四旬節第1主日聖餐礼拝     2011年3月13日

創世紀2:15-17,3:1-7

「蛇からりんご買っちゃだめだよ」 “Never buy an apple from the snake”

岸野豊牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安が、あなた方の上にあるように。アーメン。

皆さんの人生の中で、この歌、この歌手こそ私にとても影響を与えたというものがあるはずです。それが美空ひばり、フランク永井, 島倉千代子、石原祐二郎、吉永小百合、坂本九かもしれない。私の大好きな歌手は皆さんもご存知の広田美恵子、そしてBeatles です。1960年代から70年代にかけてよくBeatlesの歌を友達と歌いました。お風呂の中でも歌っていました。

特に私の好きなのは  “Yesterday” という歌。歌詞を英語と日本語で入れましたので読んでみてください。英語の歌詞を読んでみます。”Yesterday, all my troubles seems so far away, now it look as though they’re here to stay, oh I believe in yesterday.  Yesterday, love was such an easy game to play, now I need a place to hide away, oh I believe in yesterday.”私はこの歌を歌っている時、何故かエデンの庭から追い出されて一日過ぎた、そんな時のアダムの心境を感じるのです。昨日までは遥か彼方にあった苦悩が、今は僕の元に座わろうとしている。不意に僕は今までの僕ではなくなった。暗い影が僕に重くのしかかる。ああ悲しみは突然やってきた。昨日までは素晴らしい日と信じていたのに。

岸野先生は説教も歌謡曲から発想するんですね、と言われて全くその通りです。

さてアダム、昨日まで何も心配事なくエデンの園と言われるまさに天国のような所で奥さんのイブと二人幸福に暮らしていたんです。畑仕事をしなくでもOK,昼も夜も気候がよく, 裸のままで生活していた。 おいしい果物はいくらだって食べられた。ただ禁じされていたのは、エデンの庭の中にある、木の実、それだけは食べてはいけない、触ってもいけないと神様から言われたのです。

そこにいた蛇がイブに言いました。「エデンの園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのですか?」蛇は誘惑を施すもの、つまりここでは悪魔です。人間は誰でも人生の中で何回も誘惑され、悪魔に打ち負かされた経験があります。これは誰でも経験したことですが触っちゃだめだよと言われると触りたくなる、食べちゃだめだよと言われて、ますます食べたくなる。

ところで、イブが蛇に唆されて、叉、アダムもイブにそそのかされて食べた果物はりんごだと皆から言われますが、聖書にそれがりんごとはどこにも書いてありません。でもどうしてりんごと言う風になったかと言うと、それは二つのラテン語の言葉からの言葉の遊びです。ラテン語でEvil, つまり悪魔はmalus そして、りんごはmalum だからです。同じようにりんごに毒をいれたのは白雪姫と小人たちの話の中に出てくる嫉妬に駆られたおばあさんに変装してで出てきたwitch queenです。

テレビで昔、Animal Kindgom というテレビのショーで蛇について語っていたことを思い出します。と言うのは、蛇は自分の餌になる動物に出会うとその動物を催眠術にかける力をもつていると言うのです。

鼠が蛇に出会い、どの様に退却しようかと考えているうちに、目と目を合わしているうちに催眠術にかかり動けなくなくてしまうと言うのです。悪魔とはそんな存在ではないでしょうか。

悪魔は私たちに催眠術をかけ、私たちの心の中まで忍び込んで、気がつかないうちに私たちの頭の中に麻薬を入れてしまうのです。

叉私たち人間は、好奇心の強い生き物です。いろいろなことが知りたい、明日何が起こるのか知りたい、私は果たして幾つまで生きられるか知りたい。然しそれは知ってはいけない事というよりも知ってしまったら逆に人生を空しく生きてゆくことになるのではないでしょうか?

日本では誰でも知っている浦島太郎の話しをしましょう。「昔昔浦島は、助けた亀に連れられて、竜宮城へ来て見れば、絵にもかけない美しさ」。浦島太郎は毎日、毎日の宴会を乙姫さんと過ごしてきたわけですが、地上の生活が懐かしくなり、乙姫様に別れを告げて叉、亀に乗って自分の故郷に帰っていった。しかし、地上の様子がすっかり変わっている、何かおかしい、海辺は知ってる海辺だけれども、そこにある家も、人も、知らないものばかり。その時、乙姫様からいただいた玉手箱に、いったい何がはいっているのかと気になってきたのです。

然し、乙姫様からその玉手箱をお土産でもらった。その箱を開けてはいけませんと乙姫様は言ったではないか。さてどうしよう。まさに蛇にそそのかされたイブ、叉イブにそそのかされたアダムの葛藤と同じです。ここで誘惑に負けた浦島太郎は紐を解いて玉手箱を開けたのです。突如、浦島太郎は若い青年から真っ白な髪のおじいさんの姿に変わったのです。たったひと時すごした海での楽しかった時も、地上の世界では何十年も過ぎた時間に等しかったのです。

はっきり言って、浦島太郎の話と蛇にそそのかされたイブとアダムの話しはまったく関係の無い話かもしれません。然しこの好奇心の追求と言う思いは、良い答えを与えてくれることもありますが、そうでないこともあります。

2週間前、日本に一週間帰国した時、「あんたもうそろそろアラ還ね」と言われました。」あらかんとはなんだか知らなかったのですが、それは60歳になる祝い事ですね。高校時代の何人かの同級生から招待を受けて居酒屋でお互いの生活の問題、特に退職の年代に近ずいている、また、健康の問題など話しました。。停滞気味の日本の経済の中で退職して、昔のように気兼ねの無い生活ができるかなとの声も聞きました。

人間は誰でも幸福に暮らして行けたらならと思う、そしてそれがどんなものか、少しでも神様、その私の将来の一ページでも見せてもらえたら嬉しいのですがと私たちは願うかもしれない。でも、その将来の一ページを見た所で、なんと怖い思いをする、悲しくなることになるかもしれない。人生知らぬが仏であってもいいのです。神様から与えられた人生を一歩、一歩神様のみ心にかなうように生きてゆくことの人生、それは神様が私たちを守り、導いてくださる人生、それを私たちは望むのです。

昔のことは昔のことで、それはどうにもならない。だからこそ今の時を大切に生きてゆく人生、を私たちは神様、イエス様に祈り求めるのです。イエス様は私たちが心の中で思っていることを全てご存知です。それを祈りの中でイエス様にもう一度話してみてください。イエス様は私たちの人生の中で必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。

アーメン。

                                                                                         

「サマリヤの女」“The Woman of Samaria”岸野豊牧師

私達の父なる神、主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。

アーメン。

福音書の中にはイエス様によって心を動かされた沢山sの女性についての話があります。その中で皆さんのよく知っている三つの話があります。一つは、長血を患っていた女。この女は自分の持っていた全てのお金をこの病気の治療の為に色々とつぎ込んだのに12年もの間この病気で身体的にも、精神的にも苦しんでいた女です。イエス様という方はどうも色々な人の病気を治すことが出来るという噂を聞いてこの女はイエス様の後に歩いて行きイエス様の衣の裾を触った所、病気から一気に開放されたのです。

叉1人の女はイエス様がお客として来ていた家に来て、高価な香油をイエス様の足に注ぎ泣きながら、自分の髪の毛でそれを塗りつくした女。この女はファリサイ人に軽蔑されていたのですが、イエス様はこの女の行為を素晴らしいものと認めたのです。

もう一つの話は娘が悪霊によって苦しめられていたそのお母さんのイエス様への必死の癒しの願いです。「主よどうかお助けください」とこのお母さんがひれ伏して頼んだ時、イエス様は言いました。「子どものパンを取って子犬にやってはいけない」と。それに対してお母さんは、「ごもっともです。然し、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。イエス様はこのお母さんの信仰を賛美し、その時娘は病気から癒されたのです。

さてこれらの奇跡、そしてイエス様の女性に対しての思いやりは他に例がないほど当時の人たちの心を動かしたものではないでしょうか?

今日の福音書に出てくるサマリヤの女の話も世間の中で、人々に見くびられている、肩身の狭い、自尊心に欠けた女の話です。それもユダヤ人から嫌われていたサマリヤ人の女性です。

ところでサマリヤ人の話というと皆さんはGood Samaritan、善きサマリヤ人の話を何度か聞いたことがあると思います。これはルカの福音書だけに出てくる、ある1人のユダヤ人が旅路で強盗に会い、半殺しにされ道端に投げ込まれた話です。最初にこの死にかかっているユダヤ人に気がついたのは、ユダヤ人の祭司です。見て見ぬふりをしてそこを通り過ぎた。そして次に来たのがリーバイと呼ばれるくらいの高い人。でもこの人も変なことに拘りたくないとそこを素通りしたのです

そして、次に来たサマリヤ人は、この半殺しになっていたユダヤ人の男を自分のロバに乗せて次の町の旅館まで連れて行き、この知らない男を医者に見てほしいとお金まで出して、この男の快復を祈ったのです。この話がよく知られている裏には、ユダヤ人とサマリヤ人の仲が悪いと言う事実もあった訳ですが、人間としての他者に対しての思いやりは人種、民族を超えてあるべきものではないでしょうか。

今日の福音書はイエス様がイスラエルの南、ユダヤの土地から北のガラリヤへ弟子たちとサマリヤを通って行く途中に起こった話しです。

イエス様の生まれる7世紀以上の昔、ユダヤ人はアッシリヤと呼ばれる国との戦争に負けた結果イスラエルの一部であったサマリヤに住んでいた多くの人たちは捕虜、あるいは奴隷としてアッシリヤに連れて行かれたのです。然しそこに残ったユダヤ人はユダヤ以外の人たちとの結婚により100%ユダヤ人としての純潔な血筋を失ったのです。その混血のユダヤ人がサマリヤ人と呼ばれるようになったのです。

同じようにユダというイスラエルに住んでいたユダヤ人もバビロニアと言う国との戦争に敗れサマリヤの人たちと同じように長い間バビロニアに捕虜として連れて行かれました。この人たちが後にイスラエルのユダの土地にもどってきた時、サマリヤ人はユダのイスラエル人に手を差し伸べたのですが、ユダのイスラエル人は、 “No thank you, we don’t need your help. We are pure Jews, not like you people.  We have nothing to do with you.” と言ってそれ以来、サマリヤ人は汚れた民族として他のユダヤ人から軽蔑されるようになったのです。それ以来ユダヤ人はサマリやの土地に入ることさえ控えていたのです。

イエス様はそのことを知っていながら自分の育った故郷であるガラリヤをサマリヤの土地を通って行かれたのです。イエスの弟子たちは、恐らく殆どのユダヤ人は遠回りでもサマリヤの地を避けて旅をしたのです。然し、サマリヤ人の土地を通ってゆくこと、叉そこで出会った女との会話はイエス様の民族を超えての人類に対しての愛を物語っているのです。

イエス様は昼の12時ごろにヤコブの井戸があるサマリヤのシカルというところにこられたのです。弟子たちは町まで食べ物を買いに行っていたらしい。イエスさまが井戸の所に座っていると、サマリヤの女が水を汲みに来たのです。

皆さんのうちに昔、水道が無かった時代に井戸まで水を汲みに行ったという経験のある人いますか? 私は物心が付いた頃から水道の水しか覚えていませんが、宣教師でアフリカに行っていた人の話を思い出します。1970年代にアメリカのルーテル教会はタンザニアと言うアフリカの国で、 Communityで一番必要な物は何かというと新しい井戸を村のまんなかに掘ることでした。アメリカの教会は援助金を出し、村の真ん中にその井戸を作ったのです。それまでは村の女たちは朝まだ夜が明けないころに水がめを頭の上に乗せて2マイルも遠くに在る古い井戸の所に行かなければならなかったのです。水瓶をいっぱいにして戻ってくるのは大変な重労働ですが、それは村の女性たちにとってCommunication の場であった大切な時だったと聞いたことがあります。

水を井戸まで行って瓶に入れて持ってくる、それはこのサマリヤ人の村でも同じことだったと思います。然し、ここに出てくるサマリヤの女は朝早くではなく、昼の正午に井戸に水を汲みに来たのです。そこに私は思うんですが、この女は他の女たちから嫌われていたのではなかったでしょうか? だからこの女は昼に誰も井戸に行かない時に水を汲みに来たのだと思います。それだけ自分が皆から仲間はずれにされていたのでしょう。

イエス様はこの女に水を飲ませてくれと頼んだのです。イエス様は長い旅に疲れきっていたはずです。喉が渇いていただけでなく、体も痛かったに違いありません。水を飲ませてくれと頼んだイエス様は人間の疲れ、弱さ、渇きを私達と同じように知っている神様です。この女の答えは、「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女の私に、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか?」

イエス様はユダヤ人からラビ、日本語で「先生」と呼ばれていた人。ラビは公の所で一人で婦人と話すことは禁じられていたのです。

当時ファリサイ人を呼ばれていたユダヤ教の聖職についている者のニック・ネームは「あざとかさぶたの男」と呼ばれていました。なぜかと言うと、通りで人の目を引くような女性に出会ったとき、彼らは目を瞑って歩き、そのために塀とか家にぶっかって怪我をする人たちだったからです。

イエス様が一人でいる女に話しかけていたこの話しは他のラビから見れば、とんでもないことだったのです。特に世間から白目で見られている女には話しかけることは神様に対しての罪だと言われていたのです。

然しイエス様はこの嫌われていたサマリヤ人、それも女のサマリヤ人と話しをしていたのです。それもただの女ではない、世間から評判のよくない女です。然し思い出してください。イエス様は世間の評判など気にしませんでした。神様は特定の人にだけ来るのではなく、全ての人にです。神様は強い人にだけ来るのではなく、弱い人、身分の低い者、学歴が無いもの、貧乏人、self-esteem の低い人、目の見えない者、耳の不自由な者、全て、神様、イエス様を必要としている人たちに来るのです。

イエス様にとって全ての人は平等に愛されます。それは全ての私たちが罪人であるが、その罪の大きさは神様に取って同じです。イエス様はそれ以上に大きな罪を許されたものは小さい罪を許されたものより神様の愛を知っているとも言われているのです。

私はイエス様による信仰、イエス様からいただいた信仰を持っていることが私の人生の最高のギフトであると認識しています。私が弱い時、悲しい時、疲れた時、心が痛む時、人を傷つけた時私がイエス様を求める時に、イエス様はすでに彼の方から私の心の扉をたたいて、「心配しなくてもいいよ。あなたの心の中は全てもう知っているのだから。あなたに私の聖霊をあげるから、元気を出しなさい、I am with you all the time 」と言ってくださっているのです。信仰を持つ、いや、信仰を与えられたと言うことは、神様が人生のどんなときにも私達と共にいると言うことです。そのことを確認しながら人生を送ること、それこそ神様から頂いているギフトです。

祈りましょう。

イエス様、あなたは私たちがあなたに祈る前から私達の心にあるすべてのことをご存知ですね。わたしたちの心の秘密も知っていますね。私たちはあなたの前で、私達の罪を告白して、ただただあなたの哀れみと許しを求めます。どうか私たちにあなたの愛と聖霊を注いでください。私達の心と行いがあなたの御心にかなうものとなるよう私達を導いてください。アーメン。

四旬節第2主日聖餐礼拝「ヨハネ3:16」“John 3:16””岸野豊牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

今日の福音書はイエス様に好感を持っていたファリサイ派の1人であるニコデモと言う人のイエス様との会話です。」イエス様は言いました。「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」。ニコデモは答えました。「人は年を取ってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母親の胎内に生まれることが、どうしてできましょうか?」

会話の内容は、神の国に入るためには、人はどのように再び生まれることができるか」との問答です。洗礼とは私たち一人ひとりが自分の罪を悔い改め、信仰によってイエス様を救い主と告白する儀式です。私は教会の礼拝によく出てこられるようになった方に、「あなたはもう洗礼を受けませんか」と声をかけています。そこでよく聞くのは、「私はまだ聖書のことも神様の教えについてもう少し勉強して分かるようになったら」と言う言葉を聞きます。

私たちの教会では赤ちゃんにも、まだ幼い子どもにも、これらの子どもたちが自分で神様を主と認めることができない前に、洗礼を授けることができるのです。人が洗礼を受けるとは神様からの聖霊の賜物を受けることです。神様の子どもとなることです。

これはこの教会で何人かの人から聞いたことですが、藤田エスターさんのご主人, メソジスト教会の牧師であったJonathan藤田先生は教会に来られるようになった方々に、早いうちに洗礼を受けるように進めたと聞いています。私も藤田先生と同じように考えます。神様への信仰を持つと言うことは神様の全てがわかるようになったからではなく、まだ色々なことが分からなくても神様が、神様に従ってくる人々に時が経つにつれて信じる心ををくださるのです。

同じように私は教会で行なう聖餐式でもまだ洗礼を受けていない人も、イエス様の体と血である聖餐はそこにイエス様、神様がいるということを心の中で受け入れることができる人には、是非受け取っていただきたい神様の賜物です。信仰生活のはじめからキリスト教とはなにか、全てがわかる人はいません。信仰は自分の努力だけでは大きくなりません。信仰、信じる心は、まず神様に自分の心を開き「神様、私の心の中にあなたが入って来てください」と祈ることによって始まるのです。

さて今日のメッセージはヨハネの福音書3章14から15節に書いてある「モーセが荒れ野で蛇を上げたように人の子も上げられねばならない。それは、信じる者がみな、人の子によって永遠の命を得るためである」という文章について考えてみたいと思います。

モーセは神様に従って、エジプトで奴隷として暮らしてきたユダヤ人を解放してイスラエルの地につれもどした旧約聖書の英雄でしたがユダヤの民がエジプトを出てイスラエルに戻るまで40年間砂漠の中を彷徨ったのです。大勢のユダヤ人はモーセに言いました。「何故、私たちをエジプトからこの荒野に導いたのは私たちをここで死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」。そこで主は、火の蛇を民のうちに送られた。蛇は民を噛んだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。

皆さんから、何故神様はそんな無残なことをするのでしょうと質問が出て当然と思います。然し神様はユダヤ人たちに辛い時にも、悲しい時にも、どんな時も、神様を信じなさいと教えているのです。

 さてここで今日の福音書の箇所は、旧約聖書の民数紀21章の蛇の話し、それは、蛇に噛まれた、死にかかっている人に対しての言葉です。

それを読んでみましょう。そこで主はモーセに言われた、「火の蛇を造って、それをさおの先上に掛けなさい。全ての噛まれた者が仰いで、それを見るならば、生きるであろう」。モーセは青銅で一つの蛇を造り、それをさおの上に掛けて置いた。蛇が人を間でも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

この聖書の箇所を今こういう物を持って紹介しましょう。(竹竿と蛇の絵を見せる)火の蛇をさおの先に掛けましょう。さおに二匹の蛇が上りました。それを絵で書くとこういったものになります。さて皆さんの中に、何かこの蛇が竿に絡まっている、そんな絵をどこかで見たことがあると言われる方いると思います。

これはお医者さん、叉医学のシンボルです。まさに「火の蛇を造って、それをさおの先上に掛けなさい、全ての蛇に噛まれたものが仰いで、それを見るならば、生きるであろう」の聖書の言葉が今日の医学のシンボルになっているのです。

ちょうどモーセ荒野で蛇を掲げたように、人の子も、(それはイエス様のこと) 叉上げられなければならない。上げられなければならないとは、イエス様が十字架に架かると言うことです。イエス様が十字架に架かり、私たちの罪のために死んでくださった。 しかし、イエス様は十字架の上で、息を引き取ったその三日後に甦ったのです。そして、イエス様は、その甦りの命を、永遠の命を私たちに約束してくださったいるのです。

もう一度言います。私達の救いは、私達の罪を背負って十字架と言う木にかかって私達を贖う為に死んでくださったイエス様によって達成されたのです。

キリスト教の信仰を一番簡潔に力強く語っているのは今日読んだヨハネによる福音書3章16節です。これをも一度皆さんと一緒に大きな声で、ゆっくりと読んで見ましょう。新約聖書の167ページ下の段の16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである

私達の多くはこの聖句を口語訳で暗唱できる方も多いと思いますのでもう一度口語訳の言葉で呼んでみましょう。「神は、その独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉はクリスチャンの中では一番知られている、一番唱えられている聖句です。

話は変わりますが、私たちはこの九日間東北地方を襲った災害のすさまじい姿を見て悲しい思いでいっぱいです。震度9.0、考えられない地震です。それでも日本人の心の中には誰でも、何時か大きな地震がどこかで叉来るに違いないという思いはあったはずです。

あのすごい津波の威力、家も車もおもちゃのように破壊されてしまった。津波警報が出て、30分のうちに非難できなかった方々、その人たちの地獄のような経験を思うと涙が出て止まりません。そんなところにいなくて良かったと思う裏には、私達のこれからの日本の同胞に対しての思いやりと援助をこれからもしてゆかなければなりません。

アメリカの二ユースを見ていると今回起こった災害の中で、日本人の気質のことが色々な面で再認識されています。例として長い列の中で食べ物や水をもらうのに長い間待っている間、自分の番が来るまでじっと我慢して待っている、ただそれだけのものでも日本人は秩序を守る人たち、辛抱深い人たち、お互いをRespect する精神の持ち主と、再確認されているようです。それを聞いて、私たちは嬉しい。この頃日本人は少し堕落したなんて聞いていましたが、本当は今でも日本人の心の深いところに人生とは自分だけのことではなく、皆と一緒に支えあって生きて行くことが大事であるとの心構えがあるのではないでしょうか。それが苦しい時、悲しい時にお互いを助ける精神として出てくるのではないでしょうか?

もう一つの日本人の精神が原子力発電所の事故現場で感じられます。私はアメリカで、3 mile island と言うペンシルベニアに在る原子発電所の1979年におこった今回の福島第一原子発電所とよく似た事故の時,25マイルはなれたGetysburgと言う町にあるルーテル神学校の4年生でした。まだその頃はアメリカ人も放射能の危険さをよく認識していなかったので、10マイル以内に住んでいる人はそこを出なさいと言う命令が出されました。

然し風の具合では放射能もGettysburg の方に来るかもしれないと言われて神学校の多くの人たちはキャンパスから何週間にわたって出たのです。日本の広島と長崎の原爆の影響を知っていた私は先頭に立って放射能の怖さを皆に語ったのですが、目に見えない怖いことはその時多くのアメリカ人は気ずくいていなかったのです。

3 mile islandの事故では、放射能はそんなに外に出なかったと言っていましたが、実際には原爆病がでてきて何百人の人たちがその後亡くなってきたのです。それを知って私は、叉私たちは、今も福島第一原子発電所で一生懸命これが原子発電所の致命傷にならないように日夜24時間働いている人たちに感謝をすると共に、この命を掛けての仕事をしている発電所の人たち、消防署の方がた、自衛隊のヘリコプターのパイロット、叉そこで働いている方々の家族に神様からのお守りを祈るばかりです。

世界の90カ国から援助部隊を送りたいとの申し入れが日本の政府に入ったと聞いています。人間は困っている人を助けたい、泣いている人を慰めたいと言う思いがどこの国から、どこの文明の人たちも持っているはずです。

この東北大震災は日本の歴史に大きな影響を与えるでしょう。然しこれが私達の祖国の精神を強め、日本という国はよくやった、よく立ち上ったと世界にpositive な影響を与えられる国にいなってくれるよう祈ります。

英語に、  “God helps those who help themselves”と言う言葉があります。その意味は「私たちが物事に一生懸命真心を持って取り組む時、神様は私達の助けとしてそこにいるのだ」ということです。祈りましょう。

マタイによる福音書17章1-9節

「山上での経験」  “Mountain Top Experience”

 私たちの父なる神と主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 

今日は来週で終る顕現節から、来週から始まる受難節の間に来る変容主日です。イエス様が弟子のぺテロ、ヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登り、そこでイエス様の顔が太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。叉、イエス様は旧約聖書の時代のユダヤ人のリーダーのモーセ、偉大な預言者エリアとともに語り合ったという記事です。

ところで変容という言葉、私たちは日常の生活の中であまり聞かない言葉ですが、それは何を意味しているのでしょうか?この言葉を聞いて私の思うのは昆虫の幼虫が在る時さなぎになり、それがしばらくすると蝶と変身していくことです。蛙の卵がおたまじゃくしになり、おたまじゃくしの尻尾がなくなって今度は蛙になるのです。

息子のAndrewが小学校のころ彼の一番好きなおもちゃはTransformer というもので、それは外見トラックなのですが、それをいじくっているうちにロボットに変わってしまうのです。そう言えば、昔白黒のテレビで見たDaily Planet という新聞記者のクラーク・ケントも事件のあるたびに、正義の味方のスーパー・マンに変身した男でした。

マタイの福音書の中で言われているイエス様の変容、Transfiguration とは、いったい何を示すのでしょうか? 旧約聖書の中で、今日のイエス様の変容とよく似た話があります。それはモーセがシナイ山に登った話。その山頂で神様はモーセに10の戒め、つまり10戒を与えた話しを皆さん覚えているでしょう。

このモーセの話によると、モーセがシナイ山に登る前の6日間雲によって囲まれたとあります。イエス様の変容の記事も6日の後というこの6日と言う言葉に第一の共通点があります。モーセもイエス様も山に登ったのです。聖書には山に登るということが神秘的な意味を持っていて山頂で神様の声を聞いた、神様の聖霊を受けたと言うことが沢山書かれています。

私の知っている一人の韓国人の牧師さんはアメリカの教会で按手礼をうけた後、韓国に10日戻り、その内の殆どを山にこもって祈り続けて彼は神様との会話の時を持ったのです。ただし、そこは同じように山にこもって祈りをしていた牧師さん達でいっぱいだったとも聞きました。これは韓国人の牧師さんには人生の中で一回はしなければならない修行だそうです。

私は富士山に高校生の時一回、そして叉10年ほど前、息子のアンドリュウを連れて登りました。山の8合目で一泊して朝の3時、まだ暗いうちにおきて、フラッシュ・ライトを照らして山頂まで日の出になる前に寒さに震えながら登ったのです。山頂の鳥居の所で、雲の下から出てきたまぶしいほどのご来光を息子と一緒に経験しました。そこで神様の作られた自然の神秘さを心を中に感じました。

アポロ宇宙船に乗って地球を遠く月から見ることのできた宇宙飛行士の多くも、山上とは言わないまでも、神様の作られた素晴らしい地球を見て神様の霊に触れたとも聞いています。人間はこのように神様、あるいは神様の創造された偉大な何かを見ることで心を動かされるのではないでしょうか?

さて、元に戻ってイエス様が3人の弟子を連れて山に登った記事とモーセがシナイ山に登った話に戻ります。確かにイエス様は弟子の、ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登りました。モーセもアロン、ナダブ、アビフをつれてシナイ山に登りました。モーセはこの山で神様と出会った時から顔が光り輝き、山を降りた時、恐れうろたえた人々のためにベールを顔にかぶったと聖書に書いてあります。

同じように今日のマタイによる福音書の記事にペトロ、ヤコブ、ヨハネは山上でイエス様と一緒にいた時、イエス様の顔が太陽の光りのようになり、着ていたものが真っ白に輝いたと書いています。

ユダヤ人は子どもの時からこのモーセのシナイ山の経験を会堂でのラビの説教の中で何回も、何回も聞いていたはずです。イエスに従ってきた人たちの多くも始めはユダヤ人でしたから、山上でイエス様の顔が太陽のように光り輝いたと聞いたときイエス様の経験をとモーセの経験がなんとなく同じようなものと思ったに違いありません。然しこの二人の顔が輝いた、そこに少し違う輝きさがあるのです。

モーセは神様と共にいることで神様の光りを吸収して光ったのに比べ、イエス様が光り輝いたのはイエス様が神様の栄光を自分のうちにすでに持っていたからです。つまりイエス様は父である神様と一体なのです。イエス様は神様からおくられた者、いやそれ以上にイエス様こそ私たちの救い主であることをこの出来事をこの光り輝くイエス様の姿、叉そこに、旧約聖書のヒーローとも呼ばれるモーセと偉大なるエリヤと呼ばれた預言者と共に現れたことで、イエス様こそ本当の救い主ですとこの福音書を書いたマタイは宣言しているのです。

このように神様自身が私たちの日常の生活の中に現れる、そこに神様の霊を感じるということは多くの人が経験しています。神様の霊を心の中に感じたそのとき神様はここで私達と共に生きている、それ以上に私たち一人ひとりに神様のみ心にかなうことができるよう力と精神を与えてくれるのです。

私たち、日本語の教会は礼拝出席は25人ほど、数からしたら小さい群れです。然し、私たちは、ここに集う一人ひとりを主にあっての兄弟、姉妹として大切に接していく仲間です。そこに今日の変容とは言わないまでも、英語で言うTransfigulation と言う心の動きを私たちは人生の中で感じているのです。

その一つの例は3月2日に神様の元に帰られた静子Genewichさん、 私がここに来るようになって一年半がたちますが、小栗さん、Susie Bacon さん、淀川さん、中内さん, Mark Porterさんと先に此の世から神様の元に戻った信仰の先輩を覚える時、悲しくなるのは人間として当たり前のことですが、それ以上に私たちも心の中で何時かは、私たち一人ひとりも神様の所に帰っていくのだと言う希望を育てているのです。

人生のうち起こる疑問、悲しみからイエス・キリストを信じる信仰によって、いや、イエス様自身が私たちに下さった信仰によって私たちはTransform, Transfigure されつつあるのです。

ですから、信仰を持っている人は幸福です。神様が人生のどんな時でも一緒にいてくださるこことを知っているからです。祈りましょう。

新年の集まり
1月2日が2011年の初めての集まり、教会の中は病気の芙美さんは欠席,日本訪問の安達さと子さん、その他来てない方もありましたが私にとってはとても心温かくすごした日でした。

早めに着きましたが、大きな助けの芙美さんが欠けているために、キッチンと日本語部の物置を数回行き来して物を運ぶ事で大切な時間が去って行き少し心が騒ぎだした時に全く神の助けのように安松さんがOCTA〈オレンジ郡交通局〉で来られました。健康の様子がわからないから躊躇しましたが,安松さんの熱に負けて手伝って頂く事を受け入れました。3年前始めての新年天ぷらをやった時にも安松さんと私との2人でやりました。数日前に買い物をしながらも安松さんのことを考えていたのです。さすがは横浜のお魚屋さんのお嬢さん、シャキシャキと動く人です。

安松さんは私が持って来た2つの前掛けの一つを着けて「どれ?これ?」とテキパキとやりだして25皿のサラダの準備、25杯の天汁の準備ができました。その後は私が野菜やエビの準備をしている間にホットポットを準備しテーブルを準備してもらいました。「神は戸がしまると窓を開けられる」とはこの事だなあと思いました。

礼拝が終わりキッチンにいる私に数人の方が「何をしましょうか」と助けの手を出されました。ナンシーには緑茶をお願いして、岸野先生にはリードをお願いして,尚美さんには全体の監督とウェイトレスをお願いして皆それぞれ良く役を果たしていただきました。トムさんもウェイターをお願いしてありましたが佳代子さんがウェイトレスに自主応募されたのでトムさんには座っていただきました。

レンジの前にいる私にはテーブルの様子はわからないのですが尚美さん、佳代子さんの報告を信用して上手く行って居るらしいことを喜んで皆さんがおなかいっぱいになるまで天ぷらを揚げ続けて、そのあと私の食べ物を持って席に着きました。(知ってのように私は天ぷらもご飯もデザートも食べられません。エビと野菜をソテーして頂きました)作ったものを食べないシェフは信用できない料理師と言われるのですがどうでしたでしょうね。

皆さんが食べ終って口が自由になったところで「今年のレゾリューション〈決心〉は皆さんなんですか」との岸野先生の質問でそれぞれが話しました。勿論アメリカのレゾリューションは悪い癖を「やめる事」を決心し、日本人は今年は「これをやろう」と決心する事で、反対と言えば反対ですが、目的は同じでしょう。

片付けに入ると皆様全員が協力されて、皿、ごみの始末、残り物の始末、使わなかった皿や箸、炊飯器、ホットポットなどを日本語部に持ち帰るなど、お頼みすることなく果すことができたようです。さすが20人近い人数への油物のなべなど洗い物は随分ありましたが尚美さん、佳代子さん、その他の方々の働きで終りました。汚れた布巾は深見さんが自宅で洗濯するとの事、一番最後のごみを上原さんが持ち出されて、戸締りを岸野先生に託して雨の中に車に入ると天ぷらの成功と皆様の手助けを神に感謝した後、帰途につきました。

では又来年楽しくやりましょうね。芙美さんは来年は天ぷらをする2週間前は無菌テントに入れようと思いますがどうでしょうか?
               2011年1月3日    民 山本 Day

「1月2日は日本語部恒例の天プラ・ランチが民さんのご奉仕で
ありました。これはその時のことを 民さんが書いて下さいました。
残念ながら写真を撮れませんでしたが、楽しい雰囲気をご想像下されば
幸いです。」

 2008年5月19日       世界宣教会議に参加して

4月21日に、東京市ヶ谷の福音ルーテル教会本部にて、世界宣教の会議がありました。ドイツから帰国された松本先生、李神学生、そしてロスアンジェルスからは伊藤牧師がそれぞれの体験談を交えての外地での宣教報告をされました。伊藤先生の依頼で、丁度20日の夜日本に着いた私もその会に参加させていただき、大変に良い経験をさせていただきました。
ドイツから帰国された松本牧師は、現在経済低迷の折に、教会経営が困難になって来ている事、そして4つの教会を3人の牧師でどうやっていくか考えている事などを報告の中で話されました。それを聞きながら、私達も今年の1月から伊藤先生がお一人でトーレンスの日本語部とハンティントンビーチの日本語部を兼牧される事になったこともあり、どこも同じような状態なのだろうか、と興味深く報告の内容を聞かせていただきました。同じようにドイツに留学された李明生神学生も、様々な体験談を交えて、ドイツでの宣教報告をされました。最後に伊藤牧師がトーランスとハンティントンビーチでの活動報告をパワーポイントで報告されました。伊藤先生は力強く、「日本から若い牧師を海外に送って、外の風に吹かれる必要がある。日本国内だけの宣教ではこれからの世界には通用しない、もっと外にも目を向けて、世界の宣教の動きを知る必要がある」と、強く発言されました。確かに、これからの外地での伝道は今までのように「日本語を話す」一世を対象に、ただ日本語の説教をすればいいだけではありません。2世や3世はその地で生まれてその地の言葉を不自由無く話し、却って日本語がおぼつかなくなって行くのが現状です。 しかし、そんな状況の中で、日本文化を大切にし、習慣、風習などをそれなりに受け継ぎながら生きている2世3世達に、「日本に触れる事ができる場所」を与えて上げる必要性を切に感じるのです。

私がアメリカに移民して来てから30年以上の月日が流れました。30年前と比べると、嘘のように東洋の文化がこの南カリフォルニアの地で取り入れられています。アジア系のマーケットも沢山あり、レストランも昔は、「アメリカナイズ」された日本食ばかりだったのが、今は「ここは日本か?」と思わせるような居酒屋も増えています。そんな環境の中で生活している私たちですが、やはりどこか根無し草のような気分になる事もあります。私達は日本で生活している日本人ともちょっと違い、アメリカに住んでいても100%アメリカ人ではないわけです。ですから、伊藤先生が発言されたように、この場所に来て、ここで生活してみなければ、この状況はわからないわけです。日本から送られてくる牧師、宣教師の方々が、真剣にそれを理解して下さり、神様から与えられたチャレンジに取り組んで下さる事を私達は祈ります。

市ヶ谷の福音ルーテル教会も、日本国内のさまざまな問題に面していると思いますから、国外に宣教活動の目を向けるのも容易ではないことでしょう。実際,残念な事にブラジル伝道は今年で幕を閉じます。私達も日本語部信徒達の加齢により、礼拝参加者の人数が少なくなったりする傾向を目の前にし、どうなるのかな、と心配する事もしばしありますが、神様の御心ならば、きっと神様は私達と共にいらして、いかなる困難も一緒に乗り越えて下さる事を信じ、信徒達が出来る限りの奉仕をさせていただいています。 

神様が私達をこの場に置かれているように、日本から来られる牧師や宣教師の方々も同じように神様が彼らを日本から送り出し、宣教と言う使命とともにこの場に置かれるわけです。それを思うと、何週間か前に伊藤先生による「聖書を読む会」 で学んだ使徒言行録のパウロを思い出します。 何千年という月日が流れても、未だに私達は「寄留の民」なのです。ですからキリストの愛が私達を支え、力づけ、どんな時にも「国籍は天にある」と確信して生きて行きたいものです。                 LCR役員 Liang 芙美 記

LCR Peace Journey (平和の旅)

 2009年の2月から計画を立て始めたLCR平和の旅が、今年2010年6月に実現した。航空会社から始まって宿泊のホテルは勿論の事、日本での目的を達成する為に時間をかけて細かく計画を立てて行った。日本と連絡を取り合っている時や、様々な問題に直面したときは、このプロジェクトは何時まで続くのだろうかと思ったが、全ての旅行が終了した今、あっと言う間だったと、感慨無量である。

 去年の10月までLCR日本語部の牧師を務められた伊藤文雄先生の計らいで、2007年と2008年の2年連続して、日本福音ルーテル教会事務局長の立野泰博牧師に来ていただき、LCR日本語部の特別伝道ゲストスピーカーをお願いした。当時立野牧師は広島ルーテル教会で牧会をされていた。2度目の訪米の際、LCR(復活ルーテル教会)と広島ルーテル教会が今後姉妹教会として交流を始めてはどうかと提案させていただいた所、立野先生は快く受け入れて下さった。LCR主任牧師Zimmermann先生、そして伊藤牧師も喜んで同意して下さり、後にLCR役員会でも正式に承認された。その事が引き金となり、LCRユースグループのコニーに「若者を日本に連れて行かないか?」と話してみた。ユース(青年部)とファミリーのディレクターを務めるコニーは、「今年はもう無理だけれど、来年に向けての計画ならば実現できるかも知れない」とゴーサインを出してくれた。立野牧師は既に市ヶ谷の日本福音ルーテル教会事務局長の職務に就かれていたので、直ぐにJELCに連絡をとり、総会議長の渡邊先生、シカゴELCA本部 Global Mission担当の石田先生及び私達教区の教区長Bishop Finckにも正式に計画表を送った。また、10月に日本に帰国された伊藤牧師とも連絡をとりながら、着々と計画を進めて行った。4月にはLCR教会員に呼びかけ、参加者の募集を始めた。6月には22名の応募者があった。毎年8月に行われるVBS(Vacation Bible Study 夏期聖書学校)では毎年子供達が募金を集める。今年は来年度の広島平和旅行を目指し、佐々木貞子さんの千羽鶴の話を紹介し、子供達ができる平和運動への募金を呼びかけた。そして広島教会がモスクワのナタリア医師と共に、ロシア・チェルノブイリで被爆した子供達の治療の為に設置した団体「Heart of Child」に募金をする事に決定した。総額$1,600が集まった。子供達には、日本語部の皆さんが作った千羽鶴と共に、この募金を広島に届ける事を約束した。

 何回もミーティングをし、準備に準備を重ね、いよいよ出発の日が来た。20名全員LAXに11時15分に集合し、シンガポール航空のカウンターでクループチェックインを済ませた後、いよいよ出発である。機上ではそれぞれに11時間を過ごし、無事成田国際空港に到着。税関を出て外にでると、懐かしい伊藤先生と立野先生が出迎えて下さった。その場で両替を済ませた。JRパスは成田で交換する予定が、飛行機の到着が遅れた為に窓口が閉まってしまい、明日に廻す事にする。シャトルバスでホテルヒルトンに到着、チェックインを済ませ、おやすみなさい、とそれぞれに部屋に分かれて行った。明日の朝は10時にロビー集合だ。

 第一日目:10時にロビーに集合。既に立野先生と伊藤先生がロビーで待っていて下さった。全員LCRのTシャツを来てこれから東京ルーテル教会へと向かう。シャトルバスが行ってしまったので、歩いて新宿JR駅へと向かう。そこから新大久保の東京ルーテル教会は総武線に乗って直ぐである。教会の前に大学生のように見える関口牧師が立って皆さんを出迎えていた。この日は丁度、崩壊した東京教会に取り付けられていたステンドグラスを再び新しくなったこの教会に戻す記念展でもあった。東京ルーテル教会にとって歴史的なこの喜びを私達が共に分かち合えたのは幸いであった。礼拝の後、私達が皆さんに紹介され、コニーの挨拶に続いてLCRのTシャツを関口牧師に進呈し、皆さんには遥々アメリカから担いで来たキャンディーの袋詰めをプレゼントした。解散前に全員で写真を撮った。前任の伊藤先生、今回お世話して下さっているJELC事務局長の立野先生、そして2006年までLCR日本語部にいらした田中牧師ご夫妻も一緒に合同写真に参加していただいた。良い記念である。礼拝の後、青年部のボランティアによって2−3組に分かれた私達は、それぞれに東京の町へと観光に繰り出した。私は伊藤、立野、両牧師と一緒に新宿のみどりの窓口へと急ぎ、そこで20人分のJRパスを2時間かけて交換の手続きをし、22日からの京都、広島行きの新幹線の予約を全て滞りなく終わらせた。狭いみどりの窓口Officeで待たされながら、20人全員が並んだらどれほど大変だっただろうと想像し、冷や汗が出た。夜は全員が市ヶ谷センターに集合した。そこで立野先生や伊藤先生が東京教区長の大柴先生のご協力も得て準備して下さった御弁当、飲み物、果物、そして伊藤靖子牧師婦人のお手製ケーキをおいしくいただいた。解散前にコニーがその日のDevotionを行った。皆第一目の日本を満喫したようすでホテルへ帰った。 明日の朝は8時15分ロビー集合だ。

 二日目:この日は午前中に東京観光が入っている。8時15分に全員が集合し、胸にスティッカーを貼る。Tokyo Morning Tourと印刷されたスティッカーを全員が貼ってバスに乗る。あいにくの小雨だったが、東京タワー、明治神宮、御所、銀座と回り、銀座で解散する。伊藤先生が出迎えて下さり、そこから本郷の学生センターへと向かう。すでに12時を回っていたので、通りがかりの「木村屋本店」によってパンを買い、暫し「腹の足し」にした。本郷教会では、学生センターの安井先生が何人かの方と出迎えて下さった。東京大学の真向かいにあるこの教会には、毎週50名の学生が集まるそうだ。机の上に沢山並べられた素晴しい折り紙の傑作は私達の為に準備して下さった。安井牧師のお話しの後、遅いお昼を東京大学の学食で済ませ、そこからホテルに戻る組と、浅草に行く組に分かれた。浅草組は伊藤先生が案内して下さった。浅草で買い物を楽しんだ後、疲れてホテルに直行するつもりだったのだが、そのまま新宿のデパ地下に行く。そこで簡単な夕食を買ってホテルに戻ると、丁度「これから町に繰り出す組」に出会う。「Have a good time!」と手を振って、私は部屋に入って足を椅子に投げ出した。明日はいよいよ京都だ。

 三日目:11時33分の新幹線で京都に向かう。先ず10時にロビーで集合した私達は、ホテルのシャトルバスにスーツケース共々乗り込む。他のホテル客に申し訳ないとは思ったが、この際仕方がない、20人同時に乗り込ませてもらった。新宿駅の中をガラガラとスーツケースを引いた20名が一列になって改札を通る有様は何とも絵になる。問題なくJRパスを見せて改札を通り抜け、中央線に乗って東京駅に無事到着。なんと早く着いてしまったので、皆スーツケースをホームに置いて、ランチを探しに行く。新幹線の中でランチを済ませ、京都到着。 駅前からタクシーに乗る。3—4人一組でタクシーに乗り込み、京都烏丸ホテルに向かう。20名を誘導するのも容易ではない、何しろ私だけが日本語を話すわけだから、各タクシーの運転手に説明し、お願いし、私は最後のタクシーに乗り込んだ。大変な騒ぎだ。よかったことに、この烏丸ホテルは四条にあり、自分達で歩き回っても決して迷う事はない。チェックイン後、5時にロビーに集まり、京都のスペシャルナイトに参加するグループを祇園まで送って行く。タクシーで行く人達の為にタクシーの手配をし、あとは全員が歩いて祇園へ。鴨川を越えると古い京都がそのまま目の前に現れる。歌舞伎座も町並みも風情があって良い。スペシャルナイト組を送り届け、残りの「ぶらつき組」は祇園をぶらつきホテルに戻る途中のおそばやで夕食を済ませる。近くのお店でアイスクリームを楽しみ、ホテルに戻ったら丁度スペシャルナイト組が帰って来た所だった。それぞれに京都の第一日を楽しんだ。明朝8時10分ロビー集合。

 四日目:京都一日観光の日だ。昨日のスペシャルナイトを担当した同じガイドさんが今日も私達の担当だ。生まれた時から京都にいる彼女の巧みなガイドで一日名所を回る。金閣寺から始まって最後は清水寺で終わったが、8時半から6時まで、びっしりの京都観光を満喫してホテルに戻った。コニーが若者達を連れて夕食に繰り出してくれた。私はもうその気力も無い。青年達が食べ放題のしゃぶしゃぶを喜んで終わりを知らずに食べたと次の朝報告があった。

 五日目:京都から広島に向かう。新幹線は新神戸で乗り換えるが、プラトフォームを換えなくて良いと解り一安心。この日の朝早く朝市で買ったあれやこれやを袋に積め新幹線に乗りこむ。皆さんだんだん慣れて来たようで、座る場所もすぐに見つけて、スーツケースも若者達が上に上げてくれる。この旅行の始めに、若者達と年配者達が混合しているこのグループは、結構難しいかも知れないと思っていた私は、目の前で若者達が年配のメンバーを喜んで助けている姿をみて、神様の素敵な計らいに心から感謝。広島に到着すると、駅に立野先生の長女、華美さんと広島ルーテル教会のメンバーで保育園にも勤めている陽子さんが迎えに来てくれていた。市電よりもバスでアステールプラザに行くほうが良いという事。二班に分けなくてはならないかと思ったが、広島駅始発のバスだったので、20名とそのスーツケース、そして華美さんと陽子さんもどうにか乗り込む。他の乗客にじろじろ見られてもしかたない。運転手さんが気をきかせて真ん中のドアを開けて降ろしてくれた。何時ものように、バスの前ドアから一人一人スーツケースを引きずって下りていたら何時までかかることやら。そして無事アステールプラザ到着。フロントのお二人は何度もメールでやり取りをしていたので、初対面とは思えないのが嬉しかった。それぞれの部屋にチェックインしてから、5時に7階の研修室で広島ルーテル教会の鷲見牧師と役員の何人かと対面する事になっていた。西田さんの通訳で鷲見先生並び役員のかたが自己紹介をされた。私達も自己紹介をし、その後コニーが今日のDevotionを始めた。広島教会の皆さんもそれに参加し、平和への思いをそれぞれが語った。私達は、広島教会の皆さんの証しに感動した。佐々木さんは、両親が亡くなった後、仏教だったので毎月お坊さんを雇って供養をしていたが、自分に何かあった時、誰も優しくしてくれなかったが、友達が教会に連れて行ってくれた時、そこの牧師がとても親身になってくれた。それがクリスチャンになる始まりだったと証をされた。そして原爆の被害者かどうか、その事を語りたがらないので、亡くなった後に解る事が多いことなど、私達にはとても想像がつかない貴重なお話を伺った。皆さんのお話を伺った後、感想としてクリスが話した事も印象的だった:「アメリカでクリスチャンであることは、親の代からとか、自然にそうなっている事がほとんどだから、取り立てて考えた事もないが、今皆さんの話をきくと、日本ではクリスチャンになることは“GIFT”であり、自分たちのような “GIVEN”とは違う新鮮さがある。」と彼は語った。夜は東京から着いたばかりの立野先生と合流し、居酒屋へ行く。立野先生は広島で12年間牧会をされていた間、いろいろな交わりがあったのだろう、とにかく顔が広い。居酒屋でおいしい第一夜の食事を済ませ、ホテルへ帰る。夜から雨となった。

 六日目:朝9時に研修室に集合し、Devotionの時が持たれた。立野先生から今日のツアー内容が書かれた資料を昨日いただいた私は、今朝早くそれに目を通しながら、既に涙が出て仕方が無かった。始めのページに赤インクで書かれている言葉に先ず目が止まった:ゆるすこと あいすること そして希望を! と書いてある。立野先生が12年間広島に過ごし、見えて来た彼の「ヒロシマ」、そして真の平和を伝えたいと願う強い思いがこの30ページに書かれてある一言一言から感じられた。9時のDevotionの前にコニーに今日のスケジュールを説明しながら、立野先生のガイドブックを既に読んで感極まった事を打ち明けた。彼女は即、「今朝のDevotionはそれにしよう。」と決め、立野先生にもお話をしていただく事になった。

20名全員が真剣に聞いた。これから平和資料館、平和公園、佐々木貞子さんの像、本川小学校、原爆ドーム、原爆が実際に落ちた場所である島外科、相生橋、原爆供養塔、朝鮮人供養塔と回って行く前に、先生はご自分の信念である「被害のみを語ることでは平和はつくり出せない」事を力説された。アステールプラザを出発する時にぱらついていた雨が、平和資料館に着く頃にはかなりの雨になっていた。1時間半資料館を見学し、それぞれがいろいろな感想を抱いたまま雨の中を平和公園の中を歩いた。平和資料館から直線でドームが見える慰霊牌の前で止まる。ここにある石の棺には、原爆被害者で名前の解っている方の名簿が入っているという。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と碑に彫ってあった。佐々木貞子の像まで来た。アメリカから各自袋に入れて持って来た千羽鶴の房を取り出す。一房50の鶴が繋げられているから、20人で千羽になる。去年の8月に子供達とした約束を今ようやく果たせる。VBSの子供達集めた募金と、日本語部の有志が作成し、平和祈祷礼拝の際教会に飾った千羽鶴を私達20名が広島の地に持って来たのである。雨が降り続ける中、佐々木貞子の像の前で皆が鶴を手に取って記念撮影をした時は、LCR全員の平和の祈りをこの地に運んで来る事ができた幸いを神様に深く感謝した。千羽鶴の献納を終え、LCRの名前を記入し、メッセージの箇所には、コロサイの信徒への手紙3章15節から:「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」と書いた。この聖句は、始めに平和旅行を企画した時、コニーが聖書を開いたとたんに飛び込んで来た聖句であり、今回のテーマ聖句である。私達が毎日持ち歩いているDevotionの表紙にも、Peace Journey to Japan 2010と書いてある下に、“Let the Peace of Christ rule in your hearts, since as members of one body you were called to Peace.”と書かれている。このあと私達は本川小学校へと歩いた。この小学校の校庭で多くの死体を燃やした為に、いまでも掘れば骨が出て来るという。この学校の地下は当時捕虜収容所であり、7名のアメリカ兵と2名のドイツ神父がいたそうだ。原爆投下後、2名のアメリカ兵が生き延びたが地下牢から出て来たとき、それを見つけた日本人達が相生橋の欄干にくくりつけて殴り殺されたという。その話を聞いた後、一人のLCR参加者で大学生のZがこう言った。「もし自分がその時の日本人だったら、原爆を落としたのがアメリカ人だからアメリカ人をみたら憎くて同じ事をしたと思う。」と感想を述べた。確かに戦争を知らない私達には解らないことが沢山ある。戦争で死んだ人達は普通に生活をしている市民だっ。広島でその朝「行って来まーす。」と出て行った学生達だったのだ。そして殺された捕虜のアメリカ人が原爆を投下したのではないし、彼らも戦争の被害者だということに違いはない。皆戦争はいけない、非道だということは頭でよく理解できている、しかし、本当に私達は何を解っているのだろうか?解っていたら戦争の無い平和な世の中になっているはずだとおもうのだが。そこから私達は原爆投下の真下にある島外科を通り、原爆投下地点であった相生橋のT字の箇所を通り、本来はこの場に落ちるはずだったが風があった為に投下地点が少しずれたことなどの説明を聞きながら、原爆供養塔へと歩き続けた。雨は酷くなるばかりだった。

お椀を伏せたような小さな丘が原爆供養塔だった。ここには何万という名前の解らない遺骨が納められている。多くの強制労働を強いられていた朝鮮人や中国人、モンゴル人、そして捕虜のアメリカ人ドイツ人も皆差別無くここに眠っている。そしてその側には、やっと平和公園内に移された韓国・朝鮮人慰霊牌がある。韓国の方に顔を向けている亀の像が背負っているその牌には、韓国の人々の平和への願が刻まれている。全ての怨みと憎しみを忘れて安らかに眠って下さい、このような悲劇の種を蒔く者も受ける者もないように、皆が助け合い親しく仲良く暮らすことができるように見守って下さい、と記されている。まさに相手を赦す事によって始めて得られる平和をそこに見ることが出来たと思った。そこから私達は雨の中を歩いて広島ルーテル保育園へと向かった。立野先生が「歩いて10分ですよ」と言われたので安心して歩き始めた私達だがいつまでたっても「あと10分です」で、本当に到着した時には雨の中を30分以上も歩いた為に、全員びしょぬれだった。でも、私達を待っていてくれた4歳児と5歳児の子供達の笑顔に迎えられ、びしょぬれな事等すぐに忘れてしまった。なんとも可愛い子供達がお歌を披露してくれ、手作りの折り鶴を一人一人にプレゼントしてくれた。その後剣玉の披露もあり、私達に教えてくれたりして、和やかに楽しいひと時を送った。雨はひどくなる一方なので、タクシーでアステールプラザまで帰った。この夜は立野先生がお好み焼きをごちそうして下さる事になっていた。 おいしいお好み焼きに皆さん感激したのは勿論の事、その場に同席された橋本さんは、毎朝4時に起きて、原爆供養塔の回りを清掃されている事を聞き、感動した。そこに彼の両親が眠っていると信じて、毎朝通ってそこを守っているそうだ。ここにも平和への強い願が感じられる。私達は、橋本さんが書かれた水彩画の絵葉書を記念にいただいた。大切にしたい。その夜は疲れて直ぐに眠りについた。明日は宮島観光だ。天気が良いといいのだが.....

 七日目:大雨。宮島観光は大雨に関係なく続行した。広島駅までバスで、そこからJRで宮島のフェリーがある駅まで、そしてフェリーで宮島へ。宮島に着いても大雨。皆傘をさして歩くので何も見えない。残念。この日は立野先生の他、華美ちゃん、陽子ちゃん、そして華美ちゃんの双子のお友達春菜ちゃんと若菜ちゃんもガイドで来てくれた。厳島神社の後、それぞれのグループが別々に行動する事になったのだが、なんとも雨が降っているのでどうにもならず、結局メインは「牡蠣」料理で、その後はお土産屋をみて3時にはフェリー場に集合となった。この夜は立野先生の知り合いで「豆匠」という有名な豆腐料理に行った。雨なのだが、お庭がとても奇麗で、日本の首相が良くここに来られたという理由が理解できる。皆さん多分一生二度と見る事はないだろう豆腐料理が次から次に出て来るのを心行くまで楽しみ、お座敷での記念撮影もしっかりと終えた。楽しい雨の一日だった。

 八日目:荷造りを終え、チェックインを済ませ、帰り支度をして広島ルーテル教会の主日礼拝に出席した。佐々木さんを始め、立野牧師婦人や広島ルーテル教会の有志の方が車でスーツケースを教会まで運び、私達の移動もして下さった。お陰で全員歩く事無く広島教会に到着。偶然にもシカゴのGlobal Mission担当の石田先生もシカゴに帰る前にこの教会に来られたので共に礼拝に出席する事ができた。礼拝の後、婦人部の心温まるお昼をいただいた。おいしいカレーをお腹いっぱいいただいた後。広島ルーテル教会メンバーでもある茶道の先生が、生徒さん達と一緒にお手前をご披露して下さった。そして私達も一人一人茶道の体験をさせていただいた。何よりもの土産話である。広島ルーテル教会の皆様と、楽しく交流できたことは本当にありがたかった。前任牧師の立野先生が市ヶ谷センターに事務局長として行かれた後、鷲見牧師が牧会をされている。立野先生とちがって、個人的に馴染みの無いLCRの私達を快く迎い入れて下さったことに心からお礼を述べた。そして私達は新幹線で東京に帰るべく、広島駅へと急いだ。何度も広島に行った事がある私に取っても、今回の広島は一生忘れる事がないだろう。

 九日目:朝6時にロビー集合。皆さん昨晩は遅くホテルヒルトンに到着したにもかかわらず、しっかり6時に集まってくれた。歩いて大江戸線に乗り築地市場へ。改札で私の従姉妹と待ち合わせをしていた。彼女が築地市場内に案内してくれるコネをつけてくれたのだ。築地市場内でマグロの解体や、珍しい魚を沢山見学したあと、寿司三昧でおいしいお寿司を食べ、買い物をしてからホテルに戻る。この後はそれぞれ自由行動。秋葉原へ行くひと達もいれば、デパートをぶらつくひと達もいる。皆さんそれぞれに「勝手知ったる新宿」とまでは行かなくても、自分でホテルヒルトンまではどうにか帰れるようになっている。この日は最後の日なので、最後のDevotionを6時にロビーに集合してする事になった。立野先生も広島からすでに東京に戻って来ていて、6時に伊藤先生と共にホテルヒルトンのロビーに来ていた。明日アメリカに帰る組が14名、日本に残る組が5名、サイパンに朝一番で発つ人が1名、日本滞在最後の集合だ。全員異口同音に伊藤、立野両牧師に心からお礼の言葉を述べた。そしてこの旅行で得た掛け替えのない体験をお互いに分かち合った。 夕食は地下街で簡単に済ませるという事で、近くに有名な丸亀製麺があるという事を聞いていたので、それを立野先生に話すと早速場所を調べてくれた。「歩いてすぐですよ」と言われ、それを信じた私達は、再び永遠に歩き、やっとたどり着いた時にはもう皆おなかがペコペコ、ところがそこは既に長い列ができていて、皆ただ黙々と列に並んで順番を待った。さすがにおいしかった。

 最終日: 14名が2時5分のシャトルで成田に向かう。コニー達は友人が迎えに来て11時半にホテルを出る。皆さんチェックアウトは12時なので、11時半頃からロビーに集まっている。先ずはコニー家族が手を振って別れを告げホテルを出た。私は14名がバスに乗るのを見届ける為に午後まで残ってから弟の家に行く予定になっていた。2時5分のバスに乗る前、一人一人とハグをし、挨拶を交わしながらこの十日間の平和旅行が、これで終わる事無いようにと願った。今から私達20名の使命が始まる。今回の忘れられない体験と、キリストにあって得られる真の平和を忘れずに、「ゆるすこと あいすこと、そして希望を!」の信念を、私達が世界中にまき散らさなければ、と心から祈った私である。

 戦争は世界各地でまだ行われている。毎日の生活の中にも、人を赦せない事が多々起こる。そんな時に、私達はキリストに戻り、キリストの助けによって人を赦す心を得る事ができる。全能の神様、私達が家族を、友人を、他人を、他国の人を、神様が生命を与えた全ての人々を大切にできるように、どうぞ神様私達の心に、あなただけが与えられる平和をもたらして下さい。アーメン。 2010年7月8日       芙美Liang 記録

LCR日本語部宣教開始22周年記念礼拝

立野泰博牧師を迎えて

私達日本語部にとって、11月に迎える宣教記念礼拝にどなたをゲストスピーカーにお呼びするか、それが毎年の大きな課題である。今年は再びJELC(日本福音ルーテル教会)事務局長の立野泰博牧師をお迎えすることができた。立野牧師は私達の宣教20周年の時にも御祝いのメッセージをして下さり、私達にとっては親しみ深い先生である。特に今年の夏にLCRから20名の英語部教会員が日本を訪問した。その際、立野先生に大変お世話になった英語部のメンバーたちも、今年は私達日本語部のメンバーと一緒に立野先生のLCR訪問を心待ちにしていた。

立野先生が今回LCRに来られたのは、JELCからの公式訪問であった。前回は日本語部の礼拝だけ出席されたが、今回は公式訪問ということで、11月21日の8時半と10時15分の英語部の主日礼拝にも出席された。8時半の礼拝では、LCRの英語部と日本語部の聖歌隊が合同で「慈しみ深き」を日本語で合唱した。また、LCR主任牧師のZimmermann先生から、立野先生の紹介があり、立野先生からLCRとZimmermann先生に特別なギフトが送られた。広島の地に原爆の後再び芽を出し、成長した竹で作ったパン・フルートと、パレスチナで倒されたオリーブの木で作られた十字架である。どちらも「平和」を願って作られた物であり、立野牧師が平和ミッションの為に広島の地だけでなく、パレスチナの地にも何度も訪問し、福音の伝道を続けている事は、これらのギフトから無言のうちに語られて来た。

11時半からの日本語礼拝では、「主の年輪は語る」というテーマでメッセージを下さった。先生はパレスチナの人達が、倒されたオリーブの木を大切に家の外に置いているのを見て、どうしてか質問したそうだ。「これは私達の生まれ育ったこの地の歴史を語っている木だから、大切なのです。」という答えに心を打たれた先生は、そのオリーブの木をどうにか出来ない物かと考えた。そして倒されたオリーブの木からフルートを作り、そのフルートでコンサートをし、CDも制作し、集まったお金でパレスチナの子供達にピアノを寄付した。パレスチナの子供たちの心に、平和をもたらす音楽教育の為である。オリーブの木に刻まれた歴史の年輪のように、私達日本語部が迎えた22周年も年輪である、と先生は語られた。LCRに日本語部が創立されてから、3人の牧師がJELCから派遣された。前任牧師であった伊藤文雄先生は、立野先生の神学校時代の恩師でもあり、立野先生が前回LCRに訪問されたとき、伊藤牧師が先頭に立って日本語部を引っ張っている様子が印象的だったが、今回は、アメリカの神学校を経て牧会をされてきた岸野牧師が日本語を「ほんわか」ムードで包んでいるように感じる、と立野先生は話された。私達の日本語部は、22年の間に様々な牧師を迎え、様々な出来事があった。辛い事もあったし、楽しい事もあった。毎日毎日の積み重ねが今に至っているのである。22周の年輪一つ一つが大切な輪であり、その輪を終わらせてはならない。今22周目の輪に存在している私達一人一人が、神様に用いられて次の輪に繋げて行く大切な仕事をしているのだ。それぞれの生活の場は違い、毎日起こる出来事は違っていても、そこに関わって下さる神様と私達の関係によって、私達は繋がっている。そして神様によって繋がっていることによって、それぞれの場に置かれている私達が、それぞれの年輪を築きながら、神様の世界を広げて行く事ができるのである。

立野先生は、この日の週報にある「今日の福音」にこう書かれている:

神様から平等に与えられているものがあります。命と時間です。同じように与えられている時間も、質には違いがあります。同じ時間を過ごしても、ある人は苦しみの中で、ある人は喜びの中で過ごします。しかし、どちらにも神様が関わっておられ、その人にしかない年輪が出来上がっていきます。アメリカと日本は場所が違うけれど、神様から与えられた同じ時間の中で、主の来臨を待ち望んでいます。この別々の場所で生かされた年輪が共に歩む時、神様の世界は広がっていくのです。主の年輪はどこをみても神様がそこにおられることの証です。

立野先生の楽しくも力強いメッセージを今回も聞く事ができたことは私達日本語部が新たな年輪を重ねるこの時に、最もふさわしい神様からの贈り物であった。礼拝の後は、久しぶりに日本語部の礼拝に出席された方々も交えて、楽しい愛餐のひと時となった。短い自己紹介の中で、立野先生の説教を聞きながら、自分がこの教会に導かれた時はどんな時だったか、様々な思い出が胸にわき起こって来たと、感想を述べられた方もあり、私達がそれぞれに、立野先生のメッセージを通して語られた「主の年輪」をしっかりと聞く事ができた事が確信できた。

温かい食事の交わりの中で、これからもこのハンティントンビーチの地に置かれた私達の小さな群れが、ますます神様に用いられ、喜ばれる群れとして年輪を重ねて行こうという願いと祈りがこみ上げて来た。来年の11月はどのような宣教記念礼拝になるだろう? どのような将来が待ち受けていようと、毎日毎日を神様と共に歩み、確かな年輪を重ねて行ける私達でありたい。芙美Liang 記録

March 30th, 2011

2011年4月3日週報

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March 30th, 2011

2011年3月27日週報#1158

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