2015年9月20日LCR日本語部週報通算第1368号
今週は9月17 日から20 日の聖書日課に与えられている詩編54編を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編54編
1:【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。
2:ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】
3:神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。
4:神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
5:異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ
6:見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
7:わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。
8:主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。
9:主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。
インパクトのある言葉として、3節にある「神よ、御名によって」と詠いはじめる力ある言葉。
詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 1-2節は前書きで、1 節にある言葉、「マスキール」というヘブライ語は、32編をはじめ、全部で13の詩編の前書きに現れている。あまり意味は明確ではないが、教えとか教授的な意味がありそうだ。2節にはダビデの置かれた状況が書かれている。簡単に説明すると、ダビデが、主の御心から逸脱して行動していたサウルのすぐ近くに来ているという情報がサウルに報告され、サウルの部隊がダビデの命を狙っている。サムエル記上23章19節参照。 3節以降の詩編の内容に触れていきたい。サウルがダビデを見つけだして殺されるかもしれないが、ダビデは、「神よ、御名によって」という力強い言葉を述べて、さらにそのパワーを増し加えるように「力強い御業によって」と述べた後、びっくりすることに「わたしを裁いてください」と詠う(3節)。ダビデの心境は、すべてを主の御心に自分を委ねている様子が伺える。そして、ダビデの口から出るすべての祈り・願いを、神がすべて聞いてくださるようにという嘆願(4節)。御心に従わない横柄な者たち(サウルの部隊)が私に逆らい、命を狙っている、彼等は主の御名を第一にしていないのです(5節)と訴える。見よ、神はわたしを助け、魂を支え、陥れようとする者に報いてくださる、あなたの真理によって、彼らを絶やしてくださるように(6-7節)。主よ、わたしは感謝して、恵み深いあなたの御名に感謝し、いけにえを捧げます(8節)。主は常に苦難から救い出してくださり、わたしの目が敵を支配しますように(9節)。
この詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。この詩編の全体の流れは、ダビデはピンチに立つが、主の御名によって、祈願し、現状を訴え、主を信頼して、主が救い出してくださることを確信する。 それを、ダビデより後世の人々が、民が主の御名に感謝し讃えるのが、詩編54編。 後世というのは、イエスキリストの降誕後も含まれ、現代においても、主の御名において、常識では考えられないような、神の救いがあることを覚える。現代を生きる人々に、本当に健康面でピンチにたたされたり、とてつもない多忙な日々に置かれてやりきれないと思えるような窮地に立たされている人々も大勢いる。 そのような状況の中にあって、詩編54編は、現代の私たちに、主の御名によって祈り、願い、主なる神を第一に生きているかどうかが、鍵であることを教えているように思う。
とくにイエスキリスト降誕後、紀元後に生きている私たちは、どんなピンチにあろうが、力強い主の御名、十字架上で死にて追いやられ、墓に葬られても、復活なさる、三位一体なる主を第一に生よう。常に自分を第一にするのではなく、主なる神を第一に生きているかチェックしつつ、この混迷の時代を、神の救いに与って歩み続けよう。アーメン
安達均
マルコ8:27-38
主なる神、イエスキリストの慈しみと恵みが この礼拝堂に集まった人々の心の中に豊かに注がれますように。
私の友人と食事をしたとき、その友人は、私がいままで考えもしなかったことを話だした。 その時、彼は56歳だと思うが、「平均寿命まで生きたとして、もう7000回くらいしか、夕食を食べる機会はないと思うと、一回一回の食事を本当に大切にしたいと思う。」 と話していた。
肉体的な死に、日々、近づいているというのは事実だ。 先日隼人君が生まれた。 うまれたばかりではあるが、この世に生きている人、だれをとっても、実は、日々、肉体的な死に近づいている。 せっかく教会に来たのに、「安達牧師、そんな気のめいる話はしないでください。」という方もいるかもしれない。 しかし、これは、本当に気のめいってしまうような話なのだろうか。
もちろん、日々運動や健康食に気をつけて、より長生きすることができるという話はあるのだろう。 しかし、所詮、その長くなった人生でも、究極的には、やはり、その長くなった肉体的な死に向かって近づいている。
本日与えられた福音書、16章におよぶマルコ福音書のなかで、前半の最後、8章の最後をさきほど拝読した。 ここは、イエスの宣教に大きな転換期にさしかかったともいえる箇所、それは、8章の前半までは、イエスの宣教活動は安定した上り坂だった、しかし、今日の箇所以降は、イエスの急激な下り坂をくだっていったともいえる。
8章半ばまでに書かれたことは、イエスは多くの人々の生活を大きく変えることに成功した。 たとえば、イエスは奇跡的に病人を癒したり、目がみえない、耳が聞こえない、しゃべれない人々を見事に、目をみえるようにしたり、耳が聞こえるようにしたり、しゃべれるようにした。 あるいは、5000人の空腹のなかにあった人々、さらに4000人もの人をも、わずかな食料にもかかわらず、満腹にした。 そのイエスの姿は、まさに全能の方、最高の医者のようでもあり、偉大な政治家にもなれそうな人だった。
ところが8章の後半に入って、様相が変わってくる。 イエスは、弟子たちに「あんたがたは自分のことを誰だというのか?」と質問する。 そこで、でしゃばりというか、おっちょこちょいのペトロは、「あなはメシア」であるとこたえる。これはすばらしい答えで、大当たりなのだ。 しかし、ペトロには大きな勘違いがあった。
メシアとはどういう意味なのだろう。。。ごはんを食べさせる飯屋(めしや)じゃない。 もう少し違う発音をするなら、メサイア。メサイアあるいはメシアとは、油注がれたもの。それは、旧約聖書の世界では、超人的な英知と能力を持ってイスラエルを治める方の意味。 ペトロのイメージは、イエスがこれから、超人的にイスラエルを政治的にも治めて、ローマの圧力からも解放してくださる、そんな感覚で、メシアという言葉を使ったように思われる。
すると、イエスは、はじめて、人の子がユダヤ教の指導者たちによって、排斥され殺されること、しかし三日目には復活することになっていることを話す。 ペトロは復活するなんていうことは聞いていなかったのだろう。 最後まで話をよく聞かずというか理解することができないまま、イエスに反駁する。 「イエス様、そんなことがあってはなりあませーーーん。」
するとペトロは、イエスから「サタンよ、引き下がれ」つまり、悪魔よ引き下がれといわれてしまう。 悪魔と呼ばれてしまう、ペトロ。 そこには、ペトロの勘違いをイエスは見抜いて言われているのだと思う。 そして、イエスは、私に従いたいものは、自分を棄て、自分の十字架を担いで歩むように。という話をされる。
いったい、イエスは、弟子たちに、本当に何を言いたかったのだろうか。 また、今日の福音書を通して、主イエスは現代の私たちに何を教えようとされているのだろうか?
イエスは、圧倒的な知識と力をもって、イスラエルを治める政治家ではなかった。 そして、イエスに従うこととは、権力をもつことでもなく、金銭的に裕福になって有名になる、いわば、ドナルドトランプのような人間になることでもない。 イエスは神の子であり、同時に人の子であり、それは神が創造されたすべての人類のその魂を、つないでいくような方だった。 そして、人の子として、人類が体験する最高の苦しみをいっしょに体験し、またわたしたちの罪をぬぐってくださるような方。
そして現代を生きる人間は、とくにアメリカのような国に住んでいる人は、イエスが体験したような十字架刑を体験する可能性はとても低いと思うが、イエスの言われる十字架を担ぐとは、私たちが生きていくなかで、たいへんな痛みを体験するということではないだろうか? 「安達牧師よ、キリスト教を信じることが、痛みを体験することなどなく、健康で長生きができて、経済的にも豊かになるということを教えないのですか?」 といいたくなるかもしれない。
申し訳ないが、それは、ペトロの勘違いと同じ勘違いがあるのかと思う。 キリスト教の牧師として、キリスト教徒になるということは、痛みを体験しないとか、破産しないということを保証する、ということではない。しかし、どんな困難が訪れようが、イエスの信仰において、父と子と聖霊なる方がそばにいらしてくださること、その困難をいっしょに体験してくださっていることを、保証する。
そして、イエスが三日後に死から復活されたように、私たちも死を克服し、永遠の命に与れることをぜひ、覚えておいて欲しい。 イエスの愛と慈しみにより、世の救い主のおかげで、私たちは喜びをもって、永遠の命に生きることができる。 それゆえ、肉体的な死を迎えることが現実であっても、希望をもって歩み、肉体的な痛みも、決して気のめいってくるような話ではなくなる。ぜひ、イエスの信仰により、どんな苦しみを体験するかもしれない将来があっても、主にある喜びを覚えて、歩んで参りたい。アーメン
安達均
“Peter’s Misunderstanding”
Mark 8 27-35
May the Mercy and Grace of our Lord, Jesus Christ, be richly poured into the hearts of the people in this sanctuary!
When I was eating dinner with a friend, he said something I’ve never thought about… according to him, he was about 56 at that time, “Assuming that I live in healthy condition until 75, I do not think I can eat a healthy dinner more than 7000 times for the rest of my life, so I enjoy dinner every time since it is so priceless.
It is true that everyone is getting closer to physical death every day. The newborn, Hayato, was born to the Fukuyama family, a few weeks ago, even for him, the number of days he lives for the rest of his life is less every day. Some people might not want to hear such a depressing fact and say, “Please do not talk about such a depressing topic, Pastor Adachi!” But, my question is: Is it truly a depressing topic?
Of course, people may say that if you exercise and eat healthy food every day, you may live longer and number of days you live will be increased. That may be true, but even so, still day by day, you are getting closer to the end of your physical life.
The Gospel given today, in the 16 total chapters of Mark, is the end of the first half, the end of the 8th chapter. You may say that the life of Jesus’ ministry had a turning point from a steady upward climb to a steep downward fall…
The ministry described until the portion just before today’s Gospel, speaks about Jesus miraculously changing people’s lives, like a blind person who could see, a deaf person had hearing restored, a mute person became a person who could speak. It also describes when he fed 5000 hungry people and 4000 hungry people with only small portions of food. Jesus was almighty, like a perfect doctor and he could be a powerful politician.
However, at the end of chapter 8, he asked a seemingly strange question: he said to his disciples, “Who do you say I am?” Then Peter, the intrusive and careless disciple who thinks that “I am the leader of the disciples” said, “You are the Messiah, the savior,” which was a wonderful answer.
Messiah means, “Anointed,” the one who controls Israel with his superior knowledge and power. For Peter, Jesus would be the powerful king who saves every person in Israel and controls Israel, thus freeing the country from the Roman Empire’s rule. Therefore, Peter thought that he is the Messiah. However there was an enormous misunderstanding.
Then, Jesus said for the first time to the disciples that the Son of Man must undergo great suffering, and be rejected by the elders, the chief priests, and the scribes, and be killed, and after three days rise again. However the head disciple, Peter, who probably did not listen to the word of the Lord until the end and misunderstood what Jesus taught, took him aside and began to rebuke Jesus for saying this.
Then Jesus said “Get behind me, Satan! For you are setting your mind not on divine things but on human things.” Jesus pointed out that Peter did not understand him at all. Then he said to the crowd, “If any want to become my followers, let them deny themselves and take up their cross and follow me.”
What did Jesus truly want to teach his disciples? And through the Gospel today, what does the Lord, the savior of the world, truly want to tell us in the 21st century?
Jesus was not a powerful politician and to become a follower of Jesus does not mean becoming a powerful, wealthy and famous person like Donald Trump. Jesus is the son of God and at the same time son of man who reconnects his soul to all people God created. He experiences all of humanity’s suffering and cleanses our sins.
So for the people who live in the twenty first century especially those in the United States, we will almost certainly not be crucified physically, but don’t you think that for the followers of Jesus to take up cross equals suffering some pain and loss in our lives? You might want to ask, “Pastor why don’t you teach that to become a Christian means not suffering and not being broken but to live long and heathy life and becoming financially rich.”
Sorry though, as a Pastor of the Church of Christ, I cannot guarantee that to become a Christian is not suffering or not being broken….however, even in the midst of difficulties, Faith in Jesus Christ guarantees you that God, the father, Son, Jesus, and the Holy Spirit are with you and experience your difficulties together with you.
Please remember, as Jesus is risen on the third day, Sunday, we may live eternally conquering our deaths. Because of the love and mercy of Jesus Christ, the Messiah of the world, we may joyfully live with Jesus acknowledging the love of Jesus that continues beyond our deaths. It is this fact that gives us hope and the eventual end of our earthly lives is no longer depressing. Amen.
Pr. H. Adachi
2015年9月13日LCR日本語部週報通算第1367号
September 13, 2015 Japanese Ministry English Bulletin
今週は9月10 日から13 日の聖書日課に与えられている詩編116編1-9節を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編116編
1:わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
2:わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
3:死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして
4:主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
5:主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
6:哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。
7:わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。
8:あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。
9:命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。
気になる言葉として、「弱り果てたわたし」と言っている詩編作者の状況。
詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 この詩編から伝わってくることは、詩編作者は、この世を生きる時間はもう短くなってきているように思う。もう体もまともには動かせないような状況があるようにも感じる。しかし、まだ息は絶えておらず、たとえ肉体的な死が訪れようが、魂は生き続ける、そんな様子を詠っているように思える。。。。そのようなことを思いつつ、一節づつ振り返りたい。 嘆き祈る声を必ず耳を傾けて聞いてくださる主を私は愛し、生涯、主を呼び続ける(1-2節)。 死が網のように私にからみついて、地獄の恐怖を覚え、苦しみと嘆きを前にしているが、「(肉体的な死はやむをえないが)どうか私の魂を救ってください。」と私は主の御名を呼ぶ(3-4節)。主は憐れみ深く、正義を行なう方で、情け深い(5節)。 哀れな人々を守ってくださる主は、弱り果てている私の魂を救ってくださる(6節)。私の魂よ、安らかであれ、主が報いてくださるから(7節)。主はわたしの魂を死から助け出してくさり、涙がとまらない状況から救い出し、歩行できないような状況になっても、救い出してくださった(8節)。肉体的にはもうなにもできないような状況ではあるが、世の命が続くかぎり、信仰をもって、主とともに生き続けよう(9節)。
この詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。 この詩編を読んでいて、ふっと思ったのだが、いつの時代に生きる人間も、「おぎゃー」と言ってうまれた日から、一日一日、この世の死に近づいていく日々を送っていく。この世に生きる日々は、一日一日、少なくなっていく。 そのような中で、この世をどう生きるかということは真剣な問題。 詩編116編を通して、信仰の大切さ、日々主を讃えつつ、生きることの大切さを覚える。その信仰の中で、肉体的には、どんなひどい状況がおとずれ、この世の死がおとずれようが、魂の救いがあること。主とともに、永遠の命があることを、示唆されているように思う。永遠の命があることは、主イエスの顕現によって、この詩編が詠われるようになってから、数百年後に明らかになったことではあるが。 アーメン。
安達均
マルコ7:31-37
聖霊の息吹が豊かに注がれますように!
リラックスしているだろうか? 今日のビーチサンデー、リラックスした服装で礼拝堂に集っていることに感謝。 私は高校卒業後、最初に入学した大学での専門は電子回路だった。 電子回路の教授が電子回路のことで教えてくれたことはほとんと覚えていない。 しかし、彼が卒業式のあと、リラックスする時間を大切にするようにと教えてくれたことをはっきり覚えている。 彼によれば、リラックスしているときに、もっともクリエイティブになれるから。
しかし、クリエイティブになれるといっても、どんな創造も、一人の人間が突然なにかを創りだすということはなくて、なにかの情報のインプットや、なにかに誘発されたひらめきがあり、創造がおこっている。 そこにはさまざまなヒントやおかれた環境が関係している、そして考える余裕、もあって実現している。 私は、創造も救いも、じつはすべて、主によって実現していて、人間はあくまで、そのCo-creator なのだと思う。
今日、与えられた福音書を読んでいくなかで、神の創造と救いに関係することが出てきてくるので、そのような神の創造についても思いうかべ、そして、私たちも、その神の創造と救いの業に参画したいと思う。
さて、与えられた福音書、目立った言葉はなんだろう。 ギリシャ語でも、もちろん英語にも日本語にもない言葉、”Ephphatha” という言葉が書かれている。その意味は、日本語では「開け」となっているが、イエスが使っていたアラム語の言葉、Ephphathaを、なぜマルコはそのまま残したのだろうか?
この耳の聞こえない人に対して、イエスは男の耳の中に指をいれ、つばを吐いた手で男の下に触れ、”Ephphatha”という言葉で叫ばれると、男の耳が聞こえるようになった。 イエスの不思議な行いによって、聞こえるようになり、話すこともできるようになる。
この話はマルコ7章だけが記述している。私は、この聖書に訳された言葉「開け」が書かれようが書かれまいが、どんな意味かわからなかったとしても、この箇所が人々におおいに希望を抱けるようにしているのではないかと思う。少なくとも、私たち夫婦にとってはそうだった。
実は、私の妻、さと子は若いころから、右耳が聞こえにくいと言っていた。 結婚したころは、まだ聞こえにくい程度だったが、結婚して10年ほどたったときには、ほとんど聞こえていないようになってしまった。そこで、中野近辺の何人かの耳鼻科の先生にも相談したが、皆、成す術無しとのことで、左耳だけでも正常なのだから、良しということかと思った。
ところがある方が、神尾記念病院というところに行ったらどうかと紹介してくれた。 神尾とは神の尾っぽということで、私は、神の中でもその尾っぽ、とても謙虚な名前に思い、わたしは、良いと思った。
そして、神尾病院の詳細検査の結果、人間の骨として一番、小さい骨といわれる鐙骨を、人口骨に変える手術をすれば、聞こえるようになるという診断だった。 ただし、手術後の休養が大切で、二週間入院とのことだった。あたまの中では、理解できても、そんなただでさえ小さいさと子の、その耳の中にある、最小の神からいただいた骨を、人間が作ってしまうことができるのか。 また、さと子の骨をどうやって人口骨に変えることができるのかよくわからなかった。ただ、私たちはDr. God’s Tailを信じた。
その時、私たちの3人の子供たちは、9歳、7歳、4歳で、2週間の入院は、たいへんだとは思ったが、実家の協力も得られるので、手術をGoすることにした。 結果として、おみごと、さと子の耳は手術直後から、よーく聞こえるようになった。
というか、退院して家に帰ってくると、子供たちの声が全部、左だけで聞こえていたのが、右でも聞こえるようになり、いかに子供たちの声がうるさいかということがわかるようになったという。 いずれにしろ、私たちはDr. God’s Tailに、そして、背後で働いていてくださった、主なる神を誉め、感謝した。
37節「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という群集の反応が出ているが、創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」という、神の創造のすばらしさを思い出させる。そして、「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようになる」話は、イザヤ35章5-6節「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき、あるけなかった人が鹿のように踊りあがる。口の利けなかった人が喜び歌う。」という神の救いの預言があったが、マルコ福音書に記述されたイエスによって、それが実現したことを思い起こす。
マルコは、エッファタ、とか、タリタクムという聞きなれない、普通の人には、よくわからない言葉を通して神の創造と救いのわざが、神の子であるイエスの上に実現しているということを伝えようとしたのだと思う。 そして、私は、さと子の耳におこったことが、つまり神の創造や救いが、人類の多くの働きの中で、主なる神の息吹、聖霊の介添えがあって、現在も起こっていることを伝えたい。 そして、どうか、ただエッファタという言葉を信じて、リラックスして聖霊の息吹が自分の心に満たされるようにして、神の創造と救いの業に、わたしたちも参画しよう。 アーメン 安達均
“Ephphatha: Be Opened”
Mark 7 31-37
May the Holy Spirit be richly poured upon the people in this sanctuary!
Are you relaxing? I’m thankful for Pastor’s Carl’s leadership and wisdom declaring this Labor Day weekend Sunday as Beach Sunday. Some of you know my major in college was electronics. I learned how to design electronic circuit boards implemented in many kinds of electronic devices. I do not remember much about what my professor taught me about electronic circuits, but there is something I clearly remember him saying at our commencement: Please try to find time to relax; then you may become very creative. As human beings, we are most creative when we are relaxing.
Even though you can be creative, I do not think an individual can create something amazing without inspiration. There is always input from somewhere, information from someone, or great need in a specific area; then those circumstances make someone create or I would say God is always the creator of anything but human beings may potentially become co-creators.
When we read the Gospel to the end, I think it is related to God’s creation and salvation and we realized that humans may join in these activities. In today’s Gospel, what is the most unfamiliar word to our ears? What does the Greek word, “Ephphatha” mean? In English, it is written as “be opened” This word is Aramaic that was spoken by Jesus but the word was not understood by Greeks. Why did Mark choose to use the Aramaic word?
The special and unusual testament about Jesus’ helping of a deaf and mute man is powerful. The man’s hearing was restored by Jesus putting His fingers into the man’s ears and his speech was restored when Jesus spit into His hand and touched the man’s tongue, saying “Ephphatha.” Even without knowing Ephphatha’s precise meaning this Gospel gives hope to people worldwide.
I believe the Gospel of Mark, in which Mark uses the Aramaic word a few times, is conveying that even human beings cannot understand everything how, some unbelievable wonderful things happen with the help of God. At least for me and my wife, it is true and this story gives us continuous hope.
Satoko, my wife, noticed a difficulty hearing in one of her ears about the time when we were going to marry. The level of deafness worsened as time passed. About 10 years later, she told me that she couldn’t hear anything from that ear. So she visited several Otorhinolaryngology (area of medicine that deals with disorders of the ear, nose and throat) clinics near our home, but everyone said nothing could be done and since she could still hear in her other ear, we thought that she would have to endure partial deafness.
But one day, one of our friends recommended visiting a hospital specializing in Otorhinolaryngology located about an hour away from our home by train in Tokyo. The name of the hospital is Kamio Memorial Hospital. Kamio is the last name of the founding doctor of the hospital and in Chinese characters, “神尾”, means God’s Tail. I like the name very much, because for me, God does everything but this doctor is living humbly with the name God’s Tail. Dr. Kamio was inspired to try new techniques other doctors, at the time, thought were impossible.
Anyway, Satoko visited the hospital a few times and took tests and received a diagnosis. The doctor said it is called “otosclerosis” and it can be cured by a surgery to replace her stapes, which is the smallest human bone, from her own damaged stapes to an artificial one. We were told that she would stay in the hospital for about two weeks. We could literally understand what he said, but we could not understand how you could create the smallest ear bone artificially and implant it in her ear, but we just believed in and trusted Dr. God’s Tail.
At that time, our three children were 9, 7, and 4 years old. Taking care of them without my wife would be tough but I knew how to do so…by asking for both of our parents’ help. So we agreed to go ahead with the miraculous surgery. It was a great success and even right after the surgery, she noticed great improvement in her hearing in the previously deaf ear.
When she came home, she realized how noisy our children truly were, because in the past, she listened to their voices or any noises only from one ear. But then, listening using both her ears she realized there was twice as much noise. Anyway, we thanked God and Dr. God’s Tail.
At the end of today’s Gospel, in verse 37, They were astounded beyond measure, saying, “He has done everything well.” This reminds us of the end of the 1st chapter of Genesis, God’s creation story, “he saw that all he created, it was very good!” Also, I believe the story that the deaf man is healed by Jesus is prophesied by Isiah 35:5-6, “Then the eyes of the blind shall be opened, and the ears of the deaf unstopped; then the lame shall leap like a deer, and the tongue of the speechless sing for joy.
I believe that the Gospel of Mark, in which sometimes we listen to unfamiliar words like “Ephphatha” and “Talitha Koum” makes us believe that God’s creation and salvation happens through Jesus, the son of God. And that even now, in modern times, we experience God’s miraculous creation and salvation with the help of the Holy Spirit. Consider this, why not become a part of God’s creation and salvation by just trusting Jesus’ word “Ephphatha” while you relax and let the Holy Spirit come to you? Amen. Pr. Hitoshi
2015年9月6日LCR日本語部週報通算第1366号
September 6, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin
今週は9月3 日から6 日の聖書日課に与えられている詩編146編を読もう。 6日の礼拝で、与えられている福音書箇所はマルコ7:24-35で、その前半は、汚れた霊にとりつかれてしまった娘を持つ異邦人女性は、信仰により、娘の汚れた霊はイエスによって取り除かれる話。後半は、耳が聞こえず、しゃべることができない人が、イエスの不思議な行為により、耳が開きしゃべれるようになる話。
以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編146編
1:ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
2:命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。
3:君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
4:霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。
5:いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
6:天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。
とこしえにまことを守られる主は
7:虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
8:主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
9:主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
10:主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
インパクトのある言葉として、7節「主は捕らわれ人を解き放ち」という言葉。
詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。 1-2節では、最初のハレルヤという言葉のあと、「私の魂よ」となっており、また2節の言葉も含めて、一見、詩編作者が、個人的に主を賛美するようにみえるが、2節の最後には、「うたおう」という呼びかけになっており、「主を賛美しよう」という会衆全体への呼びかけになってくる。3-6節前半では、君候、昔の中近東やヨーロッパの文化で言うなら領主、つまり一般市民を支配する立場にあるような人々に頼っても、捕らわれ続けてしまい、そこに救いの力はない。所詮彼等は人間であり、死が訪れてしまい、頼り続けることはできない。 だから、主なる神に頼る人々は幸福である。 その主なる神は、大昔に天と地と海を造られた方であり、また、現在もそこに住むものすべてを造り続けておられる方。6節後半-10節では、すべてを創造された主なる神は、虐げられている人々、飢えている人々、捕囚されている人々、目の見えない人々、うずくまっている人々を憐れんで行動を起こしてくださる。 主に従う人々を愛し、孤児や未亡人も励ます。 そして、主に従わないものは、その歩みをひっくり返してしまう。 主なる神は、代々永遠に続く王。だから主を賛美しよう。
今日、この詩編146編を通して、主なる神は、私たちに何を語られているのだろか。詩編は、ユダヤの礼拝で紀元前数世紀から詠われるようになっていた。そして、その中には、救い主の登場を預言したいた言葉を多く含まれている。 その預言の成就の例として、聖日に与えられている、マルコ福音書7章24節から35節の出来事もあるのだと思う。 そして、預言の成就は、歴史の流れの中で、ずっと起こり続けているのかと思う。 20世紀の後半とこれまでの21世紀を生きてきた私にとって、たとえば、女性が牧師として按手を受けるということがなかった時代から、いまでは多くの女性牧師も存在する時代になっており、社会のさまざまな局面で、主の働きにより、解放ということがおこっているように思う。さらなる解放は、全世界のどのようなところで、どのような人々におこるのかということに注意を払いつつ、主は私ひとりひとりへ、先入観や偏見にとらわれないように、行動規範までをも、示してくださっているようにも感じる。
アーメン
安達均
今週は詩編15編と読もう。 短い詩編なので、じっくり読める。 いつものように、気になる言葉をあげる。 詩編作者がいわんとしていることについて考える。 そして、主なる神は、21世紀を生きる者に、なにをいわんとしているか、思いをめぐらせよう。
詩編15編
1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。
2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。
5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。
土曜まで牧師休暇中のため、今週は牧師のコメントをお休みします。
“Do You Also Wish to Go Away?”
John 6:56-69
May Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this sanctuary!
Let’s assume that you have been blessed with a very good life, both spiritually and physically. Job was wealthy and had a wonderful family, wonderful spouse and children. However, due to Satan, he lost his wealth, his family, almost everything.
Not only that, he contracted a terrible case of leprosy. Three friends initially visited him to comfort him, but in reality, they argued that he must have done something wrong because he lost his wealth, health, and family. In other words, his three friends talked about Job’s misfortune.
Assume that you were like Job, but in your case, you were visited not by three friends, but assume that you were visited by Anpanman. And think about what he said, “My head is made of anpan (sweet red bean paste bread), please eat my head, anpan, and this will help you spiritually and physically.” So what do you do? Do you eat anpan, the head of Anpanman? or Do you leave Anpanman since you cannot believe what Anpanman said.
Let’s put aside the story of Anpanman and talk about the Gospel text today. According to the lectionary, we have been reading John Chapter 6 for the last several weeks. (We also read Chapter 14 due to the Peace service last week.) Jesus and his disciples healed the sick and, in the beginning of Chapter 6, Jesus fed 5000 with five loaves and two fish.
Therefore even more people followed Jesus. However, in the middle of chapter 6 and after, John talks a lot about when Jesus said: “I am the bread of life from heaven. Who eats the body of Jesus have eternal life.” Upon listening to this story, many people in the crowd started to say, “This teaching is difficult; who can accept it?”
Then, many followers stopped following Jesus and left him and his disciples. Then, Jesus said, “Among you there are some who do not believe. For this reason I have told you that no one can come to me unless it is granted by the Father.”
These words spoken by Jesus, as I explained two weeks ago, Salvation should not be thought of in terms of predestination, In other words don’t think that God already decided who would or wouldn’t be his followers. Whether or not people become believers of Christ is not because of humanity’s power or hard work but whether or not people take God’s grace and mercy, forgiveness and love that have been always given to us. Stated another way, Salvation is based on whether or not you receive the bread of life, Jesus.
After Jesus acknowledged that people left, he asked his disciples this question, “Do You Also Wish to Go Away?” Then Peter answered him perfectly, “Lord, to whom can we go? You have the words of eternal life. We have come to believe and know that you are the Holy One of God.”
However, as many of you know, Peter and other disciples run away from Jesus and left him on the Cross when he was crucified on Friday. Then on Sunday, God raised him and Jesus breathed the Spirit into the disciples forgiving them.
I briefly reflected on the Gospel, but what is God’s plan for us today? What is the Lord teaching us or asking us to do this morning? I feel like the Lord is asking us “Do you also wish to go away?”
Every time, after Communion, many pastors and priests say, “May the body and blood of Jesus Christ strengthen you and give you eternal life.” This teaching is really difficult and people wonder who truly understand this concept? If you are talking about the world of anime, you might understand this, using the example of Anpanman. While I was talking about the bread of life concept, one person in a Bible Study in Torrance many years ago suddenly said, Christians “copped” Anpanman. Of course it’s the opposite, I believe, Takashi Yanase, the author of Anpanman, was a Christian and “copped” the details of the Anpanman story from the Bible.
In real life, I acknowledge that the Christian teaching of “the body and blood give you eternal life.” is difficult to accept. However, think about Jesus who lowered himself and emptied himself trusting the Father up until the crucifixion, and being buried. God sacrificed his son, because God loves all the people He created, and God resurrected his Son to forgive all of humanity’s sins.
Reflecting upon the love shown on the cross, reflecting on the body and blood of Jesus revealed on the cross, aren’t all of our sins also crucified because of Jesus. Our sins are cleansed each week, so do we not feel made anew? Because of this fact, we won’t abandon God and we gladly follow Jesus. Amen.
Pr. H. Adachi