四旬節に入って、三週間が過ぎた。主なるお方、救い主イエスキリストに向いて日々の生活を歩むことができるように祈る。今週は詩編81編を読む。やはり四旬節にふさわしい詩編だと思う。少々長いが、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編81編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 

詩編81編
1:【指揮者によって。ギティトに合わせて。アサフの詩。】
2:わたしたちの力の神に向かって喜び歌い/ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。
3:ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし/琴と竪琴を美しく奏でよ。
4:角笛を吹き鳴らせ/新月、満月、わたしたちの祭りの日に。
5:これはイスラエルに対する掟/ヤコブの神が命じられたこと。
6:エジプトの地を攻められたとき/ヨセフに授けられた定め。わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
7:「わたしが、彼の肩の重荷を除き/籠を手から取り去る。
8:わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い/雷鳴に隠れてあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試した。〔セラ
9:わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。
10:あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
11:わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。
12:しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。
13:わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。
14:わたしの民がわたしに聞き従い/イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
15:わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ/彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。」
16:主を憎む者が主に屈服し/この運命が永劫に続くように。
17:主は民を最良の小麦で養ってくださる。「わたしは岩から蜜を滴らせて/あなたを飽かせるであろう。」

気になる言葉としては、12節にある、「しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。」エジプトからイスラエルへ40年もかかってしまった旅の途中、民はしっかり神の言葉を守れなかった時が何度もあったことを思う。

詩編作者の立場を思う時、先週の詩編と同じように、礼拝を想像しながら詠っているように思える。 2節から6節に詠われている内容は、礼拝への招きの讃美歌を歌っている。そして7節以降は司祭から神の言葉なる説教が詠われているように思えてくる。7節から11節の前半はイスラエルの民に向かって語られている言葉であり、12節以降でイスラエルの民の実態が詠われる。16節で会衆のための祈りが述べられ、17節では神の希望あふれる言葉が与えられる。

この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるかを考えてみたい。四旬節にあって、現代の信仰生活においても、私たちは「信仰生活」と呼びながらも、あまり信仰的ではない生活をしてしまっている自分たちに気づかされるような面があると感じる。信仰生活とは疑いや迷いの中で歩むような面がある。しかし、17節の言葉の中に、イースターへの期待、希望、喜びを思わせてくださるような言葉が書かれている。 イースターまであと3週間と少し、十字架に架かる道を歩んでくださったイエスを覚え、そしてイエスは私たちにも十字架を背負って歩くように言われたことを覚え、その意味をよくかみしめる時でありたい。信仰生活は生やさしいものではなく、厳しいが、そこに、希望がある。 
アーメン。

安達均

ヨハネ4:5-42
牧師 安達均

主イエスキリストの恵みと平安が豊かに与えられますように。

先週水曜の夜から木曜朝まで、Family Promiseというホームレスとなってしまった家族に、一時的に寝る場所と食事を提供するプログラムのボランティアとして、Fountain Valley にあるのKing of Glory Lutheran Churchに行ってきた。 Family Promiseのコーディネータから2枚に渡るボランティアの説明書をよく読んで出かけた。 それにしても、実際、トイレはどこか?朝食の時はどちらのフェローシップホール(二つある)でコーヒーを入れるのか? ボランティアの寝るマットレスはどれを使ったら良いか、細かいことは現地に行ってから確かめる必要があった。 したがって、9時過ぎについて、私たちはまごまごした。 私たちがホストとして、お世話をする立場のはずなのに、逆にゲストとして泊まっているファミリー、とくに12歳の女の子Sちゃんや、二人のお父さんたち、LさんやRさんから、トイレの場所、朝食のフェローシップホールはどっちを使うか、ボランティアのマットレスはどれで、どこで寝るか等々を教わることから会話ははじまった。 結果として、仲良くなることができ、みな夜中はよく眠ることができたようで、私たちも会議室でよく眠ることができた。そして朝は希望を抱いて別れた。

与えられた福音書、ヨハネ4章5節から42節、少々長い箇所だが、すばらしい箇所だと思う。聖書箇所の背景を説明したい。サマリア人とユダヤ人はいってみれば仲が悪かった。ユダヤ人はサマリア人とは大きなギャップがあり、ユダヤ人とサマリア人が話しをするようなことはまずなかった。また、そのサマリア人は女性である。男と女という関係においても、当時の社会情勢からして、知らない男性と女性が話しをすることは適切ではないとされていた。つまり、男と女のギャップもあった。さらに、このサマリア人女性は、地域の人々との間にも大きなギャップがあった。というのは、過去に何人もの男性と結婚していて、今は、一人の結婚していない男性と生活していた。 そのような彼女は、地域の人からも孤立していて、また彼女自身には恥ずかしい思いもあり、なるべく、人とは顔を合わせない生活をしていた。 さまざまなギャップを持つ女性が、人目をはばかりながら、真昼間の暑い時に井戸に水を汲みに行った。 彼女はイエスにそれまで会ったことはなかった。しかし、イエスは救い主であり、また神であるがゆえに、彼女の過去をとことんご存知であった。そして、イエスが話しかける。イエスは全く彼女を批判するような話かけ方はせず、むしろ、イエスの方から、「水を飲ませてください。」と言う。

ジャンバニエというカトリックの思想家は、「本当に人を愛するとは、何かをしてあげることではありません。。。一生懸命にお世話をしながら、『あなたは自分ではできないでしょう』と、その人の無力さを見せつけてしまうこともあるからです。人を愛するとは、その人自身の美しさを自分で発見させ、見せてあげることだと思います。その人の存在する場所を作ってあげることです。あなたは大切な人であり、あなたには価値があると、その人自身に示してあげることです。」と言っている。ユダヤ人とサマリア人とのギャップを超えて、また、男と女の間のギャップも越えてイエスが話しかけられ彼女はびっくりする。イエスはそのようなギャップを問題としない。というのは、イエスがこのときに問題とした、生きた水、命の水に関する話がとても重要だったから。イエスはそのようなギャップを超えるだけではなく、「水を飲ませてください。」と話しかけはじめることによって、困っている人をお世話しようとするのではなく、彼女自身にイエスにはできないことがある、彼女に価値があることを認識させようとしているような面がある。そして、会話が進んでゆき、水を飲ませてくださいとイエスが話しかけたのに、サマリアの女が、逆に、イエスに、生きた水をください。とお願いする話になる。その時点では、まだサマリアの女性には、のどの渇きを思っている。  

なので、サマリアの女には誤解があるものの、私はこの時点ですでに、イエスは生きた水を彼女に与えている。そして、イエスとの会話の終盤では、彼女はイエスが救い主であることがわかる。その結果、水を汲みにきたのに、桶をほったらかしにして、村に戻っていく。 地域の人々とはギャップがあって、目をあわせることすら避けていたが、今度は、「さあ見にきてください。私は救い主に会ったようです。」といって、村中の人々に伝道することになってしまう。 そして、村中の人々が、イエスを主と信じるようになってしまう。この話、2000年前の物語で、それを聞いて「良い話だとかおもしろい。」で終わるのではなく、主なるイエスは現代の私たちにとても大切なこと、「生きた水」とはどういうことなのか教えてくださっており、私たちにも命の水が湧き出していることに気づくきっかけになるように思う。
  
最初の「水を飲ませてください。」という言葉の中に,イエスは彼女が大切な存在であり、価値があるということを、イエスの愛を込めて話かけているように感じる。そこからはじまったイエスとの流れるような会話がおこる。そしてサマリアの女は、まるで暑い地面に置き去りにされてしまい死にそうになっていた魚が、きれいな水の中に再び戻って、元気に泳ぎだすように、彼女は、「命の水」を救い主からいただき、主イエスについて、元気よく伝道をはじめることになった。 ファミリープロミスでの話を最初に紹介したが、私がホストであったにもかかわらず必用に迫られて、ホームレスの家族からいろいろなことを教わることから会話がはじまった。 

そこには、私たちが気づかぬうちに、神の思いが働いていて、その会話の中に、豊かなイエスの命の水が、与えられていたように思い、先週KOGに泊まっていた家族のうえに祝福があり、イエスが導かれる方向へ進んでおられると信じる。 今教会に集まってさまざな教会での活動の中にも同じ命の水が湧き出ていることを覚え、そして、またこれから教会に来るようになるものも、同じ命の水が湧き出るように。その命の水によって新しくされる経験を通して、私たちが新しくLCRの周辺のコミュニティに対して、伝道の働きができるように祈る。アーメン  

“Living Water”
John 4:5-42
Pr. Hitoshi Adachi

May Grace and Peace be upon you in the name of our savior, Jesus Christ!

This past Wednesday night from 9:30 p.m. until 7 a.m. Thursday morning, Satoko and I stayed at King of Glory Lutheran Church and served as volunteers for the Family Promise. It is a program offering temporary accommodations for homeless families. We read instructions that were provided by our Family Promise program coordinator and Council president, Pete. However, we were still unsure about which bathroom of several bathrooms to use, which fellowship hall to use for meals (since there are two of them), and which mattresses volunteers should use while staying on the campus…
Therefore, when we arrived at KOG after 9 p.m. we were unsure about what to do. Even though we were the hosts to the families, we learned from a 12 year old girl, S, one father, L, and the other father, R, which bathroom to use, which fellowship hall to go to for breakfast, and the proper mattresses that we should use. As a result, I think, we socialized well with the families, had a good night and everyone slept very well. Then the next morning, all of us departed with hope and the promise of a new day.  

The Gospel Text read today is John 4:5-42. It is a little bit long, but it is a wonderful portion of the Bible. Let me start with some background information about the story. Historically, there was strong tension and a huge cultural gap between Jews and Samaritans. It was quite uncommon for Jews and Samaritans to talk to each other.
Also, at that time, there was gender inequality between men and women. Furthermore, it was considered improper for unrelated men and women to speak with one another.
In addition, there was an enormous cultural gap between the Samaritan woman and people in the village where she was living at that time. She was shunned and marginalized because she was living with a man after being divorced five times. Therefore, she didn’t interact with the other villagers. She was ashamed of her position in life and her lowly status meant she wasn’t welcomed in society.

One day around noon, because it was very hot outside, she carried a bucket to draw some water from the well. The woman and Jesus had never met before but since Jesus is the Messiah, he knew everything about her life’s difficulties. Jesus did not criticize her. Rather, he said “Give me a drink.” She was surprised because Jews and Samaritans didn’t normally associate with one another and he had no container with him.
According to Canadian Catholic philosopher and theologian, Jean Vanier, to truly love someone is not really to offer or to do something for that person. By taking care of him or her, it might give them the impression that “you cannot do something yourself and you are not capable of doing something.” Rather, to love is to let someone recognize his or her own beautiful quality that the person has. To let someone know his or her intrinsic value is to truly love them.
The Samaritan woman was very surprised because Jesus talked to her despite clear societal boundaries between Jews and Samaritans and between men and women, in general. Jesus ignored those societal boundaries because His message and gift of living water were too important not to share. Jesus not only crossed societal boundaries, he helped the Samaritan woman recognize that there is something important she can do for him; she has value as a person. Then the conversation between the woman and Jesus continued as we read. Interestingly enough, the woman said “Sir, give me the living water so that I will never again be thirsty.” She was thinking of her physical thirst and the physical strain of getting water from a deep well on a daily basis.

Although there was a misunderstanding on her part, I would say Jesus already gave her the living water. In the end, she realized Jesus was the Messiah. Even though she came there with the bucket to draw water, she left the bucket and went back to village empty handed. She started proclaiming the Gospel, saying, “Come and see a man who told me everything I have ever done! Can he be the Messiah?”
Then people in the village believed Jesus was the Messiah. This story is not just a 2000 year old story we listen to and then say, “It’s a good and interesting story.” I think this is the story that teaches us what the living water (i.e. the Spirit) truly is and triggers us to allow the living water to flow into us.
The first sentence that Jesus said, to her, “Give me a drink,” contains Jesus’ love for her and her value that she has in Jesus’ eyes. After that seemingly simple sentence, their conversation flowed. As a result, the Samaritan woman became a living missionary. It was as if a fish was left on the ground to die and then was put back into ample, clean water and started swimming vigorously.

In the beginning, I talked about what happened when Satoko and I volunteered for Family Promise. We learned some necessary information from the guest families even though we were the hosts. In that conversation, there was living water that God provided and I hope and pray that the families that stayed at KOG this past week will see a great and hopeful future with the guidance of the living water.
I also pray that the same living water from Jesus Christ flows into each one of you gathered in this sanctuary and among the people who will gather here in the future. May this renewing experience allow us to be joyful proclaimers of Jesus Christ and servants to the communities around LCR. Amen.

   

2014年3月23日日本語週報通算第1299号2014年3月23日の週報

Third Sunday in Lent LCR Japanese Ministry English Bulletin #1299E

四旬節に入って、二週間が過ぎた。私たちの主なる神とは違う方向を向いたり、背を向けて行動したりしてしまう自らの罪を覚え、新たに主に向き直る期間として過ごしておられるだろうか。今週は詩編95編を読む。四旬節にふさわしい詩編だと思う。なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編95編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 

詩編 / 95編
1:主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
2:御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
3:主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。
4:深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。
5:海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
6:わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
7:主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
8:「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。
9:あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
10:四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
11:わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

気になる言葉としては、メリバやマサという地名。これらの地名の由来は、40年に及ぶエジプトからイスラエルへの大移動の際、民が神とモーセに文句を言って争った場所であり、また神を試した場所とされる。23日の聖日に礼拝の中で読まれる第一日課、出エジプト記17章の1-7節にそのときの様子が描かれており、7節には、モーセがその場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名づけたと書かれている。 

詩編作者は、たった11節の詩編の中で礼拝を想像しながら詠っているように思える。 1節から7節に詠われている内容は、礼拝への招きの讃美歌を歌っているようである。讃美歌21の20番「主に向かってよろこび歌おう」は詩編95の内容が詠われている招きの歌。もう一曲紹介すると、讃美歌21の226番「輝く日を仰ぐとき」も詩編95を含む讃美歌で、英語でも日本語でも、とてもポピュラー。 そして、讃美歌の後は、やや辛口の司祭の説教が詠われているように思える。 その説教の要点は、「エジプトからイスラエルに移動しているとき、昔の民がしたように、神に逆らったり、神を試してはならない。また自分勝手な思いから心を頑(かたく)なにしないように。」 旧約聖書時代の礼拝であるため、使徒信条の唱和や聖餐式、主の祈りなどは無い。

この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるかを考えてみたい。上記に書いたような説教の要点、「昔の民のように、神に逆らったり、神を試したり、あるいは自分自身の心を頑なにしないように。」というメッセージはとてもわかりやすく、頭で理解することはできる。しかし、神が現代を生きる私に上記のような事をしないようにと言っているだけだとすると腑に落ちない。というのは、その内容を守り続けられるかというと首を傾げざるを得ないから。自分が知らないうちに、神に逆らうような言動をしたり、神を試すような行為をしてしまったという経験がだれにでもあるのではないかと思う。では、そのような状況に落ち込んでしまったとき、どのように立ち直れるのだろうか? 私は、イエスキリストが生まれてから私も生まれた人間でよかったと思う。それは、神が独り子イエスの生涯を通して、次のような事を教えてくださったから。私たち人間が過去にどのような罪をおかしていようが、つまり人間が失敗をして悔やんだり、恥ずかしくてしょうがないようなことがあっても、神から私たちへの愛が弱められるようなことはない。徹底的に神が私たちを赦し、愛してくださっている。 

東日本大震災が起こって、3年と一週間が過ぎた。いまだに、亡くなった肉親や友人のことを思い、悔やんでいる方々のことを思う。その悔やみからの解放はどのようにすれば訪れるのか? 主なる神、救い主イエスキリストによって癒され、解放が訪れるように祈る。 アーメン。

安達均

ヨハネ 3:1-17
牧師 安達均

主イエスキリストの恵みと平安が豊かにあるように!

聖壇にあるポールを見て欲しい。紫の布がかぶせられている。何があったか覚えいるだろうか?どういう意味があるのだろうか?紫はもともと高級な色で、王位を示すという意味もあるが、クリスチャンとして覚えていたいことは、紫とは四旬節の色。 マルコやヨハネが伝えるところによると、イエスが十字架にかけられる直前に着せられていた衣は紫色だった。イースター前の40日間、イエスが十字架にかけられたこと、そして、私たちの罪を思うとき、この紫色が四旬節の色となる。 じゃ、なぜ十字架を隠すのか?どう思われるだろうか? いろいろな思いがあって良い。イエスが十字架に架かっていることを想像される人もいるかもしれない。私もそのように感じることはいままで何回もあった。 今年は、私は、今日の福音書箇所を読んだあと、この紫の布の中には、蛇が隠されて居るようなイメージを抱いている。なぜそんなことを言うのか、後ほど話す。  

本日の聖書箇所、ヨハネ福音書3章1節から17節。特に16節は有名で、聖書の中で一番好きな節は?というアンケートをとったなら、アメリカ人に聞けばこの節だという人が一番多いと言われる。  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」   ニコデモというユダヤ教の指導者であり議員がいた。彼は、イエスの言う「人は水と霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)を理解できない。新たにに生まれるなんていうことがあるはずはない、とニコデモが考える中で、主イエスが語られた言葉が16節の言葉。 有名な16節の前には、14節と15節で、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」とも語っている。いったいモーセが荒れ野で蛇を上げたように、ということはどういうことなのだろうか。 

これは、明日の聖書日課で読むことになっている民数記21章に書いてあるが、紀元前1200年ごろに、モーセに引率されたイスラエルの民、何十万もの人々がエジプトからイスラエルに40年もかかって移動した。 その途中で、民は神とモーセに文句を言い始める。「こんな粗末な食べ物ではもうやってられない。なんで私たちをエジプトから導きだしたのか。」 そのような民に向かって、神は行動を起こす。 炎の蛇を送って、民をかませる。そして、多くの死者まで出てしまう。そこで民は猛反省して、「わたしたちは罪をおかしました」という罪の告白をし、蛇を取り去ってくれるように祈る。 神はモーセに「青銅の蛇をつくり旗竿につけて掲げるように」と命じ、「蛇を仰ぐものが命を得る」と言われる。そして、事実、蛇にかまれたものが、竿を見上げると命を得る。イエスは、これからイエス自身がどうなるかということを語るに際し、棒につけられた蛇にたとえて話している。 つまり、神の気持ちもよくわからずに文句をいった民が、罪を認め、棒に上げられた蛇を見上げて赦され新たな命を得たように、洗礼を受け、罪を告白し十字架にかかるイエスを信じるときに、新しい命を得るという事を、イエスがニコデモに語りたかったという事なのかと思う。 

私たちの日常生活において、私たちは、神の視点からみれば、とてつもない罪をおかしていることが多々ある。1200年前にエジプトからイスラエルに旅をした民に比べればどんなにか物質的には豊かな生活をしていようが、好きなものが食べられないとか、ある食べ物はおいしくない不満を言って過ごしている。私たちは、神がどんな思いでおられるかを忘れてしまい、また、時には、神の言われることを無視してまで行動してしまうことがある。 そのような私たちに、神はひとり子イエスを送ってくださった。そして、イエスはいまだに十字架につけられているようなところがある。それは私たちの罪を赦すため。神は私たちの罪を赦し、イエスが十字架に架かることで、私たちの罪が隠される。 いま一度聖壇の紫のかかったポールを見て欲しい。この紫の布の中に私たちの罪を象徴する蛇がいるような気がしてくる。紫の布の中に、何をみているだろうか? 十字架上のイエスがおられることを見ていると同時に、その中に私たちの、失敗やら恥ずかしい思いも、いっしょに十字架に磔にされていて、イエスがその罪を隠してくださっているのがわかるだろうか?  

今日のメッセージのポイントは、神は罪を赦し隠してくださるだから、いくら罪をおかしても良いということではない。 この紫の布で包まれたイエスが、私たちの罪を背負い、赦すために十字架にかかってくださったことを認識する時、神がその独り子を送り、私たちの罪を隠してくださっていることがわかった時、私たちはどう行動するかだ。後ほど、聖餐式のため聖壇の回りに集まるが、跪いて十字架を見上げる時、神の憐れみを覚え、新しい命に生きていることを覚え、キリスト者として、新たな信仰生活を歩みだすことができるように祈る。アーメン。  

New Life
John 3:1-17
Pr. Hitoshi Adachi

Please look at this pole. It is covered by a purple cloth. Do you remember what is underneath it? What does it mean to you? In ancient times, purple represented (maybe it still does) expensive items and royalty. Therefore, purple was historically reserved for kings and queens. Also as Christians, we should remember that purple is a color of Lent. According to St. Mark and St. John, right before Jesus was crucified, he was dressed in purple cloth by soldiers. Therefore when we remember the time Jesus was walking to be crucified, purple is used liturgically. However, why do we put the purple cloth on the cross in this Resurrection Sanctuary? What do you think? It is OK for each of us to have different ideas about the symbology. You might interpret that Jesus is on the cross. I like that idea; it is a potent image.

However, this year, especially when I think about the Gospel text given today, I feel like the cross might not be under the cloth. I am wondering if it might be a serpent under the cloth. Why would I say such a thing? I will tell you shortly… The Gospel text today is from John chapter 3:1-17. I would say that verse 16 is a very famous verse. I was told that, based on poll results, John 3:16 is the most popular biblical verse in the United States. “For God so loved the world that he gave his only Son, so that everyone who believes in him may not perish but may have eternal life.” These words were spoken when Nicodemus did not understand what Jesus said, “Very truly, I tell you, no one can enter the kingdom of God without being born of water and Spirit,” that is written in verse 5. Right before the famous verse 16, in the 14th and 15th verses, Jesus said “just as Moses lifted up the serpent in the wilderness, so must the Son of Man be lifted up, that whoever believes in Him may have eternal life.” Why did Jesus say such a thing?

According to the lectionary, tomorrow we will read Numbers Chapter 21. Twelve centuries before Christ, several hundred thousand Israelites were traveling from Egypt to Israel. Their trip took almost 40 years. During the long trip to Israel, people started complaining to the Lord and Moses saying, “Why have you brought us up out of Egypt to die in the wilderness? For there is no food and no water, and we detest this miserable food.” Then, God took action and responded to their complaints. The Lord sent poisonous serpents among the people, and they bit the people, so that many Israelites died. The people came to Moses and said, “We have sinned by speaking against the Lord and against you; pray to the Lord to take away the serpents from us.” So Moses prayed for the people. And the Lord said to Moses, “Make a poisonous serpent, and set it on a pole; and everyone who is bitten shall look at it and live.” So Moses made a bronze serpent, and put it upon a pole; and whenever a serpent bit someone, that person would look at the bronze serpent and live. Jesus then tried to explain what would happen to him and to His believers using the serpent story in Numbers Chapter 21 to reinforce his point. In this story, the Israelites did not understand how God was caring for them, they did not understand how God loved them, but complained against the Lord and Moses. Then they realized that they had sinned and when they looked upon the serpent on the pole, then they could live. Likewise, Jesus mentioned that when Nicodemus or others are baptized, acknowledges their sins, and looks upon Jesus on the pole (i.e. cross), they are forgiven and they would live His new life.

In our daily lives, we commit sins in God’s eyes and we often make excuses for our behavior. Even though we live in a much better situation compared to two thousand years ago, we still complain…we often act selfishly, forgetting what God is trying to say or even ignoring God’s will. God is patiently loving us and watching over us despite our flaws. In response to our selfish thoughts and our sins, God sends his son, Jesus Christ, to this world and He is still hung on the Cross to save us from our sins. God forgives us and removes our sins through Jesus’ crucifixion.

Please look up at the pole covered by the purple cloth. At the beginning of message, I said that it could be a serpent due to Numbers Chapter 21. But now what do you see? Do you see Jesus on the cross? Do you see your sins, shameful feelings, and mistakes? The crucified Jesus removes your sins. The point of the message is not, of course, that it is OK to repeatedly sin since we are forgiven. The most important matter is how we respond when we know that Jesus was crucified to save us from our sins. How do we act when we realize that God sent His precious son to remove our sins? Even as Christians, we can always do better. May you recognize God’s mercy this morning, be spiritually renewed, and go forward living a new life in Jesus Christ! We are truly blessed to have the Lord in our lives. Amen.

2014年3月16日LCR日本語週報通算第1298号2014年3月16日の週報

March 16, 2014 Second Sunday in Lent English BulletinEnglish Bulletin 1298E

東日本大震災から3年が過ぎた。 年をとってきたせいか、どんどん一年一年が短く感じられるようになっており、あっという間の三年だった。まだまだ震災の悲しみ、痛み、またいろいろな形での悔やみがあることを覚え、今週の詩編128編を、最低は3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編128編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。 

詩編 / 128編
1:【都に上る歌。】いかに幸いなことか/主を畏れ、主の道に歩む人よ。
2:あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。
3:妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
4:見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。
5:シオンから/主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見
6:多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和。

3月11日の夜は、ラグナビーチで開かれた原発問題に関する小規模な市民の集いに参加していた。原発の実態を記録したビデオを見たあと、サンディエゴに行く途中の5号沿いにあるサンオノフレ原発廃炉に至った過程で市民運動を展開した二つの団体の代表者と、日本の原爆や福島の原発の状況にも詳しい方が壇上に上がってパネルディスカッションが行われた。そのような体験をした後、この詩編128編をじっくり読む時、一番気になる言葉は、「多くの子や孫を見るように。」という祈りの言葉が一番気になってくる、というか心配になってきているという方が正しい。詳しくは、また後述したい。

作者の気持ちを読みとろうとすると、ごもっともという感じがする。詩編の全編の中には、「いかに幸いなことか」という言葉が何度も出てくる。この128編もそのひとつ。そして、その言葉に続いている言葉は「主を畏れ」とある。「主を畏れる。」という事は、聖書の中に綴られた言葉の中でとても重要なこと。箴言1章7節には、主を畏れることが知恵の始まりという意味の言葉が書かれていた事を思い出す。そして、主を畏れ、主の道を歩む模範的な人がいたのだろう。2節から想像して、主を畏れ、主の道を歩む者は、労働に生きがいを持って精を出し、相応しい報酬を得ることができていた。また3節の言葉から、家族にも恵まれていた。そして4節では、「主を畏れる」ことが祝福されることであるという重要なポイントを詠う。5節に入ってくると、「シオンから」と始まるが、シオンは神殿のあるエルサレムを指していると思う。一生涯、祝福され、度々エルサレムに上ってその繁栄を見て、次の世代とさらにその次の世代をも担う子孫たちにも恵まれるように、という祈りでこの詩編は終わる。

さてこの詩編128編を通して、主なる神が現代の私たちに何を語っているかということを思う時、「いかに幸せか」ということには、将来の子孫たちも含めて、主を畏れて祝福されて生きるようにと教えられているように感じる。そのようなことに思いを巡らす時、将来の生活環境を思うと、世界各地(スリーマイル、チェルノブイリ、そして福島)で起こった原子力発電施設での事故からして、将来にたいへんな負債を残してしまったと思う。サンオノフレ原発は、廃炉は決定したものの、まだまだ、使用済み核燃料の問題は残っており気の遠くなるような将来に渡って大問題なのだと思う。もし東日本大震災級の地震・津波が起こってしまえば、使用済み核燃料からは放射能が出始めてしまい、福島と同じような状況になりかねないという話も出ていた。 

20世紀半ばに生まれ、いわゆる高度経済成長期に育った世代の一人として、告白し、謝り、後悔の念を述べざるを得ない。一昨日の集いに参加していた何人かの方々は、電力会社を責めていたが、私はそのような気にはなれなかった。20世紀後半は、「もっともっと」といってエネルギーを使う時代になっていって、その恩恵を受けた世代の一人だから。私は数年前から、1950年代に建築された家に住んでいる。電気系統の設備は建築当初のものを使っているので、電子レンジといっしょに、コーヒーメーカーか、トースターか、ヘアドライアーを同時に使うとブレーカーが落ちる。 1970年代か80年代に建築された家では決してそのようなことは起きなかった。

20世紀後半は人類のエネルギー需要に応えようという大義名分の故に、禁断の実を食べはじめてしまったような気がしてならない。将来に渡って、主なる神、すべてを創造してくださっている全知全能の神を畏れ、主の道を歩む人類になれますように。 アーメン。

牧師 安達均

マタイ 4:1-11
牧師 安達均

救い主イエスが集まりました会衆を祝福し、主イエスの御言葉を豊かに与えてください。

悪魔がいると思われている方、何人位いるだろうか? 現代、悪魔とか悪魔の誘惑とか話したところで、どれだけの方がまともに話し相手になってくれるだろうか。 もちろん、そのような話をとても興味を持っていて悪魔のイメージを持っている方もいる。 怪獣とかお化けのような悪魔がいると信じている方もいる。 また、家に仏壇や神棚があったり、なにか、新興宗教のつぼだとか、そういうものの中に悪魔の存在があると信じている方もいて、私の友人でとても保守的な牧師は、そのような置物こそ悪魔で災いをもたらしているという方がいたりする。 私は、もっと違う種類の悪魔の存在があると思う。今日の福音書箇所はそのようなことを考えさせられる。 現実的なことで、私たちが日常出会うことのなかに、私は確かに悪魔の存在というか悪魔の誘惑があるのだと思う。 今日の聖書の箇所はそういうことを考えさせられるところだと思う。

本日の福音書箇所は、まず、「イエスは悪魔の誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野にでかけた。」とある。 「悪魔に会うため」ではなく、「悪魔の誘惑を受けるため」とあるので、誘惑にポイントがあることを認識しておきたい。 イエスが40日間の断食をして空腹を覚えた時、一つ目の誘惑は「石をパンに変える。」ように言われる。それは、神聖なものに頼るのではなく、物質的なものに頼るような誘惑が襲ってきたのだと思う。 二つ目の誘惑は、「神殿の屋根から飛び降りよ。神であるあなたが天使たちに命じれば、助ける。」と言われる。これはいったいどういう誘惑なんだろうか? 天使たちに命じて、過剰なまでに自分だけの利己的に身の安全を確保する、そして、自分以外の社会のことは考えないで生きていこうとする誘惑があるのだと思う。 三つ目の誘惑は、「悪魔にひれ伏せば、国の繁栄を与えよう。」とあるが、この世的な財産とか権力を持とうする誘惑があるのだと思う。

これらの誘惑に対して、イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る言葉で生きる」「主なる神を試してはならない。」「あなたの主を拝み、ただ主に仕えよ。」と、申命記の8章3節、6章16節、そして6章18節を引用して答えられる。 これらの誘惑をする者とイエスの会話は、現代の私たちに何を、教えてくださっているのだろうか? 一つ目のパンに代表される物質的なものには頼らないようにと言っているように思われるが、生きる糧というのは、なくてはならないものだ。 
また、二番目の身の安全を確保することだって、普段の健康保険とかあるいは老後のための年金ということは、大切なことだと思う。 イエスは物質的ものや身の安全を確保するということでは、生命保険に入るとか、健康保険をも否定されているのだろか。 さらに、財産とか資産も生きる上で、住む家や日頃の買い物をしたりする上で、ある程度は必用。また社会というものは、政府やその他の多くの組織で成り立っているので、リーダと呼ばれる人たちに、ある程度の権力を委ねるということは大切なのだと思う。 イエスが、物質、身の安全、財、権力をすべて否定されているのでは無いと思う。 しかし、主なる神との関係から離れて、自分の物質的な欲望に没頭しないように、あるいは、自分だけの身の安全を過剰なまでに確保しようとして、医療・生命保険に加入したりしないように。 あるいは、神と隣人への関係以上に、自分だけの財産とか、自分本位の権力を維持しようとすることへの警告を、イエス様は発してくださっている。

この世の中、毎日、神との関係を危険にさらす悪魔の誘惑がたくさんある。物質的な宣伝、医療保険あるいは年金を勧誘する、あるいは、土地とか建物の財産とか権力をむさぼるような教育を受けることが良いような宣伝がされすぎているような面がある。都市部に住むと、平均で4000もの宣伝を目にし、その多くは、悪魔の誘惑に近い。一番大切なことは、物質的なものに頼ったり、年金とか生命保険とか、あるいは財産や権力ではない。主なる神を畏れ敬うこと。それは、すなわち、神との関係と隣人との関係をしっかりした上で、自分の物質的なこと、身の安全、そして、財産のことも考えれば良い。灰の水曜日からレント、受難節に入った。イースターまでの40日間を、神を畏れ敬うとの関係を第一にして、御言葉を読み、神なるイエスに祈る、友や家族を誘う、礼拝に出る、恵みに応答して捧げる、生活をされますように。 

“Is there a Devil?”  2014 3 9
Matthew 4:1-11     Pr. H. Adachi

May the Lord bless us and give us His word, in the name of our Savior, Jesus Christ!

How many of you believe that the devil exits? If you speak to someone about the devil or the devil’s temptations, how does he or she respond? Of course, there are people who are very serious about the devil. Some people have a certain image of the devil, something like a monster or an evil spirit. For example, if someone has a Buddhist altar, a small shrine, or a sort of religious urn, some conservative Christians believe that these things are “of the devil.” However, I believe there are different devils in this world. The text today makes us think about the existence of the devil.

The Gospel text begins with, “Then Jesus was led up by the Spirit into the wilderness to be tempted by the devil.” Interestingly, he was led by the Spirit and it also says, “to be tempted,” in other words, the purpose was not meet with the devil, but to be enticed by the devil.  After Jesus fasted for 40 days and 40 nights, the devil’s first temptation was to command stone blocks to become loaves of bread. This was the temptation to only rely on material goods rather than to rely on divine sustenance as well. The second temptation was to “throw yourself down from the top of shrine, and angel’s hands will bear you up, so that you will not dash your foot against a stone.” What does this temptation look like? I think it is a temptation for your own security rather than the safety of society. The third temptation was “if you fall down and worship me, these kingdoms of the world and their splendor are yours.” It is a temptation for worldly wealth and power.

Responding to these temptations, Jesus said, “One does not live by bread alone, but by every word that comes from the mouth of God.” “Do not put the Lord your God to the test.” “Worship the Lord your God, and serve only him.” All of Jesus’ responses are from Deuteronomy, Chapters 8 and 6.  What does this conversation teach us today? For the first one, bread, is representing material goods or our flesh. As for the second one, it deals with bodily safety. Does Jesus deny the importance of material goods and the body? I do not think so. We need to eat and we want a sense of security in our lives.
Further, the third temptation relates to property and power, after all, we need places to live. Since we have governments, we need leaders to have certain power and authority. Jesus understands the importance of those, however, he is warning us, not to turn away from God in order to gain more property and power. He is warning us not to turn away from God in order to “keep up with the Joneses.” We should not focus on gaining more worldly goods, lest we forget how much God blesses and provides for us.

In this world in which we live, there are many temptations that jeopardize our relationships with God and our neighbors. There are so many product advertisements we see every day. According to scholars, each one of us encounters over 4,000 advertisements every day. Many of these advertisements try to persuade you that you need the latest products or services to live a happy, important life. These advertisements tempt you, in a very real sense, to turn away from God and His plans for you. Worldly goods are not more important than your relationship with God. We, as Christians, should learn to better serve God and stop placing great importance on material things. What matters most is fearing God and being obedient and faithful to Him. After you focus on and build a good relationship with our Lord, Jesus Christ, only then should you worry about worldly matters like possessions and power.  We entered into the Lenten season beginning on Ash Wednesday. During this journey of forty days until Easter, I hope and pray that each one of us: listens to the Word of God, prays to Jesus, invites friends to church with Christ’s love, attends services, and give generously in response to the grace that Jesus abundantly gives us. Amen.

  

2014年3月9日LCR日本語週報通算第1297号  (日本語)                            

3月5日の灰の水曜日には、沢山の方が6時からのスープサパー、そして7時からの礼拝に来られ、四旬節の始めに相応しい時が与えられた事を感謝致します。この日から始まる40日間の受難節を、特に苦難の中にある方々、病と戦っている方々を覚え、一日も早く平安が訪れますようお祈り致します。
2014年3月9日の週報

March 9, 2014 First Sunday in Lent (English Bulletin)
Sunday English Bulletin 1297E

今週読む詩編は51編。この詩編は有名でよく読まれる。伝統的には、四旬節がはじまる時にも、読む箇所となっている。四旬節とは、四十日間のこと。イエスキリストが十字架に架かって復活するイースターからさかのぼって、四十日前から四旬節が始る。ただし、日曜日は四十日に含めない。従って、1週間を6日と考えて、イースターの6週間前(合計36日)とさらにその四日前の水曜から四旬節がはじまる。 日本語では、四旬節のことを、受難節と呼ぶこともある。それはイエスキリストが受難、つまり苦しみにあわれたことを覚える期間でもある。 また、英語では、”Lent”(レント)という言葉が使われる。このレントはもともとはラテン語で、「だんだん長くなる」という意味がある。つまり、北半球にいる場合が前提になってしまうが、春が近づいてきて、だんだん日が長くなっていく時期だから、そのような名称で呼ばれるようになったのではないかと思う。
ではとにかく詩編51編を、何回か読もう。 

詩編 / 51編
1: 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2:ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
3:神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。
4:わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。
5:あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
6:あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
7:わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。
8:あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
9:ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。
10:喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
11:わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。
12:神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
この詩編は昨年9月はじめにもとりあげられて読んだ。その時「罪」という言葉にやや詳しく触れた。3節、4節にある「背きの罪」と「咎」と「罪」という言葉は、それぞれ、原語であるヘブル語ではニュアンスが異なってくる。昨年9月の繰り返しになるが、今一度書いておきたい。

最初の「背きの罪」という言葉は、ヘブル語の原語では、子供たちが親に向かって反抗するような時に使われる言葉。 それは、親がどんなに子供を愛していても、それに甘え、また親の苦労も理解せずに、親に背を向け反抗するような態度を思っていただければ良いかと思う。次の「咎」と訳された言葉には、曲がった状態とか、いらいらしている状態を現す言葉が使われている。 そこには、おろかな行いをしてしまい、腰を曲げ、身を屈めて、深くうなだれているような状況が思い浮かぶ。 そして、最後のただ「罪」と訳されている言葉は、詩編51編の中だけでも、4節以外に、5節、6節、7節、10節、15節にも出てきているが、ヘブル語の本来の意味は、「的を外している」という意味がある。 

さて、四旬節のはじまりにあたりこの詩編51編を読み、この罪という言葉について考える時、どんなことを覚えておられるだろうか。

四旬節のはじめの水曜を、「灰の水曜日」という。 灰の水曜日には、礼拝のある教会が多い。 私は昨日の午前11時半に教区の事務所で、灰の水曜日の礼拝があり、そして、夜7時からは復活ルーテルでの礼拝があった。全員が、額に灰で十字架の印をつけられる。自分たちが、普段は、神の御心とすることをできないでいる、神の御心から外れたことを行なったり、話している現実を覚える、そして、イエスキリストが十字架に架かってくださったことを覚えることになる。

そして、四十日間は、なにかをがまんする習慣がある。私の祖母は、この四旬節の期間は、お肉を一切食べなかったことを思い出す。 現代でも、甘いものを食べないようにするとか、お酒を控えるとか、たばこを控えるとか、いろいろと控えることにチャレンジするキリスト教徒も多い。

今年の四旬節、ぜひ、神の御心から外れてしまうことと思うことは避け、そして避けるだけではなく、その代わりに、神の御心に近いことを実行できますように。それは、なにかをしない代わりに、神に「祈る」ということもとても大切なことだと思う。この四旬節、十字架を担いで歩まれたイエスとの関係が、また新たにされ、深まって、そして、隣人を大切にすることができますように。アーメン。

牧師 安達均