2015年10月11日LCR日本語週報通算第1371号
October 11, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin
2015年10月11日LCR日本語週報通算第1371号
October 11, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin
2015年10月8日 詩編を読もう:神の御業を仰げ (詩編90編12-17節)
今週は10 月8 日から4日間にわたり聖書日課に与えられている詩編90編の後半12-17節を読む。いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考えたいと思うが、昨年11月に1節から12節までをとりあげたが、前半に何が書いてあったかも、さっと振り返りたいと思う。そして神はこの詩編箇所を通して、現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編90編
12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
13:主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。
14:朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。
15:あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。
16:あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。
17:わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。
気になる言葉やインパクトのある言葉としては、「私たちの手の働きを、確かなものに」という願いが二回強調されていること。
詩編作者の立場を思って詩編90編を読んでいきたいが、1節から11節までには、どんなことが書いてあったか、ざっと振り返る。まず1節には【祈り。神の人モーセの詩。】となっていた。モーセの生涯を思って、後世の一人の詩編作者が詠んだものと思われる。2節から11節は、神は永遠という単位におられ、山や大地が生まれる前からおられる、それに比べれば、1000年といえども、一夜のごとく。ましてや一人の生きる70年ほどの期間は短いが、それでも私たちの罪はあらわとなり、労苦と災いのうちに過ぎ、神の怒りに気づかされる。 モーセにとっては、出エジプト以降、カナンに到着直前までの40年の日々に、民が神の思いに反する行いをし、本当に厳しい年月であったことを振り返っているように思える。
だから、生涯の日々を正しく数え、知恵(主を畏れる心)を得られますように(12節)。主よ、怒りのままでおられることなく、お戻りください。いつまで私たちを見放しておられるのですか、主の僕を励ましてください(13節)。朝には主の慈しみで満たして、(これから生きる世代の生涯は)、喜び歌い、祝うことができるように(14節)。主が民を苦しめられた日々、年月を思い返し、喜びを返してください(15節)。主の民があなたの業がすばらしいものであることに気付き、次世代のものたちが、あなたの光を仰げますように(17節)。主の喜びが、民の上に注がれ、私たちの手の働きがあなたの御旨にかなう確かなものとなりますように。
さて、与えられた詩編箇所を振り返るなかで、今、神が私たちに何を語られようとしているか、現代にあって、どういう意味を持っているのかを考えたい。数週間前には、栃木県周辺では大洪水が起こり、今週は北海道で大型台風が襲っており、今週はアメリカ東部では、洪水でたいへんなことになっている。このような時代、神の怒りだといわれる方がいたりする。私には、本当に神が怒っておられるかどうかはわからない。 今週火曜と水曜の二日間だけ、教会の新しいリーダ育成のためのカンファレンスがあり、バークレーの神学校まで出張していた。東部の各地で起こっている洪水等のため、参加予定の方で来れない方々がいた。 また、サウスカロライナからなんとかかけつけることができた牧師は、教会員の方々で、洪水の被害に会われている方がいるとのことで、教会のスタッフや、教会員の方々となんども電話連絡をとりあっていた。それでも、研修会のディスカッションにもよく参加されていた。さらに、彼の結婚相手は、ハーフジャパニーズで、彼の義理の母は熱海で育ちとのことで、私に親しく話しかけたりしてくれた。彼が指を動かし、電話をかけていたその相手は、洪水の真っ只中に置かれている町に住む人々。それを思うと、彼からの暖かい語りかけがどんなに心強いものか、想像がつく。教会、主イエスの体、に仕える者の手が、主の御旨にかなって、どんな状況の中でも、神の愛が、主を畏れる者に伝わり、主の御業を仰ぐものに、主の威光が照らされているのだと思う。 アーメン
安達均
マルコ10:2-16
主イエスの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれますように!
以前に説教で話したことがあるので、覚えている方もいるかもしれない。 南アフリカ共和国東部で話されているズールー語で「こんにちは」に相当する言葉はなんというか? 「サボナ、Sawubona」。
そして、その応え方として、「ギコワナ、Nigikhona」 短く訳すなら、「サボナ」は「ナボナ」などのお菓子の種類ではもちろんなくて、「私はあなたを見ます。」 「ギコワナ」は「私はここにいます。」
しかし、ニューヨークに住む、アフリカ系のELCAのパスターによれば、この挨拶には、もっと深い意味があるという。 それは、サボナには、「私の中にいる神が、あなたの中にいる神をみます。」 そしてすぐさま応答するキゴワナという言葉にも、「そう、私の中の神がいて、その神があなたの中にいる神を見ます。」 というやりとりらしい。
私は、その挨拶はすばらしく、神が存在するから、私たちは、今互いに会っているんだという認識にたち、そのときの出会いが、それがいつも挨拶を交わしている相手でも、まったくはじめて会ったときでも、また、人種が違う、年齢が違う人とあった時でも、その出会いにはとても意味があり、また、相手のことを真剣に思う、愛が生まれてくるように思う。
今、話したことは、実は、これだけ話せば、今日のメッセージは終わりにしても良いくらいだと思っている。 「えっ」 と思われる方がいるかもしれない。 なぜなら、「さきほど読んだ福音書では、イエス様が、離縁とか離婚について話していただはないですか。 だから、離縁について離婚について、もっと話を聞かせてください。」と思われる方もいるかもしれない。あるいは、「イエスさまは、神が結びあわせたものを人が話してはいけない、といっているから、キリスト教は離縁とか離婚を認めてはいけないのではないですか」という質問もある方もいるかもしれない。 離縁や離婚について、聞きたいということはよくわかる。
離婚を経験された方がこの中にもおられる。 おひとりおひとり、どうだろう、自分の親戚、家族を見回しても、離婚経験者がいるということはほとんどではないかと思う。そして、完全な離縁とはいかなくても、法律にのっとった離婚をした際でも、精神的な痛みや、経済的な痛み、さまざまな傷がどれほど大きいか、多くの方が同感するのではないだろうか。
それは、離婚し、完全にもう離縁、互いに連絡もとらないなどとした場合には、当事者同志だけの問題ではなく、子供や、さらには、孫にまで影響してくることだってある。 自分の父親がだれかわからない、あるいは、自分の祖父はだれだかわからない、それが、痛みになってくることだってある。
しかし、離縁や離婚ということに、もうちょっと話すなら、離婚がやむをえない場合というのもあるのだと思う。事情はさまざまだ。 しかし、離縁や離婚の話は、ここまでにしたい。 なぜなら、今日の福音書の箇所で、ファリサイ人の質問の意図は、モーセの律法とイエスの言わんとしていることが食い違わないかどうかをさぐるような気配があるからだ。ファリサイ派の人々は、イエスのすきをねらって、願わくば、律法に反するようなことを言うなら、イエスを罪に問う、ゆくゆくは、死刑にすら追い込むことを狙っているようなところがあるからだ。 イエスはそのようなことを承知の上で、結婚とか離婚のことを超えて、もっと、もっと、人間にとって大切なことを、示して話してくださっているように思う。
離縁問題というシリアスな話をしている時に、イエスに触れてもらおうとして、子供たちをつれてきた人たちがいた。 弟子たちでさえ、いまはなにもわからない子供たちが出てくる幕ではないとして、その人々を追い返そうとする。 しかし、イエスは、弟子たちを叱り、子供たちをここにつれてくるように言う。
二週間前の礼拝に出ておられた方々は、またかと思われるかもしれないが、今日の福音書箇所の最後では、イエスは、子供たちを抱き上げている様子が描かれている。 律法第一のユダヤ社会では、まだ律法の律の字もわからない子供たちは、いわば、律法を守ったりすることもできず、無能力者的な扱いだった。
そのなにもわからない子供たちに接しているイエスの態度から、イエスは弟子たちに何を教えようとされたのだろうか? それは、また、21世紀を生きる、私たちにも、イエスの思いは迫ってきているのだと思う。 どんな出会いであったとしても、そのかけがえのない出会いの中に、忘れてはならないことを、イエスは教えてくださっているのだと思う。
何年もつきあってきている同じ結婚相手とあっているときでも、未婚の方あるいは離婚経験者でも将来結婚するかもしれない相手とあったときでも、あるいはどのような子供でも、あるいは個人的・経済的に多くの困難を背負っている人でも、目の前の相手は、この自分を創造してくださった神の慈しみがあり、また相手も同じ神が創造してくださって神の慈しみがある。
そう、互いに、同じ神が生んでくださった兄弟姉妹なのだということを覚えるように導いてくださっているように思う。 今日、イエスさまから、おおきな挑戦を受けているのではないでしょうか。 今日から、どんな人と出合ったとしても、それが新しく会う人でも、いままでなんども会ってきている結婚相手とか家族親戚、友人であっても、自分にとって都合がよいか悪いかとかいうことで、相手を見るのではなく、神がその出会わせてくださった人、同じ神の子供たち、互いに兄弟姉妹であることをわきまえて接することができますように。 アーメン
安達均
“A Precious Encounter”
Mark 10 : 2-16
May Grace and Peace of Jesus Christ be with you all!
Since I talked about this word in the past in one of sermons, someone might remember. What do you say “greetings” in Zulu which is one of the languages in Southern part of Africa? “Sawubona!” And to respond “Nigikhona.” If translated in a short form, they are “I see you.” and “I am here.” respectively.
However, an ELCA pastor in New York who is an African American Descendant explained that much deeper meaning of these greetings. When you say “Sawubona,” it means “God in me see you God in you.” Likewise in the response, when you say “Nigikhona,” it measn “Yes God is in me and sees God in you.”
When I heard this, I sensed that because of God we are seeing each other. Whomever and whenever we see someone, that is the first time or someone see each other often, whatever his or her ethnicity, gender, age, religion, because of God we see each other. When we think about this, this greetings bring us God’s love and mercy each other.
What I talked so far in three minutes is the conclusion of the message today and I may finish this sermon today…. Well, you might think why…. because what I read in the Gospel talked about divorce, so why don’t you talk about it?
Or, since Jesus said “what God has joined together, let no one separate,” so why don’t you say it is not allowed to divorce? Some people want to hear about divorces…
Among you, there are people who actually experienced divorce. What do you think, how many of you have someone in your relatives or in your family experienced divorce? I believe many of you…. And going through divorce, it is painful. Wounds won’t be gone many months or many years in some cases… I believe most of you agree.
Divorce may influence children and even grandchildren. There are people who do not know his or her biological parent(s) and/or grandparents….
But I would tell that divorce might be sometimes necessary… There are many reasons for that, but for example husband (or father) caused crime, such as killing somebody. I just would like to stop… after I said, divorce might become necessary in some cases… Because I do not think the point of the message Jesus talked was the divorce. There was an intention for Pharisees to look for an opportunity if Jesus said something that was against the law that Moses taught. And eventually they were looking cases that they may sue and Jesus may be sentenced to death. .
While Jesus and disciples were talking about serious business, there were people who brought kids to be blessed by Jesus. Even disciples were mad and tried to let them go away… However Jesus scolded disciples and let children come to him.
If you were attending the service two weeks ago, you might think “again?”…. but yes, in the end of the Gospel today, it is described that Jesus held them up in his arms, laid his hands on them, and blessed them. In the Jewish context at that time, children were thought that they were incapable since they did not understand the laws and could not keep them. Laws were the most important in Jews.
In spite of their inability, Jesus took them up and blessed. What was and is Jesus teaching disciples and us who live in this now? Whoever we are encountering with, in that encountering moment, God is working in them, this should not be overlooked.
Even we are meeting each of our spouses whom one married with over 30 or 40 years, or whom we meet for the first time to see if someone could be for your spouse, or someone who is very young like preschool child, or someone who owe huge debt… Whoever is, God’s mercy is working in him or her, and at the same time God’s mercy is working in you. People need to know each other about the God’s love.
Yes, whoever we are, we are brothers and sisters under the Creator, that Christianity believe. Jesus is reminding that through his action to the children. I think Jesus is challenging us today. Whomever we meet this week, that maybe your spouse, family members, could be ex-spouse, or whomever you meet someone for the first time, we should not see what is the benefit to meet with that person, but see God’s love and mercy in him or her, and see brothers and sisters eath other. Amen
Pr. Hitoshi
2015年10月LCR日本語部カレンダー/聖書日課
LCR Japanese Ministry October Calendar & Daily Bible Verses
2015年10月4日LCR日本語部週報通算第1370号
October 4, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin
今週は10 月1 日から4日間にわたり聖書日課に与えられている詩編8編を読もう。詩編8編は、去年と一昨年の三位一体主日の頃、また、今年の元旦の頃にも取りあげられた。したがって、詩編を読もうで取りあげるのは、今回で4回目になる。何回読んでも含蓄のある詩編だと思う。今回は、10月4日に与えられているマルコ10章2-16節で離縁のことがとりあげられているが、そのことにも触れたいと思う。いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して、さらにマルコ10章のことも加味しつつ、現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編8編
1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8:羊も牛も、野の獣も
9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。
気になる言葉やインパクトのある言葉としては、私の場合は特に5節の中の、「人間は何ものなのでしょう。人の子はなにものなのでしょう。」という言葉。
詩編作者の立場を思って詩編8編を読んでいきたいが、1節は合唱・演奏するにあたっての説明。ギティトとは、以前きまったメロディと書いたが、琴のような楽器という説もある。2節の前半は、「主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている。」と詠っている。 同じ言葉が、最後の10節にも詠われて、詩編8編が終わる。 その言葉にサンドイッチされる中身は「天に輝くあなたの以降をたたえます。」という賛美から始る(2節後半)。全能の神が、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって、神に刃向かう者から砦を築いて守り、報復する者を絶ち滅ぼす(3節)。 天を仰ぐなら、月も星もすべてあなたが配置されたもの(4節)。とてつもない広い全地と天(宇宙)のなかで、主が人間に御心を留めてくださっているとは、いったい人間とは、人の子とは、何者なのでしょうか(5節)。あなたは人間を、神より少し劣るものとして創られ、栄光と威光をかぶらせ、この地に主が創られた、動物たちも鳥たちも、すべてのものを、支配するようにしました(6-9節)。 主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている(10節)。
さて、詩編8編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。この詩編の1節を除く2節から10節の詩の部分でその中央にあたる5節の言葉に「人の子」と出てくる。新約聖書を読む私たちは、ここで、「イエスのこと」とピンと来るが、この詩編はイエスが顕われる500年以上昔に、歌われ始めていた。だとすると、イエスが顕われる前から、救い主イエスが見え隠れしていたような時代があったことを思わせる。 先週の日曜は、カリフォルニアで夜8時近くに、満月が月食となり、月が見え隠れするような気がしたが、月の光って、あるいは太陽から出てくる光って、いったい何なんだろうと考えさせられた。究極的には、神と神の子、この世に顕われる人の子とは何ものなのか、について考えさせる。そして、詩編8編の「人の子は何ものなのか」の前には、「人間は何ものなのか」という問いは、神から愛されているある特定の人を指しているわけではなく、神がこよなく愛される人間全体、人と人の関係というものがどういうものなのかを問われているように思う。 冒頭に述べたように、4日の聖日に与えられている聖書は、マルコ10章。ファリサイ人が離縁について質問しているが、イエスの感心は、離縁や離婚より大きなスケールで、人と人との関係のあり方について、示唆を与える事にあるように思う。つまり、この詩編8編で中心となった、「人間は何ものか、人の子は何ものか」について、マルコ10章2-16節で応答しているような面がある。アーメン 安達均
本日LCR日本語礼拝にて、一年に一度行われます召天者記念礼拝が行われました。去年から今年にかけて、多くの教会の友が天に召され、まだ悲しみのうちにあるご家族の皆さんもいらっしゃると思います。このように礼拝の中で、共に天に召された愛する者達を偲び、その一人一人の存在が私たちの心の中で生き続けている事を再確認できる機会を与えられている事に、神様の恵みと平安を思い、心からの感謝を捧げます。
説教「死は終わりではない」
ヨハネ11:32-44
アメリカ福音ルーテル教会では、牧師になるために、最低500時間におよぶチャプレンとしての学び・体験が要求される。私は、癌の病棟に配属され、致命的な癌だと宣告された方との会話、あと数日後には、亡くなると思われる方との対話が多かった。
もうすぐ亡くなるという事がわかっていたある方との会話で忘れられない話がある。「生きるって何なんだろう。」という話題になった。そのとき、彼自身が、「神とともに生きる。ということではないだろうか。」という答えをだした。 そして、彼のひとみがぎらぎらと輝きだしたことを、今でも思い出す。
彼の肉体は、やせほそり、本当に弱っていて、もう肉体の死が迫っていることはわかっていた。しかし、彼の魂は神とともに永遠という単位で生きられるという希望が湧いてきた様子を、昨日のように思い出す。
今年3月には愛するフォスター牧師が亡くなった。 フォスター先生は、死は人間に必ず訪れるもので、決して不自然なことではないとされ、肉体的な死は、永遠の命の中の通過点にすぎないと考えておられた。 といっても、死は、生きて残される者との、別れであり、とてつもない悲しみや苦しみを、何ヶ月も、あるいは何年にもわたって体験することだってある。
今日、与えられた福音書、ラザロの蘇りのストーリーだ。 この話を信じられるかどうかという問題よりも、イエスがいかに、若い弟ラザロを亡くしたマルタ、マリア姉妹たちのために、泣きじゃくる姉妹たちの身になって、イエスも泣いて対応されたことに、強い感銘を覚える。 イエスの憐れみ、いっしょになって悲しんでくださる、その憐れみの深さは、計り知れないものがある。
ここで、もしも、イエスという名前がピンと来なければ、日本のクリスチャンの小説家、遠藤周作の言葉を借りてきたい。 彼は、クリスチャンでありながら、イエスを玉ねぎに譬えている。 そして、イエスの代わりに、玉ねぎと呼んだ小説も書いている。 玉ねぎとは、いつも台所にあって、身近にある。玉ねぎは、日本料理、中華料理、アメリカ料理、メキシコ料理、カリブ海料理、等々、何料理にも使われる。 また、玉ねぎは、刻むと、涙が出てきてしまうが、そう、私たちの涙のまっただなかにいてくださる方。 今日の聖書の箇所で、ラザロの姉妹や友人たちがラザロが死んで悲しみのどん底にある中で、イエス泣かれた様子、玉ねぎが泣かれた様子を思いうかべて欲しい。
悲しみのどん底にある中で、玉ねぎはラザロに「出てきなさい」と言われ、臨終の時に着せられた布に巻かれたまま、ラザロは墓から出てきた。 そして、玉ねぎは最後に、まわりにいる者たちに、「ほどいてやって、行かせなさい。」と言われる。 これはどういう意味があるのだろうか。
「ほどいてやる。」日本語では「解放してやりなさい。」と言っても良いと思う。 人間はとかく、「人間は死んだら墓に葬られて終わりだ。」という概念から解放を与えてくれる。 人間の死は、決して終わりではなく、神とともに生き続ける。 天に召された人々を覚えて、今日のような礼拝に招かれることは、彼等が神とともに生き続けているという確信が与えられる。 アーメン
安達均
“Death is Not the End”
John 11: 32-44
To be a pastor of the Evangelical Lutheran Church in America, over 500 hours of study and experience as a chaplain in a clinical setting is required. I served in a hospital cancer unit for three months.
I cannot forget one of the conversations with a terminal cancer patient. While we were talking, the question “What is life?” was asked. He answered the question himself, “The purpose of this life is to live with God, isn’t it?” I remember his eyes shining brightly as he gave his answer.
His body was so thin and weak and approaching the end, that was a certainty. However, the hope for the soul to live eternally with God became obvious. I remember that incident was like yesterday…
This past March, our beloved Pastor Howell Foster passed away. He shared that physical death comes to everybody and it is not an abnormal matter at all. Physical death is only one point of one’s eternal life. However, during this transitional point, we have to experience sadness and suffering due to the separation between the person passing through the door to heaven and the people left in this world. It is a reality that we experience a great deal of pain and grief for months or years.
The good news from John chapter 11 was the story about the raising of Lazarus. Whether or not we can believe this miracle, I feel Jesus’ tremendous compassion to Martha and Maria who were experiencing great pain and grief due to the sudden death of their younger brother is the point of the story. Jesus even wept with them; Jesus Christ responded to their tears.
Since not all of you are Christians, and may be unfamiliar with Christ Jesus, I would like to borrow what the famous Japanese Christian Author, Shusaku Endo, said. He used Onion instead of Christ Jesus. My sense of this name, Onion, is that some onions are almost always in our kitchen, and onions are so familiar in our lives. Onions are used in almost every food, Japanese Food, Chinese Food, American Food, European Food, Mexican Food, Caribbean Food and so on. Also when we chop onion, we are often in tears. The Onion is among us and was, of course, among Martha, Mary, and others during the passing Lazarus.
The Onion cried out saying, “Lazarus, come out” and the dead man came out, his hands and feet bound with strips of cloth, and his face wrapped in a cloth. The Onion said to them, “Unbind him, and let him go.” What does this mean?
The word “Unbind Him” inspires us and frees us from the human concept that “Death is the End.” The Onion is among us when we experience difficulties and within us even beyond our physical deaths, so that we may continue to live eternally with the Lord. It seems that the service today remembering our loved ones gives us a conviction that they are living with the Savior, the Onion, the Lord, Jesus, whatever you call him, He who lives and reigns over our whole world now and even beyond death. Amen.
Pr. Hitoshi Adachi
2015年9月27日LCR 日本語部召天者記念礼拝(聖霊降臨後第18)週報通算第1369号
September 27, 2015 LCR Japanese Ministry English bulletin
今週は9月24 日から27 日の聖書日課に与えられている詩編19編を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編19編
8:主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
9:主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。
10:主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
11:金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
12:あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。
13:知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。
14:あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。
15:どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。
私の場合は、とても気になる節として、13節の「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」さらに後述したい。
詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 19編の8節以降だけを読んでいるが、簡単に1-7節にどんなことが書いてあったかを記しておきたい。1節には、指揮者によって、賛歌、ダビデの詩となっており、ダビデの状況を推察しながら、詩編作者が礼拝の賛歌として詠ったものだろう。2から7節で、天も地も太陽も、そして昼、夜という時までも、すべて神の創造のなかでおこっていて、なんら隠れうるものはない。 いわば、神の創造の壮大さ、完璧さが賛美されていたようだ。 そして8節から11節には、律法のすばらしさ、完璧さが賛美されている。 主の律法が完全で魂を生き返らせるようで、主の定めは真実で、無知なものは知恵を得る(8節)。主の命令は、ストレートに喜びすら与え、主の戒めは清らかで目を輝かせる(9節)。主を畏れることは清いことで、永遠に続き、主のなさる裁きは正しい(10節)。律法は、金や純金にも優って、価値があり、蜂蜜よりも甘い(11節)。12節以降は、神への語りかけ、祈りになってくる。あなたの僕である私は、あなたの律法を熟慮し、守ることで大きな報いを受けるが(12節)、律法を知らずに犯した過ち、そして、自分に潜んでいる罪から、どうか私を清めてください(13節)。この私を驕りから引き離して、それに支配されないようにしてくだされば、重き罪から清められ、私も完全になるでしょう(14節)。 どうか、私の話す言葉が、主の御旨にかなうものとなり、自分の思いが御前に置かれるようなものとなりますように(15節)。以上だが、13節あたりからは、ダビデがついつい自分勝手な思いからおかした罪の告白、反省が込められているようだ。
今日読んでいる詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。 上述した、13節を読んで、私は昔の記憶が蘇ってきている。 私にとっては、大きな二つの出来事だった。 最初は30年以上前だったが、ある友人が私にしたことが、とんでもなく私を傷つけ、私はこらえきれずに、友人を責めてしまった。しかし、その友人は、なんら私を傷つけたなどとは思っておらず、謝る気もなかった。 二つ目の出来事は、10年くらい前だったが、逆のことが起こった。私にとっては寝耳に水というか、その友人の考え方がとても信じられないという思いになってしまったが、ある友人が、一切悪気のない私のしたある行為が、彼を傷つけ、私に不満をあらわにした。 30年前の例は、私はある方の罪の被害者であるかのごとく、そして10年前の例は、加害者でもないのに、加害者ごときに扱われてしまったように上記には書いてしまった。 しかし、よーく考えると、どちらも、私に問題があったように思う。 そもそも考え方の違う人間同志、自分のものさしで、相手がこうするのは当然だろうという考え方自体には、問題がある。 詩編19編13節で、「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」と祈る詩編には、私たちの普段の祈りでもあるべきだし、この祈りにより、自分自身のものさしから、解放されるような要素があると思う。 アーメン
安達均
マルコ 9:30-37
主イエスの恵みと平安が、会衆の上に、また今日この場に集えない人々の上にも、豊かにあるように!
「やれ打つな」と来たら、それに続く言葉は何だろうか? 「蝿が手をする足をする」という小林一茶の俳句を覚えている方は多いと思う。みなさんハエは好きだろうか? この俳句の意味することは? 私はだいたいの意味はわかっているつもりでいたが、最近、ある英語の訳を読んで、なるほどと思った。
Look, don’t kill that fly! It is making a prayer to you by rubbing its hands and feel. となっていた。科学的にあるいは、神学的に、ハエが祈るかどうかについて、神学者によっては、動物には宗教心は無いと断定的なことを言う方はおられる。 私の立場は、科学的な面でも神学的にみても、なんらそんな断定はできないと思っている。
そのようなハエが祈るか祈らないかという議論より、私は、「ハエが祈っている」と見るところに、小林一茶の、また、それを「Pray」という言葉を使って訳した英訳者のハエに対する思いやりがあると思う。 本当に小さな、世の中で、のけものにされてしまいそうなものへの思いやりがそこには、あるのだと思う。
さて、今日与えられた福音書の内容に入っていきたい。先週読まれた福音書と同様、イエスが、それは重要な自分の死と復活を話をしているのに、弟子たちは、イエスの話しをよく理解できなかった。理解しようとするどころか、だれが一番偉いかという議論をしていた。
情けない、弟子たちの姿がある。しかし、当時の弟子たちだけではなく、現代の私たちにも同じことが言えるのではないだろうか。人より、先でありたい、上でありたい、偉くなりたいという欲望に満ちているのが、人間の現実なのだと思う。
私たちは、ついつい自分が一番になってしまう。 たとえば、5人10人と同時に写っている写真をみるとき、まず一番先に、自分がどこに写っているかを捜すのが人間の常だと思う。そのような、自分が先、上、偉いという欲から解放されることはとても難しいことだと思う。
そのような私たちに、イエスは、とても大切な行動を、今日の福音書の後半部分で示されていると思う。 イエスは、小さな子供の手をとって、弟子たちの真ん中に立たせた。そして抱き上げた。
ここで、子供が意味することは、当時のユダヤ社会でもっとも重要とされていた律法について、知識もなければそれを守ることもできない子供、いわば無能力者を意味していたように思う。イエスはそのような子供たちを愛された。
また、マタイ25章では、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)という話をされた。ここで、「最も小さい者」とは、「飢えている人、のどが渇いている人、自分たちの社会には関係ない旅人、裸の人、病気の人、牢にいる人」等々だ。
当時のユダヤ社会では、いわば、無能力者の存在とされた人々、もっとも弱い立場にいる人々をイエスは、本当に愛された。 このような、子供を抱き上げる行動や、最も小さい者の一人にしてくれたことが、私にしてくれたことだと言われた言葉に、私たち自身が、「すぐに自分を、上、先、最高」と思ってしまう思いから解放されるヒントがあると思う。
いまいちど、「やれ打つな、ハエが手をする足をする。」 という小林一茶の俳句を思い出したい。 ハエというイメージの中にある私の思いをシェアしたい。 旅客機に乗っていて、他の旅客機を目撃することがある。 何マイルも離れた距離に飛んでいる旅客機は、近くで見れば、大きな豪華な飛行機だが、遠く離れてしまうと、まるでハエが飛んでいくようにみえる。 とくに、自分が進む方向と、反対方向に進んでいく旅客機は、まるで、ハエがあっと言う間にどこかに行ってしまうかのごとくである。。。
何をいいたいかというと、私たち一人一人は、実は、宇宙から見れば、それこそ、ハエのような存在なのだと思う。 ここで、宇宙を神におきかえても良い。旅客機でさえ、ハエに見えるのだから、ハエよりさらに小さな小さな存在なのだと思う。しかし、その小さな一人一人を、主なる神、主なるイエスは、とてつもなく愛してくださっている。小さな、一人一人のためなら、自分が十字架上で殺されても良いと思われるほどに、愛しておられる。
さあ、今日から、この世のはえと、いやこの世のもっとも小さい者とどうつきあうだろうか? これまでどおり、特に変わらないだろうか、あるいは、一人一人、イエスの示された行動や語った言葉から、何か学ばれただろうか? 聖霊の働きにより、一人一人が、益々祝福され、神から喜ばれる存在になりますように。 アーメン。
牧師
安達均
“Look, Don’t Kill That Fly!”
Mark 9:30-37
May grace and peace come to you in the name of Jesus Christ! Amen!
How many of you know the meaning of the word “Haiku”? Haiku is a type of Japanese poem that is composed of 17 sounds (either vowels or consonants). But those 17 sounds are themselves composed of three short verses (five, seven, and five). I am told that this poetic form is the shortest one in the world.
Let me give you a famous Haiku as an example, “Ya-re u-tsu-na, Ha-e ga te wo su-ru, A-shi wo su-ru.” Of course you do not know what I am talking about, but I believe, you hear the rhythm. 5-7-5. “Yare Utsuna, Hae ga te wo suru, Ashi wo suru.”
The meaning of this poem cannot be translated into only 17 vowels and consonants, but it goes something like this. “Look, don’t kill that small fly! It is making a prayer to you by rubbing its hands and feet.”
Do you normally like flies? Although I do not know for certain whether or not flies pray, I think the poet is showing his compassion to the least or one of the smallest creatures in the world; that most people consider a nuisance.
I would like to talk about today’s Gospel text. Although Jesus was talking about a very important matter, about his death and resurrection in the near future, his disciples yet again did not understand what he was talking about. They were just arguing “Who was the greatest?”
You may say, “It is a pitiable and petty scene.” However, it is the reality of human nature even in the 21st century. Many of us often think that I am above someone, I am the first, or I am the greatest. Humanity has an ego, and thus we feel the need to be ranked.
When you see a group picture in which you’re part of the group, whom do you look for first? I think we often, if not always look for ourselves…I think it is a difficult thing to be free from your own ego or self-interest because society teaches us “I am number one.” and “look out for number one (i.e. put our needs first).
I believe today’s latter portion of the text is giving us great insight. Jesus took a little child that was among them; and took it in his arms. What does this mean? What does a child or children mean to families and to society? In the context of ancient Jewish society, I believe the law is the most important thing in people’s lives. Children have not learned the law yet, so they did not know the law and could not observe the law. But Jesus, the Lord, put a child among them then took him (or her) in his arms. Jesus loves innocent children. Humanity can learn much from children’s innocence.
In Matthew 25, Jesus told that “I tell you the truth, when you did it to one of the least of these, you were doing it to me!” These were people “hungry, thirsty, naked, sick, imprisoned etc.
Jesus loves them and he has unending compassion for whom society deems the “the least” or “incompetent, a person without mental or physical capacity.” In his compassionate care towards those who’re marginalized, we should learn how to deal with our own ego and self-interest.
I would like to return to the Haiku, “Yare Utsuna, Hae Ga Te Wo Suru Ashi Wo Suru.” Let me share my thoughts on this. When I was flying in an airplane many years ago, I saw another plane flying far in the distance…maybe several miles away. At that distance, the other plane was like a fly. I feel like sometimes humans can be like flies. Maybe, in the grand scheme of things, each one of us is a fly and we should not be so self-absorbed.
Starting today, how will we deal with a fly or the least of us that we encounter? Will we be comfortable with old attitudes and actions or will we learn from Christ’s example. May the Holy Spirit bless our new week. Amen!
Pr. H. Adachi