October 13th, 2017

今週の聖書観想

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先週はラスベガスでアメリカ史上最悪の乱射事件が起こったかと思ったら、今週はカリフォルニアで史上最悪の山火事が発生した。 人災と天災の違いはあるものの、史上最悪が多すぎるような気もしている。 主を愛し隣人を愛するというイエスの御旨にできる限り近づけますように!

10月8日(日) マタイ21:33-46
とくに後半では、イエスがユダヤ教のリーダーたちが酷い目に会うことを暗示していたようにマタイは記述している。ちなみにマタイ福音書は紀元後70年以降、つまりエルサレム陥落以後に記述されたと思われる。

10月12日(火)第2コリント5:17-21
自分を含めて恥ずかしくなってしまうような過去の過ちとか自分勝手な行動を抱えて生きている方がほとんどなんだと思う。その恥ずかしさに気づかないままあるいは間違いかどうかわからないままの方々、政治家、政府の存在もあると思う。私はICANがノーベル平和賞を受賞したことを喜びつつも、それが政府への当てつけだとかではなく、これまでの核兵器を作る方向に社会のリーダーが行動したことはその時点では正しいと思って動いたのだから、その責任を求めたり恥を指摘するのではなく、ひたすら和解の言葉をもたらす存在でありたい。

10月14日(土) イザヤ24:17-24
17節―18節には、恐れないものは、落とし穴に陥り、たとえ落とし穴から出ても、わなに捕らわれるという。「恐れない」ものという言葉にちょっとぴんときてしまった。 そもそも聖書のメッセージは「恐れるな」という言葉が繰り返されており、「恐れない」ことは良いことではないかと思うから。しかし、「恐れるな」という前提には、神以外のものには「恐れるな」ということがあったのだと思う。 ところが、神に対して、あるいは神の遣わした預言者やその言葉に対して「恐れない」ことに大きな問題があったのかと思う。 日本語では同じ「おそれない」でも「畏れない」という漢字があるが、17節は「畏れない」が適切なように感じている。 

10月15日(日) マタイ22:1-14
このたとえ話は王は神であり婚宴は御国を示しているのかと思う。似たような話がルカにも書かれているが、7節の「王が立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった」という箇所はルカにはなかった。 上記にも書いたように、マタイはエルサレム陥落後に福音書を書いたと思われる。つまり7節もエルサレム陥落をマタイなりに意味したのかと思う。もっと大切なところとして10節にある悪人も善人も王が招く、つまりすべての者が愛なる神によって御国に招かれていることをしっかり覚えたい。ただ、礼服を着ていなかった者がつまみ出されてしまう話はどういうことかわかりにくい。祈りをもって日曜日の説教で話せればと願っている。 

ラスベガスの銃撃事件と山火事で亡くなった方、怪我をされた方、その家族、家を失った方、そのほかいろいろな影響を受けた方(実はこの聖書観想は、サンフランシスコ近くの神学校で水曜の昼から木曜の昼過ぎまで打ち合わせがあって、その帰りの飛行場で書いていた。近くの山火事の煙の影響もあって私が乗る飛行機が遅れ私も影響を受けたが少し痛みを共有した気がする)を覚えて、主の慈しみ、憐れみを覚えて祈る。また日曜日の礼拝も覚えつつ。

恵みと平安
安達均

October 6th, 2017

今週の聖書観想

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2017年10月1日(日) マタイ21:23-32
現在日本語礼拝で、私が聖書を拝読する際は新共同訳聖書というバージョンを読んでいる。新共同訳では兄は最初は「行かない」と言ったのに後から考え直してぶどう園に行き、弟は最初「行く」と答えたのに結局行かなかった、と書いてあった。ところが今週は口語訳聖書を読んでいて気がついたが、兄と弟の行動が逆に書かれている。これは訳を作成した際の、元となるギリシャ語の写本の違いによるもの。オリジナルの言語のギリシャ語の福音書と言っても、コピー機があったわけではなく、古代の人々が手書きで写していたため、変わってしまうことがあった。聖書には「一語一句、誤りはないのだ。」と言われる牧師がいる。そもそも私はそのようなタイプの牧師ではないが、聖書を読むときに、なんでもかんでも文字通りに解釈しないようにすることは一つ大切なことだと思う。  

2017年10月3日(月) フィリピ1:3-14
フィリピの信徒への手紙は、獄中からパウロが書いた手紙。8節には「キリストイエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているか」という言葉がある。1日の夜、ラスベガスではアメリカ史上最悪と言われる銃撃事件が起こった。キリスト者として何ができるかを思いつつ、月曜以降、その現場にいた方々を覚えて祈る毎日を送っている。私たちの教会に来ていた方のお嬢さんが現場にいたという情報が入ったり、近隣教会の幼稚園の園長先生だった方のご主人は弾丸を腕に受けて貫通し、弾はさらにお腹に入ったが、手術を受けられ、命をとりとめたとのこと。犠牲となった方々・怪我をされた方々、その家族がたとえ遠くにいても、彼等が主イエスによって、癒され、慰められることを思うことで、聖霊なる神が働いてくださることを信じ・祈るのがキリスト者としてまずできる事。 

2017年10月6日(金) エレミヤ2:23- 3:4
週の後半の旧約聖書はエレミヤ書が読まれる。エレミヤは難解で、子供には読ませてはいけないと言う方もいる。エレミヤ書に限らず、聖書を何の指導者もない状態で、ただ読み始めることは、危険な書物であることは否めない。姉妹教会の立野牧師は神学校時代に、本当に牧師になる道を歩み続けるか悩み、聖書を駅に備え付けの教育上よくない雑誌を入れる箱に捨ててしまった。その気持ちをわかる気がする。一つ、ヒントを書いておきたい。聖書で妻と夫の描写が出てきて、妻のほうが別の男といっしょになるなどいう話が出てきたりするが、妻とは男や女に限らず人類をあらわしていて、夫は神をあらわしている場合が多い。人類が本来の神を忘れて、お金とか名声を、あるいは何か自分の趣味を神と思ってしまいがちである。 そのようなことを男女関係にたとえている話だったりする。 

2017年 10月8日(日) マタイ21:33-46
神が神の子イエスを人類の中に送っても人類はイエスを殺してしまうということを、神をぶどう園の主人に、イエスを主人の息子に、人類を農夫にたとえているといえるだろう。イエスの話はたとえ話とかあるいは寓話ともいっても良いと思っている。ただ、寓話というと、童話の一種類と解釈されてしまい、こども向けの話と思われてしまうかもしれないが、それでも良いのだろう。おとなでもこどもでも何歳であろうが、この世の人類は父なる神の子供たちとも言えるのだから。そしてこの聖書箇所のように、現代でも神に反抗する子供たちはたくさんいる。  
 
8日の日曜はPastor Bradの説教で、いい話になります。日本語訳用意しますので、ぜひお越しください。 

主の恵みと平安
安達均

September 28th, 2017

今週の聖書観想

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2017年9月24日(日) マタイ20:1-16
ぶどう園の労働者のたとえ、今一度読み返してなにを思われているだろうか?神からの報酬は、この世での働いた分だけの報酬とか、見合う賃金とかで与えられるのではない。天の経済とこの世の経済には大きな違いがある。わたしたちが捧げるときにも、世の経済と天の経済の違いをよく覚えておく必要がある。衣食住にさらに娯楽も含めて必要な経費を計算して、残った額を捧げるのが当然のように思われるかもしれないが、それはこの世的な経済。いただいた分のまず最初の10パーセントを捧げて、残りの90パーセントで生活し楽しもうと考えるのが天の経済。

2017年9月25日(月) ローマ16:17-20
ここ数ヶ月間はローマ書が読まれる日々が多かったが最後で16章に入った。ローマの人々への挨拶が中心で、実に多くの人の名前が出ている。しかし、25日に選ばれている17-20節は、パウロからローマの信徒へ注意をよびかけている。主に仕えないで、自分の腹に仕える人がいるという。教会といいながら、この世の経済を持ち込む人々がいるということを指しているようにも思える。しかし、「善にはさとく、悪にはうとくあってほしい。」ともパウロが言うのは実に慈しみ深い神をあらわしている。私は母からよく「だます人にはならないでだまされる人になりなさい。」と教えられた。

2017年9月29日(金) エゼキエル18:19-24
金曜、土曜の聖書日課とさらに聖日の第一日課で、エゼキエル書18章を全部カバーする。大きなポイントは1節にある「父たちが、酸いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく」なんていうことはない。ひいては、18章の19節にある、「子は父の悪を負わない」ということかと思う。祖先が悪いことをしたから自分はこんな目にあっているとか、他人のせいにするのはやめなさいということのようだ。逆を言えば、神にあって、祖先が間違った行いをしていたとしても、将来を案じないようにとも思える。私自身、20世紀後半から生きたきた世代として、原発を使いはじめたり、さまざまな公害や自然破壊にしても、将来にたいへんな負債を残した世代だと反省する気持ちもあるが、将来の世代には大きな希望があるように思えてくる。21世紀を背負う世代が、20世紀の大人たちがとんでもないことをしたから、俺たちの将来は真っ暗だなどということになりませんように、偉大なる父なる神にざんげしつつ祈る。

2017年10月1日(日) マタイ21:23-32
ぶどう園に行って働くように。との父の勧告に、二人の息子のうち、兄は「行きません」と言ったが、考え直して行った。弟は「行きます」と言って行かなかった。 たとえ話だが、父は神、ぶどう園は、神が支配する御国。 神のよびかけを、たとえ最初は否定してしまっても、考え直して従うことの大切さを覚える。ポイントは「考え直す」ひいては、神のほうに向き直る、回心することの大切さだ。 エゼキエルの内容も、固定観念で「先代のなにか悪いことが子孫におよんでいる。」という考え方から脱却、考え直して、人間には考えにもおよばなかった恵みをもたらしてくださる神に注目するように教えられているように思えてきた。