今週後半の聖書日課の詩編箇所、22編23-32節を読む。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。レント(受難節)にあって、主イエスの御苦しみを覚えつつ読みたい。というのは、詩編22編の前半にある言葉は、イエスが十字架に架けられた午後3時にイエスが息をひきとる前に引用している御言葉。 与えられた23節から32節だけだとそのことがよくわからないので、あらかじめ記載しておきたい。

詩編22編
23:わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。
24:主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
29:王権は主にあり、主は国々を治められます。
30:命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
31‐32:子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

どこの箇所が気にってもっとも気になっただろうか? 私の場合は、いろいろな箇所が気になってしまったがひとつ挙げるとすると、29節の「王権は主にある」という言葉。 
詩編作者の気持ちになって読んでいきたいが、今日の箇所ではないが22編の1節には、この詩編が「賛歌」でダビデの詩ということが書いてあったこと、そして2節には、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」という言葉が書かれていて、ダビデがただ事ではない状況におかれているなかで歌われる詩編であることを述べておきたい。 しかし、そのような状況で始まった詩編にしては、23節以降はガラッと様相の変わった賛歌となっている。主を賛美する言葉、主がイスラエルの民にしてくださった恵み、またイスラエルの民への教えに満ちてくる。自分の兄弟に主のことを語り伝え、礼拝で賛美する(23節)。イスラエルの民はみな主に栄光を帰し、主を恐れるように(24節)。主は貧しい者、助けを求める者の叫びを聞く(25節)。だから私は大きな礼拝で主を賛美し献上する(26節)。貧しい者は満ちたり、主を尋ね求める者は賛美し、健康が与えられるように祈る(27節)。全地で、すべての人類が主のもとに立ち帰って、すべての国の民が主にひれ伏すように(28節)。王権は主にあって国々を治める(29節)。すべての民が種にひれ伏して、この世の命を失ったものも、ひれ伏し、魂がよみがえる(30節)。子孫は神に仕え、代々、主の成し遂げたことを告げ知らせるだろう(31-32節)。

さて時代は変わって、この主なる神がこの詩編を通して現代の私たちに何を語りかけているかに思いを巡らす時、とくに四旬節にあるため、主イエスが十字架にかかられ「わが神わが神、なぜ私を見捨てるのですか」という言葉を話されたのが、この詩編22編の最初に書かれていたことを思い出さざるを得ない。しかし、そのような状況の中にあっても、この22編の最後の数節では大きな希望が歌われている詩編であり、わたしたちは、この詩編22編を通して大きな力、元気、励ましをいただけるように感じる。キリスト教徒が一番強い時、また最高の希望と喜びにあふれるようになるのは、どん底と思えるような状況にあっても、そこに強さがあるのだと思う。安達均

マルコ 1:9-15

主イエスの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれますように!

誘惑という言葉を聞くと、どんなことを想像されるだろうか? 誘惑という言葉、誘うという言葉と、惑わすという漢字からなるが、なにかの誘いにあって、心が惑わされること。 
先月熊本の大江教会に行ってきたが、私は熊本に行くのは2回目だった。 1回目は25年近く前の話になるが、私には、子供が二人、しかし3人目があと数ヶ月で生まれるという妻子ある32歳の男性会社員。朝一番の羽田発の熊本行きANAに乗っていったが、機内である事件が起こった。 
私は窓際から二番目の席に座っていたが、窓際には、私と同じかやや年上と思われる女性が座っていた。 熊本地方には、台風が近づきつつあって、着陸数分前に、飛行機がストンと何十メートルも落とされるような感じで、すごい揺れを感じた。
すると、となりに座っていた女性が突然、私の手をぎゅっと握ってこられた。私はあせってしまった。妻子ある男性にそんな。。。 しかし、それは、私の勘違いで、もちろんその女性は飛行機がゆれた恐怖心から、なんでもよいから近くにあった私の手をつかんだだけで、すぐに、「あっ、すみません」と言われ手を離された。 一瞬の出来事だったが、私は、自分勝手に神の思いと反対の方向のことを考えた、自分の中に誘惑があったことを思う。

さて福音書の内容に入っていきたい。 本当に短い7節だけの聖書箇所だが、大切なこと、大きくわけて三つのことが凝縮している。 一つは、イエスが洗礼を受けたこと。そのとき、聖霊が大きく働いて、天からの声が「イエスは私の愛する子で、私の思いに適うものだ。」との宣言が聞こえたこと。 
次の箇所が、受難節に入った最初の日曜に読まれる箇所としてとても重要だが、聖霊の働きが顕われたイエスの洗礼の後、同じ聖霊が、今度はイエスを荒れ野へと送り出し、40日間荒れ野で誘惑を受けて、野獣もいたが、天使に守られる。
そして、40日間の誘惑、試練の後に、イエスの宣教が始まり話が書かれている。 しかし、イエスはどういう誘惑を受けられたのだろうか? マタイやルカには、もう少し詳しく書いてある。 簡単に現代風に言うならば、必要以上に裕福になりたいという誘惑、二番目は常識はずれな危険な行為をしても神が助けてくれるからといって、神を試そうする誘惑、そして三番目は、悪魔とか神でも無い物を崇拝して社会的地位や権威を得ようとする誘惑。
そもそも、これらの誘惑とは、の根源は、神の思いからイエスを離そうとする、サタンの力。イエスはいったいどうそのサタンに対抗されたのだろうか?

サタンへの対抗方法に入る前に、事実として、三位一体という父と子と聖霊が一体であるキリストさえも、神とイエスを、すなわち父から子を引き離そうとする力が働いた事実を確認しておきたい。
そのようなサタンの力、誘惑に対して、マルコが伝えているのは、その誘惑の間、イエスは野獣といっしょにいたが、天使が仕えていたと表現している。 天使が仕えるというのはどういうことなのだろうか? 
詩編91篇になるが、その11節に「 主はあなたのために、御(み)使い-天使のことと考えてよいと思うーに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」 また14-15節になると、 神の言葉で、『彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。』とある。
「彼はわたしを慕う」という表現は、父なる神を慕う信仰の大切さが表現されているのだろう。 そして、イエスは徹底的に父なる神に従順に従って十字架への道を歩み、死にて葬られながらも、復活するということが起こった。

イエスさえも誘惑を受けたように、私たちの現代の世の中においても、わたしたちは大きな誘惑を受けて生活しているのだと思う。 誘惑というのは、夫婦関係を危険に追い詰めるようなものとか、恋人同志の関係を危うくするようなものを、誘惑と、私たちは呼ぶかもしれない。 そのような誘惑も含めて、誘惑とは私たちを神の御心から離そうと力が働くこと。
つまり、御心ではない行動をしてしまうように誘われる、あるいは試されるということがある。 そのような時に、イエスがどう対応されたかということを考えると、父なる神に絶対の信頼をおき、神に徹底的に慕う。 この世の考え方からすれば、十字架に向かうなどというばかげた話だと思われるかもしれないが、神に慕うなかで、聖霊が働き、必ず守ってくださる。
イエスは宣教の始りに、「悔い改めの福音を信じなさい。」と言われている。悔い改めがなぜ一番最初で、とても大切だとされるのは、私たち自身の中にひそんでいる、神から自分が離れてしまおうとする罪の力があるからなのだと思う。 イエスは荒れ野で誘惑を受けられたが、自然環境としてはまったく異なる荒れ野ではない、都会でもサタンは多いに働く。 それはサタンは自分自身の中に潜んでいるから。 しかし、そのサタンに勝つために、悔い改めて、主なる神、十字架にかかっても復活される主イエスに絶対の信頼を置き、また新たな1週間を歩もう。 
アーメン
安達均

Temptation in the Middle of the Wilderness  
Mark 1:9-15

May the Lord’s Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary!

What do you think of when you hear the word, “temptation?” In Chinese characters, in Kanji, the word is composed of two characters, “誘惑”. “誘” means “invite” and “惑” means “confuse” or “perplex”. Therefore, “temptation” may be translated as something that causes someone to believe a false idea.
As you know, I went to Kumamoto last month. As a matter of fact, this was my second time visiting that city. The first time was 24 years ago when I was working for an electronics company. I was 32 years old, a husband and father of two children. At that time the third one was on the way. There was a situation on the plane heading into Kumamoto airport.
I was sitting in the second seat from the window. Sitting in the window seat, there was a woman probably in her late 30s. At that time a typhoon was getting closer to the Kyushu area, as such, a few minutes before landing, we experienced a great amount of turbulence.
The woman next to me suddenly held my left hand and gripped it very strongly. I was so confused and thought it improper since I had a family…then, I noticed that it was just because of the turbulence; she needed to hold something within her reach. She apologized to me and released my hand. Although this was just a moment, I thought to myself, that I was briefly tempted by thoughts contrary to God’s will.

Let’s look at Gospel of Mark today. It is only seven verses, but important things are contained in these verses. The first thing is that Jesus received baptism by the work of the Holy Spirit and the voice of heaven said, “You are my son, beloved, with you I am well pleased.”
The next portion is very important, as a reading, at the beginning of Lenten season. The same Holy Spirit drove him to the wilderness and for forty days Jesus was tempted; he was with beasts and angels were also serving him. After forty days of temptation, Jesus’ ministry began.
During the forty days, how was Jesus tempted? The temptations are not written in the Gospel of Mark, but Luke and Matthew, contain some descriptions. If I were to describe the first temptation in today’s language, it was tremendous wealth. The second temptation was to take an unnecessary risk to test if God would save him. The third temptation was to worship a false god and achieve high social status.
The origins of these temptations are based on the same points or forces that pull Jesus from his father, God. This is called the power of Satan. How did Jesus oppose Satan?
Before talking about how he opposed Satan, let us understand that even Jesus, the Trinitarian God, the Father, the Son, and the Holy Spirit, experienced Satan’s power that tried pulling Jesus away from the Father.

To be honest, Mark does not describe much about Jesus’ opposition. Only this is written, “he was with the wild beasts; and the angels waited on him.” What does it mean “the angels waited on him?”
Let me quote a few verses from Psalm 91, in verse 11, it reads “For he will command his angels concerning you to guard you in all your ways.” And in verses 14 and 15, “Those who love me, I will deliver; I will protect those who know my name. When they call to me, I will answer them; I will be with them in trouble, I will rescue them and honor them.”
In the verse 14, it says, “Those who love me,” sometimes people do not take these verses seriously, but I believe it is important aspect of faith that we love God, the Father. Jesus consistently followed Him, even though it sounded like an astounding idea, he carried the cross on the way and even when he was crucified, God resurrected Him.

Like Jesus’ temptations, we are tempted in a similar manner as we live our lives. The temptation may just mean an argument between a married couple or an issue between a boyfriend and girlfriend, but the very basic idea is that the temptation draws you away from God.
In other words, a force tempts you or tests you to act contrary to God’s will. When temptations occurred, Jesus thoroughly followed God, the Father. Even though the way was to the cross and crucifixion, Jesus followed Him completely. In the midst of difficult situations, the Holy Spirit helped Jesus.
Jesus said, “Repent and believe in the good news” when he started his ministry in today’s Gospel. Repentance means, for us, to confess those sins that are hidden in our own hearts that tempt us to act contrary to God’s will. Even though Jesus was tempted in the midst of the wilderness, we, living in cities, may still be tempted to go against God’s will. As we remember Jesus’ trials, we should rejoice that the Holy Spirit can help us too. We should earnestly follow Jesus during this new week in the early part of Lent. Amen. Pr. Hitoshi Adachi

2月15日は合同礼拝で説教は英語のみでしたが、以下に日本語訳を載せます。 安達

イエスに聞くだけでいいの? 
マルコ9:2-9

18日は灰の水曜日、レント(四旬節)に入る準備は良いだろうか? キリスト教会に通っている方々の間でも、ここカリフォルニアにはあまりにも多くのプロテスタント教会があるため、レントに対する考え方はさまざまなのかと思う。 日本やアジアでは、もっとその文化・宗教の広がりから、レントに対する考えや習慣ももっと広がっていると思う。  
私はロシア正教会の家庭で育ったため、レントのことは、日本語では大斎(おおものいみ)という、斎というのはそもそも日本神道で使われていた言葉ではないかと思う。 また「物忌み」という言葉ともつながっているのだろう。 斎に大がつくわけで、英語なら、Great Lent である。 大騒ぎなのだ。。。 
しかし、結婚したころに妻の通っていたプロテスタント教会に行き始めたが、レントに入るからといって、特別なプログラムがあるわけではなく、復活祭当日に、教会の総会があったりして、同じキリスト教会でもこうも違うものかと思った。 )
正教会の我が家は、祖母はいっさい肉は食べなくなる。 日本ではどちらにしろ、牛肉は高かったので、我が家の食卓でも、レントの期間は、いっさい牛肉は食べなかったと記憶している。ただ、栄養が偏るといけないので、母は豚肉や鶏肉は料理に使っていた。 
40日間のレントの期間が過ぎ、復活祭当日は、明け方に礼拝なのだが、我が家は明け方の礼拝がまだ終わらないころから、教会で飲んで食べての祭りとなる。 私がビールや祖母の料理した牛肉のおにしめがこんなにおいしいものだと思ったのは、礼拝がまだ終わらないうちに、ロシア正教会のフェローシップホールでのできごとだった。 

さて、今週水曜からレントに入るわけだが、その前の聖日、本日与えられている聖書箇所は、マルコがイエスの変容を伝えている箇所。
聖書箇所は9章からだが、その前、8章の終わりには、イエスが弟子たちにいったい、あなたがたは、この私、イエス自身を何者だというのかと質問している。
一番弟子のペトロは、見事に、「あなたは救い主です。」との言葉をのべる。しかし、イエスがどういう救い主というのは、全然わかっていなかった。 
イエスが「私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教えまた、「自分の十字架を担いで、私に従うように。」と言われても、どういうことだがちんぶんかんぷんだった。 
それから6日後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山登りにでかける。 頂上付近に来ると、異変がおこる。 

まずイエスの状態が真っ白にかわる。 どんなさらし職人が白くしたとしても、それ以上の白さにはなりえないというくらい真っ白だった。 そして、どうしてそれが、モーセとエリヤだとわかったのかは知らないが、とにかく、モーセとエリヤがいっしょにいる。
そして、弟子たちはますますわけがわからなくなっていて、怖くなってペトロは「仮小屋を三つ建てましょう。などと言う。 どうやって建築資材を運ぶのかも考えずに、口からでまかせをいう。
そのような困惑した弟子たちに、「これは私の愛する子。これに聞け。」という天の声が聞こえる。 このこれに聞けということは、ただ、イエスのいうことを耳で聞けばよいということではなく、その前にイエスが語っていた、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従うようにということを、示唆しているように思う。

さて、どうすべきか? 再三言うように、弟子たちは、イエスがこれからどうなってしまうのかはよく理解できなかった。 しかし、歴史を知っており、イエスがどうなってしまったかを知っている現代に生きる私たちは、どうイエスに聞き従っていったらよいのだろうか? 
ここで、イエスが弟子たちに話したことであり、実際に起こったことを今一度振り返りたい。 イエス自身は、弟子にも、また周囲のものからもうらぎられ死んでしまうということでは終わらなかった。 
イエス自らが語っていたように、三日後にはイエスは復活したことを覚えていたい。 水曜からレントに入るが、私たちがわかっていることは、十字架にかかった金曜日、その三日目の日曜には、イエスは復活したことだ。
レントは40日だが、復活のレントの期間の日曜は、40日にカウントしていない。 つまり、レントの期間も日曜は復活の日曜だ。 水曜からレントに入るにあたり、レントの終わりには、イエスの勝利、復活があることを、しっかり心にすえて、イエスに聞き従おう。 
今年の復活日は、どんなにか意義深く、また人生の方向性を大きく変える時になるだろうか。 それは、私がはじめて復活祭ではじめてビールや牛肉の味がわかったように、一味違う、復活祭を祝うことができるように、レントの日々、悔い改め、奉仕、奉献の日々があたえられるように!

“Listen To and Follow Jesus”
Mark 9:2-9

May the Grace and Mercy of the Lord be poured into the hearts of the people in this sanctuary!

Are you ready for the season of Lent? Today, four days before we enter into Lent, we celebrate the
Transfiguration of our Lord, Jesus Christ. In California, there are so many different Christian denominations, often with different understandings about Lent. If we go to Japan or other Asian countries, the understanding of Lent is even more diverse. Not because of more Christian denominations but because of different additional religions in Asia. Even with these other understandings, there are much more people who do not know anything about Lent.
I attended the Asian Lutheran International Conference with Paul Coulter, David and Judy Wiggins, and Fumi Liang two weeks ago. One of the presenters, Professor Paul Rajashekar from Lutheran Theological Seminary in Philadelphia, shared an insight that made me stop and think. He said, “Christianity is not Transformation but Transfiguration.” In Asia, most of the major religions are non-Western, and Christians are living among those different religions. For me, it makes sense to say Christianity is not really Transformation but more Transfiguration among neighbors who practice different religions or different Christian understandings.

I would like to share my experiences in Japan. As many of you know, since I was born to and raised in a Russian Orthodox Family, which is very rare in Japan, Lent was a very serious thing in our family. In Japanese, Lent is called “Oomonoimi” translated from the words “Great Lent.” And when it is over, there was a great vigil service that started after midnight on Easter morning.
When I married my wife, I started attending a Protestant church, I was surprised that there were no special services during Lent. Also at that church, Easter service was like a regular service and some years we had annual meeting after Easter service because many churches, in Japan, start their fiscal year on April 1st.
Back to Orthodox tradition, many members of our Russian Orthodox Church stop eating meats during Lent. Especially since beef was very expensive in Japan, at that time, so our family seldom ate beef anyway.
After forty days of Great Lent, on Easter morning, there was a great celebration about the time the vigil service was over. To be honest, it was at the fellowship hall next to the Orthodox cathedral when I first realized how tasty my grandmother’s beef dish while drinking a refreshing beer.

The Sunday before Ash Wednesday, the Gospel given is the part of the Transfiguration of Jesus. It’s the beginning part of Mark Chapter 9, which I read a few minutes ago.
Although this was not a part of today’s gospel, at the end of Chapter 8, Jesus began teaching his disciples that the Son of Man must undergo great suffering, and be rejected by Jewish leaders, be killed, and after three days rise again. However, his disciples did not understand what Jesus taught them. Peter even rebuked Jesus. Jesus taught: deny yourself, take up your cross, and follow him. But no, his disciples did not understand what that truly means or what would ultimately happen.
Then Jesus took Peter, Jacob, and John to the mountain. At the peak, his disciples experienced a very abnormal event.
At first, Jesus was transfigured before them, and his clothes became dazzling white, such as no one on earth could bleach them. And there appeared to them Elijah with Moses, although I can not figure out how the disciples knew they were speaking with Elijah and Moses.
Peter was very confused and said, Why don’t we make three dwellings?”, although I do not know how he could bring building materials to the top of the mountain without any heavy lifting equipment…
Addressing the confused and very scared disciples, there was a voice from heaven in the midst of clouds, “This is my Son, the Beloved; listen to him!” What does it mean?
“Listen to Him.” I believe this is not just about hearing Jesus’ voice. I believe God was suggesting “deny yourself, take up your cross, and follow Him,” as Jesus taught the disciples a few days ago.
What should the disciples have done? Did they really follow Jesus? No, they could not because they did not listen to him well. Because they could not understand well what would happen to Jesus. However, I would say they followed Jesus after they noticed that Jesus suffered, was crucified, and resurrected.

For those of us who know what happened to Jesus, what should we do entering Lent? Let us reflect upon what happened to Him. He did not end with his betrayal, crucifixion, and death. Like he taught, He was resurrected on the third day. Although a week from now, we will enter into Great Lent or just Lent, whatever you choose call it, we should remember he was crucified on Friday but resurrected on Sunday.
I believe the transfiguration of Jesus Christ was the preview of his death but much more importantly this was also the preview of the Resurrection. I really like the Christian church wisdom that does not count Sundays as part of the forty days of Lenten season. Even during Lent, Sundays are the days we remember His Resurrection.
Why don’t we enter the season of Lent remembering His Resurrection? Why don’t we repent and deny ourselves, take up our crosses, follow Jesus, and offer ourselves to God? After 40 days of Great Lent, I experienced the great taste of beer and beef for the first time in my life, many years ago, I hope and pray that each of us also experience something very new, this year, on Easter.
Pr. Hitoshi Adachi

February 22nd, 2015

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2月18日、先週の水曜日に「灰の水曜日」を迎え、四旬節に入りました。

この案内状をご覧になり、これから復活祭までのスープサパー、礼拝にぜひおいでください。

2015年、四旬節、復活祭のご案内

2015 Easter Invitation

2015年2月22日LCR日本語部週報通算第1341号

2015年2月22日(四旬節第一主日)の週報

February 22, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1341E(1 Lent)

今週後半の聖書日課にある詩編25編1-10節を読む。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。今年は昨日2月18日が灰の水曜日で、すでにレント(受難節)に入った。そして受難節の最初の聖日に与えられている福音書箇所は、イエスが荒れ野で誘惑を受けた箇所、マルコ1:9-15。その光景を覚えて、この詩編25編を読むのも良いかと思う。

詩編25編
1:【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
2:わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。
3:あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
4:主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。
5:あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
6:主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
7:わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。
8:主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。
9:裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。
10:その契約と定めを守る人にとって/主の道はすべて、慈しみとまこと。

気になる言葉やインパクトのある節はどこだろう? 2節にある「敵が誇ることのないように」という状況。

詩編作者の気持ちを覚えつつ1節づつ読んでいきたい。1節に【ダビデの詩。】となっており、詩編作者は、特に2節後半の言葉から、ダビデが敵に囲まれ危機的状況にあった時のことを想像しながら、この詩を詠ったのかと思う。この詩編の言葉は、1)神との信頼を宣言する箇所、2)神への要望を述べる箇所、3)詩編作者が教訓を述べる箇所のどれかに属する言葉が並べられて構成されているようだ。そこで、そのどれに属するかを考えつつ、一節づつ振り返りたい。 私の魂はあなたに望みを置いています、神よ、あなたを信頼してお願いします(1節と2節前半:信頼)。私が恥を受けることがないように、また敵が誇ることのないようにしてください(2節:要望)。あなたに望みを置くものは恥を受けることがなく、人を欺く者が恥を受ける(3節:教訓)。主よあなたの道を示して、あなたに従う道を教えてください、あなたの真理に私を導いてください(4節、5節前半:要望)。あなたは私の救いの神で、あなたに永遠の望みをおいています(5節後半:信頼)。主よ、あなたの永遠なる憐れみと慈しみを思いだしてください、わたしの若き日の罪や背きを思い出すことなく、主の慈しみと恵みの中に私を留めてください(6-7節:要望)。主は恵み深くて正しく、罪人にも道を示してくださる、主は謙(へりくだ)る者を認め、主の道を教えてくださる、約束を守る者にとって、主の道は慈しみと真理である(8-10節:教訓)。

今日この詩編25編の1-10節を通して、主なる神が、現代の私たちに何を語っておられるのだろか? この詩編はダビデが危機的状況にあった時のことが想像されながら詠われた時代から、紀元後、キリスト教会では、キリストが荒れ野でサタンの誘惑を受けられた時のことを覚つつ、詠われるようになったともいえる。そして、現代に生きる私たちも、同じ詩編をレントの始りの時期に読むとき、私たちも何かの危機の中に置かれている、あるいは誘惑の中におかれていることを覚える。それは、健康上はよくないのに、何か甘いものをたくさん食べたくてしょうがなくなるようなことから、自分の健康に関連して、かかってもいない病にいつかかかるのではないか心配でしょうがないとか、あるいは、老後のことが心配でしょうがない等々いろいろなことがあるのかと思う。 ピンチや誘惑の中で最も強力なもので、すべての状況に共通しているのは、私たちの心を、主なる神から遠ざけようとする力なのだと思う。そのような誘惑に陥らないように、また危機的状況から救い出されるように、主なる神に全幅の信頼を置いて礼拝を守ること、聖書を読もこと、そして主に祈ることの大切さを覚える。そして、歩むべき正しき道、従うべき教えが示され、主イエスの慈しみにつつまれながら、神に自らを捧げ、社会に仕える行動へと導かれていることを覚える。
アーメン 
安達均

2月1日と2月15日は日本語礼拝がありませんでした。

2515年2月8日LCR日本語部週報通算第1340号

2015年2月8日の週報

February 8, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin

Sunday English Bulletin 1340E

今週後半に聖書日課にある詩編50編1-6節を読む。2月15日は主の変容主日であり、マルコ9:2-9に書いてある様子を覚えながら読んだらよいかと思う。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編50編
1: 【賛歌。アサフの詩。】神々の神、主は、御言葉を発し/日の出るところから日の入るところまで/地を呼び集められる。
2:麗しさの極みシオンから、神は顕現される。
3:わたしたちの神は来られる/黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。
4:神は御自分の民を裁くために/上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。
5:「わたしの前に集めよ/わたしの慈しみに生きる者を/いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」
6:天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる。〔セラ

インパクトのある言葉はどこだろうか? 私には5節の「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」

詩編作者の気持ちを覚えつつ1節づつ読んでいきたいが、まず、「賛歌。アサフの詩。」となっている。アサフとはダビデの時代に音楽隊の中に出てくる名前(歴代上15章16-24節参照)。 ダビデの時代に生きていたアサフが詩編50編を残したのか、後世の詩編作者がアサフのことを覚えつつ、アサフの詩としてこの詩編を作詩した可能性もある。 また詩編50編の1-6節は、23節ある詩編50編全体がひとつのユダヤ教の式典のようなイメージがあるが、その式典の導入部分。 神々の神が、東の果てから西の果てまで、すべての地にいる民を集めて、言葉を発せられる(1節)。完璧な美しさを現しているシオンの地から、神は顕われる(2節)。 神々の神であるわたしたちの神は黙ってはおられず、その前の地を火で焼き尽くしながら、また足元では強風が吹き荒れているような状況の中で、来てくださる(3節)。 神は自分の民を裁くために天でも地でも呼びかけられる(4節)。 「わたしの前に、わたしの慈しみに生きる民を、いけにえを供えてわたしと契約を結んだ民を、集めよ。」(5節) 天が神が正しいことを告げ、神ご自身が裁かれる(6節)。

今日この詩編50編の1-6節を通して、主なる神が、現代の私たちに何を語っておられるのだろか? 上記には、1-6節が詩編50編の導入部分に当たることを書いた。 しかし、2月15日の聖日に与えられている福音書箇所が、主の変容のできごとであることを思うと、この詩編50編1-6節が、主の変容の際に、天の「これは、わたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえた時のことを、予告しているような詩編であるようにも感じる。 さらに、主の変容は、イエスの十字架の死と復活への予告であったとも考えることができる。 ある意味、十字架の死と復活の前触れが、詩編50編にも表現されていたような面を感じる。 とくに、5節の「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」という箇所から、主イエス自らがいけにえとなり、すべての民の罪の赦しのために、主イエス御自身が、父なる神と契約を結んでくださったことが彷彿してくる。主の変容日が過ぎると2月18日からは、四旬節(受難節とも呼ばれる)に入り、悔い改めて、十字架の死と復活に備える期間となる。 その四旬節を前にして、詩編50編の1-6節の中に、神々の神からすべての民への深い思い、憐れみ、を感じる。 
アーメン 
安達均

「おもてなしの心」

マルコ1:14-20

主イエスの恵みと平安が、主に導かれて集まった会衆の上に豊かに注がれますように! アーメン

どうしてこんなにすばらしいおもてなしができるのだろうか、と言える人にあったことがあるだろうか? あるいはどうしてこの人は、これほどまでに教会に仕えることができるのか? とか。。。 
ご承知のように、1月19日にLAを発ち、日本の私の両親に会い、そして日本福音ルーテル教会のいくつかの教会を訪ね、そしてアジアルーテル国際会議出席を主たる目的として、日本とマレーシアを旅行して、2月4日に無事、LAに戻ってきた。旅行中、二人の日本人人質が無残にも殺されるという出来事があり、心中おだやかではない時も多かった。しかし無事に戻れたこと、そして、今回の旅がどんなにか恵み深いもので、また意義深かったかをふりかえる時、感謝の気持ちでいっぱいで、また、留守中の皆様方の奉仕にも、感謝したい。
熊本市内にある大江教会訪問中は、立野牧師はじめ大江教会の皆様から、大歓迎を受けた。 また、大江教会を訪問して説教を担当するだけではなく、ルーテル学院(元九州女学院)、九州学院という二つの名門校、そして慈愛園、それは日本の社会福祉施設として、パイオニアともいえる施設の見学もしてきた。
ちなみに、ルーテル学院では、教育方針として、「感恩奉仕」の心を大切にしていることを知った。その教育方針に従って、すばらしい、「おもてなしの心」が備わった方々が、おもてなしを実践している様子をあちこちで目撃した。

さて、本日の福音書の内容に入っていきたいが、福音書記者マルコによると、イエスはアンデレ、シモン、ヤコブ、ヨハネの4人の弟子たちを連れて、ガリラヤ湖近くのシモンとアンデレの家にやってきた。すると、シモンの家で、しゅうとめが、体調を崩し、熱を出して寝ていた。シモンのしゅうとめは、何もやる気が起こらないどころか、回りがものすごく心配するほどの病状だったのだと思う。
というのは、聖書には、「人々はそのことを、早速イエスに話した。」と書いてある。 当時の医療状況からすれば、もう寝たっきりで、再起不能にもなりかねないような、それほどまでに、回りは心配だったのかと思う。 
シモンの妻のことは何も聖書には書かれていないが、シモンが漁師から、12弟子のリーダとなり、のちにカトリック教会の初代総主教になった(それは何百年もたってから決めたことだが)影には、シモンの妻が、すばらしい女性だったのではないかと思う。そしてまた、そのシモンの妻の母親も、すばらしい娘を育てた、人々から愛されていた女性だったのだと想像する。

イエスは、シモンの母が緊急処置を必要としていることを察し、霊に満ちた愛の御手をもって、シモンのしゅうとめの手をとって、彼女を起こした。
すると、大病かと思われていた彼女だが、いっきに熱はさがる。熱が下がるばかりか、集まったイエスとその弟子たちに、たいへんなおもてなしをはじめてしまう。
大病になりかかっていた彼女が、なんでそんな、おもてなし、奉仕をできるようになってしまったかということを考えると、鍵はもちろんイエスにある。単にイエスが手をとって起こしたという行為だけではないのだと思う。
手をとって起こされただけではなく、その貴重な体験に、シモンのしゅうとめは、ひしひしと感じるものがあったのだと思う。 彼女自身が、イエスの無償の愛、神からいただいた恵み、神からの恩を感じることができて、イエス自身が愛と奉仕のお方であるように、彼女自身も、イエスの愛と奉仕を実現する者になったということがいえるのだと思う。

今日の福音書に書かれた、シモンのしゅうとめの、もてなしの行為は、2000年前に起こった一つのできごとに終わらず、実は、世界中のキリスト教会の御業のなかでおこっているのだと思う。
教会は、イエスの体であり、教会が、手を差し伸べると、イエスからの愛、神の恩を感じて、愛と奉仕を実現する人に成長していくことが、そこら中で起こっていることなのだと思う。
高齢化社会が進む中で、高齢者をどういうシステムで、介護をするか。またますます複雑化してしまっている家庭環境の中で、通常の教育システムには対応しきれない子供たちもたくさんいる。介護の現場、特別擁護の現場で奉仕する先生たちの確保は、大問題なのだと思う。 
そのような中で、どう社会システム、教育システムを構築したら良いのかということが、さかんに考えられる時代である。しかし、その介護の現場、教育現場に働く人々の、精神的基盤こそが、実は大問題なのだと思う。もてなしの心、あるいは、奉仕の精神の、その根本には、イエスのしゅうとめが感じた、イエスの恩、神の愛、おおいなる力を感じることで、真のおもてなしの心が備わるように感じる。「感恩奉仕」というこの四文字熟語、今一度かみしめて、新たな1週間を歩みたい。アーメン 安達均

“The Heart of Hospitality” Mark 1:29-39

May Grace of Peace of the Lord poured into the hearts of the people in this sanctuary! Amen.

Have you ever met someone so hospitable that it made you question exactly how they came to be that way? Or in the case of someone who serves the church, how they come to serve so earnestly without being tired?
As you know, I left LA on Monday January 19 to visit family in Yokohama, several churches in Kyushu and Tokyo, and attended the Asian Lutheran International Conference in Malaysia. Although there were disturbing moments during my trip due to the hostages being killed by ISIS, I am thankful to God who made this journey meaningful and safely led me home. Also, I am thankful for you propelling Christ’s Mission in Southern California.
While visiting Ohe church in Kumamoto prefecture, I was welcomed with amazing hospitality from Pastor Tateno and members of the church. While in Kumamot, I not only preached at Ohe church, but also visited two wonderful educational institutions — Kyushu Gakuin Junior/Senior High School and Luther Junior/Senior High School. I also visited the Jiaien, who are the pioneers of elderly care and childcare in Japan.
During the visit at Luther Junior/Senior High School, which was previously a Girls’ School, I learned that the motto of the school is “感恩奉仕- Kan-On-Houshi.” “感-Kan” means to sense, “恩-On” means debt of gratitude/favor, and “奉仕-Houshi” means to serve. I felt that many graduates of Luther Junior/Senior High School are serving the society with wonderful hearts of hospitality wherever they go.

Let’s dive into the Gospel text today: Jesus and his four disciples Andrew, Simon, Jacob, and John, came to the house of Simon near the lake Galilee after worship.
There, Simon’s mother-in-law was very ill and lying on the bed with a high fever.
Because it is written that “they told Jesus about her right away,” and considering that level of general healthcare during those ages, she most likely was not able to get out from the bed. Consequently, those around her must have been seriously concerned.
The mother in law was very much loved by others. Although nothing is written about Simon’s wife, I can imagine that she was a wonderful spouse of Simon, who would be the first presiding bishop of the Roman Catholic Church later.
In a sense, Simon’s mother-in-law raised a wonderful daughter and let her marry to Simon, who was a fisherman then, and the head of disciples later.

Jesus realized the emergency caused by her illness, and with His spiritual and mighty hand, He raised her.
Then, although she was seriously ill, the fever left and she immediately became well and started to serve meals for Jesus and disciples with great hospitality.
Think about how she was able to serve that way; Of course, the key was Jesus, but I believe that her service stemmed from something beyond the act of Jesus healing her.
Not only she was raised by Jesus, but she also felt something from Jesus. I believe she sensed Jesus’ unconditional love and mercy, and felt a debt of gratitude to Jesus, the Lord. As a result, just as Jesus who serves people with His great love, the mother-in-law was changed and became an individual who can also show Jesus’ love.

The incident happened 2000 years ago. Simon’s mother-in-law was not a one-time incident. There are accounts of numerous similar incidents happening all over the world.
It is often said that the church is the body of Christ. So when the church—the body of Christ—reaches out to people with His love and mercy to those who are sick or desperately in need, the people may be changed with Jesus’ mighty and spiritual power. People, then, are able to realize the wonderful person within who shows God’s love and mercy.
In the midst of an aging society, we have been talking about how to improve the system for elderly care that exists today. Or in the midst of more complicated family situations, we have been experiencing more children who need special education. The human resources of caregivers and teachers for special education have been a big issue in Japan and in the US as well.
Mental and spiritual foundation of caregivers either for elderly or children is a critically important matter in this world. The key matter is the love and mercy of Jesus Christ that Simon’s mother felt through Jesus. By sensing and feeling the mighty power of Jesus continuously, the heart of great hospitality is equipped in each individual. Let’s remember the word “感恩奉仕- Kan On Houshi.” Amen. Pr. H. Adachi

私はマレーシアにいたが、湯川遥菜氏に続いて、今度はわたしたちクリスチャンにとっては主にある兄弟である、後藤健二氏もイスラム国に殺されたという報道が2月1日の聖日の早朝に流れてきた。そのような状況を覚えつつ、今週後半に聖書日課で与えられている詩編をしっかり読もう。 気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、いまのような状況の中で、わたしたちに何を語っているのか、私たちにどのように行動するように示唆しているか思いを巡らせよう。

詩編/ 147編
1: ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。2:主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。3:打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。4:主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。5:わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。6:主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。7:感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。8:主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせられる。9:獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば/食べ物をお与えになる。10:主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。11:主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。
20:どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。

気になる言葉や、インパクトのあった言葉や節はどこだろうか? 私の場合は、「打ち砕かれた心を癒し、その傷を包んでくださる。」という3節の言葉。

詩編作者の気持ちになって、一節一節読んでいきたい。1節の「ハレルヤ」とは、「主を賛美すること。」そして主を賛美することが、いかに喜ばしく、いかに美しく快いことか、という二つの考察を詠っている。2-6節では、なぜ主を賛美するかの理由が連続的に詠われる。まず、主なる神は、エルサレムを再建し、イスラエルから他の国(エジプトやバビロン)へ追いやられた民を再びイスラエルに呼び戻してくださる(2節)。奴隷となった時代や捕囚されたために、たいへんな苦しみあるいは命を失った民もおり、心がずたずたになってしまった民ではあるが、民を癒し、傷を覆ってくださる(3節)。主は星の数さえもわかっており、ひとつひとつ名前をつけられているように、主の民、一人一人のことを覚えておられる(4節)。主は偉大でその英知なる行いは計り知れない(5節)。主は貧しい者を励まし、主に逆らう者を倒す(6節)。そして7節では、命令形で、主に感謝の奉献をして歌え、竪琴(チェロのような楽器)の調べにあわせて主なる神を賛美せよ。8-9節では、また主を賛美する理由が詠われる。主は傷ついた民がいる時代でも、雨をもたらしてくださり、山々を緑にしてくださる(8節)。動物や鳥が食べ物を求めて鳴けば、主は与えてくださる(9節)。そして10-11節は考察。主は馬の勇ましさや人の足の速さ(武力のことを意味しているように私には感じる)を喜ばれるわけでも、望むわけでもない(10節)。主が望んでいるのは、主を畏れ、主の慈しみを待ち望む人々(11節)。イスラエルの民以外には、主はこのような計らいをされなかったため、異邦人には主の裁きを理解しえないだろう、だから民よ、主を賛美せよ(20節)。

この詩編147編を通して、主なる神が、現代の私たちに呼びかけていることはどのようなことか、思いをめぐらせたい。 イスラム国の人質となった日本人二人に加え、人質となっていたヨルダン人パイロットも、実に悲惨な殺され方で、亡くなった模様。そのような中で、147編の結論である「主を賛美せよ」という気持ちには、なかなかなれないかもしれない。日本の首相、ヨルダン国王、米国大統領、イギリス首相等が、こぞって許しがたい行為として、イスラム国へ武力を持って破壊していくような様相を感じるが、果たしてそこに主なる神の思いが働いているのか、という質問をしたい。これまでテロの犠牲者となった方々の気持ちや、今、悲しみ苦しみの中にある遺族の気持ちを覚える。後藤健二さんの母は、後藤さんが殺害されたとみられる映像が流されたあと、「この悲しみが憎悪の連鎖となってはいけない。」というメッセージを読み上げている。911の犠牲となった方々の遺族たちにとって、アフガニスタンへの攻撃や、もろもろの連鎖的に起こった戦争が、心の癒しになったのだろうか? 詩編147編の3節の言葉から、打ちひしがれた心の人々は、いったいだれによって癒されるのか、考えたい。また10節、11節の意味も、今一度よく吟味したい。今とるべき行動はなんなのか?憎悪の連鎖が起きない様に祈ると主を賛美したい気持ちが湧いてくるように思う。
アーメン 安達均