Tweet ヨハネ2:1-11 主の愛と慈しみが集まった兄弟姉妹に、またこの場に集まれない方々にも豊かにそそがれますように! カナの婚礼の話。 さきほど、読んだ通り、イエスが水をぶどう酒にするというすごい奇跡をしてくださった。 この話いったいどういう意味があるのか? 私はこの結婚式が、いったいだれの結婚式であるかを仮定、推測次第で、神は実にいろんなことを私たちに語りかけていると思う。 たとえば、この婚礼会場において、マリアは最初から会場にいたが、イエスと弟子たちは、婚礼に招かれたとあった。 これはには母マリアにとって甥とか姪に相当するような親戚の結婚式。 しかし、イエスはいとこかまたいとこ、親戚としての招待だったのかもしれない。 いずれにしろ、この描写からは、イエスの母は、事実上、婚礼を仕切って、給仕の者たちに対してリーダシップをとっていたような気がする。そのような立場のマリアにとっては、ぶどう酒がなくなってしまうというパニックに陥った。 しかし、たとえ心ではパニックと思えるようなことがおこっても、それを外に出さずに、イエスだけに相談する。イエスとの会話はちょっと冷たい感じもしなくもないが、それでもイエスを信頼する。そして、給仕の人々には、イエスに従うようにと告げる。 つまり、マリアの姿勢から、心はパニックでも信仰をもって対処することが、大切なリーダーシップの要素の一つであること教えているという話であるともいえる。 しかし、このカナの婚礼は、本当に、だれの結婚式だか書いていないのだ。 花婿はこの話には登場するが、花嫁は登場していない。 20世紀、21世紀を生きている私たちは、婚礼というと、だれが一番大切だろうか? もちろん司式をする神父や牧師であると思っている人はいないだろう。。。 花嫁が中心人物なわけだが、花嫁がだれかは、まったく書かれていない。 この話が、私たちに語りかけていることは、一体なんなのだろう。 水を最高級ぶどう酒にできるというのは、もちろん魅力的な話で、もし、それが簡単にできるなら、ぶどう酒をお好きな方は、家計も助かるだろうし、それどころか、ぶどう酒ビジネスで教会にすごい献金もできるし、自分の御殿もたつかもしれない。 しかし、問題はそういうことでもなさそうだ。 結婚式というと、カップル誕生のひとつの門出であり、それから家庭生活を築いていく上での、人生の大きなゲートを通ることだ。 そして、この話の中で、だれの婚礼だかが、特定されていないことは、実は、人類のだれの結婚式にも当てはまることを、聖書は語っているのではないかと思う。 それは、主なる神が常に、ともにいてくださるということ。 私は、これまでの牧師生活の中で、お葬式は、いろいろな形で関わってきて、両方の指では数え切れないお葬式の司式している。 しかし、結婚式は、片手の指の本数で数えられるほどの経験しかないが、いつもきまって話すことがある。 それは、結婚式は、いつも二人が結婚するものだが、決して二人だけではなく、絶対的な存在、二人を結びつけて、主なる神が、いつも存在している。 それはたいていの台所には、いつもある玉ねぎの存在のように、実は二人につきそってくださる全知全能なる神がいてくださる。 その神への感謝と賛美を忘れずに、二人で家庭生活を築けますように。 さて、カナの婚礼の話は、実は、同じことをいっているのではないかと思えてくる。 誰の結婚式であろうが、そこに、とても信じられないようなことを起こしてくださる主なる神が、また、励ましを与えてくださる、また苦難をともに体験してくださる、主なる神様が、これからの結婚生活、家庭生活にいつもいてくださることを暗示しているようでもある。 最後に、もっとすごい話をしたいと思う。 私の友人で、40代で妻を亡くした方がいる。 その告別式に際し、彼は、結婚するということは、どんな結婚にも別れも必ず来るということを実感したという。 たしかに、その通りなのかもしれない。 カナの婚礼の話しをしていたのに、葬儀の話になってしまったが、この世の命の終わりというのは、この世に生をもったものには、だれでも来る、間違いのないもの。 そして、そのこの世の最後は、人が扉のこちら側から向こう側に行くとき。 神に会えるとき。 そして、すべての先に召した方々に会えるとき。 旧約聖書、そして、新約聖書にも、神を花婿、夫にたとえ、人類は花嫁、妻にたとえた描写がいっぱい出てくる。 実は先週の後半は聖書日課では、エレミヤ書が読まれ、神が夫、人類が妻のたとえがあった。 本日のイザヤ書では、花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる、とある。 本日与えられた福音書、だれが花嫁だか特定されていないカナでの婚礼は、だれであっても、かならずやってくるこの世の死が、実は、神を花婿として、亡くなったものを花嫁とする結婚式であるという要素も生まれてくる。 その時には、私たちが全く想像しえないすばらしい、神の奇跡があり、花婿である神との真の出会いとともに、先に召されたものとの再会も起こる。 安達均 “Whose Wedding?” Gospel John 2:1 -11 May the Love and Mercy of Jesus Christ be shared with the people in this sanctuary as well as people in the world! Our Gospel today is the wedding in Cana. As I read a short time ago. Jesus did an unbelievable miracle. What does this story mean? I think depending on who the bride and groom are, we may interpret it so many different ways. In the beginning part of today’s Gospel, Mary was already there, but Jesus and disciples were invited. It seems Mary was like a mother or aunt and taking on an important host role; said another way Mary was taking on leadership role of all the servants on behalf of the guests. So as the host if there was no wine left, she most likely panic. Even though she was anxious in her heart, she did not show her emotions to the guests and just reported the fact to his son Jesus. Then, even though the conversation with Jesus was somewhat cold, she just trusted him and then told the servants “Do whatever Jesus tells you.” From this story you might learn an important leadership skill that even in a pinch is helpful, just being quiet and trusting the Lord. Of the wedding’s details, we do not know whose wedding it was… There is no clear description. Although the groom appeared in this story, it did not…
Tweet ルカ 3:15-18, 21-21 主の恵みと平安が、集まった会衆の心の中に、豊かに注がれますように! カトリックの教会には、よくあるが、礼拝堂に入る前に、小さなお皿のようなものがあって、そこに、水が入っている。 カトリックの信者には、礼拝堂に入る前に、その水にちょっと手をつけて、そして十字架をきってから礼拝堂に入る方がいる。 私の学んだミネソタ州セントポールのルーサーセミナリーの礼拝堂は、礼拝堂に入ったところに大きな洗礼盤が設置されていて、洗礼盤には水がはってある。 また、アーバインのコンコーディア大学のCUセンターというコンサートをよく行なうところだが、礼拝堂だ。 そこも正面の入り口から入ってすぐに、洗礼盤があり水が入っている。 さて、この礼拝堂は、どうなっているだろうか。 入り口には洗礼盤はないものの、聖餐式を受けるときに、聖壇にくるが、聖壇の前に、なるべく洗礼盤をおくようにしている。 それには、どういう意味があるのだろうか。 教会の礼拝堂に入る、あるいは、聖餐を受けるというときに、自分の受けた洗礼を思い出すということが、とても意味があること。 あるいは、まだ、洗礼を受けていないが、礼拝堂に入る、あるいは、聖壇の周りに集まるという事実のなかに、洗礼へと近づいていることが起こっているのだと思う。 与えられた福音書の箇所に入っていきたい。 ルカ3章、15-17節では、ヨハネの話が出ている。 ヨハネとは、洗礼者ヨハネのことで、もともとは、イエスの幼なじみのヨハネで、6ヶ月年上。 マリアの妊娠が、天使につげられたとき、すぐに、エリザベトを訪ねたのを覚えているだろうか? そのエリザベトのおなかの中にいた赤ちゃんが、後の洗礼者ヨハネである。 ヨハネは、イエスを証するために生まれていたといっても良い。 荒れ野で、毛皮の衣を着て、野みつやイナゴを食べて生活していたらしい。 それは、世の注目をひいた。 いまでも現代風ヨハネはいます。 人々は、ヨハネが救い主かもしれないと思い、ヨルダン流域の荒れ野にやってきて、ヨハネから「悔い改め」の洗礼を受けていた。 しかし、ヨハネは、決して、自分が救い主だとはいわなかった。 私より後から来られる方こそ、すごい方で、私はその方の靴ひもさえ、結ぶ価値のない人間だとして、謙り、後に来られる方に注目するように民衆の心を仕向けた。 洗礼者ヨハネは、後にくるイエスは、聖霊と火で、あなたがたに洗礼を授けるであろうと預言していた。 そこに、まさに、イエスが顕われる。 しかし、すぐにはイエスがヨハネの言った通りに聖霊と火で洗礼をさずけるおということは、起こらなかった。逆に、イエスが謙り、ヨハネから洗礼を受ける。 ひとりの民衆と同じように、洗礼を受ける。すると、たいへんなことがおこる。そのたいへんなこととは三つの特徴的なこと。 今日の福音書の後半にそのことが書いてあった。その一つ目は、まず天が開けてしまう。 これって、どういうことかよくわからない。 しかし、天の上におられる神が、この世界に介入してくる様子を伝えているのだと思う。 二番目は、聖霊がはとが舞い降りてくるように、目に見える姿で、イエスにくだった。 聖霊とは、はとのようでも、それは、とても力のあるもの。 聖壇横にかかげたバーナーを見てほしい。復活後のイエスが、天に上って行かれたあと、降ってきた聖霊は、聖書の使徒言行録二章に記述されていたように、炎のようだった。 だから聖霊にすごいパワーがある。 さらに三番目、天から「あなたは私に愛する子」という声が聞こえてきた。 この声は、ここでは、天からイエスに告げられている。 現代の私たちが、イエスの生涯を振り返る時、そのイエスは十字架につけられ、殺されたが、三日目に復活し、復活後40日目に、ご自分が天に昇られ神のところに行く前に、弟子たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるように」と言われて、天に昇っていかれた。いわゆる宣教命令というもので、その洗礼を、キリスト教会は代々、2000年間さずけつづけてきている。 なにがいいたいかと言うと、私たちの受けた洗礼(あるいはこれから受ける洗礼)で、神がイエスを愛していると言われたように、私たち一人一人にも、必ずしも物理的に聞こえたり、見えたりするものではないが、「あなたは私の愛する子ですよ。」と宣言してくださっている。 そして、炎のような力ある聖霊が、洗礼を受けたものに、与えられて、その聖霊が力となって人生をささえてくださる。 私たちの人生、いやなこと、困難なこと、いろいろある。 先週振り返っても、それぞれにつらいことがあったりしたのではないかと思う。 私は、火曜にいっしょに昼食をとっていた方が、自宅に帰られて、はしごから落ちて、頭を強打して突然亡くなった、と水曜日に連絡を受けた。同じ時期、水曜に日本から連絡が入ったが、父は横浜で転び、頭に14針も縫うケガをした。 ショックであり、自分はどうしたらいいんだろう、と思うことがやってくる。 しかし、本当にどうしたらよいのかと思う境遇に置かれたとき、完全に放心してしまった時でさえ、かならず「あなたは私の愛する子」と言われる神が、主イエスがいっしょにいてくださる。聖霊が困難、苦難の中で、支えとなってくださる。 その信仰者の生き様のなかに、神が介入してくださっていて、信仰者自体の存在が、イエスの愛を顕す存在となる。なぜなら火のような聖霊がささえてくださるから。だから、「あなたは私が愛する子」と言われ、聖霊がくだった洗礼を受けた事実は、重要であり、その洗礼を、礼拝堂に来る度に、また聖餐を受けるたびに思い出す信仰生活には、とても重要だ。火のような聖霊が、私たちを強めてくださり、どんなにか苦難の中にあっても、偉大なる神の慈しみの業を成してくださる。 安達均 “Life Supported by the Holy Spirit and Fire” Luke 3: 15-18, 21-22 May the Grace and Peace of our Lord be poured into the hearts of the people in this sanctuary! When you go to Catholic Church, you often see water in a small plate at the narthex of the sanctuary…Catholic Christians often dip his or her fingertip into the water and then make a cross on one’s chest before entering the sanctuary. The sanctuary at the Luther Seminary, where I studied, has a big baptismal font right after when you enter the sanctuary. Some of you have probably visited CU center at Concordia University in Irvine, there is also a big baptismal font right after entering the CU center. How about this sanctuary? Although there is no baptismal font at the entrance, we usually put the font here before the service. What does this mean? When entering the sanctuary or before you receive the sacrament of communion, it is very meaningful to remember your baptism. Or if you are not baptized yet, it is meaningful to think about your future baptism… The Gospel today is Luke 3:15-17 and 21-22. The first portion is about how John, was 6 month older than Jesus, foretold about Jesus. John is John the Baptist, who was in Elizabeth’s womb when Mary was told that she would be pregnant. We may say that the purpose of John’s life…
Tweet ヨハネ1:10-18 主イエスの恵みと真理、神の真心が、集まった会衆の心の中に染み渡りますように! アーメン! 教会の暦では12月25日がキリストの降誕日でそれから12日間、1月5日までを降誕節と呼んでいる。そして1月6日が顕現日、キリストがこの世に顕われたことを記念する日。1月6日は平日であるため、本日、顕現主日として、この礼拝は守られる。 降誕と顕現がどうちがうのかと思われるかもしれない。 降誕は、あくまで、イエス様が生まれたということ。 顕現となると、ギリシャ語で、Epiphany、英語ではMinifestation とも訳せるが、でその意味はStriking Appearance でビックリするように顕われること。 イエスがこの世の馬小屋で生まれてしまったこと以上に、もっとビックリすることがいろいろあったのだと思う。 そのひとつ、マタイの2章の1-12節に書かれていることだが、東方の異邦人の星占いをする博士たちにも、ユダヤの王の誕生がわかり、イエスを拝みに来たのだ。 顕現の意味することのひとつは、イエスが異邦人に対しても生まれた。 それはキリスト教会が、どんな人種や文化を持つものであろが、どんな社会的地位を持つものであろうが、キリストにおいて一つであること。 この教会で、日本人であっても、この礼拝堂で、いっしょに共同体を形成することに、神の意志は強く働いているのだと思う。 降誕にしろ、顕現にしろ、神が人となって、この世に顕われたということについて、神がどういう気持ちで、人間になったのか、神の人間に対する真心がということなのか考えたい。 この説教では、あるたとえ話をした上で、神の真心について、お話ししたいと思う。 外は大嵐だった。 ある人が家から窓の外を見ると川が流れており、その向こう側はあひるが何十匹も群れを成していた。 その川は濁流が激しく流れており、あひるたちはとても泳いで渡ることはできなかった。 川の向こう側は、今にも氾濫しそうで、あひるたちは、瀕死の状況にあった。 困っているあひるたち。 その川の数百メートル上流に移動すれば、橋があり、その橋を渡ってくれば、あひるたちは、みなこちら側の安全な地に来ることができ、助かるのにと思った。 窓からそれを見ていた人は、自分が今、あひるになって向こう岸にいき、そして、あひるの言葉をしゃべって、橋を渡らせ、こちら側に誘導して助けることができるのに、と考えた。 さて、この話はたとえ話だが、ひとまず、たとえ話は横におき、与えられた聖書の話に入りたい。 ヨハネ福音書1章の10節から18節を先ほど読んだ。 ヨハネがこの福音書を書き留めたのは、紀元後90年ごろと言われており、イエスを信じる者たちへの迫害が非常に激しくなっていたといわれる。 したがって、ヨハネはこの福音書を書き始めるにあたって、言葉を選び、イエスキリストとは書かずに、別の言葉を使って書き始めたと思われる。 ちなみに、ヨハネ1章1-3節は、1: 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2:この言は、初めに神と共にあった。 3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 今「言」として読んだところは、実は、イエスに置き換えて読むと意味が深まってくる。私が「言」を「イエス」にして、さらにわかりやすい言葉にして、同じことを伝えたい。最初からイエスがいた。イエスは神とともにいた。 イエスは神であった。 すべてのものは、イエスによって生まれた。。。 さらに10節から18節の中で書かれている「言」となっているところで、本日の説教で鍵となる箇所を、イエスに置き換えて、話したい。 14節には、「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」とあったが、「イエスは肉となって、つまり人間となって、私たちの間で共に過ごすようになった。」ということになってくる。 ヨハネ福音書の1章さらにヨハネ福音書全体で語られるポイントは、この世に存在するすべては、神なるイエスによって生を受けた。 しかし、イエスのことを忘れて、つまり神のことがよくわからずに、行動してしまう人間たちを思って、イエスは人間となってこの世に生まれた。 そして、神が、ご自分の創造した人間をどれだけ愛しておられるかを、イエスの十字架の死と復活を通して、示してくださった。 あひるのたとえ話をしたが、あひるは人間たち。 あひるだけではとても生きていくことができなかった。 そこで、窓から見ていた人は、実は神でありあひるたちに生を与えたイエスであった。 そのイエスがあひるとなり、つまり人間となり、導いてくださったということが、実際に起こった。 そのイエスは、神であり、人間すべてに生を与えた方である。 それゆえ、イエスの人間に対する愛は、抽象的な愛というものではなく、わが子のことで、からだの奥から湧き上がってくるような親の愛情、あわれみといつくしみにあふれている。 その子供たちの肌の色が何色であろうが、この世でどんな文化で育って、どんな仕事についたか、あるいは、年齢や男女に関係なく、造り主の、あふれんばかりのいつくしみが、この世に生まれたものにそそがれている。 その神の本当の気持ち、人間に対する恵みと真理、神の真心を顕にしてくださったのは、人間となって顕われ、私たちの中にやどってくださっている神、イエスキリスト、聖霊である。どのような社会情勢であろうが、常にイエスの愛が、神の真心が、私たちの中にある。 What is God’s Sincerity? John 1:10-18 May the Grace and Truth of Jesus Christ, God’s Sincerity, be poured into the hearts of the people in this sanctuary! Amen! In the Church calendar, December 25th is Christmas, and until January 5th, it is called Christmas Season. Then January 6th is the Epiphany. From Epiphany until one day before Lent, it is called Epiphany Season. Since January 6th is on a weekday, we observe and celebrate the Epiphany today. People might think what’s the difference between Christmas and the Epiphany? Christmas is the birth of Jesus Christ. The word Epiphany has Greek origins and it can be translated Manifestation or Striking Appearance. The fact that Jesus was born in a barn and placed in a manger in and of itself striking, but I think there is another more striking thing that is included in the story of Jesus Christ’s birth. It is written in Matthew Chapter 2:1-12. Wise, gentile men in the East, noticed the birth of the King of Judea and came to Bethlehem to worship Jesus. One of the aspects in the Epiphany of Jesus Christ is that he was born not only to the Jews but also for the Gentiles. Therefore, the Christian Church is open to all people regardless their race, class, gender, or age. It welcomes every individual. The appearance of Jesus Christ to this world at that time…
Tweet ルカ2:41-52 主の慈しみと愛が集まった会衆の上に豊かに与えられますように! 今日のメッセージ、私自身の告白からはじめたい。 妻のさと子は、結婚前に、スキーの準指導員の資格まで取得するほどにスキーを好んでいる。私も自然に親しむという意味では山に行きスキーを楽しむことは大好きで、結婚後、ぽこぽこ子供たちが与えられたが、子供たちがスキーに行きたい行きたくないに関係なく、毎年、何回かは家族でスキーに出かけていた。 7歳5歳3歳の子供たちを連れてスキーに行くには、だれかの協力が必須だった。 さと子の両親がまだ60歳前後のとき、我が家の5人、さと子の両親で、義理の父の持つ、8人乗りのバンに乗って、日帰りスキーに出かけた時だった。 夜遅く11時ごろだったが、私の運転で、妻の実家に着き、その晩は、さと子の両親の家にそのまま泊まることにした。 ぞろぞろ、大人も子供も車から降り、外の車を停車したところの横の玄関から、家に入り、疲れていたため、すぐに眠りについた。 すると、明け方3時半ごろになって、玄関をどんどんどんどんと激しくたたく音がする。 いったいだれかと思い、玄関にいくと、外から、3歳だった息子の寛の声がする。 玄関をあけると、寛が飛び込んで入ってきて、なんら文句も言わず泣きもせず、すぐに布団に直行し、寝てしまった。 冬の夜、東京という極寒地ではないにしろ、三番目の子供が車にまだ寝ていたのにもかかわらず、置き去りにしてしまったことに、なんど考えても、運転していて、最後の搭乗者が降りるのをたしかめなかった自分が、本当に情けなく思う。 また、あきらかに、乗車していたほかの家族も寛が後ろで寝ていることに気をとめず、当然いっしょに降りたものと思ってしまっていた。。。。。。 今日与えられた福音書箇所の内容に移りたい。イエスは両親や親戚とともに、毎年過越祭のためにエルサレムまで旅をした。 ナザレとエルサレムは150キロメートルくらい離れており、当時の交通事情からして、徒歩での往路復路には、それぞれ数日かけて、エルサレムに出向いていたのだと思う。 ある年、ヨセフとマリアは、息子イエスが当然、彼等についてきているものだと思って、エルサレムからナザレへの帰路についていた。 ところが、エルサレムを出て、丸一日たった時、長男イエスがいないことに気付く。 自分たちの子供がいないのに気付かないまま、一日も進んでしまうとは、いったいどういう家庭なのかと思うかもしれない。 とくにカトリック教会では、今日の聖書箇所は、聖家族の主日の箇所としているが、聖家族の両親とはいったい何なのかと考えさせる。 聖書をさらに読むと、ヨセフとマリアは、イエスが群れの中にはいないので、なにはともあれ、エルサレムに引き返すことにする。 エルサレムに戻る途中も、イエスは見つからなかった。 ヨセフとマリアはどんなにか、不安に陥ったかたと思う。 しかし、イエスと分かれてから、三日後、彼らは神殿で学者たちと会話を交わしているイエスを見つけることになる。 そして、マリアがイエスに語った言葉は、「なんでこんなことをしてくれたのです。父と私はどんなにか心配して捜していたことか。」との言葉だった。 それに対するイエスの反応は、少なくとも、息子を置き去りにしたまま、ナザレに向かったことを批判するものではなかった。 それより、「なぜ捜したのですか?」と言う。 さらに、日本語では「私が父の家にいることは当たり前だということを知らなかったのですか?」と訳されている。 この「当たり前だ」としている言葉は、ギリシャ語では「dei」という言葉があり、イエスが受難予告をした時、「必ず多くの苦しみを受ける」とか「三日後に復活することになっている。」などと語った時に使われている言葉と同じである。 そこには、イエスが神殿の境内にいたのは、神の定めたことで、必ず、私は神殿にいなければならなかった。という意味が含まれている。 三日間にわたる、ヨセフとマリアの家庭に起こった、長男イエスの迷子事件が今日の聖書箇所だった。その発端はヨセフとマリアの親として、不注意があったように思えてしまうような面がある。あるいは、少年イエスの受け答えを理解できない親の話であったような面もある。 それは、どこの家庭でも起こりがちな、反抗期とか、親子の断絶の問題にも似ているのかもしれない。 聖書が教えている家族の意味を考えるとき、たとえイエスの生まれた聖家族と呼ばれる家族でも、決して完璧ではない。どんな家族でも完璧ではないのだ。しかし、すべての完璧ではない家族、問題のある家族の真っ只中に、神が家族の一員となってくださっているという事がクリスマスのメッセージなのではないだろうか。 クリスマスが過ぎ、今週後半は、New Years Eve そして、新年を迎える。 家族で過ごす方も多いだろう。 また、家族とはいっしょにいられずに一人で過ごす方もいる。 いずれにしろ、家族ということを考えさせる時だと思う。 その真っ只中に、イエスが来てくださっていることを覚えることができれば、あなたも聖家族の一員となるのだと思う。 安達均 What Does the Holy Family Mean? 2015 12 27 Luke 2:41-52 May the Grace and Peace to you in the name of our Lord and Savior, Jesus Christ! Amen. I would like to begin today’s message with my confession as a parent…my wife loves skiing and I also love skiing, especially experiencing nature while skiing down snowy mountains. Therefore, when we got married, even though we were blessed with 3 children, we often went skiing, as a family, regardless of whether or not our kids wanted to go skiing. Think about going skiing with a 7, 5, and 3 year old children…the reality is it not possible without help. Since Satoko’s parents were still relatively young, around 60 years old at the time, they helped us greatly. One day, using Satoko’s father’s 8 passenger van, Satoko and I and our three children went skiing with her parents. We came back late at night after 11 p.m. That night, we decided to sleep at the in-law’s. I was driving the van and parked in the garage next to the house. The adults and children exited the car, entered the house, and everyone immediately went to bed. The next day, very early in the morning, like 3:30 a.m., there was a loud knocking at the front door. Both Satoko and I got up and went to the door. Then I heard Kan’s voice. I believe…
Tweet ルカ 1:39-45 祈り:待誕節第四主日に礼拝に集められ感謝します。語られる言葉が主の思いに適うものでありますように。 井戸端会議という言葉がある、どういう意味で使われているだろうか?あまり良い意味に使われていないような気もする。 もともとは、水道がなかった時代に、井戸に水を汲みにきた女性たちが、長い時間にわたって、うわさ話をしたり、女性同士でいやみをいうこともあったのだろう。 そのような会話をするということで、たとえ井戸がなくても井戸端会議という言葉がいまだに使われている。 しかし、本当に、井戸の周りに集まって、あるいは現代であれば、街角やスーパーでいろいろな話をすることは、好ましくないことなのだろうか? 現実問題、この復活ルーテル教会の礼拝に集まる方々は女性が多いが、教会に集って、礼拝の前後にぺちゃくちゃ話しをする。 現実問題として、そのような会話の中には、「あんなこと話さなければよかった。」と反省する方がよくおられる。 しかし、良い話もいっぱいあるのだと思う。 そのような会話の中で、元気づけられて、今の自分がある。 本当にどん底にいたけど、あの時、希望が持てた。 等々、たくさんあるのだと思う。 井戸端会議で、今日のメッセージをはじめたが、聖書の世界において、井戸はとても大切な場所だ。現代でこそ、都会ではほとんどみなくなった。 しかし、聖書の世界では、人々は、水を得るのに、井戸にでかけて行った。 そして、実際、聖書の時代にも井戸端会議はあったのだろう。 旧約聖書、新約聖書と通して、水を汲みにいくのは、女性の役割だったといってよいだろう。 だから、ヨハネ4章で、サマリアの女性とユダヤ人の男性イエスが出会って話をするのは、異例中の異例だった。過去に5回も離婚してしまったサマリアの女性は、多くの人々が水を汲みにくる朝夕の時間帯を避けて、水を汲みにきている。そこには、いわば井戸端会議に参加したくない、井戸端会議でいやみを言われるようになりたくないという気持ちがあったのだろう。 さきほど読んだ聖書箇所、女性同士の会話だ。与えられた聖書箇所の少し前には、天使ガブリエルから、結婚をしていないマリアが、神の子をさずかることを聞く話が書かれている。 ここで、マリアはとても複雑な思いもあったであろう。 世間からは、いいなずけのヨセフがいるのに、他の男性と交わったとして、殺されるかもしれない。 あるいは、逆に、世界最高の宝くじがあたったようにも思えたかもしれない。 そのようなマリアは、ガブリエルから教わった不妊の女といわれたが身ごもることができた親戚のエリザベトを訪ねる。 エリザベトは結婚していた。 ただ、もう子供はできない、50半ばをすぎたような年齢まで子供ができなかった女性だった。しかし子供が生まれることになったという意味では、異常ともいえる話なのだろう。 しかし、ガブリエルの語った「神にできないことはない。」という言葉に、マリアは多いに力づけられたのだろう。 そのような状況の中で、マリアは三ヶ月間、エリザベトの家に滞在する。 かなり長い期間だ。 この女性同士は、当時の生活様式から考えて、いっしょに、井戸に水を汲みに行くというようなことも当然あったと思われる。 しかし、彼女たちの会話は、現代、私たちが 使っている井戸端会議のような会話ではなかった。 エリザベトは「結婚もしてないのに、妊娠なんかして、いったいどうなんてんのよ。」というような話はしていない。あるいは、マリアが神の子をさずかるという話から、私は祭司ザカリアとの間に何年もかかって妊娠できだが、マリアは神の子をいきなり妊娠したわけで、そこに嫉妬心をいだいたりするようなこともなかった。 マリアの話を聞き、自分のおなかの赤ちゃん踊るのがわかったエリザベトは聖霊に満たされて、「マリア、あなたは女性の中で最も祝福された方」(41節)と声たからかに言う。 また、「主がおっしゃったことを必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」と話す。 そこには、エリザベトもマリアも、ガブリエルを通して与えられた神の言葉を信じ、神の約束が自分たちに起ころうとしていることを分かち会うということが、ともに井戸に水を汲みにいったり、食事をする中で、起こったことを聖書は伝えているのだと思う。 そこには、神の言葉を信じる者の、分ち合いの根本が描かれている。 そして、それは現代の教会で起こる会話の根本でもあるのだと思う。 与えられた聖書の御言葉、マリアとエリザベトの話は、現代の私たちの教会生活にも密着しているような話だと思う。 私たちは、人間が肉体的に生きていくのに、水が必要なように、精神的・霊的に満たされていくには、命の水、命の源となる神の言葉が必要だ。 だから人々が井戸に出かけるように、わたしたちも、命の水が湧き出る、つまり聖霊とともに、神の言葉が湧き出る、礼拝に集う。 そして、教会に集まって、神の言葉を聞き、その言葉を信じる者同士が、自分たちに起ころうとしている神の約束をわかちあうということがおこっている。 その一連の、神の言葉を聞き、分ち合いをするなかで、たとえ悲しいくつらい体験だったり、あるいは恥ずかしい体験をした1週間だったとしても、御言葉を聞き分かち合いをするなかで、新しい1週間に向けて、希望と喜びを持って、歩みだせる。 今日、みなさんは、この礼拝堂という、命の水が湧き出る井戸、泉のようなところに来られた。 そして、神の言葉をいただき、聖霊に満たされた。 クリスマスイブ、そしてクリスマスを迎える、この1週間、神がそれぞれに、どのようなことを実現しようとしているのか、思いをめぐらせていただきたい。 12月24日のクリスマスイブに、また、12月27日の日曜日で、元気をいただけるこの礼拝堂で会いたい。 Not Just Chatting Beside a Well Luke 1:39-45 Let’s pray: Dear Lord, thank you for gathering us together on this Fourth Sunday of Advent. We pray that my meditation and spoken words are filled with the Holy Spirit and guided by your will. In Jesus’ name we pray, Amen. There is a phrase “Idobata Kaigi” which literally means “A meeting beside a well” or “Chatting beside a well.” However, for Japanese people, what impression do you have about “Idobata Kaigi?” Most probably, you have a negative impression about this phrase. Historically, women gathered around a well and chattied with each other for many minutes…or even sometimes for hours. The conversation could become “gossip” or sometimes they criticized each other. Therefore, “Idobata Kaigi” is translated as gossiping in English. However, is it always a bad thing for people, or women, to chat or speak with each other beside a figurative well? Are those conversations most often about negative matters?…or can they be positive? At Resurrection Lutheran Church, Japanese ministry, we have more women than men. And many women chat with each other before and after worship. I know that there are several people who confessed that they repent about inappropriate comments in the past and wish they could take them back. I think there are many good conversations though, too. By having conversations, somebody thinks that because of the words Mrs. A said, they are truly encouraged, or…
Tweet ルカ 21:25-36 主の慈しみと平安が会衆の心に与えられますように! 1991年の10月に次男が生まれ、Kanという名前をつけた。 偶然だったが、その年の終わり、レコード大賞は、Kanという名前の歌手がとった。 何という曲だったか覚えているだろうか? そう、今日の説教タイトル「愛は勝つ」。91年の大晦日に、レコード大賞のテレビ放送を見ていて、「信じることさ、必ず最後に愛は勝つ」とくりかえされるこの曲が歌っていることが、聖書のイエスのメッセージと同じだなと思った。 そして、レコード大賞をとってから25年たっているが、この曲はくりかえしくりかえし、日本では流れているようだ。 2011年にYoutubeにアップされたものは180万回もアクセスされている。 教会暦では新しい年で、福音書としてはルカ福音書が中心でたまに、ヨハネ福音書が読まれる年となった。 そしてその第一日目の聖日は、ルカ21章は、先々週とりあげられたマルコ13章とくりかえしのような部分。信仰者として生きる間に、良い箇所、重要な箇所は、箇所は、くりかえされるのだと思う。 さきほど読んだ聖書の箇所には、「地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」 というなんとも不気味な言葉がある。 しかし、イエスの言葉は、決して人々を怖がらせることが目的ではない。 今日の箇所は、人々が不安に陥って、あるいは何もできなくなってしまうようなことがあっても、そのような束縛から解放されるという、希望と愛に満ちているメッセージがあるのだと思う。 それは、イエスが「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と言われていることに、世の人々に希望を与えるメッセージがある。 わたしの言葉とは、イエス自身のことであり、またイエスご自身が神の子であり、神は愛に満ちた方。 ヨハネの手紙では、「神は愛である」と書いている。 「決して滅びない」とは、決して負けないということ。 必ず勝つという言い方もできる。 ヨハネ14章から16章には、イエスが十字架にかかる前の晩に話された、長い講和が載っているが、その最後の言葉で、イエスが「私はすでに世に勝っている。」と話されている。 冒頭に話した、「愛は勝つ」を歌っていたKanさんは、小さいころ教会に通っていて、讃美歌をよくうたっていたそうだ。 私が、この曲が、聖書のイエスのメッセージと同じであるということ、わかっていただけるだろうか。 しかし、今日のメッセージは、一歌謡曲が、聖書のメッセージと同じだということだけを伝えたいのではない。第一アドベントに与えられた「愛は勝つ」というこの言葉が、みなさんにどう影響するかということを申し上げたい。 実は、この世の中、また世に生きる一人、一人が、イエスのいわれる通り、現代においても、さまざまな不安に陥って、束縛されてしまう現実がある。 どういうことに束縛されているだろうか? ご承知のとおり、世界中のどこでテロが起こってもおかしくない時代、そして、各国が持つ核軍事力により、いつかは、この世が滅びるのではないかという不安に縛られている方もいる。 あるいは、個人的には、いつか訪れる、自分の死に恐れている方もいる。 あるいは、「学校に行くのが怖くてしょうがない、不登校になってしまった。」 そういう本人、また、そのようなお子さんを抱える、おや、あるいはおじいちゃんおばあちゃんもいると思う。 それゆえに、家庭が束縛されてしまっている家族もいることだろう。 しかし、神の愛は、そのような中に、いっしょになって、入ってきてくださっている。 自分はその愛を受け取るだけでいい。 それさえあれば、神が私たちの束縛から解放してくださる。 「愛は勝つ」のYoutubeの書き込みに、以下のような事を書いていた”Harukana”というニックネームの方がいて、紹介したい。 「小学生の時、不登校児だった私。先生が迎えに来てくれた車の中で先生はずっとこれを流していた。 一年生だったから全然意味わからなかったけど、あれから数十年、、、その時の先生と同じ年になりました。なぜか先生といわれる仕事につきました。子どもも生まれて小学生だけどなんと私と同じ道をたどっています。 今なら先生の気持ちが痛いほどわかります。 先生あの時はごめんなさい。そしてありがとうございました。今度は私が子どもに伝えていきます。」 どのような時代が来ようが、そのような家庭生活となろうが、どのような人生であろうが、どのような困難を受けているかもしれない。 しかし、今日あるいは、少なくともこの待降節の間に、それらから逃れて、すべてに勝つことができる神の愛に向き合う道を永遠に歩めますように。 アーメン 安達均 “Love Wins” Luke 21:25-36 May the Grace and Peace of the Lord be poured into the people’s hearts in this sanctuary! In October 1991, our second son, Kan was born. Coincidently, in 1991, a singer-songwriter with the same first name Kan received the Japan Record Award called “Record Taisho”. Does anyone remember the name of the song? Yes, the tile of the song is the same as today’s sermon title, “Ai wa Katsu” which means “Love Wins.” When I was listening to the song in the New Year’s Eve of 1991, I thought that the meaning of the song is really the same as what Jesus said as written in the Bible. Even 25 years after the song was awarded “Record Taisho”, this song is often heard in public. I checked YouTube and found that a video of the song, posted 2011, was accessed 1.8 million times. Well, let’s talk about the Gospel text today. Today is the first Advent Sunday. The new year just started in our Church Calendar. This year, on Sundays, Luke (or John several times) will be read as Gospel. However the content will often be the same text as Mark or Matthew. Actually, the text today is again very similar to what we read two weeks ago in Mark 13. The good and important message is read again and again during our Christian lives. In the…
Tweet ヨハネ18章 33-37節 主イエスの恵み、憐れみ、そして平安が集まった会衆の心に豊かに染み渡りますように! 北の国からという北海道の富良野を舞台にして、視聴率抜群だったテレビドラマがある。 その主題歌を作詩作曲したのは、シンガーソングライターのさだまさしさん。 「北の国から」が大人気だったため、この曲も本当に有名になった。作詞作曲は、さだまさしと申し上げたが、どんな歌詞だったか覚えている方はいるだろうか? 「あーあー」「んーんー」「らーらー」「むーむー」という言葉だけが出てくる。 そもそも、さだまさしさんは、北海道が出身ではなく、長崎の出身だ。だから、北海道の様子は作詞できずに、ただ、「あーあー」とか「んーんー」とか言って歌ったのかもしれない。 ちょっと、歌ってもよいが、おそらく、一昨日で三ヶ月になったOOOくんも歌ってくれるのではないだろうか? 北の国からのドラマの中では、東京に住んでいた黒板五郎・玲子夫婦、長男・純、長女・蛍の4人家族がいた。しかし、玲子の不倫をきっかけに、東京を離れ、五郎、純、蛍は五郎の郷里の北海道、富良野の大地、すばらしい大自然の中で生活をはじまる。ふるさとのすばらしさを訴えるこのドラマは、富良野を有名にした。東京に住む多くの人々に、自分も故郷で、生活しようという思いにもしたのではないかと思う。 さて、今日の福音書の話に入りたい。 ひとことでいってしまえば、今日の話は、イエスのふるさとの話ともいえるかもしれない。ということは、ナザレの話か、それともクリスマスも近づいてきたから、ベツレヘムの話なのかと思う方もいるかもしれないが、私はナザレもベツレヘムも話をするわけではない。どういうことが書いてあったか、その一部を振り返ってみたい。 今日の場面は、イエスが十字架にかけられることが決定する寸前の、ローマ側の総督ピラトと、ユダヤ社会から罪人とされたイエスのやりとりだ。当時のユダヤは独立国ではなく、ローマ帝国の管理下にあった。ピラトはローマに任命されたユダヤ管理の責任者だった。 ユダヤがローマの直轄下にあっては、決してユダヤに王などいてはならなかった。そこで、総督ピラトは、「お前はユダヤの王なのか」と質問する。それはとても大切な質問だった。 ユダヤの教理上は、死刑などにはできないユダヤ教の指導者たちは、イエスを死刑においこみたかった。そこで、イエスが「ユダヤの王だ」という罪状をつけて、総督ピラトの手に渡せば、ローマ帝国派遣の責任者として、イエスを死罪と決めるであろうというもくろみがあった。 総督ピラトのイエスへの質問、「お前はユダヤの王なのか」という質問に対して、イエスは、「私の国はこの世に属していない。」と言われた。原語であるギリシャ語からその意味をつきつめると、「私はこの世から来たのではなく、父なる神の国から来た。」という意味にとることができる。 「神の国から」それは、イエスのふるさとは、父なる神の国であって、決して、この世がふるさとではない。そこには、神の国が本当にすばらしいところであって、神の子としてこの世に一時的にきている状況なのだ、と話しているともとれる。 そして、イエスがこの世においては、たとえどんな苦しいことが起ころうが、十字架に架けられ死刑になろうが、神の国から来たイエスは復活した。神の国にその根本があるイエスは、揺らぐことがなく、人類への赦し、憐れみ、愛を示し、イエスは永遠に生きる存在であることを示された。 冒頭で、「北の国から」のドラマの話をしたが、わたしは、自分のふるさとはどこなのか、ということを考えさせられる。私は、横浜生まれ横浜育ちで、富良野にみられるような大自然のふるさとがあるという感覚はない。自然の中に自分を置くことは大好きだが、北の国からに表現されたような、大規模な大自然のあるふるさとを持たない自分は、さだまさしではないが、北海道をふるさとだと想像しても、「あー、うー」と言う言葉が出てくるだけかもしれない。 しかし、小さいころにキリスト教に導かれ、キリストの名によって洗礼を受けた私にとっては、ふるさとは、私も神の国がふるさとで、私の根は神の国にはっているのだと思う。それゆえ、この世の生活にいつか終わりが来ても、世の命は一時的であって、神の国へ凱旋し、永遠に生きる存在であると信じている。洗礼を受けた時点で、私たちの永遠の命ははじまっている。 キリスト者として生きるとは、神の国からきたイエスと同じところを、心のふるさととして生きることだといえる。それゆえ、この世の生活のなかで、1週間の間に、なにかつらいことでも、うれしいことでも、なにがおころうが、日曜には、神の憐れみを仰ぎ、赦されて、御言葉を聞き、恵みをいただく。 毎週里帰りをしているようなものだと思う。それは、物理的なふるさとに里帰りをすることとは異なって、不思議な力、希望と喜びをいただける。キリスト信仰者は、十字架の死と復活を通して示された、キリストの愛の中に生きており、すでに神の国における永遠の命に生きている。アーメン 安達均 From the Kingdom of God John 18:33-37 May the Grace, Mercy, and Peace of the Lord, our Jesus Christ be poured into the hearts of the people! There was a very famous TV drama called “Kita no Kuni Kara”, featured people living their lives in Hokkaido. The literal translation of the title is “From the Kingdom of the North.” The theme song of “From the Kingdom of the North” became very popular also. It was composed by famous singer, songwriter Masashi Sada. Although I said, songwriter, is there anyone who remembers the lyrics of the theme song? The lyrics only consisted of these sounds “Ah, Ah, Nh, Nh, Lah, Lah, Muh, Muh.” Some of you might know that Mr. Masashi Sada was not born on Hokkaido, the north island of Japan, but was born on Kyushu, the south island of Japan. Therefore, he might not know Hokkaido well and his song is only “Ah Ah” “Nh Nh”… anyway why don’t we all sing it together, including Hayato-kun, who turned three-months old just this past Friday. In the drama, a family of 4 was living in Tokyo: Goro, the father, Reiko, the mother, Jun, the son, and Hotaru, the daughter. Goro and Reiko eventually divorced, then Goro, Jun, and Hotaru returned to Goro’s hometown, a place called “Furano” in Hokkaido. They began a sometimes difficult but wonderful life in the beautiful town of Furano. The drama showcased the…
Tweet マルコによる福音書 13章:1-8節 聖霊が豊かに会衆の心に注がれ、主イエスとともに生きる永遠の命を確信し、希望と喜びに満たされますように! 先週、どんな気持ちで過ごされていただろうか? 教会の暦では、年末に入ってきた。 一年を振り替えさせる事件がおきたように思う。 週末には悲惨なテロのニュースでメディアは明け暮れた。その少し前、中東では、ロシアがシリアで爆撃をくりかえし、アメリカはアメリカで、的をしぼった、無人機からの爆撃をしていた。 後藤氏と湯川氏や他の人々を人質とし、日本政府や他の国々の政府にも対応をせまっていたビデオに登場していた男性を覚えているだろうか? その男、Jihadi Johnを殺害したと、11月12日に、アメリカ国防総省は、発表していた。 今年の終盤にはいってきて、今年はじめにおこっていた日本人殺害のニュースを思い出していた。 そして、昨今の状況を見るにつけ、イエスが言われた通り、民は民に、国は国に敵対するということが、世の定めということなのだろうか。 与えられた福音書、今年はとくにマルコ福音書が中心に読まれてきた。来週は、聖霊降臨後最終主日あるいは王なるキリストの主日と言って、教会の暦では、最後の主日となる。 その日に与えられる福音書はヨハネが読まれるため、聖日にマルコを読むのは、今年最後。 はっきりいって、マルコ8章から後の、福音書は、つらい箇所が多かったように思う。 そして、今年最後に与えられているマルコは13章が与えられている。難しい箇所ではあるが、じっくりよーく読むと、希望にあふれ喜びを体験できる聖書箇所だと思う。 さきほど、その1節から8節を拝読したが、ユダヤ教の総本山ともいうべき、エルサレムに、イエスと弟子たちがやってきた様子からはじまっている。 その様相は、神殿の豪華さ、立派さに、一目ぼれしている弟子がいる。 しかし、それに対するイエスの反応は、弟子といっしょになって、石の上に石が積み上げられたおおきな神殿の豪華さに見とれているのではなく、どんな石も崩されずに他の石に載ったままでいることはないと言われる。 イエスはいったい何をおっしゃりたかったのだろうか? 歴史的な事実として、たしかに神殿は紀元後70年には崩壊する。 そのことをただ、神殿の崩壊として予告したということなのだろか? 私には、現代を生きる私たち、というかいつの時代を生きる人類に対しても、もっと普遍的な教えを述べられていると感じる。 それは、どんな石もほかの石の上に載っていることはなくなるというのは、土台と思っていたものが土台ではなくなってしまう。 マルコ13章後半であきらかになるが、イエスは「天地は滅びる。」とまで言われる。 「しかし私の言葉は決して滅びない。」と言われる。 イエスがおっしゃりたいことは、目に見えるものはすべて滅びる、私たちの目に見える身近なものばかりではなく、天地さえ滅びる しかし、イエスの御言葉は決して滅びないということを、普遍の教えとして伝授したかったのではないだろうか? 私たちは、目に見えるものや、与えられた地球環境に、振り回されるように生活している。 車に乗っていれば、道路をしっかりみて、周りの車をしっかり見て、また暗くなればライトをつけるし、雨が降ってくれば、より慎重に運転する(カリフォルニアに住む多くの州民を除いてと言いたくなることもあるが:) )、そのような生活をしている。 イエスさまは、そういう生活をするのはやめなさいということではないと思う。 しかし、目に見えるものも、天候だとかも、いずれはすべて滅びてしまうときが来る。 だから、根本のところでは、目に見えるものを土台にする人生ではだめですよ。 という警告をされるとともに、もっとしっかりした土台がありますよ、とおっしゃってくださっている。 それは、イエス様の御言葉。その御言葉は、決して滅びない。 イエスさまご自身、イエスの愛と慈しみは、世の中で、民が民に敵対し、国が国と戦争をし、さらに、天変地異がおころうが、天地が滅びようが決して、イエスの愛は、終わらない、永遠である、そのことを生きる土台として生きてまいりたい。その土台に希望・喜びがある。 2015年の教会暦は、終盤にきた。 Thanksgivingは新しい年の聖書日課となり、Thanksgivingの週末の日曜からはアドベントとなる。 この教会暦の年の変わり目に、家族と会ったり、自然探索などをして、見えるものをしっかり見て、目の保養をすることは巣晴らしと思う。 しかし、同時に、自分の土台はなんなのか、考えてはいかがだろうか。ヨハネ福音書は「はじめに言葉があった」とはじまっている。マルコ福音書では「わたしの言葉はけっして滅びない」とイエスの十字架に架かる前の遺言のような言葉を述べた。その御言葉、主の憐れみ・愛を土台にして生きる生活を、年の変わり目を迎えていく時期に新たにしよう。アーメン 安達均 Foundation of Our Lives Mark 13:1-8 May the Holy Spirit come to the hearts of the people in this sanctuary and make us certain about our eternal lives walking with Jesus Christ! How did you feel last week? It is actually getting close to the end of the Church Calendar year. I think there is an incident that made us reflect upon the beginning of the year. In the Middle East, Russian is bombing locations in Syria. The US is raiding certain areas using unmanned aircraft. Early this year we saw news video of Mr. Kenji Goto and Mr. Haruna Yukawa as hostages; they were later killed. In that video there was a man called Jihadi John who was demanding the Japanese Government pay a substantial ransom…last week, the US Department of Defense announced that Jihadi John was killed during one of the raids. While getting close to the end of this year, the news made me reflect upon the beginning of the year. It is sad but I am acknowledging the reality that nation rise against nation, and kingdom against kingdom, as Jesus said. This year we have been reading the Gospel of Mark. To be honest, especially after Chapter 8, there were difficult verses. Next week, it will be the last Sunday after Pentecost, and we will read the Gospel of John. Therefore, the reading of Mark is the last…
Tweet マルコ12:38-44 主の恵みと憐れみが礼拝堂にあつまった兄弟姉妹の心の中に豊かに注がれますように! 私は、横浜の田舎、日吉で生まれ、お寺や神社に囲まれていた。家の近辺、1マイル四方に、神社とお寺が4つはあったと思う。 そのような、さまざまな宗教を身近に感じながら育った。 日本人が、祈願・奉献をするために、日本神道の神社に行って、最初にすることは、まず鈴を鳴らすという作法がある。 私は最近まで、その意味をよく知らなかったが、先週訪問されていた大江教会の立野牧師や信徒の方の意見を伺ったり、またインタネットで日本神道の専門家の解説を聞いた。それは、罪深い自分を鈴の音によってきよめ、そして、祈願をするためそして貢物を奉納するために、自分が来たことを神にわかっていただく、という意味があるようだ。つまり日本神道の神をお呼びするような意味もあるようだ。 与えられた福音書の内容に入っていきたい。 イエスはユダヤ教の指導者たち、律法の専門家に関する教えを語られた。そのあと、福音書記者マルコは、賽銭箱の前で献金していく人々の様子を伝えている。 当時のユダヤ教のシナゴーグにおいてあった賽銭箱は、ラッパ型をした雄牛の角、13個から出きていたそうだ。 福音書に描かれた光景から、金持ちたちが、たくさん献金していたようだ。 私の想像ではあるが、おそらく、たくさんのお金を入れることによって、この13個のラッパが大きな音をたて、「私はたくさん献金しましたよ。」という神への報告とともに、また、周囲の人々へのみせびらかしもあったのではないかと思う。 そこへ、一人のやもめが、やってきて、当時の通貨では最小貨幣価値の銅貨を、二枚だけ、献金した。それは、金持ちたちの献金に比べ、どんなにかか弱い音で、いったいいくら入ったのか、あるいは、お金だったのかどうかもわからないような音でしかなかったのではないだろか。 しかし、イエスは、それを見逃さず、また聞き逃さなかった。イエスはやもめが入れた献金の音をしっかり聴いた。主イエスは、聞き逃さないどころか、やもめが、夫の死後、ほとんどの財産を、律法の指導者たちから、奪い取られ、ほぼ無一文になってしまったことがわかった。 そのことによる、やもめの痛みが、イエスにも、はらわたが、しくしく痛むほどにわかったのだと思う。 主イエスは、本当にかすかな、寡婦の嘆き、また憐れみを求める願いを、たとえ音にはならなくても、また、言葉には、ならなくても、聞いてくださっている。 そこには、主が、ともに痛みをおってくださっている主の憐れみがある。 英語ではCompassionというが、Comという言葉は、共に、また、Passionには、痛みという意味がある。 だから、共に痛みをおってくださるのが憐れみだ。 2週間前は、パシフィカ教区とサウスウェストカリフォルニア教区の多くの牧師とともに、Theoasisというカンファレンス(研修会)に参加していた。 講師の一人は、一昨年前まで、アメリカ福音ルーテル教会の総主教を12年務められたマークハンセン氏の90分づつあるいは60分の講演を、三日間にわたって聴いた。 すべてすばらしいものだった。 彼の講演のテーマの一つは、多文化、またますます増える様々な宗教に囲まれる中で、クリスチャンとしてどういう存在であるべきか、ということだった。講演中になんども牧師たちに質問をし、その質問について牧師たちで真剣に議論しあった。 その最後に、マークハンセン元総主教は、次のような質問をしたのが、印象的だった。 クリスチャンとして、絶対譲れない、キリスト信仰の核となる確信は何だろうか?ということだった。 冒頭に述べた、日本神道の教えには、私はすばらしいものがあると思っている。 また、今日は、話にはとりあげないが、私の母方の祖母が毎日「南無妙法蓮華経」とお経を読み信仰していた仏教にしても、すばらしい教えがあると思っている。 しかし、日本では、1637年代から1873年代までキリスト教が禁教となり、刑罰は死罪だった時代がある。 しかし、私の父方の曽祖父が、周囲に伝道的なすばらしい宗教がありながらも、1880年、キリスト教が解禁となってまだ10年以内だったが、キリスト教信仰を持った。 曽祖父が書き残してくれたものを読むと、最初はプロテスタントの牧師の話を聴いたようだが、「してはならないこと」ばかりを話され、全然、キリスト教信者にはなろうと思わなかったそうだ。(ちなみに、ルーテル教会が日本に来たのは、私の祖父が洗礼を受けた後、15年くらいしてからである。) 曽祖父は後に、ロシアからの正教の教えを聞き、家族全員で洗礼を受けることになった。 曽祖父がキリスト教信仰に導かれた背景には、神の憐れみがあったのだと思う。 神は、ご自分の造られたすべての民への憐れみをいだいている。 民が神に背いてしまうようなことがあっても、その民を憐れんで愛しているがゆえに、主イエスは無となり、自らの体と血を捧げ、十字架に架かられた。 そして、墓に葬られた。 そして、墓からよみがえって、その主の愛を永遠のものとしてくださった。 神は、社会がもっとも小さき、価値の無い者とした寡婦にも、憐れみを示された。 神は、240年もの間、キリスト教など価値が無いとして禁教にして、何人ものキリスト信者を十字架に架け殺してしてしまった日本の民にも、その憐れみを示された。 私は、十字架上の死と復活を通して示されたイエスキリストの愛、どんな人であろうが主が憐れんでくださっていることが私の譲ることができない核となる信仰の確信であると申し上げたい。 私たち、一人一人、譲ることができない核となる信仰の確信について考えることをお勧めしたい。 アーメン 安達均 What is the Core Conviction of Your Faith? Mark 12:38-44 May God’s Mercy and Grace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! I grew up surrounded by multiple religions in Yokohama, Japan. Within a mile square, I believe there were more than four Nippon Shinto Shrines and Buddhist Temples. When people go to a Nippon Shinto Shrine to pray and give an offering, the first thing that person does is ring a bell. The bell is not like a hand bell used in the Christian Church, but more like a jingle bell. I did not know the meaning of ringing the bell until recently, but I researched a little bit via the internet. Pastor Tateno and one of Japanese congregants, Shingo, helped me to understand the meaning while they were here last week. The meaning of the bell sound is cleansing a person’s sinful heart and body before giving the offering and prayer. It also calls the Nippon Shinto god to show up and listen to a person’s prayer and see what he or she has offered. Now, I would like to jump into the good news that was read a short time ago. After Jesus taught about Jewish scribes, St. Mark describes how the crowd put their coins into the treasury box. At that time the treasury box in the very front of the Jewish synagogue was made of…
Tweet マルコ12章28-34 日本福音ルーテル大江教会 立野泰博牧師 日本で有名なシンガーソングライターに中島みゆきと言う人がいます。最近彼女の「糸」という作品に自然と涙が流れてしまいました。自分も歳をとってシニアになってきたのだと思います。 彼女の歌はこのように始まります。 「なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない いつ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない」と。いまここに集まっておられる方も同じです。私たちの知らないところで、神様は出会わせてくださり、日本からもやってきて礼拝に参加し、27周年をお祝いしています。これは神様がくださった奇跡です。 さらに歌はつづきます。「どこにいたの 生きてきたの 遠い空の下 ふたつの物語 縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」と。この辺でいつも涙腺がゆるみます。私とあなたがそれぞれ1本の糸で、それがおおく交わっていくと一つの布になる。しかしよく見ると重なったところはすべて十字架なのです。私たちがイエス様によって一つにまじわるとき、痛み苦しむ人たちの心を暖めうる一枚の布になる。27年の間にその布は広がって、より多くの人を暖めているのです。 さらに歌はつづきます。「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない」そして「 縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを 人は 仕合わせと呼びます」。神様によって出会うべくしてここで出会い、キリストの十字架によって一つとされた私たちの教会。その教会がいま新しい方向転換へと招かれています。 本日の聖書をみてみましょう。一人の律法学者がイエス様に尋ねています。マタイやルカの福音書によれば、イエス様を試そうとして質問したことになっています。ところがマルコでは尋ねたとあります。たぶん、イエス様の福音とユダヤ教の教えの違いをはっきりさせるためだったといえます。簡単にいえばイエス様の教えとユダヤ教の教えはどこが違うかということです。あくまでも謙虚に尋ねたのでした。 さて、ユダヤ教には613の掟がありました。そのように多ければ人間の性格として、どの掟が第一のものかという問いがでてきます。つまり掟のランク付をする努力をしていたのです。しかし、ランク付をしてもすべてを守るべき義務はかわらないのですが。律法学者の質問は「イエスよ、あなたならどの掟を一番とするか」ということだったのです。 イエス様の答えは二つでした。「神を愛すること」「人を愛すること」。これはわけられない。これはランクが付けられず、すべての律法はこの二つに集約できるといわれたのでした。じつはこれが縦の糸と横の糸なのです。しかしそこにキリストの十字架を見つけることができたでしょうか。 しかし、律法学者は感激しています。つまり自分と同じ答えだったのでしょう。この律法学者はとても熱心に勉強していた人でした。彼の答えをみてみると、旧約聖書のありとあらゆるところから答えを出しているからです。 イエス様もまた彼の答えを称賛されています。そして「神の国から遠くない」と言われたのでした。つまり、それだけ学んだことを生きていきなさいと言われたのでしょう。しかし、イエス様の彼への答えをみれば、そこまでわかっているのならもう一つのことが分かれば完全だと言われたように思います。それは何か。目の前にいるイエス様を信じることなのです。その信仰が彼を完全なものにする最後の一つのことでした。彼にとって新しい方向転換をしてイエス様を受け入れるだけでいいのです。しかしそれができない。だからこそ、「あなたは神の国から遠くない」そこまできているよと言われたのです。 大江教会は今年、新しい方向転換をしました。集会室をカフェにすることを承認し、計画を実行しました。教会が、地域の教会として九州学院へも宣教する教会となるための整備でした。これまで大江教会は「集会室」という場所をもっていました。もともとは地域へむけての宣教の場として、サークル活動や勉強会、地域の会議などに用いられてきました。時代は変わり、地域公民館が整備され公の会場が出来たことにより、教会は内部で使用するだけ部屋となりました。1週間、何も使用されず、人も訪れず、寂しい空間になりました。 そこで、大江教会では時代に添う変革を考えました。再び地域に開かれ、人が集まる場所になるための計画を立てました。それが「集会室のカフェ化」です。新しい方向転換を選択しました。 現代の若者たちは、時間のある時、ちょっとした集まり、仕事をするとき、勉強をする時「カフェ」を利用します。スタバなどはいつも満員です。ここに注目しました。集会室をカフェにすることで教会の門を広げる計画でした。自由に珈琲も飲める。安心してそこに居場所を見つけることができる。そして十字架を置くことによってキリスト教をさりげなくアピールできる。さらに信仰的な書物を置く。大江教会カフェのファンを増やし、教会の持つ壁をなくすことでした。 教会が縦の糸となって、地域が横の糸になる。交わったところが人を暖め、傷を癒す場所となる。最近一人の中学生がカフェにやってきました。お母さんと二人でした。人伝えに教会カフェのことを聞き、勉強する場所を探してこられました。彼女は脳腫瘍の病があり、いつ倒れるかわからない。教会カフェならば神様のもとで、安心して居場所としてなるからと。私たちの教会が新しい方向転換で目指していたものはこれでした。イエス様が全ての人を受け入れてくださる一つの布になることです。 私たちは考えて理解します。ところが、そこで止まってしまうものなのです。本日の聖書からもキリスト者にとって大切な掟は二つだ、「神を愛すること」と「人を愛することだ」と理解します。しかし、それを生きていきなさいと言われると止まってしまいます。イエス様はそんな私たちに「あなたは神の国から遠くない」といわれます。 私たちは、この27年の宣教で多くの糸がここに織り込まれているのをしっています。天に召されていかれた多くの人の信仰もここに織り込まれている。LCR日本語部という布は、「いつも、人を暖め、傷をいやし、イエスと出会い、幸せと導かれる」のです。 28年目にむかって、もっとおおきなイエス様という1枚の布を広げていきましょう。 “Our New Turning Point” (Mark 12:28-34) Message by Pastor Yasuhiro Tateno November 1, 2015 27th Anniversary of LCR Japanese Ministry There is a famous singer, songwriter named “Miyuki Nakajima”. Recently I found myself in tears when I was listening to one of her songs called “Thread”. Maybe I became more sensitive to certain lyrics as I’ve gotten older. Her song begins like this: “We don’t know the reason why we meet each other, we never know when we encounter”. I think we can say the same thing to all of us who are gathered here today. God plans each encounter beyond our knowledge. It is God’s miracle that we are here from Japan and celebrating the Japanese Ministry’s 27th anniversary together with all of you. Her song continues: “Where have you been? Two life stories, living under the far away sky. You are the Vertical Thread, I am the Horizontal Thread. We can create the cloth by weaving your thread and my thread together. And that cloth might warm someone someday”. When I hear this part, of the song, my eyes get teary. You and I, different threads, but when we continue to gather the threads and weave them together, it will become cloth. And when we look it…