Tweet 3月19日(日) ヨハネ4:5-42 サマリア人とイエスの会話、この長い箇所を今一度読んでいかがだろうか。サマリア人社会はユダヤ人から差別を受けていた中で、しかも、その社会の中でも疎外されてしまっていた女性が、救い主イエスの強力な伝道者になっている。 3月21日(火) 第一コリント 10:1-4 「偶像への礼拝に対する警告」と書かれた22節からなる箇所の最初の4節だけを読む。 「霊的な岩」こそキリストとのこと。 霊的な岩とはどういうことを言っているのだろうか? 旧約聖書で、ユダヤの民が出エジプトの際に体験した霊的な食べ物や水とも関連があるし、上述のヨハネ4章のなかでイエスがサマリア人へ語っていた、「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。」と語られたあと、イエスが自分がメシアとの宣言もされている。 礼拝堂にマリア像があったり、極端な例は、十字架がかざってあったりしても、それらを偶像だという方がいて、ちょっとびっくりしたことがあった。 マリア像をおいているカトリック教会や、十字架をおいているほとんどすべてのキリスト教会は偶像礼拝をしているのだろうか? すべてか、どこにでもおられる父と子と聖霊なるお方を礼拝するのに、マリア像も十字架も大きな意味があるように思えるのだが。 3月22日(水) ヨハネ7:14-31 37-39 今週は水曜のスープサパーの後の礼拝で読まれる水曜の聖書日課にある福音書を読んでおきたい。14-31節は、ユダヤ人たちとイエスのやりとり。 そこで、メシアがイエスかどうかが焦点になっている。 そして、37-39節では、「渇いている人はわたしのところに来て飲みなさい。」と日本語に訳されているが、イエスはこの時すでに、「わたしを飲みなさい」とさえ言っておられたと訳せると思う。 いつか私の友人の一人に、こんな方がいる。自分の子供たちがまだ幼いころ、家族の面前で自分の父親が自分の母親を銃でうち、しかも、父親自身も自殺したという方がいる。そんな状況から彼女がどう立ち直れたか、彼女は「私はイエスの血で救われた。」とはっきり言われる。人知を超えた、イエスというお方の恵みの業を覚える。 3月26日(日) ヨハネ 9:1-41 次週の日曜日も、福音書箇所が長い。 長いのには、それなりに理由があってそうなっているのだろう。 イエスが、目の見えなかった者を見えるようにする。 その出来事を通して、ユダヤ教社会で「イエスが神のもとから来た方かどうか」に関する分裂がおきてしまう。 何十年もまえのことだが、すべての宗教は、イエスを神(世の救い主)としているかどうかに分けられるのではないかと考えた。 いまそのことを思い起こして、黙想している。 この問題は長い時間が流れていくなかで、この世に生まれた人々が考え続けて、何世代、何十世代、何百世代もたって、社会が落ち着くのかと思う。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週も与えられた聖書箇所を読み、思いを巡らせる中で、主の御心、思いが、皆様方の心の中に染み渡りますように。 2月12日(日) マタイ5:21-37 先週は、聖書を文字通り読む事の怖さを観想として書いた。文字通り読み実際にその通り生きていたら、手を切り取る人が、あるいは目をえぐり出す人がいくらでも出てしまうだろう。ではどう読んだらよいのだうか?大きな視点は聖書全体が神からのラブレターと言っても良いのだと思う。そして神が人間を愛してくださっているように人間が互いに許し合い、愛し合うという視点が聖書の根底にあることを覚えて読むことの大切さを感じる。そのように読めば、この箇所も文字通り読むこととは違った視点が見えてくるのではないだろうか。 2月13日(月) ヤコブ1:2-8 何かつらい事があっても、試練であり忍耐を増す機会なのだと理解すると、喜びがわいてこないだろうか。 3月1日からはレントとなる。今年のレント、控える物/事をしっかり決めて、試練の時、喜びの時となりますように。 2月19日(日) マタイ5:38-48 自分を迫害する者とか敵とはいったい誰のことを言っているのだろう。キリスト教会の歴史は大きな迫害に耐えてきた事実がある。現代の日本人の社会では当時のような迫害はないものの、しかしキリスト教会を毛嫌いする人々、心の底でキリスト教徒を憎む人々もいる。与えられている聖書箇所から、そういう方々にも、神の愛は注がれていることを覚えたい。 2月16日(木) 出エジプト 22:21-27 週の後半に与えられているどの旧約聖書箇所も、19日に与えられるマタイ福音書5章38節以下でイエスが述べることと関係してきていることを感じる。 とくに、ここに挙げる出エジプト22章の箇所の中で、26節の「わたしは憐れみ深いからである。」という言葉と、マタイ5章45節でイエスが「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」と言われたことが、共振して響いてくるように思う。 イエスが語られたことは、さまざまな旧約聖書の言葉を、より意味深いものにしてくださる面がある。 2月19日は10時のバイリンガル礼拝と、ミニジャパンフェスティバルの予定です。主なる神の慈しみが、いたるところに示されますように! 恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2月5日(日) マタイ5: 13-20 5日の説教では、イエスの語る律法について少し語ったが、深く触れなかった。イエスは律法を決して軽視していない。 その重要性は多いにある。 ルーテル教会で、もの心がついたものが洗礼を受けるときには、マルチンルターの書いた小教理問答集を学ぶことを勧めている。 その問答集でいちばん最初に学ぶことは、十戒である。 十戒には、最初の三つの戒めに神との愛の関係が、後半七つの戒めは隣人との愛の関係が書いてあるともいえる。十戒無しには、キリスト教会もユダヤ教会も、また社会もなりたたないくらいに、重要なのだと思う。 2月6日(月) ローマ 11:2-10 ローマ書9章から11章はとくにユダヤ人について書かれている。とくにこの箇所は、律法が第一主義になってしまい、律法に基づいた行いこそが救いに結びつくかのごとくに考えてしまう、つまりつまづいてしまうユダヤ人を表しているように思える。 2月12日(日) マタイ5:21-37 この福音書箇所、「えっ、そんな、イエスさま厳しすぎます。とても、そんなこと守れません。」といいたくなってしまう。しかし、考えようによっては、イエス様が本当におっしゃりたいことは、文字通りに厳しいことをおっしゃりたいのではないのでは。。。聖書の言葉というのは文字通り読むことは危険ですらあるのだと思う。こういう話があった:救急車がかけつけたところ、ある人が腕を切り落とそうとしていた。そして、その横にはマタイ福音書の5章のこの箇所が開かれた聖書がおいてあったそうだ。 2月11日(土) 申命記 30:1-9 週の後半の旧約聖書は、創世記、レビ記、そしてここにあげる申命記からだが、どこも戒めを守ることの大切さが強調されているように思う。 しかし、本当に強調されていることは、子孫等へ「心をつくし、精神をつくし、あなたの神、主を愛させる」という戒めを守ることなのかと思う。 それは、「律法を守る行いに徹する」こととは異なる。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 先週、インドネシアに出張しており掲載が遅れ申し訳ありません。 1月29日(日) マタイ5:1-12 イエスに従い始めた弟子たちはもちろん、当時のローマの圧力に生活苦を強いられ、その副作用ともいうべき病や怪我を負っていた人々にとっても、当時のさまざまな困難が天では報われるという言葉が、どんなにか希望につながった事だろうか。現代の私たちには想像しきれないほどの癒し、励ましがあったのかと思う。いま一度、この山上の垂訓を読み返す時、現代の私たちがおかれているさまざまな状況に対しても、どれだけ主が愛してくださり、たとえこの世の苦労が多くても、天では報われるという普遍的な喜び、希望を持てるように思う。 1月31日(日) ヤコブ5:1-5 山上の垂訓の言葉の裏を返せば、つまり富んでいるものたち、さらに言ってしまえば多くの困難を強いられている者たちのわずかな収入から高率の税金を取り上げて生きているような人々を思うと、彼らは天ではどれだけひどいことになることかをヤコブはつづっている。マルチンルターがヤコブ書をかなり非難していた。わたしは、ヤコブが他の箇所で「行動によって救われる」ような事を書いていたので非難しているのだとばかり思っていた。今日新たにこの箇所を読むとき、マルチンルターは、ヤコブ書のこのような箇所も好きにはなれなかったのかと思う。 2月5日(日) マタイ5:13-20 1月29日の山上の垂訓の続き。有名な、キリストの弟子たちが、地の塩と世の光にたとえられる話。 じっくり考えるとき、世の光の部分は、ともし火をそのスタンドの下におくものではなく上におくものというたとえは文字通りわかりやすいと思う。いっぽう地の塩に関するたとえは、奥が深い。 2月2日(木) 申命記4:1-14 イエスは山上の垂訓の続きの中で「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と語られるが、申命記4章には、その根拠があるように思う。 もともとはモーセがシナイ山で神から聴いた言葉、十戒が二枚の石に記されたこと。その掟は、いつの世もどんな世界でも、決して消えないことを覚える。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet あっという間に一月も終盤に入ってきている。 先週は新大統領も就任し、いろいろな心中おだやかではなく、不安を覚える人々も多いのかと思う。 御言葉を読み、思いを巡らすなかで、心に平安を覚えることができますように! 1月22日(日)マタイ4:12-23 アンデレ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネがいとも簡単にイエスに従っている様子。まだまだキリスト教がマイノリティである現代の日本人社会では、キリスト教の信者になるかどうかは、最初の4人の弟子のように簡単に決断できるものではないと思う。 しかし、当時のユダヤの社会状況は、あまりにも外国勢力、ローマ帝国からの圧迫がひどく、だれもがその日暮らしのような社会にあって、彼等が漁師という職業をやめてイエスに従う決心がついたのもわかる気がする。 さて、エネルギーにしてもさまざまな生活必需品にしても日本社会は世界貿易の故に成り立っているということは小学校時代から学んだ。しかし、その自由貿易主義の潮流が変わりつつありそうな状況で、一人一人の日本人、またどこの国・文化に生きる人であっても、何をよりどころに生きるかが一大事になってきているように感じる。 1月24日(火)フィリピ2:12-18 パウロの獄中書簡と言われるものの一つがフィリピの信徒への手紙。 この短い聖書箇所を読んでどんな気持ちになるだろうか? キリスト教への迫害はますます強まり、「よこしまな曲がった時代の中で」と表現されるような時代で、パウロ自身はたとえ獄中にいても、「わたしといっしょに喜びなさい」と結んでいるこの段落の言葉は、読んだ者に平安・希望、そしてまさに喜びをもたらしたように想像する。その同じ言葉が、現代の世界情勢を考えても、またさまざまな個人的な家族事情の変化や混乱の中でも、それぞれの場で、恵み深き主の愛が注がれる実感を覚えることができるのではないだろうか。 1月29日(日)マタイ5:1-12 イエスの「山上の垂訓」と呼ばれる箇所。 英語では、Beatitude とも言われ、「幸い」とは何かということについて考えさせる。 当時、旧約聖書の詩編などの教えが浸透していたユダヤ人社会にあって、詩編一編などからも想像できる「律法を守るものが幸い」ととらえられていた。 イエスの「霊的に貧しいものが幸い」という言葉は、一見、正反対のようで、あまりにも予想を反する言葉で、大笑いして噴き出しそうな言葉ではなかったかと思う。 さまざまな困難に直面している者も幸いなのだと説く、教えを通して、現代の私たちにも、神の御心が迫ってくる。 1月28日(土)ミカ3:1-4 週後半の旧約聖書は申命記から二箇所とミカから一箇所。 申命記というとやはり律法の大切さが述べられていることが多い。 そしてミカでは善悪という表現が出てくる。 社会の指導者たちが、善を憎み、悪を愛するものになってくることを預言している。 数百年後にイスラエルを統治する指導者たちを語っていたかのように思える。 4節はそれに主は答えず、指導者たちの悪ゆえに、御顔を隠すという。 悪、よこしまな世界の中で、主イエスが無抵抗のまま、十字架に架かられることとも関係しているのか? Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ここのところ、南カリフォルニアは恵みの雨ではありますが、どうぞ運転にはくれぐれもお気をつけて。 以下、聖書観想、配布している聖書日課に沿って御言葉を聞き、また礼拝をふり返り、次週の礼拝に備えるためにもお役立てください。 1月15日(日)ヨハネ1:29-42 ヨヘネの弟子だったアンデレはすぐにイエスについて行った。さらに初対面のイエスの滞在先に、いっしょに泊まる。 そして、翌日には、ペトロに「メシアに会った」とまで言うことができてしまう。 ヨハネから「世の罪をとりのぞく神の小羊」と聞いて起こした行動とはいえ、アンデレ(ともう一人の弟子)の反応には少々極端(決して過激という意味ではなく)な面があるように思うがどうだろうか。人の行動を極端にまで変えてしまうイエスの力が見える。その力が、現代に生きる人々にも働いていることを覚える。 1月16日(月)使徒言行録8:26-40 旧約聖書イザヤ書を読んでいた、異邦の国、エジプトの女王に仕える宦官。イエスの弟子フィリポの手引きを受け、イザヤが何の抵抗もなく屠られていく羊は、イエスのことだったことがわかる。その途端に、宦官は洗礼を受ける(これも極端といえるかも)ことになる。 この話しは、ヨハネがなぜイエスを神の子羊と呼んだかということと結びついている。さらにいうならば、新約聖書に書かれていることは、旧約にことごとく関係している。 1月22日(日)マタイ4:12-23 15日のヨハネが伝えた最初の弟子たちの話しを、マタイはやや異なった話として伝えている。ヨハネ福音書ではアンデレともう一人の名前があきらかにされていない弟子が二人でイエスに従ったが、マタイでは、名前のあきらかにされていない弟子は登場していない。 アンデレとペトロが同時に、しかも、すぐにイエスに従っている。 また同じように、ヤコブとヨハネ兄弟もすぐにイエスに従っている。 ここでも極端な行動に出てしまう弟子たちの姿があり、イエスの神の力が大きく関与しているのだろう。 1月21日(土)サムエル上15:34-16:13 週の後半の旧約聖書は、サムエル記の上から。 士師がリーダとなってイスラエルに仕えた時代から、王が指揮をとる時代に移行して行く。最後の士師はサムエル、最初の王はサウルが任命されるが、好ましくなく、神の霊は激しくダビデに注がれることになる(16章13節)。 その様子は、イエスが洗礼を受けたときの状況にも重なってくる面がある。 またイエスの12弟子たちにも、聖霊が激しく働き、さらに、同じ聖霊の力は、現代のキリストに仕えるものにも、激しく働いていることは、事実なのだと思う。 聖霊の働きが、復活ルーテルの上にも、また、復活ルーテルに集う一人一人の家族、親戚の上に豊かに注がれますように! 恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 日曜日からはじまった週の前半をふり返り、来週の日曜日の礼拝に向けて、身も心も整えられますように! 1月8日(日) マタイ3:13-17 マタイ福音書に描写されたイエスの洗礼の様子を今一度、読んでいかがだろうか? 引き続き、神の御心により、洗礼を受けられる方々の準備が整うように祈る。 マタイが伝えているイエスの洗礼では、天が開けて、神の霊がはとのように自分に降ってくるのを見たのは、イエスご自身である。 霊の降臨を洗礼のときに、イエスはご覧になれる。 洗礼の秘儀を感じる。 洗礼の場に立ち会うものは、それを信仰をもって見守る。 1月9日(月)使徒10:44-48 イエスの復活、昇天、そして聖霊降臨後、弟子たちの伝道活動がはじまった。その活動の多くが、使徒原稿禄に記されている。 まだまだ、ユダヤ人の異邦人に対する差別意識が強かったことが想像できる。 しかし、主は分け隔てをされず、聖霊がユダヤ人異邦人に関係なく、注がれることがわかっていくようになる。 神が分け隔てをされない、そしてそれに従うように導いておられることは、現代においても進行中のことなのだと思う。 1月15日(日)ヨハネ1:29-42 12弟子の中で、ペトロの兄弟であるアンデレと名前が明らかにされていないもう一人の弟子の二人が最初にイエスに従った。アンデレは翌日兄弟であるペトロをイエスに紹介し、イエスの弟子になっている。 アンデレとペトロが兄弟であることは明確だが、いったいどちらが兄でどちらが弟であるかは、明確ではない。 あと、名前が明らかにされていない弟子が、アンデレとともに、最初にイエスに従っていることも興味深い。 1月13日(金)創世記27:30-38 兄弟といえば、ユダヤ人先祖のイサクの息子たち、双子のエサウとヤコブだったが、旧約聖書ではエサウが兄でヤコブが弟であることは明確。またさらに、弟のヤコブが嘘をついてまで、年老いて目のよく見えない父をだましてエサウになりかわり、長子の権利をうばう。歴史上最初のオレオレ詐欺とも言われる。。。与えられた聖書箇所は、だまされたことに気づき体を震わせる父イサクと悲痛な叫びあげて泣く長子エサウの様子。 恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 謹賀新年 今年からは、聖書日課が皆様に少しでも意味深いものになりますよう、聖書観想と題して、週半ばに以下のような、聖書を読んで思い巡らしたことを載せます。 週のはじめに与えられた福音書をふりかえり、また翌週の聖日の福音書に、そしてさらに礼拝へと思いを寄せる機会になりますように。 安達均 1月1日(日) マタイ2:13-23 降誕節(12月25日から1月6日の顕現日まで)に、今一度、イエスがイスラエルとエジプトを往復したときのイエスの様子を読んでいかがだろうか。 紀元前17世紀ごろにイスラエルの民がエジプトに行き、13世紀ごろにエジプトから戻ってきたことを思い浮かべる。 また現代は国を特定しにくいが、主に中東の難民がヨーロッパに、また世界中で人類の大移動がコンスタントに起こっているといえる。 その困難な移動のまっただなかに、愛と慈しみを持って、「創造主を愛し、そして互いに愛し合いなさい」と大合唱している天使たちの存在が見えるような気がする。 1月3日(火)ヘブライ11:13-22 聖書日課ではヘブライ人への手紙11章を月曜から木曜にかけて読むことになっているが、「信仰によって」という言葉が繰り返され、旧約聖書に登場した主要人物をふり返っている。 13-14節あたりは、信仰ということと、自分の本当の故郷ということを考えさせる。私は12月中に3回のお葬式があり、二人は66歳と56歳というまだ現役牧師だった。もう一人は、とくに洗礼をうけられなかった方だったが、奥様は熱心な信仰者だった。私は、その方が61歳で亡くなる約12時間前にお会いして、お祈りするなかで、言葉にはならなかったが彼の様子に信仰を見たように感じている。そして、慈しみ深い愛なる神に招かれ、みな同じ真の故郷に3人とも召されたと信じている。 1月8日(日) マタイ3:13-17 6日の顕現日をもって降誕節は終わり、レントがはじまるまで(今年は2月の終わりまで)は顕現後の時節となる。 その顕現後の第一の主日は、主の洗礼日と言われ、イエスの洗礼の様子。 今年はマタイ福音書から拝読。 今年はじめて気がついたが、日本語で15節の「止めないで欲しい」と言われるイエスの言葉、NRSVという英語訳を見ると”Let it be so now”となっていた。 ギリシャ語を読んでも、”Let it be”がピンとくる。「そのままにしてください。」に近い言葉だ。 いま3人の方々が洗礼を受けられそうな状況が生まれつつある。 聖霊の吹くままに、洗礼が実現しますように! 1月6 日(金)イザヤ60:1-6 顕現日に与えられる旧約聖書箇所を読み、思いを巡らせたい。 6節に出てくるシェバとは、シェバの女王を思い出すかもしてないが、イスラエルからしてみれば、異邦の国。そこからイエスにきらびやかなギフトを持ってくる博士たちを思い出させる。 1節の「起きよ。光を放て。」には元気づけられる。イエス様自身が光であり、また私たちに対しても、「あなたがたは世の光」とおっしゃってくださったことと重なってくる。 イエスの信仰ゆえに、わたしたちの間に宿られるイエスから照らされる光を、ただそのまま反射するだけで良い。いや、自分で反射しようとしなくても、わたしたちの中に宿ってくださるイエスが輝いてくださる。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace