Tweet 2月15日は合同礼拝で説教は英語のみでしたが、以下に日本語訳を載せます。 安達 イエスに聞くだけでいいの? マルコ9:2-9 18日は灰の水曜日、レント(四旬節)に入る準備は良いだろうか? キリスト教会に通っている方々の間でも、ここカリフォルニアにはあまりにも多くのプロテスタント教会があるため、レントに対する考え方はさまざまなのかと思う。 日本やアジアでは、もっとその文化・宗教の広がりから、レントに対する考えや習慣ももっと広がっていると思う。 私はロシア正教会の家庭で育ったため、レントのことは、日本語では大斎(おおものいみ)という、斎というのはそもそも日本神道で使われていた言葉ではないかと思う。 また「物忌み」という言葉ともつながっているのだろう。 斎に大がつくわけで、英語なら、Great Lent である。 大騒ぎなのだ。。。 しかし、結婚したころに妻の通っていたプロテスタント教会に行き始めたが、レントに入るからといって、特別なプログラムがあるわけではなく、復活祭当日に、教会の総会があったりして、同じキリスト教会でもこうも違うものかと思った。 ) 正教会の我が家は、祖母はいっさい肉は食べなくなる。 日本ではどちらにしろ、牛肉は高かったので、我が家の食卓でも、レントの期間は、いっさい牛肉は食べなかったと記憶している。ただ、栄養が偏るといけないので、母は豚肉や鶏肉は料理に使っていた。 40日間のレントの期間が過ぎ、復活祭当日は、明け方に礼拝なのだが、我が家は明け方の礼拝がまだ終わらないころから、教会で飲んで食べての祭りとなる。 私がビールや祖母の料理した牛肉のおにしめがこんなにおいしいものだと思ったのは、礼拝がまだ終わらないうちに、ロシア正教会のフェローシップホールでのできごとだった。 さて、今週水曜からレントに入るわけだが、その前の聖日、本日与えられている聖書箇所は、マルコがイエスの変容を伝えている箇所。 聖書箇所は9章からだが、その前、8章の終わりには、イエスが弟子たちにいったい、あなたがたは、この私、イエス自身を何者だというのかと質問している。 一番弟子のペトロは、見事に、「あなたは救い主です。」との言葉をのべる。しかし、イエスがどういう救い主というのは、全然わかっていなかった。 イエスが「私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教えまた、「自分の十字架を担いで、私に従うように。」と言われても、どういうことだがちんぶんかんぷんだった。 それから6日後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山登りにでかける。 頂上付近に来ると、異変がおこる。 まずイエスの状態が真っ白にかわる。 どんなさらし職人が白くしたとしても、それ以上の白さにはなりえないというくらい真っ白だった。 そして、どうしてそれが、モーセとエリヤだとわかったのかは知らないが、とにかく、モーセとエリヤがいっしょにいる。 そして、弟子たちはますますわけがわからなくなっていて、怖くなってペトロは「仮小屋を三つ建てましょう。などと言う。 どうやって建築資材を運ぶのかも考えずに、口からでまかせをいう。 そのような困惑した弟子たちに、「これは私の愛する子。これに聞け。」という天の声が聞こえる。 このこれに聞けということは、ただ、イエスのいうことを耳で聞けばよいということではなく、その前にイエスが語っていた、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従うようにということを、示唆しているように思う。 さて、どうすべきか? 再三言うように、弟子たちは、イエスがこれからどうなってしまうのかはよく理解できなかった。 しかし、歴史を知っており、イエスがどうなってしまったかを知っている現代に生きる私たちは、どうイエスに聞き従っていったらよいのだろうか? ここで、イエスが弟子たちに話したことであり、実際に起こったことを今一度振り返りたい。 イエス自身は、弟子にも、また周囲のものからもうらぎられ死んでしまうということでは終わらなかった。 イエス自らが語っていたように、三日後にはイエスは復活したことを覚えていたい。 水曜からレントに入るが、私たちがわかっていることは、十字架にかかった金曜日、その三日目の日曜には、イエスは復活したことだ。 レントは40日だが、復活のレントの期間の日曜は、40日にカウントしていない。 つまり、レントの期間も日曜は復活の日曜だ。 水曜からレントに入るにあたり、レントの終わりには、イエスの勝利、復活があることを、しっかり心にすえて、イエスに聞き従おう。 今年の復活日は、どんなにか意義深く、また人生の方向性を大きく変える時になるだろうか。 それは、私がはじめて復活祭ではじめてビールや牛肉の味がわかったように、一味違う、復活祭を祝うことができるように、レントの日々、悔い改め、奉仕、奉献の日々があたえられるように! “Listen To and Follow Jesus” Mark 9:2-9 May the Grace and Mercy of the Lord be poured into the hearts of the people in this sanctuary! Are you ready for the season of Lent? Today, four days before we enter into Lent, we celebrate the Transfiguration of our Lord, Jesus Christ. In California, there are so many different Christian denominations, often with different understandings about Lent. If we go to Japan or other Asian countries, the understanding of Lent is even more diverse. Not because of more Christian denominations but because of different additional religions in Asia. Even with these other understandings, there are much more people who do not know anything about Lent. I attended the Asian Lutheran International Conference with Paul Coulter, David and Judy Wiggins, and Fumi Liang two weeks ago. One of the presenters, Professor Paul Rajashekar from Lutheran Theological Seminary in Philadelphia, shared an insight that made me stop and think. He said, “Christianity is not Transformation but Transfiguration.” In Asia, most of the major religions are non-Western, and Christians are living among those different religions. For me, it makes sense to say Christianity is not really Transformation but more Transfiguration among neighbors who practice different religions or different Christian understandings. I would like to share my experiences in Japan. As many of you know, since I was born to and raised in a Russian Orthodox…
February 9th, 2015
2014年2月8日 顕現節第五主日聖餐礼拝説教「おもてなしの心」: “The Heart of Hospitality”
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet 「おもてなしの心」 マルコ1:14-20 主イエスの恵みと平安が、主に導かれて集まった会衆の上に豊かに注がれますように! アーメン どうしてこんなにすばらしいおもてなしができるのだろうか、と言える人にあったことがあるだろうか? あるいはどうしてこの人は、これほどまでに教会に仕えることができるのか? とか。。。 ご承知のように、1月19日にLAを発ち、日本の私の両親に会い、そして日本福音ルーテル教会のいくつかの教会を訪ね、そしてアジアルーテル国際会議出席を主たる目的として、日本とマレーシアを旅行して、2月4日に無事、LAに戻ってきた。旅行中、二人の日本人人質が無残にも殺されるという出来事があり、心中おだやかではない時も多かった。しかし無事に戻れたこと、そして、今回の旅がどんなにか恵み深いもので、また意義深かったかをふりかえる時、感謝の気持ちでいっぱいで、また、留守中の皆様方の奉仕にも、感謝したい。 熊本市内にある大江教会訪問中は、立野牧師はじめ大江教会の皆様から、大歓迎を受けた。 また、大江教会を訪問して説教を担当するだけではなく、ルーテル学院(元九州女学院)、九州学院という二つの名門校、そして慈愛園、それは日本の社会福祉施設として、パイオニアともいえる施設の見学もしてきた。 ちなみに、ルーテル学院では、教育方針として、「感恩奉仕」の心を大切にしていることを知った。その教育方針に従って、すばらしい、「おもてなしの心」が備わった方々が、おもてなしを実践している様子をあちこちで目撃した。 さて、本日の福音書の内容に入っていきたいが、福音書記者マルコによると、イエスはアンデレ、シモン、ヤコブ、ヨハネの4人の弟子たちを連れて、ガリラヤ湖近くのシモンとアンデレの家にやってきた。すると、シモンの家で、しゅうとめが、体調を崩し、熱を出して寝ていた。シモンのしゅうとめは、何もやる気が起こらないどころか、回りがものすごく心配するほどの病状だったのだと思う。 というのは、聖書には、「人々はそのことを、早速イエスに話した。」と書いてある。 当時の医療状況からすれば、もう寝たっきりで、再起不能にもなりかねないような、それほどまでに、回りは心配だったのかと思う。 シモンの妻のことは何も聖書には書かれていないが、シモンが漁師から、12弟子のリーダとなり、のちにカトリック教会の初代総主教になった(それは何百年もたってから決めたことだが)影には、シモンの妻が、すばらしい女性だったのではないかと思う。そしてまた、そのシモンの妻の母親も、すばらしい娘を育てた、人々から愛されていた女性だったのだと想像する。 イエスは、シモンの母が緊急処置を必要としていることを察し、霊に満ちた愛の御手をもって、シモンのしゅうとめの手をとって、彼女を起こした。 すると、大病かと思われていた彼女だが、いっきに熱はさがる。熱が下がるばかりか、集まったイエスとその弟子たちに、たいへんなおもてなしをはじめてしまう。 大病になりかかっていた彼女が、なんでそんな、おもてなし、奉仕をできるようになってしまったかということを考えると、鍵はもちろんイエスにある。単にイエスが手をとって起こしたという行為だけではないのだと思う。 手をとって起こされただけではなく、その貴重な体験に、シモンのしゅうとめは、ひしひしと感じるものがあったのだと思う。 彼女自身が、イエスの無償の愛、神からいただいた恵み、神からの恩を感じることができて、イエス自身が愛と奉仕のお方であるように、彼女自身も、イエスの愛と奉仕を実現する者になったということがいえるのだと思う。 今日の福音書に書かれた、シモンのしゅうとめの、もてなしの行為は、2000年前に起こった一つのできごとに終わらず、実は、世界中のキリスト教会の御業のなかでおこっているのだと思う。 教会は、イエスの体であり、教会が、手を差し伸べると、イエスからの愛、神の恩を感じて、愛と奉仕を実現する人に成長していくことが、そこら中で起こっていることなのだと思う。 高齢化社会が進む中で、高齢者をどういうシステムで、介護をするか。またますます複雑化してしまっている家庭環境の中で、通常の教育システムには対応しきれない子供たちもたくさんいる。介護の現場、特別擁護の現場で奉仕する先生たちの確保は、大問題なのだと思う。 そのような中で、どう社会システム、教育システムを構築したら良いのかということが、さかんに考えられる時代である。しかし、その介護の現場、教育現場に働く人々の、精神的基盤こそが、実は大問題なのだと思う。もてなしの心、あるいは、奉仕の精神の、その根本には、イエスのしゅうとめが感じた、イエスの恩、神の愛、おおいなる力を感じることで、真のおもてなしの心が備わるように感じる。「感恩奉仕」というこの四文字熟語、今一度かみしめて、新たな1週間を歩みたい。アーメン 安達均 “The Heart of Hospitality” Mark 1:29-39 May Grace of Peace of the Lord poured into the hearts of the people in this sanctuary! Amen. Have you ever met someone so hospitable that it made you question exactly how they came to be that way? Or in the case of someone who serves the church, how they come to serve so earnestly without being tired? As you know, I left LA on Monday January 19 to visit family in Yokohama, several churches in Kyushu and Tokyo, and attended the Asian Lutheran International Conference in Malaysia. Although there were disturbing moments during my trip due to the hostages being killed by ISIS, I am thankful to God who made this journey meaningful and safely led me home. Also, I am thankful for you propelling Christ’s Mission in Southern California. While visiting Ohe church in Kumamoto prefecture, I was welcomed with amazing hospitality from Pastor Tateno and members of the church. While in Kumamot, I not only preached at Ohe church, but also visited two wonderful educational institutions — Kyushu Gakuin Junior/Senior High School and Luther Junior/Senior High School. I also visited the Jiaien, who are the pioneers of elderly care and childcare in Japan. During the visit at Luther Junior/Senior High School, which was previously a Girls’ School, I learned that the motto of the school is “感恩奉仕- Kan-On-Houshi.” “感-Kan” means to sense, “恩-On” means debt of…
Tweet 2月1日は、日本語部のメンバーはそれぞれ英語の礼拝に出られ豊かな礼拝の時が与えられたことを祈ります。 以下、先週の日曜、1月25日に姉妹教会である大江教会でのメッセージの内容です。 主の平安を祈りつつ。 安達 均 マルコ1:14-20 主イエスの恵みと平安が、主の呼びかけに応じて集まった一人一人の心の中に豊かに注がれますように! 現在はアメリカ福音ルーテル教会パシフィカ教区にある復活ルーテル教会から招聘を受けている僕(しもべ)が、本日、熊本県にある日本福音ルーテル教会九州教区の大江教会の礼拝に招かれ、主の御言葉を取り次ぐ奉仕の任に預かり、感謝するとともに、パシフィカ教区のビショップ フィンクおよび、サウスカロライナ教区のビショップ ヨースも、今回の訪問を覚え祈っていることを報告したい。 私は、熊本に来るのは今回で二回目のこと。一回目は1991年夏、普賢岳の噴火の被害がまだ生々しい頃、当時勤めていた、日本光電という会社のエンジニアとして、開発し発売したばかりの心臓カテーテル検査装置の納品説明。ちなみに天草半島の先端近くだったと思う。さらに熊本市内にある二つの病院への販売促進応援だったと思う。 「思う」というのは、仕事でどこの病院に行ったかという記憶はあいまいで、実はもっと忘れられない事件が起こった。羽田空港発、朝一番の熊本行きのANAに乗って来たが、私は窓際から二番目の席に座っていて、窓側には、32才だった私と同世代かやや年上と思われる女性が座っていた。月並みの挨拶をした後、世間話がはじまったが、私の悪い癖というか、ついついキリスト教会の話をしていた。彼女は熊本の方だったが、東京までわざわざいったのは、幸福の科学を信じており、大川隆法さんの講演を聴きに言ったという話をしてくださった。 熊本空港着陸間際に、突然彼女が、私の左手をぎゅっと握ってこられた。当時二人の子供がいて、私の妻は三人目を妊娠中だった私にとって、ちょっとまずい。しかし、もちろん彼女が突然、私の手を握ったのには理由があって、近づきつつあった台風のため、飛行機が大揺れに揺れ、飛行機が何十メーターか突然落とされるように揺れて、怖くなったから手を掴んだということだとわかった。彼女は、すぐに「あっ、ごめんなさい、」と言い、私の手をぱっと放した。その後、飛行機はすぐに着陸し、もちろんそれっきりであるが、彼女にキリストの愛が働いていることを祈っている。 さて、福音書はマルコ1章14節から20節。たった7節だけの箇所だが、大切なことが凝縮している。イエスの宣教の前触れとして、「悔い改めよ」といって登場した、ヨハネは、イエスの宣教がはじまるときには、逮捕されてしまい牢獄にいれられた。しかし、今度はイエスが、ヨハネと同じように、「悔い改めよ」といって宣教をはじめており、あらためて、「悔い改め」の大切さを覚える。 そして、宣教には、弟子造りが、とても大切で、宣教開始と同時に、イエスは今日の場面でいっきに四人の漁師を弟子にしている。なぜ、漁師なのか。当時、ガリラヤ湖の漁の技術がどんどんあがって、一人の漁師あたり捕獲できる魚の漁が増えすぎて、漁師の数が減ったほうがよかったのか、ということもあったのかもしれない。 ちなみに、私はそもそも大学は電気工学科だったが、電子回路のことを学んで、ハードウェアのエンジニアの卵となった。日本光電という会社に就職して、電子医療機器設計のハードウェアエンジニアとして就職した。 しかし、ハードウェアエンジニアは、最初てがけた製品は5人に対して1人がソフトウェアのエンジニアだった。しかし、私が二機種目を担当したときは、ハードとソフト一対一、そして三機種目を担当したときは、一人のハードウェアの設計者に対して、ソフトは5-6人ものマンパワーが必要になっていった。 そんな経験もしているもので、2000年前、ガリラヤ湖に漁師がたくさんあまるようになったということを想像してしまう。しかし、もっと大切な背景があったのではないかと思う。主なる神が、弟子を必要としていた。悔い改めて福音を述べ伝える人々が、もっともっと必要になっていく時代になって行くのが神の計画だったということではないだろうか。 現代においても、どんな職業をしていたとしても、あるいは大学でどんな専門教育を学んだとしても、宣教の業につくということは、大切に握っていたものを、思いっきりぱっと手放す必要も出てくるという現実があるのではないか。アンデレにしてもシモンにしても、漁師をしていて、魚を取る網がとても大切だった。 しかし弟子たちは、一生懸命、大切にして、メインテナンスしていた、握りしめていた網を、ぱっと放して、イエスに従った。 魚をとる網は、たしかにもういらない、しかし、イエスは弟子たちに「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。 本日与えられている福音書箇所から、私たちは何を学んでいるのだろうか? いったい神は私たちにどうしろと語っておられるのだろうか? 今一度、イエスの話された「人間をとる漁師にしよう。」と言われたことをしっかり、耳を澄まして聞き取りたい。 弟子たちは、たしかに、網を捨てて、イエスに従ったことが聖書に書かれているが、イエスのほうからもう網はいらないということは一言もいっていない。魚を取るためのハードウェアの網はもう、手放して間違いはなかったのだと思う。 しかし、人間をとる漁師としては、やはり漁師時代に知り得た網のコンセプトはとても大切なのではないだろうか。いわゆるネットワーク構築。魚が網の中に入りやすくするような工夫があったはずだが、似たように、人々がネットワークに入りやすくなるような工夫があってしかるべき。 もともとは聖霊降臨、ペンテコステをもってはじまったひとつの教会が、多くの教会になって、ネットワークを構築しており、またそのネットワークをメインテナンスするということがとても大切であることを学んでいるのではないだろうか? 復活ルーテルは、26年の歴史の中で、主の慈しみとああわれみ、赦しの中で数々の復活ルーテル教会で受洗者を生んだ。近年では2013年から2014年で8人の受洗者が出た。しかし、それだけではない。神の不思議な導きの中で、日本福音ルーテル教会においても、日本とアメリカのルーテル教会のネットワークにひっかかり、復活ルーテルの伝道がなければこの方たちの受洗はなかったという洗礼者が、私の知るだけで、2014年は3人いた。イエスの弟子たちが一時はじっと握りしめいっしょうけんめい手入をしていたが、手放した魚を取る網。ハードウェアとしては異なるが、ソフトウェアとしては同じコンセプトのネット構築が、イエスの御心の中で、いまも起こっている。 本日のメッセージをしめくくるにあたり、ひとつの質問を持って終わりたい。おひとりおひとりにとって、「網」はなんでしょうか? つまり、握ったもの、掴んだもの、大切にしている形あるものが、それぞれあるのだと思う。 しかし、それは宣教、伝道する上で必要なのだろうか? 実は必要ではなくなったものものも多いのではないだろうか? ただし、その大切にしたものから、必ず学んだことがあるのではないだろうか? あるいは、みなさんのなかには、これから洗礼を受ける方々がいることも覚える。 いままでの人生で握り締めたもの大切だと思ったものが、これから洗礼を受けて、信仰生活を送るようになるとしたら、必要なくなるものがあるのではないだろうか? しかし、その大切だと思っていたものから、学んだことはなんなのか? 学んだことが信仰生活を歩む上で、決して無駄ではなかったことがあるのではないか?これらの質問に思い巡らしてもらいたい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ 1:43-51 主の恵みと平安が豊かに、あつまった会衆の上に、また今日の御言葉をウェブサイトを介して読まれる世界中の兄弟姉妹にも、また事情があって今日の礼拝に来られない方々の上にも、同じ主の恵みが、また、憐れみが豊かに注がれますように。 それぞれ、教会に来られるようになったきっかけはなんだろうか?だれかが話しかけた言葉が大きなきっかけになっているということがあると思う。もちろん、その言葉をかけてくれた人は重要だと思う。 しかし、その語った言葉はなんだっただろうか? 私たちが、普段からだれか教会に来て欲しいと誘うにしても、どういう風に話したら良いかよくわからないのが現実ではないかと思う。今日の御言葉をじっくり聞く中で、そして、とくに日本人社会では、キリスト教もひとつの宗教にしかすぎなくて、信じられないと心の奥底では思っている方々に、どうやってキリスト教を紹介したらよいかという参考になるのだと思う。 さらに、教会に来て、一番最初に気づかなければならないことは、なんなのか? その気づきによって、なにが起こるのか? キリスト教を信仰するようになる最初の一歩は何なのか? そのようなことについて考える良い機会になるのだと思う。 与えられた福音書は、ヨハネ一章43節から。ヨハネ福音書ではイエスの最初の弟子は、アンデレとその兄弟ペトロだったことが、少し前の35-42節に書いてあった。そして、今日の聖書箇所では、その次に弟子になったのが、フィリポとその友人と思われるがナタナエルである。 フィリポはイエスに会って、「私に従いなさい」と言われると、あっと言う間にその方こそ、聖書の中でモーセもまた預言者たちも、記述していた方だとわかる。 つまり救い主だといえる人は、ナザレ出身のヨセフの子でイエスだということがわかった。 そして、すぐに、そのことを、友人ナタナエルに話す。しかし、ナタナエルは疑う。ナザレからそんな人が出るわけない。それはやや問題発言だと思う。 ナザレとかガリラヤ湖畔の町々、どういう町だったかわかりにくかもしれないが、ナザレは貧困都市、ガリラヤ湖畔は、それに比べ、中級とでもいえるイメージがあったのかもしれない。 だからナタナエルは、「へっ、ナザレなんかから救い主なんか出るもんか」という偏見があったのだと思う。 しかし、フィリポは、そのナタナエルの偏見をとがめるでもなく、また議論をするでもなく、自分ではイエスがどういう人だと思っているかのみ話しただけで、単純明快に、「来て、見なさい。」という言葉でナタナエルにイエスに会うことを薦める。 そして、ナタナエルは、イエスの方に向かっていく。 すると、イエスは偏見のあったナタナエルなのに、「これこそまことのイスラエル人だ。正直な人だ。」という言葉を語る。 ナタナエルはびっくりする。そして、イエスは、ナタナエルのしていた事、いちじくの木の下で考え事をしていた事を知っていたし、また、その考え事が、おそらく旧約聖書の創世記でヤコブが夢で見ていた光景だったのではないかと思われるが、見事に知っていた。 今週の聖書日課では詩編139編が与えられているが、新約聖書から時代を遡って1000年近く前のダビデも、またその後の詩編作者たちも、いかに神がすべてをご存知あるかを詠っている。何をしていようが、何を考えていようが、それをずばりわかっておられるお方、主なる神がおられることを詩編で詠っていた。 そして、ナタナエルも、まさにそれを実感したのだろう。 友人のフィリポはなんら議論することはなく、ただ「来て、見なさい。」という言葉を述べただけで、ナタナエルはイエスと出会い、偏見の持ち主だった彼が、すべてをご存知である主によって、ひっくりかえされ、悔い改めて、イエスに従うものに変えられた。 今日の福音書箇所から、私たちは何を学んでいるのだろうか? 同胞の日本人に伝道するとき、やはりイエスのことを信じてもらえないという大きな壁があるのだと思う。そのような壁に対して、熱心に議論するより、はるかに、単純に、イエスのところに「来て、見て」ということがとても大切なように思う。 それはイエスの聖霊によって成り立っている教会に来ることの大切さがあるのではないだろうか? 漂う聖霊と遭遇する中で、いかに自分が、かたよった考えや、偏見をいただいていたか、あるいは自分勝手な考え方をしていたかに気がつかされる必要があるのだと思う。 それは未信者の人ばかりではなく、先週は礼拝に出て清くされて礼拝堂から送りだされたが、世の荒波にもまれて、1週間後に礼拝に戻ってきたキリスト信者とて、同じことなのだと思う。 そこには、私たちの中に、間違いや罪、神への疑いや背信をおかしてしまっていたというのが正直なところなのだと思う。 いや、私はそんなことはない、という人がいたら、それがまさに過ちの証拠なのだと思う。 礼拝で最初の讃美歌を歌った後は、まず罪の告白、悔い改めである。 現在用いられている式文のなかでは、私たちの心がどういう状況にあるのか、また、どういうことをしたいと思っているかもすべてご存知の神の御前で告白しましょう。と司式者が述べている。すべての世界中のキリスト教会のリーダである聖霊なるキリストが、心の奥底までご存知であることに気づくことがいかに大切か、そして、悔い改める、神に向き直ることこそ、クリスチャンとしての第一歩である。 そしてその一歩は礼拝に来る度に、同じように悔い改めるのが信仰生活の持続なのだろう。 しかし、この悔い改めは私たちが友人同志で強制できるものではない。 だから、フィリポの言った「来て、見て。」と単純に誘うことの大切さがあるのだと思う。 アーメン 安達均 “Come and See” John 1:43-51 May your Grace and Mercy be poured into the hearts of the people gathered in the sanctuary, the people who are not able to come to worship today, and the people who read this message through the website! Amen. What triggered you to come to church? I believe that someone, whether it be a friend, relative, or spouse, invited you originally. Of course that invitation is important, but do you remember how they invited you? In our mourn of faith, we often desire to invite others to church. In practice, many of us struggle with how we invite them. In listening to the word of God, we are given a great hint on how we may invite people — Especially those who believe that Christianity is like any other religion and along with it comes the untrustworthiness associated with cult followings. Today’s gospel provides an opportunity to reflect on the first thing that we should realize as followers of Jesus, and consequently teaches us what we should do. In other words, it lays out the first step to take in following Jesus after his invitation. The Gospel text is John 1:43-51. The first two disciples out of twelve were Andrew and his brother, Peter, that was written in verses 35-42. In today’s text, the third and fourth disciples appeared, Philip and Nathanael. When Philip met Jesus, he immediately could…
Tweet マルコ1:4-11 主イエスの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように! キリスト教信者ではない方から、「聖霊ってなんですか?」と質問されることがある。 キリスト教では、三位一体という言葉、「父と子と聖霊」という言葉は繰り返し語られ、キリスト教信者でない方でも、よく耳にする言葉なのだろう。 しかし父が神のことで、子がイエスだとわかっても、じゃあ聖霊は何なんだろうという話になってしまう。新約聖書はもともとギリシャ語で書かれたが、霊のことは、ギリシャ語ではプネウマと言い、その意味は「風」とか「息」だが、言語学的な意味がわかったところで、とらえ難い。 そもそも、三位一体がわかりにくい話だが、ある牧師や日曜学校の先生などでは、水が氷になったり、水蒸気になったりするように、神という存在も、人となったり、聖霊のような目には見えないものになりうるという話。 この話は、三位一体をなんとなく理解しやすくしてくれる。 それにしても、聖霊ってなんなんでしょうか? いったいどういう役に立つのでしょうか? という質問は続いてしまう。 本日は、主の洗礼主日と呼ばれる聖日。二週間と少し前イエスの赤ちゃんとして誕生したことを祝ったばかりだが、イエスは成長して成人となり、約30歳になったころは父の仕事を継いで大工仕事をしていたのだろうと思われる。10年以上の仕事の経験をした上、イエスは次のステップを考えていたのかもしれない。そのころヨハネから多くの人々が洗礼を受ける中で、イエスも洗礼を受けることになる。 イエスの洗礼にまつわるストーリを語る上で、聖霊が大きなキーワードなのだと思う。イエスの洗礼において、聖霊の働きが、とても大きな役割を演じていることは間違いない。 そして、この説教の中で、一人一人が聖霊について、さらに掘り下げて考える時が与えられるように祈る。 イエスより6ヶ月ほど早く生まれていたヨハネは、イエスより早く宣教活動に導かれた。しかし、それは、あくまでヨハネの後に登場するイエスがいかにすごい方であるかを広く伝えるためだけに、ヨハネは登場したような面がある。 ヨハネは、自分は水で洗礼をさずけているが、私の後に来られる方は、聖霊で洗礼を授け、それはたいそうな方で洗礼の意味も大きく異なるものであることを、大勢の人々に述べていたといえる。 そして実際に、後に来られるすごい方と言われていたイエスがナザレからヨルダン川にやって来てヨハネから洗礼を受ける。そしてイエスが水から上がった途端、とんでもない変革がおこる。 マルコは本日の福音書の10節と11節だけで実に簡単に述べているが、マルコの視点から、起こったできごとを考察してみる。 まず、「天が裂けた」と書かれている。 「天が裂ける」とはどういう意味か? その質問の前に、天の向こう側にはなにがあるかという質問をするのが良いと思う。 この地上の上に天があって、あるいは地球は宇宙に囲まれている、しかし、その天を越えたっところ、宇宙を越えたところに在る、神の存在があるのではないだろうか。 だから、天が裂けるというのは、天が裂けて、神が人間の世界に介入してきていることを表現しているのだと思う。 そして、三位一体の神の一つの位である聖霊が、強風の中で、はとがイエスに舞い降りてくるような様子をイエス自身が目撃される。 それは、人の子イエスに、神が介入して、イエス自身が神の子であることを自覚されたともいえる。 そして、そこにいた人々は、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である。」という言葉を聞き、大勢の人々が、イエスが神の子である証人になった。 そして、その後、イエスに何が起こったかというと、悔い改めよ、神の国が近づいたという言って、最高の知らせ、福音を世の人々に伝え始める伝道・宣教活動がはじまった。 以上、イエスが洗礼を受けた時の様子を振り返り、その後、イエスが宣教をはじめていったときの話をした。いったいその話を聞くことが、私たちにどういう意味があるのだろうか? 地上とか宇宙とか、私たちがイメージできることをはるかに超えた、すべてを司っておられる神の存在は、聖霊を通して、私たち人間の間に介入して来られるということではないだろうか。 この聖霊は、とてつもない力を有しており、人の存在と、目に見えない神の存在を結びつける力を持っている。 目に見えないけど、力があるなんて、そんなものあるわけないじゃないですか? と言われるかもしれない。 でも、そういうものはこの自然界に確実にある。 重力というものは目に見えないけれど、ニュートンの発見以来、目には見えなかったが、もともと物がひっぱりあっている力が存在している。 そして、イエスが洗礼を受けた時に、聖霊が働いたように、父と子と聖霊の御名において受けた私たちの洗礼においても、目には見えない、聖霊に浸って、聖霊の力が大きく働くようになり、わたちたちも、神と結び付けられるということが起こっている。 それは決して、私たちも、一人一人が別々のイエスになるということではなく、キリスト教会全体で、イエスの体をなしており、私たちは、キリスト教会の一部を成すようになる。 キリスト教会全体で推進している、宣教の業の一部を成す身になっている。 おひとりおひとり、聖霊の働きの中で、現代もイエスの宣教を行なっているイエスの体、教会の一部であることを認識して、新しい1週間歩もう! アーメン 牧師:安達均 “What is the Holy Spirit?” Mark 1: 4-11 May Grace and Peace of Jesus Christ be showered upon the people gathered in this sanctuary! Sometimes, I am asked by a non-believer, “What is the Holy Spirit?” In Christianity, the words, “Father and Son and the Holy Spirit” is repeatedly spoken; So much so that people, regardless of his or her faith, have heard of it. In Greek, the word “pneuma” is used to mean spirit in a religious context, and its common meaning is “breath” or “wind.” However, even with an etymological definition, the concept of the Holy Spirit is difficult to grasp. Some pastors and Sunday school teachers tell a story concerning the metaphorical connection between how water is capable of solidifying into ice or vaporizing into gas, which cannot be seen, and how the existence of God may become the man, Jesus, and the Holy Spirit, which is unseen like gas. Christian teachers often talk about this metaphor to help others understand the Trinity. However, people are still left wondering what the Holy Spirit actually is, or what the Holy Spirit is useful for. Today is the Sunday known as the “Baptism of our Lord.” only two weeks ago, we celebrated the birth of Jesus. Immediately following that, we read a story that took place about 30 years later, where he most likely became a carpenter, succeeding his father’s job as his…
Tweet マタイ2:1-12 主イエスから恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように! 皆さん、新年の抱負、英語ではNew Year’s Resolution 、を考えられた方、多かったと思う。 今年はこんなことに注意して生活しよう、あるいは、こういう目標を立てた等々、みなさん、それぞれに、心に思うことがあったのではないかと想像する。 日本語ミニストリーとしても、教会の暦では、昨年11月30日から新しい年に入っていたため、11月ごろからの礼拝説教の中で、2015年に向けて、指針が与えられていったように思う。 11月と12月に礼拝説教でお話していたことを若干、復習する。 ルカ福音書とマルコ福音書から、「目を覚ましている」ということは、イエスの再臨を待ち望むことだが、いつ来られても良いように眠らないでいるということではなく、目の見えないながらもとても大切な聖霊なる、主イエスが招いてくださっている礼拝に感謝して出ること。そして主イエスを愛することと同じ位重要な、隣人を愛して歩む、信仰生活を実行することが、目をさまして、再臨を待ち望むということであるというメッセージが与えられていた。 そのような御言葉が礼拝説教で語られる中、2015年テーマ聖句として、コロサイの信徒への手紙4章2節から「目を覚まして、感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」という御言葉が与えられた。 そして本日、2015年の最初の聖日礼拝、顕現主日。 顕現主日とは、キリスト教会がクリスマスを12月25日として祝い、その12日後の1月6日に、東方の国の占星術の学者たちに、赤ちゃんのイエスが顕われた、つまり顕現された日として、覚えてきている。 1月6日はだいたいは平日になってしまうので、6日に一番近い、聖日ということで、本日顕現主日として、この礼拝の時が与えられている。 与えられた福音書は、占星術の学者たちと、赤ちゃんイエスが対面するストーリ。 占星術の学者たちという言葉は、ギリシャ語ではMagoiという言葉が使われているが、マギ族の人々。Magiという言葉は、英語のMagicの語源ではないかと思うが、星占いをしたり、魔術を行なう人々だったようだ。 そして、このMagi族はおそらくイスラエルのはるか東方、現代のイラン北西部にいた人々、その昔はペルシャ大帝国の宗教上は、司祭階級の人々だったようだ。 つまりユダヤ教とは異なる宗教を信じていた、占星術者たちにも、「ユダヤ人の王が生まれた」ということが、星占いの結果、告げられた。 そして、占星術の学者たちはその王子を拝むため行動を起こす。 といってもユダヤのどこに生まれたかということまでは特定できなかった。そこで、ユダヤ人の王に会いに行く。 そしてまずは、ユダヤの中心都市である、エルサレムにやってきて、「ユダヤの王子が生まれたようですが、拝みに来ました。でも、どこに生まれたのでしょうか」と質問する。 この質問を聞いて、当時のユダヤの王、ヘロデは、自分の地位を脅かすものであり、不安に思う。 それで、自分の側近たちと相談して、旧約聖書のミカ書にある預言の言葉から、生まれたとしたら、ベツレヘムだろうという見解を出した。といってもベツレヘムのどこの家かということまでは特定できているわけではない。 そこで、ヘロデは占星術の学者たちに、「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出す。 しかし、ヘロデは内心、その生まれた子供の場所がわかったら、殺してしまおうと心の中では思っていた。 占星術の学者たちは、王の言葉を聞いて出かけると、不思議なことに、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まり、学者たちは喜びにあふれる。それは、例の馬小屋だったわけだが、中に入ると、みどり子イエスは母マリアと共におられた。 学者たちは、ひれ伏してイエスを拝み、持ってきた、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。そして、東方の国へ帰るわけだが、帰り道は、「ヘロデのところへ帰るな」とお告げがあったため、エルサレムへは寄らずに、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 2015年のはじめに、イエスの顕現物語を、あらためて聞くとき、主なる神はわたしたちに、何を語りかけておられるのだろうか? 大きなポイントは、占星術の学者たちは、ユダヤ人ではなく、異邦人であったことが挙げられると思う。 異邦人であるにもかかわらず、ユダヤの新しく生まれた王を拝みに行くという行動に導かれる。そして、救い主、イエスと対面する。そして、対面したあと、歩んできた道ではない、別の道を歩むように導かれている。 私たちも、「目を覚まして、感謝して、ひたすら祈る」という信仰生活を続けていく上で、今年は、神様からちょっと別の道を通って信仰生活を歩み続けるように、さらにいえば、別の方法で伝道をするように、導かれているのではないだろうか。 異邦人の一部である日本語を話す人々の中にも、また母国語かに関係なく、どのような異邦人であっても、まだまだ主の慈しみと恵みを必要としている人々がたくさんいる。 そのような方々への伝道を続ける上で、この復活ルーテル教会のJapanese Ministryも、喜んで、ちょっと別の道を歩み、主の御心に従うミニストリーとして導かれますように! アーメン 牧師:安達均 “By Another Way” Matthew 2:1-12 May Grace and Peace of Jesus Christ be showered upon the people gathered in this Resurrection sanctuary! I imagine there are many of you who thought about new year’s resolutions the last couple days. Maybe things like: “To work out every day,” or “write in a diary every day,” etc… The church calendar begins the new year from November 30th, the First Advent Sunday. I was reflecting over the message from that specific service over the last few days and realized that the new year’s resolution for the Japanese Ministry had already been defined back then. A quick overview of the key points from the messages during November and December is the meaning of “Keep Awake” from Luke and Mark. By “Keeping Awake”, the scripture implies that followers shall wait for the second coming of Jesus Christ by coming to worship and walk the journey of faith in loving our neighbors. Reflecting over these messages, one passage struck a chord with the ministry: “Devote yourselves to prayer, keeping alert in it with thanksgiving.” This is an appropriate thematic verse for 2015. Today is the first Sunday Service of 2015 and we are observing an Epiphany. An epiphany is the manifestation of Jesus to the Gentile. It has been celebrated in Christian history on January 6th, a week day almost every year, so we now observe…
Tweet ルカ2: 22-40 主の恵みと平安が、2014年最後の復活ルーテル教会日本語礼拝に集っている会衆の上に豊かに与えられますように! ある教会に、ひとりの信仰深い老人がいた。彼は礼拝に毎週参加していた。彼とその娘さん家族たちが礼拝に出ていることは大きな恵みであった。父の希望もあったのだろう、80才代後半になっていたが、娘さんたちはイスラエル旅行を計画され、実行された。 元気に旅行されて戻った翌日、いっしょに住む長女が仕事から帰宅すると、彼は聖書を開いてリクライニングチェアに座ったままの姿勢で天に召されていた。 考えてみると、彼が信仰深いということはとてもよくわかっていたが、彼が現役時代はどんな仕事をしていたか? 彼がどんなタイトルを持っていたのか、どんな家に住んでいたかなど、なにも知らなかった。 今日与えられた福音書には、シメオンという老人が描かれている。 彼はユダヤ教の司祭だったとは書かれていない。 どんな仕事をしていたか、どんなタイトルがあったかなど、よくわからない。 わかっているのは、シメオンという月並みな名前と、彼は信仰のあつい人であったこと、主の来られるのを待望する生活を送っていたこと、さらに聖霊が彼の上にとどまって救い主を見るまでは死なないという約束を聖霊から受けていたことぐらい。 当時のモーセの律法に従い、ヨセフとマリアは生後40日目にはじめて、イエス奉献のためにイスラエルへ神殿へと参拝した。シメオンも、聖霊に導かれて神殿に来ていた。そして、老人はイエスに出会うことになる。すなわち待望していた救い主との対面となる。 老人はイエスを抱き上げ、神を賛美した。そして、さきほど福音書の拝読で読んだ、すばらしい祈りを述べる。 本日の説教タイトルは「シメオンの見たヴィジョン」としたが、シメオンは祈りの中に、こう述べている。「わたしはこの目であなたの救いを見た。」 第三者から見れば、老人は単にマリアとヨセフが連れてきた赤ちゃんイエスと会っているだけである。しかし、シメオンの目には、聖霊の働きによって、奇跡的な光景が映っていたのだと思う。 シメオンが祈りの言葉を述べた後、信じられないような言葉をマリアに語った。イエスが、人々のつまづきの石になってしまい、十字架刑にすらかかり、マリアにとってもたいへんな心の痛手を負うことになることまで、見えてしまったのかと思う。 しかし、その向こうに、イエスの十字架の死を超えて、復活があった。 さらに死と復活の向こう側にある、主イエスによる、全世界の民の罪の告白と赦し、全世界の民への慰めと救いが、シメオンが見たVisionの中に含まれていた。 シメオンの祈りの最初の言葉からして、彼は主イエスに会った後は、この世の命は終了し、神の家に行かれたのかと思うが、それは、やすらかな死であり、死といえども喜びがあり、天国での永遠の命に与っているのだと思う。 さて、今日、クリスマス直後の2014年最後の礼拝で、与えられた福音書を読む中で、私たちは、今日の聖書の言葉の中のどこにいるのだろうか。 とくに今年を振り返るとき、最愛の方を失くし、悲しみに直面し、今も苦しんでいる人々がいる。 最愛の人をなくさないまでも、自分の両親のことで、自分の子供や友人との間で悲しみや苦しみを経験したこともあったと思う。 その中で、ああすればよかったとか、あんなこと言わなければよかったとか、後悔や、罪を告白する場面もあるのだと思う。 それらは、みな2000年前、シメオンがイエスに会ったときに見たビジョンの奥に含まれていたのだと思う。 わたしたちはそのビジョンの中に入っている。 さらに、そのビジョンの中で、主なる神は、主イエスキリストによって、わたしたちのその苦しみ、しがらみから解放し、私たちを復元してくださる力を担っている。 そのために、父なる神が、人間の体をもって、この世に送ってくださった。 今日、私たちの罪を告白し、そして、聖餐式に与り、私たちが2000年前にこの世に現れてくださった主イエスに救われている超本人であること再認識しよう。 この世の生活は、財産がいくらあるかとか、老後の備えは十分あるかとか、社会的な重要な地位についたか、あるいは、車とか高級な装飾品や衣服を身にまとうことがとかく話題になってしまう。 しかし、そのようなことに関係なく、シメオンをはじめとする、私たちの先輩、すでに天に召された多くの信仰者たちがそうであったように、豊かなる聖霊の導きにより、目を覚まして、主を再臨されることを待ち望み続ける信仰生活こそ、この世に生きる最高価値の着物である。主イエスを身にまとって、今年最後の新しい1週間を歩み始めよう。そして、新たに、主に与えられる激励、永遠の命を覚え、感謝して2014年を終え、2015年の新たな時を迎えよう。それは新たなる困難に向かうことになるかもしれないが、シメオンがイエスを介して見たヴィジョンの中に含まれていること、常に主の救いがあることを覚えて立ち向かおう。アーメン 安達均 “The Vision that Simeon Saw” Luke 2:22-40 May the Lord’s Grace and Peace be showered into the people’s hearts who’re gathered in Resurrection Lutheran Church’s sanctuary! May the Word be a blessing to all who hear it! Amen. There was one elderly person at a church. He never skipped Sunday worship, but he was always quiet and sat in any available pew. Even though he did not talk much, his presence was such a blessing to the church. The people who knew him and his family loved him. He and his wife (who passed away almost 20 years before) raised four daughters, who all became faithful Christians. And one of his grandchildren became a pastor a decade after his passing. Even though he was over 85 years old at the time; his daughters planned a family trip to Israel. He and his daughters had a wonderful trip to the Holy Land and came back to Tokyo in good health. Their dad was happy and it was a memorable trip. One day after they came back from Israel, the oldest daughter, who lived with him, returned home from work and found that her father went to his eternal home while sitting in his favorite chair, with the Bible open on his knees. When I look back, even though I saw him so often at church, in the sanctuary, I did not know what type of job…
Tweet ルカ福音書 1:26-38 主よ、恵みと平安を、待降節第四主日に、集まりました会衆の上に豊かに注いでください! アーメン ビートルズの晩年の名曲、レット・イット・ビーという曲をご存知の方、多いと思う。しかし、この名曲が今日読んだ福音書箇所と深い関係があることをご存知の方は、日本人の間では少ないのではないかと思う。 彼等が歌った多くの曲は、ジョンレノンとポールマッカートニーの合作とされているが、すくなくともこの歌詞は、ビートルズの活動がだんだんできなくなりそうな難しい時期に、ポールマッカートニーによって書かれたようだ。 事実、Let It Be をアルバムとしてリリースした後、ビートルズは4人での演奏活動はやめて、各自それぞれに活動するようになっていった。 その時の難しい状況というのは、Let It Beの最初の歌詞からしてもわかる。 ”When I find myself in times of trouble” つまり「自分が困難な時期にある時」といって詠いだしているわけで、ポールがどうしてよいかわからなかったような状況が想像できる。 そして、私たちの現実においても、仕事でも、こどもの教育問題にしても、親の介護にしても、あるいは自分自身の将来を考えてみても、自分でどうしてよいかわからず、悩んでしまう人生の現実がある。 さて、時代は2000年さかのぼる。どうしてよいかわからない状況は、イエスの母マリアにもやってきていた。ビートルズが解散しなければならないかどうかというより、種類の違う問題だと思うが、どうしてよいかどうかわからない状況には変わりはない。 マリアは大工職人のヨセフと婚約はしていた。 しかし、結婚前に、ガブリエルという天使がマリアに顕われて、「おめでとう、恵まれた方。」と話しかけてくる。 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込む。 すると、天使は「マリア、恐れることはない。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けるように。 その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。」と話をつづけた。 マリアは天使に言った。「まだ男性を知らない身に、どうして、そのようなことがありえますか。」 すると、天使は答える。「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、不妊の女とされていたのに身ごもっている。 神にできないことは何一つない。」 マリアはどんなにか悩んだことだろう。ただ悩むというより、たいへんな心配、恐怖感にさえ陥ったと思う。そもそも未婚の女性が妊娠することは、ユダヤの律法社会では考えられないこと。もし、妊娠しようものなら、ヨセフとの破談どころか、死刑にだってなりかねないようなことだ。 しかし、マリアは徹底的に謙虚に、ガブリエル、神の遣いの言葉を信じる。 そして、マリアは「わたしは主の僕です。 神のお言葉どおり、この身に成りますように。」と言った。 このマリアの言葉、新約聖書の原語であるギリシャ語には、「ゲノイト モイ カタ ト セマ ソウ」 となっており、「あなたの言葉通りに、この身になりますように」という意味。 英語で言えば “Let it be according to your word” となる。 最初のギリシャ語の「ゲノイト」が”Let It Be” 日本語で「成りますように。」 ここのLet It Be は、かならずしも、「ほうっておく」とか「成るようになれば良い。」という「無責任に放置する」という意味ではなく、It という代名詞の中に、「神のお言葉通り」ということが含まれている。 マリアは、自分ではどうしようもない事態で自分自身では何もできないけれども、この主のはしためである私を用いて、主のお考えが実現するようにと祈った。 それは信仰深い、受動的というよりむしろ自分を主のために用いてもらおうとする能動的ともいえる祈りなのだと思う。 今日与えられた、福音書箇所の中にある、マリアが天使ガブリエルを通して、神に祈った言葉から何をわたしたちは学んでいるのだろうか? 私にはマリアのその「神のお言葉通り、この身になりますように」、”Let It Be”という言葉に、イエスの母、マリアの信仰深いすばらしい祈り、姿勢、さらに行動を見る思いがする。そして、その言葉は、さらにビートルズが歌って大ヒットしたLet It Beを今一度聞いて、私たちの信仰者としての祈りの姿勢、態度、そして行動を、さらに問われるような面があると思う。 ちなみに、さきほどのLet It Be の歌詞の続きを少し紹介すると、”When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me, Speaking words of wisdom, let it be.” 日本語に訳すと、「困ったことになって悩んでいると、マリア様がやってきて、すばらしい言葉をくれたんだ、身をゆだねなさい。と。」 ちなみに、ポールマッカートニーの母はポールが高校時代に亡くなっているが、その名前もマリアだった。 だから、ポールマッカートニーは自分の母親が夢で現れて、「Let It Be」と歌っていたのかとも思う。しかし、ポールは、イエスの母の言った言葉も意識していたように思う。いや、たとえポールが意識していなかったにしても、神の思いがそこに働いて、マリアの祈りの言葉がこめられていると思う。その証拠に、ポールはこの曲ができた後、アレサフランクリンというゴスペル歌手に歌ってもらっている。 私たちの人生、本当にどうしようもない、壁、難局に直面する。 たとえ自分では何もできないと思うときでも、そこには、必ず、少なくとも一つできることがある。 私たちは、神に祈ることができる。 「神の思いが成りますように」、”Let it be, according to your word.”と祈ることができる。 あるいは、主の祈りの中にある、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と真剣にあきらめずに祈ることがどんなに大切なのかと思う。 そして私たちを神のために用いてくださいという態度をとるなかで、私たちがとるべき言動、行動へと導かれる。自分の思いではなく、神の思いにしたがって、生きるなかで、すばらしい光が射してきて、永遠の命に生きることができる。 アーメン 安達均 “Let It Be” Luke 1:26-38 Lord may you pour your grace and peace unto the people gathered in this sanctuary on this fourth Sunday of Advent! Amen. I believe everyone knows “Let It Be,” a great Beatles song on their final studio album of the same name. But I am not sure how many of you know the close relationship between the Gospel I read and “Let It Be.” Although many of their pieces were composed by John Lennon and Paul McCartney, this piece was written by Paul. When Paul wrote this piece, it was during very difficult time in the lives of the Beatles. Shortly after the release of this album the band broke up. John, Paul, George, and Ringo went their separate ways. We can easily relate to the lyrics of the song, as Paul sings, “When I find myself in times of trouble.”, Paul is not the only person to experience difficulty, each of us often find ourselves in times of trouble. Examples of difficult…
Tweet ヨハネ1: 6-8, 19-28 たとえこの世が真っ暗闇に感じることがあっても、主イエスの光の輝きに気づくことができますように! アメリカに来る前に家族で毎日曜礼拝に出ていた東京にある教会は、「あかしびと」という教会のニュースレターを毎月、発行している。漢字で書くなら「証し人」となるが、漢字の構造を見れば、「正しいことを言う人」ということになる。しかし、わざわざひらがなを使っているのは、意味があってそうなっているように思う。 この言葉、単に「正しいことを言う人」というより、さらに二段階くらい深い意味がありそうだ。一段階目は、裁判で「証人」という言葉が使われるので、「証人」という言葉を用いて説明すると良いように思う。 そこには目撃した、なにかを実体験したという人が証人となる。 そして教会で使う場合は、主なる神と出会う体験をして、神がおられること、神の愛を感じるようになり、その体験を述べる人。 私は、今日与えられた福音書から、「証し」という言葉の、さらなる深さというか、さらにイエスの輝きが見えてくるような面があるのではないかと思っている。ヨハネ1章6-8節には、洗礼者ヨハネは「光について証しするため」という言葉が繰り返し使われている。「証し」という言葉は3回出てきた。ヨハネ福音書の中では、洗礼者ヨハネの「光についての証し」に端を発して、すべての人が光を信じるようになることが啓示されていたのだと思う。 しかし、その「光についての証し」とはどういうものなのだろうか? この質問に答えるには、「さてヨハネの証しはこうである。」という言葉で始まる、ヨハネ1章19節以降を読んでいくことが大切。 それにしても、当時の時代背景を説明する必要がありそうだ。当時のユダヤ地方に住む人々は、ローマ帝国の圧力がますます強まり、政治的には、ローマに圧倒されてしまっていたような状況があった。 そこで人々の生活は、ユダヤ教の宗教的なさまざまな律法を守ることに加え、ローマ皇帝への税金も増え、人々の暮らしは困窮していたと思われる。さらに、ユダヤ人としてのアイデンティティが無くなってしまう恐れから、経済的にも肉体的にも、また信仰の上でも「真っ暗」という気持ちの民が多くいたのかと思う。 そのような状況で洗礼者ヨハネが出現する。 それは、「お先真っ暗」なユダヤに顕われた「期待の星」のような存在だった。マルコ福音書によれば、ユダヤ地方エルサレムの全住民が洗礼者ヨハネの元にやってきて、悔い改めの洗礼を受けたとまで書いてある。 しかし、エルサレムの指導者たちには、疑う者もいた。そして、司祭たちを遣わして、洗礼者ヨハネに質問させる。「いったいあなたはだれなのか? 待望していた救い主なのか、あるいは、過去の預言者エリヤの再臨か、あるいは、一預言者なのか。」これらの質問に対して、どれもNOと言う洗礼者ヨハネであった。 そして、洗礼者ヨハネは、イザヤの言葉を引用して、「私は荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ」という言葉を述べる。 しかし、司祭たちは何を言われているのかよくわからないので、「いったいあなたはなぜ洗礼を授けるのか?」という質問をしてくる。 そこで洗礼者ヨハネは大声で叫ぶ。「あなたがたの知らない方が来られる。わたしが水で洗礼を授けているが、わたしの後に来られるとてつもない方がいる。」そこには、洗礼者ヨハネの後に来られる方によって、真っ暗闇に生きる当時のユダヤの民がその輝ける方、光を見ることができるという、先取りした証しを述べたと言える。 2000年後の今、この荒れ野での「声」と「光」はどういう意味を持っているのだろうか? この待降節にあって、真っ暗闇の状況に生きておられる方々がいる。しかし、人々は光を見る。現実問題、真っ暗なところに行けば行くほど、星が輝いてみえる。 私は真っ暗闇なんかにはいないという方もいる。しかし、だれも真っ暗闇を経験しないとは保証できない。人生、まさかと思う暗闇に突入することがある。突然の解雇とか、思わぬ交通事故、愛する友人や家族の死。そのような真っ暗闇にあっても、私たちは、光を見れるようになる。その光とは、人々の考え方を完全に変えるものすごいインパクトのある方。その光なる御方により、人生の暗闇の中に、ポジティブな面が見えてくる。 正しいことを話す「証し人」の話に戻りたいが、ひらがなの「あかしびと」には、単に自分の体験談を話すだけではなく、その方の生き様、病や死、さらに死後にも主の輝きを現す人々だと思う。洗礼者ヨハネからはじまって、とてつもない数の救い主イエスの「あかしびと」が出現した。 冒頭で「あかしびと」には二段階の深い意味があると思うと言った。その二段階目は、この礼拝堂にいる一人一人が、永遠の命に生きる信仰生活を通して、世の光、平和の君、最高の慰め人、愛の塊のような御方を証しする、「あかしびと」である。 アーメン 安達均 “The Voice and the Light” John 1: 6-8, 19-28 May the Light of our Lord, Jesus Christ, shine in the midst of our world’s darkness. The congregation that Satoko and I attended before we came to the US, has been issuing monthly newsletter called “証人” “Witness.” If I explain the characters, the word means: “言” “to say”; “正” is “right”; and “人” is “Person or People”. Therefore, the phrase is “People who say right things.” However, when we use “Witness” in Christianity, it has much deeper meanings. I believe it has two deeper levels. The first level is: the term “witness” is often used in court cases; most people are familiar with this meaning. A “witness” in a court case is a person who makes a statement in a court about what he or she knows, has seen, or experiences. When we refer to “witnesses” in Christianity; they are people who experience God’s love and talk about what they experienced. I think the Gospel today gives us another level of deeper meaning of witness, so that we might see shining light of Jesus Christ even more clearly. I read the word “Witness” three times from the gospel of John verses 6 through 8. I believe the Gospel text today is indicating that all people on earth might see the Light, Jesus, through the witnesses, beginning with the Baptist John, 2000 years ago. However who…
Tweet マルコ 13:24-37 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上にゆたかに注がれるように! フランスの作家、作詞家、かつ飛行士、サンテグジュベリの書いた「星の王子さま」は日本だけでも600万部、世界では8000万部が販売されたという世界のベストセラーともいえる絵本。 原作は1943年、第二次世界大戦中に発売されている。翌年に、著者は亡くなっているため、世界的に有名になったのは、本人の死後何年もたってからのこと。 日本語訳は53年に発売になったが、日本で大ブームになったのは70年代以降だと思う。90年代末、箱根に博物館もできている。大ブームの根底には、人生の重要な問題について、大きな指針を与える本である事だと思う。 もう少し言ってしまえば、聖書とはきっても切り離せないような関係があると、私は思っている。事実、著者は、イエズス修道会の教育を受けていることからも、想像がつく。 今日の福音書箇所、待降節に入って、教会の暦では新しい年となり、今年の福音書はマルコを中心に読んでいく。しかし、今日のテーマも11月はじめから読んでいたマタイ福音書の焦点と同じ、終末、イエスの再臨に関係している事。 マルコ福音書は、わたしたちに新たな視点を与えてくれると思う。イエスは、人の子、つまりイエス自身が、雲に乗って来るのを見ると、教えられている。 イエスがこのように話しているのは、旧約聖書の中にダニエル書の中で預言されていたことをイエスは教えているし、またそのことは、パウロが書いたテサロニケの信徒への手紙などに出てきているイメージとも重なる部分があると思う。 人の子が雲に乗ってくると、イエスが話されていたことは、サンテグジュベリの想像力を掻き立て、ほかの星からやってきた、王子様という設定が浮かんできたのではないかと、私は勝手に想像している。 イエスのことを聖書の中でいろいろな呼び方がされるが、平和の君とかThe Prince of Peaceなどとも呼ばれる。 星の王子様の英語のタイトルはThe Little Prince。 本日の福音書で、イエスが話そうとされていることのポイントは、後編に重点が置かれているような気がしてならない。「目を覚ましているように」という表現が4回も繰り返し使われていて、最後の言葉も「目を覚ましていなさい」で終わっている。 目を覚ましていなさいとは、イエスは何をおっしゃりたいのだろうか?文字通り、眠らずにしっかり目をぱっちり開いていなさいということなのだろうか。この箇所については、聖書学者も多くの牧師たちも、「眠らないように、目を開いている」ということを言っておられたわけではないと、解釈しており、私もそう思っている。 そして、今日特に感じているのは、目を開いているというより、むしろ「目を閉じてしっかり考えるように」と言われているように私には聞こえてくる。礼拝で読まれる聖書の箇所はいつも数節だけで短いので、ついついそこだけで解釈しようとして、意味を取り違えてしまう危険性を含んでいるのかと思う。 今日の箇所はマルコ11章からずっとイエスがどういうことを語ってきたのかを振り返ってみる必要があるように思う。 イエスがエルサレムに弟子たちと共にやってきて、なにを見てきたか? それは、まずエルサレムの宗教指導者たちに幻滅したともいえる。さらに弟子たちさえも、神殿にあこがれ、神殿の石のひとつひとつに感動したようなところがある。 しかし、イエスは、弟子たちによく考えるようにいわれているのだと思う。目に見える神殿がそんなに大切なものなのか。目に見えている天地が本当に、あなたが頼るべきものなのか。「天地は滅びるが、私のことばは決して滅びない。」と言われていたことをよく考えたい。どうか、いま、この場で目を閉じて、神の御心、御言葉を静かに聞いてみてほしい。 終末がいつか来る、イエスキリストがいつか再臨される事に備える私たち。もし、終末や再臨への備えという概念が難しければ、いつか私たちに必ず訪れる、肉体的な死とその後の世界を思うとき、わたしたちにとって、本当に大切なものは何なのかを考える必要があるのではないだろうか?いったい何をもっとも大切に、何を頼りに生きていったらよいのだろうか?よく言われる、衣食住、それに必要なお金そのようなものが一番大切なのだろか。それらを超えてもっと大切なものがあるのだと思う。 サンテグジュベリが残してくれた、「星の王子様」の最大のテーマで、人々に一番インパクトを与えている言葉は、「もっとも大切なものは目にみえないんだよ。」と教えてくれていることだと思う。 その目には見えないものをもっとも大切にして、歩むことに、大きな希望があるのではないだろうか? サンテグジュベリは戦争中に自らが操縦する飛行機が墜落して亡くなった。しかし、70年たった今も、「星の王子様」日本語だけでもいろいろな出版社からいろいろな方が訳して、本屋に並んでいる。 たとえ、どのような肉体的な死が訪れようが、たとえ天地が滅びるときが来ようが、そのもっとも大切な目にはみえないものに頼って生きる生き様に、永遠の命の希望、喜びがあるのではないだろうか。 新たに、クリスマスを待つ季節が訪れた。新たに再臨を待つ季節が訪れた。今年、何か異なる新しいことが待ち受けているのではないかと思う。新たに、主イエスの慰め、励み、希望を覚えつつ、今年のクリスマス、再臨を待つときを、主イエスの信仰によって心がたかめられ、毎日毎日を歩めますように。 アーメン 安達均 What Does It Mean to “Keep Awake”? Mark 13:24-37 May the Lord’s Grace and Peace be showered into the hearts of the all people in the sanctuary! “The Prince From A Star”(Literal Translation from the Japanese title of “The Little Prince”) is a bestselling book written by Antoine de Saint-Exupéry, a French aristocrat, a poet, writer, and aviator. The story sold, 80 million copies worldwide and 6 million copies in Japan. It was published in 1943. The next year, Saint- Exupéry died; it became very popular and remains popular many years after his death. The Japanese translation was published in 1953, but it became very popular in late the70s, early 80s. Now there is a museum, dedicated to “The Prince From a Star” in the town of Hakone. The story remains popular because it is entertaining but also asks philosophical questions. I believe there is a strong connection between “The Prince From a Star” and the Bible. Saint-Exupéry was educated in Jesuit schools. “What is essential is invisible to the eyes.” is a main theme in the book and can be applied to Gospel teachings. Today is the first advent; it is already the beginning of a new year in the church calendar. This year, we read the Gospel of Mark on most Sundays. However, today’s theme is still the second coming of Jesus (the eschatology: the end…