but to further our discussion, I would say Jesus meant the opposite: Rather than not closing your eyes, you should close your eyes and think about what Jesus meant. Since we read only certain brief verses of the Gospel every Sunday, we might not get what Jesus really meant. I believe in order to think about what Jesus really meant in the today’s verses, I think we need to reflect upon a couple of previous chapters.

According to Chapters 11 and 12, Jesus came to Jerusalem with his disciples… What did he see there? I would say, Jesus was disappointed with the religious leaders. Not only he was unhappy with them, but he also was not pleased about the disciples since they were admiring the temple as well as the rocks underneath the temple.
However, I think Jesus is teaching the disciples to think…Are the temple and the rocks truly important to your life and should you ultimately rely on them? Are the heavens and earth which you see things you should truly rely on? Please close your eyes and now please reflect upon what Jesus said, “Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away”

There will be the end of world, the end of times. There will be the time Jesus comes again. We need to prepare for it. If you have any difficulty thinking about the end of the world or Jesus’ second coming, just think about your departure from this world, the physical death of your body. Then, please think about the period after your passing. I think we need to think about what is most important after your own death. What should you truly rely on the most? Are they food, clothing, or possessions to live? Or is it money you can trust most? Let me go back to “The Little Prince.” I think the book’s central, most impactful theme is “What is essential is invisible to the eyes.”
Saint-Exupéry died in a plane crash during World War II but “The Little Prince” remains extremely popular. As Christians, we can say there is a great hope in trusting the most essential person invisible to our eyes. Even though physical death is unavoidable and even though the heavens and earth may pass away, there is eternal hope and joy in living and relying upon the invisible truth, Jesus Christ. During this new season of Advent, as we prepare for the second coming of Jesus Christ, let’s walk together, with wholehearted belief relying on what we, Christians, cannot see.  Amen.   Pr. Hitoshi Adachi

 

 

キリストの降誕を待つ待降節に入りました。この特別な季節を、祈りつつ心を備えて参りましょう。

2014年11月30日LCR日本語週報通算第1332号

2014年11月30日(待降節第一主日)の週報

November 30, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin(First Sunday of Advent) 1332E

From A Beach

From A Beach

今週はThanksgiving Holiday、感謝祭にちなんで65編を読もう。ぜひ各自、詩編を読み、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの感謝祭のときに、また待降節を迎えるときに、おひとりおひとりに何を語りかけているか思いを巡らせよう。

詩編65編
1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。歌。】
2:沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。
3:祈りを聞いてくださる神よ/すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。
4:罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。
5:いかに幸いなことでしょう/あなたに選ばれ、近づけられ/あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって/わたしたちが満ち足りますように。
6:わたしたちの救いの神よ/あなたの恐るべき御業が/わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに依り頼みます。
7:御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。
8:大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。
9:お与えになる多くのしるしを見て/地の果てに住む民は畏れ敬い/朝と夕べの出で立つところには/喜びの歌が響きます。
10:あなたは地に臨んで水を与え/豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え
11:畝を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/芽生えたものを祝福してくださるからです。
12:あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。
13:荒れ野の原にも滴り/どの丘も喜びを帯とし
14:牧場は羊の群れに装われ/谷は麦に覆われています。ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。

本日は牧師からの観想の記述はお休みします。