Archive for the ‘詩編を読もう’ Category

Tweet   アドベント、待降節、にはいり、最初の週の後半は、通常の聖書日課であれば詩編を読むところに、ルカ1章68節から79節が与えられている。 イエスの従兄ともいえるヨハネが誕生した時、その父がザカリアが賛美、預言した箇所だ。 旧約聖書の詩編ではないが、とても意味のある賛歌であり、預言である。 アドベントにあって、じっくり味わっていただければと思う。  68: 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 69:我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。 70:昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。 71:それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。 72:主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。 73:これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 74:敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、 75:生涯、主の御前に清く正しく。 76:幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 77:主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。 78:これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 79:暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 11月26日、木曜は、11月の第四木曜日で感謝祭。 そして、教会の暦では、新しい年を迎えた。今週木曜日から、新しい年の最初の聖日(降誕節第一主日)まで与えられている詩編は25編の1-10節。 気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編25編を通して今日私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編25編 1:【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み 2:わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。 3:あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。 4:主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。 5:あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。 6:主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。 7:わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。 8:主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。 9:裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。 10:その契約と定めを守る人にとって/主の道はすべて、慈しみとまこと。 気になる言葉やインパクトのある節はどこだろう? 4節にある「あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。」 詩編作者の気持ちを覚えつつ1節づつ読んでいきたい。1節に【ダビデの詩。】となっており、詩編作者は、特に2節後半の言葉から、ダビデが敵に囲まれ危機的状況にあった時のことを想像しながら、この詩を詠ったのかと思う。この詩編の言葉は、1)神との信頼を宣言する箇所、2)神への要望を述べる箇所、3)詩編作者が教訓を述べる箇所のどれかに属する言葉が並べられて構成されているようだ。そこで、そのどれに属するかを考えつつ、一節づつ振り返りたい。 私の魂はあなたに望みを置いています、神よ、あなたを信頼してお願いします(1節と2節前半:信頼)。私が恥を受けることがないように、また敵が誇ることのないようにしてください(2節:要望)。あなたに望みを置くものは恥を受けることがなく、人を欺く者が恥を受ける(3節:教訓)。主よあなたの道を示して、あなたに従う道を教えてください、あなたの真理に私を導いてください(4節、5節前半:要望)。あなたは私の救いの神で、あなたに永遠の望みをおいています(5節後半:信頼)。主よ、あなたの永遠なる憐れみと慈しみを思いだしてください、わたしの若き日の罪や背きを思い出すことなく、主の慈しみと恵みの中に私を留めてください(6-7節:要望)。主は恵み深くて正しく、罪人にも道を示してくださる、主は謙(へりくだ)る者を認め、主の道を教えてくださる、約束を守る者にとって、主の道は慈しみと真理である(8-10節:教訓)。 教会暦で新年度に入る中、また感謝祭の時に、この詩編を通して、神は私たちに、次の三点を授けているように思う。1)しっかり神との信頼の中で、新しい年も神の招きに応じて礼拝に仕える。2)過去の起こった様々なことから教訓を思い出し、神の恵みを数える。3)新しい年を迎えるにあたって、私たちの歩む道が、主の御心にかなった進路になるように祈る。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2015年11月19日:揺らがない (詩編93編) 聖書日課で今週木曜19日から22日の聖日まで与えられている93編を読もう。22日の聖日は、Christ the King 日本語では、「王なるキリスト」と呼ばれる主日となる。福音書は、ヨハネ18章33-37節で、イエスが十字架に架けられる前の、総督ピラトとイエスの対話の箇所が読まれる。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編93 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編93編 1:主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。 2:御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。 3:主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 4:大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。 5:主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。 インパクトのある言葉として、「主こそ王」 できるだけ詩編作者の気持ちを思い浮かべながら、詩編93編がどういうことを詠っているか考えたい。詩編93編は、全部で150編ある詩編の中で、7編存在する(47 編、93編、95編から99編) 「即位の詩編」と呼ばれる。 即位の詩編とは、詩編が作られた時代のユダヤ教国家は君主制。代々君主が即位し、宗教的にも政治的にも国家を統治しようとした。 しかし、実際問題は、さまざまな問題に遭遇する。 そのような、荒波の中でも、新たに王が即位し、その戴冠式のような事が行なわれる時に、即位の詩編が詠われる必要があったのかと想像する。戴冠式に合わせて詩編作者も93編を作詞したのかと思う。 93編に詠われている内容は、国王の座に着くものが、主なる神を顕す存在。1節では、人間的な要素ではなく、絶対的な主なる神の力、威厳を持つ者と詠う。また統治される世界も固く据えられ、揺らがない。2節には、主なる神が時を越えて昔から存在していたのだと。3節―4節では様々な荒波も起こるが、それらの荒波よりさらに強く、また高い主の存在。5節では主なる神が定め、即位する王が、確かな存在であり、日の続く限り(王が生きている限りという意味かと思う)この神殿にふさわしく即位が続く。 神が、詩編93編を通して、また「王なるキリスト」という教会暦では年間最終主日に読まれるヨハネ福音書も通して、現代の私たちに、何を語ろうとしているか思いをめぐらせたい。。。。 先週の詩編を読もうを書いた翌日に、パリでは多発テロが起こり、テロリストたちが潜伏していると思われる地域での銃撃戦が起こっている。次はどこでテロが起きるのではないか、世界の多くの都市では緊迫した状況が続いている。 詩編93編1節後半に書かれたような、「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。」という状況とは、ほど遠いような、現代世界を感じる。。。。。 しかし、私たち一人一人、キリスト者として、堅固な世界など存在せず、本当に心が動揺してしまっているだろうか? この質問は、総督ピラトがイエスに向かって、「お前がユダヤ人の王なのか」と質問したが、つきつめていくと、私たちが「主イエスを、世界の王と信じているか?」という質問を、わたしたちは、問われているように思う。 何を言いたいかというと、3-4節にあるような、大海は大揺れに揺れて、破壊されるような状況も起こるが、その真っ只中で、主イエスが、災難、困難をともに体験しながらも、まったく動じない確固たる主イエスという方がおられることを覚える。たとえテロリストが、どんな破壊活動をしようが、主イエスの憐れみ、主イエスの愛、信仰が礎となり、キリスト者が動じずに、存在することができるように思う。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 聖書日課で今週木曜12日から15日の聖日まで与えられている16編を読もう。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編16 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編16編 1:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。 2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」 3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。 4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」 5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。 6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。 7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、5節にある「主はわたしに与えられた分」という箇所。これはいったいどういう意味だろう?  詩編作者の気持ちを想像しながら、内容を吟味したい。最初に【ミクタム。ダビデの詩。】となっているが、このミクタムという言葉の意味はよくわかっていないので、ヘブライ語で使われる発音にもっとも近いカタカナで表現されている。ミクタムという言葉は、詩編16編のほかに、詩編56編から60編で使われいる。私は、これらの詩編が格言的なことを詠っているので、ミクタムには格言という意味があるのではないかと思っている。さて詩編の内容に入るが、全体としては、ユダヤの礼拝で詠われた讃美歌であり、1節から4節は神への祈願で、5節から11節は、ダビデの体験でありまた後の信仰者たちの体験、証を詠っているように思える。 神よ、あなたを砦とする私を守ってください(1節)。あなた以外には私の幸いはありません(2節)。 この地の聖なる人々、愛する人々に、「あなた以外の神を求めると悲しみが増してしまうので、彼らの祭りは行なわず、彼らの神の名は唱えなません」と言うようにします。(3-4節)。  主は私の一部分になってくださっていて、喜びの杯をくださり、私のすべての礎になってくださっている方(5節)。麗しい境界が示され、私にすばらしい土地を与えてくださった(6節)。 私を励まし、夜には私を諭してくださる主を賛美します(7節)。常に主がともにいてくださるので、私は動揺しません(8節)。だから喜びがあり、魂は踊り、望みをいだきつつ体は憩うことができる(9節)。聖なる主は決して、私の魂を死者の世界に送ってしまうことはなく、墓穴を見させず(10節)、命の道を示してくださる。あなたの存在により喜び満ち、あなたの右の手から永遠の喜びをいただきます(11節)。 さて詩編16編は、今日、私たちに何を語ってくれているのだろうか? 三点ほど、気付かされたことを書いておきたい。 一点目は、上記に5節の「主はわたしに与えられた分」とは、どういう意味か?と書いたが、つきつめていくと、「主が私の一部になってくださっている。」ということを、気付かされた。二点目は、私の友人で、特にキリスト教信者だとは本人は宣言していないが、キリスト教の大学を出て聖書の話しなども聞いていたのだと思う。その方は、起業して活躍しているが、自分が歩む道、仕事がうまく行くときも、困難なときも、自分の横に、もう一人の自分がいる。そのもう一人の自分がいるおかげで、自分は前に進んでいくことができる、と言われる。私には、「もう一人の自分」とは、自分の一部になってくださっている、主なるお方で、詩編16編の後半の証と同じことを語っているように思える。三点目は、そのお方、いつの時代になっても、私たち人間一人一人に、付き添ってくださっている方に感謝し、主を称賛し、いっしょに歩む人生を生きる中で、喜劇的なこと、悲劇的なこと、世の不条理をも味わうことがあろうが、喜びの人生の道を歩むことができる。 アーメン  安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週後半は146編が与えらているが、最近読んだこともあり、あえて来週11月9日から11日まで与えられている詩編94編を読もう。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編94 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。来る聖日に与えられている福音書はマルコ12章38-44節で、生活費のすべてを賽銭箱に捧げる未亡人の話。その箇所を振り返りながら、詩編94 編を読むのも良い。  詩編94編 1:主よ、報復の神として/報復の神として顕現し 2:全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。 3:主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。 4:彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。 5:主よ、彼らはあなたの民を砕き/あなたの嗣業を苦しめています。 6:やもめや寄留の民を殺し/みなしごを虐殺します。 7:そして、彼らは言います/「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。 8:民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。9:耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。 10:人間に知識を与え、国々を諭す方に/論じることができないとでもいうのか。 11:主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。 12:いかに幸いなことでしょう/主よ、あなたに諭され/あなたの律法を教えていただく人は。 13:その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。 14:主は御自分の民を決しておろそかになさらず/御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。 15:正しい裁きは再び確立し/心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。 16:災いをもたらす者に対して/わたしのために立ち向かい/悪を行う者に対して/わたしに代わって立つ人があるでしょうか。 17:主がわたしの助けとなってくださらなければ/わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。 18:「足がよろめく」とわたしが言ったとき/主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。 19:わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました。 20:破滅をもたらすのみの王座/掟を悪用して労苦を作り出すような者が/あなたの味方となりえましょうか。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、21節の「彼らは一団となって神に従う人の命をねらい/神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。」という言葉。  詩編作者の気持ちを想像しながら、内容を吟味したいが、長いので、三つのブロックに分けて記述してみたい。まず1-7節では、「主よ顕現して誇る者を罰してください」と詠う(1-2節)。その背景には、申命記には24:17-20などには、はっきり、寡婦、孤児、寄留者を大切にするようにという掟がありながら、それを守らない世の指導者、「神は見ていない」という最悪の指導者がいたのだろう(3-7節)。 続いて8-15節では、「神は見ていない」という者たちへの応答を詠っているようだ。愚かな者たちよ、耳や目を創造した神が、見えないわけがあろうか、人間の企てはいかにむなしいかを、主はわかっている(8-11節)。主に教えられ、律法を守るものは幸せ、苦難がおそっても、神は決してそのような民を見捨てることはない(12-15節)。 最後の16-23節では、神が砦となってくださるということがポイントのようだ。災いをもたらそうとする者に対して、主が助けとなってくださる、足がよろめきそうなときに主の慈しみに支えられ、思い煩うときに、主の慰めが、魂をうるおす(16-19節)。主は決して、破滅をもたらそうとする者の味方にはならないが、彼らは一段となって神に従う人々を苦しめる20-21節)。 主はかならず私たちの砦、岩となってくださる、どうか彼らに悪に報いとなり、彼らを滅ぼしてください(22-23節)。 さて現代の私たちに何を語ってくれているのだろうか? 三つほどポイントがあると思う。 一つ目は、神が裁かれるということ、ローマ人への手紙12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」に通じるものがある。二つ目は、神に従うものは、苦しみを受けるということ。それはイエスキリストがまさにそうであるし、さらに、イエスに従うものも、実際、そうであることは否めない。上記にインパクトのある言葉として挙げた21節の言葉は、日本のキリスト教信仰者は、たいへんな迫害を受けたことにも通じていると思う。そして三つ目は、神が砦となってくださる信仰こそ最強のもの。特にイエスキリスト以降の時代は、キリストを主とする信仰こそ岩であり、キリスト信仰を土台にして生きることで、どんな困難にも絶えられ、それが楽しく喜びあふれる、永遠の命につながってくる。  アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は10 月29日から11月1日まで、聖書日課に与えられている詩編119編1-8節を読もう。 いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編119編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。来る聖日は復活ルーテル教会では日本語宣教が始って27周年の記念礼拝となる。姉妹教会の大江教会・立野牧師に説教をお願いしているが、与えられている福音書はマルコ12章28-34節で、当時のユダヤ教の指導者とイエスの「最も大切な掟」に関する問答。その問答の中で、「神を愛し、隣人を愛する」というこの二つが最も大切な掟であることが明らかになるが、そのようなことも考えながら、この詩編が現代の私たちに語りかけてくることについて観想しよう。  詩編 119編 1:いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。 2:いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 3:彼らは決して不正を行わず/主の道を歩みます。 4:あなたは仰せになりました/あなたの命令を固く守るように、と。 5:わたしの道が確かになることを願います/あなたの掟を守るために。 6:そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても/恥じ入ることがないでしょう。 7:あなたの正しい裁きを学び/まっすぐな心であなたに感謝します。 8:あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 「いかに幸いなことでしょう」と言葉で1-2節とも始っているが、私にとっては、3節の「主の道を歩みます」という言葉。 過去数週間にわたって、聖日の福音書は、マルコ9章以降を拝読してきているが、主イエスに従うこと、主イエスの道を歩むことはどういうことが、一つの大きなテーマとなっており、この詩編119編で詠われる「主の道を歩む」ことに興味を抱く。   詩編作者の気持ちを想像しながら、1-8節の内容を吟味したい。8節までに詠われていることを簡潔に一文で書いてしまえば、「幸いとは主の律法を守って、主の道を歩むこと。」となるのかと思う。 詩編では、様々な言葉を使って、主の道を歩むことがどういうことかを表現している。 「まったき道を踏む(1節)」、「心を尽くして主の定めを尋ねる(2節)」、「決して不正を行なわない(3節)」、「あなたの命令を固く守る(4節)」、「あなたの掟を守る(5節)」、「あなたの裁きを学ぶ、まっすぐな心であなたに感謝する(7節)」という言葉が、きれいに並べられているように感じる。 そして8節は、「あなたの掟を守ります」という誓いの言葉と、「どうか、お見捨てにならないでください。」という嘆願で終わっている。 詩編作者は、この誓いの言葉と、赦しを請うような言葉を詠うことになったかを思うと、おそらく詩編作者に、主の道を歩みきれないような過去があったように思える。6節では「どの戒めに照らしても、恥じ入ることがないでしょう」と詠っているが、詩編作者が、主の道を歩みきれないがために、自分自身が恥ずかしくてしょうがないような状況があったような状況が見えてくる。  与えられた詩編119編1-8節は、これを読む現代の私たちに何を語ってくれているのだろうか? 冒頭に書いたように、聖日に与えられている福音書箇所とのかねあいから考えたい。 与えられた福音書では、律法学者は「もっとも大切な掟は何か」ということが、議論になっており、いわば、頭で大切な掟は何か焦点にしようとしている。それに対して、この詩編作者が詠っていたことは、律法の内容が何なのか、とか、最も大切な掟は何かということは、一切触れていない。モーセ五書に書かれていた掟の数は600以上にも上っていても、ユダヤ教徒とし十戒とそれ以外の数々の律法の内容を把握するしていることが、当たり前だったのかもしれない。そして、詩編作者が強調して詠っているのは、律法を守って、行動・実行することの大切さを、教えてくれているように思う。 現代の私たちも、十戒は学ぶにしても、いちいち、600の律法の内容を細かく吟味することは稀。今日の詩編は、イエス様が語ってくださった、「主を愛し、隣人を愛する」というこの二つの掟を、頭で理解するということが最も大切というわけではなく、この二つの掟を守って、行動することが、最も大切であると、主は語られているように思う。「主を愛しなさい、隣人を愛しなさい」を実行に移そう。それが「幸せ」なのだ。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は22日から25日まで、聖書日課に与えられている詩編126編を読む。6節だけの短い詩編なので、繰り返し何度か読もう。そして、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編126編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。特に、来る聖日はルーテル教会では宗教改革記念日となるが、福音書として、バルティマイという盲人がイエスに「憐れんでください」と嘆願し、目が見えるようになる話が読まれる。そのようなことを考えながら、じっくり、この詩編が現代の私たちに語りかけていることを観想したい。 詩編126編 1: 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。 2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。 4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。 5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、2節、5節、6節に繰り返された「喜びの歌」という言葉。  詩編作者の気持ちになって一節づつ読んでいきたいが、この詩編の書かれた時代を想像してみる。英語に訳されたものを読むと明らかになったが(1節から3節は過去形、4-6節は現在形の願い・祈り)。つまり、1-3節ではバビロン捕囚から見事に解放された時のことを過去のすばらしい体験として詠っているようだ。そして、6世紀以降に起るであろう、何かの困難に直面した時が来ようが、主に頼ることが鍵であり、どんな困難からも解放が、そして喜びが訪れるという希望・祈りが 詠われているように思う。一節づつ振り返ってみたい。主がバビロンに捕らわれていた民をまたイスラエルに連れ戻してくださると聞き、民は夢を見ているような気分となった(1節)。その時に、民には笑い、喜びが満ち、他の国々さえも「主なる神が偉業をなされた」と言った(2節)。主は、わたしたちのために大きな業を成し遂げてくださったと私たちは喜び祝った(3節)。主よ、ネゲブ砂漠に川の流れを導くかのように、新たに捕われてしまう私たちを解放してください(4節)。涙ながら種を蒔く人は喜んで刈り入れる時が来ますように(5節)。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人が、束ねた穂を背負い喜んでうたいながら帰ってくることができますように(6節)。 与えられた詩編146編は、これを読む現代の人々に何を語ってくれているのだろうか? 冒頭に書いたように、聖日に与えられている福音書は、目が見えなかったバルティマイが、見えるようになる話。いわば、目がみえないという事実に捕らわれていた盲人に、解放が訪れたことを振り返る。1-3節では、現代に生きる私たちが、いかに、主なるイエスにより、解放が訪れたことを振り返るように導いているのではないだろうか?また後半の4-6節では、現代に生きる私たちも、将来の世代だって、さまざまな困難に直面する。自分の力ではどうしようもない困難を体験する。 しかし、主なる神がご自身で創造されたすべての民を愛してくださっており、困難を体験する人々が、主なる神にひたすら憐れみを求めることができ、信仰によって、かならず解放は訪れる。また種まきをする人と種を運ぶ人、それが収穫の時期には、大勢の人が収穫の喜びを味わえるように、その解放とは、個人的に一人一人の中でも訪れるし、教会という人々の集まりの中でも現実のものとなる。 そして、その恵み深い体験が、周辺の人々にも、大きなインパクトを与えることになる。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は90編9節から16節を読もう。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに、この詩編を通して何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編90編 9:あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。 10:あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。 11:主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。 12:彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。 13:あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。 14:「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 15:彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。 16:生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」 出張中のため、牧師のコメントは、以下ごく簡潔にまとめます。 インパクトのある言葉: 9節の「あなたは主をさけどころとし、いと高き神を宿るところとした。」 詩編作者の気持ちを思うと、ダビデが、また後の神の子イエスが現われることも預言を受けていたのだろうかと思う。ダビデ(そして後のイエスも)徹底的に主を避けどころとして、生きるがゆえ、どんな困難をも、神によって、通り抜けていくことができた(できる)。 観想: 神は現代の私たちに、徹底的に主に頼って、つまり、神/そのひとり子・イエスに在る信仰を持って、今の世も生きるように、導いている。 かといって、どんな無茶なことをしても、だいじょうぶという意味ではない。 あえていうなら、信仰をもって生きるなかで、どんな困難に遭遇することがあったとしても、だいじょうぶということ。  アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2015年10月8日 詩編を読もう:神の御業を仰げ (詩編90編12-17節) 今週は10 月8 日から4日間にわたり聖書日課に与えられている詩編90編の後半12-17節を読む。いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考えたいと思うが、昨年11月に1節から12節までをとりあげたが、前半に何が書いてあったかも、さっと振り返りたいと思う。そして神はこの詩編箇所を通して、現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編90編 12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。 13:主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。 14:朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。 15:あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。 16:あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。 17:わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。 気になる言葉やインパクトのある言葉としては、「私たちの手の働きを、確かなものに」という願いが二回強調されていること。    詩編作者の立場を思って詩編90編を読んでいきたいが、1節から11節までには、どんなことが書いてあったか、ざっと振り返る。まず1節には【祈り。神の人モーセの詩。】となっていた。モーセの生涯を思って、後世の一人の詩編作者が詠んだものと思われる。2節から11節は、神は永遠という単位におられ、山や大地が生まれる前からおられる、それに比べれば、1000年といえども、一夜のごとく。ましてや一人の生きる70年ほどの期間は短いが、それでも私たちの罪はあらわとなり、労苦と災いのうちに過ぎ、神の怒りに気づかされる。 モーセにとっては、出エジプト以降、カナンに到着直前までの40年の日々に、民が神の思いに反する行いをし、本当に厳しい年月であったことを振り返っているように思える。 だから、生涯の日々を正しく数え、知恵(主を畏れる心)を得られますように(12節)。主よ、怒りのままでおられることなく、お戻りください。いつまで私たちを見放しておられるのですか、主の僕を励ましてください(13節)。朝には主の慈しみで満たして、(これから生きる世代の生涯は)、喜び歌い、祝うことができるように(14節)。主が民を苦しめられた日々、年月を思い返し、喜びを返してください(15節)。主の民があなたの業がすばらしいものであることに気付き、次世代のものたちが、あなたの光を仰げますように(17節)。主の喜びが、民の上に注がれ、私たちの手の働きがあなたの御旨にかなう確かなものとなりますように。 さて、与えられた詩編箇所を振り返るなかで、今、神が私たちに何を語られようとしているか、現代にあって、どういう意味を持っているのかを考えたい。数週間前には、栃木県周辺では大洪水が起こり、今週は北海道で大型台風が襲っており、今週はアメリカ東部では、洪水でたいへんなことになっている。このような時代、神の怒りだといわれる方がいたりする。私には、本当に神が怒っておられるかどうかはわからない。 今週火曜と水曜の二日間だけ、教会の新しいリーダ育成のためのカンファレンスがあり、バークレーの神学校まで出張していた。東部の各地で起こっている洪水等のため、参加予定の方で来れない方々がいた。 また、サウスカロライナからなんとかかけつけることができた牧師は、教会員の方々で、洪水の被害に会われている方がいるとのことで、教会のスタッフや、教会員の方々となんども電話連絡をとりあっていた。それでも、研修会のディスカッションにもよく参加されていた。さらに、彼の結婚相手は、ハーフジャパニーズで、彼の義理の母は熱海で育ちとのことで、私に親しく話しかけたりしてくれた。彼が指を動かし、電話をかけていたその相手は、洪水の真っ只中に置かれている町に住む人々。それを思うと、彼からの暖かい語りかけがどんなに心強いものか、想像がつく。教会、主イエスの体、に仕える者の手が、主の御旨にかなって、どんな状況の中でも、神の愛が、主を畏れる者に伝わり、主の御業を仰ぐものに、主の威光が照らされているのだと思う。 アーメン 安達均   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は10 月1 日から4日間にわたり聖書日課に与えられている詩編8編を読もう。詩編8編は、去年と一昨年の三位一体主日の頃、また、今年の元旦の頃にも取りあげられた。したがって、詩編を読もうで取りあげるのは、今回で4回目になる。何回読んでも含蓄のある詩編だと思う。今回は、10月4日に与えられているマルコ10章2-16節で離縁のことがとりあげられているが、そのことにも触れたいと思う。いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して、さらにマルコ10章のことも加味しつつ、現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編8編 1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。 4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 8:羊も牛も、野の獣も 9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。 10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。  気になる言葉やインパクトのある言葉としては、私の場合は特に5節の中の、「人間は何ものなのでしょう。人の子はなにものなのでしょう。」という言葉。    詩編作者の立場を思って詩編8編を読んでいきたいが、1節は合唱・演奏するにあたっての説明。ギティトとは、以前きまったメロディと書いたが、琴のような楽器という説もある。2節の前半は、「主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている。」と詠っている。 同じ言葉が、最後の10節にも詠われて、詩編8編が終わる。 その言葉にサンドイッチされる中身は「天に輝くあなたの以降をたたえます。」という賛美から始る(2節後半)。全能の神が、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって、神に刃向かう者から砦を築いて守り、報復する者を絶ち滅ぼす(3節)。 天を仰ぐなら、月も星もすべてあなたが配置されたもの(4節)。とてつもない広い全地と天(宇宙)のなかで、主が人間に御心を留めてくださっているとは、いったい人間とは、人の子とは、何者なのでしょうか(5節)。あなたは人間を、神より少し劣るものとして創られ、栄光と威光をかぶらせ、この地に主が創られた、動物たちも鳥たちも、すべてのものを、支配するようにしました(6-9節)。 主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている(10節)。 さて、詩編8編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。この詩編の1節を除く2節から10節の詩の部分でその中央にあたる5節の言葉に「人の子」と出てくる。新約聖書を読む私たちは、ここで、「イエスのこと」とピンと来るが、この詩編はイエスが顕われる500年以上昔に、歌われ始めていた。だとすると、イエスが顕われる前から、救い主イエスが見え隠れしていたような時代があったことを思わせる。 先週の日曜は、カリフォルニアで夜8時近くに、満月が月食となり、月が見え隠れするような気がしたが、月の光って、あるいは太陽から出てくる光って、いったい何なんだろうと考えさせられた。究極的には、神と神の子、この世に顕われる人の子とは何ものなのか、について考えさせる。そして、詩編8編の「人の子は何ものなのか」の前には、「人間は何ものなのか」という問いは、神から愛されているある特定の人を指しているわけではなく、神がこよなく愛される人間全体、人と人の関係というものがどういうものなのかを問われているように思う。 冒頭に述べたように、4日の聖日に与えられている聖書は、マルコ10章。ファリサイ人が離縁について質問しているが、イエスの感心は、離縁や離婚より大きなスケールで、人と人との関係のあり方について、示唆を与える事にあるように思う。つまり、この詩編8編で中心となった、「人間は何ものか、人の子は何ものか」について、マルコ10章2-16節で応答しているような面がある。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace