1月16 日 詩編を読もう:主の恵みを語り伝える (詩編40:1-12) 牧師:安達均
今週の詩編は40編の1節から12節。最初は詩編作者の気持ちをできる限り想像して読んでみよう。 そして、次は自分の立場で、この詩編がどういう意味を持ってくるか考えてみよう。 19日の日曜日に与えられている福音書箇所はヨハネの1章から、イエスの最初の弟子アンデレが自分の兄弟であるシモンペテロに「自分は救い主に会った」ことを伝え、そしてペテロをイエスのところに連れてくる場面である。その場面と、この詩編の兼ね合いについて思いを巡らせるのも良いと思う。
詩編40編
1:【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】
2:主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
3:滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ/わたしの足を岩の上に立たせ/しっかりと歩ませ
4:わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む。
5:いかに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。
6:わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます。
7:あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
8:そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。
9:わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み
10:大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。
11:恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。
12:主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく/慈しみとまことによって/いつもわたしをお守りください。
1節ダビデの詩とあるので、ダビデの生涯を思い浮かべるのも良いかと思う。 2節から4節の内容からして、ダビデがサウルから命を狙われ、絶対絶命とも思えるピンチに遭遇しても、主なる神がピンチから脱することができるようにしてくださったことに感謝し、主を讃え、また、畏れ敬うことを詠っているように思える。 5節から8節の内容からして、詩編作者は、主なる神によって再三起こる不思議な業について詠い、また数え切れない主の計らいを受けており、それを巻物に記録として残している事を述べている。 そして9節以降では、詩編作者自身が、受けた主の恵みを、徹底的に述べ伝え続けることを述べている。
この詩編、ある意味、私のことを詠っているような部分があると感じる。 4節には主の恵みを新しい歌にして詠うこと。 6節には主の御計らいを語り伝えていくことが書かれている。 8節には、記録に残していること、10節11節では、主の恵みについて唇を閉じることなく正しく伝え、語り続けることが詠われている。 私は、こどものころ、兄から「均は本当に話好きだ。」といわれたことがある。その傾向は今でも変わっていないようなところがあり、特に、神様からいかに恵みを授かっているかということとなると、話がしたくてしたくてしょうがないような面がある。 かといって、何時間も話すというわけではなく、節度を保ち、常識的な範囲内でありたいとは思っているが。
19日の日曜に与えられているヨハネ福音書1章の箇所は、ある意味、とても伝道的なところである。そして、この詩編40編もとても伝道的な面がある。 ヨハネ一章では、イエスに一度会っただけの体験ながら、アンデレはペテロに「メシアに出会った」ことを報告し、すぐにペトロをイエスのところに連れてきている。 40編では、主の恵みを繰り返し述べ伝えることを主に約束している詩編のようにも思える。
詩編40編は、大好きな讃美歌21の402番(讃美歌502番)の歌詞と深く関係している。その歌詞の繰り返しのところを以下に記述しておきたい。
世にある限り、 主のみ栄えと
いつくしみを 語り伝えん
アーメン
主の恵みを讃え、感謝して、自分だけではなく、多くの方々のことを救い主が一人一人大切に思ってくださっていることをひしひしと感じつつ。 安達 均
January 13th, 2014
2014年1月12日主の洗礼日(顕現1)主日聖餐礼拝説教 「私の愛する子」“My Dearly Loved Child” 牧師 安達均
No Comments, 牧師説教, by admin1.“私の愛する子” マタイ 3:13-17
洗礼を受けられた主イエス・キリストの恵みと平安が豊かに与えられますように!
皆さんの中で、洗礼を受けたために、自分ははっきりこう変わったという自覚を持っている方いるだろうか? 洗礼を受けたからといって自分では特に何か変わったという感覚を持たない方と持つ方がいると思う。あまり変わったと思われない方は、もし自分が洗礼を受けていなかったら、今の自分はどうなっていただろうか?という質問をしてみると良いと思う。 私は、もし洗礼を受けていなかったら、もちろんここに立っていなかったと思うし、妻とも結婚していなかったと思う。 すると子供たちも生まれてこなかったことになる。私たちの子供たちは3人とも、この復活ルーテル教会で17年前にいっしょに洗礼を受けたが、洗礼を受けて数週間してからとても面白い経験をした。
というのは、ゆき子の友人の母親が、彼女はクリスチャンではなかったが、「ゆきちゃんは、洗礼を受けたから全然違う。」と冗談ではなく、本気でそう語っておられた。聖霊の働きが、ゆき子だけではなく、その友人のお母様にまで働いているのを感じた。その家族は数年後に日本に帰ったが、お嬢さんはキリスト教の中学高校へと進学した。また、ゆき子が洗礼を受けた年に、日本語学校で担任をしていた先生が、今日、洗礼を受けたということも起こっている。
さて、今日の聖書の箇所、イエス・キリストの洗礼の場面である。 12月末にクリスマスを祝ったが、イエスの降誕のことを書いているのは、マタイ福音書とルカ福音書だけで、主イエス・キリストの洗礼の記述は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネすべての福音書にあり、とても私たちに意味があることだと思う。
そもそも、主イエス・キリストはなぜ洗礼を受けたのだろうか? 罪が赦されるのが洗礼ならば、罪のないキリストは洗礼を受ける必要が無かったように思う。その質問に対して、私は理論的に、
主イエス・キリストはこういう理由で、こうだから洗礼者ヨハネから洗礼を受けたというような説明はできない。 しかし、次のようなことは言えるのではないだろうか。。。 主イエス・キリストは、罪びとである私たち人類に対して、とてつもなく深い関係を持っておられるということ。 また、実際にイエスが洗礼を受けた後、短期的、中期的、また長期的に、何が起こったかということを見ることが大切だと思う。短期的には、聖霊が下って「これは私の愛する子」という言葉が聞こえてくる。それは、神がイエスを自分の愛する子として語られ、イエスの宣教が本格的にはじまり、イエスに追従する使徒たちが出現していく。
さらに、イエスが洗礼を受けたことは、直後に起こったことだけでなく、中期的というのが何年か明確ではないが、だいたい3年後の出来事、ペンテコステの出来事とも関係している。 イエスの洗礼のシーンとペンテコステでのシーンは似ており、ともに聖霊の働き。 そして、ペンテコステにおいて使徒たちが、伝道へと遣わされていく。
そして、2000年後の、私たちの洗礼とも密接に関係していると思う。同じ聖霊が私たち人間の上に働いて、実に不思議な働きをするということが言える。
イエスの洗礼の時に起こった事は、なかなか私たちには説明がつかない。 それと同じように、私たちの洗礼で起こっていることも、私の娘の話でわかるように説明がつかないようなことが起こる。
あるいは、何が起こっているのかよくわからないが、後から考えると、それが聖霊の働きだったのではないかというようなことがたくさん起こっている。
小教理問答書の中で、信仰告白についてマルチン・ルターは、その第三項、「私たちは聖霊を信じます。。。。」ということについて、それはどういう意味なのかを質問している。
その答として、とてもパワフルな言葉が書かれていると思う。それは、「私たちは、キリストというお方を、自分の知性とか能力によって信じれるようになることではない。しかし、聖霊は福音を通して、わたしを召し、その賜物をもってわたしを照らし、まことの信仰のうちにきよめ、支えてくださいました。」
主イエスが洗礼を受けて、聖霊が強力に働いた。 そして主イエスが聖霊とともに宣教活動がはじまった。またペンテコステにおいて、使徒たちが宣教に遣わされるようになった。そして、私たちの洗礼において、強い聖霊が働き、とてつもない聖霊の助け、恵みをいただきながら、私たちが、なんらかの形で世の中に派遣されるということが毎週起こっている。洗礼後に賜る想像を絶するような恵み、助けに感謝し、その恵みを生かして今週も主を賛美して世に仕える日々を送ろう。 アーメン
“My Dearly Loved Child” Matthew 3:13-17
May God’s Grace and Peace be with you in the name of our baptized Lord, Jesus Christ!
Do you truly feel changed since you were baptized? I think there are people who strongly feel that their lives have been transformed after baptism. However, there are also many people who do not feel that way. For those of you, who did not feel changed, it might be good to ask a question, if you were not baptized, how would your life be now?
In my case, my baptism occurred when I was very young, I still remember that I was baptized in a Russian Orthodox Church, but I did not feel transformed at all at the time. However, when I ask the question, if I was not baptized, obviously I would not be where I am now. My life would be a quite different. I do not think I would’ve married my wife…and all of our children would not have been born.
All of our children were baptized at the same time at Resurrection Lutheran Church at the age of 10, 8, and 6. We had a very interesting experience right after their baptisms.
My daughter was playing at one of her Japanese friend’s house. The mother of that friend said seriously “Yuki is so different since her baptism.” Although she was not baptized and did not know about Christianity well, she was not joking and talked to my wife and me very seriously. I felt that the Holy Spirit was working not only on our daughter but also influencing that mother. A few years later that family went back to Japan but we were told that our daughter’s friend entered a Christian middle school.
I read Matthew Chapter 3 a short time ago. It is about the baptism of our Lord. A couple of weeks ago, we celebrated Christmas, but only Matthew and Luke wrote about the Christmas story. Compared to the Christmas story, the Baptism of Jesus is written in all of the Gospel accounts in Matthew, Mark, Luke, and John. Therefore, I think the fact that He was baptized is very meaningful.
However, like the Baptist John asked, we ask the same question, why was he baptized? Since sinners are cleansed and forgiven through Baptism, why did Jesus need to be baptized?
In response to that question, quite honestly, I do not have a good logical reason why He was baptized other than saying that just as Jesus said, “it was proper to fulfill the righteousness.”
However, it might be said that the fact Jesus was baptized is compelling evidence that he has a very deep relationship with sinners, us, human beings.
I think it is important to recognize what happened after he was baptized in the short term, medium term, and long term. In a short term, the heavens were opened and the Holy Spirit came down and people heard the voice “My Dearly Loved Son.” In medium term, three years later, this scene is strongly related to Pentecost that sent apostles to proclaim the Gospel and serve the world.
And in the long term, this is strongly related to our baptism even now. Even 2000 years later, the same Holy Spirit works when each of us is baptized and God acknowledges each of us as “My Dearly Loved Child” and God sends each of us to proclaim the Gospel and serve the world.
Again, I am unable to find a good, logical reason why sinless Jesus was baptized, nor can I explain scientifically how the Holy Spirit works. But as a matter of fact, the Holy Spirit works mysteriously and changes baptized people and influences others around us.
According to the Small Catechism, in the third article of the Apostle’s Creed, “I believe in the Holy Spirit, the holy Catholic Church… the communion of Saints, the forgiveness of sins, the resurrection of the body, and the life everlasting. Amen.” What does it mean?”
I think the answer is in this powerful statement, “I believe that by my own reason or strength I cannot believe in Jesus Christ, my Lord, or come to him. But the Holy Spirit has called me through the Gospel, enlightened me with his gifts, and sanctified and preserved me in true faith….”
After Jesus was baptized, the Holy Spirit strongly and mysteriously worked on Jesus, and likewise worked on the apostles through Pentecost. And even 1500 or 2000 years later, the Holy Spirit works on each of us. Let us remember that we receive tremendous grace and support through the Holy Spirit which cannot be fully comprehended by human reasoning As such, we are sent to serve the world with God’s unimaginable help. May we have the grace and humility to accept this help and use it to glorify Him. Thanks be to God! Amen.
LCR日本語部週報通算#1290号 (日本語)
2014年1月12日の週報
LCR日本語部週報通算#1290E号(英語)
Sunday English Bulletin 1290E
今週の詩編は29編。12日の日曜日は主の洗礼主日となり、マタイによる福音書3章13節から17節を読む。そのような関係の中で、この29編をまず読まれたらどうだろう。 また、ご自分の置かれている環境のなかで、29編を通して、神は何を語られているか、思いを巡らせよう。
詩編29編
1:【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ
2:御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
3:主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
4:主の御声は力をもって響き/主の御声は輝きをもって響く。
5:主の御声は杉の木を砕き/主はレバノンの杉の木を砕き
6:レバノンを子牛のように/シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
7:主の御声は炎を裂いて走らせる。
8:主の御声は荒れ野をもだえさせ/主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
9:主の御声は雌鹿をもだえさせ/月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える/「栄光あれ」と。
10:主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
11:どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。
1節2節には、「主に帰せよ」という言葉が3回詠われ、さらに「主にひれ伏せ」という言葉が2節の最後に出てきている。 激しい命令形の言葉が使われている。 3節から9節前半までは、「主の御声は。。。」という表現が続き、その中に表現されている内容は、激しい嵐のようでもある。そして9節後半から11節後半では、そのような嵐の中でも、人々が「栄光あれ」ととなえ、主の祝福が祈られる。
この詩編は、主の洗礼の時に起こった様子が重ねあわさってくるような面がある。 マタイ3:16-17によると、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」となっている。 さらに、この箇所は、ペンテコステの出来事(ルカ2章)とも深い関係がある。
強風、雷鳴、地震などは、本当に怖くなるが、主の洗礼もペンテコステの出来事もそのような状況の中にあったことを覚えたい。そして、詩編29編が昔から詠われていたように、主なる神はご自分の創造されたものに深い愛を持ち、育てられ、民は「主に栄光あれ、民の平和を与えたまえ」と民は祈る。
現在、復活ルーテル教会日本語部の置かれている状況を書いておきたい。昨年後半から、洗礼を受ける者が相次いで現れた。集まる者の多くが病との闘いの中にあることも覚えたい。 また、昨年後半から毎週復活ルーテルに来られるようになった福元忠一さんが突然の事故で、大晦日から元旦にかけての未明、逝去された。深い悲しみの中にあり、今週土曜日にはお葬式がある。その翌日には、吉田柳子さんの洗礼式となる。ある意味、嵐がふきあれる日々の中で、洗礼式が行なわれるようでもある。すべての出来事に主の時があり、そして、その中で、聖霊が働き、大きな愛をもって、復活ルーテル教会の一人一人をも、慰め、癒し、力づけてくださる。 栄光を主に帰せよ。神に栄光あれ。 主が民を祝福してくださるように。アーメン。
January 5th, 2014
2014年1月5日顕現主日聖餐礼拝説教「恵みの上に更に恵み」“Grace upon Grace” 牧師 安達 均
No Comments, 牧師説教, by admin1.「恵みの上に更に恵み」 ヨハネ1:10-18
主の年、2014年、あけましておめでとうございます。日本では1月のはじめは初詣真っ盛りで、いろいろな神社やお寺に、多くの参拝客が訪れ、お賽銭をいれ、それぞれ健康や財政良好などを祈願する。
さらに、神社でもお寺でもおみくじが売られている。復活ルーテル教会でも、このお正月におみくじを引いたとしたら、どうなるか思い浮かべた。別に各個人におみくじを引いてもらうのではなく、復活ルーテル日本語部全体にいただくおみくじです。
そして、こんなおみくじが当たったように思う。「大福大吉」。というのは、2013年の間に、こんなに洗礼準備クラスを行なうとは思ってもみなかった。そして、10月以降、来週までの受洗者4名の最初の文字を並べると大、福、大、そして吉で、大福大吉となる。 10月末からわずか3ヶ月の間に4人の大人の洗礼があるのは、たぶん25年の日本語部の歴史の中で初めてだと思うので、ただの大吉ではなく、大福のついた大吉なのだと思う。
本日与えられている聖書は、ヨハネ1章10節から読んだ。 ちょっと質問。 ヨハネ1章1節はなんだっただろうか? 「はじめに言葉があった。 言葉は神と共にあった。 言葉は神であった。」
2014年の初めの礼拝にあたり、聖書の中で「はじめ」とは何だったのかということを考えるように神は私たちを導いておられるように思う。2014年と数えているが、イエス・キリストが生まれた年の翌年を紀元元年としている。
今日読んだヨハネ福音書の箇所は、1節の「言葉は神であった。」という内容からして、言(ことば)を神におきかえても良い。すると14節の「言は肉となって私たちの間に宿られた。」という箇所は、「神は肉となって私たちの間に宿られた。」となる。
神が肉体となって私たちの中に存在したということは、イエス・キリストがこの世に現れたということ、つまりイエス・キリストの顕現をヨハネ流に著している。 そこには、馬小屋もなければ、羊飼いたちもいなくし、また博士たちも登場して来ないが、ヨハネの深遠なる顕現そして信仰とも言える表現がある。
ヨハネ福音書は顕現だけで終わっていない。 わたしたちは、「神の独り子としての栄光を、イエスに見て、その方が恵みと真理に満ちていた。」と続く。洗礼者ヨハネも「わたしの後に来る方が私よりすぐれている、と言ったのは、このイエスのことだ。」と声を張り上げたとも書かれている。
さらに、16節の言葉は、そのイエス・キリストが、満ち溢れる豊かさから、恵みの上に更なる恵みを受けた。とヨハネは伝えている。 この恵みの上に恵みを受けるということの内容はどういうことなのか?
12節と13節には、言(ことば)つまり神なるイエスを信じるものに、神の子となる資格与えたとあり、また、その神なるイエスを信じる人になるというのは、決して、自分の欲求、自分がクリスチャンになりたいという欲によって生まれるのではなく、神によって信じるものになったということが書かれている。
今日の聖書の箇所を通して、神は私たちに何を語っているのだろうか。 とくに洗礼を受けキリストの信仰者としての歩みを続けていく者が、毎月のように与えられている中、とても、神は重要なことを教えてくださっているように思う。
洗礼を受ける者が誕生しているのは、決して洗礼を受ける者や、教会員たちのエゴとか欲求によって生まれているのではなく、実は全部、神によって、神の意志による洗礼によって信仰者誕生が起こっているということではないだろうか。
つまり、復活ルーテルでこの3ヶ月に4人の洗礼者が生まれたからといって、復活ルーテルにいる仲間たちがすごいとか、人間的な欲求の成果では全然ないということを肝に命じたいと思う。 つまり、復活ルーテル教会にいる私たち、とくに、リーダがうぬぼれてはいけない。
すべては、はじめから存在してくださっている神が源となって、恵みの上に更なる恵みをくださり、洗礼を受ける者が連続的に現れている。教会でさまざまな活動をしていることは、その究極的なリーダは牧師や教会のリーダではなく、イエスキリストだ。そのイエ・スキリストというお方から、事実、恵みの上に更なる恵みをいただいていることに畏れ敬い、信仰の歩みを続けてまいりたい。
主の年2014年の最初の礼拝で与えられた御言葉、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」は今年のテーマ聖句として、毎週の週報等に登場する。そこに目が止まったら、その意味を吟味しよう。世の中で遭遇するさまざまな出来事に対し、洗礼を受けた方が、礼拝に出て御言葉に触れ、聖餐に与る生活をしていると、さまざまな出来事に対する感じ方が変わって来る。
主なる神、イエス・キリストは、主の御意志によって、礼拝で与えられる御言葉、洗礼、聖餐を通して、恵みの上に更なる恵みをくださる。 アーメン。
“Grace upon Grace”
John 1:10-18 Pr. H. Adachi
May the Lord’s Grace and Peace be with you in the name of the Father, Son, and the Holy Spirit!
Anno Domini 2014, Happy New Year! In Japan, probably many people are still visiting shrines and temples during the beginning of this new year. It is a very popular custom that people put some coins into offertory boxes and pray for things like prosperity or good health.
They also buy written fortunes. These fortunes are sold at shrines and are similar to fortune cookie fortunes. These fortunes can range from “middle of the road” fortunes to “lucky” and “very lucky” fortunes. I just thought that if Resurrection Lutheran Church bought a fortune, what would it be?
I think as a congregation we received “Great Fortune and Great Luck.” During 2013, I did not think that I would hold as many Baptism Preparation Classes as I did. In the beginning, I started one for Yoko Ono, then I invited Ken Fukuyama to join in early summer. In fall, I started one for Satoyo Oi, and in late fall, I started one for Ryuko Yoshida.
Ms. Yoshida will be baptized next week, but if we take the first letters of the students’ last names in Kanji, it means Great-Fortune-Great-Luck. From the end of October until the middle of January, during these three months, three adults are baptized. This is historic in the 25 years of the Japanese Ministry. Therefore, I think LCR truly has Great-Fortune-Great-Luck.
We read the Gospel of John from the 10th verse of Chapter 1. May I ask a question? What is the first verse of John 1? Do you remember? “In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.”
I believe God is guiding us to think what was “in the beginning” in the beginning of this year, 2014. Although we say the year 2014, what was the origin? The first year (of the new calendar) was the next year after Jesus was born. In other words, Jesus Christ is the origin of this calendar year.
Based on the text, verse 1, “the Word was God,” I think we can replace the word “Word” to “God.” And when we think about the 14th verse, “And the Word became flesh and lived among us,” it becomes “And God became flesh and lived among us.”
God became flesh, incarnate, and lived among us. This means God revealed himself to human beings. This is John’s way of writing about Epiphany. Although, there is no manger, no shepherd, and no wise men, there are John’s deeply meaningful expressions of faith.
And John’s account does not stop just at Epiphany. He continues, “”we have seen his glory, the glory as of a father’s only son, full of grace and truth.” Therefore the Baptist John cried out, “This was he of whom I said, ‘He who comes after me ranks ahead of me because he was before me.’”
In verse 16, John writes, “From his fullness we have all received, grace upon grace.” What does “Grace upon Grace” mean?
In today’s text, in the verse 12, “to all who received him, who believed in his name, he gave power to become children of God,” also, John added, “who were born, not of blood or of the will of the flesh or of the will of man, but of God.” The point here, God makes people believer(s).
As a whole, in John 1:10-18, what is God saying to us, the Resurrection Japanese Ministry? I believe he is teaching us a very important lesson while we are experiencing 4 baptisms in the last three months.
To receive Holy Baptism, to be a believer and a follower of Christ, does not happen due to one’s ego or desire. Holy Baptism happens by God and by God’s will.
Therefore, we should not be conceited about ourselves due to the fact that four baptisms in three months are happening in this congregation, because God is the one making them believers.
God, Jesus Christ, is the source of “Grace upon Grace.” God continues to pour Grace into many people to become like Christ through baptism. Ministry is not about pastors, not about church leaders, but it is about Jesus. Like John focused on Jesus and not himself, we should focus on what Jesus wants for us and not what we want for ourselves.
Our Lord, God, Jesus Christ, by His will, gives us Grace upon Grace through His Word, Holy Baptism, and the Holy Communion. Amen.
LCR日本語部週報通算#1289号 (日本語
2014年1月5日の週報
LCR日本語部週報通算#1289E号 (英語)
Sunday English Bulletin 1289E
主の年2014年の到来を心から歓迎します。 あけましておめでとうございます。 今年、最初に読む詩編は72編。この詩編の1節から7節と18・19節は先月、待降節の最初、12月5日に読んだばかり。今回は、20編まである全編を通して読み、さらに前回は取り上げなかった8節から17節を集中的に2回なり3回読まれたら良いかと思う。そして年の初めにあたり、神は何を私たちに語りかけておられるのか黙想してみたい。
詩編72編
1: 【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。
2:王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。
3:山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。
4:王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。
5:王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。
6:王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。
7:生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。
8:王が海から海まで/大河から地の果てまで、支配しますように。
9:砂漠に住む者が彼の前に身を屈め/敵が塵をなめますように。
10:タルシシュや島々の王が献げ物を/シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。
11:すべての王が彼の前にひれ伏し/すべての国が彼に仕えますように。
12:王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。
13:弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い
14:不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。
15:王が命を得ますように。彼にシェバの黄金がささげられますように。彼のために人々が常に祈り/絶え間なく彼を祝福しますように。
16:この地には、一面に麦が育ち/山々の頂にまで波打ち/その実りはレバノンのように豊かで/町には人が地の青草ほどにも茂りますように。
17:王の名がとこしえに続き/太陽のある限り、その名が栄えますように。国々の民は皆、彼によって祝福を受け/彼を幸いな人と呼びますように。
18:主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。
19:栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。
20:エッサイの子ダビデの祈りの終り。
年は明けたが、クリスマスはまだ終わっていない。キリスト教の暦では12月25日の降誕日から1月6日の顕現日までが降誕節。 なので、救い主イエスの降誕との関係の中で10節から17節を見ていきたい。 気になる言葉は、10節にある「シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。」や15節にある「彼にシェバの黄金がささげられますように。」との言葉。
15節の言葉は、実際に、この詩編が「ソロモンの詩」として詠われ祈られた通りに、シェバの女王がソロモンを訪ね、多くの金が捧げられたという事実が起こった。(列王記上10章1節以下) また、10節に関しては、イエス降誕後に占星術の学者たち(異邦人のリーダたち)が、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた(マタイ2章1-12節)ことによって、紀元前1000年ごろのダビデの祈りが実現したように思える。
21世紀の現代にあって、私は昨年夏に岩手県の被災地を訪問する機会があり、いまだにたいへんな思いをしておられる被災者たちのことを思う。12節-14節の祈りは、身にしみてくる思いがある。天皇陛下も年頭の言葉として、「年頭に当たり被災者のことが改めて深く案じられます。」と著されたようだが、同感だ。
日本では、初詣真っ盛りなのだと思う。明治神宮だけで参拝者は300万人を越えるらしい。そのほとんどが、特に神官や住職の方々の説教などを聞くこともなく参拝者が賽銭箱に献金をしてくださるのは、素晴らしい気もする:)。日本にあるキリスト教会がいくつあるかわからないが、仮に5000あったとしても、クリスマス礼拝、12月29日の礼拝、元旦礼拝さらに1月5日の礼拝で、その全部のキリスト教会の礼拝に参加される方の合計でも300万人には到達しないのが現状ではないだろうか。しかし、10節の「すべての王が彼の前にひれ伏し/すべての国が彼に仕えますように。」あるいは、年末の最後に読んだ97編7節「神々はすべて、主に向かってひれ伏す。」という言葉をかみしめたい。
2014年の元々の初めは、主イエスの降誕。改めて、主の年2014年の到来、あけましておめでとうございます。今年も主に在って恵み深い年となりますように。アーメン。
マタイ2:13-23
主イエス・キリストの恵みと平安が会衆一同の上に豊かに注がれますように! アーメン
あなたの家庭生活はいかがなものだろうか? 正直なところ、あまり聞かれたくないという方、たくさんおられるのが現実ではないだろうか? 特にアメリカに住んでいると、家族のだれかが、ドラッグ、アルコール、セックス等々の中毒などでトラブルになった過去にあるのではないだろうか?
最近の日本の芸能ニュースで、あるカップルが16年前に子供ができてしまったので結婚したが、数年後に離婚、父親が長男をほとんど育てていた。しかし、父親と長男のDNA鑑定をしたら、その長男は自分の子供ではないということがわかったという。
さあ、どうしましょう。その子の、本当の父親はだれなのか、週刊誌はさわぐ。いろいろ傷の深い問題になってくるが、そのような家族の方々こそ教会に来られ、イエスとの関係を持てたら良いと思う。
本日は、ヨセフとマリア、そして、おさな子イエスの家族について考えたい。イエスの誕生の話でも、ヨセフは最初はマリアが妊娠した時、本当の父親はだれなんだという質問をしたことだろう。
それでも、聖霊によって妊娠したという天の御告げを、信じて、マリアとヨセフは信仰生活に入る。ヨセフとマリアとイエスの家族のことを聖家族と呼んだりするが、かといって、なにごとも順調な家族というわけではまったくない。妊娠がわかった時も出産の時も、生活は波乱万丈。
イエスは、ヨセフとマリアがナザレから旅行している最中、ベツレヘムで生まれてしまう。それも宿屋がいっぱいだったため馬小屋で生まれ、馬のえさをいれる飼い葉おけに寝かされる。
すると、エルサレムで神の子が生まれたという知らせを聞いたヘロデ王は自分の権力がどうにかなってしまうのではないかと恐れ、ベツレヘムにいる2歳以下の子供をすべて殺すようにという命令を出した。
そのような状況になって行く中、ヨセフには天のお告げがあって、マリアと幼子イエスを連れて、エジプトへと逃げる。飛行機も自動車もない時代の旅。エジプトのどこに非難したかは書かれていないが、仮にカイロあたりだとして、現代、車に乗っていっても10時間位かかる。当時のことなので、何日もかかって旅をしたに違いない。
そして、幼子の命を狙っていたヘロデが死んだ後、ヨセフにはやはり主の天使が現れて、イスラエルに戻るようにとのお告げがあり、結局、イスラエルのナザレに戻ることになる。
イエスの誕生にいたるまでの過程も、週刊誌ネタのようなところもあるし、誕生した場所は、悲劇的な場所での出産だった。また、幼子イエスの命が狙われたため、エジプトへの難民家族生活にも強いられた。 ナザレに戻るまでの生活だけでもそれはそれは、たいへんな生活を味わう家族だった。
イエスの降誕、クリスマスを祝ったばかりだが、降誕のときだけでなく、イエスが生まれてからの日々のヨセフ一家のたいへんさを通して、神は私たちに、いったい何を語っておられるのだろうか?
今日の聖書の箇所で、預言者を通して言われていたことが実現したという箇所が3箇所出てきている。 ヘロデ王がベツレヘム周辺の赤ちゃんたちを殺してしまう話は、エレミヤの預言に書かれていた。エジプトからイエスが戻ることができたことは、ホセア書に「わたしは、エジプトから私の子を呼び出した。」という預言があった。また、ナザレに住むことになったことに関しても、旧約聖書の士師記やイザヤ書にも関連する預言が確かにあった。
このようなことから、新約聖書でイエスが救い主として誕生すること、また、降誕後のごたごたも、ほとんど旧約聖書に預言されていたということで、だからイエスはこの世の救い主なのだということを、私たちは今日学んでいるのだろうか?
確かに、聖書の研究家や、牧師たちが、旧約聖書と新約聖書がいかに密接に関連しているかということを知的に調べ、だからイエスが救い主だと信じれるようになることは大切だとは思う。
しかし、旧約聖書で言われていたことが、新約聖書で実現したということ以上に、聖書の中で起こっていること、特にイエスの生き様が、現代の私たちの実生活にどれだけ救いになっているかということを実感し心にしみ入ってくる事の方が大切だと思う。
神の子イエスは、いってみれば、恥ずかしくてしょうがないと思うような婚約カップルの中に来て下さった。あるいは、慣れない土地で出産をせざるを得ない女性にも来てくださった。あるいは病院には到達できずに途中で出産してしまうような母親にもイエスは現れる。また、子供をかかえた難民家族にもイエスの愛は届いている。
聖家族、ヨセフ一家は様々な困難に直面した。現代の家族もとんでもない困難に直面する中、キリスト信仰によって、ヨセフ一家が受けた神の恵みと同じ恵みを戴ける。それはイエスの存在であり、その存在を信仰の歩みの中で確認し、イエスに在る希望を持って私たちは困難の中でも歩むことができる。 アーメン。
“A Family is Full of Ups and Downs”
Matthew 2:13-23 Pr. Hitoshi Adachi
May the Lord’s Grace and Peace be with you in this sanctuary! Amen.
How is your family life? To be honest, there are many people who do not want to be asked in detail about his or her family. Especially in the United States, it is a reality that many fathers and mothers do not want to be asked about their private lives due to their own behavior or their children’s behavior like drug issues, sex addiction, and so on.
I read an article about a famous actor in Japan, although he divorced his former spouse 8 years ago, he was raising his first son believing that the child was his son. The child is now 16 years old and the father and son did a DNA test to see if that child is his son or not. The outcome was 0% possibility as the biological father.
So what does this mean? Who is his real biological father? Of course, tabloid entertainment news/magazines are reporting this news here and there and deepening their wounds. It is my hope that they come to church and have a relationship with Jesus.
From the Gospel Text today, I would like to talk about the family of Joseph and Mary. Mary was pregnant due to the Holy Spirit according to the Bible. In this world, there are people genuinely asking, “Who is Jesus’ father?”
Both Joseph and Mary believed the message from the angel and lived faithfully. The family of Joseph and Mary is sometimes called the “Holy Family.” However, it does not mean that family life always went well and was perfect. Quite the contrary, from the beginning when Jesus was born, they became a family full of ups and downs.
Jesus was born in Bethlehem when Joseph and Mary were traveling. Furthermore, because all the rooms in the inn were occupied, he was born and laid in a manger (the place where horses stay).
King Herod was scared by the fact that the son of God was born, so he ordered that all boys under 2 years old be killed in and around Bethlehem.
In those circumstances, Joseph was asked to leave Bethlehem and to go to Egypt. At that time, of course, there were no airplanes or cars. It now takes about 10 hours by car to travel from Bethlehem to Cairo Egypt. So for Joseph, Mary and the infant Jesus, the journey was longer and much more difficult.
Then King Herod died and the angel again appeared to Joseph, guiding them to Nazareth and they followed the angel’s instructions.
During Mary’s pregnancy and even after Jesus’s birth, if it happened today, would sound like tabloid entertainment news… Jesus’s birthplace was miserable, essentially it was in a stable. Then the baby was about to be killed and they became refugees in Egypt. A few years later they came back to Nazareth. It was a really challenging life.
Several days ago, we celebrated the birth of Jesus. We know his birth was very challenging due to the circumstances. The first several years of Jesus’ life, were also challenging. What does this story tell to those of us living in the 21st century?
In today’s Gospel, there were three times prophets’ prophecies were fulfilled. Not only his birth but also events after his birth were prophesied. By reading about these relationships between the prophets and Jesus, there are people like seminary professors and pastors are convinced that and believe Jesus is the Messiah. We, as modern people, can still learn important things from ancient prophets.
Reading scripture is important, but I think it’s more important to open our hearts and minds to the fact that there is fulfillment of Jesus’s/God’s promises in the Bible.
God’s son may appear to a couple who feel shame or loss. Even today we still see many refugees and in them Jesus appears. Or to an expectant mother anxiously awaiting the birth of her child; in those moments she meets with Jesus Christ.
The stories about the challenges the Holy Family experienced definitely provides encouragement in our daily lives and brings hope for those who are currently going through difficulties and challenges. With God’s guidance, humankind may endure any difficulties. We must continually keep our hearts and minds open to Jesus’ presence. Amen.