ルカ 23:33-43
主イエス・キリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように。アーメン

東日本大震災では、あの津波のために、生と死の瀬戸際を体験し、自分はぎりぎりで助かったが、肉親が波にさらわれた経験をされた方々がいる。 そのような方々どれほど悩み、苦しんでおられるか、復活ルーテル教会に来られた立野先生の説教を聴き、われわれにも伝わってくる。 
礼拝のためにすばらしい作曲を毎週し続けたヨハン セバスチャン バッハは1歳になるまでに二人の兄姉が亡くなり、6歳の時にもう一人兄を亡くし、9歳の時に母親が亡くなり、10歳にして父親とも死別している。当時としては珍しくなかったのかもしれないが、子供ながらに悲しみのどん底を体験した。
そのような体験は、バッハの信仰成長と彼の音楽に関する才能に大きな影響を与えたことは間違いないと思う。今日の礼拝の始まる時に聞いた前奏曲はバッハの作曲でイエスが十字架に向かう時を表現している。わたしたちは、そのバッハの音楽を聴く中に、言葉では表すことのできないイエスの御苦しみを感じ、またその音楽が自分たちの死に対する思いや備えにも影響してくると思う。
私たち、この世で生きている者として、この礼拝に集められているが、先に天国に行った聖人たちもこの礼拝に加わっていることを覚えていて欲しい。また、わたしたちにも、この世の死が訪れるということも忘れてはならない。今日、キリスト教の暦では今年度の最終主日にあたり、「王であるキリスト」という主日の礼拝が与えられている。 この礼拝は、この世の死と言う、いわばどん底と思えるような時が、主イエスキリストの信仰により、大逆転することを覚える礼拝ともいえる。 
与えられた聖書箇所、残虐な光景が描写されており、もしその場にいたとすれば目を背けたくなる場面である。同じ人間が、どうしてこんなにも残酷になれるのか、首をかしげるような人間の行動がある。
兵士たちに十字架に釘付けにされ身動きができなくなったイエスを民衆が見つめるなか、議員と呼ばれる人々が、「他人を救ったのだから、自分を救ってみろ。」だとか、兵士たちは吸いぶどう酒を突きつけながら「ユダヤ人の王なら自分を救ってみろ。」という言葉が投げかけられ続ける。
また罪人の一人は、「天国も地獄も無い。どうせ私は十字架で死んでおわりだ。」という気持ちだったのだろう。そして、投げやりに「もし救い主なら自分を救って、わたしたちも救ってみるが良い。」という言葉を投げかける。
イエスは絶望といえる状況だったが、神と対話し、人々への愛と慈しみをあらわされる。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」といわれる。 そこには、この世的には絶対絶命の状況でも、イエスは父なる神への信仰をあらわされると同時に、自分を十字架につける人々への赦し、愛を示される。
もう一人の罪人は、イエスキリストが何も悪いことをしていないのに、十字架につけられるということを述べ、あなたが御国においでになるときに、私を思い出してくださいという。
すなわち、イエスへの信仰告白をしているといっても良い。その信仰に対して、イエスは、今自分といっしょに十字架上で死んでいく罪人に向かって、現在形の言葉を使って、次のように語る。「あなたは今日、わたしといっしょに楽園にいる。」
この、「あなたは今日、わたしといっしょに楽園にいる。」という言葉は、2000年前の罪人だけではなく、私たちもこの言葉は聴いている。いったいどんな意味があるのだろうか。 
冒頭に述べたように、私たちは、肉親、知人の死を経験し、そして私たち自身もこの世の死を体験する時が必ずくる。
それは、何歳の時かはわからないし、バッハの家族やバッハ自身もそうであったように病による死かもしれないし、東日本大震災とか、フィリピンの台風のような自然災害かもしれないし、とんでもない事故とかテロとか戦争によって殺されてしまうことが起こるかもしれない。 
しかし、この世の死がどのような形で訪れようが、その時に、救い主イエスという主なる神が、いっしょにいてくださることを覚えているように、そのようにイエスが教えてくださっているように思える。 
洗礼を授かり、定期的に聖餐にも授かっている私たちは、どのようなこの世の死を迎えようが、十字架の死をもって死を滅ぼされたイエスといっしょに、楽園にいることができる。その楽園とは、「死」が入り込む余地がない園。 どんな困難や苦難にも打ち勝ち大逆転が起こり、楽園にいる。キリストの信仰により、つまり、父と子と聖霊の御名によって、水と言葉による洗礼を通ってきた者は、キリストとともに今、楽園にいる。 アーメン。

”From the Depths of Despair to the Heights of Paradise” Luke 23:33-43
May the Lord give us your grace and peace in the name of our savior, Jesus Christ!
During the 2011 Tohoku Earthquake and Tsunami, there are people who experienced the tenuous border between life and death. Especially people who experienced the deaths of their families only because they were a few inches within the safe zone and their families were just a few inches outside the safe zone; survivors are still feeling that they are in the depths of despair. Pastor Tateno came here to share such stories and we learned about their heart-wrenching (yet hopeful) experiences.
Johann Sebastian Bach’s older brother and sister died when he was just 1 year old. When he was 6 years old, another brother died. Then, at the age of 9, his mother died and, at the age of 10, his father died. Although an early death might not have been very rare at that time, I feel that Bach experienced more hardship than most when he was very young.
I believe that these experiences, during his formative years, greatly impacted his faith development and his abilities to make wonderful worship music. And through his music, I believe that God is also impacting our awareness about and attitude toward death. Through Bach’s music, we reevaluate how we feel about death.
All of us are invited to this worship service today as living people in this world, but please do not forget that all the saints are together with us during this worship service. Also, we should not forget that those of us alive today, all of us without exception, will end our earthly lives sometime in the future, although we do not exactly know when we will die.
Today, in the Christian Calendar, we are experiencing the last Sunday worship of this year called, “Christ the King.” In a sense, today’s worship is for us, Christians, to remember that even in the depths of despair, like when we experience the end of our earthly lives, because of our faith in Christ, we may pull off a major upset. As faithful servants, we realize that death is not the end and we may live beyond our earthly lives in paradise.
In the Gospel text today, we can imagine how brutal it was when Jesus was crucified. It is a kind of scene that is categorized as R and we might look away if we were actually there. We often wonder how come human beings can be so brutal and how come these scenes are described in the Holy Bible.
People are watching Jesus and two other criminals crucified on the three crosses. Leaders say, “Since he saved others, let him save himself since he is the Messiah.” The soldiers also mocked him, coming up and offering him sour wine, and saying, “If you are the King of the Jews, save yourself!” These taunting words continue on and on.
Also one of the two criminals says something like, “I am crucified and there is no way to continue living. This is the end. The end is the end, there is no more. Jesus, if you are the Messiah, please save yourself and me.”
Even though, Jesus was in the pit of despair and brutally treated, he just pray that “Father, forgive them; for they do not know what they are doing.” Here, even when he feels that he is at his lowest point, Jesus is faithful to the Father and asks forgiveness for the people who are brutal to him. He shows his faith to the Father and his love to the people attacking him.
The other criminal says, “This person, Jesus, did not do anything wrong but he is crucified together with us.” And he asked Jesus, “Please remember me when you come into the Kingdom.”
In other words, this criminal confesses his faith of Jesus Christ. Then, Jesus said to him as follows. “Truly I tell you, today you are with me in Paradise.”
The words, “You are with me in Paradise” were not only told to the criminal 2000 years ago, they are spoken to and meaningful for us today.
What do the word, “You are with me in Paradise” mean to us who live in the 21st century?  
As I said in the beginning, we, as human beings, experience the earthly deaths of our family and friends. Not only that, we will inevitably experience our own deaths as well.
We do not know when we will die and we do not know how we will die. Like Bach and his family, we might die due to diseases. We could die due to tsunamis, typhoons, or other types of natural disasters. We could also die by automobile accident, acts of terrorism, or war.
However, please remember, even at end of your lives, Jesus Christ will be with you. People who are baptized and commune regularly, I am sure that even when we experience our earthly deaths, it is not the end due to our faith in Christ. He who conquered death because of his death on the cross is always with us. We can still live in paradise with Jesus. Paradise is a place where death can never enter. Because of Jesus, despite times of despair and great difficulty, as Christians, we pull off a major upset. Because of our faith in Christ and our baptism through the water and the Word in the name of the Father, Son, and the Holy Spirit, I joyously declare to you, you are with Christ in paradise. Amen.
 

今週読む詩編は46編。お葬式で一番よく読まれる詩編23編などとともに、たまたま23という数字の2倍の46編も、とても有名な詩編。 二回は読んでいただきたいと思うし、また、人生において何かの苦難を経験した時などにおいて、ぜひこの詩編46編を読んだら良いと思う。  
詩編 / 46編
1: 【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
2:神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
3:わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも
4:海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
5:大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。
6:神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
7:すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
8:万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
9:主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
10:地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
11:「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
12:万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

この詩編に関係して、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターのエピソードと、現代に生きる私の友人の牧師が経験したことを書きたい。 

マルチン・ルターは、この詩編46編をもとに、讃美歌21の377番「神はわがとりで」(あるいはちょっと古い1954年にまとまった讃美歌の267番「神はわがやぐら」)を作詞作曲している。讃美歌をよく知る方々の間で、「好きな讃美歌は?」と聞くと、この讃美歌は上位に入ってくることが多い。ルターは16世紀の宗教改革の中心人物であり、意志の強い英雄のように思われてしまう面がある。しかし、カトリック教会の司祭であった彼が1517年に「95カ条の論題」を書き上げて発表した後は、カトリック教会からは破門されてしまい、多くの困難、苦難の中に立たされ悩みの中で、やむをえず宗教改革が遂行されていき、プロテスタント教会という大きな存在が形成されてしまったような面がある。ルターは1525年、41歳の時、同じカトリック教会の修道女だった16歳も年下のカタリーナと結婚している。カタリーナはとてもユーモアあふれる女性で、真っ黒な喪服を着てマルチンの部屋に入ってきて、冗談で「神は亡くなられました。」と話した、というエピソードがある。それくらい、マルチンルーターが落ち込んだような時があったようだ。しかし、マルチンは、自分の信仰がまるで神が死んでしまわれたようであったのかと、はっと気づかされた。そのような時、この詩編の言葉が彼に勇気を奮い立たせた様子が思い浮かんでくる。1527年から2年ほどかかって、詩編46編をもとにした、377番の有名な讃美歌が出来ていった。
 
私と同じように、会社勤めを20年以上したあと、5年近くかかって、一昨年牧師になった方がいる。彼女の人生も苦難、悩みの連続だった。17歳のときに、期せずして妊娠してしまう。彼や彼の家族には理解は得られないまま、男の子を出産する。「神はわたしたちの避けどころ、私たちの砦」という言葉がどれだけ彼女を助けたか。 数年後に高校時代の仲間で会うなかで、一人の男性と結婚する。夢あふれる結婚生活を始めるなか、彼の実家のあるメキシコに旅行する。若いご主人と、彼の弟が酔った勢いで喧嘩をはじめてしまう。なにを思ったか弟がナイフを握りご主人が刺されてしまう。救急車で病院に運ばれるが、結局、ご主人は死亡。その時も「神はわたしたちの避けどころ。」という言葉に慰められ、また生きて行く勇気が与えられる。現在、息子さんはもう30歳となり、彼女は、一教会の牧師になっている。 牧師である以上、困難はつきものだか、避けどころである神がいつも彼女に寄り添っている。 

詩編46編の言葉そのものにしても、あるいは、讃美歌377番あるいは267番にしても、それらの言葉によってどれだけ多くの人々が励まされ、どん底の状況から回復したか、計り知れない。 最後に377番の一、二節の言葉を書き留める。
1. 神はわが砦 わが強き盾、すべての悩みを 解き放ちたもう。 悪しきものおごりたち、よこしまな企くわだてもて いくさを挑む。
2. 打ち勝つ力は われらには無し。 力ある人を 神は立てたもう。その人は主キリスト、万軍の君、われと共に たたかう主なり。

復活ルーテル教会に集っている方々、またそのご家族の中にも、困難、苦難の中におられる方々がいる。 そのお一人お一人に、神が砦となり、また強き盾となってくださっていることを祈りに覚えつつ。 

今週読む詩編は98編。今週も二回は読みたいと思う。一回目はこの詩編を、まず「窓」にたとえて読んだ場合、いつの時代かは特定できないが、ユダヤ教の礼拝で歌われている様子を窓を通して見るような感覚で、どのような光景が思い浮かんでくるか思いを巡らせてみよう。 そして、二回目は「鏡」にたとえられるか、つまり、その光景がまるで現代に起こっていることを映し出しているか考えよう。映し出しているとするとどのような光景に変わってくるのか、思いを巡らせてみよう。 

詩編 / 98編
1: 【賛歌。】新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた。
2:主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し
3:イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は/わたしたちの神の救いの御業を見た。
4:全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
5:琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。
6:ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
7:とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。
8:潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え
9:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。

「窓」として読んだ時の光景? 「自然の中で主なる王を賛美する祭り」
この詩篇が歴史上、何の時代に書かれ、最初に歌われたのがいつかははっきりわからない。 しかし、1節で「主は驚くべき御業を成し遂げられた」と詠っている部分は、エジプトから40年あまりを経て、イスラエルの民がカナンの地へと定住した紀元前12世紀ごろのことを意味しているかもしれないし、紀元前6世紀にバビロン捕囚から帰還した時のことを詠っているかもしれないし、まったくことなる出来事を指しているかもしれない。あるいは、主イエス・キリストの降誕そして十字架上の死そして復活を預言して詠われているようでもある。 いずれにしろ、大切なことは主なる王(6節)が導いてくださって、その民として喜び、主を賛美しようと歌っている。 それは、主との交わりの礼拝の時ともいえるし、お祭りの時とも言えるように思う。 祭りと礼拝は、似ても似つかぬことのように思われてしまうかもしれないが、ともに神を賛美するという点では共通で大いに関係があると思う。そして、いろいろな種類の音が聞こえてくる。 人々の歌声や、琴の音、ラッパや角笛の音はもちろんだが、さらに、湖の波や川の流れの音、さらにはそれらの音が山々に反響してくる音なども、主なる王を賛美している。大自然の中で、屋外で行われる主を賛美する祭りの光景を思い浮かべる。  

「鏡」として読む時の光景? 「新しい楽器を用いて新しい讃美歌を歌う」
復活ルーテル教会の礼拝では、毎日曜日に3回の礼拝が行われているが、よくよく考えてみると、すべて主を賛美する祭りでもある。また三回の礼拝では、実にさまざまな楽器が使われ、伝統的な讃美歌や近年作詞作曲されたプレイジングソング等々、さまざまな種類の賛歌が歌われる。第一礼拝はトラディショナルな礼拝でオルガンが使われているが、オルガンといっても、パイプオルガンの音色を出す電子オルガンが使われている。また第二礼拝は、何種類かのギターとドラム(ともに電子的に音を増幅している)、さらにピアノも使われる。 第三礼拝では、また、オルガンが使われ、時々、ピアノや弦楽器も使われ、日本語の讃美歌がたくさん歌われる。紀元前のユダヤ教の礼拝からしてみれば、数々の新しい楽器が使われているのは事実。そして、礼拝で歌われる讃美歌は、新しい歌も選ばれている。 これからも、さまざまな新しい楽器が使われ、新しい歌も歌われていくだろう。詩篇の中では、海の波の音や、山々の反響音も加わっているが、そのような音も、電子的に再現されて、礼拝で使われている場合もあるに違いない。 そのような光景を思い浮かべている。 

最後に、詩篇98編で使われている「新しい歌」という言葉について触れたい。この言葉、詩篇33編、40編、96編、98編、146編、149編で使われている。 特に、詩篇40編では、私たちの口に、新しい歌が授けられたことが詠われている。そのほかの箇所では、ほとんど、新しい歌を歌おうと、呼びかけている。 主イエス・キリストの十字架と復活から約2000年の経った今も、イエスの生き様が多くの人々の心を動かし、洗礼へと導き、また聖餐礼拝へも導いてくださっている。 それに伴い、新たな主の救いを体験して、新たな讃美歌が主イエスの導きにより、世界のどこかで毎日、作詞作曲されている。バッハは礼拝の度に新しい曲を演奏していたらしい。 復活ルーテル教会では、毎週新しい讃美歌を歌うわけではないが、主イエス・キリストの福音により新しく洗礼をうけている方々が出るなかで、新しい歌も歌おう。  

半分ペンテコステ ルカ9章1-6   日本福音ルーテル大江教会牧師 立野泰博 

 「教会に青年が来ない」という悩みを聞いもう20年になります。毎年その言葉を聞きながら、「それはあたりまえ」だと思います。だからといって青年伝道をあきらめているわけではありません。いまのルーテル教会は、青年たちとの共感能力がかけていると思うからです。いったい若い人たちは何を考えているのか。何を求めているのかを知りたいと願っていました。
 ある日の午前9時頃、私は東京の渋谷にいました。駅前では、右翼が沖縄基地問題を怒鳴り声で叫び、目の前では基地の地位協定反対の署名活動が行われ、両者はなじりあっていたのです。しかし、その中を何万とも言える青年たち、高校生たちが無関心に通り過ぎていきました。いろいろな若者がいました。茶髪、コスプレ、ミニスカートの高校生。いったい、この人達はどこへいくのだろうと考えていました。この青年たちは教会に興味はないだろうなと思ってしまいました。ところがその情景の中、駅前の大型スクリーンで「hello,again」(my little lover)という曲が映し出された時、なんだか安心したのです。
 その歌詞には次ぎのような言葉があります。「自分の限界が どこまでかを 知るために 僕は生きている訳じゃない」。続けて「だけど 新しい扉を開け 海に出れば 波の彼方に ちゃんと《果て》を感じられる」と。きっと若者の中には求めている何かがあるのだと思うのです。「果て」が何かを感じている。感じているから何かに抵抗しながらいきているのかもしれないと。その「果て」に絶対者である神様を求めている。それに共感できない私たち教会がある。だとすると、どこかで共感するところを見いだせば共に歩めると期待できます。どこで共感するかを探しているのです。
 さきほどの曲の最後のフレーズには、「君は少し泣いた?あの時見えなかった」とあります。きっと若者と呼ばれる本人たちも、共感すること、人の痛みに気づくことの難しさを感じているのでしょう。私は東日本大震災の救援活動の中にいましたので、多くの青年たちに出会いました。茶髪の子だって、ミニスカートの高校生だって、痛みに共感して被災地にまってきたのです。そこで、いいようのない苦しみに叫び声をあげていました。寄り添うことの痛みを共に感じました。そこから眺めたいまのルーテル教会はどうだろうか。その問いがあったから現場に戻ってきたのです。

 東日本大震災救援のため2013年3月中旬に宮城県に入りました。多くの被災者に出会い、共に多くの涙を流し、笑い、共に耐えてきました。その原点になる出来事を思い出します。おばあさんが写っている写真がありました。彼女は津波から十日後、破壊され瓦礫に埋もれた小学校の前に座っておられました。横には赤いランドセルが二つ。津波に流されたお孫さんを捜しにきて、ランドセルを見つけたといいます。このおばあさんに対して何ができるだろう。何を語るか。なにもできない。おばあさんの痛み苦しみを担うこともできない。しかし、私たちは神様から派遣されてここにきている。イエス様は「何も持って行ってはならない」と言われた。いまの自分は何も持ってない。だからこそ寄り添うことしかできない。それもひとつのイエス様の身の置き方だと思いました。
 ルカ9章1~6節までのテーマは「派遣」です。イエス様は十二人の弟子を呼び集め、イエス様と同じように「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」その上で派遣されたのです。
 弟子たちは、何のために「派遣」されたのか。もちろん悪霊を追い払い、病気をいやすため。また宣教してイエス様の弟子を増やすためです。しかし、それが本当の目的だったのでしょうか。イエス様は十二人を「遣わすにあたり」という言葉があります。具体的には何も持って行くなと言われています。「派遣」とは何か。それは、「素手のままで出かけ、神様の働きを示す」ことです。イエス様の御心のままに派遣され、イエス様からいただくみ言葉の力によって働くことです。そこにイエス様の存在を見いだすことなのです。何も持ってないからこそ、イエス様のみを見いだすことができるのです。

東日本大震災救援活動の中で一番衝撃的だった被災者の言葉は「もう許してください」という言葉でした。ある時、強い余震がありました。結構大きな余震でした。そのとき私はボランティアセンターの受付にいました。その時は津波警報が出ました。津波警報がでた時、雰囲気が一変しました。みんな大慌てで避難をはじめました。一人の女性は机の脚につかまってブルブルと震えておられました。そして、叫ばれました。「もう許して下さい!」と。普段であれば「助けて下さい」と叫ばれたはずです。しかし、彼女が「もう許してください!」と叫んだ理由はわかっていました。被災のときのことをお聞きしていましたかた。
あの日、彼女は子どもが熱を出したので市民病院にいてインフルエンザの治療していました。五年生と二年生でした。そこに、地震が来て津波警報がでたが病院の屋上にいたら助かると思ったそうです。ところが看護師さん達が「ここじゃ助からないから逃げろ」と叫んでいた。病院の高さは20メートル位あるのですけど。実際津波はそれを超えたそうです。大急ぎで車に乗り、山へ向かったのです。ところが途中で渋滞にはまったので車を捨て。娘を前と後ろに抱えて、山に駆け登っていったそうです。2キロはあるでしょうか。その時に津波がすぐそばに来ていました。必死になって山を駆け上がり、途中までで力尽きたそうです。その時に後ろを振り返った。黒い波と、瓦礫と叫び声とが一緒に押し寄せてきた。これでは津波にのみ込まれる。自分の命はいいけど、子どもの命は守らなければいけない。子どもの命が危ないと感じ、さらに力を振り絞ってあと五m登って助かったそうです。
その時に後ろを振り返ったそうです。何十人もの人達が流されていくのが見えたそうです。「助けて」と絶叫しながら流されていく。その中には親族も、友達も、顔見知りの人たちがいたのです。何もできずに座りこんでいたとき、二階だけの家が燃えながら流されていたのです。家の中が見え、自分と同じくらいの母親と子どもが抱き合って震えながら流されていったそうです。実はそれは娘の同級生の親子でした。彼女はその人たちになにもできなかった。自分はその人たちを見捨てた。震えながら見ているだけしかできなかった。
僕らはそれを見捨てたとは思わないです。けれど彼女にしてみれば、何もできなかったことが彼女の心の中にあり、毎日その夢を見るのだそうです。もう2年半もたつのに、今でもその夢を毎日みるといいます。子どもとお母さんが燃えながら流されていく夢を見る。そういう苦しさの中に生きている人が余震の中で「もう許して下さい!」と叫んだのです
その叫びに応えることができるのは神様しかいないということを知っています。神様は必ず許してくださる。すでに許しておられる。でも彼女にそれをどう伝えたらいいのだろう。キリスト者として私は何を伝えるべきなのか。信仰者として、また牧師としての私の課題です。許しを与えるのは神様しかいない。私はもう自分を許してあげていいと思います。けけど、彼女にとってはそうではない。「もう許して下さい」って言葉に、ルーテル教会救援はどう寄り添っていくかを考えなければいけない。それは彼女だけではないのです。苦しみ、痛みを持ちながら叫び生きていくことに、どう寄り添っていくか。しかし、そこにはイエス・キリストがおられる。イエス様がきっとその人たちに寄り添っておられるそのことを伝えるために私たちを派遣してくださっているのです。イエス様が被災者のとなりに寄り添っておられる。だから私たちもそこに寄り添い続けていくのです。
 先週も伊藤文雄牧師と被災地巡礼と祈りの旅にいってきました。「もう許してください」と叫んだ彼女とも再開しました。彼女はいま自分の残った家の1階を改装して、シルバーカフェを開く計画を立てていました。津波で家族を流され一人ぼっちになったおじいさんおばあさんが一緒に食事ができるカフェを考えているのです。少しのお金をいただいて、毎日みんなで食事をして一つの家族となるコミュニティーをつくろうとしています。彼女は「私も先生たちボランティアに寄り添っていただきました。それがどんなに生きる力になってきたか。今度は私がもっと苦しみ痛む人に寄り添うことができればと思って」と。寄り添っていただいたぶん、自分が自立して寄り添うのだと。痛み苦しみを経験した彼女だからできる寄り添いがあるのです。

 LCR日本語部は宣教25周年を迎えました。心からお祝いします。これまでも多くの人たちがここに集い、ともに痛み苦しみと寄り添ってこられたことでしょう。皆さんにしかわからない痛みもあったことでしょう。しかし、イエス様は皆さんに寄り添い聖霊を注いでくださいました。
 ペンテコステが50なら、この日本語部に聖霊が注がれて半分ペンテコステです。ですからまだまだあと25年は聖霊が降り注がれ、守られ、生かされ、大きなペンテコステまで導かれることでしょう。まだ半分。これから祝福された半分がはじまります。イエス様は今日もかたわら寄り添っていてくださいます。私たちの歩みは、イエス様によって祝福され、聖霊を注がれ、さらに前へすすんでいきます。大江教会も共に交わりを深めながら、お互いに寄り添って成長する教会となりますように。アーメン。

Japanese Ministry 25th Anniversary Commemorative Service

One Half of Pentecost

Rev. Yasuhiro Tateno – Japan Evangelical Lutheran Church – Ooe Church, Kumamoto, Japan

“Young people do not come to church.” It has been 20 years since I began hearing this comment. Whenever I hear this comment, I say to myself, “Unfortunately, this is the norm (these days).”

It is not that I have given up entirely on evangelizing the youth. I acknowledge the fact that today’s Lutheran church has mostly failed to capture young people’s interest. I very much wish to know what today’s youth are thinking about or wanting.

One day at about 9 am I was in Shibuya, Tokyo, in front of train station I saw some Right Wing group was protesting against the presence of Okinawa’s American Military Base, yelling and screaming their disapproval. There was another political party whose members were also collecting signatures opposing the Military Base but for different reasons. These two opposing groups were rebuking each other, even though their goal seemed the same.

While this was happening, there were millions of young men and women, some with wildly-dyed hair, some dressed in miniskirt and some dressed in outlandish yet fashionable costumes, each passed by the protest but paid no attention to the two bickering groups. I was wondering where these young people were heading, and whether any of them had any interest in coming to church.

Then I saw this large screen playing music and projecting the lyrics to the “Hello, Again (my little sister)”. It somehow comforted me. The lyrics are: “I am not living to find my limit, but if I open a door and go to the sea, I will know the limits beyond the ocean.”

Maybe young people are feeling the limits society puts on them but they want more. They are feeling the limits (of human power) but struggle to search for something else. I believe that young people are searching for God. We, the church must find common interests with our young people. The song ends with “Did you cry? Did you not see it?”

It’s maybe that today’s young people find it difficult to see the pain of others and are unable to feel empathy. Maybe they are unable to share their own pain either. I met many young people when I visited the disaster area after the tsunami. Some wore miniskirts, some had wildly-colored hair, and some dressed differently but they came to the area because they felt the pain of others. At the site after what they saw, they experienced indescribable pain and learned to lean on each other to share and ease each other’s pain. Those young people gave me hope. Can we find an answer from this? Can the Lutheran Church be able to share and ease the pain of others?

In 2011, in middle of March, I went to Miyagi prefecture after the tsunami. I met many people who were affected. We cried together, laughed together and persevered together. I will never forget my starting point of my mission.

I saw a photo of an old woman sitting on the rubble of what once had been an elementary school. It was 10 days after the tsunami. There were two red backpacks right beside her that belonged to children who recently perished. The old woman found the backpacks when she came to look for her grandchildren or anything belonging to her grandchildren.

I questioned myself “What can I do for these people who are facing unimaginable sorrow? What can I do for this elderly lady? There are no words to comfort her. I cannot possibly carry her heavy burden. But I know God had sent me there.

Luke 9:1-6 When Jesus had called the Twelve together, he gave them power and authority to drive out all demons and to cure diseases, and sent them out to preach the Kingdom of God and to heal the sick. He told them “Take nothing for the journey-no staff, no bag, no bread, no money, no extra tunic,. Whatever house you enter, stay there until you leave that town. If the people do not welcome you, shake the dust off your feet when you leave their town, as a testimony against them.” So they set out and went from village to village, preaching the gospel and healing people everywhere.

Were the Twelve sent out to drive out all the demons and cure diseases?
What does it mean to be sent out? Take nothing for the journey? It must mean that we are sent by God’s will and to do God’s work using only the Word of God as our guide.

What was most shocking to me was that the old woman pleaded to God saying “Please forgive us. Please give us no more (punishment)” Since I know about her, I understood why she was asking for forgiveness.

During a strong after shock I was at a desk of one of the many Volunteer Centers.
When warning siren sounded, many rushed to evacuate the building. One woman was holding the leg of a desk begging for forgiveness instead of asking for help. Many people pleaded for God’s forgiveness days and months after the tsunami.

On the day of the tsunami, one woman was at city hospital with her two children being treated for influenza. First she thought going up to the building’s rooftop (which is 20 meters high) would be safe. But a nurse told her that the water would reach the roof and she must go up to even higher ground. She and her children got into her car heading towards a nearby hill, but abandoned the idea, of driving, when traffic stopped moving. She carried her two children the next 2 kilometers climbing up the hill. The tsunami was right behind her. When she reached safe ground, she looked back and saw many friends and families she knew being swept away and screaming for help. But she could not do anything to help them.

I understand that she did not abandon those who were swept away. It was beyond her capability to help anyone. But she suffers survivor’s guilt because she was not able to save them. She still has nightmares and feels extremely guilty.

Who else but God can answer her tortured pleas? How can I tell her that God is not blaming her? How do I help people like her or anyone, as a Christian, as a pastor?

We can be there, just be there, like Jesus is with us when we need Him most.
For those who have to live with overwhelming pain, we can let them know that Jesus is with them, beside them and shares their pain.

Last week we revisited the disaster area with Pastor Itoh. We met the lady who cried “forgiveness” .She is renovating the ground floor of her home to open a café called “Silver Café” She wants her Café to be a gathering spot for people who lost family, and are now living alone.

She said to us “You were there for us when we were suffering. Now it is my turn to be there for those who are suffering.” She is strong because she came through this painful experience. Because, like she said she had some one who sat with her and comforted her when she was suffering.

I congratulate LCR on 25 years of Japanese Ministry. All these 25 years, many gathered here have experienced personal pain and hardship. I may never know the depth of the pain you carry. But I want you to know that Jesus and His spirit is, and has always been with you. Pentecost relates to 50days from Easter Sunday. The number 50 also may relate to 50 years.

LCR’s Japanese Ministry is celebrating its 25th Anniversary today. It is One Half of 50. May I say, One Half of the Pentecost; God has supported the ministry for 25 years and the Holy Spirit will guide this ministry another 25 years or more.

Today Jesus is with us, beside us. Jesus walks with us, shares our burdens and our joys together. Our steps are blessed and graced by God. Let’s deepen and strengthen the sister-church bonds between LCR and Ooe Church in Japan and grow together, in Christ. Amen.

(旅行中、パソコンの調子が悪くなり掲載が遅れましたことお詫びします。)
今週読む詩編は17編。二回は読みたいと思う。一回目はこの詩編を、今週も、まず「窓」にたとえて読んだ場合、つまり約三千年前のダビデの時代の様子を窓を通して見るような感覚で、どのような光景が思い浮かんでくるか思いを巡らせてみよう。 そして、二回目は「鏡」にたとえられるか、つまり、その光景がまるで現代に起こっていることを映し出しているか考えよう。映し出しているとするとどのような光景に変わってくるのか、思いを巡らせてみよう。 

詩編 / 17編
1:【祈り。ダビデの詩。】主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。
2:御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。
3-4:あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて
5:あなたの道をたどり/一歩一歩、揺らぐことなく進みます。
6:あなたを呼び求めます/神よ、わたしに答えてください。わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。
7:慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を/立ち向かう者から/右の御手をもって救ってください。
8:瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください。
9:あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています。
10:彼らは自分の肥え太った心のとりことなり/口々に傲慢なことを言います。
11:わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し/地に打ち倒そうとねらっています。
12:そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子/待ち伏せる若い獅子のようです。
13:主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち/わたしの魂を助け出してください。
14:主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。
15:わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう。
皆さんは、この詩編を「窓」として読むとき、どんな光景を思い浮かべられているだろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 私が思いを巡らせたことは以下のような事。

「窓」として読んだ時の光景? 「ダビデの真剣な祈り」
1節に「祈り、ダビデの詩」と書いてあり、文字通り、ダビデが三千年前にこのような祈りを毎晩のように訴えていた様子を思い浮かべている。ダビデの生涯を思うと、史実として簡単に言うならば、三つの大事業を行ったと思う。一つ目は北のイスラエル国と南のユダ国の南北統一国家の建設という偉業を成し遂げた。二つ目は南北の国家統一にとどまらず、その国家領土を拡大した。 三つ目には、王国の政治支配と、ユダヤ教の民族的支配を結びつけた。 しかし、それらの三つの大事業の影には、困難で深刻な状況に何度も直面しつつ、日々の主の対話、真剣であたかも神と格闘するかのような祈りと、主なる神の導きの中で偉業の遂行が行われた様子が伺える。 
詩編の構成として、1-2節、6-8節、13-14節の部分でダビデから主なる神への深刻な祈願が詠われる。3-5節ではダビデと主の関係が詠われる。9-12節ではダビデを敵とする人々が、ダビデに対してどのような行為をとろうとしているか、すなわち、主なる神を畏れないものたちとの関係を詠っている。 それらの言葉の節々に、ダビデの真剣さがあふれ出ている。さらに15節の言葉にはダビデの祈りを切実に聞いてくださる主なる神のおかげで、ダビデに生きる力が与えられるように詠っているように思う。
上記に「毎晩のように」と書いたが、3-4節の言葉に「夜なお尋ね」という言葉があることや、15節の言葉に「目覚めるときには」という言葉があり、それらの言葉から推察して、ダビデは毎晩このような祈りを主なる神に唱えていたような光景を思い浮かべる。

「鏡」として読む時の光景? 「さまざまな共同体のリーダの祈り」
ダビデに相当するような政治的かつ宗教的指導者が、国家レベルで現在の世の中に存在しているかと思うと、具体的にこの方という人は思い浮かばない。ところが、家庭、教会、市町村レベルでも、知事や州のレベルでも、あるいは国家レベルでも、信仰を持って生きている方々が、ダビデと同じように真剣に主なる神に祈り、格闘するような思いで日々の決断を主との対話の上で決めて、遂行しているリーダとそのリーダの率いる共同体が現代にもたくさん存在し、全世界に主なる神の祝福が今も、いつの時代も与え続けられているように思える。

「すばらしいあなた」 ルカ19: 1-10
聖霊の息吹がこの礼拝堂に吹き込み、主イエス・キリストの恵みと平安がわたしたちの心に豊かに注がれますように!

自分は経済的には困ってないが、世の中には何もできていない。あるいは、かえって迷惑をかけてしまっているのではないだろか。などと思い悩み、劣等感に苛まれ、気落ちするような経験はあっただろうか? 
人間が気落ちする原因には、大きくわけて四つのケースがあるようだ。一つ目は、肉体的なこと。二つ目は能力的なこと。三つ目は社会的地位それには家庭環境なども含まれる。四つ目は、性格。みなさん、これら四つのことについて、ご自分では、どんな風に思われるだろうか。もし何かで悩まれていることがあったら、今日の礼拝において、変化が訪れ、そして、悩んでいる状況から解放へと導かれるように祈る。 
聖書に書かれたザアカイの状況を見ていきたい。ザアカイはお金こそ持っていたようだが、これら四つの観点からして、最悪、かなりの劣等感を持って生きていたのではないだろうか。
まず、背は低かった。肉体的劣等感。肉体的な劣等感に伴って、能力的な劣等感、すなわち周囲の人がふつうにできることでも、彼にはできないと思ってしまっていたのではないだろうか。そして、ユダヤ人でありながら、ローマの回し者のような徴税人、売国奴とも呼ばれてしまうような社会的地位についていた。その地位にも問題があるばかりではなく、まわりの徴税人たちには定められた額よりもっと大きな額を集めさせ、自分のポケットに入れていた様子が伺える。それも道理に反していることはわかっていても、意図的にやっていたようだ。性格的にも問題があった。   
そのような環境にあったザアカイだったが、彼が住んでいたエリコという町に、イエスがたまたま通られることになった。 ザアカイは、イエスをひと目みたいと思った。 といっても大勢の人が道に集まっていて、背の低いザアカイからは見ることができない。 かといって、大勢の人の前に出ていくほどでもない。ザアカイは、そっと、遠くから見るだけでも良いと思ったのではないだろうか。
しかし、背が低いザアカイは、台の上に乗るなり高いところに自分の身をおくしかない。イエスが歩いていく通りの先に、イチジク桑の木を見つけ、それに上ることにした。イチジク桑ってどんな木だがご存知だろうか。枝別れがいっぱいあり登りやすい、しかも、葉っぱがおいしげっていて、木に上っている人がいたとしても、葉っぱに隠れているように見え、気づかれにくい。つまり、自分が隠れているような感じのところから、ちょっとだけ通りすぎるイエスを見れればいいとでも思っていた。 
しかし、イエスがそのイチジクの桑の近くに来ると、ザアカイを見つけるどころか、名前を呼ぶ。「ザアカイ」 イエスは彼を知っていた。 ザアカイはびっくり仰天。 そればかりではない、「降りてきなさい。」と言われる。一瞬、「イエスに叱られる」と思ったかもしれない。 しかし、すぐに次に出た言葉は、ザアカイを叱るわけではなく、「私は今日、あなたの家に泊まりたい。」と言われる。ますます、ザアカイはびっくりするが、喜びで満たされる。そして、イエスを迎え、食事をした。 そしてザアカイは回心し、財産の半分はまずしい人に施します。 また、だましとった分は4倍にして返します。とまで言う。そして、イエスは、「今日この家に救いが訪れた。ザアカイもアブラハムの子、神の子供の一人なのだから。」
この話、私たちには、いったいどういう意味を持っているのだろうか? ついつい、私たち自身が気落ちしてしまうような場合でも、イエスは、わたしたちの気持ちをよくご存知で、一人一人を名前で呼んでくださっていることに気がつくようにと、神は教えてくださっている。 
ザアカイが、イエスをひと目見るための行動を起こしたように、神なるイエスは、私たちをいつもイエスの近くに来るように招かれていて、現代にあっては、毎日曜日に、礼拝に招いてくださっている。さらに、招いているばかりではなく、聖霊となっておひとりおひとりのところにも、つきそってくださっている。 
そして、食事の時もいっしょにいてくださる。イエスがいつもいっしょにいる食事中に、ひとりひとりが、今も変えられて、喜んで、イエスさまの御心に従った行動をとるように導いてくださっている。それは、だれもが、神に造られた者だから。
昨年のはじめ、三日間のある研修会に参加していた。ホームレスの方々のためのミニストリーが活発な教会で行なわれた。不安を抱え、次の人生のステップをどう歩めるのかと思われているホームレスの方々のために多くの仕え人と必要な物資が用意されていた。その中で、ボランティアをしていたアフリカ系アメリカ人が、すばらしい話をしてくれた。 彼は、実は、数年前から数ヶ月前までホームレスだった。昔は、ハネウェルという大きな会社のエンジニアとして働きよい生活をしていたが、職を失い、いつのまにかホームレスになっていたという。教会に導かれ、紹介されたシェルターで生活している期間に、たとえ自分は神から離れたような生活をしていたとしても、神がいつも自分を愛し、そばにいてくださり、彼を変えていってくれたことを話してくれた。現在は、また自立して生計を立てられるようになり、しかも、そのルーテル教会のメンバーとなり、ホームレスミニストリーを支える大切なボランティアの一人となっていた。 
神が造られたものに、失敗などはない。自分がいくら能力不足や肉体的な劣等感などで悩み、いじけて神から隠れて生きようとしたとしても、実は、神はそばによりそってきてくださって、神がたいへんな愛、恵みを注いでくださっている。肉体的なあるいは精神的な社会的ハンディと思えるようなことがあったとしても、あなたにはすばらしいものが与えられており、良いことをできる力が備わっている。イエスは、「あなたは私が創ったすばらしい子である。」と言ってくださっている。 

“How Wonderful You Are” Luke 19: 1-10
May the Holy Spirit be breathed into this sanctuary and the Grace and Peace of our Lord be poured into each one of our hearts! Amen
Were there any moments when you felt like you were not contributing anything to your neighbors, instead you felt as though you’re a burden to society? You worry about yourself, maybe you have a complex, or are depressed. Have you ever had such an experience? Or are you having these kinds of feelings now?
There are several common reasons why most people worry. Including, but not limited to physical appearance, abilities, social status, or your reputation. What did you or do you worry about? I hope and pray that this morning’s service will transform you and free you from your anxiety; especially, if you are worrying about something in your life.
Let’s dive into the story of Zacchaeus, the tax collector. Even though, he was rich, if we think about the four reasons that I mentioned physical appearance, abilities, social status, and reputation, Zacchaeus probably thought that he was most unworthy.
Firstly, physically he was a short guy. Second, since he was short, he might think that he could not do things as well as other people could do them. He was rich because he was the chief tax collector, but he was despised and seen as chief betrayer in the Jewish community since he collected taxes for the Roman Empire. And he had a notorious reputation because he ordered his subordinate tax collectors to collect more than required. Zacchaeus was pocketing the extra taxes. When we think about his feelings (in the context of this story), he was probably depressed about his life.
Jesus visited Jericho where Zacchaeus was living. Jesus was famous and due to a huge crowd, Zecchaeus could not see him because he was short. He was not the kind of person to view Jesus from the front of a crowd. Rather, he probably was OK with seeing Jesus from a distance.
Then he found a sycamore tree. Do you know about sycamores? Sycamore trees usually have many branches, making them easily climbable. Also there are lots of leaves, so it is hard to tell if someone has climbed the sycamore, even if someone is upper part of the tree.
However, when Jesus came to the place near the sycamore tree, he easily finds him, approaches him, and calls him by name, “Zacchaeus!” Jesus knew his name. Not only did Jesus call his name, but he said, “Come down right away.” Zecchaeus might have felt that he would be scolded. But Jesus’ next words were, “I am coming to your house today.”
Zacchaeus was so surprised, exited, and joyful. Although it was not anticipated at all, he welcomed Jesus and his disciples and they ate together.
In front of Jesus, he converted, saying “I will give half my wealth to the poor, Lord, and if I have cheated people on their taxes, I will give them back four times as much!” Then Jesus responded, “Salvation has come to this home today, for this man has shown himself to be a true son of Abraham. For the Son of Man came to seek and save those who are lost.”
What does this story mean in the context of our own lives?
Even though we worry about our physical appearance, abilities, reputations, or social status, Jesus knows well how each of us feels in our hearts, not only does he know each of us by name, he truly cares about us.
Like he said “come down to me,” he invites each one of us from a distance. He invites us to come to sanctuary every week even though we might feel that we are not worthy to come to such a Holy Place.
Not only does Jesus invite us to come, but his Holy Spirit goes out with us and comes to our own homes.
And God’s spirit is with us at the table and gives His love and nourishment for us to act according to His will. Because we are created by His will. Each one of us was created and is being created anew and changed even now at this moment.
Early last year, I was attending a three day conference. Attendees met members whose church has an active homeless ministry. We met people who are in the midst of anxiety and feeling distress. But we also met an African American person who looked healthy and was actually a wonderful, motivational speaker. He shared with us his own story about becoming homeless a few years ago, and spent several months at a church-run homeless shelter, but now he was a self-supporting person again, and he became a member of that Lutheran Church, and joyfully volunteers a lot for the church, the body of Christ. He shared that God has always been with him and cared for him and changed his life.
In this world, we may worry about our looks, abilities or reputations, but in God’s eyes, there are no defects. As God’s creations, we are blessed with different talents and He is still transforming our bodies and our hearts. Each one of us has great potential to do good for God’s sake. God is saying to you, “How wonderful you are!” Despite our flaws, He invites us to climb down from the tree and be with Him. Amen.
 

先週は詩編84編1-8節を読んだ。今週はその続きで84編の9節から13節を読もう。たった5節なので、3回は読んでみよう。 また、先週の84編1-8節も再度読むのも良いと思う。そして先週と同じように、この詩編を窓のように読む場合と鏡のように読む場合で、それぞれ光景を思い浮かべてみよう。 
詩編 / 84編
9:万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ
10:神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり/あなたが油注がれた人を顧みてください。
11:あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。
12:主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え/良いものを拒もうとはなさいません。
13:万軍の主よ、あなたに依り頼む人は/いかに幸いなことでしょう。

さて、皆さんは、この詩編を「窓」として読んだ時、どんな光景を思い浮かべられただろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 今週も先週に引き続いて私が思いを巡らせたことを書き留めたい。

「窓」として読んだ時? 「エルサレムに上る決意」
先週の8節までを読んだ限りでは、詩編作者自身は、まだ神殿のあるエルサレムに上って行く決断をしていなかったように思う。しかし、この詩編の後半では、詩編作者自身も、その仲間たちとともにエルサレムに上って行く決意をしているように見える。 それは9節、10節の祈りの言葉からわかる。 9節では主なる神への呼びかけが詠われており、10節には、エルサレムへの旅の途中で遭遇すると思われる困難や危険に対しても、私たちを守ってくださる方、つまり救い主(ヘブライ語で「油注がれた人」とはメサイア、救い主を指す。ここで詠われたメサイアについてこの記事の最後に記したい。)がいっしょについているので、その方を神がしっかりと、ご自身が油注いだ救い主として認めて、私たちが旅の途中に守られるようにと祈っているように思える。11節では神殿の庭で過ごす一日は、神殿から離れたところでいただける恵みに比べて千倍の恵みにも相当する。 それは、当時、エルサレムから遠く離れて詩編作者が生活していた土地では、神を崇拝しない人々との暮らしであり、耐え難い暮らしだったのだろう。そして12節では主なる神を賛美し、そして神殿のあるエルサレムへ向かうことが正しい道を歩くことであり、その道を歩く人々に豊かな恵みを与えてくださると詠う。そして13節で、主に信頼して生きることこそ、幸せなことと詠って、この詩編は終わる。

「鏡」として読む時?「教会を離れた方々が教会に戻る決意」
先週は、復活ルーテル教会で毎週礼拝に参加していたが、引越しやあるいは病等のなんらかの理由で、毎週の礼拝に来られなくなった方々のことを覚えると書いた。今週は、もっと広い意味で、復活ルーテル教会に限らず、なんらかのキリスト教会との接点があったのに、真のキリストの教えから遠ざかってしまっている方々のことを覚えている。 それは、幼稚園でも小学校時代でも、なんらかのキリスト教会の催しに来た時でも、礼拝堂に入って天井との空間に驚いたり、オルガンの響きや聖歌隊の讃美歌を聴いた時でも、なんらかの神との接点が起こった時のことを憶えている方。そのような方々が、また教会に戻って来ようという決意をしていることを覚える。 ただ、一人では戻ることは難しく、家族や友人たちと、もし、そのような身近な方がいない場合でも、最も強力な友である、イエスキリストというお方、聖霊、と共に礼拝堂に戻って来ることができる。 そして毎週、礼拝に集う生活がどんなにか素晴らしく幸せであるかと気がつき、讃美歌を日々歌う生活をするようになる。 
上記、「窓」として読むときの内容で、メサイアのことを書いた。詩編作者が生きていた時代は、イエス降誕以前なので、メサイアは世の中に登場していない。またイエスをメサイアとするのはキリスト教であり、現代のユダヤ教では、今でもメサイアは登場していない。それでも、詩編作者が、「あなたが油注がれた人を顧てください」と詠っているのは興味深い。ダビデの子孫のだれかを指して詠っているのか、あるいは、メサイアの登場を預言して詠っているのかとも思う。詩編作者がこの詩を詠った当時の明確なことはわからない。比較的短い詩編84編を二週間に渡って読んだ結果、21世紀の今という時代にあって、2000年前にキリストが到来したのは歴史的事実でも、それを認めずにキリストから目を背けて暮らしている方々に、大きな変化の時期が訪れていると考えさせられた詩編だった。本日10月31日はハローウィンかつ宗教化改革記念日である。この時期にふさわしい詩編だと思う。この詩編を本日読むように導かれたことに感謝し、礼拝に来ようとしている方々がいることを確信し、その道が守られるように祈る。  

ヨハネ 8: 31-36

イエス・キリストの恵み、福音が集まりました会衆の上に豊かに沁みわたりますように!

この世の中、「私の生活、こんな予定ではなかった。」と思われている方、たくさんいる。 そのような方々がぜひ、ルーテル教会に来られたら良いなと思う。しかし、「私は、ルーテル教会に何年も通って来たが、今の生活、こんなになる予定ではなかった。」と思われているかもしれない。もし、そんな方がいたら、本日の礼拝で、真のキリストの福音を再発見され、人生が新しくされるように願い祈る。 

人生を道路に走っている車に譬えたい。この世の人生の終着点まで、どんな違反もおかさず、道にも迷うことなく運転できる方はいるだろうか? 
ほとんどの人は、車をこすったり、なんからの交通違反を犯し、道にも迷いここに来るはずではなかったという場所に来てしまう経験をする。だれ一人として完璧なドライバーではありえない。 
マルチン・ルターは、そのような話を16世紀だったので、自動車ではなく、人生を馬車に譬えて話をした。 ルターの論点は、だれひとりとして、馬車を完璧に操ることはできず、失敗なり人生の過ちを犯すということ。 言葉をかえれば、人生で罪を犯さないものはいないということをはっきり述べた。イエス・キリストが今日の福音書で「罪の奴隷」という言葉をつかっているが、すべての人間が罪の奴隷のような存在であるとした。   
そして、マルチンルターはキリストの信仰においては、人間が馬車を操っている譬えそのものが違っているとする。馬車を操っているのは、人間ではなく、他の方が操ってくださっていて、操っていると思っている人間は、実は馬車そのものだと指摘した。 
現代風に言うなら、私たちの人生において、私たち自身が自動車を運転しているのではなく、人間は自動車そのものなのだと指摘した。 
それでは、いったい誰が、自動車を運転しているのだろうか? それは、イエス・キリスト、神の子が運転してくださっている。イエス・キリストが運転しているということに気がつくとき、人生が大きく転換をする。私たちは、恐れをいだかなくなる。 たとえ、私たちが意図していたところに来ていなかったとしても、信仰において信頼のおけるイエスという神のみ子、救い主が運転してくださっているという確信の上にたち、悩んだり、困ったりすることから解放される。こんな人生になってどうしようと悩み、出口の無い人生を歩んでいるような束縛感からの解放がおこる。
人生において、とかく私たちは自動車を正しく運転して目的地に行けると思いがちだ。あるいは、信仰生活をしているといっても、私たちがこれこれこういう正しい行いをしたから、救われると考えがちだ。 
しかし、運転者はイエスキリストだ。また正しい行いをするといっても、罪の奴隷である人間なのである。 しかし、イエスが運転してくださっているという信仰によって、自動車は正しい道を進む。 
たとえ、私たちが、行き止まりの道に来てしまったと思っても、神なる救い主イエスが、私たちの束縛されている状況から解放し、イエスの信仰によって、人生をまったく新たに創造してくださる。 
たとえ、私たちが、不幸せな状況や、とてつもなくストレスが溜まるような生活を営んでいたとしても、神は、キリストの十字架の死と復活の信仰を通して、新しいエネルギーを与えて救い出してくださる。
信仰によって、救われる話は、聖書にちりばめられており、さきほど聞いた本日の第二日課もその話だった。 現代においても、イエスの信仰を通して、聖霊が私たちを罪の奴隷から解放してくださっている。
信仰の歩みをはじめたところ、これまでの多くの不満や悩みから、いっきに解放が訪れたという経験をされた方々もおられると思う。
それは、イエスが使徒たちに教えたこと。そして、とくに、パウロによって新訳聖書の使徒書に書かれた。また、初代教父たちによっても、さまざまな書に綴られた。とくに、4-5 世紀の神学者、アウグスティヌスによっても書かれていた。 
しかし、カトリック教会の歴史の中で、15世紀ごろまでの間に、ついつい、真の信仰はどこかに置き去りになりがちで、自分たちの行い、つまり自分たちが正しい運転をして救われるという面が出てきてしまっていた。実はマルチン・ルターもカトリック教会の司祭になったとき、最初は、自分の修行によって救われると考えた。16世紀初頭、マルチン・ルターは、聖書を読む中で福音を再発見した。 
本日の宗教改革記念の礼拝において、聖書の教えを通し、今日洗礼を受けられた陽子さんをはじめ、ここにお集まりのすべての方々で、宗教改革であきらかになった真の信仰を再確認しよう。私たちは、人生の運転手ではなく、真に運転してくださっているのは主イエス・キリストであり、その方に従う信仰のみによって、私たちは正しい道、義なる人生へと導びかれる。アーメン 
Rediscovery of the Gospel 2013 10 27
John 8: 31-36 Pr. H. Adachi
May the Grace and Peace of Jesus Christ be richly poured into this sanctuary!
There are many people in this world who think that “My life should not be like this.” I hope and pray that they come to a Lutheran Church and feel reenergized about life. Or some of you might believe, “I have been attending a Lutheran Church for many years, I, too, feel like my life is not where it should be.”
If you feel that way, I pray and believe that today, during this worship service, you’ll rediscover the true faith of Christ and you may be changed by the Grace of our Lord.
Let us metaphorically compare our lives to driving automobiles on roads. At the end of our earthly lives, could we honestly say that we never received a ticket or never became lost while driving somewhere?
Everyone makes mistakes and loses one’s way (at some point) and has ended up somewhere they did not intend to be…no one is a perfect driver.
A similar analogy was made by the Reformer Martin Luther in early 16th century although he used the example of a carriage horse since there were no cars at that time. The point is that no one may perfectly drive or control either a car or a carriage horse. In other words, everyone trespasses. There is no one who does not commit sins, be them minor or major. As Jesus says, we are all slaves to sin.
Martin Luther explained that having faith in Jesus Christ, metaphorically we’re not controlling the carriage horses, but we are the carriage horses themselves. And someone else is controlling our actions. To use the modern automobile metaphor, Luther would say that human beings are not drivers of cars but we’re the cars themselves.
And who is driving the cars? Jesus Christ, the Son of God is driving. When we recognize Jesus as the driver, we will not fear anything. Even if we arrive somewhere unknown or unexpected, we won’t be troubled.
In our lives, it seems like by driving cars, we think that we drive on the right roads and arrive at the right place, but in reality we lose our way and frequently get lost.
However, the driver is not you or me but God, the Lord Jesus Christ. There is a big paradigm shift in this metaphor. How we perceive our lives is drastically changed.
Even if we think that we have come to a dead end, God, Jesus, continues pouring the Holy Spirit into us, freeing our thoughts, and renewing our lives through our faith in Christ.
Even if we are in the midst of something in our lives that make us unhappy or frustrated, God brings us new energy through the fact of Christ’s death and resurrection. In the Bible there are many wonderful stories that show that God, the Son of God, and the Holy Spirit free us from our captivity to sin.
I know there are people who started walking in faith of Christ, who are freed from their frustrations or troubles. Even if they might have challenging lives, their souls are restored through faith in Christ.
When we realize that God is in control our lives are much easier, no matter the situation. This was taught by Jesus to his disciples. This was written in the Bible, especially written by St. Paul. Early church fathers and theologians in the first several centuries recognized this teaching. It is notably discussed by the famous 4th century theologian, Augustinus.
However, in Catholic church, there were times that people forgot who was truly driving their lives, and clouded the true understanding of Christian faith. Some people that we control becoming righteous or are righteous by our own actions. Then, in the 16th century, Martin Luther rediscovered and clarified the true understanding of Christian faith.
Today in this Reformation Service, through the teaching of the Bible, let’s reaffirm our faith that the driver of our lives is not you or me, but Jesus Christ, our Savior and Lord, and recognize that the Holy Spirit pours tremendous grace and peace into each one of us. Amen!